TOPICS 〜DNAをめぐるあれこれ〜

the Almeida theatre アルメイダ劇場
Apple macintosh アップル・マッキントッシュ
Arsenal new! アーセナル
Atheist 無神論者
the Bable Fish バベル魚
both the cop ふたりの警官
Brentwood School ブレントウッド・スクール
Comic Relief コミック・リリーフ
Delayed spaceship 飛行が遅延しておりますことを
The Digital Village デジタル・ヴィレッジ
DNA DNA
Encyclopaedia Galactica 『銀河大百科事典』
Fenchurch フェンチャーチ
Footlights フットライツ
fudge new! ファッジ
Godspell 『神の言葉』
Greenpeace グリーンピース
The Guardian ガーディアン紙
Hotblack Desiato ホットブラック・デザイアト
'I really wish I'd listen to what my mother told me...'  子供のころ、かあさんが教えてくれたことを...
The Infinite Improbability Drive 無限不可能性駆動装置
Joseph and the Amazing Technicolor Dreamcoat ジョセフと素敵な総天然色の夢衣
'Life, don't talk to me about life.'  「わたしの前で生命のことは言わないでください」
Lord's Cricket Ground ロード・クリケット場
Marks & Spencer new! マークス・アンド・スペンサー
mice はつかねずみ
Milliways ミリウェイズ
Pan Galactic Gargle Blaster 汎銀河ウガイ薬バクダン
"Pierre Menard, Author of Quixote" 「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」
Procol Harum プロコル・ハルム
Radiohead レディオヘッド
Ressurrection 『復活』
Rich Tea リッチ・ティー・ビスケット
The Round House  ラウンド・ハウス
Share and Enjoy ともに楽しみましょう
Shoe Event Horizon 靴の事象の地平線
six pints of bitter new! ビールを6パイント
tea new! 紅茶
Tea and Sympathy 『お茶と同情』
telephone sanitizers 電話消毒係
tired TV producers  引退したテレビのプロデューサー
towel タオル
Vogons ヴォゴン人
whale マッコウクジラ
the worst poet in the Universe 宇宙一ひどい詩人


the Almeida theatre アルメイダ劇場

 ロンドンはイズリントンにあるアルメイダ劇場は、客席数こそ300席と少ないものの、1837年にまで遡ることのできる歴史の長さもさりながら、とりわけ10年程前にジョナサン・ケントとイアン・マクダーミッドが芸術監督に就任してからは、そのアイディアと企画力で一躍世界の演劇界の注目を集めることになった。ジュリエット・ビノシュの『ネイキッド』、ケイト・ブランシェットの『プレンティ』、また1998年には『氷人来たる』でケビン・スペイシーを初めてロンドンの舞台に立たせてもいる。2000年10月には、ロンドン・ニューヨークで絶賛されたシェイクスピアの『リチャード三世』『コレオレイナス』で、レイフ・ファインズ、ライナス・ローチというビッグ・ネームを伴って来日公演を果たしたことはまだ記憶に新しい。
 そのアルメイダ劇場で、1995年8月22日、アダムスは『銀河ヒッチハイク・ガイド』の朗読会を行った。
 その時の模様は、のちにカセット・ブックならびにビデオになって発売されている。


Apple Macintosh  アップル・マッキントッシュ

 Arthur bought the Apple anyway. (So Long, and Thanks for All the Fish. p.90)

 アダムスはマックユーザーだった。西暦2000年問題に対するアップルコンピュータ社のコメントが出ているページの冒頭に登場するくらいだから、筋金入りである。故に、アダムスの分身たる『銀河ヒッチハイク・ガイド』のアーサー・デントも、シリーズ4作目で「破壊されなかったもう一つの地球」に戻った後、当然マックユーザーになる。
 今でこそ個人がパーソナルコンピュータを買うのはごく当たり前のことだが、この小説が発売された1984年当時、購入層はまだまだ一部のゲームファン、コンピュータファンに限られていた。ちなみに小説の中でアーサーがコンピュータを買ったのは、5年間暮らした先史時代の洞穴の場所を、その時眺めていた夜空の星の位置の記憶から割り出してみようと考えたためである。これはアーサーなりの真剣な目的であって、そういう目的なしに遊び感覚でコンピュータを買うのは金の無駄遣いだと彼が考えたりするあたりも、今となっては時代がしのばれる。
 アダムス自身について言えば、以前からコンピュータというものに興味を持ちあれこれ購入してもいたものの、1982年のインタビューの中ではコンピュータについて 'beyond Kafka's worst nightmares' (Gaiman, p.129) という言い方をしている。それが一転、アダムスが真性のコンピュータ好きになるのは、翌年の1983年、結局は企画倒れに消えた『銀河ヒッチハイク・ガイド』映画化の脚本執筆のためにロスに滞在した時のことだったという。
 なお、2000年1月2日、アダムスはBBCラジオ4で放送された「ブック・クラブ」という番組にゲスト出演し、リスナーからの「あなたは今でもマックファンですか」という質問に対して 'Absolutely!!!!' と答え、その時自分の書斎にあるマシンを列挙した。

where I sit in my study I can see a G4, a G4 cube Powerbook, two imacs and two old G3s and two apple cinema displays which are the most wonderful pieces of technological kit I've ever seen.

 リチャード・ドーキンスはアダムスへの追悼文の中で、「アップル・コンピュータはもっとも雄弁な擁護者を失った」(Apple Computer has lost its most eloquent apologist.)と書いた。


Arsenal  アーセナル

「いやいや、ただ世界が終わりかけているってだけの話だよ」
「なるほど、そうおっしゃいましたねえ」バーテンは、今度はアーサーを眼鏡ごしに見て、「そういうことになったら、アーセナルは負けずにすむわけですな」(『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p. 31)

 イズリントン地区にホームグラウンドを持つサッカー・クラブ。1886年にダイアル・スクエアという名前で設立され、当時の本拠地がロンドン南部のウルウィッチ兵器庫(Arsenal)の近くにあったことから、チーム名をアーセナルに変更した。1919年に1部リーグ(現在のプレミアリーグ)に昇格してから今まで一度もリーグ落ちしたことがなく、同じ年にリーグ優勝とFAカップを制したことのある3チームのうちの一つでもある。2001年には日本人のサッカー選手、稲本潤一も所属していた。
 また、競技場に最も近い地下鉄の駅、アーセナルは、このサッカー・クラブにちなんで名付けられている。


Atheist  無神論者

 アダムスは無神論者だった。それも自ら「過激な」という形容詞をつける程の。
 アダムスの作品には多くの神が登場する。生命と宇宙と万物についての究極の答えや神の最後のメッセージも明記されている。故に多くのインタビュアーがアダムスに向かって「あなた自身は神を信じていますか?」という問いを投げかけるが、晩年の彼は迷わずノーと答えていた。
 アダムスは宗教色の強い家庭で生まれ育った。彼の父親はケンブリッジ大学で神学を専攻し、聖職者の道を志していた(もっとも挫折して経営コンサルタントになったらしいが)というから、推して知るべしである。アダムス自身も高校生の頃まで学校の礼拝堂で働いていたし、ケンブリッジ大学進学のための奨学金を得たエッセイのテーマも宗教詩の復活に関するものだった。
 だが、アダムスいわく、学校で歴史や物理といった授業を受け、問題点の見つけ方、証明の方法、討議のやり方、といった論理的な思考を身につけていくうちに、それらの考え方が宗教の問題になると一切通用しないことに不満や疑いを感じ始めるようになる。そして、18歳の時に路上で説法をしていた福音主義者の話に耳を傾けているうちに「とんだナンセンスじゃないか、科学的にデタラメだと分かっているものをどうして鵜呑みにして信じなくてはならないんだろう」と思うに至った。
 とは言え、この時点のアダムスはまだ「無神論者」ではなくせいぜい「不可知論者」だった。神の存在に代わって、生命と宇宙と万物について説明できるだけのモデルがなかったからだ。だが、30歳を過ぎた頃、彼はついにそのモデルと出会うことになる。それが生物進化論、とりわけリチャード・ドーキンスの著作『利己的な遺伝子』と『ブラインド・ウォッチメイカー』の2冊だった。そこには、生命や宇宙の多様性と複雑さの理由がとびきり単純な論理で解明されていた。かつて、神の存在は確かに生命と宇宙と万物についての最上の説明だったかもしれない。だが、現在では神に頼らなくても充分論理的で納得のいく説明がある。こうしてアダムスは「無神論者」になった。
 もっとも、無神論者ではあってもアダムスは宗教そのものには関心があるという。人はどうして宗教というものを作り出したのか、また何故それを維持し続けてきたのか。そういったことを考えるのは好きだという。そしてその結果は、彼の著作によく反映されている。
 いくつかのインタビュー記事の中でも、American Atheist という雑誌に掲載されたものは、さすがに雑誌名に「無神論」を標榜するだけのことはあってかなりまとまった長さと内容になっている。神や宗教についてのアダムスの考えを知る上では申し分ない。
 しかし、American Atheist の記事を読んだ一部のファンはこの説明に納得するどころか、アダムスのホームページの掲示板コーナーに非難や抗議の文章を送った。
 物議を醸したのは、アダムスが神を信じない、いや、神などいないことは明白な事実なのだから信じる信じないの問題ですらないと発言したことではない。問題は彼がこの記事の中で「僕の周りを見回して神を信じている人なんて、年寄りかちょっと教育程度の低い人くらい」とコメントしたことにある。
 自分に向けられた非難に対して、アダムスも反論している。神を信じている人全員が教育程度の低い人だと断言したのではなく、あくまで自分の近くにいる人についてそう語ったまでだ、と。
 実際の記事を読んでみると、問題の箇所は相当にきわどい。素人の不用意な翻訳や意訳で片付けるにはあまりに微妙なニュアンスを含んでいるため、敢えてここでは訳出しない。アダムスの遺作集、The Salmon of Doubt にも収録されている(pp. 95-101)ので、できれば原文で読んでほしい。かなりきわどい発言である分、逆に彼の本音を垣間見ることができるはずだ。


the Bable fish  バベル魚

「でも、ヴォゴン語なんて知らないよ」
「知ってる必要はない。この魚を耳に入れればいいんだ」
 フォードは電光石火のはやわざでアーサーの耳をぴしゃりと叩いた。耳の奥に魚がもぐりこんでいき、アーサーは悪寒を感じた。アーサーは恐ろしくなって耳をかきむしったが、それも一、二秒で、ゆっくりと驚きの眼をみはった。(『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p.75)

