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ヨハネス・フェルメール

フェルメール・ブーム  現在、世界的に17世紀オランダの画家ヨハネス・フェルメールの作品が人気となっています。日本でも現在より10年以上前からフェルメール人気が続いており、海外のフェルメール作品が日本で展示されると美術ファンの皆さまが入場口に長い列を作ります。

2003年にはフェルメール作品から着想した映画《真珠の耳飾りの女》 が公開され、評判になりましたが、それを契機としてフェルメール・ブームが一段と盛り上がったということです。

2015年には「ルーヴル美術館展 」が国立新美術館で開催され、展示されたフェルメールの 《天文学者》 に美術ファンが集まりました。

オランダ地図  画家ヨハネス・フェルメールは1632年、オランダ南部の都市デルフトに生まれました。近世オランダ絵画の巨匠レンブラント・ハルメンス・ファン・レインが生れてから26年後のことになります。

デルフトは、左の地図に見られるようにオランダの南部、ライン河口のロッテルダムとハーグの間に位置する小都市です。
デルフトは製陶が主たる産業ですが、人口は現在でも10万人に届かないそうです。

フェルメールは生涯のほとんどをこの町で過ごし、1653年に町の画家組合に親方画家として登録されました。父親の死後、1655年に実家のパブ兼宿屋を継ぎました。

フェルメールの作品

 フェルメールは非常に寡作の画家で、年間2〜3枚を制作するペースであったといわれます。フェルメールの作品は精緻を極める画風であり、自分が納得できるまで手を加えたので、作品の制作には時間がかかったのでしょう。家業のパブ兼宿屋を経営するのにも時間をとられたのかも知れません。

フェルメールは、画家として高い評価を得るようになり、1662年から2年間、最年少で聖ルカ組合の理事を務めたそうです。しかし、1670年代になるとまたイギリスとの間で英蘭戦争が勃発し、オランダの経済は低迷して絵画も売れなくなりました。

その時期にフェルメールは多額の負債をかかえてついに破産し、1675年に苦境のうちにデルフトで死去しました。享年42、もしくは43歳であったとされます。
フェルメール没後、数十点の絵画がフェルメール作として残されました。しかし、それらには別人の作が多く、現在では36点ほどの絵画がフェルメール作として認められています。

フェルメール作品の評価

 フェルメール作品は現在では世界的に高い人気を誇りますが、実はこれまでには時代につれてさまざまな評価の歴史がありました。まず上記のように、フェルメールの最晩年には他のオランダ画家と同じように不人気でまったく売れなくなりました。この状況は19世紀の初めまで150年ほども続いたということです。

フランスでは19世紀の中ごろから写実主義、自然主義絵画の運動が興り、ジャン=フランソワ・ミレーなど市民の日常生活をありのままに描く画家が多くなりました。その絵画運動の中で、フェルメール作品が次第に真の価値を再び見出されたとされます。

1874年4月、クロード・モネ、ピエール=オーギュスト・ルノワールらは自らの作品を集めた最初の展覧会を開き、「印象派」の旗揚げをしました。印象派の画家たちは好んで野外で風景画を描き、外光による光の効果を追求しました。それら印象派画家たちも、窓からの光の下で室内の物体、人物を写生したフェルメールの画風を高く評価したといわれます。

こうして、19世紀の末にかけてフェルメール作品は特にその時期の画家たちの間で次第に評価が高くなり、つれて印象派絵画のファンたちの間にも広く知られるようになりました。

この時期には多数のアメリカ人画家たちがフランスに渡り、印象派絵画を学ぶとともにそれをアメリカ合衆国の美術ファンの間に広めました。それに伴って、フェルメール作品もアメリカ人の間に知られるようになったといわれます。

アメリカの大美術館

メトロポリタン美術館  その時期に、アメリカ経済の中心地ニューヨークに西欧の大美術館に匹敵する美術館を創設しようという運動が起こり、1870年にメトロポリタン美術館が開館しました。

