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 私どもは、美術や音楽が好きなので、東京都台東区上野の山にはよく出かけます。そのあたりを歩いていて、上野公園の北端にある寛永寺の前を通ったことも何度もあったのですが、これまでこの寛永寺の境内に入ったことはありませんでした。

今回、国立博物館で開催された江戸時代の浮世絵師写楽の展覧会に行った帰り、思い立って、国立博物館のすぐ裏にある寛永寺を訪れました。

上野・寛永寺
 寛永寺は、江戸時代初期の傑僧として有名な天海が三代将軍徳川家光の命により1625年に開いた天台宗の寺院です。以降、寛永寺は徳川将軍家の菩提寺として大いに栄え、徳川歴代将軍15人のうち6人が寛永寺の墓所に葬られているということです。

寛永寺開山からまもなく法華堂、常行堂、東照宮、清水観音堂、五重塔などの壮大な堂宇が相次いで建立され、17世紀末に寺院の中心根本中堂が落慶しました。当寺は天台宗の本山として隆盛の極みに達し、天皇家の一族が歴代の寛永寺貫主に就任して「輪王寺宮」と呼ばれるようになりました。
その後、幕末の上野戦争の際には、彰義隊が寛永寺に立てこもって新政府軍と戦ったため、寛永寺の堂宇は根本中堂をはじめ大多数が戦火でに焼失することになりました。

現在の寛永寺で根本中堂と呼ばれているお堂(下の写真)は、天海がもと住んでいた川越喜多院の本地堂を移築したものだそうです。その内部には、本尊薬師三尊像が秘仏として安置されているということです。

築地本願寺正面

寛永寺書院
 徳川最後の将軍慶喜は、1867(慶応3)年に大政奉還し、翌1868年2月に寛永寺書院(下の写真)の「葵の間」に蟄居しました。しかし、彰義隊など旧幕府側強硬派が上野の山に立てこもって抗戦する構えを見せたため、慶喜は同年4月に寛永寺書院を引き払って水戸に移りました。その後、上野戦争が起こりましたが、寛永寺書院はかろうじて焼失を免れ、現在まで残っています。

寛永寺書院

上野戦争絵図
 根本中堂の前に、寛永寺の歴史を記した絵図が多数掲示されていました。下の写真はそれらのうちの一枚で、上野戦争の際の新政府軍と彰義隊など旧幕府側強硬派との間の激戦を描いたものと考えられます。
絵図左端の大きなお堂は、この戦で失われた寛永寺旧根本中堂かと思われます。旧根本中堂の入口には「黒門」と呼ばれる総門がありましたが、新政府軍がその門を通って旧根本中堂の前に進入し、旧幕府側と激しく戦っている様子が描かれています。

なお、この黒門は、現在では東京都荒川区の円通寺に移築されているということです。黒門には、両軍の間で激しい銃火が交わされたのを示す弾痕が多数残っているそうです。

上野戦争絵図

徳川家霊廟
 寛永寺と東京国立博物館の間には広大な霊園があり、その中に前記のように徳川将軍6人の霊廟が多数ありました。それらの大部分は1945(昭和20)年の空襲で焼失し、現在では将軍家綱、将軍綱吉の霊廟の一部が残っているだけだそうです。
それらの霊廟は一般公開されていませんが、将軍家綱の霊廟の勅額門は霊園の外の道路から見ることができます。

鐘楼・了翁禅師像
 境内には、時代の付いた鐘楼がありました(下左の写真)。寛永寺の鐘というと、松尾芭蕉の名句にある「時の鐘」を思い浮かべますが、この鐘はそれとは別物で、もとは四代将軍家綱の霊廟に置かれてあったということです。現在は、この鐘は、寛永寺の重要な法要の際に使用されており、また除夜の鐘としても使われています。

鐘楼の近くに小さな祠があり、その中に一体の石像が安置されていました。了翁禅師という黄檗宗(禅宗)の高僧の石像だそうです。了翁禅師は、江戸の大火の際に私財を投じて被災者を救済し、また寛永寺に経蔵を建てて多数の経典を収めたなどの功績により、輪王寺宮より勧学寮権大僧都法印に任じられたということです。

寛永寺鐘楼 了翁禅師像

寛永寺開山堂
 前記のように、寛永寺はもと現在の上野公園全体を寺領としており、その広大な境内の方々に多くの堂宇、子院などが置かれていました。その後、寛永寺本体は上野戦争、太平洋戦争の二度にわたる戦禍で大多数の堂宇を失いましたが、寛永寺の南、国立博物館に隣接して「寛永寺開山堂」というお堂が残っています(下の写真)。

東叡山寛永寺を開山した慈眼大師天海大僧正を祀るお堂で、最初寛永寺創建時の他の堂宇と同じく17世紀中ごろに建立されましたが、現在の建物は平成5年に再建されたものだそうです。

開山堂

天海大僧正は、天台宗延暦寺中興の祖とされる慈惠大師(元三大師)を深く尊敬していたので、この開山堂には慈眼大師・慈惠大師の両大師が祀られています。そのため、このお堂は両大師堂として幅広い信仰の対象になっています。
開山堂の近くにはソメイヨシノ、八重桜などが多く、桜のシーズンには花見をかねた参拝客で大いに賑わうそうです。

阿弥陀堂
阿弥陀堂

 戊辰戦争で新政府軍が勝利した後、寛永寺はそれまでの寺領の大部分を失い、東叡、 比叡、 日光の三山を統括していた 「輪王寺宮」 の称号は廃止されました。

明治16年になって東叡、 日光両山に輪王寺という寺称が復活しました。上野東叡山の輪王寺は、実体としては上記開山堂と同じ境内にあります。

境内には、阿弥陀堂というお堂もあります。その堂内には、中央に本尊阿弥陀如来が置かれ、その左右には南無虚空蔵菩薩、地蔵大菩薩が配されているそうです。

旧本坊表門
旧本坊表門

 上野戦争の前には、現在の東京国立博物館のあたりに寛永寺本坊という建物があり、輪王寺宮がそこに住んでいたということです。上野戦争では、この本坊は新政府軍に砲撃され、焼失しましたが、その表門はかろうじて焼失を免れました。

その後その表門は一時帝国博物館の門として使われていましたが、現在は上記上野輪王寺に移されました。この門も、その色からやはり「黒門」と呼ばれます。

黒門の門扉にも、上野戦争の際に銃撃を受けた弾痕が残されているということです。

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