旅行

文学

美術

音楽

宗教

パソコン

海外旅行

トップページ 特別展 写楽 メニューへ

特別展 写楽

 私は昔から美術が好きで、海外旅行に行った際は、かならずその地の美術館を訪れます。長年にわたってそのような美術鑑賞をしているうちに、自然に西洋美術についてはかなり詳しくなりました。

ところが日本の美術に関しては、私は実はたいして知識を持っていません。日本美術は、西欧の中世よりも前の時代からの立派な伝統があり、その歴史上で幾多の世界に誇る天才たちが活躍しています。それはわかっていても、それらの日本美術作品をじっくりと鑑賞するチャンスが少ないままで、現在に至っているのです。

2011年5月から東京上野の国立博物館で、なぞの浮世絵師といわれる東州斎写楽の特別展が開催されるのを知りました。私もかねてより写楽の作品には特別の関心がありましたが、実はこれまでその実物は見たことがありませんでした。
世界的にも高く評価されているこの天才的絵師の作品をまとめて鑑賞できるチャンスとあって、さっそく上野の山に出かけました。

特別展 写楽

展示会場である国立博物館平成館の入口には、写楽の代表的な作品を大きく引き伸ばしたポスターが掲示されていました。
そのあたりに入場者がたくさん集まっていましたが、その皆さんを見ると、普通の美術展の入場者とは少し違うようでした。全体的に年齢層が低く、若い女性も多数いました。また、中学生くらいの子供たちが何人もいました。

写楽の作品は、その絵画としての芸術性はもとより、大首絵中心の版画ということで今日の劇画やコンピュータ画像とも共通する部分があるのです。また、活躍した時期が非常に短かい謎の多い絵師ということもあり、幅広いファンがこの美術展に集まったのでしょう。

美術館前のポスター
海外の収蔵作品

 東洲斎写楽は、18世紀末1794年に江戸に出現し、およそ10ヶ月にわたって華々しい活躍をした後、忽然と姿を消しました。西欧では、フランス革命の後、大作曲家モーツァルトが亡くなったころに当たります。

明治以降、大量の日本美術作品が海外に流出しましたが、写楽の貴重な作品も多くがフランス、ベルギー、アメリカなど海外蒐集家の手に渡りました。
今回の写楽展は、アメリカ・メトロポリタン美術館をはじめ欧米の大美術館の協力により、写楽のほとんどの作品を一堂に集めることができたということです。

写楽作品の変遷

 上記のように写楽が活動したのはわずか10ヶ月あまりの期間でしたが、その短い間に写楽の作風が何度も大きく変わったのが知られています。
  • 一期 1794年5月発表
    蔦屋より、大判雲母摺りの役者大首絵28図を一挙に刊行しました。いずれもその時期の芝居興行に合わせて制作されたもので、各芝居小屋の出口に置いて芝居を見終えたお客に買ってもらったのでしょうか。

  • 二期 1794年7・8月発表
    江戸三座の秋狂言に合わせて制作した役者絵37図と口上図で、一期の特徴であった大首絵がなくなり、すべて全身像になりました。大判の絵では大多数が二人の役者を描いています。

  • 三期 1794年11月発表
    江戸三座の顔見狂言に取材した役者絵58図のほかに、役者追善絵、当時評判だった力士を描いた相撲絵など6図が刊行されました。二期までは背景が描かれませんでしたが、この期から細判役者絵には背景が描かれるようになりました。

  • 四期 1795年1月発表
    翌寛政7年正月の初春狂言に取材した役者絵10図が刊行されましたが、いずれも一期、二期の作品の輝きを失っています。この期の版数が激減したのは、写楽の役者絵が人気を失って売れなくなったためと思われます。
今回の写楽展で、これら一期から四期までの作品を通して見て行くと、一年足らずの間に作風もまた絵に描かれている内容も非常に大きな変化を示しているのに驚きました。私どもの目からは、とても一人の人の作品とは思われません。専門家の間にも、複数の絵師が写楽の名前で制作したのではないかという説が唱えられているということです。

後に触れるように、写楽の作品は必ずしも蔦屋が目論んだように大衆にアッピールすることができず、売れ行きはいま一つだったとされます。そのため、蔦屋は挽回をねらって次々に違う作風、コンテンツの作品を写楽の名で制作させ、刊行したのでしょう。
しかし、それもうまく行かず人気は出なかったので、四期に至って版数が激減し、やがて写楽はこの世界から姿を消すことになったと思われます。

写楽一期の浮世絵

 上記のように、1794年5月に写楽研究上一期と呼ばれる役者大首絵28図が一挙に出版されました。後述のようにそれらの作品は必ずしも一般受けするものではなかったのですが、ともかく江戸の街にセンセーションを巻き起こしたのは間違いありません。

現代の私どもは、写楽といえばまずそれら強烈なイメージを持つ役者大首絵を思い浮かべます。下の写真に見られるように、それら大首絵は写実を旨として制作されたものではありません。版画という情報量の少ないメディアに合わせて大胆な省略、表情・ポーズの誇張を行い、そしてドラマティックな構図で描くことでその役者の演じる内面世界を浮き彫りにした点が私どもの心をとらえるのです。

