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西洋画との出会い

 19世紀後半、幕末に時期に、ポルトガル、オランダなど海外諸国との間で交流が盛んになるにつれ、ヨーロッパで制作された油彩画、石版画などが次第に日本に持ち込まれるようになりました。江戸幕府では、特に地図や軍事図面作成などの面で西洋絵画の技術が有用であるのを認め、「蕃書調所画学局」という部門を作って油彩画、石版画の画家の育成に乗り出しました。

この時期に南画を学んでいた川上冬崖は、蕃書調所に入所した後長崎海軍伝習所に出向を命じられ、オランダ書の翻訳にあたりました。その仕事を通じ、冬崖は遠近法、製図、測量術などを研究し、石版画などの模写を行うようになりました。
当時世界の美術の中心であったフランスでは、エドゥアール・マネがアカデミズムに反発して裸婦画 《草上の昼食》 を描いたころに当たります。

高橋由一 鮭
画家 高橋由一

 1828年に江戸で生まれた高橋由一は、最初狩野派の絵画を学んでいましたが、欧州から渡ってきた石版画を見て感激し西洋画の勉強を始めました。

由一は1862(文久2)年に蕃書調所画学局に入所し、上記西洋画の先覚者川上冬崖(とうがい)に石版画の指導をうけました。
その後1865年に由一は横浜に行き、英国人画家ワーグマンに師事してさらに油彩など西洋画の研鑽を積んで、日本最初の洋画家となりました。

当時は西洋画の優れた指導者に就けるチャンスが少なく、また勉強の手本になる西洋の名画を見ることもままなりませんでした。
だいたい油彩絵具、筆、キャンバスなど基本的な画材ですら、当時の日本では入手が困難だったのです。

そのような時期に由一は研鑽を重ね、1877年ごろに左の写真の作品 《鮭》 を制作しました。日本の洋画黎明期の傑作としてどの美術教科書に掲載されているので、ご存知の方も多いでしょう。

私も、この作品が東京芸大の所蔵で国の重要文化財になっているのは知っていましたが、つい最近になって芸大美術館でその実物を見ることができました。
思っていたよりはるかに大きな画面で、鮭が大きな口をあけ、眼をかっと開いて、その胴部が一部切り取られ真っ赤な肉が露出しています。
明治維新のわずか10年後に、このように存在感のある油彩の作品が制作されたことに感嘆します。

画家 浅井 忠

 浅井 忠は、1856年佐倉藩士の子として江戸で生まれました。1876年(明治9年)に新設されたばかりの工部美術学校の画学科に入学し、イタリア人画家アントニオ・フォンタネージのもとで西洋画を勉強しました。

フォンタネージはフランス・バビルゾン派の影響を受けた風景画家だったので、浅井もバビルゾン派風の静穏で重厚な作品を描くようになりました。

1889年には浅井を中心として日本初の本格的洋画団体「明治美術会」が設立されました。浅井はその明治美術会展に絵画 《春畝》 、 《収穫》 などを出展しています。
この時期の代表作として名高い 《収穫》 は現在東京藝術大学蔵で、私は東京藝術大学の展覧会でこの作品を鑑賞したことがあります。全体として黄土色の色調で、やはりバビルゾン派のミレーの作風を思わせますが、ミレーよりタッチがダイナミックなように感じました。

1898年に浅井は新設された東京美術学校の教授に任命されました。

美術館前のポスター
フランス留学

 1900年に浅井は文部省から洋画研究のため2年間のフランス留学を命じられました。
後述の10歳若い黒田清輝より16年遅い渡仏で、このとき浅井は44歳になっていました。

パリではルーブル美術館で印象派の絵画の数々を見て感激し、また当時最盛期を迎えていた新デザイン運動アール・ヌーボーに感銘を受けました。

浅井はすでに日本で大家の域に達していたので、フランスでは特定の画家の下に入門することはしませんでした。基本的に風景画家であった浅井は、パリ近郊のヴェルサイユなどフランスの方々を訪ねて歩きました。
もちろん当時バビルゾン派の聖地といわれたバビルゾン村やフォンテーヌブローの森にも行きましたが、滞仏2年目はフォンテーヌブローの南、パリから南方70kmのグレ・シュル・ロワンという村に腰を落ち着けて制作に当たりました。
この村は、後述の黒田清輝が10年ほど前に滞在して多数の名作を制作したところです。浅井は黒田からこの村周囲の風光について聞いていたのでしょう。

浅井はこの村で有名な 《グレの洗濯場》 (上の写真)など多数の風景画の傑作を描きました。上の写真に見られるように、作風は渡仏前に比べてタッチがややダイナミックになっており、スケールが大きくなったように感じます。

画家 黒田清輝

 黒田清輝は、1866年薩摩藩士の子として生まれました。上記浅井 忠より10年後の生まれとなります。法律家を目指し、東京外国語学校を経て、18歳のときフランス・パリに渡りました。その地で美術関係者と交流を持つうちに、少年時代から関心のあった画家の道に進むことを決意しました。

黒田は、その後当時有名だった画家ラファエル・コランに師事し、油彩画を正式に勉強し始めました。当時はモネらが始めた第一回印象派展から10年近く経って印象派は画壇で存在感を増しつつありました。コランは最初はアカデミックな作風でしたが、やがて印象派絵画から影響を受けて明るい人物画、風景画を制作し、高い評価を受けていました。

コランの教室で裸婦像などの勉強をしながら、黒田はパリ郊外ヴェルサイユなど方々を歩き回り、風景画を制作しました。中でもパリの南ロワン川のほとりは非常に気に入り、グレ・シュル・ロワンという村に住み着いて多くの傑作を残しました。グレは、右下の地図で下端のフォンテーヌブローの南、パリから南方70kmほどのところです。

