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仁王門
仁王門

 東急目黒線不動前駅の近くにある目黒不動尊は、古くから浅草の浅草寺と並んで東京の庶民信仰の中心になっています。

目黒不動尊は関東ではもっとも古い不動霊場であり、熊本の木原不動尊、千葉の成田不動尊と併せて日本三大不動と呼ばれるそうです。

不動前駅の近くには、東京でも最も大きい斎場である桐ヶ谷斎場があります。私の親類の葬儀が桐ヶ谷斎場で行われましたが、その帰りに故人の冥福を祈るため、この目黒不動尊に参拝しました。

参道の商店街を抜けると、まず左右一対の仁王像を持つ壮麗な仁王門が見えます(上の写真)。仁王門から境内に入ると、その広さに驚きました。

古くから「目黒不動尊」と呼ばれているのは、泰叡山瀧泉寺(りゅうせんじ)という天台宗のお寺の不動堂です。江戸時代以降、庶民の間に不動信仰が盛り上がり、瀧泉寺の不動堂に行楽を兼ねて参拝する人が大変多くなりました。現在では、瀧泉寺というお寺の名前より「目黒不動尊」のほうがはるかに有名になっています。

瀧泉寺
瀧泉寺本坊

 その瀧泉寺の本坊は、仁王門から境内に入ってすぐ右側にあります(左の写真)。

瀧泉寺は、江戸時代には上野寛永寺の末寺となり、三代将軍家光の帰依を受けて大変栄えました。江戸時代には境内が現在よりずっと広く堂宇も多数にのぼったということです。当時の目黒不動尊の繁盛ぶりは「江戸名所図会」にも描かれているそうです。

瀧泉寺本坊の周辺には現在観音堂、精霊堂、勢至堂などのお堂がありますが、それらは江戸時代の火災や太平洋戦争の空襲で焼失した後再建されたものだそうです。

不動尊本堂
 平安時代に慈覚大師(円仁)がこの地に立ち寄った晩、面色青黒く、右手に降魔の剣を提げ左手に縛の縄を持った神人が夢に現れました。
円仁は、自らその像を彫刻し、この地にお堂を造ってそれを安置しました。それが、目黒不動尊の縁起とされます。この不動尊像は秘仏になっており、十二年に一度、酉年にご開帳されるとのことです。
不動様は、火炎の光背を背負い剣を持つ厳しい姿ですが、私ども庶民の身近にいて苦楽を共にしてくれる仏でもあります。

その不動尊本堂は第二次大戦の戦災で焼失しましたが、昭和56年に鉄筋コンクリート工法で再建されました(下の写真)。不動尊本堂内部には、前記の開祖慈覚大師が刻んだといわれる不動尊像を安置しています。

不動尊本堂

不動尊本堂入口の天井からは、大きな赤い提灯が吊るされています(下の写真左)。浅草・浅草寺の雷門に吊るされている大提灯とよく似ています。
また、京都・東寺でもこのような大提灯を見かけたのを思い出しました。このお寺の宗派が天台宗で、東寺の宗派真言宗と起源が同時代であるためでしょうか。

大きな赤い提灯 不動尊本堂の祭壇

上の写真右は、不動尊本堂の祭壇です。天井から金色の房のようなものが多数吊り下げられており、祭壇の周りも金色で飾られています。このような祭壇の造りも、京都・東寺で見かけたのを思い出しました。

大日如来坐像
大日如来坐像

 不動尊本堂の裏に露座の大日如来坐像(銅造)が祀られています。この仏像のそばに立てられていた説明板によると、制作は江戸初期の1638年で、大衆の寄進により建立されたとのことです。
江戸時代には、この仏像は露座ではなくお堂の中に納められていたそうです。

仏教では大日如来が宇宙全体の象徴とされ、不動明王はその大日如来の化身と位置付けられています。
ここでは大日如来は、自分の化身である不動明王を前面に出して不動尊本堂に納め、自分はその背後で静かに座してます。

不動尊本堂周辺
 江戸時代の初め、江戸・目黒村かいわいは将軍家や大名たちがよく鷹狩りをした場所だったそうです。落語で有名な「目黒のさんま」は、さる大名が目黒村に鷹狩りにきた際に村の百姓がさんまを焼いて差し上げたというストーリーです。

三代将軍家光もある日ここで鷹狩りをしましたが、その際寵愛していた鷹が行方不明になってしまいました。家光公がこの目黒不動尊に参詣してお祈りをしたところ、しばらくしてその鷹が戻ってきました。喜んだ家光公はそれ以降目黒不動尊に帰依し、多大な寄進をして寺を隆盛させたということです。

