*2000年3月11日(土)
     川崎の自宅から四国への途中下車の旅が始まった。


・長男の一樹(かずき)と次男の穣(みのる)に見送られて、自宅を出発する。これから先、彼らは二人で家を守って生活をしてくれるのだろうか?家の中がめちゃくちゃになってゴミタメのようにならないことを祈りつつ、我が家をあとにするのでした。



・携帯品は可能な限り減らしたつもりだけど、ノートパソコンなどが加わり約10Kgになってしまった。でも、今回購入したものは、おへんろの本・地図とパソコンと靴と薬の一部で、他は全て子供達とBS活動で使用した既存のものばかりでした。

 *2000年3月12日(日)
     名古屋で途中下車。裕(ゆたか)がお世話になっている杉浦様家族に会う。
 

・仕事をきちんとやり始めて1年半、原チャリから4輪へ、名古屋駅まで仕事の車で迎えに来てくれた。今は自分の車を購入することで頭が一杯のようだ。車で調子に乗ってスピードを出しすぎ事故を起こさないように、くれぐれも気をつけて運転するように・・・・。いくらいっても云い足りない。

*2000年3月13日(月)
    名古屋から大垣、米原で乗り換えの新快速に乗って大阪へ。
    

・川原さんに会った。5年前Windows95が発売された時にいち早くボーナスで購入して夢中になり、プライベートホームページをHtml言語を使って立上げ、Telネットなどで様々なサーバーへ飛んで行き、ビルゲイツの講演会まで聞いた先駆者です。その後大阪へ転勤になり、現在はモバイルに凝って電車の中から情報発信などを試みています。
これから先の展望などを聞いて楽しいひと時でした。

*2000年3月14日(火)
    大阪で暮した街は今どうなっているのだろうか?萱島と東三国へ行った。

・淀屋橋から京阪電鉄に乗り萱島駅で降りた。気のおもむくまま歩く。住所なんか憶えていない。途中で不安になり人に「この辺に銭湯はありませんか?」結局道に迷い30分以上歩くがたどりつかない。腹が減って昼食をとり、そこで再度銭湯を聞くともう一軒の銭湯を教えてくれた。そこへ行ったらびっくりした。壁式プレキャスト鉄筋コンクリート造4階建の独身寮が目の前に出現して、またたく間に土地感を取り戻した。これは当時全盛の松下電器の独身寮であり、大成プレハブの施工だ!すぐ近くにぼくの暮した文化住宅があるはずだった。当時新築だった文化住宅は30年を経て古びて残っていた。そして、カエルが鳴く田んぼや、間近に見える生駒山をみて間違いないことを確信した

・次に、東三国へ行った。駅のすぐそばだったはずだが見つからない。街は完全に変わっていた。高層マンションだらけだ。しかしその一角の屋上に物干し場のある建物をみつけて記憶を呼び戻した。ようく見ると玄関の脇にちいさな階段があり、複数の住人がいる様は一目瞭然だった。その階段を上ってみたら案の定自分が暮した部屋がそのままの状態で確認出来た。当時は新幹線と御堂筋線だけが際立ち、区画整理はされていたが未だ建物はなにも無かったのだ。

・堤さんと川上さんに会った。お二人ともコンピュータに関しては現役のばりばりの方々です。堤さんは、会社で使用しているCADソフトをVMSからNTマシンへ移行したシステム管理者であり、運用の当事者です。川上さんは地図情報の講演会を終えて会ってくれました。それぞれ、社外の集まりを主宰し活躍しています。お二人とは10年前にGDSユーザーコンファランスで英国ケンブリッジへ同行した思い出があります。


・不思議なことに、前日会った川原さんは四国出身で実家は第66番札所雲辺寺の檀家であり、川上さんの出身も金刀比羅宮のそばだとのことでした。どちらもおへんろさんのことには詳しく、これから出発する私を励ましてくれました。きっと・・・頑張ります。

 *2000年3月15日(水) 
     午前7:00 大阪駅前発ハイウエイバスで鳴門へ!!

 *大阪駅を出発して2時間、淡路島を通り抜け、複数のうず潮を眼下に眺めたらもう撫養(むや)へと到着した。そこは鳴門市であった。観光もせず、寝場所と装束の現状を把握するために撫養街道を西へ第一番札所霊山寺を目指す。ここでは距離と時間が全くリンクしない。約1時間に一本の電車と一日に何本というバス、一時間歩いて疲れ、40分待って電車で移動した。でも、駅のホームのベンチには座布団が敷いてありとても暖かい気分になった。寝場所としては、案内書通りの施設があった。しかし今日は寒いし出発前なので民宿へ。一番札所で参詣の人達をじっくり見て、白装束他を買い、明日を待つ。横浜市立大学の研究室で、「旅のいみ」についてというアンケート調査をしていた。ちゃんと返信用封筒を返却出来るのかな?

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