メトロポリタン美術館のヨーロッパ絵画の収集は、1870 年に当館が創立され、174 枚の絵画を3 つの個人コレクションから取得したときから始まりました。

しかしメトロポリタン美術館は、他の母体から美術資産を継承したわけではなく、まさにゼロからの開館だったので、当初は大変な苦労があったようです。
やがて、メトロポリタン美術館の基金が拡充してそれによる購入が増えました。

さらにアメリカ国内の大富豪など個人収集家からの美術品の寄贈が増加して、メトロポリタン美術館の収蔵は急速に拡大して行きました。

アメリカ建国の地ボストンに今日世界的に知られるボストン美術館が開館したのは、アメリカ独立百周年にあたる1876年のことです。従って、メトロポリタン美術館はそのボストン美術館より6年も早く開館したことになります。なおボストン美術館も、市民運動によりゼロからスタートし、民間の組織として運営されてきたという点はメトロポリタン美術館と同じです。

ガードナー美術館

ガードナー美術館  メトロポリタン美術館などアメリカの大美術館は現在フェルメール作品を多数持っていますが、それらについて述べる前に、早くも19世紀末にフェルメール作品の真価を見出し、その獲得に乗り出したアメリカ人先覚者について話さなければなりません。

アメリカ女性イザベラ・スチュワート・ガードナーは、1898年に死去した夫の遺志を継いで自分たちが収集した美術品のためにイザベラ・スチュワート・ガードナー美術館を建設しました。
同美術館は、ボストンのフェンウェイ公園の近く、前記ボストン美術館から歩いて10分ほどのところにあります(左の写真)。

イザベラ・スチュワート・ガードナー美術館開館に先立って、イザベラ夫人は自らパリで開催されたオークションに出向き、フェルメールの絵画 《合奏》 を購入しました。

イザベラ夫人は、もともとイタリアの古典美術に強く惹かれており、ガードナー美術館の建物内部は15世紀ヴェネツィアの大邸宅を模してデザインされています。そのイザベラ夫人が、なぜヨーロッパに出向いてまでフェルメールの作品を購入したかは不明です。

この時期には、前記のようにフェルメール作品はアメリカでは画家や美術専門家の間では価値を認められていましたが、一般の美術愛好者にはほとんど知られていませんでした。イザベラ夫人は、作品購入の相談をしていた美術専門家の意見でこのフェルメール 《合奏》 を購入したのかと思います。

フェルメール 合奏  この絵画はアメリカの美術館がェルメール作品と知って購入した最初の絵画となり、1903年からイザベラ・スチュワート・ガードナー美術館に展示されました。

《合奏》 は1665〜1666年ごろ、フェルメールが33歳前後の制作とされます。この時期にはフェルメールは有名な 《真珠の耳飾りの少女》 も制作しており、画家として最盛期にあったといえましょう。

絵画中央奥で髪飾りをつけた若い女性がチェンバロと思われる楽器を弾いています。
画面右側に女性が立っており、楽譜を見ながらチェンバロにあわせて歌っています。画面左下には男性がいて、リュートのような楽器を弾いているようです。

水差しを持つ女

フェルメール 水差しを持つ女  不動産王でメトロポリタン美術館の2代目館長となったヘンリー・マーカンドは、1887年にパリでデ・ホーホ作品とされた 《水差しを持つ女》 という絵画を購入しました。

この作品は翌1888年にメトロポリタン美術館に貸し出され、デ・ホーホ作品として展示されました。その翌年の1889年、マーカンドは同作品 《水差しを持つ女》 をメトロポリタン美術館に寄贈しました。

その後の研究で、その絵画がフェルメールの作品であるのが明らかになりました。こうしてメトロポリタン美術館はその後アメリカで本格的なフェルメール・ブームが起こるより前にフェルメールの主要作品の一つを入手することになりました。