 ジェフリー・パーキンスいわく、「バベル魚は、ほとんどのSF作品が無視している基本的な問題を解決してくれる、すばらしい仕掛けだ。すなわち、どうして宇宙人はみんな英語を話すことができるのか?」(original radio scripts, p.32)
 コンピュータ・ゲーム版『銀河ヒッチハイク・ガイド』にも、当然バベル魚は登場する。しかし、ラジオ・ドラマや小説で既にバベル魚にお馴染みのプレイヤーなら、他の宇宙人の言葉を理解するためにはまずバベル魚を手に入れて、それを自分の耳に入れさえすれば済むことを知っている。そこでゲーム版では「いかにして耳に入れるか」という点にひねりが加えられることになった。が、その「ひねり」たるや、「本当に(解答集なしで)自力で解決できる人がいるのか?」と思うくらいややこしい。

 そのマシンは、上部にあるボタンを押すと、足下の取り出し口からバベル魚が出る仕組みになっているか、いざボタンを押すと、バベル魚はものすごい勢いでとび出して、反対側の壁のふし穴に入ってしまう。それをどうにか捕まえる工夫をするのだけれど、まず思いつくのが、取り出し口の前につい立てを置くことだ。ところがそれだけではない。さらに脳ミソをタコヤキのようにひっくり返して、発想をドンデンガラリンと変えて「まさか」と思うようなことから試してみないと、なっかなか捕まらないのだ。なんと、ここでは4段階のひっかけがあって、ごていねいに、そのどれもが実におかしく笑える。(『月刊ログイン』1985年5月号、p.119)

 地球から脱出する際には、タオルは勿論、ガウンとジャンクメールの束もお忘れなく。


both the cop  ふたりの警官

「おい、撃ってきたぞ」身体を丸めて、アーサーが言った。「こんなことはしたくないって言ってたんじゃなかったか」
「そうだ、たしかにそう言った」
ザフォドが顔をあげた。
「おい、おまえたち、おれたちを撃ちたくないって言ったくせに!」(『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p.266)

 惑星マグラシアまでザフォドを追ってきた、ブラグロン・カッパ星人のふたりの警官は、アダムスがアメリカのあるテレビ番組を見ていて思いついたキャラクターである。その番組とは、「刑事スタスキー&ハッチ」。
 アダムスいわく、「この番組で、二人の主人公は人を撃つのはよくないことだと思ったので、代わりに車をぶつけてやったんだ、と主張していた」。(original radio scripts, p.88)
 小説版『銀河ヒッチハイク・ガイド』では名無しの二人だが、ラジオ・ドラマ版ではちゃんと名前がついていた。すぐに銃で撃ちまくる警官コンビにふさわしく、シューティ(Shooty)とバン・バン(Bang Bang)という。


Brentwood School ブレントウッド・スクール

 アダムスが1959年から1970年まで在学していたパブリック・スクール。
 イギリス・エセックス州ブレントウッドにあり、400年以上の歴史を持つ。アダムスが在学していた当時は男子校だったが、1974年より女子の入学も認められるようになった(と言っても現在でも11歳から16歳までは男子と女子で分かれて授業が行われ、第6学年の2年間のみ完全な男女共学となる。第6学年とは、普通教育修了試験のAレベル受験のための最終学年のことで、ブレントウッド・スクールのホームページによるとこの学年の大学進学率は95パーセントになるらしい)。
 ちなみに、有名人の子供時代の通信簿を集めた School Report という本には、1964年ジュニア・スクール在学当時のアダムスの成績表が、ブレントウッド・スクールの校章も鮮やかに掲載されている。それを見ると、「他の子供たちが将来は消防士になりたいと憧れる年齢の時に、僕は核物理学者に憧れていた。ただ、算数の成績があまりに悪かったので、実現しようとまでは思わなかった」(Gaiman, p. 4)というアダムスの言葉違わず、数学と物理の成績は見事に「C」、音楽と美術は「A」で、英語の成績は「B」だった。
 伝統あるパブリック・スクールだけあって、ブレントウッド・スクールにも寮がある。またもブレントウッド・スクールのホームページによると、現在は11歳から18歳の生徒を受け入れているとのこと。全寮制ではないようだが、アダムスは寮に入っていた。
 ちょうどアダムスが寮生だった17歳の時、テレビで『空飛ぶモンティ・パイソン』の放映が始まる(1969年10月)。アダムスは言うに及ばず、他の寮生にもこの番組は大人気で、テレビのある部屋に集まっては毎週見ていたという。ところがある日、他の仲間がみんなサッカーの試合か何かを見たがって、多数決で『モンティ・パイソン』が却下されそうな展開になった。そこで、どうしても『モンティ・パイソン』を見たいメンバー4人で学校を飛び出して、放送開始直前にたまたま学校のある街に住んでいたアダムスの祖母の家に駆け込んで無理矢理番組を観たのだとか(Morgan, p.164)。
 なお、遺稿集となったアダムスの The Salmon of Doubt には、"Brentwood School" と題されたエッセイが収録されており、ブレントウッド・スクールの思い出として「深い心の傷となった体験」(p. 7)が語られている。


Comic Relief コミック・リリーフ

 コミック・リリーフとは、1985年に設立されたイギリスのコメディー・ライターやコメディアンによるチャリティ組織である。集められた募金は、「セーブ・ザ・チルドレン」や「オックスファム」といった有名な組織に分配されるほか、イギリス国内のドラッグやホームレスといった社会問題に対するプロジェクトへの支援にも使われる。
 アダムスは、雑誌 The Utterly Utterly Merry Comic Relief Christmas Book (1986)の編集者としてコミック・リリーフの活動に参加した。この雑誌には、モンティ・パイソンのメンバーでは、グレアム・チャップマンテリー・ジョーンズマイケル・パリンの3人、アダムスの友人関係では当然ジョン・ロイドジェフリー・パーキンススティーヴン・フライの名前もあるし、元ビートルズのジョージ・ハリソンやローワン・「Mr. ビーン」・アトキンソンも顔を出している。アダムス自身も、3本の短編小説("A Christmas Fairly Story", "Young Zaphod Plays It Safe", "The Private Life of Genghis Khan") を寄稿した。また、The Utterly Utterly Amusing And Pretty Damn Definiteve Comic Relief Revue Book (1989)にも原稿を書いている。
 この他、かつてアダムスが脚本を執筆したが、テレビで放送されずに終わった『ドクター・フー』Shada がビデオで発売された折に、その著作権料をコミック・リリーフに寄付した。


Delayed spaceship  飛行が遅延しておりますことを

「恒星間飛行会社は当飛行が遅延しておりますことをお詫び申し上げます。ただいま、お客さまの旅行を快適で清潔に保つレモンの香りの紙ナプキンの積み込みを待っているところであります。いましばらくの御辛抱をお願いしたします。まもなく、コーヒーとビスケットをもって乗員がみなさまのもとにお伺いいたします」 (『宇宙の果てのレストラン』、p.110)

 これは、アダムスがロンドンからリーズまで飛行機で行こうとした時の体験談に基づいている。
 「普通、ロンドンからリーズに行く時は列車を使う。そのほうがずっと手っ取り早い。だが、その時僕は午前中にロンドンで人と会う約束があって、また同じ日の昼食時にリーズで別の人と会わなくてはならないという特殊な事情があって、そうなると両方の予定の時間を守るためにはは飛行機を利用するしかなかった。こういう旅行で飛行機を使うのは、お金もかかるし、居心地も悪いし、バタバタするし、空港を出たりするのやら何やらで結局のところ20分くらいしか変わらない。それでも、その飛行機にはたくさんの人が乗っていたのだから、彼らにとってこの20分は恐ろしく貴重なものだったと考えて差し支えないだろう。
 我々の離陸予定時刻は11:15、到着予定時刻は12:15だった。
 11:15、我々は滑走路の上に鎮座していた。が、何も起こらない。異常なことも何も。
 11:20、依然として何も起こらない。
 11:25、パイロットが機内放送で遅延を謝罪した。彼が言うに、これは完全に私達のミスであります。私達は当機にバーの設備を積み込むのを忘れておりました。そのため、当機にはお飲物は何もございません。この問題を解決するため、私達はお客さまの旅行を快適にするコーヒーとビスケットを入手しようと鋭意努力している最中でございます。
 さらに5分経過。乗客はイライラし始めたが、そこはイギリス人らしく、何も言わなかった。ただ、自分たちの腕時計をじーっと眺めていた。
 またさらに5分経過。
 11:35、パイロットが再びアナウンスを入れた。みなさまの旅行を快適にするコーヒーとビスケットは当機に積み込まれましたが、離陸まで今しばらくお時間がかかります。彼は今度は何故遅れるのかについては全く触れなかった。きっと、エールフランスから砂糖でも借りるんだろう。
 結局、11:45になって、我々は30分遅れで離陸した。
 12:45、我々は着陸した。30分遅れで、だ。
 飛行機を使って旅行したすべての目的は消え失せてしまった。コーヒーとビスケットは言わずもがなひどい代物だったし、そもそもそれが給仕される頃には、スケジュール通りに運航されていれば、自分でリーズで買うことだってできたのだ。
 こうして僕は約束を破ることになったが、少なくともこの体験からジョークを得ることはできた。だが他の乗客達はそうはいくまい」(original radio script, p.247)


The Digital Village  デジタル・ヴィレッジ

 1994年に創設された、デジタル・メディアとインターネットの会社。ロンドンはコヴェントガーデンにあり、最盛期の従業員は40名以上とのこと。
 アダムスはこの会社の創設メンバーであり、現在の肩書きは「チーフ・ファンタジスト (Cheif Fantasist)」となっている。この会社における彼の主な仕事は、新しい企画を興したり、新しいメディアを戦略的に取り込んでいったりすること。つまり、インターネットやコンピュータのこれからのありようについて具体的なイメージを作る、とでもいったところだろうか。
 デジタル・ヴィレッジの事業をみてみると、ニューヨークの出版社の一部門であるサイモン&シュースター・インタラクティブと共同でコンピュータ・ゲーム『スターシップ・タイタニック』を製作したことと、インターネット上で『銀河ヒッチハイク・ガイド』地球編とでも言うべきサイトを作ったことくらい。となると、これはもうほとんどアダムス個人のためにある会社だったような気がする。そして、アダムスが映画化脚本の執筆のため渡米してほどなく、この会社は閉鎖になった。


DNA  DNA

 ダグラス・アダムスの頭文字は、DAである。だが、彼はDNAと書く。その理由は彼のミドルネームがノエル(Noel)だから。でも、普段このミドルネームを筆名には使わないのに、どうして頭文字で書く時だけ不意に出てくるのかと言えば、これはもうアダムス本人が単に自分の頭文字がデオキシリボ核酸(DNA)と同じになるのが気に入っているからに違いない、と思う。
 ちなみに、ケンブリッジ大学において生物の細胞内にある遺伝子の本体となる化合物質たるDNAが解明されたのが1952年、奇しくもダグラス・ノエル・アダムスがケンブリッジにて誕生したのと同じ年であった。ただし、デオキシリボ核酸の発見が世界的に発表されたのは1953年に入ってからのことなので、アダムスの頭文字がDNAなのは分子生物学に敬意を払っての命名ではなく、単なる偶然の一致であろう。


