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清張と多佳子 |
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社会派推理小説の大家として知られる松本清張は、青年時代まで現在の北九州市小倉で過ごしました。生家が貧しく進学できなかったので、印刷工をしながら文学の道を志ざし、やがて朝日新聞九州支社の社員になりました。
このころから、清張は小倉に縁のある文人・作家にテーマを取った短編小説を書き始めました。43歳のとき、森鴎外の 『小倉日記』 の偽作を題材にした 『或る小倉日記伝』 を書き、芥川賞を受賞しました。 |
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その翌年、清張は、今度はやはり小倉に住んでいた俳人杉田久女をモデルとした短編小説 『菊枕』 を著しました。
同郷の天才的俳人の華麗にして悲惨な生涯は、作家の創作欲を刺激したのでしょう。
この小説を読むと、清張が俳句に対して並々ならぬ思い入れを持っていたのがわかります。自分でもかなり句作を行っていたのではないでしょうか。
しかしこの小説は、久女の生涯をゆがめて脚色したとして、後に久女の遺族から名誉毀損で告訴されることになりました。 |
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橋本多佳子も、やはり小倉で実業家夫人として暮らしていましたが、その地で上記俳人杉田久女と運命的な出会いをし、その指導のもと俳句の道に入りました。
当時は、虚子がリードする客観写生主体のホトトギス調が支配的な時代でした。
多佳子も、最初は久女とともにホトトギスに所属していましたが、やがて山口誓子とともにホトトギスを離れて水原秋桜子の「馬酔木」同人になりました。
その後、誓子が俳誌 『天狼』 を創刊したのに同調し、多佳子も秋桜子門下を離れて天狼の同人になりました。 |
やがて夫が死亡した後、多佳子は上京し、下の俳句のように叙情的、主情的な瑞々しい句風で俳句の新境地を開拓しました。
雪墜(づ)る音
髪を洗ひて
眼つむれば 橋本多佳子 |
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橋本多佳子は明治32年生まれ、清張は明治42年生まれなので、清張は多佳子より10歳若いことになります。 後で述べるように、この2人は後に東京で面談をしています。
最近、清張に橋本多佳子をモデルとした短編小説がある、という話を聞きました。日ごろ清張の小説はほとんど読みませんが、この明治以降有数の俳人を描いた小説となれば大いに興味をそそられました。
そこで、家の近くにある世田谷区中央図書館に行き、清張の全集を探してみました。 |
前記のように、清張が文壇に出たのは42歳と遅かったのですが、それ以降は目をみはるほどの旺盛さで創作活動を行いました。図書館の書庫の清張全集は40巻以上もあり、それらの大多数がどこかで名前を聞いたことのある推理小説の大作でした。
それら大作にまじって、4巻の短編小説集がありました。前記のように、清張は最初は純文学の短編小説を書いていました。前記の杉田久女をモデルとした 『菊枕』 はそのころの作品です。
その後、社会派推理小説に転向してからも、大作の合間合間に短編小説や評論などを多数発表しています。それらの作品の間口の広さはまことに驚くばかりで、時事問題を取り扱ったものから古代史評論、昭和史発掘というものもあります。 |
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それら中期の短編小説集の中に、『花衣』という作品がありました。 内容を見ると、主人公の名前などは変えてありますが、私ども俳句の知識があるものには明らかに俳人橋本多佳子をモデルにしていることがわかりました。
『花衣』は昭和41年、作家が57歳のときの作品で、多数の連載の合間に時間を見つけて執筆したようです。 前記短編小説 『菊枕』 でもわかるように清張は俳句に関係する題材を長年温めてきており、それらの内の一つを使って短編小説を書きたくなったのでしょう。 |
なお、この小説は 『月光』 という名前で発表されたこともあります。「花衣」というと、私どもは杉田久女の名句
花衣
脱ぐやまつわる
紐いろいろ 杉田久女
を思い浮かべます。実際、この小説の中には、久女をモデルとしているとおぼしき田村ふさ女という女流俳人が登場します。しかし、清張がこの題名を選んだのはその久女の名句にちなんだのではなく、橋本多佳子が彫りの深い美貌でも知られていたからと思われます。 |
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実は、私はこれまで松本清張の小説をそれほど読んでいません。 私自身が久女俳句に惹かれていることもあり、久女をモデルとした清張の短編小説 『菊枕』 は何度も読みました。 芥川賞受賞作品で清張の出世作となった 『或る小倉日記伝』 も読みました。
また、清張中期の短編小説の秀作で後にテレビドラマや映画にもなった 『天城越え』 も夢中になって読みました。 『天城越え』 については、伊豆の現地に取材に行ったので近くご報告します(写真は旧天城トンネルです)。 |
以上で終わりで、後は雑誌に掲載された推理小説などを拾い読みした程度です。
今回、清張の短編小説をまとめて読んでみて、まず文体が相当な短文であるのに気がつきました。この点では、 『路傍の石』 などの小説で有名な山本有三の文体と似ています。 清張は、自分では原稿用紙に書かず、部屋の壁に向かって大きな声で語るのを専門の速記者に記録させたという話を聞いたことがありますが、この短文だからそれが可能だったのかと思います。
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『花衣』 の中には、橋本多佳子は「羽島悠紀女」という名前で登場します。多佳子の夫、久女との係わり合い、夫の死後大阪に出て山口誓子に師事するという経歴も、ほとんどそのまま別名の登場人物、別の場所に置き換えて語られています。
田村ふさ女という登場人物が久女をモデルにしていると思われますが、その人物については15年前に書いた 『菊枕』 と同じような遠慮のない取り扱いをしており、久女の遺族に告訴されたのもわかるような気がしました。
橋本多佳子は、優れた業績の割には経歴など不明の部分が多いとされます。特に結婚する前の学歴などは、まったくといってよいほどわかっていないそうです。 清張は、この辺は独自の調査を行ったようで、興味深い記事を書いています。もちろん、この作品はフィクションという位置づけなので、『花衣』 の記述が必ずしも事実というわけではありません。
また、山口誓子との師弟関係、俳人西東三鬼との関係についても、やはりフィクションという立場ながら詳細に書いています。この辺は、俳句史に関心のある私にとって興趣つきないところです。 |
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昭和38年2月、橋本多佳子は胆嚢炎が悪化し、入院しました。その入院の前日に、次の俳句を短冊に残しました。
雪はげし
書き遺すこと
何ぞ多き 橋本多佳子
その後病状は回復しないまま、5月29日にこの世を去りました。結局上の俳句が橋本多佳子の人生最後の作品になりました。 実業家夫人の生活、夫との死別、俳句に捧げた後半生という多佳子の波瀾の人生が、この俳句に凝縮されているようです。 |
まだ64歳のことで、主情的俳句という新分野を開拓した俳人の惜しまれる最後でした。
橋本多佳子の死の三年後、松本清張は前記の橋本多佳子、杉田久女をモデルにした短編小説 『花衣』 を発表しました。 |
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