  《水差しを持つ女》 は1662年ごろ、フェルメールが30歳前後の制作とされます。フェルメールは地味な色調の風俗画風の作品が多いのですが、ここでは若きフェルメールは白、青、赤の鮮やかな対比を使って若い女性の瑞々しさをみごとに表現しています。

20世紀に入ると、アメリカでは一般の美術愛好家の間でフェルメール作品が広く知られるようになり、富豪がフェルメールの絵画を購入する例が多くなりました。
デパート経営者のベンジャミン・アルトマンは1908年にフェルメールの 《眠る女》 を購入しましたが、その作品はアルトマンの死後1913年にメトロポリタン美術館に寄贈されました。
また、鉄道王コリス・P・ハンティントンはフェルメールの 《リュートを調弦する女》 を所蔵していましたが、その絵画は1925年にメトロポリタン美術館に遺贈されました。

フリック・コレクション

 アンドルー・カーネーギーは、1870年代にアメリカ東部ペンシルベニア州ピッツバーグでカーネギー鉄鋼会社を発足させ、やがて「鉄鋼王」と呼ばれるようになりました。
その後、金融王J.P.モルガンがカーネーギー鉄鋼会社を買収し、それを母体としてUSスチールを設立しましたが、フリックはそのUSスチールの経営陣に迎えられました。
ヘンリー・フリックは、カーネーギー鉄鋼会社時代のアンドルー・カーネーギーに続いて「鉄鋼王」になりました。

フリック・コレクション  ヘンリー・フリックは、その時期の1895年ごろから絵画の収集を始めました。フリックは青年時代から絵画を愛好しており、ヨーロッパ各国の絵画については大変詳しかったということです。
その後1919年に没するまでに、フリックは1000点以上の美術品を収集したとされます。

第一次世界大戦開始後まもなくの1915年にフリックは実業から引退し、ニューヨーク・マンハッタンの高級住宅地アッパーイーストに豪邸を構えました。セントラルパークの東側、マンハッタン5番街から少し入った博物館などが多い地区で、メトロポリタン美術館からは歩いて5分ぐらいのところです。

フェルメール  フリックの収蔵の中心は19世紀前半までのヨーロッパ絵画ですが、ドガ、ルノアールなど19世紀後半の印象派の作品もかなりあります。
フリックは長年の経験から美術作品に対して鋭い審美眼があったということで、それら収蔵作品のレベルが高いのには感嘆します。

1900年ごろ、フリックは初めてフェルメール作品を購入しました。その後もフェルメール作品を購入し、現在は3点を収蔵しています。

 それらの中でもっとも有名なのが、上の写真の 《夫人と召使》 でしょう。横幅が1m近いかなり大きな作品で、1667年ごろ、フェルメールが35歳前後の制作とされます。

アムステルダムの王立博物館にあるフェルメールの有名な作品 《恋文》 も、やはり、召使が女主人に手紙を手渡す様子を描いた絵画です。フェルメールはそれら2点のほかにも数点、ほぼ同じテーマの作品を残しています。
当時のオランダは教育水準が高く、大多数の国民が読み書きができました。そこで国民たちは、今日私どもが電子メールを取り交わすように、盛んに手紙をやり取りしたそうです。

レンブラントとフェルメール

レンブラント  アムステルダムの王立博物館には、西欧絵画史に輝くレンブラント・ファン・レインの傑作 《夜警》 が展示されています。
その展示室のとなりの部屋には、同じくレンブラントの 《ヨハネス・ウテン・ボハールトの肖像》 、 《サスキアの肖像》 などの絵画が展示されています。

左はその 《サスキアの肖像》 で、レンブラントが26歳のときの作品です。サスキアはアムステルダムの裕福な美術商の姪で、この作品はレンブラントと結婚する前の年、婚約したころに描かれたと思われます。

例によって右斜め方向に顔を向けた人物の顔に左上から強い光を当てるレンブラント・ライトと呼ばれる画面になっています。
当時サスキアは21歳で、この作品の画面からは婚約した若い女性のにおうような瑞々しさを内面から描こうとするレンブラントの意思が感じられます。

