『ドクター・フー』とダグラス・アダムス


 無名のコメディ作家だったアダムスが、BBCからラジオ・ドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』の試作を許可されたのは1977年4月のこと。アダムスは早速4月4日に第一話の脚本を脱稿し、試作は完成されたが、実製作の許可はなかなか下りない。
 この間、一銭の収入もなかったアダムスは、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の試作脚本をBBCの長寿SFテレビ番組『ドクター・フー』(1963年から1989年にかけて放映された、子供向けのSFドラマ。「ドクター」と呼ばれる謎の老人が、ターディスと名付けられた公衆電話ボックス型のタイムマシンに乗って過去や未来に飛び、悪と戦う)の脚本編集者ロバート・ホームズに送り、仕事を貰えないかと打診する。ロバート・ホームズはアダムスの脚本を気に入り、アダムスはホームズとプロデューサーのグレアム・ウィリアムズの3人で会って話した後、『ドクター・フー』の脚本執筆を依頼された。が、ちょうどその数日前の8月末に『銀河ヒッチハイク・ガイド』製作の許可も出たため、翌月からアダムスは『銀河ヒッチハイク・ガイド』第5・6話分と『ドクター・フー』の、二つの締め切りを一度に背負うことになってしまった。
 一脚本家として始まったアダムスと『ドクター・フー』の関係は、『銀河ヒッチハイク・ガイド』が大成功し、アダムスが作家として充分に軌道に乗る1980年1月まで続く。しかも1979年9月からは、ロバート・ホームズの後任、アンソニー・リードの推薦で脚本編集者を務めた。
 その約2年半の期間に、アダムスが執筆を手掛けた作品は以下の通り。

The Pirate Planet (1978年9月放映)

City of Death (1979年9月放映)
 この脚本はもともとDavid Fisher という脚本家が依頼されて書いていたものだが、諸事情で彼が脚本を完成させることができなくなり、脚本編集者だったアダムスが急ぎ代行執筆した。このため、クレジットにはアダムスの名前ではなく、David Andrewという偽名が使用されている。
 なお、このシリーズではジョン・クリーズがゲスト出演した。

Shada (テレビ未公開・1992年にビデオ発売)
 BBCの技術者のストで未完成となり、テレビ放映されなかった。
 時間の支配者が、Professor Chronotis という名前でケンブリッジ大学の指導教官になりすまし余生を過ごしている、といった設定やストーリーは、アダムスの小説 Dirk Gently's Holistic Detective Agency (1987) に転用された。後にビデオで発売され、アダムスはその著作権料をコミック・リリーフに寄付している。

 この他に、映画用脚本として執筆されたが製作されないままに終わった、'Doctor Who and the Krikkitmen' がある。この作品のアイディアは、後に『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズ3冊目、『宇宙クリケット大戦争』という形で活かされることになった。