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松本竣介

 私の家の近くにある世田谷美術館で、昭和前期の日本洋画壇に重要な足跡を遺した画家松本竣介の回顧展が行われているのを知りました。本年が松本竣介の生誕100年に当たるのを記念した企画で、私どもがよく名前を聞く作品など油彩約120点と素描約120点を展示しているとのことです。

松本竣介 松本竣介は1912(明治45)年に東京で生まれ、岩手・盛岡で育ちました。13歳のときに脳脊髄膜炎で昏睡状態になり、やっと命はとりめましたが聴力を失ないました。松本は画家として身を立てようと決意し、17歳のとき東京に出てきました。

上京後は太平洋画会研究所で研鑽を積みましたが、やがて独自の画風を目指して制作をはじめました。1935年には、《建物》 という作品が第22回二科展に初入選しました。
「生長の家」の信徒であった兄が創刊した雑誌「生命の藝術」の編集に参加し、雑誌の文章や挿画を数多く手がけました。

初期の作品

 上記二科展入選の後、松本は画家として本格的な活動を開始しました。1936年に松本禎子と結婚し、姓を佐藤から松本に改めました。当時の新興住宅地であった下落合にアトリエをつくり、妻禎子ととともに月刊誌「雑記帳」を創刊しました。

序説 1937年の二科展には 《郊外》 という作品を出品しましたが、この作品も今回の展覧会に展示されていました。
当時アトリエの周辺は緑豊かな田園であったのに影響されてか、この作品は瑞々しい青、緑の色調になっています。

左図は同じく今回展示されていたされた 《序説》 (1939年に発表)という作品で、さまざまなモチーフを画面に配した幻想的な作風を示しています。

パリ・オペラ座の天井画で有名なロシア人画家マルク・シャガールは、さまざまなイメージを一つの画面に置く幻想的な作風で知られています。私には、この 《序説》 にはシャガールの影響があるように思われました。

《N駅近く》

N駅近く  1940年、28歳のときの作品 《N駅近く》 です。画題の「N 駅」とは、自宅の近くの西武新宿線中井駅を指すようです。

松本の作品は青緑色のトーンのものが多いのですが、この作品ではご覧のように全体が赤褐色の色調になっています。当時は水田や畠も多かったこの地区の秋景色を描いたのでしょうか。
また太い黒い線を多用しているのは、フランスの画家ルオーの影響があったといわれます。

《顔(自画像)》

自画像  1940年ごろからは、松本は人物画や自画像の制作が多くなりました。
左は 《顔(自画像)》 という題名の作品で、上記 《N駅近く》 の後、1940年12月に制作されました。

このころは松本は28歳になっていましたが、この作品では実際より若く、少年のような姿で描かれています。
顔がピンクがかった色で生き生きと描かれ、背景もピンクを帯びていますが、それらが効果的で瑞々しい画面になっています。
小品ではありますが、すばらしい存在感があり、私はしばらくこの絵の前にたたずんで見入っていました。

このころ軍部は「画家は国家のために絵を描くべきだ」と主張しましたが、松本はそれに反論し美術誌に『生きてゐる画家』という文章を発表しました。その1年後、松本は有名な大作《立てる像》を制作し、『生きてゐる画家』のイメージを世に訴えました。

《白い建物》

 松本竣介は、上記のように1940年、28歳ごろに多くの人物画、自画像を制作しましたが、それらと並行して東京、横浜など各地を歩いて新しい傾向の風景画を描き始めました。この時期以降が松本竣介の画業の後期と呼ばれます。

白い建物  左は、1941年、29歳のときの作品 《白い建物》 です。この白い建物は、当時の国鉄水道橋駅の駅舎とされます。

後期の風景画は、まず対象のフォルムが明確になり、それらのフォルムを大きな構図で描いているのが特徴です。
この作品 《白い建物》 は、松本が後期の画境に入ったのを明確に宣言した傑作だと思います。

白い建物の壁面の素材感が見事に表現されており、それと背景の透明感ある青空との対比が鮮やかです。

後期の作品のもう一つの特徴は、フォルムの輪郭などを細い黒線で描いていることです。上図の作品 《白い建物》 をご覧になれば、その技法がいかに斬新な効果をあげているかがわかるでしょう。
私は展覧会場で後期の作品の前に立って、これらの黒線がどのように描かれているかを観察しました。日本画の細筆のようなもので描いたのかと思いましたが、それにしては線がシャープです。その後松本の作品について調べているうちに、松本が当時の万年筆のペン先を改造したものを使ってこれらの黒線を描いていたというのを知りました。