Encyclopaedia Galactica  『銀河大百科事典』

 銀河の東の渦状肢の外縁部にはずっとのんびりした文明社会が散在していたが、そこではすでに『銀河ヒッチハイク・ガイド』があの偉大なる『銀河大百科事典』にとってかわり、あらゆる知識と知恵の宝庫とされていた。『銀河ヒッチハイク・ガイド』には遺漏も多かったし、いいかげんな事項――少なくとも、ひどく不正確な事項もたくさん載っていたが、ふたつの重要な点で、かの古めかしく、退屈な大事典を凌いでいたのである。
 ひとつには、ガイドのほうがちょっと安い。いまひとつには、そのカバーに大きな親しみやすい文字でTあわてるなUと書いてある。(『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p.7)

 『銀河大百科事典』と言えば、アイザック・アシモフの『ファウンデーション』シリーズである。ずばり小説のタイトルになっている「ファウンデーション(財団)」というのは、そもそも『銀河大百科事典』の編纂業務から始まるくらいなのだ。おまけにシリーズを通して各章の冒頭には、ご丁寧に架空の書物『銀河大百科事典』からの引用が嵌め込まれている。
 勿論、小説『ファウンデーション』は百科事典編集の話ではない。一万二千年もの永きに亘って存続していた銀河帝国の没落の危機に際して、ハリ・セルダンという学者が、三万年は続くと予測される暗黒時代をせいぜい一千年程度に短縮すべく、心理歴史学という学問を駆使してそのための予防策を講じる、つまり「ファウンデーション(財団)」を設立するという話である。『銀河大百科事典』はそのための、ほんの手始めにすぎない。
 アダムスも、『ファウンデーション』三部作(『ファウンデーション』(1951年)『ファウンデーションと帝国』(1952年)『第二ファウンデーション』(1953年)のこと。ただし、1982年にシリーズ4作目『ファウンデーションの彼方へ』が出版され、おまけにこれまで全く別の系列だったもう一つの有名なロボット・シリーズとが一つにつながるという、全15作の未来史構想を打ち上げた。もっとも完成させる前にアシモフは死去したが、ともあれこの構想がある以上、現在では『ファウンデーション』三部作という言い方はよくないのかもしれない)を読んだことがあるという。1983年のインタビューで、「アイディアは魅力的だが、いかんせんあの文章じゃねえ。僕ならジャンク・メール書きにも彼を雇いたくない」(Gaiman, p.149)
 最後に、アダムスも認める魅力的なアイディアの「心理歴史学」について。かの『銀河大百科事典』の説明によると、

心理歴史学……ガール・ドーニックは非数学的概念を使って心理歴史学を次のように定義した。それは一定の社会的、経済的刺激に対する人間集団の反応を扱う数学の一分野であり……
 ……これらすべての定義において、扱われる人間集団が有効な統計処理を受けられるだけの充分な大きさを持っているという仮定が、その前提条件になっている。かかる集団の必要な規模はセルダンの第一定理によって決定される……さらに次のような仮定が必要となる。人間集団の反応が真に任意のものであるためには、その集団自体が心理歴史学的分析に気づいていないこと……
 すべての正当な心理歴史学の基礎は、次のような社会的経済的な力の特性に合致する特性を示すセルダン関数の展開に在り、それらは…… (『ファウンデーション』、p.26)

 『銀河ヒッチハイク・ガイド』が『銀河大百科事典』より売れているのも無理はない?


Fenchurch  フェンチャーチ

'You are about to ask me,' she said, 'a question.'
'Yes,' said Arthur.
'We can do it together if you like,' said Fenchurch. 'Was I found...'
'...in a handbag...' joined in Arthur.
'...in the Left Luggage Office...' they said together.
'...at Fenchurch Street Station,' they finished. (So Long, and Thanks for All the Fish. p.77)

 『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズ4作目の So Long, and Thanks for All the Fish に登場する少女。
 破壊されなかったもう一つの地球に戻ったアーサーが出会った彼女こそ、「他人にやさしくするのはなんとすばらしいことでしょうと説いた罪で、ひとりの男が磔にされてから二千年ばかりたったある木曜日、リックマンズワースの小さな喫茶店」(『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p.6)で「これまで何がいけなかったのかに気づいた」(同、p.6)あの少女だった。
 フェンチャーチという奇妙な名前は、ロンドンにあるフェンチャーチ・ストリート駅にちなんでつけられた。オスカー・ワイルドの喜劇『まじめが肝心』のパロディである(『まじめが肝心』で、登場人物の一人は、赤ん坊の時にヴィクトリア駅の手荷物預かり所のカバンの中で発見された、という設定になっている)。この小説を書いていた時点ではアダムス自身はフェンチャーチ・ストリート駅に行った記憶すらなく、駅構内のイメージとしてはパディントン駅を念頭において書いたものの、「既にパディントン駅にちなんだ名前のクマがいるので、ロンドンのターミナル駅の中であれでもないこれでもないと考えて、フェンチャーチがいいんじゃないかと思った。名前として一番おもしろそうだ、という、ただそれだけ」(Gaiman, p. 162)
 蛇足ながら、フェンチャーチの住まいはイズリントンにある。


Footlights フットライツ

 1883年に設立され既に100年以上の歴史を誇る、ケンブリッジ大学のコメディー・サークル。
 もともとは学内での公演が主体だったが、1960年頃から対外的に活動するようになり、ピーター・クックがオックスフォード大学のメンバーとも組んで始めたコント・グループ「ビヨンド・ザ・フリンジ」や、クックの後輩にあたるディヴィッド・フロストが大学卒業後に司会を務めたBBCの番組「ザット・ワズ・ザ・ウィーク・ザット・ワズ」などの成功で一躍その名を知られるようになった。殊に、フロストはBBCのプロデューサーとしても辣腕を奮い、オックスブリッジ出身の後輩たちを次々と自分の番組のライター/パフォーマーとして採用する。その中に、後にモンティ・パイソンを結成することとなるジョン・クリーズグレアム・チャップマンらの姿もあった。
 これらの番組が、当時ティーンエイジャーだった1952年生まれのアダムスを感化し、フットライツに参加すべくケンブリッジ大学進学を決意する。アダムスに言わせれば、将来コメディライターとしてメディア業界で仕事をしたければ、それが一番の近道だったということらしい。
 ところが、そこまで憧れて首尾良くケンブリッジ大学に進学したにもかかわらず、入学1年目のアダムスはフットライツに参加していない。当時のメンバーたちは「お高くとまっていて」(Gaiman, p. 10)新入りを快く迎える雰囲気ではおよそなかったため、アダムスはフットライツとは別の組織、CULES (Cambridge University Light Entertainment Society) という、コメディはコメディでもどちらかというとチャリティ系のサークルに入る。そして、刑務所や病院で慰問公演を行ったが、アダムスいわくそれらは思い出しただけで赤面するような悲惨な代物だったようだ。
 在学2年目になって、アダムスは友人らの励ましを受け、数本のスケッチを用意し友人のキース・ジェフリーともどもようやくフットライツのオーディションに臨んだ。フットライツには、伝統的に「スモーカー(smoker)」と呼ばれる非公式の公演があって、フットライツのメンバーでなくても事前のオーディションを通れば誰でも自分の書いたスケッチを自由に上演することができる。この公演で、アダムスは「他のフットライツのメンバーとは似ても似つかない、本当に気さくで親切な、ものすごくいい人」、(Gaiman, p. 10)サイモン・ジョーンズと出会い、彼の励ましで念願のフットライツ入りを果たした。
 しかし、せっかく入ったフットライツで、やはりアダムスのアイディアはなかなか受け入れられなかった。確かに、フットライツの卒業生たちはコメディの第一線で活躍している。だが、ティーンエイジャーのアダムスが「これぞフットライツ」と思いこんでいたもの、先に挙げた「ビヨンド・ザ・フリンジ」にしても、またジョン・クリーズが製作し、ロンドン・ウエストエンドで大成功を収めた「ケンブリッジ・レヴュー」にしても、フットライツで製作されたコメディそのものではない。フットライツの公演そのものは、守るべき規則や伝統に縛られていて、アダムスが思っていたほど自由な製作が認められる場所ではなかった。
 結局、アダムスはフットライツを飛び出し、ウィル・アダムスとマーティン・スミスと組んでゲリラ的レヴュー・グループ、「アダムス・スミス・アダムス」を結成する。ありがねをはたいて劇場を借り、なかなかの評判を得たところで、今度はフットライツのほうから1974年のフットライツの公演 Chox で作品を使いたいとの申し出が来て、アダムスらは快諾した。が、いざフタを開けてみると、彼らの脚本なのに実際にフットライツの舞台に立てたのはマーティン・スミスだけ、二人のアダムスは役を降ろされてしまった。この一件については、1999年のインタビューでも「未だに腹に立つ」とアダムスは言う。
 とは言え、この Chox こそが、アダムスにライターとしての初めての収入をもたらし、アダムスとグレアム・チャップマンを引き合わせるきっかけとなるのだから、何が幸いするか分からない。Chox は、フットライツの作品としても決して評判の高いものではなかったが、なぜかテレビ化され、大学を卒業したばかりのアダムスにスケッチの脚本料100ポンドが支払われたばかりか、フットライツ作品としては初めてウエストエンドで上演されることになり、観に来た多くのフットライツ卒業生の中に、テレビ番組「空飛ぶモンティ・パイソン」を製作しつつも、そろそろ新しい活路を開きたいと思っていたグレアム・チャップマンの姿もあった。公演を観て、Chox の中でもとりわけアダムスが書いたスケッチを気に入ったチャップマンは、アダムスとの共同執筆を申し出る。プロのコメディ・ライターになるための人脈確保の場として、アダムスの思惑通りフットライツは見事に機能した訳だ。
 そして、大学を卒業してから2年後の1976年、アダムスはディレクターとしてフットライツに返り咲く。卒業生が大学のサークル活動で本格参加する、ときくと何だか奇妙な感じもするが、フットライツでは公演をアマチュアの域からプロフェッショナルなものに高めるため、卒業生をディレクターに迎え、2、3ヶ月の公演準備期間の週末にだけ来てもらい、指導を仰ぐというのはごく普通のことらしい。ただし、アダムスが招かれた時期に限っては、フットライツのクラブルームがあった場所が取り壊されてショッピングセンターになってしまったため、フットライツそのものの存続すら危ぶまれる状態にあった。おかげでアダムスは、ケンブリッジの町の一軒一軒を回って公演のチケット売りまでする羽目になる。アダムスいわく「ショウが終わる頃には、すっかりうちのめされて疲れ果てていたよ」(Gaiman, p. 16)。
 にもかかわらず、ようやく行われた公演 A Kick in the Stall の評判は芳しくなかった。しかも、その悪評の最たる理由がアダムスの「モンティ・パイソンかぶれ」にある、というのだから、アダムスにとっては余計に堪えたはずだ。「当時のケンブリッジのユーモアには、『空飛ぶモンティ・パイソン』の影響が色濃く残っていて、殊にそれは「アダムス・スミス・アダムス」の作品に顕著だった。」「(A Kick in the Stall で)ディレクターを務めたダグラス・アダムスは、小道具と場面転換を多用し、凝った構成の作品を創り出したが、『ケンブリッジ・イブニング・ニュース」はその成果を「壊滅的なまでにつまらないし、長すぎてうんざり』と評した」(Hewison, p. 172)。
 この失敗に懲りたフットライツのメンバーたちは、モンティ・パイソン系の笑いから足をひくことを決意する。テレビの『空飛ぶモンティ・パイソン』がいかにおもしろかろうとも、それはテレビならではの効果であって、直接的に舞台に移し替えることのできるものではない、と。
 2001年7月15日の日本経済新聞に、「コメディー支える名門大学クラブ」と題した記事が掲載された。それによると、2001年夏にフットライツは Far Too Happy というタイトルのコメディで好評を博し、ウエストエンドでも公演されたとのこと。さまざまな浮沈を経ながら、フットライツは現在も健在のようだ。
 なお、アダムスの先輩にあたるフットライツの卒業生には、グレアム・チャップマン、ジョン・クリーズとエリック・アイドルといったモンティ・パイソンのメンバーの他、ミュージカル「キャッツ」の演出家としても有名なトレヴァー・ナンなど、またアダムスの後輩としは、スティーヴン・フライヒュー・ローリーの他、『ハワーズ・エンド』でアカデミー主演女優賞を、『いつか晴れた日に』で脚色賞を受賞したエマ・トンプソンなど、また『銀河ヒッチハイク・ガイド』の関係者では、ジョン・ロイドサイモン・ジョーンズジェフリー・マッギヴァーンなどの名前が挙げられる。。


