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 かねてより私は、夏目漱石の生涯が菊との係わり合いが多いのに興味を抱いていました。今年もあたかも菊のシーズンとなったので、皆様とともに漱石の生涯をたどりながら、その時々に華やかにあるいは寂しげに姿を見せる菊の花々を愛でましょう。

夏目坂
夏目家の家紋

 夏目家は、代々江戸町奉行支配下の町方名主を務める家柄でした。漱石の父は、神楽坂から高田馬場あたりまで11ヶ町を支配していたそうです。

自伝的エッセイ『硝子戸の中』で    
「私の家の定紋(じょうもん)が井桁に菊なので、それにちなんだ菊に井戸を使って喜久井町としたという話は、父自身の口から聴いた」
と漱石は述べています。
地下鉄東西線早稲田駅の近くに「夏目漱石誕生の地」の石碑があり、その前の坂が夏目坂と呼ばれています(左の写真)。

正岡子規
松山に赴任

 やがて、漱石は東京帝大英文科を優秀な成績で卒業し、松山中学の英語教師として四国に赴任しました。

漱石がなぜ地方に赴任したかについては諸説ありますが、大塚楠緒子という才媛をめぐる恋愛に敗れたためとする説が有力視されています。
この大塚楠緒子という女性は、後に漱石の晩年になってやはり菊にかかわるエピソードに登場することになります。

さて、松山には東京帝大の同期生正岡子規がいたので、漱石は子規と親交を深めて行きました。

まもなく子規は結核を病み、漱石の下宿に居候をするようになりました。その後病がやや癒えた子規はその漱石の下宿で盛んに句会を催したので、漱石も次第に俳句の世界に引き込まれて行きました。

後に漱石は、初期の名作の一つ 『草枕』 を俳句的小説と位置づけたそうです。漱石は、日本における近代小説の創始者であると同時に、刎頚の友正岡子規とともに近代俳句の確立に努めた俳人ともなりました。

上の写真は、子規が水彩で描いた自画像(部分)だそうです。漱石は、後に子規の画について「下手である」と書いています。上の自画像もたしかに上手ではないかも知れませんが、独特の味があり、自分の顔の特徴を実によくとらえているように思われます。

子規との別れ
子規との別れ

 やがて子規は、東京で文筆活動をするために松山を去ることになりました。そのはなむけに、漱石は「送子規 」と題して次の俳句を詠みました。

  御立ちやるか
      御立ちやれ新酒
          菊の花   漱石
漱石が奉職した松山中学は、現在では松山東高校という学校になっています。

漱石が送ったこの俳句は、子規の返句とともに、その高校の校庭にある句碑に刻まれているそうです。

この別れの際、漱石は子規に10円のお金を貸したということです。子規は当然ながら大いに感謝して松山を去りましたが、まっすぐ東京に行くのではなく、京都・奈良に向かいました。そして、そこに長逗留して方々を見物して歩き、漱石が貸し与えたお金を使い果たしてしまいました(^_^)。

子規の俳句の中でもとりわけ有名な
   柿食えば
       鐘がなるなり
           法隆寺    子規
は、この旅行をしたときに詠まれたものだそうです。

東菊
あづま菊の水彩画

 明治28(1895)年、漱石は松山を去り、第五高等学校の英語教授として新任地熊本に向かいました。

このころ子規は、脊髄カリエスが悪化して手術を受け、その後闘病生活を送っていました。病床で水彩画を勉強していた子規は、明治33(1900)年にあづま菊の水彩画を描いて熊本の漱石に送りました。

あづま菊というのは左の写真の小菊で、よく庭の隅などにある地味な花です。
この花が、子規の病室の花瓶にさされてあったのでしょうか。それを描いた絵に、次の短歌がそえられていました。

   あづま菊
       いけて置きけり 火の国に
           住みける君の 帰りくるかね   子規

火の国とは、阿蘇山のある熊本のことです。今はそこにいる漱石に早くまた会いたいという思いが率直に詠まれています。

漱石は、明治44年に発表した「子規の畫」という小品の中で、子規の描いたこのあづま菊の絵について語っています。後に、漱石はこの絵と子規からきた手紙をいっしょにまとめて表装させたということです。

