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青山霊園
 港区青山は、若者の街渋谷のすぐ隣で、最近はコンピュータ関係の企業がたくさん集まっていることで有名です。そこにある「青山霊園」は、明治7年に開設された東京都立の共同墓地で、明治時代の小説などに「青山の墓地」としてよく登場しています。

最近この墓地の区画が43年ぶりの公募を行ったというので、大いに話題になりました。今回は、この都立青山霊園についてレポートします。

墓地外側の道路
墓地外側の道路

 この地には昔徳川家の家臣の屋敷がありましたが、明治になってその大部分が墓地になり、残りが青山練兵場になりました。

ここは、明治の小説には幽霊が出そうな寂しい場所というイメージで書かれていますが、現在は都区部のほぼ中央に位置し、地下鉄など交通の便のよい一等地になって、高級マンションが立ち並んでいます。

墓地が広大なため、その周辺も便利な場所である割には大変静かで、墓地外側の道路端にタクシーがずらりと並んで休息しているのをよく見かけます。

墓地外側の道路を歩くと、歩道の位置が高くて墓地の塀越しに墓地の内部が見えるところがあります。霊園内には下の写真のように高い樹木が生い茂り、霊園開設以来130年あまりの年月の長さを示しています。
霊園内には幅の広い通路が縦横に走っており、隅々まで管理が行き届いていて雑草が茂っているような場所はほとんどありません。

青山霊園

墓地内の道路
 広大な青山霊園には多数の出入口があり、また自動車が通り抜けられる幅の広い道路が縦横に通っています。現在では青山霊園が東京都区部の中央に位置しているので、霊園内を通り抜ける道路がどうしても必要になったのです。

霊園の中にはソメイヨシノの大木が多く、春の開花時には東京区部では有数の桜の名所になります。特に、地下鉄千代田線乃木坂の近くにある霊園正門から西の方向に伸びて表参道に抜ける広い道路(下の写真)は、昔から東京の花見どころとして有名で、春には花見客で大変な人出となります。

墓地内の道路

志賀直哉
志賀直哉の墓

 まず霊園入口の管理事務所に行き、「青山霊園案内図」というパンフレット(50円)を購入しましょう。それには著名人のお墓のリストと場所が掲載されており、霊園創設以来約130年の重さを実感させられます。

左の写真は、管理事務所の近くにある『暗夜行路』などの小説で有名な作家志賀直哉の墓です。志賀家は足尾銅山の開発にかかわった実業家の家系ということで、鉄柵に囲まれた墓所でした。
直哉は内村鑑三の元で長年キリスト教の研究をしましたが、遺言により通夜は行わず無宗教葬儀でここに葬られたそうです。

大久保利通
大久保利通の墓

 その少し奥に行くと、大きく空が開けた場所があり、その中央に巨大な墓所がありました。西郷隆盛、木戸孝允らとともに明治維新を推進した長州出身の大政治家大久保利通の墓でした。

大久保は非情ともいわれた冷徹さで日本の近代化を推し進め、その過程でかつての刎頚の友西郷隆盛など旧勢力分子を粛清して行きました。
しかしそれによって旧勢力の反発を買い、明治11年、旧士族らによって紀尾井坂で暗殺されることとなりました。青山墓地創設の僅か4年後のことでした。

斉藤茂吉
斉藤茂吉の墓

 「青山霊園案内図」を見ると、大久保利通の墓の近くに歌人斉藤茂吉の墓があると書かれてありました。そこで、そのあたりを探しましたが、中々見つかりません。何度も探し直して、やっと大久保利通の墓に隠れるように茂吉の墓があるのをみつけました。

斉藤茂吉は、子規の弟子伊藤左千夫に入門し、左千夫が明治41年に歌誌アララギを創設した以降、アララギで活動しました。

斉藤茂吉はクリスチャンであったと聞いたことがありますが、葬儀は築地本願寺で行なわれたそうです。

ハチ公の標柱
忠犬ハチ公の標柱

 忠犬ハチ公の墓を示す標柱を見つけました。ハチ公の主人は近代農業土木の祖といわれた上野英三郎でしたが、標柱はその主人の墓の外に立っていました。

ハチ公は、主人が亡くなった後も毎日渋谷駅前で主人の帰りを待ち続けましたが、現在はこの標柱の下で眠っています。
  黄落や
      ハチ公眠る
          主(ぬし)のそば
ハチ公は、体が大きく毛の色が白い秋田犬だったそうです。 

内藤鳴雪
内藤鳴雪の墓

 さらに霊園内を奥に歩くと、正岡子規門下の俳人内藤鳴雪の墓がありました。門下といっても、鳴雪が入門したとき鳴雪は46歳、師子規は26歳だったそうです。

次の俳句は、いかにも飾らない率直な句調で、鳴雪の誠実な人柄を反映しているように思われます。
 矢車に
     朝風強き
         のぼりかな 内藤鳴雪
なお、正岡子規の墓は、東京・田端の大龍寺という寺の墓所にあります。   

国木田独歩
国木田独歩の墓

 国木田独歩は、明治34年に言文一致体の文集「武蔵野」を著し、一躍世間から注目されるようになりました。
言文一致体小説の最初の大成功となった夏目漱石の『我輩は猫である』の掲載が明治38年からですから、いかに独歩に先進性があったかがわかります。

独歩は、この作品に代表される初期の抒情的ロマン主義から、後年には自然主義傾向の作風に変わって行きました。

明治41年、肺結核のため37歳で死去しました。独歩は熱烈なるクリスチャンでしたが、墓は写真のようにごく通常の形でした。

尾崎紅葉
尾崎紅葉の墓

 尾崎紅葉は、1867年生まれなので、漱石や子規と同年ということになります。

紅葉は、『三人妻』 などの風俗小説によって、早くから人気作家となりました。1897年から 『金色夜叉』 を新聞に連載し、日本中の読者に大評判になりました。

1903(明治36)年、35歳の若さで胃がんで死去しました。死んだのも、子規とほぼ同じ時期でした。
  主(ぬし)の名も
      紅葉なりき
          墓の秋

乃木将軍の墓
乃木将軍の墓

 最後になりましたが、青山墓地となれば乃木将軍の墓を外すわけにいきません。

乃木希典は江戸時代の1849年に生まれ、日清、日露の両役で幾多の戦功をあげました。また、高潔な人格者として国民の模範と称えられました。

大正元年9月、明治天皇御大葬の当日に、希典は静子夫人と共に殉死しました。
乃木将軍ご夫妻の墓所は、大谷石の石垣の上に鉄柵をめぐらしたつくりでした。
現在、乃木将軍ご夫妻は、この墓所の中の自然石をそのまま使った素朴な墓に静かに眠っておられます。

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