fudge  ファッジ

 They realized they were not the first pass that way, for the path that led around the left of the Great Plain was well-worn and dotted with booth. At one they bought a box of fudge, which had been baked in an oven in a cave in the mountain, which was heated by the fire of the letters that formed God's Final Message to His Creation. (So Long, and Thanks for all the Fish, p. 183)

 フェンチャーチと共に、「神の最後のメッセージ」を探す旅に出たアーサーは、ついにメッセージが書かれた山のふもとまでたどり着くが、そこは既にチケット売り場でガードされた立派な観光名所と化していた。当然土産物屋もあり、二人はそこでファッジというお菓子を買う。
 ファッジとは、砂糖や牛乳やバターを混ぜて固めたお菓子で、味や食感はキャラメルに近い。土産用にきれいな箱に入れて売られるものもあるが、大きな塊を四角く切ってグラム売りされることもある。


Godspell 『神の言葉』

 See Joseph and the Amazing Technicolor Dreamcoat (『ジョセフと素敵な総天然色の夢衣』)


Greenpeace  グリーンピース

There had been a small number of significant letters in the pile of junk - some documents from the council, dated three years earlier, relating to the proposed demolition of his house, and some other letters about the setting up of a public inquiry into the whole bypass scheme in the area; there was also an old letter from Greenpeace, the ecological pressure group to which he occasionally made contributions, asking for help with their scheme to release dolphins and orcas from captivity, and some postcards from friends vaguely complaining that he never got in touch these days. So Long, and Thanks for all the fish, p.55

 『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズ4冊目の小説で、アーサーは「破壊されなかったもう一つの地球」の、破壊されなかったもう一つの自宅に帰ってくる。留守中に配達された手紙の中に、アーサーが時々寄付していた自然保護団体、グリーンピースからの募金協力願いもあった。
 アダムス自身もかつてグリーンピースに寄付したことがある。1984年10月、イギリスの起業家サー・クライブ・シンクレアがディナー・パーティの席上で、So Long, and Thanks for all the fish の出版前の原稿(英米でこの本が発売されたのは同年11月)を購入したいとアダムスに申し出た。アダムスはコピーはその一部しかないからといったんは断ったが、アダムスの希望するところに1000ポンド分の小切手を寄付する、ということで話はまとまった。その時アダムスが指定した団体が、グリーンピースである。(Gaiman, p.122)


The Guardian  ガーディアン紙

'So I bought a newspaper, to do the crossword, and went to the buffet to get a cup of coffee.'
'You do the crossword?'
'Yes.'
'Which one?'
'The Guardian, usually.'
'I think it tries to be cute. I prefer The Times.' So Long, and Thanks for All the Fish, pp.103-104.

 上記の引用箇所から察すると、アーサーはガーディアン派、フェンチャーチはタイムズ派らしい。
 どちらもイギリスの日刊高級紙(quality paper)で、どちらかと言えばタイムズは保守派、ガーディアンはリベラル派になる。アダムスがどちらを読んでいるのかは不明だが、アーサー・デントというキャラクターが著者自身を多分に反映していることを考えれば、アダムスがガーディアン派である確率は高い。
 なお、ガーディアン紙は『宇宙クリケット大戦争』の冒頭、アーサーとフォードが先史時代から現在に戻ってきた場面にも顔を出している。

 フォードが、テーブルごしに<ガーディアン紙>を投げてよこしながら、言った。
「故郷に帰ってきたんだ」アーサーが言った。
「そうだ」フォードが言った。「第一に」彼は新聞の欄外にある日付を指さして、「地球は二日後に破壊される」(p.36)


Hotblack Desiato  ホットブラック・デザイアト

「ホットブラック・デザイアトか?」ザフォドがびっくりして言った。「知らないのか?Tデザスター・エリアUのことを聞いたことがないのか?」
「ないわ」トリリアンが応じた。本当に知らなかったのだ。
「もっとも大きく」フォードが言った。「もっとも大きな音をだし」
「もっとも金持ちの」ザフォドがつけ加える。
「ロックバンドさ歴史上」フォードは言葉を探した。
「歴史そのものだ」ザフォドが言った。(『宇宙の果てのレストラン』、pp.140-141

 宇宙一大きな音を出すロックスターの名前を決めあぐねていたアダムスは、窓の外の不動産屋の看板にその答えを見つけた。そしてその不動産屋に電話をして、名前の使用許可をもらったという。
 しかし、予想外に『銀河ヒッチハイク・ガイド』がヒットしたことで、逆にこの不動産屋に、「『銀河ヒッチハイク・ガイド』からホットブラック・デザイアトの名前を勝手に借用したんだろう」という電話が何本もかかったらしい。アダムス曰く、これは「ひどく不公平だ」(Gaiman, p.162)。


'I really wish I'd listened to what my mother told me....'  「子供のころ、かあさんが教えてくれたことを...」

「ペテルギウス人といっしょにヴォゴン人の宇宙船のエアロックに閉じこめられ、まもなく宇宙空間で窒息死しようとしているこんなとき−−子供のころ、かあさんが教えてくれたことをもっとよく聞いておけばよかったとつくづく思うよ」
「で、おかあさんは何と?」
「わからない。聞いておかなかったんだもの」(『銀河ヒッチハイク・ガイド』p.99)

 このジョークは、そもそもアダムスが大学時代にフットライツのショーのために書いたものだが、当時はボツになり、それから何年も経ってようやく陽の目をみることになった。その理由についてジェフリー・パーキンスいわく、「それは恐らく、人が宇宙船から放り出されるというシーンで使われなかったせいだろう」(original radio scripts, p.51)
 それからさらに20年が経過した後のこと。BBCラジオ4のインタビューの中で、アダムスに娘が生まれた時の話になり、アダムスが「自分の子供ができるまでは人が何を言っていても馬耳東風で、そしていざ自分の子供が生まれてみて初めて、自分に何の準備もないことに気がついた。こんな大変なことなのに、どうしてみんな今まで話してくれなかったんだ、って思ったけれど、勿論みんな話してくれていたさ、ただ自分がこれまで聞く耳を持たなかっただけだ」とか何とか話したのを受けて、インタビュアーがすかさず 'I really wish I'd listened to what my mother told me....' と返すと、アダムスは 'yes, exactly'と笑った。


The Infinite Improbability Drive  無限不可能性駆動装置

星と星のあいだに広がる魂も凍るような広大な宇宙空間を航行するのに必要な無限不可能性フィールドを発生させる機械をつくろうと、何度も何度も試みられてきたのだが、そのたびごとに例外なく失敗したからである。結局、そうした機械は究極的に不可能なのだ、と科学者たちは不機嫌な口調で言明した。
 ところがある日、例によって失敗した研究者たちが帰宅したあと、掃除に残されたひとりの学生がこんなふうに考えた――
 もし、この機械が究極的に不可能なら、論理的に言って、そのことこそ無限不可能性をあらわしているにちがいない。だから、その機械をつくるためにしなくちゃならんことは、それがどれほどありえぬことか正確に計算し、その数値を有限不可能性発生機に送りこみ、熱い紅茶を一杯いれればいいだけだスイッチを入れてみよう! (『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p. 113)

 ラジオ・ドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』の脚本は、決して完成されたプロットに基づいて書かれたものではなかった。それどころか一話一話が手探り状態、まさに「一行先は闇」といった状態だったため、「アーサーとフォードが宇宙服を着ないでヴォゴン人の宇宙船のエアロックから放り出されたらおもしろいだろうな」と軽い気持ちで第2話放送分を書き終えたまではよかったが、いかにして二人をこの窮地から救い出す方法を考えるのも自分である、ということにアダムスが気付いた時には手遅れだった。
 すっかり行き詰まったアダムスを窮地から救い出したのは、その時たまたまテレビで見た柔道の試合だったという。「番組の解説者が言うに、たとえば約250ポンドのパジャマ(柔道着のことか?)を着た日本人があなたをのしてしまおうとかかってきた、というような難題に直面した場合、それを解く手品があります。彼があなたを放り投げようとした時、その日本人をつまずかせるなり投げるなり向きをそらすなりしてみてください。そうすれば彼の250ポンドの体重はたちまちあなたにではなく彼にとって不利なものとなるのです。
 なるほど、と僕は考えた。僕の問題が「不可能」ということなら、その「不可能」そこが問題を解く鍵になる。」 (original radio script, p. 51)


Joseph and the Amazing Technicolor Dreamcoat  『ジョセフと素敵な総天然色の夢衣』

ヴォゴン人の宇宙船が頭上高くを飛びすぎる瞬間、彼は鞄を開けた。『ジョセフと素敵な総天然色の夢衣』の台本を投げ捨て、『神の言葉』という台本も投げ捨てた。これから行くところでは、こんなものは必要ない。(『銀河ヒッチハイク・ガイド』 p.45)

