高齢化 

今後の20年間に起こりうること

戦後のここ数十年に続く今後約30年間の将来予想人口動態は、総人口に対する高齢者の割合を著しく押し上げる見込みとなる。この伸びは、北欧や西欧、アメリカと比較しても急激である。
次第に平均寿命が延びつつ、少子化が進むこの期間は、民主化、近代化、高度経済成長化という波に洗われてきた時代の延長にあり、繰り返すことになるが、高度の産業化とともに、日常生活の中に化学物質が蔓延し始め、エネルギー消費量が著しく増えると共に、産業廃棄物というゴミが増えた時代の方向転換期でもある。
これまでの40年間の特徴は、石油由来物質が持つ高エクセルギー(エネルギーの質)にたよった集中的な資源管理と、それとは裏腹な無自覚的なエントロピーの増大にあった、と言える。生態系との交通で表現すれば、自然の容量を過大視したことによって、手痛いしっぺ返しを受けつつあることが漸く認識されはじめた時代である。言うなれば、生態系に対して「自然科学的」な一方的な支配を試みて失敗し、ようやく生態系という巨大な円環に「気づいた」時代なのである。

エコロジカルコストの観点で「ヒドゥンコストhidden cOst=隠された費用」と言われる、いままでの経済活動では評価の対象となっていなかったが、今後は計上すべきものとして、廃棄物の分別回収、分解や浄化の費用が指摘されている。
いままでの「商品」は素材、生産、流通、販売までのコストしか想定していなかったが、これからは廃棄時のコストまでを想定すべき時代にさしかかっているのである。隠喩的に言いかえれば、ちょうど地上での緑の生産と消費を、地下の土壌微生物が支えている円環状のシステムに、われわれも、われわれの生産と消費、廃棄物処理、リサイクルのシステムを似せていかなくてはならない。
そして、いうなれば「介護」の社会的コストもいままでは「ヒドゥンコスト」であったと言える。これらは同相の次元で、いままでの経済観念、あるいは経済活動の内容を全体的に見なおし、吟味する契機になるはずである。

 太陽のエネルギーに由来する「循環」としての地球環境の観点からすると、あるいはそれを遠景として見据える風景のなかで考えると、経済活動の評価規準も変容するだろう。GDPやGNPといった「量」ではなくてその内容、ここでは環境負荷の程度や、環境改善の程度としてのベクトルを持った「質」としての評価がありうる。「かくされたコスト」が顕在化してくるのである。そしてそれはリサイクル可能な素材で商品を企画・販売する、といったレベルから、建築や土木のように、ある特定の地域=風土に根ざした循環過程をつなげていく、といったことにも展開していくはずである。(風土を限りなく切り刻んで寸断し、壊してきたのも土木・建築であるが・・)

 悪乗りして進めると、端的な例のひとつとして、現在は国家間で取り引きが始まろうとしている二酸化炭素の排出権が、都市住民と近隣農山村の住民との間でも取り引きされるようになるかもしれない。なぜなら地球環境保全や改善に、都市住民は一次的には寄与していないからである。(とはいっても農村も車社会ではある)
ここまで極端でなくとも、熱源機器や照明器具、自動車や分解にコストがかかる素材で作られた製品などに環境税が加算される可能性はある。こうした経済的な断面でも、内容評価の大きな変容をなしとげることができるかどうかが、おそらく今後の20年間くらいに明らかにされていくであろう。
というのは、地球温暖化の側面からは、石油に頼らない社会を築く必要があり、その枯渇時限の約半分の時点で、すくなくともシステム的には準備済みの状態でなくてはならないからだ。エネルギーの面では、いままでの集中型の供給源という発想から今後は分散型の供給源になっていくだろうし、廃棄物処理に関しても、発生源近辺での処理が前提になっていくだろう。(水力や原発発電などから、風力、小規模水力、太陽光発電などへという変化、産業廃棄物処理場や広域浄水場に代わって、堆肥化、コンポスト浄化、土壌浄化の分散的な配置など。システム的には離散的に、簡易になり、災害時などの広域的システムダウンが起こりにくくなる)

