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 身内で不幸があり、東京江東区亀戸にある普門院というお寺で納骨が行われることになりました。由緒ある真言宗のお寺で、この近くにある亀戸天神の末寺にあたるそうです。

亀戸・普門院

 このお寺は、太平洋戦争末期、昭和20年3月の「東京大空襲」の犠牲者を弔っていることでも、知られています。

10年ほど前にも、やはりこのお寺で行われた葬儀に出席したことがあり、その際、歌人伊藤左千夫の墓が寺の墓所にあったのを覚えていました。
今回、お寺の門を通ろうとすると、門のそばに「伊藤左千夫の墓」という石の柱がたっているのに気がつきました。前回には、たしかこの石柱は見かけませんでしたが、この10年ほどの間に立てたのでしょうか。


伊藤左千夫の墓

 普門院で故人の納骨が終わってから、墓所の中を見回すと、左千夫の墓を示す案内がありました。その方向に歩くと、墓所のヘリのあたり、木立に囲まれて薄暗いところに伊藤左千夫の墓がありました。
白っぽい墓石の表面に、ゴシック体の太い文字で、「伊藤左千夫之墓」と彫られてありました。

左千夫が亡くなったのは、今から90年近く前のことです。その年月の長さを物語るように、墓石はひびが入ったり、角の部分が欠けたりしていました。

一説には、短歌の道をこころざす人々が、上達を願ってこの左千夫の墓石を欠いて持っていくのが原因の一つとのことです。卑近なたとえで申し訳ありませんが、どこか、清水次郎長の墓がばくち打ちによって欠いて持っていかれてしまうのと似た話ですね(^_^)。

左千夫は江戸時代の元治元(1864)年、千葉県九十九里の成東町に生まれました。ここは、私の生家のすぐ近くで、私が生家に行き来するときいつも通る場所です。
左千夫は、政治家を目指し東京の大学に進学しましたが、眼病のため勉学を断念し、やがて現在の墨田区錦糸町の近くで牧場、乳業をはじめました。このころ、正岡子規の短歌改革運動を知り、大いに共鳴して、以降子規の門下で写生短歌の勉強を開始します。

10年近く前に、私がこの寺にきたときは、墓所の入口の近くに大きな左千夫の歌碑があり、そこには次の短歌が刻まれていました。

   牛飼がうたよむ時に
     世の中のあたらしき歌
       おほいに起る   伊藤左千夫

左千夫は、当時すでに37歳で子規より5歳年上でしたが、子規の短歌改革運動に強く共鳴した様子がうかがえます。今回私どもがこの寺にいったときは、この歌碑は、境内の工事のため移転したとのことで、見ることができませんでした。

以降左千夫は、子規の門下で研鑽を積み、いわゆる根岸派歌壇のリーダー的存在となりました。

歌壇アララギ

 やがて、万葉調の短歌を研究し、歌壇アララギを主宰します。その門下から、島木赤彦や齊藤茂吉など多くの近代短歌の俊英が輩出しました。
私の郷里にも近い千葉県九十九里海岸を詠んだ短歌です。どこか、源実朝の万葉調和歌を思わせる歌調です。
  砂浜の
      空と寄り合う九十九里の
         磯行く人ら蟻のごとくも
                   伊藤左千夫

 このページを書くにあたり、左千夫の短歌を調べているうちに目に付いた作品です。

  ・亀井戸の藤も終りと 雨の日をからかささして ひとり見に来し

  ・竪川に牛飼う家や 楓(かえで)萌え木蓮花咲き 児牛遊べり

  ・朝起きて まだ飯前のしばらくを 小庭に出でて春の土踏む

  ・九十九里の波の遠音や 降り立てば  寒き庭にも梅咲きにけり
   
                                伊藤左千夫

 実は、私は短歌には詳しくありません。今後、時間ができたら、芭蕉が終生敬慕した西行の和歌をはじめ新古今の名歌をぜひ研究したいと思っています。その私が、単なる短詩愛好者として上記の左千夫の作品を読むと、歌調の平坦さ、平明な表現に驚きます。

子規の短歌の弟子というと、この伊藤左千夫と小説 『土』 で有名な長塚節ですが、いつかちらと読んだ長塚節の短歌にも、やはり上記の左千夫の作品と似たようなものがかなりありました。子規の短歌の弟子というのは、このような傾向があるのでしょうか。

これら根岸派の短歌をほんの少し読んだだけの素人が、このようなことを書いて申し訳ありませんが、少なくともこれらの短歌では、作者が持ったであろう感動が私に十分に伝わってくるようには思われません。

野菊の墓

 最近では、歌人としては話題にのぼることも少なくなった感のある伊藤左千夫ですが、小説 『野菊の墓』 の作者として不朽の名を残すことになりました。

短編小説 『野菊の墓』 は、1906(明治39)年に、俳誌 『ホトトギス』 に発表されました。伊藤左千夫43歳のときの作です。
俳誌 『ホトトギス』 はもともと師子規がはじめたものですが、子規は1902年に死去し、その後子規の俳句の弟子の筆頭であった高浜虚子が引き継ぎました。虚子は、最初は小説家を目指したとのことで、小説には関心を持っていました。

1904(明治38)年に、虚子が亡師子規の親友であった夏目漱石の小説 『我輩は猫である』 をこのホトトギスに掲載し、空前の大ヒットとなったのはご存知のとおりです。
小説 『野菊の墓』 は、短歌と俳句の分野の違いがあるにせよ子規の弟子同士であった虚子が、同門のよしみで、自分の経営する俳誌 『ホトトギス』 に掲載してくれたのではないでしょうか。

現在の千葉県松戸市矢切の渡しの近くが、この小説の舞台です。主人公政夫は、作者左千夫の分身とも考えられ、土地の古い格式を持つ豪農の子供です。従姉の民子は、やや年上ですが、昔から政夫の家に出入りしていました。やがて政夫が、15歳となったころ、この二人の間に淡い恋心が芽生えます。

矢切の渡し

 この恋は、結局周囲の旧家の封建的な気風によって引き裂かれ、女主人公民子は他家に嫁がされます。最後は、民子は嫁ぎ先で病死し、学校の授業中に電報で家に呼び戻された政夫は、それを母から涙とともに知らされます。

この淡い悲恋の物語を、左千夫は、やはり上記の短歌と同じように、平坦な語り口で淡々と書き記しています。あからさまにいえば、文章力は小説家の域には達しておらず、稚拙といわれても仕方がないかもしれません。しかし、それだけに、淡々と語られるこの悲恋のはかなさが読者の胸を打ちます。

最後の部分で、政夫の母が自分の仕打ちをわびる様は読者の涙を誘います。

小説 『野菊の墓』 は、夏目漱石によって賞賛されたことで、その後有名になりましたが、基本的には地味な純愛小説でした。1955年に、《二十四の瞳》 などでも有名な木下恵介の監督・脚色により、《野菊の如き君なりき》 として映画化されたことで、以降は 《野菊の如き君なりき》 の原作として知られるようになりました。

この小説の舞台である松戸市の矢切の渡しは、松戸市と江戸川の対岸東京葛飾区を渡し舟で結ぶ東京地域唯一の渡し場です。最近では、細川たかしさんの演歌で 知らない人はないくらいになりました(^_^)。

地図で見ると、ここは、寅さんで有名な柴又帝釈天や、水元公園の近くです。先日、水元公園に行ったときに、帰りにこの渡しに寄りたかったのですが、水元公園の中が予想をはるかに超える広さだったため、すっかりくたびれてしまい、矢切の渡しには行かずに帰りました。いつか、ぜひこの渡しに行ってみたいと思います。

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