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欧州とモロッコ

モロッコ  数年前、スペイン旅行をしたとき、マドリードのバラハス空港でカサブランカ行きという飛行機を目にしました。
カサブランカはアフリカ西北端の国モロッコ王国最大の商業都市で、 マドリードから834km南方にあります。東京-札幌より少し遠いくらいの距離です。

飛行機は エアバス社と同じグループが製造する ATR72 という中型のターボプロップ機で、先端がお玉杓子のように曲がった大きなプロペラがついていました。

ATR72 の航続距離は2222kmとのことで、マドリード-カサブランカ間を余裕を持って無給油往復できることになります。

私ども日本人にとっては、モロッコというと往年の名画 《カサブランカ》 などで見たくらいであまりなじみがないのですが、実はスペイン中部のマドリードからプロペラ機で往復できるほどの距離にあったのです。ヨーロッパからもっとも近いアフリカといってよいでしょう。

スペインの最南端ジブラルタルとその対岸モロッコ最北端の間はわずか14kmしかなく、日本の津軽海峡より4km以上も狭いということです。近年では、女性水泳愛好者がジブラルタル海峡往復遠泳を盛んにしているということです。

フランスによる統治

 モロッコは、上記のようにヨーロッパに近いこと、そして地中海、大西洋中部の戦略的位置にあることなどから、早くからヨーロッパ列強による争奪戦の的になりました。

16世紀初めには、モロッコの大西洋岸にポルトガル人によってカサブランカという町が建設されました。その後カサブランカはモロッコ王国とヨーロッパ各国との交易の拠点港として繁栄し、モロッコ第一の都市になりました。

モロッコ王国の東隣アルジェリアは、フランスが1830年に進出し、1847年には全アルジェリアを支配しました。当時はアルジェリアとモロッコとの国境が不明確だったので、両国間でたびたび国境紛争が起きていました。
フランスはそれを理由としてモロッコ王国を攻撃し、1844年9月にモロッコ王国との間で不平等協定を締結しました。こうして、19世紀前半までにはモロッコ王国は実質的にフランス共和国の統治を受けることになりました。

画家ドラクロワ

画家ドラクロワ  ウジェーヌ・ドラクロワは、1798年にパリ近郊に生まれました。18歳でパリの官立美術学校に入学し、新古典主義の画法を学びました。

ドラクロワはその翌年7歳年上の画家テオドール・ジェリコーと知り合い、そのロマン主義絵画に大きな影響を受けました。
1831年、33歳のとき、ドラクロワは初期の傑作の一つ 《民衆を導く自由の女神》 を発表し、フランスを代表する画家の一人になりました。

この作品は数度の革命を経て近代国家になったフランスを象徴する絵画とされ、 《モナリザ》 と並んでルーブル美術館を代表する人気を誇っています。

《メデゥーズ号の筏》

《メデゥーズ号の筏》  ドラクロワとモロッコの係わりを論ずる前に、ドラクロワの先輩格に当たるテオドール・ジェリコーについて触れておきましょう。
ジェリコーはドラクロワの7年前に生まれ、パリの画塾で新古典派絵画を学びました。

ジェリコーはこの師の教えにあきたらず、ルーヴル美術館でミケランジェロ、ティツィアーノ、ルーベンスら過去の巨匠たちの作品を学ぶようになりました。

1816年、アフリカ西海岸を南下していたフランス海軍のフリゲート艦メデューズ号がモロッコ沖で座礁しました。乗組員たちはメデューズ号の用材をロープでつなぎ合わせて大きな筏を作り、それに149名の乗組員たちが乗って漂流をはじめました。
筏は12日後にフランスの戦艦によって発見されましたが、当初の149名のうち生存した者はわずか15名だけでした。やがて、12日の漂流の間に筏の上では殺人、人肉食などが行われたのが判明しました。