 フォードが役者を装って鞄に入れていたとされる、Joseph and the Amazing Technicolor Dreamcoat とは、アンドリュー・ロイド・ウェバーが作曲、ティム・ライスが作詞したミュージカルである(ということは、フォードは歌って踊れる役者だった?)。
 この作品は、1968年にロイド・ウェバーとティム・ライスが学生用の短いミュージカルのようなものを学校長に頼まれて書いたのがはじまりで、最初はわずか15分かそこらの長さでしかなかったらしい。好評により再演を重ねるうち、少しずつ楽曲が増え、最終リライト版を1991年6月12日にロンドンのパラディウムという劇場で公演したときには2年にわたるロングランとなった。
 ロイド・ウェバーとティム・ライスの共同作にしては比較的知名度の低い作品ではあるが、この再演の成功で以前よりは知られるようになったと思う。ただ、物語の元は旧約聖書なので、Joseph は「ジョセフ」ではなく「ヨセフ」と訳したほうが適当かもしれない。1991年版のCDが日本で発売された時の日本語の題も、「ヨセフと不思議なテクニカラーのドリームコート」だった。
 また、フォードが持っていたもう一冊の台本 Godspell も、やはり聖書を題材としたミュージカルだが、こちらは新訳聖書の「マタイ福音書」を基にキリストの半生を描いたオフブロードウェイ作品で、作曲・作詞はスティーブン・シュワルツ。初演は1971年で、1973年に映画化された。近年もイギリスやアメリカで再演され、日本でも2001年12月4日から16日まで東京・銀座の「ル テアトル銀座(旧セゾン劇場)」にて上演される。ただし、残念ながら邦題は映画も舞台も『神の言葉』ではなく、『ゴッドスペル』である。


'Life, don't talk to me about life'  「わたしの前で生命のことは言わないでください」

「そうよ、マーヴィン」トリリアンは快活に言った。「だいじょうぶだわこんなこと、生きていればよくあることだわ」
「生きてる!」マーヴィンが言った。「わたしの前で生命のことは言わないでください」 (『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p. 120)

 鬱病ロボットマーヴィンの有名な台詞は、実はアダムスのオリジナルではない。アダムスの友人のコメディ作家ジョン・カンターが、1972年のフットライツのショーのオープニングのために書いた台詞を、アダムスが無断借用したのだとか。(original radio script, p. 51)
 しかし、その後もアダムスとカンターの交友関係は続き、アダムスが小説『宇宙の果てのレストラン』の執筆を開始した当時、二人はフラットを共有する仲だった。もっとも、アダムスの執筆が例によって遅れに遅れたため、業を煮やした担当編集者の発案でアダムスは別のフラットにカンヅメにされてしまったが。(Gaiman, p. 88-89)


Lord's Cricket Ground  ロード・クリケット場

「ちょっと待ってくれ」彼はフォードに言った。「ぼくが子供のころ……」
「昔話はあとにしてくれ」
「クリケットが大好きだった。でも、そんなにうまくはなかった」
「あるいは、まったく止めてくれるとありがたい」
「でも、ばかげていると言わば言え。いつの日か、ロード・クリケット場で球を投げるのを夢みていたんだ」(『宇宙クリケット大戦争』、p.268)

 アーサーもあこがれのロード・クリケット場は、Lord'sと短縮して呼ばれることが多い。実際、アーサーの台詞「いつの日か、ロード・クリケット場で球を投げるのを夢みていたんだ」の原文は'And I always dreamed, rather stupidly, that one day I would bawl at Lord's.' (p.148) である。なお、発音は「ローズ」。「ロード」ではない。
 ロンドン北部、リージェント・パークのそばに位置し、最寄り駅はメリルボーン。プロのクリケットチーム、メリルボーン・クリケット・クラブ(Marylebone Cricket Club, the MCC)のホームグラウンドでもある。たかが一クラブの本拠地と思うなかれ、ここは1969年までクリケットの運営機関でもあった(現在はクリケット協議会という別の組織が担当しているらしい)という、まさにクリケットの聖地なのだ。
 なお、Lord's という名前は、1814年メリルボーン・クリケット・クラブのためにこのグラウンドを購入した、トーマス・ロード(Thomas Lord)に由来している。


Marks & Spencer  マークス・アンド・スペンサー

 フォードの革鞄には、その下に何本かのペンと一冊のメモ帳、それにマークス&スペンサーの大きなバスタオルが入っていた。(『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p. 36)

Arthur and Fenchurch could feel them, wispy cold and thin, wreathing round their bodeies, very cold, very thin. They felt, even Fenchurch, now protected from the elements by only a couple of fragments from Marks and Spencer, that if they were not going to let the force of gravity bother them, then mere cold or paucity of atmosphere could go and whistle. (So Long, and Thanks for all the Fish, p. 136)

 フォードフェンチャーチもご愛用のマークス・アンド・スペンサーは、1884年設立の老舗スーパーである。高品質な衣料品・食料品をリーズナブルな価格で取り扱うことで知られる。自社ブランド「セント・マイケル」の製品も多く、タオルも勿論その一つだが、かのリッチ・ティー・ビスケットも「セント・マイケル」印のものが製造されたことがあった(今も製造しているかどうかは不明)。
 なお、アダムスのおすすめはマークス・アンド・スペンサー製の紅茶である。


mice  はつかねずみ

「地球人よ、おぬしの住んでいた星は、はつかねずみが注文し、ねずみが代金を払い、ねずみが運営していたのじゃ。地球は、それが作られた目的を達成する五分前に破壊された。そこで、もうひとつ作らねばならなくなったのじゃ」
 アーサーの心は、たったひとつの言葉しか覚えていなかった。
「はつかねずみ?」 (『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p. 212)

 アダムスが書いたラジオ・ドラマの最初の脚本では、ねずみはねずみでもはつかねずみではなく、アレチネズミ(gerbil)という設定だった。この耳慣れない種類のねずみが取り上げられたのは、アダムスの昔のガールフレンドが飼っていたというだけの理由であり、ジェフリー・パーキンスの説得により普通のはつかねずみに変更された。(Gaiman, p.32)
 たとえ普通のはつかねずみにせよ、ラジオ・ドラマで「ねずみが喋る声」を合成するのはかなり大変だったらしい。最初は、俳優が普通に話したものを調音機でねずみっぽいキーキー声に変えようとしたところ、その結果出来上がったものはあまりに機械っぽくかつ聞き取りにくいものになってしまった。時間上の制約もあり第一回目の放送ではそのまま使用したものの、それ以降の放送分に関しては直ちに再挑戦して今度はこの難問を解決したという。まず、俳優たちに台詞を通常の半分のスピードで、かつ正しい抑揚で平坦に読ませて録音し、今度はそれを倍の速度で早回しして調整したのだ。パーキンスいわく、「あらゆる点でよくなった」。
 この変化にちゃんと気付いた、初回放送時からの熱心なリスナーたちはBBCに手紙を送った。中には「前の声のほうが良かった」と書いて寄越したものもあったとか。(original radio script, p. 88)


Milliways  ミリウェイズ

 宇宙の果てのレストラン、<ミリウェイズ>という名前は、単に天の川を意味する英語、'Milky Way' を縮めただけである。
 宇宙の果てのレストランというアイディア自体については、アダムスはプロコル・ハルムというイギリスのロック・バンドの曲「グランド・ホテル」から想を得たという。そこで、ラジオ・ドラマでミリウェイズが舞台となっている場面ではこの曲をずっと流してほしいとジェフリー・パーキンスに頼んだが、その場面は全部で20分もあるのに曲は3分ほどの長さしかなく、おまけにアダムスは「グランド・ホテル」とミリウェイズに一体どういう関係があるのかについて筋の通った説明をすることができなかったため、却下された。
 もっとも、ラジオ・ドラマ製作時から20年近くが過ぎた1996年2月9日、プロコル・ハルムのコンサート会場でバンド紹介に立ったアダムスは、「グランド・ホテル」とミリウェイズの関係について比較的筋の通った説明をしている。「私はものを書く時には割といつもBGMをかけますが、この時レコード・プレイヤーに乗っていたのは「グランド・ホテル」でした。この曲について私は常々興味深く思っていまして、それと言うのもキース・リードの歌詞はある美しいホテルのこと、銀器だとかシャンデリアだとかそういったもののことばかり語っているのに、突然曲の途中で何の脈絡もなくどこからともなくふってわいたような大音響のオーケストラのクライマックスがやってくるのです。このバックグラウンドの巨大な音は、一体何ごとなのでしょうか? そのうち、私はこう考えるようになりました。「まるでフロア・ショーか何かが始まったようなものじゃないか。何か巨大で、とてつもなくて、そう、ちょうど、宇宙の終わりみたいな」。こうして、「グランド・ホテル」から「宇宙の果てのレストラン」というアイディアは生まれたのです。」(The Salmon of Doubt, pp. 25-26)。
 また、テレビ・ドラマに出てくるミリウェイズのセットは、当時のBBCでは最大級のものだった。だが、あまりにも大きすぎてBBC最大のスタジオにも搬入できず、結局一部がカットされたとのこと。もっともプロデューサーのアラン・J・W・ベルに言わせれば、「『銀河ヒッチハイク・ガイド』では、観ている人の想像力に任せることにして、たとえどんなに大きなセットがあっても、セット全体を決してワンショットで撮影したりしなかった。セットの一部だけを見せられると、人は実際のセットよりももっと大きいものを頭に浮かべる。セットの端なんぞ絶対に見ることはない」(Gaiman, pp. 82-83)


Pan Galactic Gargle Blaster  汎銀河ウガイ薬バクダン

『銀河ヒッチハイク・ガイド』にももちろんアルコールの記述があります。それによると、いま最高の飲み物といったら、T汎銀河ウガイ薬バクダンUなんです。(『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p.29)

 ジェフリー・パーキンスいわく、「たくさんの人が汎銀河ウガイ薬バクダンのレシピに関心を持っている。実のところ、地球の大気の状態では汎銀河ウガイ薬バクダンを調合することは不可能なんだが、でもこの本(original radio scripts)の売り上げで、将来スペースシャトルのチケットを買い、低軌道下でも調合できるかどうか試してみるつもりなので、読者のみなさんはお喜びください。(と言っても、これは実際には完全にナンセンスですね。というのも、本の収益は全額すでに豪勢な昼食代に消えてしまいましたから)」(p.32)
 とは言え、実はかつてこの地球上で汎銀河ウガイ薬バクダンが調合されたことがある。『銀河ヒッチハイク・ガイド』が舞台化された時、劇場のバーで販売されたのだ。勿論、本物の太陽虎の牙は入っていなかっただろうけれど。


"Pierre Menard, Author of Quixote"  「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」

 1941年に書かれた、ホルヘ・ルイス・ボルヘス作の短編小説。
 アダムスに言わせると「たった6ページの長さだけれど、読めば必ず薦めてくれてありがとうの手紙を僕に送りつけたくなるはず」("Foreword", p.xii) 。
 なお、岩波文庫のホルヘ・ルイス・ボルヘス著『伝奇集』に収められている日本語訳では、11ページの長さになっている。


