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小説 『死の勝利』 |
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映画 『ローマの休日』 で有名なローマの観光名所スペイン階段を見てから、私どもはその北にあるボルゲーゼ公園に向かいました。緩やかな上り坂を10分ほど歩いて行くと、広大な公園に入りました。
ボルゲーゼ公園は、もとは17世紀はじめにボルゲーゼ枢機卿が造営させた別邸ボルゲーゼ荘でしたが、現在ではローマ最大の緑地公園になっています。
ふと見ると、公園の木立の間から巨大な気球が上昇し始めたところでした。30人乗りの巨大気球で150メートルの高さからローマ市内を一望できるということです。 |
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公園の中には、ボルゲーゼ美術館、国立近代美術館などさまざまな施設があり、ローマ市民の憩いの場となっています。 ボルゲーゼ公園の西の端には、ピンチョの丘と呼ばれる高台があります。イタリア独特の丈の高い松が茂った広々とした丘で、その西側は高い擁壁になっています。
イタリアの作曲家レスピーギが作曲した交響詩 《ローマの松》 の第一楽章は 《ボルゲーゼ荘の松》 と名づけられています。 これは、ピンチョの丘の松林で子供たちが松の間を出たり入ったりして遊ぶ様子を描写したものとされます。 |
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ピンチョの丘の高い擁壁の下には、ポポロ広場という大きな円形の広場があります。ここには高さ24 メートルの巨大なオベリスク(尖塔)が立っていますが、これは古代ローマ時代にエジプトから持ってきたものということです。
ポポロ広場の北側に門がありますが、ここが中世ローマ時代には北に面する玄関口だったそうです。ポポロ広場の南側から、3本の道路がローマ市内に向けて放射状に伸びています。上の写真で、オベリスクの向こう側、南にまっすぐ伸びている広い通りが、観光客に人気の高いコルソ通りです。 |
私どもは、3年半ほどまえにローマに行き、この公園を訪れました。最近、そのころ撮った写真を整理しているうち、ふと何十年も前に読んだ小説 『死の勝利』 の一節を思い出しました。たしか、小説の冒頭に高い擁壁から人が身を投げたという部分がありました。またその少し後に、もう公園が閉まる時刻なので入園者は退出するようにと園丁たちが叫んでまわるという一節もありました。
あの小説にでてきた公園はどこだったのでしょうか。そう思うとたまらなくなり、家の近くにある世田谷区中央図書館に行って見ました。
『死の勝利』 は、イタリアの詩人・作家ダヌンツィオが1893年に書いた小説です。1893年は明治26年にあたり、日本ではその前年に日清戦争が勃発しました。ダヌンツィオより4年後に生まれた夏目漱石は、この年に東京帝国大学文科大学の英文科を卒業し、その2年後に小説 『坊ちゃん』 の舞台となった松山中学に英語教師として赴任しました。
世紀末的風潮が世界を覆う中で発表されたこの小説は、世界中に強烈なインパクトを与え、英語をはじめ各国語に翻訳されて広まりました。日本では、生田長江によって翻訳され、折からの大正デカダンスの風潮も相いまって社会現象的な様相を呈したそうです。 |
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さて、この傑作 『死の勝利』は、世田谷区中央図書館の書棚にはありませんでした。図書館の係に問い合わせたところ、「保存庫」という場所に置いてあるのがわかりました。この小説の和訳は長く岩波文庫で出版されていましたが、現在ではもう絶版になっているとのことでした。
ともかくこの図書館にあるというので胸をなでおろし、さっそく借りて自宅に持ち帰りました。1991年刊の岩波文庫で、上下2巻になっていました。上はその文庫本にあった作者ダヌンツィオの写真で、かなり若いころ撮影されたものと思われます。 |
冒頭の10行ほども読んだところで、何十年も前にこの小説を読んだ記憶がはっきりとよみがえりました。やはり、冒頭は擁壁から身を投げて自殺した人が出たというシーンでした。 この冒頭の彫りのふかさ、緊迫感は恐ろしいほどで、一度ここを読んだ人はおそらく何十年たっても忘れることはないでしょう。翻訳は野上素一というイタリア文学者ですが、手堅い翻訳で好感が持たれました。
さらに、数行読み進むと、「ピンチョの丘」という言葉が出てきました。やはり、この小説は、ボルゲーゼ公園を舞台にしていたのです。私にしてみれば、イタリア旅行でたまたま行ったローマの公園が、何十年も前に読んだ傑作の舞台になっているのがわかったわけで、一挙に興味が高まるのを感じました。 |
