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 正岡子規は、生まれ故郷四国松山で河東静渓という漢学者について学び、静渓が開催した詩会に出席したりしていました。この静渓の子供に秉五郎というのがいましたが、これが後に俳人河東碧梧桐となりました。秉五郎は1873(明治6)年生まれなので、子規より6歳若かったことになります。
この秉五郎の親友に、高浜清という1歳年下の少年がいました。これが後に俳人高浜虚子となりました。

のボール先生
のボール先生

 後に入学した東京大学予備門(後の一高)で、子規は初めて野球に出会い、夢中になりました。左利きのキャッチャーとしてプレーしたとのことですから、愉快です(^_^)。

子規の本名は升(のぼる)ですが、それをもじって「のボール」と号し、野球の短歌などを盛んに作りました。
その子規が松山に帰省したとき、まず漢学の先生の息子秉五郎に野球の手ほどきをしました。

二人で素手でキャッチボールをしたそうです(^_^)。やがて、高浜清少年も子規から野球を教わるようになりました。上の写真で、左側が正岡子規、右上が高浜虚子、右下が河東碧梧桐です。
やがて、河東碧梧桐、高浜虚子の二人は上京し、子規から今度は野球ではなく俳句を学ぶようになりました(^_^)。

子規は、大学を卒業してから新聞記者になりましたが、その時代には盛んに野球の記事を書き、日本全国に野球を紹介しました。現在、広く使われている「直球」、「四球」、「死球」、「打者」、「走者」などの野球用語は、大部分が子規の和訳になるものだそうです。

野球の短歌
野球の短歌

 明治31年、31歳のとき、子規は歌論 『歌よみに与ふる書』を発表し、現実写生による新時代の和歌を提唱しました。
同年に発表された「ベースボールの歌」連作の中に、次の有名な短歌があります。

 今やかの
    三つのベース人満ちて
      そゞろに胸のうちさわぐかな
                     正岡子規
投手の乱調により、満塁となってしまったのに動揺する捕手子規の様子が目に見えるようです(^_^)。

このころから子規は持病の結核が悪化し、脊髄に転移してカリエスとなりました。 脊髄カリエスは、当時としては不治とされた病でした。しかし子規は病苦に屈せず、病床に臥せながら旺盛な文芸活動を続けました。

上記歌論 『歌よみに与ふる書』 を刊行し、また 『墨汁一滴』、『病床六尺』、『仰臥漫録』 などの随筆を次々に発表しました。この時期に、子規は次の俳句を詠んでいます。
   草茂み
       ベースボールの
           道白し   正岡子規
ベースボールの道とは、草原の中にある野球のグラウンドに通じる道でしょうか。あるいは、野球のグラウンドで走者が通る塁間の道のことでしょうか。
子規が病床で詠んだこの句には、どこか芭蕉の「夢は枯野をかけめぐる」の句にも通じる執念が感じられます。1902年(明治35年)9月、子規は35歳の若さで亡くなりました。

猫
『猫』 と野球

 上記のように、正岡子規は野球に対して大変な思い入れがありましたが、子規の刎頚の友夏目漱石と野球との関わりあいはどうだったのでしょうか。

子規が亡くなってからまもなく、漱石はイギリス留学から帰国し、一高の英語教師になりました。その後漱石は、高浜虚子のすすめにより、気晴らしのつもりで 『吾輩は猫である』 という小説を書き始めました。

この小説は、当時漱石が住んでいた本郷千駄木町の家で書かれましたが、漱石の研究者はその家を「猫の家」と呼びます。

空前の大人気となった 『吾輩は猫である』 の中に、野球に関係するくだりがあります。
「猫の家」の隣には郁文館という学校があり、『吾輩は猫である』 の中にもこの学校の話が出てきます。漱石が『吾輩は猫である』を執筆していたころ、その学校の校庭で生徒たちが盛んに野球をしていました。子規が亡くなってから、3年ほど後のことです。

