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 一時、東京文京区御茶ノ水の近くで仕事をしたことがありますが、そのとき春日局の墓がその近くにあるのを知りました。仕事の場所から歩いてゆける距離だったので、仕事の合間を見てカメラを持ってそこを訪れました。

春日局

 春日局(かすがのつぼね)は、江戸時代はじめに三代将軍家光の乳母に任命され、その後江戸城で大奥の制度を確立した女性です。1989年のNHK大河ドラマで 《春日局》 が放映されたので、ご存知の方も多いでしょう。

幼名は福といい、父は織田信長を本能寺で殺した明智光秀の重臣斎藤内蔵助利三でした。その後福は苦難の人生をたどりましたが、その苦労と生来の利発さが認められ、二代将軍秀忠の長男家光の乳母に抜擢されました。秀忠の後継者として家光と次男家忠が争ったとき、福は家光を将軍にしてくださるようにと大御所家康に直訴したといわれます。

大奥とは、江戸城における将軍の私邸を意味しています。将軍家光の権威をバックに大奥の実権を握った福は、京都御所の制度を手本にして大奥の制度・儀礼を次第に整備確立してゆきました。

1629年、50歳のとき、福は京都御所に参内し、春日局の院号を賜りました。

麟祥院
天澤寺

 1624年、春日局45歳のときに、その隠居所として報恩山天澤寺というお寺が創建されました(左の写真)。

場所は、文京区東大赤門から御徒町のほうに向かう春日通りの北側、東大病院の東側になります。なお、春日通りとは、春日局に由来する名称です。
このあたり、湯島の奥は幸いにも戦災を免れ、江戸時代初期の禅寺の姿が現在にいたるまで保存されています。

天澤寺は、 周囲にからたちの生垣があったことから「からたち寺」とも呼ばれました。

麟祥院客殿
麟祥院客殿

 春日局は、大奥を辞した後この寺に隠居し、1643年に65歳で亡くなりました。
天澤寺はそのまま春日局の菩提寺になり、春日局の法名にちなんで天沢山麟祥院(りんしょういん)と改名されました。

麟祥院の山号は天沢山、宗派は臨済宗妙心寺派です。臨済宗妙心寺派の大本山京都妙心寺にも麟祥院という塔頭が徳川三代将軍家光によって春日局の菩提所として建てられているということです。

東京の麟祥院の山門(上の写真)から境内に入ると、前に大きなお堂が建っています。

このお堂は客殿と呼ばれるもので、比較的新しく鉄筋コンクリート造で建てられたということです。客殿というお堂は、昔から禅寺には設けられることが多いそうです。信者や檀徒の皆さんの集会所になっているのでしょうか。

麟祥院本堂

 庭園風の造りになっている境内を少し歩いて行くと、銅葺き屋根の鐘楼が見えました。だいぶ時代が付いた梵鐘が吊り下がっています(下左の写真)。
私の家の近くに曹洞宗の古刹豪徳寺がありますが、そこの鐘楼とよく似た造りです。

その近くに小さな門があって、その周りには板塀が回らされてありました(下右の写真)。門は閉まっていて中には入れませんでしたが、板塀越しにのぞくと大きな古いお堂がありました。これが麟祥院の本堂のようで、春日局はここで晩年を過ごしたのでしょう。

大赤道儀室 屈折望遠鏡

春日局の墓

 麟祥院の境内に「春日局の墓はこちら」という案内板がありました。それをたどって行くと、墓地の奥に石の柵にかこまれた大きな墓がありました(下左の写真)。

墓の正面に立つと、やはり石造りの門扉があり、その左側には徳川家の三つ葉葵の紋章がついていました。門扉の右側には横三本の紋章がありましたが、これは福が三代将軍家光の乳母になる前に嫁いで三子を成した稲葉家の家紋だそうです。

天文歴史館 天文歴史館

 春日局の墓石は、上の写真に見られるように無縫塔と呼ばれる上部が少し太い円柱状のものです。無縫塔は、当初は禅宗高僧の墓の形式でしたが、近世以降は僧侶以外の一般人の墓にも使われるようになりました。

その無縫塔の上部と塔の下の基部には、四方に貫通した穴が設けられていました。これは、春日局の「死後も黄泉(よみ)の国から天下の政道を見通せるようにしたい」という遺言によるものだそうです。

辞世の和歌

 父が処刑されるという苦難のうちに人生のスタートを切った福は、やがて20歳代半ばで二代将軍秀忠の長男家光の乳母に抜擢されました。
その後、福の献身的な努力もあって家光が三代将軍に就任すると、以降は家光の支援を受けて大奥の制度・儀礼の整備確立に当たり、家光の生母江が亡くなった後は大奥の実権を一手に握ることになりました。
福は、さらに50歳のときには朝廷から春日局の院号を賜るという将軍乳母としては異例の栄誉に浴しました。

前記のように、春日局は晩年には大奥を辞してこの禅寺に隠居し、1643年に65歳で亡くなりました。その少し前に詠んだものでしょうか、春日局の辞世の和歌が残っています。

    西に入る月を誘い
      法をへて今日ぞ
            火宅をのがれけるかな

上記のように、江戸幕府初期のころの体制安定につながる大きな業績をあげた春日局ですが、その陰でさまざまなご苦労があったことでしょう。この和歌中の「火宅をのがれける」という一節に、春日局の深い感慨がかいま見える思いがします。

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