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 貝覆いの遊びは、貝覆い(かひおおひ)の呼び方より、貝合せの呼び方の方が一般的に知られています。
 本来、貝合せとは、珍しい貝を出し合い、歌を添たりして、その優劣を競い合う「物合わせ」の一種であり、貝覆いとは違う遊びです。しかし、鎌倉時代には、両者は混同されて呼ばれていたようです(私も通常は貝合せと呼んでいます)。
 説明的ではありますが、あえてこのサイトでは、貝覆いの遊びを「貝覆い」、貝覆いに使う貝を「貝覆い貝」と区別して呼ばせていただきます。貝覆い貝は私の造語です。

 貝覆いは、貝の外側の地模様を見て一対のものを合わせる遊びですので、普通の二枚貝があれば遊べたはずです。『二見の浦』に、「何れも絵は、たゞ貝のかざりに用る也、貝おほふ時、此絵を見合するにはあらず」とあり、遊ぶ為には内側の絵は必要有りませんでした。
 ただ、二枚の貝を合わせて、合った、合わないと遊んでいた時には、内側に絵が描いて有ろうが無かろうが、関係が無かったのかも知れません。

 しかし、時代が上がると、貝覆い貝には、装飾として貝の内側に出貝と地貝とを一対として源氏絵や花鳥草木などが極彩色で描かれるようになり、貝を入れる貝桶も豪華なものが作られてゆきました。江戸時代になり、貝覆いの道具は調度品として贈答にもちいられるようになり、蛤は同一の貝しか二枚があわないため、和合と、婦女の一夫一婦の貞節の象徴となり、嫁入り道具にもなりました。後には、貝覆いの貝は雛の調度にも加えられることになりました。貝覆いの道具は大名婚礼調度のもっとも重要な道具とされ、現在は博物館などでその姿を見ることが出来ます。



 室町時代以前の貝覆いの遊技方法は現在には伝えられていません。平安末期から室町時代まで京都は何度も戦災にあいました。おおかたは焼かれ、貴族の生活もたいへんだったでしょう。仏教関係を除く美術品の伝来品が極端に少ないのもそのせいだと思われます。形の有る物でさえそんな状況ですので、行事、風俗、習慣など残りにくい物は姿を消していったに違い有りません。伝統的な公家装束でさえ室町時代にはあやふやだったそうです。
 現在伝えられる貝覆いの遊技方法の形式が整ったのは桃山時代頃で、全国に流布したのは江戸時代の元禄頃と思われます。以下、遊技方法の文献を並べますが、私は読んでいない物が多く、興味のある方は参考にして下さい。
 いずれにせよ、普段はこんな堅苦しい物では無く、良家の子女が手遊びにトランプの神経衰弱のように気軽に遊んでいたような気がします。

『二見の浦』(伊勢 貞丈 1773 年成立)に述べられている遊び方。
 通常360対の蛤を左右の貝片、地貝と出貝に分けてそれぞれの貝桶に納めます。地貝桶から場に地貝を同心円状に伏せて並べます。その後、場の中央に出貝を一つずつ伏せて出し、出貝の外側の地模様をよく見て、それによく似た対の相手を地貝の中から探し出して、一対に出貝と合わせます。このようにして、より多く取った者を勝ちとします。また、合わせ方にはいろいろと儀礼的な作法がきめられてたらしいのですが、詳しい事は解りません。

 室町時代の女子教訓書である『めのとのさうし』や『身のかたみ』にも貝覆いの記述があるらしいが、読んでいないので詳しいことはわからない。また、「二見の浦」の江戸時代の遊戯法とそれ以前、鎌倉時代や室町時代の遊技法が同じであったのかどうかも現在では解りません。

『日本遊戯史』(酒井 欣 1942 年成立)
「その儀礼の荘重さは他の物合中の白眉と称するも過言でない。まづ遊戯を行ふに先立ち、奉幣使を加茂、住吉、八幡の諸社に差遺し、神楽寄進、神主誦経の次第あり、次いで伊勢の海になぞらへ貝風流(ふりゅう)の作物を座中に並べる。こは伊勢の海の耳白の大蛤を上々として賞美したるに因る」とあり遊び方は「貝は同一の物を識別するため、和歌などを描いたもので、総数三百六十箇。これを平均に分配し、地貝と称して一個づつ出し合ひ、口を外に耳を内として円形に並べ、中央に空所を設ける。この空間を口といふ。此の空所へ別の貝を出す。これを出し貝といひ、この出し貝と地貝と相合ふものを数多く取りたる者を勝とするのである」とあり、ほぼ「二見の浦」と同じような遊技方法である。

『嬉遊笑覧』(喜多村 信節 1830 年成立)巻四下「雑伎」の章に、貝覆(歌貝・絵貝・文字札・貝合・貝尽・やくかひ)の項目が見えるが、読んでいないので解りません。



大蛤はどこへ?

 私の使っている蛤は鹿島灘の朝鮮蛤です。大型の蛤が入手しづらく、関東では手に入れやすいのが最大のメリットです。蛤には内湾産と外洋産があり、朝鮮蛤は後者になります。良く、貝覆い貝には内湾産の桑名の蛤が最良と聞きますが、関東では8cm前後以上の大きさのを私は見た事がありません。桑名の大蛤は何処へ行ってしまったんでしょうか?
 『嬉遊笑覧』に黒川道祐(元禄四年、一六九一年没)の山城国の地誌『雍州府志』が引用されていて、大蛤は「はじめ伊勢桑名より出でしが、いま大なるは絶ゆ。ゆゑに多く朝鮮の貝を用ゆ」とあります。食用か、貝覆い、貝合せの盛行かは解りませんが、この頃から桑名の大蛤は取りつくされて少なくなっていたのでしょうか。
 また、ここで言う「朝鮮の貝」は、輸入の貝か国産の朝鮮蛤かは解りません。出典は忘れましたが、古い文献に、貝覆いの貝には朝鮮蛤を使うと記憶しています。

蛤の学名

 蛤の学名は、メレトリックス・ルソリア(Meretrix lusoria)と言います。「Meretrix」は遊女のことで、「lusoria」は、ゲームをしているという意味です。
 なぜこんな名前がついたかと言うと、学名に由来した蛤がコペンハーゲン動物学博物館に保存されているそうで、それが貝覆い貝なのです。見た事は有りませんが、内側に公卿が三人描かれていて、明らかに貝覆いに使われた物と思われます。それをLamarckにより、貝覆い貝を遊女が遊ぶものと解釈され、1779年(1801年?)に蛤の学名として命名されました。
 一時(1798年)、(Meretrix lusoria)ではなく、Roedingによって(Venus lusoria)と呼ばれていた時もあったそうですが、二枚貝を一般的に「Venus」と呼んだ時期が有り、そう呼ばれていたらしいですが、現在の学名は(Meretrix lusoria)です。
 私の気持ちとして、遊女の遊び道具はひどいでしょう、せめてビーナスと言ってほしいと思います。当時のヨーロッパの人は、良家の子女の婚礼道具とは思えなかったのでしょう。
 いずれにせよ蛤の学名が貝覆い貝から名付けられたと言う事はちょっと嬉しい気がします。




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