小説の主人公ジョルジュは、上流階級にありがちな自己中心的で芸術家肌の青年です。ハムレット的な意志の弱さに加えて、しっかりとした倫理観も持っておらず、恋人イッポリタとの救いのない関係を続けています。
一方イッポリタは、不仲の夫から逃れて、ジョルジュとのはかない恋愛に身をゆだねてきました。流れにただよう浮き草のような二人の生活が、イタリア中部の美しい風物を背景として描かれます。
ダヌンツィオは、イタリア中部アドリア海岸の都市ペスカラに生まれました。小説の中では、ジョルジュが次第に死による現実からの逃避に傾く中、二人がローマの東側にある町をいくつか訪ねるのが描かれます。 父の家がその地方の都市グァルディアグレーレにあるという設定になっていますが、そこでジョルジュは両親間のいさかいに巻き込まれ、また手ひどい精神的ダメージを受けます。
最後は、二人はローマ東方アドリア海岸の高いがけの上の町に逃避行をします。ジョルジュはそこにピアノを運ばせ、音楽の世界に浸りますが、やがてワグナーの 《トリスタンとイゾルデ》 の世界に取り付かれます。 |
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この楽劇では主人公たちが官能的な愛欲の果てに命を絶ちますが、ジョルジュもそれと同じように死ぬ決意を固めました。
ある夜、ジョルジュはイッポリタを崖の上に散歩に行こうと誘います。崖の上につくと、海の音がとどろき、下の海の岩礁に砕ける波が星明かりのもとで白く光っていました。
不意にジョルジュはイッポリタをかかえ、崖の渕に運びました。ジョルジュの意図をさとったイッポリタは「人殺し!」と叫び、必死に抵抗します。一緒についてきた犬がはげしく吠え立てる中、二人はもつれあって死に転落していきました。 |
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小説の最後の部分は、徐々に緊張感が高まって最後の身投げに至るさまがまことにすさまじく、読者はダヌンツィオの天才に圧倒されるのみです。私も昔この小説をはじめて読んだとき、読み終えてしばらく呆然としていたのを覚えています。 |
小説 『死の勝利』 後半の舞台は、ダヌンツィオの生地でもあるイタリア中部・アブルッツォ州です。ローマの東方、アペニン山脈からアドリア海にいたる地域で、国立公園の多い風光明媚な土地だそうです。
私どもがローマに行ったときは、イタリア半島の東側からアドリア海を渡ってアブルッツォ州の上空を飛び、アペニン山脈を越えてローマ空港に着陸しました。下の写真で、山脈の手前がローマ側、山脈の向こうが・アブルッツォ州・アドリア海側です。
飛行機でアペニン山脈を越えたのはもう夕方に近くなっていたので、山脈に西側から陽があたり、山脈全体が白銀のように輝いていました。このあたりは緯度は東京と同じくらいで比較的低いのですが、山脈の高さが2500メートル以上もあるそうで、下の写真のように深い雪に覆われていました。碧いアドリア海を超えてきた後のことで、この白銀の粧いが目がさめるほど印象的でした。 |

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夏目漱石の蔵書の中に英語版の 『死の勝利』があり、漱石が書中に書き込みをしているということです。 研究者によれば、漱石は1908年ごろこの本を読んだと考えられるそうです。漱石は、この前年大学を辞職して朝日新聞社に入社し、作家活動に専念するようになりました。1908年は 『虞美人草』 に続き 『三四郎』 を朝日新聞に連載中でした。 漱石も、 欧米で評判が高いと聞いて 『死の勝利』 を読んだのでしょうか。 |
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当時漱石の弟子であった森田草平も、 『死の勝利』から多大の影響を受けました。
1908年に、森田は那須塩原で平塚らいてうとなぞの心中未遂事件をおこし、世間を騒がせました。平塚らいてうは、漱石の 『三四郎』 中の人物美禰子のモデルとされる女性です(左の写真)。当時、この事件は「死の勝利事件」とよばれたそうです。
最近では、作家三島由紀夫がダヌンツィオの 『死の勝利』 と 『聖セバスチャンの殉教』 から大きな影響を受けたとされます。 |
後世にも多大の影響を与えたこの傑作の和訳は、長く岩波文庫で出版されていましたが、前記のように私が図書館に借りに行ったころは絶版になっていました。
私はそれを大変残念に思っていましたが、最近それが復刻になり書店で普通に販売されているのを知りました。ぜひ多くの文学愛好者に読んでいただければと思います。 |
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