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北西アフリカの植民地

地中海諸国 アルジェリア

 アルジェリアは、アフリカ北西部、モロッコとリビアの間にあるイスラム国家です。アルジェリアの首都アルジェは地中海南岸に面しており、地中海北岸にあるフランス第2の都市マルセイユからは南方755kmの距離にあります。

大西洋と地中海を結ぶ海路に面しているという地の利もあるアルジェリアには、昔から地中海に面したヨーロッパの列強諸国が進出のチャンスをうかがってきました。
フランス革命後、王政復古の時代の1830年に、フランスは地中海をわたってアルジェリア王国と戦争を始めました。

 その後まもなく、フランスはアルジェリアの首都アルジェを占領しました。1847年にフランスはアルジェリア全土を占領し、アルジェリアを植民地にしました。
フランス領アルジェリアの地中海南岸地方はフランス本土と同等の扱いを受け、フランス人をはじめ多くのヨーロッパ人が入植しました。

モロッコ

 次いでフランスは、アルジェリアの西隣りにあるイスラム王国モロッコに触手を伸ばしました。上の地図に見られるように、モロッコ最北端とその対岸スペインの最南端ジブラルタルと間はわずか14kmしかなく、日本の津軽海峡より4km以上も狭いということです。
モロッコは、そのように地中海の入口を扼する重要な位置にあり、大西洋中部の戦略的拠点でもあることから、早くからヨーロッパ列強による争奪戦の的になりました。

当時はアルジェリアとモロッコとの国境が不明確だったので、両国間でたびたび国境紛争が起きていました。フランスはそれを理由としてモロッコ王国を攻撃し、1844年にモロッコ王国との間で不平等協定を締結しました。こうして、19世紀前半までにはモロッコ王国は実質的にフランス共和国の統治を受けることになりました。

チュニジア

 19世紀末から20世紀初めにかけて、ヨーロッパ列強諸国は帝国主義傾向を強め、アフリカ各地で侵略戦争を起こしました。アルジェリアの東隣りにあるイスラム王国チュニジアは、イタリアのシチリア島と向かいあう地中海中部の要衝です。
フランスは、そのチュニジアへの優先権を主張し、1881年にチュニジアに侵攻をはじめました。同年5月、フランスはチュニジアに同国の財政、外交権をフランスに譲渡する「バルドー条約」を承認させ、同国を実質的に手中に収めました。

西アフリカ諸国

西アフリカ諸国  北アフリカ諸国を手中に収めたフランスは、19世紀末、そこから南下してサハラ砂漠以南の西アフリカ諸国を次々と実効支配しました。
1895年、フランスはそれら西アフリカ諸国を「フランス領西アフリカ」に統合しました。その後もフランスの軍事活動は続き、フランス領西アフリカの国土はさらに広がりました。

西アフリカでも南部のギニア湾岸ではキリスト教徒が多数いますが、それ以外の地域の住民はほとんどがイスラム教徒です。
第二次世界大戦後、1960年ごろから西アフリカ諸国では独立運動が高まり、セネガル、マリ、ニジェールなどが次々に独立国になりました。

シリア

シリア  第一次世界大戦が起こると、オスマン帝国の圧政下に置かれてきたアラブ諸国は、シリア、アラビア半島からエジプトをも包含する統一アラブ帝国の建国を目指して反乱を起こしました。

「アラビアのロレンス」に率いられたアラブ反乱軍は、その地域の北端に位置するダマスカスを首都とする構想をもっていました。

第一次世界大戦中の1916年に、イギリス、フランス、ロシアの三国はアラブ人の土地も含むオスマン帝国領土を分割する密約を結んでいました(サイクス・ピコ協定)。第一次世界大戦後に、イギリスとフランスは、それらの密約をもとに中東を分割する協議を行いました。

 その結果、第一次世界大戦後、フランス軍は地中海東岸北部のレバノン、シリアなどを占領しました。シリアの首都ダマスカスで統一アラブ帝国の実現を図っていたファイサル王子らは、フランス軍によって国外に追放されました。

その後シリアはフランス委任統治領となりましたが、フランスの支配に反発するシリアの反乱が頻発しました。第二次世界大戦後の1946年になって、フランス軍がシリアから撤退し、ようやく独立国シリア共和国が発足しました。

フランスの旧植民地

フランスの植民地  フランスは、1830年代のアルジェリア占領以降、上記のように地中海、中東、アフリカに軍事進出した結果、20世紀初めには左の地図で赤丸印をつけた国々を実質的に植民地化しました。

それらの国々ではたびたびフランスの支配に反抗する反乱が起きましたが、フランスはそれらを軍事力で強硬に鎮圧しました。 1914年に第一次世界大戦が勃発した後、それら植民地各国では民族自決への道を求める動きが高まりました。
アルジェリア人・チュニジア人はパリで「北アフリカの星」を結成しましたが、フランス政府により解散させられました。

植民地人、フランスへ

アルジェリア兵士  左の絵画はフィンセント・ファン・ゴッホが1888年に制作した 《アルジェリア土民兵》 という作品です。ゴッホがパリから南仏アルルに転居して間もないころに描いたものです。

