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 箱根・正眼寺(しょうげんじ)は、箱根湯本の町外れ、北条五代の菩提寺として有名な早雲寺から旧東海道箱根路を5分ほど西に歩いたところにあります。

正眼寺正面
正眼寺入口

 正眼寺は、早雲寺と同じく臨済宗の禅寺で、鎌倉時代に箱根の旅路の安全を祈った地蔵信仰から創建されたとされます。

当時の箱根路は、山道が険阻なうえに山賊などが出没して危険が多かったといわれます。箱根路の旅人たちは、昔からこのお寺に参拝して山路の安全を地蔵様に祈ってきたのでしょう。

正眼寺の本堂の建物は、明治37年頃(1904年)に建てられた実業家・今村繁三氏の別荘を昭和7(1932)年に移築したものだそうです。本堂、庫裏は有形文化財として国に登録されています。

正眼寺裏山
正眼寺裏山

 正眼寺の北側には早川の渓谷があり、そのさらに北側には湯本の温泉街が広がっています。南側には、写真のように南箱根の山々が連なっています。

交通の要衝である箱根の地は、幕末には西から攻めのぼった官軍と幕府軍との間の箱根戊辰戦争に巻き込まれました。

その戦争により、正眼寺も寛永年間からの歴史のあった本堂その他の堂宇を焼失しました。しかし、ご本尊その他の重要な仏像は、関係者の必死の努力でやっと無事持ち出されたということです。

槍突石
曽我槍突石

 歌舞伎で有名な曽我兄弟のあだ討ちは、鎌倉幕府ができたころ実際におこった事件がもとになっています。
源頼朝の家来であった工藤祐経によって親を殺された兄弟が、17年後に富士のすそ野での大巻狩にきていた祐経の宿舎に忍び込み、祐経を討って首尾よく親のあだ討ちを果たしたというストーリーです。

曽我兄弟は、この正眼寺で祈願をしてからあだ討ちに向い、みごとに宿願を成就しました。左の写真は、曽我兄弟があだ討ちのために毎日槍で突いて腕を鍛えたとされる「曽我兄弟の槍突石」です。

曽我堂
曽我堂

 本堂の裏山に、曽我兄弟を供養するために建てられた「曽我堂」がありました。お堂の中には、曾我兄弟化粧の地蔵像二体が安置されています。春・秋の彼岸には内部が公開され、地蔵像が見られるそうです。

これら二体のうち、弟の五郎像の胎内から鎌倉中期の銘のある印仏が発見されました。それによりこれら地蔵像の制作時期が判明し、現在は鎌倉期の木像の傑作として県指定重要文化財になっています。

お堂に賽銭を献じて、若い命を散らした曽我兄弟の冥福を祈りました。

湯本の眺望
湯本の眺望

 曽我堂は北向きの急斜面に建てられているので、北側を流れる早川の向こうの湯本の街が手に取るように眺望できます。
湯本の街のさらに向こうには、北箱根の連山がかすんで見えました。

曽我堂横の斜面に腰を下ろして、ペットボトルの冷たいお茶を飲みながら、しばらくゆっくりと箱根の山の景観を楽しみました。

昔の旅人たちは、眼下の早川に沿って旧東海道をここまで登ってきました。現在毎年恒例で行われている箱根駅伝と同じルートです。そして、ここから一段と急峻になる山路の安全をこの正眼寺で祈ったのでしょう。

巨大な地蔵像
巨大な地蔵像

 当寺はもともと湯本の地蔵堂から発祥したということで、地蔵様と縁が深く、現在も境内には巨大な地蔵像が置かれてありました(左の写真)。

地蔵とは大地を意味するとのことで、大地のようにこの世のありとあらゆる命をはぐくみ育ててくれるありがたい菩薩とされます。

ご覧のように、左手に錫杖、右手に如意宝珠を持っていますが、大衆にとって親しみやすいお坊さんの姿の像になっているのが普通です。子供たちを救済する力を持っていらっしゃるとのことで、このように赤いよだれかけをしていることも多いようです。

松尾芭蕉の句碑
松尾芭蕉の句碑

 本堂の前、お寺の入口の近くに松尾芭蕉の句碑がありました。びっしりと苔でおおわれている碑面の文字をたどると、有名な「すみれ草」の俳句であるのがわかりました。
 山路来て
     なにやらゆかし
         すみれ草  松尾芭蕉
野ざらし紀行にあるもので、京都から大津へ至る逢坂山越えを歩いたときの作です。

このとき芭蕉は42歳で、全旅程2000kmの大旅行の成果である野ざらし紀行を世に問い、俳名を不動のものにしました。

上記のように、この俳句は京都の近くで詠まれたもので、箱根には特段の関係はありません。しかし、漂白の詩人芭蕉は何度も箱根路を歩いたことがあり、この地に弟子が何人もいたということです。それら箱根の俳人が、この句碑を建立したと思われます。

さりげない平明な句調ですが、箱根路の春にも通ずるやさしさが感じられる俳句なので、土地の俳人たちがこの句を選んだのでしょう。

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