芭蕉が最上川下りの船に乗り込んだ山形県本合海(もとあいかい)には、「史蹟芭蕉乗船之地」という標柱があり、そのそばにこの俳句の句碑が立っているということです。
一方、与謝蕪村は
五月雨や
大河を前に
家二軒 与謝蕪村
という俳句を残しています。この句は、上記芭蕉の地で詠んだというものではないようですが、芭蕉を敬慕していた蕪村のことですから、芭蕉の俳句を意識して作ったのは間違いのないところでしょう。 |
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子規は、上記二人の大天才が詠んだ大河の俳句を比較して、蕪村の俳句のほうが優れていると述べています。
子規は、若いころ蕪村の俳句を目にして感激して以来、方々に残されていた蕪村の句を収集し系統的に研究してきました。
子規は死ぬ数日前にも弟子虚子らとともに蕪村俳句の研究会を行なっており、蕪村に強く惹かれていたのがわかります。
上記芭蕉の乗船の地本合海は、古来俳人や俳句愛好家が多く訪れています。子規もまた、その芭蕉乗船の地に行って、次の俳句を詠みました。 |
ずんずんと
夏を流すや
最上川 正岡子規この俳句には、上記蕪村の俳句の文人画的構成、そして増水する大河のほとりにある家の住人の不安といった詩的内容は見られません。どちらかというと芭蕉に近い、率直で力強い句調です。
最初に述べた「歌よみに与ふる書」で主張している和歌の理論もそうですが、やはり「ありのままに正直に詠む」率直な表現が、詩人としての子規の資質ということでしょうか。 |
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闘病生活が長かった子規には、病床の俳句がたくさんあります。それらの中で最も有名なものが、次の雪の俳句でしょう。
いくたびも
雪の深さを
尋ねけり 正岡子規
外で雪が積もり始めると、人通りが少なくなり、また騒音が雪に吸収されるので、次第に外部の物音がしなくなります。
病床に臥していて、外が次第に静かになり寒さもつのってきたので、雪がかなり積もってきたのであろうと想像します。 |
この雪で、自分の病状ももっと悪くなるのではないかと不安がつのってきました。看護してくれる家人が近くに来るたびに、つい何度も、外では雪がどのくらい積もったかと尋ねてしまいました。
ただそれだけの俳句ですが、病床の作者子規の不安が読者にひしひしと伝わってきます。ここには、俳句の原点の一つがあると感じます。 |
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最後に、子規の率直な俳句を、もう一つご紹介しましょう。
雛あらば
娘あらばと
思ひけり 正岡子規
世間では雛祭りで、女児たちが着飾って祝ってもらっている様子を見て作った俳句でしょうか。
生涯独身だった子規は、晩年(といってもまだ30歳代です)、松山からお母さんと妹さんを東京に呼び寄せ、現在「子規庵」になっている家で一緒に暮らしました。 |
子規の長い闘病生活の間、これら二人の女性が献身的に子規の世話をしたとのことです。当然子規は、女性の優しさを身にしみて感じていたでしょう。
雛の節句の時期に、独身だった子規は、おもわずこの俳句を詠んだのでしょう。たださらりと詠んだだけですが、なんという優しくまた瑞々しい俳句でしょうか。女児の愛らしさ、いとおしさを知っている者すべての共感を呼んでやみません。 |