室町時代以前の貝覆いの遊技方法は現在には伝えられていません。平安末期から室町時代まで京都は何度も戦災にあいました。おおかたは焼かれ、貴族の生活もたいへんだったでしょう。仏教関係を除く美術品の伝来品が極端に少ないのもそのせいだと思われます。形の有る物でさえそんな状況ですので、行事、風俗、習慣など残りにくい物は姿を消していったに違い有りません。伝統的な公家装束でさえ室町時代にはあやふやだったそうです。
現在伝えられる貝覆いの遊技方法の形式が整ったのは桃山時代頃で、全国に流布したのは江戸時代の元禄頃と思われます。以下、遊技方法の文献を並べますが、私は読んでいない物が多く、興味のある方は参考にして下さい。
いずれにせよ、普段はこんな堅苦しい物では無く、良家の子女が手遊びにトランプの神経衰弱のように気軽に遊んでいたような気がします。
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『二見の浦』(伊勢 貞丈 1773 年成立)に述べられている遊び方。
通常360対の蛤を左右の貝片、地貝と出貝に分けてそれぞれの貝桶に納めます。地貝桶から場に地貝を同心円状に伏せて並べます。その後、場の中央に出貝を一つずつ伏せて出し、出貝の外側の地模様をよく見て、それによく似た対の相手を地貝の中から探し出して、一対に出貝と合わせます。このようにして、より多く取った者を勝ちとします。また、合わせ方にはいろいろと儀礼的な作法がきめられてたらしいのですが、詳しい事は解りません。
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室町時代の女子教訓書である『めのとのさうし』や『身のかたみ』にも貝覆いの記述があるらしいが、読んでいないので詳しいことはわからない。また、「二見の浦」の江戸時代の遊戯法とそれ以前、鎌倉時代や室町時代の遊技法が同じであったのかどうかも現在では解りません。
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『日本遊戯史』(酒井 欣 1942 年成立)
「その儀礼の荘重さは他の物合中の白眉と称するも過言でない。まづ遊戯を行ふに先立ち、奉幣使を加茂、住吉、八幡の諸社に差遺し、神楽寄進、神主誦経の次第あり、次いで伊勢の海になぞらへ貝風流(ふりゅう)の作物を座中に並べる。こは伊勢の海の耳白の大蛤を上々として賞美したるに因る」とあり遊び方は「貝は同一の物を識別するため、和歌などを描いたもので、総数三百六十箇。これを平均に分配し、地貝と称して一個づつ出し合ひ、口を外に耳を内として円形に並べ、中央に空所を設ける。この空間を口といふ。此の空所へ別の貝を出す。これを出し貝といひ、この出し貝と地貝と相合ふものを数多く取りたる者を勝とするのである」とあり、ほぼ「二見の浦」と同じような遊技方法である。
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『嬉遊笑覧』(喜多村 信節 1830 年成立)巻四下「雑伎」の章に、貝覆(歌貝・絵貝・文字札・貝合・貝尽・やくかひ)の項目が見えるが、読んでいないので解りません。
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