堤中納言物語
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『堤中納言物語』に「貝合せ」の話しがあるが、それは「物合せ」の一種の貝合せの遊びである。また、平安時代末期の応保三年(1163 年)、二条后藤原詮子が高倉殿で貝覆いを催されたと『袋草紙』『山塊記』にあるのを最も古い事例とする書物もあるが、原典を読んでいないのでなんとも言えません。
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山家集
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『山家集』( 西行1190 年頃成立)に貝合せに関する歌が有ります。
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1189
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内に、貝合せんとせさせ給ひけるに、人に代りて
風立たで 波ををさむる うらうらに 小貝を群れて 拾ふなりけり
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1190
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難波潟 潮干ば群れて 出でたたん 白洲の崎の 小貝拾ひに
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1191
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風吹けば 花咲く波の 折るたびに 桜貝寄る 三島江の浦
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1192
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波洗ふ 衣のうらの 袖貝を みぎはに風の たたみ置くかな
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1193
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波かくる 吹上の浜の 簾貝 風もぞおろす いそぎ拾はん
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1194
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潮染むる ますほの小貝 拾ふとて 色の浜とは 言ふにやあるらん
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1195
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波臥する 竹の泊りの 雀貝 うれしきよにも 遭ひにけるかな
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1196
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波寄する 白良の浜の 烏貝 拾ひやすくも 思ほゆるかな
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1197
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かひありな 君がみ袖に おほわれて 心に合はぬ ことも無き世は
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以上、九首は確実に貝合せについて歌った物と思われますが、
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1386
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伊勢の二見の浦に、さるやうなる女の童どもの集まりて、わざとのこととおぼしく、蛤をとり集めけるを、いふ甲斐なき海士人こそあらめ、うたてきことなりと申しければ、貝合に京より人の申させ給ひたれば、選りつつ採るなりと申しけるに
今ぞ知る 二見の浦の 蛤を 貝合とて おほふなりけり
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これは貝覆いの事を歌った様にも読めなくも有りません。和歌の事は詳しく無いのでなんとも言えませんが、この頃より呼び方が混同されていたような気がします。
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二枚の貝を合わせて、遊んでいた時には、内側に絵が描いて有ろうが無かろうが、問題はありません。貝の内側にいつ頃から絵が描かれていたかは解りません。前述の『古今著聞集』以前にも当然絵は描かれていたはずです。今、その時代の貝覆い貝が残っていないので、何が描かれていたかははっきりしません。
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現在、もっとも古い品で、安土桃山の物が残っているそうですが、実見していません。土佐派などの絵師に依頼して制作されていたに違いありません。江戸時代に入り、貝桶は婚礼調度として最も重要とされ、需要も一気に増えたはずです。俵屋に代表される「絵屋」がその制作にあたりました。もちろん土佐派、住吉派、狩野派、円山派なども制作にあたったことでしょう。現存する作品も多くなります。
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江戸時代に盛んに制作されてゆきますが、明治、大正、昭和と段々と制作されなくなってゆきます。現在では360組全て揃えて、嫁に出すなんて思いも付かない事になってしまいました。
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現存する物で最も素晴らしいのが、岡山、林原美術館所蔵の綾杉地獅子牡丹蒔絵貝桶の内容物ではないでしょうか。千姫の娘、勝姫が池田光政に嫁いだ時の婚礼調度です。その緻密な作業は、寛永期の大名の経済力のものすごさを感じます。また、内容物がすべて揃っています。保管、管理し、伝来してきた名もない人に感謝しなくてはいけないと思います。
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その他、各美術館でひな祭りの季節が近付くと展示される事が多くなります。それを手にとって開き、のぞき見る事は出来ませんが、足を運ばれるのも楽しいと思います。
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余談ですが、この制作を始めて、つくづく感じるのは、私を含め、私たちが大切な自分達の文化を何処かで捨てた事です。貝覆い貝の図柄は、「源氏物語」や「伊勢物語」に取材する物が多いのですが、その図柄が解りません。昔の姫様たちは「胡蝶はどこかしら」「梓弓が揃ったわ」と遊んでいたに違いありません。解らない図柄もあったでしょうが、古典に精通していたはずです。そんな時代じゃない事は分かっていますが、埃の中から谷崎源氏を引っぱりでして読み返しています。
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