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駿府城址 |
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2004年夏、所用で初めて静岡市を訪れました。泊まったビジネスホテルの近くに駿府城址があるのを知り、仕事が終わった後、さっそく行ってみました。
大御所徳川家康の隠居城だったので知られる駿府城は、家康没後の1635年に火災が発生し、天守閣、本丸御殿などが焼失しました。平成になってから、「巽櫓(たつみやぐら)」と「東御門」が寛永年間の様式で復元されたということです。 近寄ってみると、城楼はしっかりとした石垣の上に建てられており、その下には幅広い立派なお堀がめぐらされていました。 |
そのお堀に沿って遊歩道があり、そこに「東海道中膝栗毛」の弥次さん喜多さんの銅像が立っていました。滑稽本「東海道中膝栗毛」の作者十返舎一九は、府中(現在の静岡市)で下級武士の子として生まれたそうです。
「東海道中膝栗毛」では、江戸神田の町人弥次郎兵衛は、食客喜多八をつれて当時盛んだった伊勢参りのために上方に旅立ちました。その途中で、この府中(現在の静岡市)に宿泊したという設定になっているということです。
この滑稽本は思いもかけずに空前の大ヒットとなり、パート2がつくられたそうです。 |

東御門は、駿府城二之丸の東に位置する主要な出入り口でした。東御門は二之丸堀に面しており、東御門橋と呼ばれる橋で城外と接続されています。
東御門門の両側のしっくい塀には鉄砲を撃ちかけるための狭間が設けられており、戦国時代が終わって間もない徳川初期の緊張感が感じられる造りとなっています。
現在では、本丸を囲む堀は埋められて駿府公園の一部となっています。二之丸堀は、築城当時のまま完全に残っているそうです。 |

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駿府城ニノ丸の巽の方角すなわち東南角には高い櫓(やぐら)が設けられ、巽櫓とよばれていました。 この櫓は幕末の地震により崩壊しましたが、平成になってから再建されました。
櫓は、戦のときは敵の観察、射撃の拠点として使用され、武器の保管場所という役割もあったそうです。
この復元された巽櫓についている南門が、現在は駿府城址公園に入る正門となっています(左の写真)。 復元された巽櫓の二階は、駿府城の資料館になっています。 |
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平成13年に、ニノ丸址の一部に日本式回遊庭園「紅葉山」が完成しました。
かつて駿府城の本丸には紅葉山という名前の庭園があったということで、その名をとって命名されました。
庭園「紅葉山」は、駿河の国の名勝にちなんだ四つの庭から構成されています。 初夏のシーズンには庭池の花しょうぶがみごとです。花しょうぶを楽しみながら庭池に設けられた八つ橋をわたり、涼しい四阿(あずまや)で一休みしました。 池のむこうには、数寄屋造りの本格的な茶室もあります。 |
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庭園「紅葉山」には、芝で覆われた大きな円錐形の築山があります(左の写真)。
これは、静岡のシンボル富士山をかたどったものだそうです。
築山の下には石がたくさん置かれている場所がありますが、これは富士山の近くを流れる安倍川の流れを表し、その上にあるサツキの植え込みは、静岡名産の茶の畑に見立てたものだそうです。
築山の中腹から細い散策路が伸びており、庭池を眼下に見ながらその散策路を歩いていくと、奥に涼しいしぶきを上げる滝が見えてきます。 |
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駿府城二の丸址は現在は大きな広場になっており、さまざまなイベントやスポーツに利用しているようです。
そこを横切って本丸址に行くと、徳川家康公の大きな銅像がありました。家康公は鷹狩を好んだそうですが、その鷹を腕にとまらせてあたりを睥睨している像です。
ここにはもと今川氏の城があり、家康公はそこで19歳になるまでの12年もの間、人質生活を過ごしました。やがて天下統一後、家康公は将軍職を退いてここに隠居することを決め、直ちに大改築を行って壮麗なつくりにしたそうです。 |
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上記の銅像の近くには、大御所が紀州藩から献上された鉢植えのミカンを本丸に移植したものと伝えられる大きなみかんの樹があります。 この樹が、静岡地方のみかんのルーツではないかと考えられているそうです。
家康公は、元和2年(1616年)に献上品の油で揚げた鯛のてんぷらにあたって亡くなりました。享年75歳でした。家康公は、有名な「人の一生は重荷を負て遠き道を行くが如し」の遺訓を残しましたが、徳川家18代当主徳川恒孝氏の書によるこの遺訓の碑が本丸址に建てられていました。 |
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