南仏とアルジェリアとは地中海を挟んで東京 - 山口ぐらいの距離にあるので、アルジェリア人がかなり多数移り住んでいたのかと思います。

たまたまゴッホの身辺にもとアルジェリア兵士だった男がいたので、土民兵の衣服を着てもらい、この作品を描いたのでしょうか。

制作の経緯は不明ですが、さすがに天才ゴッホのアルル時代の作品で、赤いズボンを着け、房のある赤い帽子をかぶった精悍なアラブ兵士の姿が圧倒的な存在感で描かれています。

アルジェリアの女性  1914年に第一次世界大戦が勃発し、ヨーロッパ西部戦線でドイツとフランスが激戦を繰り返しました。
戦時体制のもとでアルジェリア人にも兵役義務が課され、多数のアルジェリア兵士が戦場に送られました。また、フランス本国での労働力不足から、多くのアルジェリア人がフランスの軍需工場や鉱山などに動員されました。

左の絵画はアメデオ・モディリアニが第一次大戦中の1917年に描いた若いアルジェリア女性の肖像画です。
身近にいた人でしょうか、褐色の肌、短い黒髪、そしてエクゾティックな切れ長の眼を持ったアルジェリア女性を凛とした硬質のタッチで描いています。

上記のように当時パリにはアルジェリア人が多数いたそうです。兵士も労働者も、アルジェリアから連れてこられた人々がフランス人とともに生活していたのでしょう。

フランスの人口推移

 下図のグラフは、19世紀初めから現在に至るまでの西ヨーロッパ主要国の長期人口推移を示します。フランスは19世紀初めには西ヨーロッパで最大の人口を持っていましたが、その後は人口の増加率が低下し、20世紀はじめには人口はドイツとイギリスに追い抜かれてしまいました。

20世紀前半には、相次いで起こった第一次世界大戦、第二次世界大戦による死亡者の影響もあり、フランスの人口はさらに増加率が低下して1940年ごろにはイタリアの人口を大きく下回る状況になりました。

フランスの人口推移

 この時期には、フランスでは人口減により労働力不足に悩むようになり、大量の移民を受け入れるようにおなりました。スペイン、ポルトガルなど近隣諸国からの流入もありましたが、北西アフリカ諸国、特にアルジェリアからの移民が急増しました。
その際の移民受け入れ審査は比較的基準がゆるく、フランス語が一応話せれば簡単に移民として認められたということです。 

1944年に第二次世界大戦が終了した後 、フランスは経済成長期となりましたが、その時期にはまたアルジェリアなどから安価な労働力として大量の移民が流入しました。

家族の合流は認めていたため、定住化した移民の家族呼び寄せとその二世の誕生によって、外国人労働者の数に変化はないが、移民の数は増加し続けることになった。

イスラム系移民
 上記フランスの植民地であった北西アフリカ諸国、シリア、西アフリカ諸国では、国民は一部を除いて基本的にイスラム教を進行していました。それらの国々から大量の移民がフランスに流入したことで、フランス本土ではイスラム教徒が次第に増加して行きました。

それらイスラム教徒たちは、就業のチャンスがあるパリなどの近郊の低所得者が住む地域にコロ二ーを造るようになりました。イスラム系移民は、次に示す理由により、ヨーロッパ諸国の国民より人口の増加率が大きいとされます。
  • 移民の平均年齢が若い
     それらイスラム教徒たちは、通常若いうちにフランスに出稼ぎに来てやがて移民として定着します。その間にイスラム教徒たちは配偶者を見つけて次第に家族を増やすことになります。

  • 子供の数が多い
     イスラム教の聖典コーランでは、避妊・産児制限を禁じているそうです。そのため、フランスに住み着いたイスラム教徒たちはすぐに大家族となり、イスラム系移民のコロ二ーは人口が急増します。

  • 離婚率が低い
     日本、西ヨーロッパ諸国は、離婚率は2パーセントくらいだそうです。イスラム諸国では、全般的に女性の地位が低く経済的に自立しにくいこともあり、全体としては離婚率は低く1パーセント以下ととされます。これもフランスでのイスラム系移民の人口増加につながります。

  • 結婚はイスラム教徒同志で
     イスラム教徒の女性はイスラム教徒以外の男性とは結婚することを禁じられています。イスラム教徒の男性はイスラム教徒以外の女性と結婚できますが、その場合は女性がイスラム教に改宗しなければいけません。

  • イスラム教徒の子供はかならずイスラム教徒に
     イスラム法では、親がイスラム教徒の場合は子供もイスラム教徒になることになっています。子供本人の意思は関係ありません。両親のどちらかだけがイスラム教徒の場合も、子供はイスラム教徒になります。

  • イスラム教徒の「棄教」は困難
     イスラム法ではイスラム教徒が「棄教」すると原則として死刑になると決められているそうです。ただし、トルコなどイスラム法の影響が弱い国ではイスラム教を棄教しても死刑になることはなく、他の宗教に改宗する人もいます。

フランスはイスラム国家になる ?
 上記を見ると、フランスに入国したイスラム系移民は年を追ってかなりのペースで人口を増加させるのは当然のように思われます。最近の調査では、フランスの人口のうちイスラム系移民が10パーセント近くを占めているとされます。

この傾向は今後も長期間にわたって継続するのは確実であり、「数十年後にはフランスはイスラム国家になる」と予測する学者もいるそうです。そこまで行かなくても、いずれフランスではイスラム系移民の増加につれてその影響が政治、経済、文化などの各方面で明瞭になると思われます。

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