Procol Harum プロコル・ハルム

 イギリスのロック・バンド。1967年のデビュー・シングル『青い影』でいきなり全英チャートの第1位となり、その後もヴォーカルとキーボード担当のゲイリー・ブルッカー、作詞担当のキース・リードらを中心に、メンバー・チェンジを繰り返しつつも多くのアルバムを発表、1977年頃にはグループとしての活動は停止していたが、1991年にまた再結成し、1997年には結成30周年を記念したリユニオン・ギグを行っている。ちなみに、プロコル・ハルムというバンド名はキース・リードの飼い猫の名前に由来するらしい。
 アダムスはプロコル・ハルムとゲイリー・ブルッカーの大ファンである。理想のロック・バンドを結成できるなら、ポール・マッカートニーとブルッカーの二人にヴォーカルを担当してもらいたいとまでいう(The Salmon of Doubt, p. 36)。また、1996年2月9日バービカン・センターで行われた、ロンドン・シンフォニー・オーケストラ共演によるプロコル・ハルムのコンサートでは、開演に先立ってバンド紹介をするという栄誉を担い、その中で「宇宙の果てのレストラン」のアイディアはプロコル・ハルムの「グランド・ホテル」という曲から着想を得たというエピソードを語った。(Millways 参照)
 なお、プロコル・ハルムの主なアルバムは以下の通り。

Procol Harum,1967 『青い影』
Shine on Brightly, 1968 『月の光』
A Salty Dog, 1969 『ソルティ・ドッグ』
Home, 1970 『ホーム』
Broken Barricades, 1971 『ブロークン・バリケード』
Live in Concert, 1972 『プロコル・ハルム・ライヴ』
Grand Hotel, 1973 『グランド・ホテル』
Exotic Birds & Fruits, 1974 『異国の鳥と果実』
Procol Ninth, 1975 『プロコル・ナインス』
Something Magic, 1977 『輪廻』
The Prodigal Stranger, 1991 『放浪者達の絆』


Radiohead  レディオヘッド

 イギリスのロック・バンド。オックスフォード近郊のパブリック・スクール、アビントン・スクールで知り合った仲間でオン・ア・フライデーというバンドを結成、アビントン・スクール卒業後メンバーはイギリス各地の大学に進学するも、夏の休暇ごとに集まって活動を続ける。1991年にEMIとメジャー契約を果たし、バンド名をレディオヘッドに変更した。メンバーは、トム・ヨーク(リード・ヴォーカル/ギター/キーボード)、コリン・グリーンウッド(ベース)、エド・オブライエン(ギター/バッキング・ヴォーカル/パーカッション)、フィル・セルウェイ(ドラム)、ジョニー・グリーンウッド(ギター/キーボード)の5名。
 1992年、EP『Drill』、続いて翌年ファースト・アルバム『パブロ・ハニー』を発表する。イギリス国内では期待されたほどのヒットにはならなかったが、逆に海外で人気が高まり、アメリカでのツアーで成功を収めたことによって、イギリスでも再評価されるようになった。1995年にセカンド・アルバム『ザ・ベンズ』が発売されると、ロンドン・タイムズは「レディオヘッドは、この国きっての最も優れたバンドとして、突如、開花した」(『エグジッド・ミュージック』、p. 222)と絶賛する。続くサード・アルバム『OKコンピューター』は、1990年代のロックを代表する1枚とまで評価され、全世界で600万以上のセールスを記録した。
 この『OKコンピューター』に収録され、シングル・カットされた「パラノイド・アンドロイド」という曲のタイトルは、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の人気キャラクター、鬱病ロボットのマーヴィン(Marvin the Paranoid Android)に由来する。作詞担当のトム・ヨークはインタビューの中で、「そう、『ヒッチハイカーズ・ガイド・トゥ・ギャラクシー』という本に出てくるんだよ、マーヴィン・ザ・パラノイド・アンドロイドっていうのが。年がら年じゅう、どれだけ自分が落ち込んでるかを、喋ってまわってるやつなんだ。『これはほっとくには勿体なさすぎるな』と思って(笑)」(『SNOOZER』1997年6月号、P. 35)。
 6分半にも及ぶこの大曲は三部構成になっており、トム・ヨークいわく「それぞれは別の時に、別の精神状態で書かれ、それらをあとからくっつけた」(『エグジッド・ミュージック』、pp. 274-275)、そしてコリン・グリーンウッドいわく「ビートルズの『マジカル・ミステリー・ツアー』なんかがそうだったように、いくつかの曲を重ね継ぐ方法さ。そういうことを試してみたかったんだ。本質的に異なる要素から、音楽的な意味を生むことはできるだろうか、って。Tパラノイド・アンドロイドUはレコーディングのわりと初期の段階でできあがっていた曲だった。聴き返しては、みんなでくすくす笑っていたんだ。悪さを働いている生徒みたいな気分だったよ。だってこれだけ変化に富んだ6分半の曲をやっている人間なんて、俺達以外誰もいなかったからね。ばかばかしくなるくらいに。」(同、p. 275)。
 もっとも、出来上がった曲を聴いてくすくす笑った人は少ないと思われるが、『エグジッド・ミュージック レディオヘッド・ストーリー』の著者マック・ランダルの言葉を借りれば、「Tパラノイド・アンドロイドUのような曲の概念自体がばかばかしいのだ。ダグラス・アダムスの『銀河ヒッチハイク・ガイド』に登場する哀愁のロボット、マーヴィンからタイトルがとられた、ということを考えても、レディオヘッドは冗談でこの曲をやっているのではないか?という思いを強くさせられる一方だ。しかしながら、この曲の大胆なまでの試みはそれ自体がスリリングで、何度か聴き返すうちに、独立したそれぞれのパートがひとつになることの意味が見えてくるようになり、苦さからあこがれまで、そしてそう、ほんのわずかながら、パラノイアといった感情までもが湧き上がってくるのだ。」(同、pp.275-276)。
 なお、レディオヘッドの主なアルバムは以下の通り。

Pablo Honey, 1993 『パブロ・ハニー』
The Bends, 1995 『ザ・ベンズ』
OK Computer, 1997 『OKコンピューター』
Kid A, 2000 『キッドA』
Amnesiac, 2001 『アムニージアック』
Hail to the Thief, 2003 『ヘイル・トゥ・ザ・シーフ』


Resurrection  『復活』

It is an important and popular fact that things are not always what they seem. The Hitch Hiker's Guide to the Galaxy, p.119.

 ダグラス・アダムス推薦の1冊。
 19世紀ロシアの文豪トルストイが書いた、重厚な長編小説と『銀河ヒッチハイク・ガイド』、一見何の関係もなさそうだが、アダムスに言わせるとこの両者は「ものごとは見た目通りとは限らない」というテーマで共通する。
 『復活』という小説の冒頭、主人公の青年貴族は陪審員として裁判所に向かう。しかし、その裁判に被告として出廷した女性はかつて自分の家で働いていた小間使いだった。彼は遊びで彼女に手を出したものの彼女をほったらかして家を出てしまい、その結果彼の知らぬ間に彼女は妊娠し、ヒマを出され、そうなると彼女としては生きていくには娼婦になるより道はなかった。そしてついには、客に毒薬を飲ませて殺害し金品を強奪したという、まったくの無実の罪に問われて被告席に座らされる羽目に陥ったのだが、そもそも彼女が堕落するきっかけは陪審員席にいる青年貴族の彼自身なのだ。その事実に気づいた時、これまで彼が上品で、立派で、道徳的だとすら考えていた社会の姿が根底から覆され、彼の世界観は大きく変わることになる。つまり、「ものごとは見た目通りとは限らない」。
 普段、我々は固定した視点で世界を見ている。決まった見方、固定概念にとらわれていて、とらわれていることに気づきすらしない。確かに、その方が日常生活には便利だ。でも、ものの見方を変えれば世界は大きく変わる。普段は当たり前だと思って気にも留めないでいることも、視点が違えばひどく奇妙で不可思議なものに思えてくる。そういう新しい視点を見つけること、それがアダムスにとって何より大切なのだという。『最後の光景』の企画で絶滅寸前の動物を追って世界各地を旅した時も、さまざまな動物たちの視点で地球を見つめ直すと世界はまるで違って見え、それはとても素晴らしい体験だったとか。


Rich Tea  リッチ・ティー・ビスケット

'I'm buying it. I am also,' said Arthur, 'buying some biscuits.'
'What sort?'
'Rich Tea.'
'Good choice.' (So Long, and Thanks for all the Fish, p. 104)

 『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズ4作目に出てくる「リッチ・ティー」という銘柄のビスケットは、イギリスではごく普通に町のスーパー等で販売されている類のものだ。1991年にイギリスのヨークシャー・テレビジョンで製作されたテレビ・ドラマ Rich Tea and Sympathy は、イギリス人なら誰でも知っているこのビスケットの名称に、『お茶と同情』Tea and Sympathy) を掛け合わせたものと思われる。
 リッチ・ティーの味と形は、森永のマリー・ビスケットに近い。丸形で薄くて、もっともプレーンなビスケットである。私の知る限りでは、St. Micheal 製のものとマクビティ製のものがあって、どちらも青いビニールの包装に包まれている(一度だけ赤い包装のものも見かけた)。マクビティのビスケットなら、日本でもダイジェスティブ・ビスケット等が明治製菓から発売されているが、何故かリッチ・ティーは日本では生産・販売されていない。それでも以前は輸入菓子を取り扱うスーパーや小売店(ソニー・プラザや大丸ピーコックなど)で時折入荷されていたが、最近は全く見あたらなくなった。(写真はこちら)
 上記の引用箇所は、破壊されなかったもう一つの地球に戻ったアーサーが、フェンチャーチと名乗る女性と交わす会話部分だが、ここでアーサーはフェンチャーチにビスケットにまつわるある体験を語ってきかせる。簡単にまとめると、列車の発車時刻より早く駅に着いたアーサーは、駅の売店でガーディアン紙とコーヒーとビスケットを買って、売店のテーブルに腰掛けた。テーブルに向かって左手に新聞、右手にコーヒー、中央にビスケット。すると、真向かいに見知らぬ男性が腰を下ろしたかと思うと、やおら自分が買ったばかりのビスケットの封を開け、一枚つまんで食べ始めたではないか。アーサーは驚いたが、そこは英国紳士、まるで何事もなかったかのような顔をして、自分もビスケットに手を伸ばし、一枚食べた。すると、相手はまた手を伸ばしてビスケットを取った。アーサーも、負けじと次のビスケットを食べる。こうして、8枚パックのビスケットを二人で食べ尽くすと、相手の男性は無言のまま席を立って去っていった。後に残されたアーサーも、ちょうど電車の時間が来たのでコーヒーを飲み干し、テーブルから立ち上がり、新聞を取り上げた時、その新聞の下に未開封のままのビスケットがあるのに気が付いた。
 この話は、1976年のケンブリッジ駅でのアダムスの実体験に基づく。だが、この体験談をラジオやテレビで何度も話したため、たびたびこの話が無断借用されるようになり、実体験者としてはこうして小説内に書くことで白黒をつけたかったのだという。その無断借用の一例が、ジェフリー・アーチャーの短編小説「破られた習慣」("Broken Routine")で、この短編小説がアダムスの So Long, and Thanks for all the Fish (1984) より先に出版されたため、逆にアダムスのほうに無断借用疑惑がかかってしまった。(Gaiman, p. 138)
 「破られた習慣」では、駅ではなく列車内、ビスケットではなく煙草、ガーディアン紙ではなくイブニング・スタンダード紙だが、話の骨子は同じである。ただし、アーチャーを盗作呼ばわりするのも早計だ。なぜなら、この短編の入っている短編集、『十二本の毒矢』(A Quiver Full of Arrows, 1980)の冒頭の著者ノートに、「本書に収められた十二の短編のうち、十一編は現実に起きた事件にもとづいている(それらにかなりの粉飾を施して味つけしたものである)」(p. 6)と、ちゃんと断り書きが記されているのだから。
 ともあれ、アダムスとしてはこのビスケットの話を余程気に入っていたのか、2001年2月27日、アメリカのテキサス州ダラスで開催された、米国BEAシステムズ(世界を代表するE−ビジネス・インフラストラクチャ・ソフトウェア企業の1つ)のユーザーカンファレンスでの基調講演の中でも使ったらしい。3月5日のZDネット・ジャパンの記事によると、アダムスはインターネットやインターネット業界について「言いたい放題の限りを尽くした。しかし、なかなか当を得た例え話と、巧みな話術により、場内は爆笑の嵐」だったとのこと。そして、講演の締めくくりに例の話を持ち出した。「待ち時間に、新聞とコーヒー、そしてクッキーを買い」
 アダムスがビスケットではなくクッキーと言ったのは、聴衆がアメリカ人であることを考慮して敢えて変更したためか、それとも単にこの記事を書いた記者がビスケットとクッキーとを混同したためかは不明。


