旅行

文学

美術

音楽

宗教

パソコン

海外旅行

トップページ 山本有三の址を訪ねて メニューへ

 山本有三は、明治20(1887)年に現在の栃木市に生まれました。作家芥川龍之介や吉川英治より5歳ほど前の生です。

山本有三
山本有三

 生家は貧しく、15歳のときに東京浅草の呉服商に奉公に出ましたが、辛さのあまり翌年実家に逃げ帰ったそうです。このような経験が、後に小説 『路傍の石』 の中に生かされることになりました。

私どもの世代は、ややまとまった文学作品を読める年齢になると、有三の 『路傍の石』 と下村湖人の 『次郎物語』 を読みました。

なお、今回調べて初めて知ったのですが、下村湖人は有三より3年ほど前に生まれた人で、その代表作 『次郎物語』 も 『路傍の石』 とほぼ同時期に書かれたようです。

実家の家業を手伝いつつも、有三は学問への思いは断ちがたく、やがて苦学しながら東京帝国大学独文科に進みました。卒業後は劇作家として出発し、『坂崎出羽守』 などの作品を発表しました。
大正末から昭和にかけて小説を書き始め、『生きとし生けるもの』、『波』、『真実一路』 などの名作を次々に発表しました。

記念館入口
山本有三記念館

 有三は昭和11年から三鷹市の玉川上水沿いの邸に住みましたが、その邸が現在は三鷹市山本有三記念館となっています。
有三は、ここで 『路傍の石』 をはじめ、『戦争とふたりの婦人』、戯曲 『米百俵』 などの作品を書きました。
記念館の門の前には黒い大きな石が置かれてありましたが、これは有三が散歩の途中で見つけて持ってきたもので、現在では 『路傍の石』 の石と呼ばれています。

記念館は重厚な二階建の英国風邸宅で、シャンデリアのある広い応接間、書斎、寝室などからなっています。

この建物には、もとはイギリス人の商社経営者が住んでいたと聞いたことがあります。世田谷区の静嘉堂文庫も同じく英国風邸宅ですが、どちらも建物のイメージがよく似ているのに気が付きました。

暖炉
マントルピース

 有三が好んだということで、邸内には大きなマントルピース(暖炉)が3つもありました。それらはそれぞれにスタイルが違っており、個性がありました。
冬の寒さが厳しい北欧では暖炉が必要かくべからざる設備だそうですが、ドイツ文学者であった有三も暖炉のイメージに惹かれたのでしょう。

この建物に転居する少し前の昭和10年に発表された 『真実一路』 は、戦争の激動の中、真実の愛をひたすら求めた女性が女と母親という現実のはざまに苦悩するさまを描いた小説です。

この小説の前書きとして、北原白秋の詩集「巡礼」の一節 「真実一路の旅なれど 真実、鈴ふり、思い出す」が引用されていたのを記憶しています。
つい最近、この作品がテレビドラマとして放映されているのを目にしました。この作品には、女性にとって時代を超えてアッピールするものがあるのでしょう。

窓
アーチ窓

 邸内には、優雅なアーチ窓がたくさんありました(左の写真)。最近は、このような造りの建物はほとんど見られなくなりました。

この邸に転居したのは、有三の創作力がもっとも旺盛になった時期でした。
昭和12年には、有三はこの邸で自伝的小説 『路傍の石』 を書き、ついに国民的作家となりました。
以来、何百万の青少年がこの小説を読み、主人公愛川吾一少年が人生の苦渋を次第に知りながらひたすら前進するさまに胸を熱くしたことでしょうか。私もまた、それら何百万のうちの一人でした。

このページを書くに当たり、私は図書館から 『路傍の石』 を借りて何十年ぶりにまた読みました。するとこの小説の文体が、他の作家には見たことがないくらいの短文で、簡潔かつ力感に満ちているのがわかりました。

和室
旧山本邸の書斎

 この邸は全体としてはもちろん洋館ですが、一部和室がありました。左は有三が書斎として使っていた部屋とのことでした。
記念館の壁には有三の揮毫もかかっていましたが、その書体は有三の著作と同じく簡潔で力感のあるものでした。

さて、作家太宰治が玉川上水で入水自殺したのはよく知られていますが、太宰が住んでいたのもこの邸の近くだったそうです。
あるとき、酒に酔ってこの前を通りかかった太宰が、邸の塀を蹴飛ばして「こんな豪邸に住んでいたら物書きは堕落するぞ」とわめいたということです。

しかし、前記のように、山本有三は貧しい家に生まれ、つらい丁稚奉公をし、苦学して大学を出て、その後作家として名を成しました。
一方、太宰は青森の旧家に生まれ、裕福に育って大学を出ましたが、その後は「無頼派」とも呼ばれた作家となり、最後はこの近くの玉川上水で女性と入水心中をしました。人間として堕落したのはどちらでしょうか。

山本邸裏側
旧山本邸の裏側

 記念館の北側に玉川上水が流れていますが、それと記念館の間が「北側庭園」と呼ばれる庭園になっています。

私どもが行ったのは秋の終わり、庭木が黄落のときでしたが、春の桜のシーズンには桜の花の向こうにレンガ造りの記念館の背面と大きなバルコニーが見えて実に見事な景観になるそうです。

また、記念館の南側(正面門側)にも「山本有三記念公園」があり、記念館のまわりには絵画サークルなどのたくさんの人々がキャンバスをひろげたり、スケッチをしたりしていました。


これらの公園を各シーズンにあわせて管理運営するのは、大変なお仕事だと思います。これには、山本有三作品を愛する当地域のボランティアの皆さんが多数協力されているとのことです。

山本有三の俳句

 さて、有三は若いときから折に触れ俳句を詠んできました。今回私どもがこの記念館を訪れたのは、一つにはここに有三の俳句の記録があると聞いたからです。記念館の学芸員にお願いし、有三の俳句の一部をコピーさせていただきました。

 
  わが生命
      つなぎとめたり
          三分粥     山本有三

 この俳句には「はじめて粥を給せられて」と前書きがありました。昭和5年、慶応病院に入院中に詠んだ俳句とのことです。小説などの著作では簡潔で力感のある短文体を駆使した有三ですが、俳句にもそのスタイルを持ち込んでいるようです。

 
  松やにの
      幹を流るる
          暑さかな    山本有三

 この俳句は昭和10年の作ですから、名作 『路傍の石』 を書く少し前に詠んだものです。このころ有三はこの玉川上水沿いの邸に転居してきたので、この地域の林を散策していて詠んだのでしょうか。盛夏の力感が読者の胸を打ちます。

 
  石の中の
      「われ」と向き合う
          寒さかな    山本有三

 この俳句は、かなり晩年の作と思われます。「郷里の文学碑の前にて」と前書きがありますが、有三の郷里は現在の栃木市です。
石とは文学碑の石でもあり、『路傍の石』 の石でもあるのでしょう。そういえば、記念館の中に「石はふくむ 古今の色」という有三自筆の色紙がありました。

 
  体内に
      燃ゆるものあり
          うすあかり   山本有三

 この俳句は「遺作」という区分に入っていました。最晩年有三は湯河原に転地しましたが、そこで詠んだ句と思われます。括弧して(「老いの春」から)とも書かれてありました。老境を自覚しつつも、なお胸中に熱きものを抱くという、いかにも有三らしい作品です。

有三の俳句は、全体として飾らない素朴な句調ながら、よく見かけられる作家の気分転換のための俳句、余技としての俳句とは一線を画するものがあると感じます。

トップページ メニューに戻る