三橋鷹女は明治33年(1899)年に千葉県成田市に生まれました。当時女流俳人4Tと謳われた中村汀女、星野立子、橋本多佳子、三橋鷹女のうち星野立子は1903年生まれですが、それ以外の3人は1899年から1900年に生まれており、ほぼ同じ年齢でした。
鷹女は、高等女学校に入学したころから短歌を学び始めましたが、結婚後夫の影響で俳句に転向しました。
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鞦韆(しゅうせん)は
漕ぐべし
愛は奪うべし 三橋鷹女
この俳句は最近では高校の教科書にも掲載されているそうで、鷹女の俳句の中でも飛びぬけて有名です。
鞦韆とはぶらんこのことで、俳句の世界では春の季語です。人気のない公園の隅にあるぶらんこに座って漕ぐでもなく恋の思案をしていましたが、ようやく決意がつきぶらんこを大きく漕ぎ始めた、という句意でしょうか。 |
「愛は奪うべし」というのは、当時評判だった有島武郎の評論「惜しみなく愛は奪う」を引用したものといわれます。
現代の私どもが読んでもはっとするくらい、斬新でシャープな感覚です。当時の俳句界は虚子のホトトギス派がリードしており、客観写生全盛の時代でしたが、その中でこの俳句はどのように受け取られたでしょうか。
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暖炉昏(くら)し
壺の椿を
投げ入れよ 三橋鷹女
これも鷹女のシャープな感性を示す俳句の一つです。
部屋の片隅にある暖炉に、まだ火がついてなくて寒々としていましたが、壺に活けられていた赤い椿をその暖炉の中に投げ入れると、それが一変して赤々と光と熱を放ち始めました。 |
写真は、世田谷区の旧小坂邸で見た昔のガスストーブを置いた大きな暖炉です。
現代の私どもが読んでもはっとするくらい、斬新でシャープな感覚です。当時の俳句界は虚子のホトトギス派がリードしており、客観写生全盛の時代でしたが、その中でこの俳句はどのように受け取られたでしょうか。
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鷹女には、上の二句のように命令文調の俳句がかなりあります。
薄紅葉(うすもみじ)
恋人ならば
烏帽子(えぼし)で来(こ)
三橋鷹女
これもそのような俳句の一つです。 平安時代には、成人男子は頭に烏帽子をかぶるのが正装とされました。私に会いに来るなら、王朝時代の恋人を見習ってきりっとした心構えで来てほしい、という句意でしょうか。 |
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虚子の流れを汲んで客観写生を基本とする中村汀女、星野立子とは、句風がまったく異なっています。 |
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しかし、その一方で次の叙情的な秀句も残しています。
秋風や
水より淡き
魚のひれ 三橋鷹女
秋になると水が澄んできて、水中の魚の姿がよく見えるようになります。その魚のひれが半透明に見えるのを詠んだ俳句ですが、「水より淡き」という中七が胸に染みわたるようにデリケートです。 |
鷹女の句集 『魚のひれ』 は、この俳句から名をとったものです。
鷹女は俳句の結社には属せず、自由な作句で俳句界に新風を吹き込みました。
仮に鷹女がどこかの結社に入ったとしても、このように鮮烈な鷹女のオリジナリティは当時の結社の主宰では理解できず、結局破門ということになったのではないでしょうか。
しかし、現代の私どもには、鷹女の俳句は凛とした気品と瑞々しさに満ちているように感じられます。
つい最近、鷹女の晩年の句集「羊歯地獄」の自序を目にしました。その一部をここに引用して、読者の皆様と一緒に味わいたいと思います。
一句を書くことは 一片の鱗の剥奪である
四十代に入って初めてこの事を識った
五十の坂を登りながら気付いたことは
剥奪した鱗の跡が 新しい鱗の芽生えによって補はれている事であった
だが然し 六十歳のこの期に及んでは
失せた鱗の跡はもはや永遠に赤禿の侭である
今ここに その見苦しい傷痕を眺め
わが躯を蔽ふ残り少ない鱗の数をかぞへながら
独り 呟く・・・・・・
一句を書くことは 一片の鱗の剥奪である
一片の鱗の剥奪は 生きていることの証だと思ふ
一片づつ 一片づつ剥奪して全身赤裸となる日の為に
「生きて 書け・・・」と心を励ます
鷹女がこの自序を書いたのは、60歳を少し過ぎたころと思われます。ちょうどそのくらいの年齢になった私がこの文章を読むと、胸が熱くなるのを覚えます。おそらく多くの読者の方々がやはり同じ思いをもたれるのではないでしょうか。 |
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私の妻が、「日本大歳時記」という水原秋桜子、加藤楸邨、山本健吉監修の分厚い歳時記を持っています。時々ぱぱらぱらとめくって読みますが、中々楽しいものです。
つい最近、その本の中で次の鷹女の俳句を見つけました。
老いぬれば
我が丈低し
カンナより 三橋鷹女
最近はカンナという花は少なくなり、知らない人もいらっしゃるようですが、昔はどこにでも植えられていました。 |
夏から秋にかけてがカンナの花期で、暑さにも負けず、盛大に赤や黄色の大きな花を咲かせます。カンナは花の丈が高く、子供の背ぐらいになります。
鷹女は上記のような鮮烈な創作活動を行いつつ73歳まで生きましたが、最晩年には普通のお婆ちゃんになり、腰が曲がってカンナより背が低くなったのでしょうか。
しかし、あの鷹女が静かな晩年を過ごしたことを知り、鷹女俳句のファンの一人として心が和むのを覚えました。 |