the Round House ラウンド・ハウス

 1967年に開館した、ロンドン・ハムステッドにある劇場。もともと、蒸気機関車の円形機関庫だったことから円形をしており、その名がつけられた。ロック・コンサートや映画など、主に若者向けの企画が多い。映画館・図書館・ギャラリーも併設している。
 大学生だったアダムスは、この劇場のバーで憧れの人、ジョン・クリーズ(当時32歳)に初めて会った。


Share and Enjoy ともに楽しみましょう

 'Share and Enjoy' は、『銀河ヒッチハイク・ガイド』に出てくるシリウス人工頭脳会社苦情処理部門のモットーである。言うまでもなく、私のホームページの名前もここから頂戴した。
 小説の中では、このフレーズは『宇宙の果てのレストラン』の冒頭でアーサーが栄養飲料自動合成機に紅茶を出させようと奮闘する際に、合成機がアーサーに向かって繰り返し使用する程度でしか登場しないが、もともとのラジオ・ドラマでは、そもそも'Share and Enjoy' はシリウス人工頭脳会社の社歌の一節という設定で、それを200万のロボットが大合唱するというシーンがあった。あったが、ラジオ・ドラマのプロデューサーのジェフリー・パーキンスいわく、「200万人に何かを歌わせて、何を歌っているのか聞き取るのは不可能だ。その200万というのが、ただでさえ何を言っているのか聞き取りにくいロボットだとしたら、ますます不可能だ。さらに、その歌をなるべく平たんに(アダムスの脚本のト書きによれば、'exactly flattened fifth out of tune')歌わせるとなったら、もはや不可能という言葉さえ生ぬるい。きゅうりから日光を抽出しろと言われるようなものだ」(original radio script, p.186) ということで、実際には200万のロボットを代表して6人の人間が合唱した声を加工して作ったのだとか。


Shoe Event Horizon  靴の事象の地平線

つまり、靴屋が増えれば増えるほど、靴をたくさん作らねばならなくなり、靴はいっそう質の悪いものになっていく。質が悪ければ悪いほど人々は新しい靴を買い換えねばならなくなり、靴屋は増加していき、ついには、この星の経済はわたしがT靴の事象の地平線Uと呼ぶものを越えてしまった。もはや靴屋以外のものを作ることは経済学的に不可能になっていた。その結果は――崩壊だ、荒廃と飢饉だ。 (『宇宙の果てのレストラン』、p. 99)

 このジョークも、3日間ロンドンで靴を探した時のアダムスの実体験に基づいている。
「特別なものじゃない、ごく普通の靴が欲しかっただけだ。オックスフォード・ストリートでは石を投げれば半ダースの靴屋に当たるといわれているが、丸3日も探し回った後では本当に石を投げてやりたくなったね。で、靴は買えたのか? 答えはノーだ。店から店へ、実際ほとんど隣同士で、同じ計量器を備えていて、そして見事に同じ型で同じサイズの靴の在庫を切らせていた。誰がこれを組織したんだ? そいつはもう捕まったのか?」 (original radio script, p. 227)


six pints of bitter  ビールを6パイント

「ビールを六パイント」フォード・プリーフェクトは<馬丁屋>のバーテンに注文した。「急いでくれ。世界が終わりかけているんだ」

 「ビール」と翻訳されているが、原文の bitter とはホップが多く、苦みの強い生ビールのこと。イギリスのパブではもっともポピュラーなビールである。日本で一般的に飲まれているピルスナータイプのビールと比べると、もっと褐色がかった濃い色をしている。
 また、pint はイギリスでミルクやビールを売る時に使われる単位で、1パイントは0.568リットル。故に、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の冒頭で、筋肉を弛緩させるためとは言え、アーサーフォードは昼間から1.5リットル以上ものビールを飲んだ計算になる。


tea  紅茶

 アーサーは眼をぱちくりさせてスクリーンを見つめた。なにか大事なものをなくしたような気がした。突然、それが何だかわかった。
「この船に紅茶はあるかい?」と、彼は訊ねた。(『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p. 156)

And there, stepping out on to the lawn was Mike, the warden's wife, with a tray full of tea things, which I fell upon with loud exclamations of delight and hello.
Meanwhile, I had lost Mark altogether. He was standing only a few feet away, but he had gone into a glazed trance which I decided I would go and investigate after I had got to grips with some serious tea. (Last Chance to See, p. 118)

 アーサー・デント同様、アダムスも大の紅茶好きだった。『最後の光景』の取材で絶滅寸前の飛べない鳥、カカポを探してニュージーランドを訪れた時に、くたくたに疲れていたアダムスに歓喜の声を上げさせたのも紅茶だったし、また遺作となった作品集、The Salmon of Doubt には、イギリスにやってきたアメリカ人が紅茶を楽しむための、アダムス流の正しい入れ方が紹介されている。

マークス・アンド・スペンサーに行って、アール・グレイ・ティーのティーパックを買いましょう。滞在先に戻ったら、薬缶でお湯を沸かします。沸くのを待っている間に、紅茶のパックを開けてにおいを嗅いでみてください。ただし、気をつけて――ちょっとクラクラするかもしれませんよ、完全に合法的なものなんですけどね。お湯が沸いたら、少しティーポットに注いで、軽くポットの中でお湯を回して、そしてお湯を捨ててください。ポットにティーバックを2つ(ポットのサイズによっては3つ)入れましょう(王道を行くならティーバックではなくてティーリーフを使うべきなのですが、今回は初級編ということにしておきます)。薬缶をもう一度火に戻してお湯を沸騰させたら、沸き立っているお湯を大急ぎでポットに入れましょう。2分か3分そのままにしておいて、それからティーカップに注ぎます。アール・グレイならミルクではなくレモンを入れるべき、という人もいますね。お好みでレモンを搾ってください。私としてはミルクのほうが好きです。あなたもミルクのほうがいい、というのなら、紅茶を入れる前にあらかじめカップにミルクを入れておいたほうがいいでしょう。熱い紅茶の中にミルクを入れると、ミルクが煮立ってしまいますから。(註・このやり方は社会の慣習からすると間違っています。社会的慣習に従うのなら、紅茶を入れてからミルクを入れてください。ただし、この社会的慣習というヤツには、何の論理的、物理的理由もありません。実のところ、イギリスという国では、何かについて知っているとか考えているということ自体が、社会的慣習に反すると思われています。このことは、イギリスを訪問する際には心に留めておいたほうがいいですよ。) (pp.68-69)

 なお、アダムス推薦のアール・グレイは、茶葉にベルガモット(柑橘系)の香りを加えたブレンド・ティーなので、紅茶の香りそのものを楽しむならミルクやレモンを入れずにストレートで飲んでもよい。アイスティーにも最適とされている。
 また、ミルクが先か紅茶が先か、の論争だが、新井潤美によれば「紅茶にミルクを先に入れること、レースのテーブルマット(ドイリー doillies)を使うこと――これらはすべてアッパー・クラス、さらにはどれだけ非アッパー・ミドル・クラスであるかを示す指標なのである」(『階級にとりつかれた人びと 英国ミドル・クラスの生活と意見』、p. 152)とのこと。


Tea and Sympathy  『お茶と同情』

お茶と同情とソファをありがとう(『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p.4)

 『銀河ヒッチハイク・ガイド』の翻訳本の解説にも書かれている通り、『お茶と同情』という映画は存在する。ただし、内容は私の知る限り『銀河ヒッチハイク・ガイド』とは何の関係もない。
 これはブロードウェイでヒットしたドラマを映画化したもので、監督は『巴里のアメリカ人』『恋の手ほどき』のヴィンセント・ミネリ、主演は『地上より永遠に』『めぐり逢い』のデボラ・カー。1956年製作のアメリカ映画である。
 物語は、「シスター・ボーイ」といじめられている一人の学生に、デボラ・カー扮する舎監の妻が何かと目をかけてやっているうちに、次第に二人の間に愛情が芽生え始める、というもの。タイトルになっている「お茶と同情」とは、舎監の妻として学生に与えて許されるもののことで、つまり「お茶」をあげてもいいが「夕食」に招くのは不可、「同情」は構わないが「恋愛」はタブーという、舎監の妻の心得を意味する。
 製作されてから約半世紀が経った今になってこの映画を観ると、「男子たるもの、詩など読むくらいなら酔っぱらって殴り合いの喧嘩をするほうがマトモ」的価値観が当たり前のこととしてまかり通っていることのほうに時代色を感じてしまう。もっとも、だからこそ「1950年代のアメリカ」の一端を理解するにふさわしい映画である、と言えなくもないが。
 なお、1991年にイギリスのヨークシャー・テレビジョンで、Rich Tea and Sympathy なるタイトルのテレビ・ドラマが制作されたらしい。コメディのようだが、詳細は不明。


telephone sanitizers  電話消毒係

「はい。電話消毒係や広告屋の重役の死体なんかが船倉に並んでいるんですよ」
 船長は彼をじっと見つめた。とつぜん、船長は頭をのけぞらせて笑い出した。
「いやいや、彼らは死んじゃいないんだ。いやあ、とんでもない。冷凍されているだけなんだよ。いずれ生きかえるのだ」
 フォードは彼としては実に珍しいことをした――眼をぱちくりさせたのである。(『宇宙の果てのレストラン』、p. 236)

