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太宰と清張 |
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本2009年は、昭和の中ごろから戦後にかけて活動した二人の作家太宰治と松本清張の生誕100年に当たり、文学界、出版界では、さまざまな記念行事をしています。
これら二人の作家が同年生まれとは少々意外に思われ、少し調べてみたところ、二人の生涯が両極といってもいいほど違っているのがわかりました。また、作品の分野も作風も大きく異なります。
以下に、二人の生涯を年表的に対比させて書き記し、それぞれの創作のあとをたどってみました。また、これら二人の作家太宰 治と松本 清張が俳句にかかわった様子についても調べました。 |
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『斜陽』、『人間失格』などの作品で有名な小説家です。1909年に青森県北津軽郡に生まれました。 |
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1909年に広島県に生まれました。純文学から転向して、社会派推理小説というジャンルを確立しました。 |
| 短編小説 『富岳百景』 の中にある「富士には月見草がよく似合う」の名文句でも知られています(写真は月見草)。 |
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作品は極めて多岐にわたり、短編小説 『天城越え』 は映画化されてのちに歌謡曲にもなりました(写真は旧天城トンネル)。 |
太宰の父親は、青森県で有名な大地主で、貴族院議員・衆議院議員でした。
芥川龍之介の影響を受け、高校時代から同人誌を刊行するなど文学活動を行いました。1930年に東大仏文科に入学しましたが、以降は左翼学生運動に加わり、やがて東大を中退しました。
このころから女性との関係が多く、1930年には江の島でバーの女給と心中未遂事件を起こしました(女性は死亡)。 |
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生家が貧しかったため、高等小学校卒業後進学できず、給仕、印刷工などさまざまな職業を転々としました。 その中で、文学への関心を次第に高め、特に芥川龍之介の作品には強く惹かれたということです。太宰、松本清張ともに、芥川龍之介の影響下に文学への道を志したことになります。
この間に意匠デザインの技術を習得し、意匠作家として活動するようになりました。 |
このころから同人誌に短編小説を発表するようになりましたが、26歳のときまた自殺を図るも未遂となりました。以降、しばらくさまざまな病気で入退院を繰り返します。
この間に第一回芥川賞の候補になりましたが、結局落選しました。
30歳のとき高校教師と結婚してようやく精神面で安定し、富士山麓への旅行をもとに短編小説 『富岳百景』 を発表しました。 |
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28歳のとき、意匠作家の技量が認められて、朝日新聞西部支社の広告部意匠係臨時嘱託に採用されました。 数年後には朝日新聞西部支社の正社員になり、清張はようやく生活の安定を得ることができました。
清張は、意匠作家としては、全国観光ポスターコンクールに応募して受賞するなど立派な業績を挙げたということです。 |
その後35歳ごろまで太宰の生活はやや安定し、中期の傑作とされる短編・中篇小説を多数発表しました。 この時期は太平洋戦争の最中に当たりますが、太宰は 『お伽草子』、『新釈諸国噺』、『駆け込み訴へ』 など時局に背を向けた作品を書き続けました。 太宰には珍しい明るく充実した作品として有名な 『津軽』 もこのころ発表されました。
太宰が36歳のとき太平洋戦争は日本の敗戦で終わり、戦後の自由化と混乱の中で、太宰は一躍脚光を浴び人気作家となりました。38歳のとき唯一の長編小説 『斜陽』 を発表し、新時代の読者の共感を得てベストセラーになりました。
この間 《無頼派》 ともいわれた破滅的な傾向が進行し、『人間失格』 を書いてからまもなく、愛人とともに玉川上水に身を投げて自殺しました。 |
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左記のように太宰が投身自殺してから2年後、朝日新聞西部支社の意匠制作スタッフであった松本清張は、週刊朝日が公募した懸賞小説に 『西郷札』 で応募し、三等に入選しました。 このとき清張は40歳になっており、太宰から10年以上遅れてようやく作家の道に踏み出すことになりました。
その2年後に書いた短編小説 「或る『小倉日記』伝」により、清張は第28回芥川賞を受賞しました。清張自身北九州小倉に長く住んでいましたが、この作品は森鴎外が左遷されて小倉に来たときにつけた日記をテーマとしたものです。
