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芭蕉野分して |
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芭蕉は、1680年に江戸日本橋での忙しい宗匠の生活を捨て、弟子が準備してくれた深川大川端の草庵に移り住みました。その草庵の前に弟子の李下が芭蕉の木を植えたところ、湿り気の多い大川端の土地に合っていたのでしょうか、元気に育ち始めました。 |
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当時桃青と号していた芭蕉は、エクゾチックな雰囲気のある芭蕉の木が大変気に入り、次の俳句を詠みました。
ばせを植ゑて
まづ憎む
荻の二葉哉 桃青
荻(おぎ)とはすすきに似た背の高い野草で、冬には枯れますが毎年春先また新しい芽が出ます。
その愛らしい荻の二葉も、芭蕉の木の生育にじゃまになるような気がして憎らしくなる、という句意です。 |
たまたま私の故郷千葉県九十九里地方に帰ったとき、道端に荻が群生しているのを見かけて上の写真を撮りました。
やがて桃青は、気に入った「ばせを」にちなみ、自分の俳号を「桃青」から「芭蕉」に変えるに至りました。吉本バナナさんという名前の人気作家が現在活躍していますが、それと同じようなセンスの俳号といえましょうか(^_^)。
それにつれ、芭蕉が住んでいた深川の草庵も「芭蕉庵」と呼ばれるようになりました。 |
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芭蕉庵は大川(隅田川)のすぐ近くでしたが、現在その川辺に「大川端芭蕉句選」というステンレス製の句碑が全部で9枚建てられています。
それらの中に有名な次の俳句の句碑がありました(左の写真、バックは隅田川)。
芭蕉野分して
盥(たらい)に雨を
聞く夜哉 松尾芭蕉
この俳句と上記の「ばせを植ゑて」の俳句は、ともに芭蕉38歳のとき、伊賀を脱藩して江戸に出てきてから6年目の作です。 |
芭蕉庵での生活にもようやく慣れて、俳諧の新境地の開拓に取り組んだころです。
野分とは、今でいう台風のことです。台風がくると、見上げるほど大きく成長した庭の芭蕉の長い葉が吹きあおられて、芭蕉庵の雨戸にたたきつけられました。 |
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粗末なつくりの芭蕉庵は、激しい吹き降りに方々で雨漏りがして、芭蕉は雨が滴る下に大わらわで盥を置いて回りました。そのたらいに滴る水の音が夜通し続き、芭蕉はまんじりともせず夜を過ごしたことでしょう。
上記「芭蕉野分して」の俳句は、芭蕉が後に蕉風と呼ばれるようになった独自の句風を確立したことを示す作品として有名です。
この俳句では、芭蕉は上の句は最初「芭蕉野分」としましたが、最終的には「芭蕉野分して」と変えました。このように上の句が大きく字余りしている点でも有名な俳句です。 |
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私どもが子供のころは、盥(たらい)といえば金属製のものは少なく、左の写真のような木製のものも多く使われていました。
洗濯用の大きなたらい、お風呂で使う小さなたらい、左の写真のように高い脚がついているもの等、いろいろな種類がありました。たらいが壊れたり水漏れしたりすることも多く、よく桶屋で修理してもらいました。
現在では、木製のたらいは私どもの身近には寿司屋さんのシャリのたらいぐらいしか見かけなくなりました(^_^)。 |
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この年には、芭蕉の作として16句が記録されています。それらの中には漢籍や古典和歌を引用した難解な俳句や大幅な字余りの俳句が多く、作品の数が少ないこととあわせて芭蕉が自己の句風の確立に向かって苦闘している様子がうかがわれます。
上記16句の中に、他の作品とはやや傾向が違う夕顔の俳句がありました。
夕顔の白く
夜の後架に
紙燭とりて 松尾芭蕉
これも 8-7-6という変形リズムの句です。 |
後架とはトイレのことです。夜中にローソクの明かりを持ってトイレにいったところ、庭先の夕顔がほの白く見えたという句意です。句中の「夕顔」は、源氏物語の登場人物の名前を暗示しているとされます。この時期の芭蕉には珍しい詩的な句調です。
後の蕪村に、次の有名な「手燭して」の俳句があります。
手燭して
庭踏む人や
春惜しむ 与謝蕪村
蕪村は、上記の芭蕉の句を意識してこの秀句を詠んだのでしょうか。 |