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 1680年、37歳のとき、芭蕉は杉風、嵐雪、其角など20人の弟子とともに 『桃青門弟独吟二十歌仙』 を刊行し、宗匠桃青の名は江戸俳界に知れわたりました。

しかしその中で、かねてより憧れていた漢詩の世界、和歌の奥深さを俳諧に取り入れて新境地を開きたいという思いがますます強まり、遂にようやく安定しつつあった俳諧宗匠の生活を捨てて自らの句風の確立に専念する決意を固めました。
同年の秋、芭蕉はそれまで住んでいた日本橋の家を引き払い、深川に越してきました。

芭蕉庵
深川の芭蕉庵

 芭蕉の弟子に杉山杉風(さんぷう)という幕府御用の魚問屋がいましたが、その杉風が、持っていた生簀(いけす)の番小屋を改造して芭蕉に住居として提供しました。

その草庵の前に弟子が芭蕉を植えたところ、よく茂ってまもなく大きな木になりました。それにちなんで自分の俳号をそれまでの桃青から芭蕉に変えたといわれます。

芭蕉の研究者は、この草庵を第一次芭蕉庵と呼びます。左の写真は、後に説明する「芭蕉記念館分館」という場所にあった芭蕉庵のプレートです。

枯枝に烏
枯枝に烏

 引っ越したこの年には、芭蕉の作として14句が記録されています。もちろん多くの俳句を詠んだと思われますが、大多数は後に芭蕉自身が破棄したと考えられます。
その中に有名なカラスの俳句があります。
  枯枝に  
      烏のとまりたるや 
          秋の暮   松尾芭蕉
どこか芭蕉が敬慕した西行の「鴫(しぎ)たつ沢の秋の夕暮れ」の和歌を連想させる句です。「蕉風」の萌芽が感じられるものの、観念的で奥行きが乏しい感があります。

八百屋お七の大火
 新境地を開く芭蕉のチャレンジは始まったばかりで、さまざまな模索が続きました。

杉風その他弟子たちのおかげで、芭蕉は深川の芭蕉庵で句作に専念できるようになりました。しかしそれも束の間、2年後の年の暮れに「八百屋お七の大火」が発生し、芭蕉庵も焼失してしまいました。芭蕉は大火に追われ、芭蕉庵の近くの大川に飛び込んで難を逃れたといわれます。

翌1683年秋になって友人や門弟たちが芭蕉庵再建のための勧進活動をはじめ、集まったお金を元に、その年の暮れに新しい庵が建てられました。これを第二次芭蕉庵と呼びます。新庵は、もとの第一次芭蕉庵とほぼ同じ位置に建てられたとのことです。

奥の細道
 この後芭蕉は、能因、西行など漂泊の詩人への傾倒を深めていきます。この第二次芭蕉庵を基地にして、「野ざらし紀行」、「鹿島紀行」、「笈の小文」、「更科紀行」の旅を相次いで行ないました。
第二次芭蕉庵ができてから5年ほどたった1689年の春、芭蕉は奥羽、裏日本を一周する壮大な旅行を計画しました。この「奥の細道」の長期旅行を決行するに当たり、芭蕉は愛着去りがたい第二次芭蕉庵を人手に渡しました。

第三次芭蕉庵
 奥の細道の大旅行ではさまざまな苦難がありましたが、やがて芭蕉はその行程を歩きとうして故郷大垣に到着しました。 その後芭蕉は関西各地を漂泊し、結局江戸を出立してから2年半後の1691年9月にようやく江戸に帰着しました。

それからしばらくして、また杉風、曽良など弟子たちの尽力により、旧第二次芭蕉庵の近くに第三次芭蕉庵が新築されました。この庵は、芭蕉の死後長く保存されていましたが、やがて幕末の混乱の中で失われてしまいました。

大正6年に隅田川に大津波が発生しましたが、その後芭蕉庵があった場所から芭蕉庵に置かれていた石の蛙が出土しました。

第三次芭蕉庵
第三次芭蕉庵

 その石蛙は、現在は芭蕉庵の近くにある「芭蕉記念館」に収められています。

石蛙の出土により、第三次芭蕉庵があった場所が特定されました。その第三次芭蕉庵の跡には、現在、芭蕉稲荷という小さな祠が建てられています。
  古池や  
      蛙飛び込む 
          水の音   松尾芭蕉
の有名な俳句がこの地で詠まれたのにちなんで、芭蕉稲荷には蛙の碑が立っていました(^_^)(左の写真)。


芭蕉像
芭蕉像

 上記第三次芭蕉庵の跡から50メートルほど離れた隅田川の河畔の小高い丘に、「芭蕉記念館分館」と呼ばれる場所があり、芭蕉の銅像が立っていました(左の写真)。

芭蕉像のまわりには、芭蕉の俳句や関連資料などのプレートが配置されています。

この地域は、現在でも当時のおもかげを留めている下町で、お稲荷さんや小さな祠、地蔵さんなどがたくさんありました。
私が行ったのは休日でしたので、お稲荷さんの前の路地で土地の人が七輪を持ち出して炭火をおこし、昼間からお仲間と一杯やっていました(^_^)。


杉山杉風の墓
杉山杉風の墓

 今回調査を行った結果、三度にわたる芭蕉庵の建築に関わった弟子杉風の献身的な努力がわかってきました。杉風の尽力なしには、芭蕉はあのように偉大な創作活動を行えなかったのではないかと思います。

調査をしているうちに、杉山杉風の墓が、世田谷区宮坂の成勝寺というお寺にあるのを知りました。地図で調べると、私の家から歩いて30分ほどのところとわかり、さっそくカメラ持参で杉風の墓参りに行ってきました。

杉風の墓碑には汚れが厚く付着していて、碑面の俳句が読み取れなかったのが残念でした(左の写真)。

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