 |
|
蕪村・金福寺 |
|
 |
芭蕉と並ぶ近世俳句の巨星、蕪村。私ども関東に住む俳句愛好者にとって、この蕪村の句碑、史跡などが関東に少ないのは大変さびしいことです。インターネットで検索しても、東京地域にはほとんどそれらしいものはありません。
このたび京都を訪れるチャンスがあり、早速蕪村の址を訪ねることにしました。京都洛北にある臨済宗の禅寺金福寺には蕪村が再興した芭蕉庵があり、蕪村はここでしばしば句会を催しました。また蕪村の墓や句碑もあり、昔から正岡子規など蕪村の研究家は皆ここを訪れています。
新幹線・京都駅で降り、そこからJRと京阪線を乗り継いで洛北の出町柳駅に行きます。そこから叡山電車という小さな電車に乗り、3つ目の一乗寺駅で降りました。 |
|
駅から15分あまり東にある山の方向に歩くと、山際に金福寺の小さな山門が見えてきました。山門をくぐり、境内に入ってまず庭を拝見しました。 |

|
境内は上の写真のようにそれほど広くはありませんが、裏山の崖を生かした変化に富んだ造りになっています。私どもが行ったときは遅咲きの梅が咲いているだけでしたが、つつじや紅葉のシーズンはこの庭は大変見事だそうです。 |
 |
|
境内の庭に入ってすぐのところに、蕪村の句碑がありました。
花守は
野守に劣る
今日の月 与謝蕪村
桜も終わりに近づいたころ、野原は瑞々しい緑に包まれます。その晩春の夕暮れ、月が出るころは、花見より野原の散策のほうが趣きがある、という句意でしょうか。
蕪村は晩春の夕べの情緒を大変愛したようで、それを詠んだ俳句を多く残しています。 |
松尾芭蕉は当時の金福寺の住職鉄舟和尚と親しくしており、しばしばこの寺の庵に滞在しました。芭蕉がその庵に滞在中に詠んだ俳句が残っています。
うき我を
さびしがらせよ
閑古鳥 松尾芭蕉
私どもは見つけられませんでしたが、この俳句の句碑が境内のどこかにあるそうです。
芭蕉没後、時が経ってその庵は荒廃していましたが、蕪村が尽力して再興しました。それが現在寺の裏山にある芭蕉庵で、下の写真のように質素な茶室風の建物です。 |

|
その芭蕉庵の裏には大きな掲示板が設けられており、蕪村が、敬慕する芭蕉への思い、そして芭蕉が句作を行った庵の荒廃を知ってそれを再興するにいたった経緯をつづった一文が掲示されています。 |
 |
|
芭蕉庵の置かれている裏山は、昔から京都の町が遠望できる景勝の地として有名だったそうです。
蕪村とその門人たちは、この庵から四季折々の京都の町を眺めながらたびたび句会を催したのでしょう。
その裏山の林には、俳人、歌人、画家などの墓がたくさんありますが、その中に蕪村の墓がありました。
左の写真のような簡素な墓で、うっそうとした杉林の木暗がりの中に少し傾いて立っていました。墓前には献花などはなにもありませんでした。 |
あれほどの業績を残した芸術家の墓としては、少々さびしい気がします。
蕪村がこの地で詠んだものとして、次の一句が残っています。
我も死して
碑に辺(ほとり)せむ
枯尾花 与謝蕪村
私も死んだら、敬慕する芭蕉が句作した庵や芭蕉句碑のあるこの地の墓に入りたい、という意味でしょう。その願いどおり、蕪村は死後この墓地に葬られることになりました。 |
 |
|
境内の庭、芭蕉庵や墓所の見学を終えたころ、急にあたりが暗くなり雨が降り始めたので急いで金福寺の本堂に入りました。
金福寺は小さな禅寺なので、本堂といってもそれほど広くはなく、祭壇なども大きくないようです。金福寺本堂の本尊は、聖観音菩薩とのことです。
本堂の一隅に、「蕪村当寺にて詠める俳句」と記した木板が置かれてありました。蕪村が芭蕉庵で催した句会で詠んだ俳句です。外は本降りになったので、私どもはそれらを鑑賞しつつしばらく休息しました。 |
 |
|
本堂には蕪村や蕪村一門の遺品、絵画、短冊などがたくさん置かれてあります。
左の写真の掛軸は蕪村の肖像画とのことですが、作者は掲示されていませんでした。私は蕪村の肖像を見るのはこれがはじめてでしたが、どこかひょうひょうとして優しさのある風貌でした。
大きな文学館や美術館ではこのような貴重な美術品や遺品は写真撮影禁止になっていることが多いのですが、このお寺では撮影が禁止されていなかったのは私どもにとって大変有難いことでした。 |
蕪村は生前は、俳人としてより書家、画家として高名でした。その書画の力量を発揮して、蕪村は敬慕する芭蕉の 『奥の細道』 に絵画を付けた絵巻を制作しました。
その奥の細道絵巻は、現在国の重要文化財になっています。金福寺の本堂にはその奥の細道絵巻の複製がありました(下の写真)。
下の写真の右側は、『奥の細道』の江戸出立の場面で、有名な
行く春や
鳥啼(なき)
魚の目は泪 松尾芭蕉
の俳句が書き込まれています。 |

 |
|
金福寺の本堂には、2体の木像が置かれてありました(左の写真)。2体とも旅の装束をしており、小さいほうの木像は笠をかぶって杖をついています。 『奥の細道』 の旅をしている芭蕉・曾良主従の像かと思われます。これらの木像も、作者の名前はわかりませんでした。
22歳のころ、蕪村は現在の茨城県結城市に住み、江戸の俳諧宗匠の元に通って修行をしていました。 その後27歳のとき、蕪村は芭蕉の『奥の細道』をたどる旅に出て、その後約10年間北関東・東北各地を旅したといわれます。 |
本堂内には、蕪村の画家としての代表作《夜色楼台図》の複製画もありました。京都に落ち着き、画家として高い声価を得た蕪村が、60歳を越えてから制作した大傑作で、現在国の重要文化財に指定されています。
2010年3月に、文化審議会は文部科学相に対しこの《夜色楼台図》を国宝に指定するようにと答申したということです。 |

|
奥の細道絵巻を精魂傾けて制作したことからも、蕪村がいかに芭蕉を敬慕していたかが察せられます。そのように芭蕉を敬慕しつつも、蕪村は芸術家としての資質が芭蕉とは大きく異なっているのを自覚しており、次第に独自の句風を形成して行きました。 |
 |
|
ドイツリートの世界にたとえれば、芭蕉は叙事的、内面的なシューベルトの世界に近く、一方蕪村は叙情的、詩的な新領域を形成したシューマンにたとえられましょうか。
金福寺の本堂に、「蕪村ここで詠める句」として次の俳句が掲示されていました。
三度啼(な)きて
聞こえずなりぬ
鹿の声 与謝蕪村
秋深いころ、山で鹿が高い声で三度啼いたのを聞き、もう一度啼くかと聞き耳をたてます。このような詩的な表現は、蕪村をおいて外には見たことがありません。 |