婦人図(厨房) パリ・グレ地図

グレで制作した作品 《読書》 や1893年に描いた名作 《朝妝》 で、黒田は念願のサロンへの入選を果たしました。上左の写真は 《読書》 と同じころに描いた 《婦人図(厨房)》 で、どこかフェルメールの風俗画を思わせる静溢で均整感のある画調です。私は、この作品を東京芸大の美術館で見てその品格ある画面に感銘を受けました。

1893年(明治26年)にパリで名作 《朝妝》 を描いてから、黒田はその年の内に日本に帰ってきました。18歳で渡仏してから約10年の歳月が流れていました。

帰国後の黒田

 黒田が帰国するときには、モネ、ドガ、ルノワールらが第一回印象派展を開催した1874年から20年近い年月が経っていました。そのころは、印象派展はもはや開催されず、当初のメンバーの一人ルノワールは印象派を離れ、新古典主義の絵画を制作していました。
一方伝統絵画の中心であったサロンは、印象派の影響を受けて明るい風景画、人物画の出品が多くなっていました。黒田が師事した画家ラファエル・コランは、そのようなサロン外光派の一人だったのです。

1893年に帰国してから、黒田は同じくフランスで学んだ久米桂一郎らとともに洋画塾を開設し、印象派の影響を取り入れた外光派と呼ばれる画風を日本に広めました。
黒田は帰国の翌年1894年の第6回明治美術会展にパリで描いた 《朝妝》 を出展しましたが、その後裸体画であるこの作品の公開をめぐってさまざまな論議が行われました。

1896年には東京美術学校の西洋画科の発足に際して講師となり、以後日本西洋画の発展に大きく貢献することになりました。

湖畔 黒田は帰国から4年目の1897年に名作「湖畔」を自らが主宰する画塾白馬会の展覧会で発表しました。

この作品は、現在上野の東京国立博物館に付属する黒田記念館に展示されています。

私も数年前にそれを鑑賞したことがありますが、どこか日本画を思わせる滑らかなマチエールで、画中の女性が着ている浴衣を湖からの涼風がゆらすように感じられました。湖の水面が光る様子には、印象派の影響があるように思われます。

1898年に、黒田は東京美術学校の教授に就任しました。同じ年に浅井忠も東京美術学校の洋画科教授になりました。このころから、浅井らの「旧派」と黒田の率いる「外光派」との間の対立が次第に激化しました。

前記のように、浅井忠は1900年から日本を離れ、2年間フランスに留学しました。この間に黒田の「外光派」は次第に優勢になり、19世紀末フランスのサロン外光派をベースにした20世紀日本のアカデミズム美術が形成されて行きました。

その後の日本西洋画

 美術関係の書籍などに「黒田はフランス印象派絵画を日本に持ち込んだ」と書いてあるのをときどき目にします。しかし、実際には黒田は、印象派の画家たちと交流したことはなく、また印象派の手法を自ら積極的に取り入れたこともありません。パリで就いた先生ラファエル・コランがサロン外光派だったために、間接的に印象派の手法を学んだだけなのです。

《カードをする男たち》 黒田がフランスから帰国した1893年には、印象派画家モネはすでに大家になっており、有名な 《ルーアン大聖堂》 の連作、 《積みわら》 の連作を発表していました。
同じく印象派のセザンヌは傑作 《カードをする男たち》 を描いています(左図)。

さらにポスト印象派のゴーギャンは、タヒチ島にわたって多くのエクゾティックな作品を発表していました。
ポスト印象派を代表する画家とされるゴッホは、まったく世に容れられないまま多数の名作を残してこの世を去っていました。


パリにいた黒田は、当然当時のフランス画壇の新動向を見聞きしていたことでしょう。しかし黒田は自ら信じるところを変えることなく、やがてサロン外光派をベースとした自然主義的画風を携えて日本に帰国し、日本西洋画界にそれを広めました。

この点については、昔から黒田はさまざまな批判を受けてきました。藤田嗣治(レオナール藤田)は東京美術学校で黒田に学びましたが、美術学校卒業後にフランスに行ってキュビズムやシュールレアリズムの作品を見て愕然とし、「家に帰って先ず黒田清輝先生ご指定の絵の具箱を叩き付けました」と書いています。
しかし私は、当時の日本西洋画のレベルを考えれば、やや時代遅れであったとしてもよりオーソドックスで直感的にも理解しやすい外光派絵画を推進したのは正解だったのではないかと思います。特に絵画の道を志す新時代の青少年の教育という点では、黒田の方式は基礎技術の向上に極めて有益であったと思われます。

1900年からフランスに留学した日本洋画の先駆者浅井忠は、その後どのような活動をしたでしょうか。1902年に帰国した浅井は、東京美術学校から教授就任を要請されましたが、それを断って京都に住み着きました。やはり、東京美術学校は黒田の外光派が優勢になったのを見て、京都に新天地を求めたのでしょう。

19世紀末から20世紀初頭のパリは、工芸・装飾の新運動アールヌーヴォーの全盛期でした。浅井はそれに感銘を受け、新時代の図案芸術を身につけて帰国し、京都高等工芸学校の図案科教授に就任しました。京都の若手陶芸家に図案を提供して、アールヌーヴォー調の陶器を共同制作したということです。

浅井が京都に来ると、すぐにその名声をしたって関西の洋画家・画学生たちが集まってきました。やがて浅井は関西美術院を創設し、その院長に就任して関西の洋画壇の発展に尽くしました。浅井の門下からは、梅原龍三郎や安井曾太郎など次世代の日本西洋画を背負う画家たちが育って行きました。

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