ダムダム弾
 小説 『吾輩は猫である』 の中のこのくだりを見ましょう。
 落雲館に群がる敵軍は近日に至って一種のダムダム弾を発明して、十分の休暇、若しくは放課後に至ってさかんに北側の空地に向って放火を浴びせかける。このダムダム弾は通称をボールと称えて、擂粉木(すりこぎ)の大きな奴を以て任意これを敵中に発射する仕掛である。

        (中略)

 ある人の説によるとこれはベースボールの練習であって、決して戦闘準備ではないそうだ。吾輩はベースボールの何物たるを解せぬ文盲漢である。然 し聞くところによればこれは米国から輸入された遊戯で、今日中学程度以上の学校に行わるる運動のうちで尤も流行するものだそうだ。
野球の先覚者子規が野球普及に乗り出してから10年あまりで、野球が中学校(現在の高校)以上の学校を拠点として爆発的に広まった様子がうかがえます。

なお、小説『吾輩は猫である』の中では、このダムダム弾が猫のご主人苦沙弥先生の庭に盛んに打ち込まれ、それをめぐって苦沙弥先生と学校の生徒たちとの間で攻防戦が繰り広げられます(^_^)。

球都・俳都 松山
 子規、漱石、碧梧桐、虚子など、この時期の俳人を輩出した愛媛県松山は、以来、現在に至るまで「俳都」として万人に認められています。その後も、石田波郷など優れた俳人が松山から生まれています。

一方で、子規が松山にもたらした野球も、この地にしっかりと根付きました。現在でも松山には高校野球の強豪チームがいくつもあり、またそれらの高校の出身者がプロ野球でも大活躍しています。「俳都」は「球都」でもあるのです。

現在松山には、「坊ちゃんスタジアム」、「マドンナスタジアム」という野球場があり、また「の・ボールミュージアム」という野球資料博物館もあるそうです。
また、四国各地は夏祭りが盛んで、たとえば徳島は阿波踊りで有名です。この松山の夏祭りは、なんと「野球拳」が名物だそうです(^_^)。私どもも、ぜひ一度松山を訪れたいと思っています。

ナイトゲーム
秋桜子と野球

 高浜虚子は、子規が創刊した俳誌ホトトギスを引き継いで主宰となりましたが、そこに水原秋桜子が入門し、やがてホトトギスの同人となりました。

しかし、その後秋桜子は芸術上の論争からホトトギスを離脱し、俳誌 『馬酔木(あしび)』 を主宰して以降独自の俳風を形成して行きました。

秋桜子は長生きしたので、その晩年にはプロ野球が全盛期になりました。秋桜子はやがて熱烈なるプロ野球ファンになったようで、その時期にナイトゲームなどプロ野球を題材とした俳句を多数詠んでいます。

   ナイターの
       光芒(こうぼう)
           大河へだてけり  水原秋桜子
私の妻が、秋桜子、加藤楸邨、山本健吉編の分厚い歳時記(講談社刊)を持っていますが、巻中の「晩夏」の部分に「ナイター」という季語が載っています。その「ナイター」の解説は、編者の筆頭秋桜子がみずから筆を取って書いています(^_^)。
また、山口誓子のナイターの俳句も、その項に掲載されています。

六甲おろし
六甲おろし

 阪神タイガースファンの皆様、おめでとうございます。苦節18年、ダ×とらなどという侮辱に耐えたかいがありましたね。でも、勝利の美酒に酔って心斎橋から川に飛び込むのは、危ないのでやめてください(^_^)。

もし子規が長生きして、自分の蒔いた野球の種がここまで育ったのを知ったら、どう思ったでしょうか。

昨年は子規没100周年でしたが、それを記念して、子規は野球普及に尽くした功績により野球殿堂に迎えられました。

もし子規が100歳近くまで長生きしたら、四国出身ですからタイガースファンになったのではないかと思います。おそらく虚子や碧梧桐も同じでしょう。

一方、江戸っ子の漱石や秋桜子は、多分ジャイアンツファンになったかと思います。
ちなみに、現在の俳句界の最長老金子兜太さんは、熊谷出身ですが筋金入りのアンチジャイアンツだそうです。いかにも兜太さんらしいと思います(^_^)。

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