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 数年前、オランダ・アムステルダムからイギリス・ロンドンまで飛行機に乗ったことがありました。アムステルダムからロンドンまでの距離は約360km、東京−名古屋と同じくらいで、その間の飛行時間は正味1時間ほどです。

飛行機は、アムステルダム空港を発つとすぐ北海の上空に出て、そのまま英仏海峡を南下して英仏間を隔てるドーヴァー海峡に向かいました。ロンドンにかなり接近したころ、ドーヴァーの近くでしょうか、飛行機の窓から見下ろすと切り立った断崖に白い波が打ちつけているのが見えました(下左の写真)。

ドーヴァー海峡
 その景色を見て、昔読んだイギリスの作家チャールズ・ディケンズの小説 『二都物語』 の一シーンを思い出しました。たしか、小説の最初の部分にロンドンからフランス行きの船の出るドーヴァーに向かう駅馬車の場面がありました。
当時は駅馬車を襲う強盗が多かったとのことで、駅馬車を呼び止める声に対して御者が銃を構えて警戒するくだりが非常に緊迫感があったのを今でも憶えています。

下右の図は、現在ドーヴァー海峡の海底を通っている"Channel Tunnel"の位置を示すもので、イギリス側の港湾都市ドーヴァーとフランス側の都市カレーの近くを接続しているのが見られます。古くより、ドーヴァーとカレー間には連絡船が運行されており、ディケンズの小説 『二都物語』 では主要登場人物たちが何度もこの連絡船に乗って二都すなわちロンドン-パリ間を行き来する様子が描かれています。

ドーヴァー海峡 ドーヴァー海峡

小説の時代背景
 『二都物語』 は、ディケンズが1859年、47歳のときに発表した小説です。フランス革命勃発(1789年)の少し前から、革命が起こってフランスの国王や貴族などが多数断頭台にかけられるころまでの時期がこの小説の背景になっています。

18世紀後半のフランスは、対外戦争の出費とブルボン王家の浪費などにより巨額の財政赤字が発生していました。また、当時ヨーロッパを襲った農作物不作により、食糧事情は一段と悪化し、パン価格の上昇によって国民の不満の声は非常に大きくなりました。

当時、パリの南東サンタントワーヌは、サント=エブルモント侯爵という貴族が治めていました。サント=エブルモント侯爵とその兄の兄弟は、領内に住む医師マネットにあらぬ罪を着せ、18年間も領内のバスティーユ牢獄に収監しました。
ようやく出所したマネット医師は、その娘ルーシーとともにフランスを出てイギリス・ロンドンに渡り、ロンドン北部のソーホーで暮らし始めました。

マネット医師の住まいの近くには、上記サント=エブルモント侯爵の兄の子供がチャールズ・ダーニ−という名前で住んでいました。ダーニ−は、フランス貴族の生き方に疑問を感じ、自ら貴族の地位を捨ててロンドンに移ったのです。やがてダーニ−はマネット医師の娘ルーシーと結婚しました。

そのダーニ−の親友でシドニー・カートンというイギリス人の弁護士がいました。カートンは世をすねた人間でしたが、ひそかにルーシーを恋していて、それはダーニ−がルーシーと結婚した後も変わりませんでした。

パリ近郊サンタントワーヌでは、サント=エブルモント侯爵の馬車が住民の子供を轢き殺したのに激高した子供の父親が侯爵を殺害しました。それをきっかけに民衆の暴動が起こり、当地在住のドファルジュ夫妻を中心にしてそれが急激に拡大して行きました。

バスティーユ牢獄
 上記はディケンズの小説 『二都物語』 の記述ですが、史実としては税負担の不平等を是正しようとした財務長官ネッケルを国王ルイ16世が罷免したのに激高した民衆は、アンヴァリッド(廃兵院)を襲撃してそこに置かれていた大砲(下左の写真)や小銃を奪い、次に当時弾薬庫を兼ねていたバスティーユ牢獄に向かって行進していったということです。

1789年7月14日にバスティーユ牢獄を取り巻く数万の民衆とバスティーユ牢獄の守備兵との間に戦闘が起こり、激しい銃撃戦が続きました(下右の絵画)が、やがて民衆はバスティーユ牢獄を制圧しました。以降、7月14日はフランス革命を記念する国民休日となり、日本では「パリ祭」の名で知られています。

アンヴァリッドの大砲 バスティーユ牢獄

国王の逃亡失敗
 その後ヴェルサイユ宮殿から連れ出されテュイルリー宮殿に軟禁された国王一家は、1791年6月20日の深夜、宮殿を脱出し、馬車でベルギーとの国境に向かいました。しかし、結局国王一家は逃亡に失敗し、パリに連れ戻されました。

この件によりフランス国民は王政を見限り、革命後のフランスは共和制に向けて大きく動き出しました。このころから、民衆は王族、貴族や旧体制の権力者、外国への内応者などへの敵意が強くなり、国内各所でそれらの人々が多数拘束・殺害されるようになりました。

小説 『二都物語』 では、パリ近郊サンタントワーヌ在住のテレーズ・ドファルジュが、姉をサント=エブルモント侯爵兄弟に殺されたうらみで侯爵の家族たちを殺そうと追求するという設定になっています。

