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 世田谷区南烏山にある世田谷文学館を訪れたとき、林芙美子が一時世田谷区太子堂に住んでいたのを知りました。世田谷区が私鉄の開通により急速に宅地化し、家賃の安い貸家が多くできたため、多くの作家の卵たちが住むようになったのです。三軒茶屋、太子堂の界隈には、平林たい子、壷井栄、佐多稲子、林芙美子などが住みつきました。

今回私どもは、世田谷区三軒茶屋駅まで東急田園都市線で行き、そこから20分ほど歩いて太子堂に着きました。

太子堂の旧居

 「泥沼に浮いた船のように、何と淋しい私たちの長屋だろう。兵営の屍室と墓地と病院と安カフェに囲まれたこの太子堂の暗い家にもあきあきしてしまった」

芙美子の出世作となった短編小説 『放浪記』 の一節です。その長屋があった横丁の入口に、左の写真のプレートが立てられていました。

長屋の隣の部屋には、やはり作家の壷井栄夫婦が住んでいました。また「墓地」というのは、近くにある有名な真言宗のお寺円泉寺の墓所のことです。


放浪記

 昭和5年に、浮き草のように寄る辺のない自分の人生を語った日記体の小説 『放浪記』 を発表しましたが、これが記録的なベストセラーとなりました。
その 『放浪記』 の冒頭に、芙美子は「私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない」と書いています。

この小説を今日知らない人がないくらい有名にしたのは、女優森光子さんの体当たり演技でした。森光子さんは大阪でお笑いをしていたところ、演劇界の帝王といわれた菊田一夫がたまたまその劇場を訪れました。

菊田一夫は、そこで森さんの舞台を見て、『放浪記』 の主役に抜てきしたとのことです。1961年に東京・日比谷の芸術座で 『放浪記』 が上演されるや、日本中が沸きかえり、つい最近にいたるまで続く延べ1500回以上ものロングランとなりました。

念願の家つくり
 身を刻むような辛苦の末、一躍流行作家になった芙美子は、かねてより切望していた家つくりをはじめました。行商をしていた親に連れられて幼いころから各地を転々としていた芙美子にとって、自分の城をもつのは最大の夢だったのでしょう。

東京・新宿区落合の高台に300坪の地所を入手した芙美子は、やがてそこに純日本式の住居を建てましたが、現在それが「林芙美子記念館」となっています。その記念館の入口に、芙美子がその住居を建てたいきさつを記したプレートが置れていました。
その一部をここに転記します。
家をつくるにあたって
                 林芙美子

 私の生涯で家を建てるなぞとは考えてもみなかったのだけれども、(中略)幸ひ300坪の地所を求めることができた。私はまず家を建てるについての参考書を200冊近く求めておよその見当をつけるようになり、材木や瓦や大工についての知識を得た。

東西南北風の吹き抜ける家というのが私の家に対する最も重要な信念であった。客間には金をかけないことと、茶の間と風呂と厠と台所には十二分に金をかけることというのが私の考えであった。生涯を住む家となれば、何よりも愛らしい家を造りたいと思った。
この落合の地所は、山を背にした南向きの地形で、大きな木がしげった邸宅地でした。

落合の旧宅

 芙美子は、このように大変な熱意で家つくりに取り組み、建築家や大工と一緒に京都などに行って方々の住宅を見て参考にしたり、建材を入手したりしたということです。

居宅の一部には、画家であった夫のためのアトリエも造られました。
若いころ男性関係で辛い思いをした芙美子は、優しいこの男性にめぐりあったことで精神の安定を得て、創作に打ち込むことができるようになったのです。この間の事情は、初期に書かれた短編の随所から読み取ることができます。


長編小説『浮雲』
 芙美子がこの家を建てたのは、1940年のことと思われます。その後この家に住んで多忙な作家活動を行いましたが、当時盛んだった婦人雑誌など向けの小説も多く、芸術的価値としては玉石混交といったところでしょう。

1949年から1951年にかけて、「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」で有名な長編小説 『浮雲』 を執筆しました。脱稿後まもなく芙美子は亡くなっていますので、この小説がまさに芙美子の創作の締めくくりになりました。
内容からいっても、またスケールの大きさから見ても、『浮雲』 は芙美子の作品の中でずば抜けており、昭和文学史に残る傑作といえましょう。

私どもの世代ですと、『浮雲』 は小説としてはもちろんのこと、映画の名作としても忘れられません。1955年に主演高峰秀子、森雅之、監督成瀬巳喜男で制作された映画 『浮雲』 は、日本映画史上の秀作となりました。 助監督が岡本喜八、 脚本は水木洋子、助演陣に岡田茉莉子、山形勲、加東大介、金子信雄、米兵役にロイ・H・ジェームスという豪華なスタッフでした。

芙美子の葬儀

 芙美子は、昭和26(1951)年に、47歳の若さで自宅で亡くなりました。夜遅く家に帰ってきてから自らお汁粉を作り、皆にふるまったその夜のことだったそうです。新居を建築してからわずか6年後のことでした。
また、自作の 『放浪記』、『浮雲』 が、舞台や映画で日本文化の財産になったといえるほどの成功を収めたのを知る前でした。

芙美子は、新聞小説などメジャーな小説の依頼を獲得するのに執念を燃やしました。
幼少時からどん底の生活を送ってきた人生が、そうさせたのかと思われます。

そのため、自分のライバルの作家が台頭してくると、ありとあらゆる手段で追い落としを図ったといわれます。
そのためか、葬儀に訪れた弔問客の中には芙美子への悪口を漏らす人もいたそうです。葬儀では、故人と家族ぐるみの親交があった川端康成が葬儀委員長を務めましたが、弔辞の中で川端康成は「死は一切の罪悪を消滅させますから、どうか故人をゆるしてもらいたいと思います」と述べたということです。
現在芙美子は、高台にあるこの旧宅から望める落合火葬場の近くにあるお寺の墓所に眠っています。

落合旧宅の庭

 私どもがこの芙美子旧宅を訪れたとき、ダケカンバと思われる庭の幹の白い大きな木が黄落のときを迎え、夕日に輝いて立っていました。

芙美子には秋がよく似合います。かならずしも優れた文章家とはいえない芙美子の作品が読者の心を打つのは、人生のはかなさ、庶民生活の哀しさが行間から滲み出ているためでしょうか。
私は初期の短編が好きですが、それらには技術的にはつたなさが残っているにもかかわらず読者を引き込む力を感じます。
  黄落や
      芙美子の書斎に
          夕日映え

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