このページを書くにあたり、左千夫の短歌を調べているうちに目に付いた作品です。
・亀井戸の藤も終りと 雨の日をからかささして ひとり見に来し
・竪川に牛飼う家や 楓(かえで)萌え木蓮花咲き 児牛遊べり
・朝起きて まだ飯前のしばらくを 小庭に出でて春の土踏む
・九十九里の波の遠音や 降り立てば 寒き庭にも梅咲きにけり
伊藤左千夫
実は、私は短歌には詳しくありません。今後、時間ができたら、芭蕉が終生敬慕した西行の和歌をはじめ新古今の名歌をぜひ研究したいと思っています。その私が、単なる短詩愛好者として上記の左千夫の作品を読むと、歌調の平坦さ、平明な表現に驚きます。
子規の短歌の弟子というと、この伊藤左千夫と小説 『土』 で有名な長塚節ですが、いつかちらと読んだ長塚節の短歌にも、やはり上記の左千夫の作品と似たようなものがかなりありました。子規の短歌の弟子というのは、このような傾向があるのでしょうか。
これら根岸派の短歌をほんの少し読んだだけの素人が、このようなことを書いて申し訳ありませんが、少なくともこれらの短歌では、作者が持ったであろう感動が私に十分に伝わってくるようには思われません。 |
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最近では、歌人としては話題にのぼることも少なくなった感のある伊藤左千夫ですが、小説 『野菊の墓』 の作者として不朽の名を残すことになりました。
短編小説 『野菊の墓』 は、1906(明治39)年に、俳誌 『ホトトギス』 に発表されました。伊藤左千夫43歳のときの作です。
俳誌 『ホトトギス』 はもともと師子規がはじめたものですが、子規は1902年に死去し、その後子規の俳句の弟子の筆頭であった高浜虚子が引き継ぎました。虚子は、最初は小説家を目指したとのことで、小説には関心を持っていました。 |
1904(明治38)年に、虚子が亡師子規の親友であった夏目漱石の小説 『我輩は猫である』 をこのホトトギスに掲載し、空前の大ヒットとなったのはご存知のとおりです。 小説 『野菊の墓』 は、短歌と俳句の分野の違いがあるにせよ子規の弟子同士であった虚子が、同門のよしみで、自分の経営する俳誌 『ホトトギス』 に掲載してくれたのではないでしょうか。
現在の千葉県松戸市矢切の渡しの近くが、この小説の舞台です。主人公政夫は、作者左千夫の分身とも考えられ、土地の古い格式を持つ豪農の子供です。従姉の民子は、やや年上ですが、昔から政夫の家に出入りしていました。やがて政夫が、15歳となったころ、この二人の間に淡い恋心が芽生えます。 |
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この恋は、結局周囲の旧家の封建的な気風によって引き裂かれ、女主人公民子は他家に嫁がされます。最後は、民子は嫁ぎ先で病死し、学校の授業中に電報で家に呼び戻された政夫は、それを母から涙とともに知らされます。
この淡い悲恋の物語を、左千夫は、やはり上記の短歌と同じように、平坦な語り口で淡々と書き記しています。あからさまにいえば、文章力は小説家の域には達しておらず、稚拙といわれても仕方がないかもしれません。しかし、それだけに、淡々と語られるこの悲恋のはかなさが読者の胸を打ちます。 |
最後の部分で、政夫の母が自分の仕打ちをわびる様は読者の涙を誘います。
小説 『野菊の墓』 は、夏目漱石によって賞賛されたことで、その後有名になりましたが、基本的には地味な純愛小説でした。1955年に、《二十四の瞳》 などでも有名な木下恵介の監督・脚色により、《野菊の如き君なりき》 として映画化されたことで、以降は 《野菊の如き君なりき》 の原作として知られるようになりました。
この小説の舞台である松戸市の矢切の渡しは、松戸市と江戸川の対岸東京葛飾区を渡し舟で結ぶ東京地域唯一の渡し場です。最近では、細川たかしさんの演歌で 知らない人はないくらいになりました(^_^)。
地図で見ると、ここは、寅さんで有名な柴又帝釈天や、水元公園の近くです。先日、水元公園に行ったときに、帰りにこの渡しに寄りたかったのですが、水元公園の中が予想をはるかに超える広さだったため、すっかりくたびれてしまい、矢切の渡しには行かずに帰りました。いつか、ぜひこの渡しに行ってみたいと思います。 |