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鐘は上野か浅草か |
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芭蕉が住んでいた庵(芭蕉庵)は、大川(隅田川)のすぐ近くにありましたが、その川辺に「大川端芭蕉句選」というステンレス製の句碑が全部で9枚建てられています。
その中に、あまりにも有名な次の俳句の句碑がありました。
花の雲
鐘は上野か
浅草か 松尾芭蕉
句碑には「貞享4年吟(1687年)」とありました。春風駘蕩、太平を謳歌した江戸の春の俳句です。 |
大御所徳川家康が一世一代の大勝負に出た関が原の戦から87年後、大石内蔵助の率いる赤穂浪士の面々が本所吉良邸に討ち入る16年前のことです。
私は、芭蕉庵のあった深川の対岸、水天宮、萱場町界隈に3年ほど勤務したことがあります。このあたりの隅田川では両岸の堤防の上に桜並木が続いており、開花の時期にはまさに花の雲のようになって実に見事です。
上記の大川端芭蕉句碑は、深川側の堤防から隅田川の川べりに降りたところに二、三十メートルの間隔で並んでいます。
花堤
降りて川辺の
句碑たどらん |
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JR上野駅の公園口を出て左側に10分ほど歩くと、上野の森美術館があります。 それを過ぎてもう少し歩くと、小高い丘の上に古びた鐘楼が見えてきました。上野寛永寺の「時の鐘」と呼ばれる鐘楼です。
寛永寺は江戸時代には将軍家の帰依を受けて大いに栄えましたが、当時の境内は非常に広く、この鐘楼のあたりやその下の不忍池も境内になっていたということです。
鐘楼は、上野の山の西端、不忍池をのぞむ高台に建っています。ここで一刻(2時間)毎に撞かれた鐘の音は、江戸の下町一帯に伝わりました。 |
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浅草は江戸時代から庶民の娯楽の町で、その中心にある浅草寺は「浅草の観音様」として目黒不動尊と並んで江戸市民の信仰を集めてきました。
この浅草寺も時を告げる鐘で有名です。上記芭蕉の俳句で「上野か浅草か」の浅草の方は、この浅草寺の鐘の音のことです。
当時は街の騒音が小さくまた大きな建物などが少なかったので、寺がつき鳴らす鐘の音が遠くまでよく伝わりました。 当時の江戸庶民は時計を持っていなかったので、それら大寺の鐘の音を聞き、生活のリズムを整えたのです。 |
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深川にあった芭蕉庵からは、上野と浅草はほぼ同じくらいの距離です。鐘の音を聞いて、はて上野の寛永寺の鐘だろうか、あるいは浅草寺から聞こえてきたのだろうかと、芭蕉も首をひねったのでしょうか。
現在と違い、当時は鐘の音には大きな実用性がありました。お寺としても、檀徒に対して時報を提供することは重要なサービスの一つであり、お寺の存在価値を示すPRの意味もあったのでしょう。
当時江戸の下町では、寛永寺と浅草寺が鐘の音でサービスエリアを張り合っていたのかもしれませんね(^_^)。 |
なお江戸城に近い城南地域では、芝増上寺にも巨大な鐘があり、その音はやはり一帯に響き渡っていたということです。
上の写真は、深川にある芭蕉記念館の庭園に置かれていた宗匠姿の芭蕉石像です。 |
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深川近在の桜は満開で、花曇りの空に溶け込むように咲き誇っています。それら桜の間を沁みとおるように、どこからか大きな鐘の音が聞こえてきて、微妙なうねりを伴って芭蕉庵を包みました。
句作に没頭していた芭蕉も、その鐘の音を聞き、思わず音が聞こえてきた方に目をやると、窓の外に満開の桜が雲と見まがうばかりに広がっているのが見えました。
江戸っ子は、昔も今も花見が大好きです。中でも下町の方々は、上野の山が桜の名所になっていることからわかるように特に桜に対する思い入れが強いようです。 |
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そのためでしょうか、「花の雲」の名句も発表以来大変な人気となり、芭蕉は方々からこの俳句の短冊を求められたということです。私も、さる展覧会で「花の雲」の芭蕉真筆の見事な短冊を見たことがあります。 |
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