ジェリコーはこの事件を知り、3年後の1819年のサロンに 《メデューズ号の筏》 を出品しました(上の写真)。12日間の漂流の後遠い沖合いを航行する戦艦を見つけ、自分の衣服に火をつけて必死にうち振る場面をドラマティックに描いています。
ジェリコーと親しかったドラクロワは、画中で漂流者の1人のモデルを務めたとのことです。

ドラクロワのモロッコ絵画

 前記のように、フランスは1830年にモロッコ王国の東隣アルジェリアに進出していました。それに続いて、フランスはモロッコ王国をも手中に収める構想を抱いていたのでしょう。

1832年にフランスはモロッコ王国に政府使節団を派遣しました。ドラクロワはその使節団の一員としてモロッコに入国し、モロッコの風土風物、モロッコ人の生活などを詳細にスケッチしました。当時は写真技術はなお開発途中の段階にあり、画家によるスケッチで画像情報を記録するのが一般的でした。

多数のスケッチを持って帰国したドラクロワは、それらから長期間にわたってさまざまな油彩画を制作しました。下の写真は1840年ごろ完成させた 《モロッコのユダヤ人の結婚式》 で、この地域に多数住み着いていたユダヤ人の結婚式の様子をエグゾティックなタッチで描いています。にぎやかな結婚式の歌舞の音が私どもに聞こえてくるようです。

ジベルニーの積みわら

 下の絵画は1837年ごろ完成させた 《タンジールの狂信徒たち》 という作品です。タンジールはジブラルタル海峡に面したモロッコの港町で、海峡を隔ててスペインのジブラルタルと向かい合っています。ヨーロッパからもっとも近いアフリカの大都市であり、古来国際都市として栄えてヨーロッパ各国から多数が来訪していました。

ドラクロワはそのタンジールで見かけた狂信的な群集による乱舞の様子をスケッチし、後のフランスに帰国してからこの作品を描いたのでしょう。群集は緑色の大きな旗をかかげていますが、緑色はイスラム教では神聖とされるとのことなので、これは狂信的イスラム教徒によるデモなのかと思われます。

モロッコの白い壁の建物に囲まれた広場で旗をかざし楽器を打ち鳴らして踊りまくる群衆のすさまじいエネルギーが、絵の前の私どものほうに押し寄せてくるように感じます。

ジベルニーの積みわら

画家マティス

画家マティス  アンリ・マティスは1869年、フランス北部ル・カトー=カンブレジに生まれました。
法律家を目指して大学に進みましたが、1890年、21歳のとき画家に転向する決断をしました。

フランス象徴主義の画家ギュスターヴ・モローの個人指導をうけて写実的な絵画を制作し始めましたが、まもなく師の教えにあきたらなくなり、ポスト印象派のフィンセント・ファン・ゴッホ 、ポール・ゴーギャンらの画風に傾倒するようになりました。

マティスは大胆な色彩を特徴とする作品を次々と発表し、モーリス・ド・ヴラマンク、アンドレ・ドランらとともに野獣派と呼ばれるようになりました。

42歳のころ、マティスは新たなる画境を求めてモロッコにやって来ました。ゴッホが南仏アルルの陽光により新境地を開いたのと同じように、マティスはモロッコで大先輩ドラクロワが「悪魔の太陽」と呼んだ日差し、鮮烈な色彩にであい、それまでになかった画調の絵画を多数制作するようになりました。

マティスは、1912年から1913年にかけ2度にわたってタンジールに旅行しました。その地でマティスはモロッコの風景や民族衣装姿のモロッコ人を多数スケッチしたそうです。
下の絵画左側はそれらスケッチをもとに制作された油彩 《テラスにて》 で、民族衣装をつけたモロッコ女性が高い壁のあるテラスに座っている様子を描いています。女性の前に置かれた大きなガラス鉢に金魚がおよいでいるのが印象的です。