 『銀河ヒッチハイク・ガイド』以前にも、アダムスは電話消毒係をめぐるジョークを書いている。「ナバロンの電話消毒係」と題されたそのスケッチでは、英雄的な電話消毒係の一団が雄々しくも電話を消毒するためだけに城に突撃する。
 ラジオ・ドラマの放送当時、ゴルガフリンチャムの箱船船団B号船の乗船メンバーに加えられたことについて、電話消毒係からBBCにクレームの手紙が届いた。自分たちに攻撃の矛先が向けられたことには憤慨するが、いまいましい経営コンサルタントどもを槍玉にあげた点に関してはよくやった、と。一方、経営コンサルタントからも手紙が届いたが、そこには自分たちがバカにされたことについては遺憾に思うが、電話消毒係のひねくれ者の件については感謝したいと書かれていたとか。(original radio script, p. 127)


tired TV producers  引退したテレビのプロデューサー

「つまり、凍った理髪屋なんかを保存してあるっていうんですか?」アーサーが訊いた。
「そうだよ」と船長。「何百万人もいる。理髪屋、引退したテレビのプロデューサー、保険セールスマン、人事係将校、ガードマン、広告会社重役、経営コンサルタントなどだ。われわれはよその星に植民するのだ」(『宇宙の果てのレストラン』p.236)

 これは明らかに翻訳ミス。「引退した」ではなく「くたびれた」とすべきだろう。
 しかし、実はラジオ・ドラマの脚本の時点で、 'tired' という単語も元々は'Tri-D' (3次元)のタイプミスだったという。でも、ゴルガフリンチャム箱舟船団B号船には、3次元テレビのプロデューサーでなくくたびれたテレビのプロデューサーが乗っていてもふさわしいだろうとの判断で、'tired' になった。勿論、小説版でも'tired' になっている。


towel  タオル

ARTHUR Who's Roosta?
FORD Mate of mine. Antoher researcher on the Guide, great little thinker is Roosta and great hitcher. He's a guy who really knows where his towel is.
ARTHUR Knows what?
FORD Where his towel is.
ARTHUR Why should he want to know where his towel is?
FORD Everybody should know where his towel is.
ARTHUR I think your head's come undone.
(orignial radio script, p.136)

 タオルは、間違いなく『銀河ヒッチハイク・ガイド』の中でもっとも有名なジョークの一つである。
 小説版では冒頭に登場するこのジョーク、しかし実は一番最初の、6話完結のラジオ・ドラマ(第1節から第6節)には存在しない。1978年12月24日に放送された、クリスマス・スペシャル(第7節)の中で初めて登場することになる。
 アダムスにとって、これは元を正せばほんの内輪受けのジョークだったらしい。休暇でギリシャに行って数人の友達と小さなヴィラに滞在した時のこと、毎朝みんなで浜辺に出かけようとすると、アダムス一人がいつも自分のタオルを見つけられなくて、仲間をさんざん待たせたのだとか。その時の経験から、本当に人とうまくやっていける人というのは、自分のタオルのありかをちゃんとわきまえている人なんじゃないか、と思うに至ったようだ。(orignial radio script, p.148)
 内輪受けのジョークだっただけに、アダムスとしては当初これを作品に入れるのは気乗り薄だったが、蓋を開けてみると意外なまでに好評だった。今に至るもいかにこのタオルの話が知られているか、それを示すエピソードが2000年6月3日付のガーディアン紙に掲載されている。
 『銀河ヒッチハイク・ガイド』では、タオルのありかをわきまえてさえいれば何がなくとも大丈夫、ということになっている。それを受けて、ホスピスで死に瀕したある女性は「私は大丈夫。自分のタオルのありかはわかっているから」と語ったという。勿論、その女性はタオルがあれば命が助かると本気で考えた訳ではあるまい。死を目前に控えた時、その恐怖や不安に対し「タオルがあれば大丈夫」というジョークを安心や安全の象徴として用いただけのことだろう。もっとも、この話を担当編集者から聞いたアダムスはさすがに大いに当惑したそうだが。
 ともあれ、これほどのタオル人気にあやからないという手はない、ということで便乗商品のタオルも発売されたことがある。最初、マークス・アンド・スペンサーが製作に名乗りを上げた(何と言ってもフォードが地球で愛用していたタオルはマークス・アンド・スペンサー製だ)が、これは実現せずに終わった。
 その後、1984年になって、アダムスが『銀河ヒッチハイク・ガイド』のコンピュータ・ゲームの広告担当者と話している中で、企画倒れに終わったタオルのことに触れたところ、相手の広告業者の乗り気となり、話がトントン拍子に進んで今度こそ制作・発売されることとなった。発売元はHH Towel 、第一弾は紫っぽい色と青っぽい色の2色で、『銀河ヒッチハイク・ガイド』のタオルに関する記述が、英国版ペーパーバックで該当する頁番号入りでタオルの全面に転写されている。第二弾は、「スコーンシュラス・シルバー」と「ビーブルブロックス・ブラウン」の2色で、値段は14ポンド95セントだった。
 ちなみに、アメリカのSF雑誌 Starlog 1986年6月号の33頁には、うれしそうな顔でこのタオルを広げたアダムスの写真が掲載されている。ただし、モノクロ写真なのでタオルの色までは分からない。が、転写されて文字なら何とか読める。以下の通り書き出してみたところ、基本的に小説版と同じだが、そのままでは長すぎるので適宜省略されていることがわかる。

The Hitch Hiker's Guide to the Galaxy has a few things to say on the subject of towels.
A towel, it says, is about the most useful thing an interstellar hitch hiker can have. Partly it has great practical value - you can wrap it around you for warmth as you bound across the cold moons of Jaglan Beta, use it to sail a mini raft, wet it for use in hand to hand combat, use it to ward off noxious fumes, wave it in emergencies, and of course dry yourself with it.
Most importantly a towel has immense psychological value. What any strag (non-hitch hiker) would think is that any man who can hitch the length and breadth of the galaxy, struggle against terrible odds, and still know where his towel is, is clearly a man to be reckoned with.


Vogons  ヴォゴン人

 『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズでもっとも有名な悪役と言えばヴォゴン人だが、その名前は実は魚のタラの一種である。でもアダムスいわく、「いかにも『ドクター・フー』や『スター・トレック』に出てくる悪役のように聞こえないか?」(Gaiman, p. 166)
 ちなみにラジオ・ドラマでは、アーサーの家を壊しに来るプロッサー氏と地球を壊しに来るプロステトニック・ヴォゴン・イェルツの二役を同一の俳優が声を担当している。と言ってもこれは単に一人の役者が急病でこられなくなり、代役としてビル・ウォリスが掛け持ちすることになったためらしい。(original radio script, p. 32)


whale  マッコウクジラ

 もうひとつ、忘れられてしまったことがある――見知らぬ惑星の数マイル上空に突如出現してしまったマッコウクジラのことだ。
 それは鯨にとって自然に保持できる位置ではなかったので、この哀れで、純真な生き物は、自分は鯨であるという意識に慣れる時間はほとんどなく、もはや鯨ではないという事実に慣れるしかなかったのである。(『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p. 172)

 アダムスは「この哀れで、純真な生き物」のアイディアを、『キャノン』というテレビの探偵ものを観ていて思いついたという。
 「その番組で、登場人物たちは信じられない程くだらない理由で四六時中銃を撃ちまくっていた。たまたまその通りを歩いていたというだけで、いともあっさり殺されてしまう、その人が一日の残りの時間をどう過ごそうかと考えていたかなんて、まるでおかまいなしに。
 僕はこのささやかな気まぐれ行為にイライラし始めたんだが、それは単に登場人物たちが殺されたからではなく、誰もまるでそのことについてどうにも気に留める様子がないからだった。殺された人たちを慮ってくれそうな人々――家族や友人、郵便配達人でもいい――は完全にカヤの外に置かれていた。「お休みなさい、かわいい王子さま」も「彼女はこの先きっと死んでしまったのね」も「ほら見ろよ、俺は今夜こいつとスカッシュをする約束だったんだぜ」もなし、ただバーンをぶっ放して、そいつを脇にどけて、また次へ。こう言っては何だが、彼らはただの大砲の餌食でしかなかったんだ。
 僕はこの線でいこうと考えた。プロットの中のちっぽけなディテールのために殺されることだけが唯一の役目というキャラクターを書こうと。そして、うまいこと聴いている人たちにそいつのことを気遣ってもらうよう仕向けよう、たとえストーリーの中の他の登場人物たちが全く無関心だったとしても。僕のこの試みはうまくいったと思う、というのも、この箇所があまりにも残酷で無神経だと指摘する多くの手紙を受け取ったからだ。もし僕がたまたまこのクジラの運命について触れず、そのまま通り過ぎていたらこんな手紙は来なかっただろう。仮に、クジラじゃなくて人間という設定にしたとしても、手紙は来なかったかもね。」
 その不幸なクジラの恨みという訳でもないだろうが、ラジオ・ドラマ製作時にクジラのシーンが全く理由不明のまま二度までもマルチ・トラックのテープから消えてしまうという事故が起こった。不吉な噂も流れたが、ジェフリー・パーキンスいわく「もう少し技術に強い人がその場に居たなら、きっと僕らが機械の使い方をちゃんと心得ていないせいだと思っただろうよ」。(original radio script, p. 88)
 後に『銀河ヒッチハイク・ガイド』の舞台が製作された時には、宣伝の一環で25フィートもあるクジラの風船がタワー・ブリッジからテムズ川に投げ込まれた。もっともあまり大きな宣伝にもならず、「スタンダード」紙にわずか3分の4インチのスペースで「警察は大変遺憾に思っている」という記事が出たにとどまったばかりか、舞台そのものもあまりの悪評に8週間の上演予定を3週間も早めて終わらせるという、無惨な結果となった。(Gaiman, p.56-57)


the worst poet in the Universe  宇宙一ひどい詩人

 英国エセックス州グリーンブリッジに住む、宇宙一ひどい詩人ポーラ・ナンシイ・ミルストーン・ジェニングスには、実在のモデルがいる。アダムスが学校で一緒だった人だそうで、彼はよどんだプールの中の死んだ白鳥についてのおぞましい詩を書いていたのだとか。(Gaiman, p.166)

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