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 八重桜が散り牡丹も盛りを過ぎたこの時期は、春と夏の季節感が交錯し、大変変化に富んでいます。冬が長く厳しいヨーロッパでは、「狂気の春」という文芸上の伝統的なテーマがあるということです。
日本の俳句でも、「行く春や」と「行く秋や」とでは季節感を超えた情緒の違いがあると思いますが、いかがでしょうか。

藤の花
藤の花

 4月下旬、春の花々があらかた盛りを過ぎるころ、強さを増した陽光のもと、ひときわ目立つのが藤の花です。
 草臥れて(くたぶれて)
     宿かる頃や
         藤の花    松尾芭蕉
笈の小文の中にある「椎谷観音」を訪ねたときの俳句です。
昔読んだ俳句の解説書には、この俳句は「旅の至福を詠んだもの」とあり、以来私も、「心地よくくたびれて、さて宿で温泉につかるか」 という俳句かと思っていました。

ところが、今回笈の小文のこの部分を読んで、現実は大変厳しかったのを知りました。
この俳句の前文には
「・・・うしろに背負ひたれば、いとど臑よわく力なき身の、あとざまにひかふるやうにて道なほ進まず、ただものうきことのみ多し。」
とあり、 芭蕉は一刻も早く旅籠について休息したいと願っていたのがわかります。

くたびれた足を引きずるようにして歩いていたところ、夕闇が濃くなりかけた中でほの白く咲く藤の花が目に入りました。そのやさしさに芭蕉の疲労もいっとき和らぎ、おもわずこの名句を詠んだのでしょう。

白鷺と菜の花
 よく田んぼなどで見る白い大きな鳥で「白鷺」と呼ばれているのは、コサギというのが正式な名前だそうです。

関東ではコサギはほとんど一年中見かけるように思われますが、春半ばから特に活動が活発になり、田などで魚や貝類などを盛んについばむようになります。

世田谷区の西部を流れる野川の河原は、このシーズンは菜の花が咲き乱れています。次太夫掘公園の近くの河原で、コサギがじっとたたずんでいるのを見つけました。岸辺を泳ぐ小魚をねらっているのでしょうか。
    白鷺(しらさぎ)の
        たたずむ河原
            菜花咲く

白鷺と菜の花

げんげ田と残る鳥
 世田谷区の次太夫掘公園には小さな田んぼがあり、毎年稲作を行っています。この時期は、田んぼはまだ水を入れていない「春田」ですが、春田といってもさまざまなステージがあります。

4月下旬に私が訪れたときは、ちょうど「げんげ田」の段階でした。前年秋の取り入れが終わってから蓮華の種を田に蒔いておくと、翌年春にそれが芽を出し、やがて蓮華の花が田一面を埋め尽くします。それを田の土の中にすきこんで、稲作の肥料にするのです。

その蓮華の可憐な花が咲き乱れる次太夫掘公園の田んぼを、大きな水鳥がよちよちと歩いていました。
この次太夫掘公園に入るとき、横を流れる野川に鴨が浮かんでいるのが見えましたが、その仲間が公園の田んぼでえさを探すためにこちらに来たのでしょうか。
これら水鳥の中には、上野の不忍池から飛んでくるものもあると聞きました。

北に帰る時期になっても日本に留まっている渡り鳥を、俳句では残る鳥というそうです。
    げんげ田に
        鴨のつがいの
           見え隠れ

げんげ田

げんげ田の文楽
 毎週日曜日の午前、NHKテレビで放映している句会の番組を楽しみにしています。4月中旬だったと思いますが、藤田湘子さんが主宰した句会で徳島の女流俳人が次の俳句を披露されました(作者のお名前をメモできなくて、申し訳ありません。また俳句の細部が違っていたらご容赦ください)。
   文楽の
       幕合長き
           春田かな  NHK句会
徳島では、この時期にげんげ田に杭を打ち、舞台を造って文楽を催すということです。近隣をはじめ、遠くは関東からも、多くの愛好者が文楽を見るためにそこを訪れます。

観客の皆様は、春の農作業が始まる前のこの催しを、げんげ田に敷いたござに座ってゆったりと楽しみます。文楽の幕間が少々長くても、家族あるいは仲間同士で歓談しながら軽い食事をとったりして気長に待ちます。

何という品のよい、ゆとりのある俳句でしょうか。げんげ田の空から、ひばりのさえずりが聞こえてきそうです。主宰の藤田湘子さんも、ぜひその文楽を見てみたいとにこやかにいっておられました。

手燭して
手燭して

 与謝蕪村に、次の有名な春惜しむの俳句があります。

  手燭して
      庭ふむ人や
          春惜しむ 与謝蕪村
このところ目だって日が長くなってきましたが、その春の日が暮れてから近所に散歩に出ました。
ふと見ると、手にろうそくの灯を持って庭をゆったりと歩いている人がいます。

桜のような大木ではなく、何か丈の低い潅木でも見ようとしていると思われます。

この時期に、夜、ろうそくの明かりでも見たくなるような花といえば、牡丹でしょうか、あるいは芍薬でしょうか。昼間見た牡丹をまた見たくなったのでしょうか、それとも牡丹が散りかけているのを夜思い出し、明日になったら散ってしまうかもしれないと思って手燭を持って見に来たのでしょうか。

蕪村ならではのデリケートな情緒をたたえた春を惜しむ秀句です。

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