《ニコライ堂と聖橋》

ニコライ堂と聖橋 左は、 《白い建物》 と同じ1941年、29歳のときの作品 《ニコライ堂と聖橋》 です。

ニコライ堂は、東京JR御茶ノ水駅近くにあるロシア正教の大聖堂で、ロシア正教独特の玉葱型ドームで知られています。

聖(ひじり)橋とは御茶ノ水駅東端にあるアーチ橋で、湯島聖堂とニコライ堂をつなぐ位置にあるのでこの名がつきました。

松本が、存在感のある建物、絵になる画角を求めて東京中を歩き回ったのがわかります。

《Y市の橋》

 松本の風景画は、自宅のある下落合かいわいから始まり、次に上記ニコライ堂など東京の他地区にも足を伸ばしました。やがて、松本はさらに風景探索の範囲を広げ、1942年についに横浜に至って生涯の傑作のもととなる対象を見出しました。

松本は基本的に具象画家ではありますが、野原、山、森など自然の景観を描いた風景画はほとんど制作していません。松本は 「私は今、街の雑踏の中を原っぱを歩く様な気持で歩いてゐる」 と語ったそうですが、具象画家松本の関心は大都市の大きな構造物のメカニックなフォルムにあったのでしょう。
当時の国鉄横浜駅のすぐ近く、川のそばに線路をまたいでいる跨線橋がありました。

《Y市の橋》 現在はその上に高速道路がかかり、まわりにも高い建物がたくさんできたので目立たなくなっていますが、当時はまわりに何もなく跨線橋のむき出しの鉄骨が高くそびえていました。

左の絵画 《Y市の橋》 は松本の作品中でも特に有名なものの一つで、夕空を背景にしたその跨線橋を描いています。跨線橋の鉄骨が太い黒線で描かれ、存在感を示しています。

《Y市の橋》 左の絵画 はやはり 《Y市の橋》 という題名で、これも上の作品と同じく松本の代表作とされます。
これは、上の作品の右端にある工場とおぼしき大きな建物とその手前にある川にかかった橋を中央にすえて描いているように見えます。

松本の作品は青緑の色調のものと茶色の色調のものがあるそうですが、左の作品は全体として青緑の色調になっています。

松本が何度も描いたその跨線橋が近く解体されるという話を聞きました。もう建設後少なくとも80年以上も経って老朽化しているとのことで仕方がないのでしょうが、松本絵画のファンの一人として少々さびしい思いがします。

上の作品で跨線橋の手前にかかっている白い橋は、月見橋という名前で、現在でもほとんど当時のままの姿で残っているそうです。

戦後の松本竣介

 第一次世界大戦後は多数の日本人画家がパリなどヨーロッパ各地に留学していましたが、1930年代後半になるとヨーロッパには戦雲が立ち込めてきたので、大多数の日本人画家たちは次第に日本に帰国しました。松本竣介が画壇にデビューした時期は、日本人画家にとって欧米の絵画の動向が知りにくい時代だったのです。

しかし、1930年代後半から1940年代初めにかけての松本の作品には、当時パリで活動していた具象派大家マルク・シャガール、 フランコ・モディリアーニ、モーリス・ユトリロなどの影響を思わせる部分がかなり見られます。研究心が旺盛であった松本は、画集などを通じて最新のヨーロッパ絵画を勉強していたのでしょう。

1945年に太平洋戦争が終結すると、日本にはキュビスム、シュルレアリスムなどヨーロッパ現代美術の作品が怒涛のように入ってきました。当時の大多数の日本人画家たちと同じように、松本も新時代の絵画に挑戦したようで、今回の展覧会の最後の部屋にはパブロ・ピカソ、パウル・クレー、ジョアン・ミロなどの影響を感じさせる作品が並んでいました。
それらの中には本場ヨーロッパの抽象画家にも劣らないものも多く、私にとってはこれまでまったく知らなかった松本竣介の新境地を見ることができ、大変興味深く感じました。

戦争が終り、画家が自分の創造力を自由に発揮できる時代に入ったのに、松本竣介は戦争終了後わずか3年の1948(昭和23)年に気管支喘息で倒れ、それが悪化してまもなく死去しました。画家はまだ36歳の若さでした。

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