 経済活動の内容も、新しい方向へと向かっているだろう。介護サービスの充実が、たとえば中山間地などの過疎地域への若年介護者(介護を担う人)の流入可能性を生み出すのではないか、そうした変化であらたな地域活性化もありうるのではないか、という観測もある。こうした転換が、ここ数十年の間に築かれてきた「労働集約型」の産業構造の解体につながっていき、そもそも産業構造と、それを支える消費文化によって変質してきた地域文化(たとえば過疎や、高齢者ばかりになってしまう村)を再度活性化する、という展開も考えられる。

こうしたことを積極的な文化現象としてとらえると、ちょうど明治初年(明治7年頃から十数年)の小学校建築が担ったことに類似するような気がする。その建築は日本の近代化=「明治維新」が起こったことを視覚的にも、体験的にも日本全国津々浦々で、ほとんどすべての日本人を巻き込んで行われた。
仏教寺院の伽藍配置に由来する「講堂」がその後の立会い演説会や選挙会場として地域の拠点として使われたように、地域の政治・文化の拠点でもあったし、そのことによって自治の象徴でもありえた。ちょうど小学校の校区が西欧での教会教区に近似していて、この区を形成するにあたって地方自治の形成、あるいは再編が行われたのである。→行政と建築文化という視点で見ると、その後、高度経済成長期の庁舎(市庁舎、町役場)、文化会館(市民会館)、美術館といったいわゆる「箱もの」行政に示される自治の変質が、この国での小学校建築が担っていた地域文化を形骸化させていった。小学校そのものも、かつての地域文化=その風土に根ざした建築、を取り壊して改築されていった。
こういう行政範囲、地方自治の範囲と、その内容が再編されたのは、明治維新と戦後の町村合併であった。その成果、遺産を高度経済成長期に次第に食い潰していったわけである。

明治維新、戦後の町村合併に次いで、今回の介護保険導入が、その実効的な行政組織作りの模索のなかで、地方自治の再編を促す契機となる可能性がある。高齢化社会の介護のありかたについて、国ではなく地方自治体が大きくかかわり、地域住民が主体的に「選びとる」、あるいは「つくりだす」立場になっているからである。
それはエコロジカルアプローチが、地球環境というきわめて巨大な <大きさ>、<広がり>を背景に、きわめて地域的な<風土>、<身体性>を中心とした取り組みになることと奇妙に共鳴する。
「地球環境」について頭の中でつながっているだけでは物質循環(生物循環)の環に直接繋がらない。地球につなかがっていくためには、風土に根ざさなければならないからである。いいかえれば、人はある固有の風土を抜きにしては、地球が見えないから、である。あるいは、人はその生命をある特定の風土のなかで生かすことによって、地球環境に至ることが出来る、とも言える。
介護保険導入、実施、運用の各段階で、いわゆる「政治」と自治は、環境問題と同様の図式をもって、おなじように小さな拠点から大きく変容していくことだろう。

「今後のすまい」とは、戦後のプライベートハビタット=私的空間としての住宅から、風土を構成する「棲まい」へと向かうだろう。自然環境と共棲するという、生きることをもっと根源的に推し進めた「棲む」というかかわりを形象化していく試みである。
と同時に、高齢者介護を契機とした「自治」の再編が行われる可能性を引き出していく/いることも重要だろう。いまの段階では「財源」負担の課題で、自治という政治の見なおしではなく、既存の行政区分が見なおされ、広域行政区化が進められているにすぎない。
 この二つの方向性は、共同体(とその
社会性)を作り直していくというプロセスのなかで、政治にも文化にも本質的にかかわることになるのである。ある風土性から、あるいはある身体性から、政治や地球環境に向かうということにおいて、今後さまざまな試行がありうる。
 その試行のどれもが、人間がつくりだした諸システムとそれが関わるエコシステムという風景のなかで、味わい深い「おもむき」(=オギュスタン・ベルクはこの日本語に<意味>をあてている)を形成していくちからとなり得るのかが問われているのである。


高齢化      やさしいすまい      ながもちするすまい      つくりあげていくすまい