下の写真左は、「敵討乗合話」という芝居の端役2人が相談する場を描いたものだそうです。あまりお面相のよくない2人が悪事の手はずを話し合っているのでしょうか。耳を澄ますと、2人がひそひそとだみ声で話しているのが聞こえてくるようです。

下の写真右は、敵討ちものの芝居「花菖蒲文禄曽我」に出てくる田辺文蔵女房おしづという脇役の大首絵です。敵討ちを助ける夫とともに苦しい生活を送る病身の女房が、ほつれ髪で紫色の病鉢巻をしている姿でいたいたしく描かれています。

敵討乗合話 田辺文蔵女房おしづ

江戸兵衛と奴一平

 上記の作品から、私どもは写楽という浮世絵師がいかほどの画力を持っていたかを知ることができます。ドイツの美術研究家ユリウス・クルトは、写楽の大首絵を見て、写楽はレンブラント、ヴェラスケスと並ぶ世界三大肖像画家であると激賞したそうです。

しかし、これほどの絵師が前記1794年5月の一期作品の出版までまったく名前を知られていなかったのはどうしてでしょうか。当然のことですが、どの大画家でも修行時代があり、次に親方の手伝いをして描いた作品があり、やがて親方の指導のもとに自主制作した作品があり、、、というように、修行時代の作品や初期の作品が残っているものです。
ところが、写楽の場合には、いきなりこれほどのオリジナリティのある作品を28図もまとめて発表し、鮮烈なデビューを果たしたのです。歌麿などすでに実績を持っている浮世絵師が「写楽」の名で発表したのであろうという説が出てくるのも当然かもしれません。

下の写真左はだれでも見たことのある写楽の代表作の一つで、三代目大谷鬼次が演じた「江戸兵衛」という大首絵です。盗賊の頭江戸兵衛が奴一平を「金を出せ」と脅すさまを描いた作品のようです。顔の表情、突き出した手の指などのデフォルメ、誇張が大きな効果をあげているのに驚きます。

下の写真右は、初代市川男女蔵の演ずる奴一平がその江戸兵衛に対決するさまを描いたものだそうです。奴とは武家の使用人で、刀を持っていました。奴一平は、その刀に手をかけて主人伊達与作から預かった大金を命を懸けて守ろうとしています。

ゆり ばら

女性の大首絵

 『敵討乗合話』では、松下造酒之進の妹娘しのぶは、父の病気と借金のため、苦界に身を沈めます。その後、父松下造酒之進が志賀大七に殺されてしまいます。妹娘しのぶとその姉宮ぎのは、やがて江戸の町人たちの助けも得て首尾よく親の敵を討ちとります。

下の写真左は、その『敵討乗合話』の妹娘しのぶを描いたもので、髪にいくつもかんざしを挿した花魁姿で表情に憂いの色が濃いのが印象的です。

下の写真右は、「花菖蒲文禄曾我」という芝居で敵役の正体を見破り敵討ちを助ける桃井家家老大岸蔵人の妻やどり木とその侍女若草を描いた作品です。2人の女性の年齢差、体形の違いなどが対照的に描き分けられています。

ゆり ばら

これまで写楽一期の代表的な作品を見てきましたが、それらの大多数が敵討ちの芝居の登場人物であるのに驚きました。赤穂四十七士の討ち入りは18世紀初頭の1702年に行われ、それを脚色した歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』は1748年に上演されました。それ以降は、敵討ちをテーマとした芝居が流行ったのでしょうか。

写楽作品の人気

 映画・芝居の愛好者は、普通、主役クラスの華やかなイメージにひかれ、ごひいきの俳優・役者が格好良く活躍するストーリーを好みます。それは写楽の時代でももちろん同じで、芝居ファンはその芝居の主役クラスが美しく描かれた役者絵を買い求めたことでしょう。

ところが、写楽一期の作品には、上記のように脇役、端役を描いたものが多いようです。これは、出版元蔦屋が芝居に詳しいファン向けに作品の企画をしたということでしょうか。現在の私どもには、これでは多数の芝居ファンに買ってもらうのは難しいように思われます。

また、写楽は役者を美化して描くことはなく、役者の容姿を誇張し、デフォルメして描くことで演じる役の内面世界を表現しようとしました。これは、その役者のファンにとっては好ましいことではなかったかも知れません。
さらに、モデルの役者にとってもこのような姿で描かれるのは面白くないということで、写楽に描かれるのを嫌う役者もあったということです。

このように、写楽の役者絵はその作風の面から大衆人気を得ることができず、次第に売れ行きが落ちていったと思われます。三期、四期では、描かれる内容が大きく変わっているのみならず技術的にも一期、二期に比較して見劣りすることから、別の絵師が「写楽」の名で制作したのではないかともいわれています。

結局、東州斎写楽という浮世絵師は、素性の知れないまま突如デビューして正味半年ほどの短期間に数十点の輝くばかりの名作を発表し、以降は創作力が急速に衰えて10ヵ月後には浮世絵の世界を去ったということになります。このなぞの人物は、私ども美術ファンにロマンを感じさせてやみません。

トップページ メニューに戻る