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中村草田男 |
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中村草田男は、1901(明34)年に中国福建省で生まれました。女流俳人中村汀女や星野立子とほぼ同じころの生まれ、俳人水原秋桜子より9歳ほど後に生まれたことになります。
その後まもなく、中国から親の本籍地である四国松山に帰国しました。この草田男もまた、俳都松山の誇る俳人の系譜に名を連ねているのです。
草田男は後に明治の代表的俳人として5人を挙げていますが、その中4人が松山出身で、残る一人として挙げた夏目漱石も松山と深い縁がありました。 |
この辺は、草田男先生のおらが郷意識も若干あるのでは・・・とも思われますが(^_^)。
上の写真で、上部は松山城、下左は正岡子規、下右は夏目漱石です。
草田男はその後、俳句の名門コースである松山中学、松山高等学校を経て東大独文科に入学しました。そこで東大俳句会に入会し、水原秋桜子の指導を受けて「ホトトギス」に投句するようになりました。 |
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草田男は、昭和4年、29歳のときに虚子のもとに入門して本格的に俳句を勉強し始め、昭和9年には 『ホトトギス』 の同人になりました。
その同じ昭和9(1934)年、虚子らの保守的俳句にあきたらなくなった秋桜子は、ついに 『ホトトギス』 を離脱し、俳誌 『馬酔木(あしび)』 を主宰して独自の俳句活動を始めました。
秋桜子に同調する加藤楸邨、石田波郷など若手俳人もそれにつれ『ホトトギス』 を離れ、秋桜子のもとに参集しました(左の写真は馬酔木の花)。 |
草田男は 『ホトトギス』 を離れることはしませんでしたが、心情的には従来のホトトギス調花鳥風月路線にあきたらず上記若手俳人らに共感を多く持っていました。
やがて加藤楸邨、中村草田男、石田波郷らは、所属結社を超えて人間の内面の表現追求を目指す創作活動をともに行うようになりました。文芸評論家山本健吉は、このグループを「人間探究派」と名づけました。 |
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昭和11年には、草田男の第一句集 『長子』 が出版されました。この句集の序文は、高浜虚子が書いています。 その句集中に下記の有名な句があります。
降る雪や
明治は遠く
なりにけり 中村草田男
上記のように、草田男は客観写生中心のホトトギス路線には不満がありましたが、他方、ホトトギスから離脱した秋桜子の感覚的でときに人工的な表現にも違和感を持っていました。 |
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基本的にはかなりオーソドックスな句風で、その中に人生、社会を盛り込もうと努力したのが草田男の俳句です。なお、上の写真は、世田谷区の松蔭神社にある元総理大臣岸信介筆の「明治百年」記念碑です。 |
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草田男は、昭和14年、俳誌主催の座談会に波郷、篠原梵らとともに参加したのがきっかけで、自己の俳風を確立して行きました。草田男が結婚して間もないころでした。同年、句集 『火の鳥』 を刊行しましたが、その中に草田男の名を不朽にした次の俳句があります。
萬緑の中や
吾子(あこ)の歯
生え初むる 中村草田男
「萬緑」という言葉は、王安石の「萬緑叢中紅一点」が出典とのことです。 |
草田男のこの俳句により、以降この言葉は夏の季題として広く認められるようになりました。人間探究派俳人草田男の一生を代表する名作です。
この俳句の句碑が、東京都調布市の古刹深大寺にあります(上の写真)。本堂の向かって左側、釈迦堂に行く方向の藪の手前です。
草田男は1983(昭58)年に82歳で亡くなりましたが、その少し前に傘寿を記念してこの句碑が立てられたとのことです。草田男は五日市市在住で、また成蹊高校の教授を長く勤めたので、この地に縁がありました。
私は、30年以上前に初めてこの俳句を知って以来、何度読んでもそのたびにこの輝かしい生命賛歌に感激をおぼえます。句のスケールの大きさ、力感、そして生命力の明るい表現、どの面から見ても草田男の代表句というにとどまらず、昭和を代表する俳句の一つといえましょう。現代でしたら、まさに国民栄誉賞ものではないでしょうか。
当然ながら、この俳句は当時の俳句界にセンセーションを巻き起こし、「萬緑」という言葉は万人の賛嘆の中、盛夏の季題として定着することになりました。あまりよい弟子とはいえなかった草田男のはじめた季題ではありますが、虚子もその季題の魅力に抗せなかったのか次の俳句を詠んでいます。
萬緑の
萬物の中
大仏 高浜虚子
また、次の優れた俳句もこの季題で詠まれました。
萬緑や 萬緑や
一人で渡る わが掌に釘の
橋長し 砂井斗志男 痕もなし 山口誓子
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橋本多佳子は草田男より二つほど年長でしたが、お互いに共感するところが多く、同じグループで血の出るような研鑽を積んだこともあるそうです。
当然多佳子も草田男の萬緑の俳句に強く感動したと思われます。
多佳子は、九州小倉で実業家夫人として暮らしているうちに、やはり小倉在住の杉田久女と運命的な出会いをしました。 俳句をまったく知らなかった多佳子は、久女にゼロから手ほどきをしてもらい、やがて明治以降有数の才能を開花させました。 |
久女は終戦の少し前から精神に異常をきたし、大宰府の精神病院に収容されました。その病院で、極度の栄養失調などにより衰弱し、その冬にこの世を去りました。
師とも姉とも頼む久女の悲惨な死を知った多佳子のショックは、想像するに難くありません。1954年夏に、多佳子は久女終焉の地をまた訪れ、次の俳句を詠みました。
萬緑や
わが額(ぬか)にある
鉄格子 橋本多佳子
盛夏の沸き返るような緑の中、精神病院の鉄格子に額をつけて、かつてここに収容され、ここで死んでいった久女の冥福を祈ったのでしょう。 |
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草田男は昭和58年8月に亡くなりましたが、死の前日、病床でカトリックの洗礼を受けてクリスチャンになりました。
草田男の墓は東京あきる野市の五日市霊園にありますが、その墓碑に次の俳句が刻まれてあるそうです。
勇気こそ
地の塩なれや
梅真白 中村草田男
地の塩とは、新約聖書マタイ伝福音書にイエスの山上の垂訓として次の記述があるのを指すとのことです。 |
「汝らは地の鹽なり、鹽もし効力を失はば、何をもてかこれに鹽すべき。 後は用なし、外にすてられて人にふまるるのみ。」
この聖書の記述には、いろいろな解釈があるようです。私が何通りかを調べて自分なりに納得がいったのは、「つまりイエスの教えに従ったがために迫害された人は地の塩のように価値があると言うことです。」という解説でした(自分勝手な納得なので、クリスチャンの皆様には叱られるかも知れません)。
当時、塩は、食品の味付けと保存に使われる貴重なものだったそうです。その塩のように、人間が人間らしくプライドを持ち、社会的意義を感じつつ生きるのに必要なもの、それを草田男は地の塩とよび、それは「勇気」であると詠んだのでしょうか。
この俳句の肩肘張らない自然な句調の中に、草田男の人間愛、社会への思いやりがあふれるように感じます。「梅真白」が、また、凛としてすばらしいではありませんか。
私どもも、草田男のように勇気とプライドを持って生きてゆければと思います。
地の塩の
木に咲きたるや
梅真白 |
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