下中央の絵画は 《緑色の服を着た男の子》 というもので、褐色の肌をした土地の男の子が緩やかな緑色の服を着て立っている姿です。緑色はイスラム教を象徴する色とのことで、モロッコではよく使われるそうです。その画中で男の子が服の前にたらしているのは、貝のようなもので作った飾りでしょうか。

下右側の絵画は 《窓から見た風景》 という題で、マティスが宿泊した部屋から窓越しに暮れなずむタンジールの海を眺めたものでしょうか。画中で室内の壁が青く床が赤いのが、いかにもモロッコらしいと感じられます。

《テラスに座るゾラ》 《緑の服を着た少年》 《窓から見た風景》

映画 《モロッコ》

映画 《モロッコ》  ヨーロッパに最も近くフランス圏でもあるモロッコは、古くからそのエグゾティックな風物で世界中から注目されてきました。

上記のように絵画の世界で西欧に紹介されたのに続き、20世紀になるとさまざまな映画がこの地を背景として盛んに製作されるようになりました。

左の写真はそのような映画のはしり、1930年公開のアメリカ映画 《モロッコ》 の一場面です。
主演のマレーネ・ディートリッヒ、モロッコ外人部隊員役のゲーリー・クーパーはこのとき同じ29歳の全盛期、世界中の映画ファンを酔わせました。

映画 《カサブランカ》

映画 《カサブランカ》  第二次世界大戦中の1942年には、アメリカ映画 《カサブランカ》 が公開されました。

フランスを占領したドイツは、戦略的に重要なモロッコ・カサブランカも勢力下に収めつつありました。
アメリカ人リックが経営する当地の酒場にかつての恋人イルザがその夫ラズロとともに現れます。ラズロが現地のドイツ軍に捕らえられたので、イルザはリックに夫を救出するようにと頼みました。

映画 《カサブランカ》 ではリックをハンフリー・ボガート、イルザをイングリッド・バーグマンが演じて世界的な大ヒットになり、翌年のアカデミー賞作品賞に輝きました(左の写真)。

映画 《外人部隊》

映画 《外人部隊》  アルジェリア征服戦争以来の伝統を持つフランス外人部隊は、モロッコなど北アフリカ植民地支配に大きな役割を果たしました。かつては手配中の犯罪者、刑事処罰を受けた者も多数いたそうです。

1953年の映画 《外人部隊》は、上記映画 《モロッコ》 と同じく外人部隊の兵士を主人公にしたもので、1934年の映画のリメーク版だそうです。やはり、エグゾティックな土地でのアウトローのストーリーはいつの世にも映画向きだったのでしょう。

お相手役は当時26歳だったイタリアの人気女優ジーナ・ロロブリジーダでした(左の写真)。私は残念ながらこの映画は観たことがありません。

古都マラケシュ

 最近テレビ番組でモロッコの古都マラケシュの風物を見ることができました。マラケシュはカサブランカの南方300kmほどのところにあるモロッコ第三の都市で、1000年の歴史をもち、ユネスコの世界遺産に登録されています。

マラケシュは旧市街(メディナ)とその西に広がる新市街からなっています。旧市街は東西2km、南北3kmの大規模な城壁に囲まれており、その中に王宮などいくつかの宮殿、エルバディ宮殿、サアド朝の墳墓群、ベルアベ陵、アグダル庭園などがあります。

テレビの画面で見ると、マラケシュは、カサブランカ、アルジェリアの首都アルジェなどの大商業都市と比較して市街は整然として静かであり、さすが1000年の歴史をもつ古都の格調が感じられました。

マラケシュ市街は4000m級の高山が連なる大アトラス山脈の北に位置して標高450mとのことで、乾燥したステップ高原の気候で緯度のわりには大変住みやすいそうです。
この古都で一週間ほどもゆっくりと過ごしたら、ドラクロワやマティスがモロッコで受けた感激を私も共有できるかも知れないと思いました。

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