前記のように太宰は第一回芥川賞に落選し、その後も芥川賞の受賞を切望しましたが、結局その願いはかないませんでした。一方、清張は本格的に小説を書き始めて数作目にして芥川賞を受賞したのです。 |
太宰が尊敬した作家芥川龍之介は、遺書に「漠然たる不安」と書き記して35歳で睡眠薬自殺を遂げました。
太宰もまた不安にさいなまれる人生を送り、その不安を克服する強さも持ち合わせず、それから逃避するように数度の自殺未遂の後入水心中をしました。
太宰の作品を読むと、太宰が才能を持ちながらそれを発揮するだけの精神力・集中力がなく苦悩するさまが見て取れます。このような姿が特に若年層の共感を呼び、没後も愛読者が絶えることがありませんでした。
太宰が入水心中をしたのは、さくらんぼが実る6月のことです。
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太宰にはたまたま 『桜桃』 という短編小説があったので、太宰の忌日は 「桜桃忌」 と呼ばれます(左の写真はさくらんぼ)。 |
なお、 『桜桃』 は夫婦と子供たちの生活をさりげなく描いた小品(5000字ほど)で、特に重要な作品ではありません。
近年も、インターネット自殺に象徴される不安な世相がありますが、その中で桜桃忌には多数の若者たちが集まるそうです。 |
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太宰が死んだ2年後、清張はようやく本格的な作家活動を始めました。 その後早々に芥川賞は取りましたが、以降清張は次第に純文学を離れ、推理小説の方向に歩み始めました。
現在清張の初期の作品を読むと、特に優れた文章力があったとは思われません。しかし、作品の企画力、プロットの造りとストーリーの展開力には後の清張の世界を予見させるものがあります。
清張は生来のストーリーテラーだったわけで、推理小説という分野はその特質を生かす格好の舞台であったと感じられます。
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左の写真は、松本清張が本格的に社会派推理小説に転向してまもなくの1957年に発表した傑作 『点と線』 の表紙です。 |
以降の清張の創作活動は目をみはるほどの旺盛さで、世田谷中央図書館にある清張の全集は40巻以上もありました。
それら社会派推理小説の合間合間に短編小説や歴史・時局評論なども多数発表していますが、それらの作品の間口の広さはまことに驚くばかりです。 |
太宰が尊敬した芥川龍之介は、優れた俳人でもありました。太宰も早くから俳句に親しんで、弘前高校時代には朱麟堂と号して俳句、連句を多数作りました。小説の中にも、自作の俳句を挿入したり、他の俳人の作句を引用したりしているものがあります。
太宰の小説の文体は、比較的短文で句読点が多くリズムがあるのが特徴です。このため、太宰は俳句にも自然に親しんでいったのではないかと思います。
次の俳句はやはり弘前高校時代の作品とされます。
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ひとりゐて
蛍こいこい
砂っぱら
太宰 治
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どこか不安がただよい、寂寥感のある俳句です。太宰の俳句には、このように骨格がはっきりせず不安定さを感じさせるものが多いようです。
太宰は東京に出てきてからも一時は俳句を盛んに作ったようですが、結局は俳句では大きな成果を残すことはありませんでした。
なお、上の蛍の写真は、フリー写真ブログもってって!のご好意でこのページに転載する許可をいただいたものです。 |
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清張もまた芥川龍之介に傾倒していたので、若いころから俳句に関心を持っていたと思われます。
芥川賞受賞後の第一作 『菊枕-ぬい女略歴』 は、清張と同じく小倉に住んだ天才的俳人杉田久女をモデルにしたものです。
後に、この作品の女主人公の記述が久女の名誉を傷つけているとして、清張は久女の遺族から告訴されることになりました。
なお、「菊枕」という題名は、下記の久女の俳句に因んだものです。
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白妙の
菊の枕を
ぬひ上げし
杉田久女
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また同じく小倉に在住した俳人橋本多佳子をモデルにした 『花衣』 という短編小説や、 『巻頭句の女』 という推理小説もあります 。
清張の名で発表した俳句は多くないようですが、増殖する俳句歳時記に掲載されていた下の俳句を同ウェブのご好意でここに転載させていただくことができました。
障子洗ふ
上を人声
通りけり 松本清張
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