*三十七番札所から再開します。

4月11日(第20日)


今朝は、とてもすばらしい天気です。一日遅れたことが結果的に低気圧とすれ違いこの天気になったのでしょう。三十七番札所岩本寺へ行き、弘法大師の像にお参りをして三十八番札所金剛福寺へ向かいます。

 今日の寝床を地図で調べていたら、金剛福寺まで90kmあるのです。これでは、2日で行ける距離ではありません。中2泊の行程で、今日は30km歩こうと心で準備して歩き始めました。



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弘法大師さんまたよろしくお願いします。   岩本寺本堂の天井絵(全国の希望者から)


 窪川は、四万十川の源流地帯の高原です。その高原から太平洋の黒潮へ向かって、いくつかの峠を越しながら徐々に下って行くのです。途中、何処にでもあるような自然の風景の国道を歩きます。ちょっと違うのは、どうも新緑というものがありません。たぶんこの辺りは、常緑樹の山々なのでしょう。新芽がちょっと赤みがかっていて、花粉が飛んで来そうな感じを受けました。10kmほど歩いて、酒店でパンを買い、山の水だというホースの水をペットボトルにもらい話しをしました。私が神奈川県からだというと、息子が横浜にいて5年になるけど一度も帰って来ないと言っていました。この自然の中ではどうしても仕事がなく、若い人は仕事のある都会へ行ってしまうのだそうです。


さらに10km歩き、佐賀町という漁港に到着しました。太平洋の海は青く静かで、雲一つない水色の空が見渡せる海岸沿いの国道を歩きます。雨でなくて本当に良かったと思いながら休憩をとって休みます。いくつかの岬を回り、大きな岬の手前で海から離れ、トンネルをくぐると海に沿ってつながる漁港の町々に入りました。この町では陸側にそれほど大きくない田畑があり、既に田植えがほぼ終わろうとしていました。トンネルを出てから約1時間ほど歩いて民宿「海坊主」という海岸に面した宿に泊まります。窓の外が一面、空を海だけという部屋でとてもきれいな布団が用意してあり、食事と入浴をしてぐっすりと寝てしまいました。




   

三十七番札所岩本寺・・・30km民宿「海坊主」



4月12日(第21日)

 今日は、海岸沿いの港町をいくつか通過して歩きます。もうすでに学校が始まり、小学生や、自転車に乗りヘルメットをした中学生が行き交います。みな、すれ違うときや、追い越すときに「おはようございます」と挨拶をしてくれます。おへんろの姿を見たらそうするのだという習慣があるのでしょう。とても清々しい気持ちになります。海岸は大きな砂浜になり、そのそばに遊歩道がありそこを進みます。サイクリングロードと違ってとても歩き易く、変化に富んだ眺めは最高です。

 ここから先は、四万十川下流の中村市に入っていき、コースがいくつかに分かれます。海側を通って四万十川の渡し舟に乗るコースと国道を通って四万十川に出て川岸を歩くコースです。地元の人が、渡し舟は2時間に一回だし、国道の方が距離が短いというアドバイスで、国道を歩くことにしました。そして、大きな土手にぶつかり、四万十川に出たのです。水が澄んでいるというのではないのですが、とてもきれいな色をしています。報道番組で取り上げられるだけのことはあるなあと感心しながら、左岸と大橋と右岸をあわせて10kmほど歩きました。

 川を離れ、また峠を越します。大きなトンネルを通ると土佐清水市に入ります。山間部の国道を南下するとまた海岸へ出ます。その少し手前あと足摺岬まで30kmという地点で、大阪から来たという青年と会いました。彼もやっぱり銀色のマットを持っていました。聞くとここまで12日間で来たという健脚でした。適当なところで寝袋で寝ているとツワモノで、今日も適当だと言います。私があと5kmほど先の民宿「安宿」か、その近くのバス待合室に泊まる予定だというと先に行って様子を見ていてくれました。結局二人で、国道に面して駐車場のある郵便局の入り口で寝る事にしました。夜9時過ぎに郵便局の職員の女性がびっくりして、おへんろさんと解ると、バナナとお賽銭をお接待ですと渡してくれました。郵便局の国旗が風でパタパタ音がする下で寝ました。

 おへんろに復帰してすぐ90kmの行程なので、歩くことに専念しすぎてこのホームページに手が付きませんでした。キャリーにしたことは全くの正解で、足の裏への負担は全くといっていいほど無くなりました。2日で63kmほど歩いたのですが、疲労はありますが豆が出来ることも無く、肩の筋肉も痛むことは無くなりました。そして、一日目より二日目の方が順調に歩けたのでこれから先もなんとかなるでしょう。

民宿「海坊主」・・・33km「下の加江郵便局」



4月13日(第22日)

