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皆吉爽雨の句碑 |
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東京都調布市にある古刹深大寺の裏山に、開山堂という小さなお堂があります。 そのお堂の横に俳人皆吉爽雨の句碑がありました。
春惜しむ
深大寺そば
一すすり 皆吉爽雨
皆吉爽雨は1902年に福井市に生まれました。父の事業失敗により進学を断念し、大阪の電線製造会社に就職しましたが、そこで俳句の世界を知り、その魅力に取りつかれました。 |
爽雨という俳号は、そのころにつけたものだそうです。大正9年には俳誌 『ホトトギス』 に初入選し、大変喜んだということです。
昭和7年にはホトトギス同人に推され、俳人としての声価を確立しました。虚子は1875年生まれですから、爽雨は虚子より27歳若い弟子ということになります。女流俳人の中村汀女や星野立子(虚子の娘)と同年代の俳人です。 |
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上の「深大寺」の俳句にも見られるように、爽雨の作品は概してオーソドックスな句調のなか、高い品格を感じさせます。
次の俳句も、素直な表現の中に瑞々しい気品をたたえており、読者の感銘を呼びます。
さわやかに
おのが濁りを
ぬけし鯉 皆吉爽雨
「さわやか」は、秋の季語です。秋には池の水が澄んできて、錦鯉の色が鮮やかになります。左の写真は、都立清澄庭園の園池の錦鯉です。 |
終戦後、爽雨は会社の転勤で東京に住むようになりました。やがて東京で主宰誌 『雪解』 を創刊し、会社勤めをやめて俳句に専念することになりました。
爽雨は、オーソドックスな客観写生の句風ですが、戦後は師高浜虚子の影響から脱し、独立した「爽雨俳句」の世界を形成しました。
昭和36年には、句集 『三露』 により第1回飯田蛇笏賞を受賞しました。蛇笏(だこつ)はやはり虚子門下で爽雨の先輩にあたる俳人ですが、山梨県甲府の郊外で農業に従事し、田園をテーマとした優れた俳句を多く詠んだことで知られています。 |
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爽雨もまた先輩飯田蛇笏と同じく、農業、田園風景を題材とした俳句を数多く残しています。
向きあうて
茶を摘む音を
たつるのみ 皆吉爽雨
夫婦で茶の収穫作業をしている光景を詠んだのでしょう。淡々とした句調の中で、茶の若芽を摘む鋏の音のリズムが大変印象的なアクセントとなっています。
爽雨は、このような農業の俳句をどこで作ったのでしょうか。 |
それをぜひ知りたくなり、インターネットで検索しましたが、見つかりませんでした。爽雨は、晩年には生まれ故郷の福井県に帰ったのではないかと思います。
爽雨の農業の俳句を、もうひとつご紹介しましょう。 |
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はるかなる
光も畑を
打つ鍬か 皆吉爽雨
春先に畑作業を始めたある日、遠くにある他の農家の畑でなにかチカチカと光るものが見えました。その畑でも農作業を始めたので、お百姓のふるう鍬に陽光が反射して光っているのでしょうか。
鍬に反射する光の効果が実に鮮やかです。日ごとに強くなってくるこの時期の陽光を感じさせます。左の写真は、私の郷里千葉県九十九里地方で見た春先の畑です。 |
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爽雨の晩年の俳句の中でもひときわ有名なのが、次の永平寺の俳句でしょう。 永平寺は富山県にある禅宗曹洞宗の総本山で、立山連山のけわしい山岳を背にして建てられています。
春先、寒さが緩みかけたころ、立山でしょうか永平寺から見える高い山を覆った雪に斧で切ったような雪崩のあとがくっきりと付けられていました。
天懸ける
雪崩のあとや
永平寺 皆吉爽雨
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ホトトギス流の平坦な表現から脱した爽雨晩年の独自の境地を示すスケールの大きな俳句です。爽雨俳句の風格を愛するファンは多く、日本全国に爽雨の句碑が13も立てられているということです。 |
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