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早雲寺入口
早雲寺入口

 北条氏五代の菩提寺として有名な箱根早雲寺は、箱根湯本の駅から歩いて10分ほどのところにあります。

箱根湯本駅を出て早川の渓谷にかかる橋を渡り、少し歩いて町役場のところから急な山道に入りました。
やがて広い街道に出て、それをしばらく歩くと早雲寺の前に出ました。左の写真は、早雲寺の山門です。

戦国時代初期の武将北條早雲は、16世紀はじめに伊豆・相模を制圧しました。
早雲は箱根・湯本の地を愛し、しばしば訪れたそうです。

早雲寺本堂
早雲寺本堂

 その早雲の遺言により、北条二代氏綱がこの地に早雲寺を創建しました。
早雲寺は臨済宗大徳寺派の禅寺で、最盛時には本堂のほかに十を超える塔頭があり、さらに僧侶の寮舎が多数建ち並んで、関東随一の大寺といわれたそうです。

箱根湯本の町は、もともと早雲寺の門前町として始まったとのことです。

四代氏政のとき豊臣秀吉の小田原攻めにあい、早雲寺の堂宇は焼き払われました。その後、江戸時代になって再建されましたが、現在では江戸時代に再建された本堂があるのみです(左の写真)。


早雲寺鐘楼
早雲寺の鐘楼

 山門の左側には鐘楼があり、大きな古い梵鐘がつるされています。早雲寺の創建当時からある鐘で、現在、県の重要文化財に指定されています。

豊臣秀吉が北條氏を攻めて小田原に押し寄せたとき、石垣山に有名な一夜城を造りましたが、その際この鐘は一夜城に持って行かれ陣鐘として使われたといわれます。

早雲寺境内には、秀吉が小田原攻めをしたときに使ったとされる井戸も残っているそうです。400年以上前から使われている井戸ということになります。

枯山水庭園
枯山水庭園

 本堂の前に戻って、左側から本堂の裏ににまわると、早雲の三男北条幻庵の作といわれる枯山水庭園があります。
幻庵は、戦国時代初期を代表する文化人といわれる人です。

この庭園は、山の斜面に大きな岩を配した造りで、鎌倉・室町期の禅寺の庭園様式を取り入れたものとされます。

このあたりの裏山には、天然記念物のヒメハルゼミというのがいるそうです。しかし、裏山では方々でセミが鳴いており、どれがヒメハルゼミの声がなのかまったくわかりませんでした。

裏山にのぼる石段
裏山の石段

 枯山水庭園を見てから、本堂の左側にまわると、裏山にのぼる石段がありました。
その石段の下に「北条五代の墓」という案内板があったので、その墓所を拝観するために石段を登り始めました。
かなり急な石段をゆっくりのぼって行き、途中で右側を見ると、本堂裏にある北条幻庵作の枯山水庭園の全体像が見えました。

石段の左側に、東山時代の連歌師飯尾宗祇の墓がありました。宗祇は、15世紀後半から16世紀はじめにかけて活躍した連歌師で、連歌の世界に格調高い文学性、芸術性を導入したことで知られます。

宗祇の墓
連歌師宗祇の墓

 生涯旅に明け暮れた宗祇は、82歳のとき旅先の現在の富士裾野市で亡くなりました。その後、宗祇の弟子たちにより、早雲寺にこの墓が造られたとのことです。

案内板の説明には、次の宗祇の代表句が記載されていました。
  世にふるも
      更に時雨の
          宿りかな
「世にふる」は、自分が高齢になったというのと雨が降るとをかけているのでしょうか。高齢での道中のつらさを詠んだ句でしょう。

あとから調べると、早雲寺の山門を入ったあたりにこの句の句碑があったようです。方々あわただしく見て回っているうちに、撮影しそこなったようで、大変残念でした。

やはり漂泊の詩人であった松尾芭蕉は、生涯宗祇を敬慕したといわれます。あるとき芭蕉は、宗祇をしのぶために、自分で竹の骨に紙を貼り渋を塗って旅行用の笠を作りました。
「雨の侘笠」と名づけたその笠の内側に、芭蕉は
   世にふるは
       更に宗祇の
           やどり哉
と書き入れたとのことです。

北条五代の墓

 宗祇の墓からさらに裏山を登ると、薄暗い木立の中に北条氏五代の墓が並んでいるのが見えました。もっとも右にあるのが初代北條早雲の墓で、以下右より二代氏綱、三代氏康、四代氏政、五代氏直と続きます。

北条家は、秀吉の小田原攻めにより滅ぼされましたが、その家系は江戸時代を通じて存続し、この五代の墓は江戸時代初期に建てられたとのことです。いずれもそれほど大きくなく、またデザインも極めて質素です。

裏山を切り開いた小さな墓所で、北条五代は静かに永遠の眠りについていました。それぞれの墓の前に青竹の筒が2本立ててあり、それらを花立として百合や小菊の花が手向けられていました。

北条五代の墓

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