革命勃発後の混乱、無政府状態の中で民衆は狂気に近い興奮状態になり、反革命と見なされた多くの人々の命が奪われたのが、小説『二都物語』の記述からうかがわれます。

国王の処刑
 1792年8月10日、パリの民衆と共和制を主張するジャコバン派は、テュイルリー宮殿を襲撃して国王ルイ16世を拘束し、タンプル塔に幽閉しました。
1792年9月、男子普通選挙による国民公会が発足し、議員の多数を占めたジャコバン派の主張により王政の廃止・共和制への移行が議決されました。

元国王のための調査委員会が置かれ、厳しい調査が行われた結果、元国王が亡命貴族たちと連絡を取っていたこと、周辺外国と交渉していたことなどを証明する文書が発見されました。結局元国王は裁判により政治犯として有罪とされ、死刑を宣告されました。
1793年1月21日に、元国王はその少し前から公式の死刑執行手段となっていたギロチンにより生命を断たれました。

元国王の死刑が執行されたのは、現在はパリの観光名所になっているセーヌ河畔のコンコルド広場でした(下の写真)。ここの広場は、革命勃発後は「革命広場」という名になり、死刑が公開で執行される場所になっていました。
下の写真でコンコルド広場の噴水の奥に見えるのは、セーヌ川対岸にあるフランス国民議会議事堂(ブルボン宮殿)です。

ボストン建設

元国王ルイ16世が処刑された後、元王妃マリー・アントアネットは常に喪服を着て夫を弔って暮らしたといわれます。下右の肖像画は、その当時のマリー・アントアネットを描いたものだそうです。革命前の肖像画と比べると、この時期の元王妃がいたいたしいほどやつれているのが見て取れます。

アンヴァリッドの大砲 バスティーユ牢獄

現在のコンコルド広場では、中央部に巨大な石の尖塔(オベリスク)が立っています(上左の写真)。これは、もとはエジプトのルクソール神殿の前に立っていたもので、後の王政復古の時代に当時のフランス王シャルル10世がエジプトから贈られ、この広場に立てたということです。従って、フランス革命の際には、広場にはオベリスクはありませんでした。

ダーニー拘束される
 国王の国外逃亡が失敗し、フランス国内各所で貴族や旧体制の権力者たちが多数拘束され、刑に処されていた1792年に、ロンドンにいた元フランス貴族チャールズ・ダーニ−は、海峡を渡ってパリに入りました。
ダーニ−は、フランス貴族であった時代の使用人がフランス革命の中で死刑に処せられるそうになったのを知り、それを救うためにパリの法廷で証言をしようと思ったのです。
しかし、ダーニ−は元フランス貴族だったのが革命派に知られてしまい、ダーニ−自身が亡命貴族として革命裁判にかけられることになりました。

知らせを受けて、弁護士シドニー・カートンがロンドンからパリに渡ってきてダーニ−の弁護に当たりました。カートンの弁護はいったんは成功して、ダーニ−は釈放されました。

同じ時期に、ロンドンにいたマネット医師は、革命裁判所から証言を要請されたため、娘ルーシーとともにパリに渡りました。マネット医師の証言によりサント=エブルモント侯爵兄弟の悪事が明らかになりましたが、同時にダーニ−が侯爵兄弟の一族であるのが革命派に知られてしまい、ダーニ−は再び拘束され革命裁判で死刑を宣告されました。

ダーニ−の死刑執行直前に、カートンは、容貌がダーニ−によく似ていたのを利用して、ダーニ−になり代って刑場に赴きました。マネット医師、娘ルーシーとダーニ−は、カートンの手配によりパリを脱出してロンドンに帰還することができました。

コンシェルジュリ監獄
コンシェルジュリ監獄

 パリ東部に、シテ島と呼ばれるセーヌ川の中洲があります。パリの観光名所ノートルダム大聖堂があるので有名な場所です。

そこにはもともと大きな宮殿がありましたが、それが16世紀以降監獄として使われるようになり、コンシェルジュリ監獄と呼ばれていました。

コンシェルジュリ監獄に隣接していくつか大きな建物がありましたが、フランス革命勃発の後はそれらが政治犯を裁く革命裁判所として使われたということです。すぐ隣のコンシェルジュリ監獄から引き出された囚人が、その裁判所で審判を受けたのです。

夫・元国王ルイ16世がコンコルド広場で処刑された後、元王妃マリー・アントワネットは、上記コンシェルジュリ監獄に収監されました。上の銅版画は、当時のコンシェルジュリ監獄のうち女性が収監されていた建物の中庭を描いたものだそうです。マリー・アントワネットも、一日のうちある時間はこの中庭を散歩するのを許されていたのでしょうか。

マリー・アントワネットの処刑
 夫ルイ16世が刑死した同じ1793年の10月15日に、マリー・アントワネットは上記革命裁判所で死刑を宣告されました。翌10月16日にマリー・アントワネットはコンコルド広場に送られ、夫と同じく広場に設置されていたギロチンで死刑に処せられました。

その1793年の3月から翌1794年7月の期間で、2630人ほどがコンコルド広場でギロチンにより処刑したといわれます。ギロチンはフランス全国に設置されたので、革命期間中に全国では16600人程度がギロチンによって死刑を執行されたそうです。

1793年6月以降のいわゆる恐怖政治の時期には、ギロチン以外の方法による処刑や正式の裁判によらない処刑が非常に多く、全国で実に60〜80万人が犠牲になったとのことです。長年にわたる王制を糾弾し打倒した民衆運動のすさまじさ、そしてその後に起こった革命の主導権争いの血なまぐささに、私どもはただ驚くのみです。

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