フェルメール  同じ展示室の中に、ヨハネス・フェルメールの作品が2点展示されていました。
王立博物館はフェルメールの作品を現在4点所蔵しているようです。王立博物館がフェルメール作品を4点も持っているのは、さすが地の利というべきでしょうか。

左は同展示室内のフェルメール作品の一つ、《手紙を読む女》 です。フェルメール作品の中でも特にファンが多い絵画で、フェルメールの他の作品に比べて淡い色彩を巧みに使って女性が窓辺で静かに手紙を読んでいる情景を描いています。
時間の流れがぴたりと静止したような独特のフェルメールの世界です。

この作品ではフェルメールは、上のレンブラント作品とは違い、手紙を読む女性の心中に分け入ることはしていません。

ここではフェルメールは、窓から北国の弱い外光が差し込む室内で女性が手紙を読む姿を 「風俗画」 として描いているだけです。女性の姿が室内の壁にかかっている絵画や室内の調度に溶け入っているようにも見えます。喧騒に包まれた現代で、この静謐ないやしの画調が世界中の絵画ファンの心を捉えているのでしょう。

アメリカのフェルメール人気

エルミタージュ美術館  ロシア・サンクトペテルブルグのエルミタージュ美術館を歩くと、ルーベンス、レンブラントなどネーデルランド、フランドルの画家の名作が多いのに驚きます。特に同美術館のレンブラント作品の所蔵は、オランダ以外では最大ではないかと思います。

ロシアのエカテリナ2世は美術作品に対して優れた鑑賞力があり、特に当時よりほぼ100年前に制作されたルーベンス、レンブラントの作品を愛好したといわれます。
エルミタージュ美術館のルーベンス、レンブラントのコレクションは、エカテリナ2世の好みを反映したものでしょう。

また、エカテリナ2世は、西欧の列強に追いつくには文化面でもレベルアップが必要と考え、美術品も西欧諸国に負けないコレクションを目指したとされます。

アメリカ合衆国では、前記のように19世紀の末に国力の拡大につれて各産業で大富豪が多数輩出しました。それら大富豪のうち、絵画に対する鑑賞眼があった人たちがヨーロッパでレンブラントなどネーデルランド派の作品を買い求め、自分の邸宅に飾りました。
レンブラントは、油彩だけでも350点ほどの作品を残したとされます。これはフェルメールの全作品数の10倍近くにあたります。それらレンブラント作品は、集団肖像画、個人肖像画、神話・旧約聖書にテーマをとったもの、自画像など多分野にわたります。
当時のアメリカの大富豪たちが、気に入ったレンブラント作品を高額で買い求め、アメリカに持って帰ったのが想像できます。それらのレンブラント作品は、やがて持ち主の没後大多数がアメリカ東海岸の大美術館に遺贈されることになりました。

さらにその時期のアメリカ人美術愛好家たちの関心は、当時評価が定まってきたフランス印象派の作品に向かいました。新興国アメリカでは、王様や神話・旧約聖書をテーマとする絵画より印象派作品のように日常風景を明るい画調で描いた絵画の方がうけたのでしょう。

前述のように、アメリカでフランス印象派の作品が人気を博したのが契機となって、フェルメールの作品がアメリカ人美術愛好家たちに知られるようになりました。そして、日常生活を気品のある画調で描いたフェルメール作品のファンが次第に増加し、20世紀になるとヘンリー・フリックのようにフェルメール作品の収集に乗り出す美術愛好家が多くなりました。

ヨーロッパでは18世紀から19世紀にかけてレンブラント絵画のフィーヴァーがおこり、偽作レンブラント絵画が大量に出回る騒ぎになりました。歴史が浅い国アメリカ合衆国ではレンブラント絵画はヨーロッパのように人気が過熱するにはいたらず、代わって日常生活をわかりやすく描いたフェルメール作品の大フィーヴァーがおこったのでしょう。

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