 夜中に風が強くて何度か眼をさまし、5時ごろから出発の準備を始め歩き始めました。朝日がとてもきれいな海岸に出て歩きます。海岸沿いの国道を歩くと大岐海岸というとてもきれいな海岸に出ました。その砂浜はへんろみちとして案内書にも載っています。

     

 今、土佐清水市の以布利漁港の漁業組合で電気を借りてこのホームページを転送しています。(足摺岬の根元のところです。)



 とてもりっぱな漁業組合の施設をあとにして、足摺岬を目指します。もう残り15kmほどで、余裕すらありました。海の色はエメラルドグリーンそのものです。日差しはもう初夏の陽気で歩いているだけで汗が出てきます。山々の木々は様々な色の新芽をふいていて関東の新緑しか知らない私にとってはとても新鮮でした。岬に近づくにつれて、道が狭くなったり広くなったり変な道です。車は有料道路のスカイラインを通るようです。




    


半島の村は静かですが生活のにおいはします。みな防風林のような植栽で周りが囲まれた家々です。


 もうここは亜熱帯です。植物園もガラス張りではなく、自然の亜熱帯植物園があるのです。複雑な形をした常緑樹ばかり目に付きます。うばめがしなど備長炭の材料も沢山あります。備長炭を入れてご飯を炊くことが流行っていますが、あっという間にうばめがしが無くなってしまうのではないかと心配になりました。

  三十八番札所の金剛福寺は、とても明るくて広々したお寺ですが、真新しい建物が多く、多分台風で何度も建て直しを余儀なくされているのでしょう、しかたありません。四国のお寺は空海の時代のものは殆んど残っていないのです。何度もの火災や戦国時代の戦火、明治維新の神仏分離や、廃仏毀釈で廃寺になったりと時代にほんろうされながらたくましく復活しているのです。ですから、国宝級のお宝や建物はありませんが、支えている人々の気持ちが伝わってくるものばかりです。以前から来て見たかった足摺岬に、こんな形で来るとは夢にも思いませんでしたが、海や灯台・山の樹木の形とそれぞれに感激しています。




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 明日からは、高知県最後のお寺三十九番札所延光寺を目指します。へんろみちはとても複雑で複数あります。昨日泊まった郵便局のある街まで打ち戻すコースが最短で56km、宿毛市経由で大回りすると75kmと大きく異なります。どの道を選ぶかは明日の天気次第で今日はゆっくりとお刺身を食べて休むことにします。


「下の加江郵便局」・・・・三十八番札所金剛福寺




4月14日(第23日)

 昨日の晩飯はやっぱり「かつおのたたき」と「かつおとはまちの刺身」でした。そばの港で取れたばかりのものでした。朝とにかく土佐清水漁港まで歩こうと7時半には出発しました。黒潮の海を左に見ながら15kmほど歩きます。もう充分”黒潮の海”を堪能した気分になり、竜串・宿毛市経由の最大距離は止めることにしました。足摺岬の根元で右に折れ、昨日通った以布利港方面に向かい峠を越します。12日の夜に出会った青年と写真を取った綺麗な海岸に出ました。(結局三十八番札所から64kmのコースを選んだのです。)



     

土佐清水の漁港は大きな港町でした。        昨日の砂浜をキャリーを引いて歩くのも大変です。


 今日一日で30km歩き、「下の加江」の町に着きました。一昨日郵便局の前で寝た町です。郵便局の手前300mくらいの所に三叉路があり商店がありました。そこに「39番札所延光寺・左折33.5km」と書いた看板が眼に入りました。未だ5時なので、そこの店の前で休んでから39番札所を目指して歩き始めました。2kmほど行くと田園風景から離れ山の中に入って行きます。これは完全な野宿になる可能性が高い状態です。地図をみても途中に神社しかありません。どうにかなるだろうとたかをくくって歩いています。


 どうも、先を急いでいるようです。明日には39番札所はもちろんのこと高知を出る一歩手前の宿毛市へ入りたいと思っているのです。そこまで約40km、ほとんど無理な距離なので少しでも稼いでおこうとしているのです。まだまだ修行が足りません。「これは、いそぐ旅ではないのだ」と自分に言い聞かせても足が進みます。そうして1.5kmほど歩いたら突然山の中の橋梁工事の現場に行き当たりました。ここが寝床だと、作業所の階段を上がり、現場監督に話をして了解をもらいました。住友建設さんの作業所でした。

民宿「福田」・・・33.5km住友建設作業所



4月15日(第24日)