不動尊本堂周辺を歩くと、小さなお堂、仏像、灯篭などが多数あり、目黒不動尊が江戸時代以来庶民の篤い信仰を集めてきた様子を見ることができます。
下の写真左は不動尊本堂の前にある大きな青銅製の灯篭で、その周りを囲むように作られた木の枠にたくさんの絵馬がかかっていました。目黒不動尊は立身出世、商売繁盛、病気平癒などのご利益があるとされますが、それらを願う絵馬なのでしょうか。

下の写真右は地蔵菩薩、いわゆるお地蔵さんで、もともとはインドの大地の神様だそうです。全国津々浦々で作物の豊饒、家内安全、長寿などのご利益を与えてくれる仏様です。

不動尊本堂前の灯篭 地蔵菩薩

下の写真左は不動尊本堂の向かって左側にある「微笑観音菩薩」という仏像です。春の陽光のもと、すらりとした立ち姿で優しい微笑を浮かべている石像です。

下の写真右は微笑観音菩薩のとなりにある「愛染(あいぜん)明王」の石像です。愛染明王とは、人間の煩悩と愛欲を転じて仏道に導く仏だそうです。剣を持ち、大きな光背を背負ったすさまじい姿ですが、縁結びの仏様としても信仰されているということです。

微笑観音菩薩 愛染明王

水かけ不動
 仁王門から不動尊本堂に登る大石段の下左側に「独鈷(どっこ)の滝」という小さな滝が落ちており、その滝の下が池になっています。

今から1200年前、伝教大師最澄の弟子慈覚大師がこの瀧泉寺を開いたとき、大師が持っていた独鈷(どっこ)を投げたところその場所から滝泉が湧き出したとされます。

この滝はそれ以後一度も涸れたことがないとのことで、池の中に「水かけ不動明王」という不動像が奉られています。不動像の近くに置いてあるひしゃくで不動像に水をかけるとさまざまなご利益があるとされ、水をかけてから熱心にお祈りをする信者をよく見かけます。

水かけ不動 水かけ不動

瀧泉寺境内のお堂
 瀧泉寺本坊の近くや水かけ不動の近くには小さなお堂がいくつもあり、江戸時代以来当寺が庶民の間に広がった不動尊信仰の中心であった様子がうかがわれます。

下の写真左は瀧泉寺本坊のすぐ近くにあった観音堂というお堂です。観音堂の入口からのぞくと、暗い内部にまた黒っぽい小さな観音様が立っていました。観音堂の外に翻っていた赤いのぼりには、「千手観世音菩薩」とありました。

観音堂のとなりには精霊堂というお堂がありました(下の写真右)。堂の中には「西の河原地蔵菩薩」という石仏があり、その背後に「和讃」というご詠歌が掲示されていました。

観音堂 精霊堂

下の写真左は、大石段の手前、独鈷の滝のとなりにある「前不動堂」というお堂です。江戸時代には将軍や大名たちがしばしば当寺に参拝しましたが、その際は一般参詣客は大石段を登ることは許されませんでした。そこで、そのような場合でも一般参詣客が一応不動詣でができるように、大石段の下に前不動堂を建立したということです。

下の写真右は上記前不動堂のすぐとなりにある勢至堂というお堂です。江戸時代中期に創建されたもので、太平洋戦争の戦災で焼失を免れた数少ない建造物の一つです。内部には「勢至菩薩」が祀られているそうです。

前不動堂 勢至堂

瀧泉寺外の恵比寿神
 瀧泉寺境内を見終わり、また仁王門を通って瀧泉寺の外に出ました。仁王門の右側の方向を見ると、すぐ近くに小さい赤鳥居がありました。その前に行ってみると、赤鳥居の中に池があり、その奥に小さな社がありました(下の写真左)。

東京・城南地区には古くから「山手七福神」という民間信仰があり、それらを全部巡ると功徳があるとされてきました。ここの神社は「恵比寿神」というもので、山手七福神巡りの初めと位置づけられているのだそうです。恵比寿神はもともとは海運の安全を司る神様でしたが、現在では商売繁盛・福運の神様としても信仰されています。

恵比寿神 比翼塚

また仁王門の前に戻ってくると、門のすぐ近くになにやら時代の付いた石碑があるのに気がつきました。その前に行くと、碑面には「比翼塚」と彫られてありました(上の写真右)。

塚の近くにあった説明板を読むと、これは歌舞伎で有名なお尋ね者白井権八とその恋人遊女小紫をしのんで立てられたものだそうです。白井権八を呼び止める幡随院長兵衛のせりふ「お若けえの、お待ちなせえやし」は、私のように歌舞伎をほとんど見たことがないものでも知っています。

歌舞伎の有名な登場人物の塚が目黒不動尊の門前にあるというのは、当寺が江戸庶民にとって人気の高い信仰の対象であったと同時に行楽遊山のスポットとしても大変ポピュラーであったのを示すように思われます。

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