黄菊白菊
黄菊白菊

 漱石は、熊本で4年あまり暮らしましたが、その間は漱石の一生でもっとも俳句に熱中した時期でした。漱石は生涯におよそ2600句を詠んだとされますが、その大部分はこの熊本時代の作句です。それらの中には、菊を扱ったものがかなりあります。

  黄菊白菊
      酒中の天地
          貧ならず  漱石
上の俳句も菊のシーズンの酒をたたえたものですが、三十代前半の文学者の瑞々しい発想が読者の心をとらえます。

白菊
菊抛げ入れよ棺の中

 その後漱石は、イギリス留学を経て東京帝大の英文科講師に任命されました。
やがて、子規の弟子であった俳人高浜虚子のすすめで俳誌ホトトギスに 『我輩は猫である』 を掲載したのをきっかけとして、漱石は小説家となりました。

さて、かつて漱石の恋愛の対象であったとされる大塚楠緒子は、漱石の友人と結婚していました。その結婚式には、漱石も出席したそうです。
昔から文才のあった楠緒子は、かねてより小説家を志望しており、やがて漱石の教えを受けるようになりました。

楠緒子は、漱石の推薦により小説を新聞に連載していた明治43年にインフルエンザから肋膜炎となり、11月はじめに35歳の若さでこの世を去りました。

このとき漱石は44歳で、自身も持病の胃潰瘍が悪化し、入退院を繰り返していました。その中で、青年時代からの長い係わり合いのある女性の早すぎる訃に接し、漱石は胸中に万感去来するものがあったことでしょう。
おりしも鮮やかに咲き誇る菊の花に思いを託し、漱石は次の有名な俳句を楠緒子の霊に手向けました。

   有る程の
       菊抛げ入れよ
           棺の中    漱石
楠緒子は、和歌、日本画にも優れた才能を示した才色兼備の女性であったとのことです。

雑司が谷墓地
 漱石は永年胃弱に悩みましたが、晩年には糖尿病なども併発して衰弱し、大正5年(1916年)12月9日に死去しました。まだ50才の若さでした。

晩年の住居「漱石山房」に近い雑司が谷墓地に、漱石夫妻の墓があります(下の写真左側)。墓地の中央に位置する大きな墓碑には、菊の紋章がついていました。

同じ雑司が谷墓地の入口に近いところに、 大塚楠緒子の墓がありました(下の写真右側)。シンプルな白い墓石には、「文学博士大塚保治妻楠緒之墓」と刻まれてありました。

漱石の墓 大塚楠緒子の墓

白菊
芥川龍之介

 芥川龍之介は、東京帝大在学中に書いた短編小説 『鼻』 が漱石に激賞されたことで、作家の道を歩み始めました。

その漱石は、龍之介が東大を卒業した1916年の12月に亡くなりました。敬慕する師を突然失い、龍之介の受けたショックは大変大きかったことでしょう。

もともと詩的才能が豊かであった龍之介は、子供のころから俳句を詠んでいましたが、その後虚子の教えを受け、一段と優れた俳句を作るようになりました。漱石以降の作家の中では、俳句に関しては龍之介と永井荷風が双璧といえましょう。

漱石一周忌のときに、芥川龍之介は次の俳句を詠みました。
   人去つて
       むなしき菊や
           白き咲く   芥川龍之介
漱石先生の葬式のときは、白菊の季節であった。それから一年、またその季節になったが、白菊を見るにつけ漱石なき世のむなしさを感ずるばかりである、という句意です。「むなしき」という言葉の語感がこれほど生かされた俳句は、私は他に知りません。

その龍之介も、漱石が亡くなってから11年後の昭和2年(1927年)に、極度の神経衰弱から 「ぼんやりとした不安」 と書き残して睡眠薬自殺をしました。

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