 目が覚めたら雨の音がしているのです、それもかなり降っている音でした。この作業所に泊まれて幸運でした。さっそく、雨対策をした荷造りです。準備を始めて1時間、6時半には完了し、他のドアは鍵がかっているのでメモを残して出発しました。たいして険しくない山々に挟まれた川に沿って奥へ奥へと登っ行くのです。どこにでもある山の林道です。



 途中で、神社や、村落がありました。小さな集落みたいです、その一つに付属で付いているような墓地に「大塚家の墓」という文字が見えました。大塚誰々というお墓も並んでいます。もっと歩くと「大塚酒店」というのがあり、そこで聞いてみました。するとこの三原村には結構大塚姓がいるとのことでした。さきほどのお墓の場所にも同級生がいるとの事でした。そうして歩いていると八幡宮があり、そこの表示板に大きく「下長谷城址」と書いてあり、「1574年、大塚八木右衛門の居城で・・・・」なにやら400年前、大塚一族がここで栄えていたらしいことが分りすっかり気分が良くなりました。

 高知市で購入したキャリーの効果は絶大です。肩と足の裏への垂直荷重は自分の体重だけになり、水平に引っ張る筋肉だけが働くのです。それらの筋肉は立ち止まるだけで回復します。雨も昼ごらからは小雨になり、三十九番札所延光寺には午後3時ごろ到着してしまいました。


 延光寺は、木々に囲われた静かなお寺です。弘法大師の井戸があり、眼に効くということで私も目を洗いました。いつまでも、メガネなしでノートパソコンが使用出来るようにと。

      

         竜宮城から鐘を運んできたという赤い亀から、赤亀山延光寺という名前だそうです。


 これで高知県のお寺はすべて終わりました。宿毛市街地にもあと2時間掛からずに到着するでしょう。1日で37km、これで充分だと思いながら延光寺を出発しました。出て1km、農作業をしている人に挨拶をしたらいろいろ話かけられ、野宿なら国道のバイパスの橋の下がきれいだから泊まれると教えてくれました。宿毛市街に近づき寝床も確認して、町の中で夕食をとろうとぶらぶらしました。この町は大きいのか小さいのか良く分りません、きっと人口密度が低く雑然と町が出来たような感じです。中心街など見当たらず、あまり活気があるという訳でもありませんでした。


 市役所・郵便局がある場所へ行ってみました。その近くでふと「バイキング”菜の花”」という看板を見つけ、バイキングなら腹一杯食べられるだろうなと思い店に入りました。店のおかみさんは、おへんろさんが来たということで歓待してくれました。どうも、おかみさんは昨日延光寺さんにおまいりに行き、そばのへんくつやという民宿で”わらじ”を売るのをお手伝いしてきた事と、今日おへんろの私が来たことを重ねて、お大師様を連想している様でした。結局、家族そろって歓待してくれて家に泊まることなり、明日は仕事を手伝うことにも発展して、まるっきり”とらさん”みたくなってしまいました。

住友建設作業所・・・三十九番札所延光寺・・・”菜の花”



4月16日・17日・18日(第25・26・27日)


 結局、バイキング”菜の花”の経営者の家に三日間滞在することになりました。元々”菜の花”は、奥さんが自宅で経営している仕出し・弁当屋さんです。宅配してくれて、安くてボリュームがあっておいしいと評判になり、一日100個からの注文があるのです。そして宿毛の市街地にバイキングの店を先月27日にオープンしたばかりでした。従業員も増やしてこれから頑張ろうというと矢先に板さんと意見が合わずにトラブッテいたのです。客のよろこぶものを安く提供するという経営者の意見と職人の専門料理とがぶつかって、弁当の従業員もこちらに回して四苦八苦していたのです。そして、昨日その板さんとまた意見が衝突したのを機に辞めてもらってしまったのです。

 とりあえず、いろいろな人たちの応援をかり、また若い従業員の人たちで料理を作りやっていく事にしたのです。そんなてんやわんやの中で、私の出来ることは車の運転と皿洗いと弁当の盛付けだけです。それでも助かるということで一日が三日になってしまいました。でも結果的には、夜ご主人と店の酒を飲むばかりでなにをしていたのか分りません。奥さんは私がパソコンを持っていたので、大塚さんは黄門様か、隠密か報道関係者かおへんろさんの姿をした偉い人かも知れないと冗談を云い、皆に云い触らしています。でも、肝っ玉奥さんの心意気はお大師様はお見通しです。私がいようといまいときっとうまく行くでしょう。この宿毛市に襲った不景気の風と”なにわの金融道?”の嵐を吹き飛ばして、おへんろさんがゆっくりと休める町にしてくれることでしょう。


     

登場人物は多彩で、キャラクターも複雑でまさに人情ものドラマそのもので、私にはどう表現してよいか解りません。(話せば長くなりすぎて・・


菜の花に三日間も逗留した。


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