わたくし生まれも育ちも葛飾堀切です。堀切菖蒲園も江戸の広重の絵で有名ですが、柴又帝釈天や江戸川の桜並木、矢切の渡し、小さい頃に隅田川の渡し舟にも乗った記憶があります。旧水戸街道の新宿(にいじゅく)という宿場町は陸蒸気を拒否して金町という駅が発達したり、曳舟川は2本の水路でものを運搬したり、”七重八重、花は・・”の太田道灌のお花の茶屋も葛飾区にあります。その葛飾堀切で社会人になり転勤で大阪へ行くまで暮しました。

台風で大水となり小学校が避難所になった時、大きな木で筏を作り遠くまで出掛け冒険をして、水が無くなったときに筏の始末に困ったことを思い出します。

*家のすぐそばの商店街は、今でも昔のままの店が並んでいます。きっと親の代から引継いだ人達が頑張っているのでしょう。テレビ・洗濯機・冷蔵庫などの電化製品が出回って家でも購入したが、いつも冷蔵庫は空っぽというくらい便利な街でした。菖蒲園も区立公園になり、入場無料で花の見頃には沢山の人が訪ねるようです。

  


*28年前初めて家から離れて暮した街、それが大阪の萱島だった。まずびっくりしたのが、漫才を聞いているような大阪弁と近くに山が見える生活だった。文化住宅という建物に二人一組で住まわされ、たんぼのカエルの大きな鳴き声を聞きながら銭湯に出掛けた。松下電器が寝屋川に工場を作り、街は昔の街から文化住宅の街に変貌した。その文化住宅という言葉は現在あるのだろうか?




*御堂筋線の東三国、多摩ニュータウンより早く開発された千里ニュータウンを梅田に結ぶ架線のないユニークな電車の止まる駅、新大阪にも近く、新幹線が岡山・広島・福岡へ延長される時代の街でした。





トップページヘ  >>>次は、東京・石川町(洗足池のそば) です。