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トップページ 漱石の址を訪ねて メニューへ

 文豪夏目漱石は、生涯の大部分を東京ですごした江戸っ子作家でした。生まれたのも死んだのも東京で、お墓も東京・雑司が谷にあります。
現在でも東京の方々に漱石に関係のある土地・建物が残っており、私ども文学ファンが漱石の址をたどることができます。

錦華小学校
錦華小学校

 たまたま東京・御茶ノ水でインターネット関係の仕事をしていたとき、明治大学の裏に御茶ノ水小学校という小学校を見かけましたが、それが漱石が通った錦華小学校の後身であることを知りました。

小学校の前には、左の写真の『吾輩は猫である』の石碑が建っていました。

当時、錦華小学校は上流家庭の子弟が通う名門校だったようで、漱石は他の小学校からここに転校してきたとのことです。

漱石はこの錦華小学校を優秀な成績で飛び級卒業し、府立一中に進学しました。

東大文学部
東大文学部

 東京帝大を卒業した漱石は、後の小説 『坊ちゃん』 の舞台となった松山中学の教諭を経て、熊本第五高等学校(現在の熊本大学)の教授になりました。

その後、漱石は文部省留学生としてロンドンに派遣されました。その留学先で、漱石は強度の神経衰弱になり、留学期間を一年切り上げて帰国しました。

その後、漱石は第一高等学校教授、東京大学講師となりました。写真は、漱石が卒業し、後に教鞭をとった東大文学部の建物の入口です。この建物は、東大の中でももっとも古いものの一つです。

漱石は、東京帝大での英語教師の仕事に嫌気がさしていましたが、そこに亡友正岡子規の弟子俳人高浜虚子がやってきました。
虚子は漱石の愚痴を聞き、気分転換のために小説を書いて虚子が主宰する俳誌 『ホトトギス』 に掲載したらどうかとすすめました。漱石も乗り気になって、まずは目の前にいる漱石家の猫を主人公にして小説を書き始めました。

猫の家石碑
猫の家

 漱石は、この時期は文京区根津神社の近くの貸家に住んでいました。そこでデビュー作 『我輩は猫である』 など初期の名作を執筆したことから、その家は「猫の家」とよばれます。
現在はその家は「明治村」に移建され、その旧居址に川端康成の筆になる石碑(左の写真)が立っています。

石碑の横のコンクリート塀の上には、ブロンズの猫が一匹置かれてありました(^_^)。

なお、漱石が入居する前には、森鴎外がこの家に住んでいました。鴎外はここを出てから、近くの千駄木町に邸宅を構えました。


三四郎池
 初期の名作 『三四郎』 に登場して一躍東京名所の一つとなった三四郎池は、東京帝国大学キャンパスの前身である加賀藩前田家上屋敷の時代からあり、「ひょうたん池」と呼ばれていたとのことです。

小説 『三四郎』 では、この池のほとりで三四郎は団扇を持った若い女性里見美禰子(みねこ)に出会います。美禰子のモデルは、文芸誌 『青鞜』 の創刊者平塚らいてうであったといわれます。

三四郎池

この池は、面積はさほど大きくありませんが、シーズンごとに池の周囲の表情が大きく変わり、訪れる人々を楽しませてくれます。

東大理学部
東大理学部

 小説 『吾輩は猫である』 で苦沙弥先生宅に集う愛すべきキャラクタの中に、「水島寒月君」という人がいます。
寒月君は学問最高の府を一番で卒業した天下の秀才ということになっていますが、これは漱石の弟子でもあった物理学者寺田寅彦をモデルとしたといわれます。

写真は、東大理学部の中でももっとも古い建物で、現在では化学科の教室になっているそうです。
小説の中で寒月君が実験に使用する眼球レンズを磨いたのは、寅彦の職場であったこの建物ではないかと思われます。

漱石山房址の銅像
漱石山房址の銅像

 明治40年に、漱石は神楽坂の借家に転居しました。漱石は、亡くなるまでの9年間をここで過ごし、『それから』、『門』 など晩年の名作を執筆しました。

芥川龍之介など漱石門下の作家をはじめ、芸術家などが多数訪れたこの家は、やがて「漱石山房」と呼ばれるようになりました。

しかし、1945年にこの家は戦災で焼失し、現在ではその跡地が新宿区立漱石公園となっています。その公園のなかには、漱石の銅像が建てられていました(上の写真)。現在、公園内に漱石山房の建物を復元する計画が進行中だそうです。

漱石山房址の猫塚
漱石山房址の猫塚

 漱石山房址のなかには、「猫塚」という石を積み重ねた塚がありました。漱石が亡くなった後に、鏡子夫人が漱石家で飼っていた犬、猫、小鳥を供養するために建てたということです。
特に 『我輩は猫である』 の猫のために建てたのではないそうです。

漱石の短編小説 『文鳥』 は、弟子鈴木三重吉の勧めに従って漱石が白文鳥を飼ったときの顛末を書いた秀作です。ある朝、漱石は、文鳥が止まり木から落ちて死んでいるのを見つけます。その文鳥も、この塚の下に葬られたのでしょうか。

漱石山房址の句碑
漱石山房址の句碑

 漱石の銅像の近くに石の搭が立っていて、その一面に漱石の俳句のパネルがはってありました。

「人よりも空、語よりも黙」と前書きがあって、次の俳句が記されていました。漱石自身の短冊を写したものということです。

  肩に来て
      人なつかしや
          赤蜻蛉  夏目漱石
石塔の別の面には、有名な「則天去私」の揮毫のパネルがありました。「天に則り私を去る」と読むそうです。

夏目坂
夏目坂

 漱石山房址の最寄り駅地下鉄東西線早稲田駅西口の前にある坂は、夏目坂とよばれます。漱石の父はこの界隈の名主だったそうで、漱石もここで生まれました。漱石は、晩年になって誕生の地の近くに戻り、そこで亡くなったということになります。

坂の上り口に「漱石誕生の地」の石碑があるとのことですが、見落としました。小倉屋という酒屋がありましたが、随筆 『硝子戸の中』 に「この店は堀部安兵衛高田馬場の決闘にも登場する」と書かれています。
ふとこの近くの寿司屋の看板を見ると、「三四郎」と書かれてありました(^_^)。

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