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画家カミーユ・コロー

画家カミーユ・コロー  画家カミーユ・コローは1796年にパリに生まれました。近代絵画の創始者の一人とされるウジェーヌ・ドラクロワより2年前の生まれです。

ドラクロワがロマン主義絵画を開拓したのに対し、コローは詩情ある風景画の方向に進みました。
晩年に至るまでフォンテーヌブローなどフランス各地を精力的に旅行し、独特の銀灰色調の風景画を多数制作しました。
コローは当時フォンテーヌブローのバルビゾン村に住んでいたミレーやテオドール・ルソーなどの画家と親しくバルビゾンで制作することも多かったので、バルビゾン派画家の一人に数えられています。

下の写真はこのころのコローの作品で、オワーズ河岸の段丘にある農地と段丘のへりに連なるポプラ並木などを描いています。シーズンは早春かと思われ、完全に葉を落したポプラ並木や柳とおぼしき木々の枝、こずえが墨絵を思わせる銀灰色調で描かれています。
段丘の下方を静かに流れるオワーズ川は、早春の日差しを感じさせる灰色をしています。

オワーズ川


オーヴェル=シュル=オワーズ

オーヴェル  コローは上記のようにフランス各地に写生旅行をしましたが、晩年に近くなった1850年ごろにパリの西北、オワーズ河畔の風光に感銘を受けてポントワーズに滞在して制作をしました。

そのころ、ポントワーズから北東の方向にオワーズ川に沿って鉄道が延伸され、オワーズ川に面した小村オーヴェル=シュル=オワーズに簡単に行けるようになりました(左の地図左上)。

オーヴェルに写生に行ったコローは、川と台地が混在するその地の風景に魅了され、何点もの風景画を制作しました。

オワーズ川はパリ北部の丘陵地帯を南西に向かって静かに流れ、オーヴェル=シュル=オワーズ、ポントワーズを経てパリ西部でセーヌ川に合流します。

画家シャルル・ドービニー

 さて、コローはバルビゾン時代から風景画を得意とする画家シャルル・ドービニーと親しくしていました。ドービニーはコローより11歳年下で、1817年にパリに生まれました。

船のアトリエ  ドービニーは、1857年に小さな川船を買い、それをアトリエとしてセーヌ川、マルヌ川などの川筋で風景画を描いていました。
左の写真は、そのころドービニーが描いた 《船のアトリエ》 という版画です。

コローからオーヴェル=シュル=オワーズの景観を聞いて、ドービニーはさっそくアトリエ船を動かしてオワーズ川に入り、オーヴェル村の下に停泊しました。ドービニーはオーヴェル村を一目見て気に入り、オーヴェル村の中にアトリエを設けることにしました。

ドービニーのアトリエ  ドービニーは、オーヴェル村中央部北側、オーヴェル城の近くに土地を見つけ、1861年に自宅兼アトリエを建てました。アトリエにはコロー、ドーミエなど仲間たちが大きな壁画を描いたそうです。

この建物はその後国によって修復され、1991年にドービニー美術館として史跡に指定されました。

現在では、ドービニー美術館はオーヴェル=シュル=オワーズの名所の一つになっており、世界中から多数の観光客が訪れます。私も6年ほど前にここに来ましたが、時間の関係で中には入らず、道路側から建物を見るだけでした。建物の南側には非常に美しい庭園があるそうです。

下の写真はこのころのドービニーの作品で、オワーズ川にもやっている小舟と緑豊かな岸辺を描いています。雲の多い空が夕焼けで一面に明るくなっており、その下を静かに流れるオワーズ川が空を映してばら色に光っています。

オワーズ川


画家カミーユ・ピサロ

 ドービニーは交際が広く、画家など仲間が多数いました。オーヴェル村にドービニーのアトリエができると、友人の画家たちが次第にドービニーのもとを訪れるようになりました。

画家カミーユ・ピサロ  カミーユ・ピサロはドービニーの13年後の1830年に生まれました。ピサロはパリ万国博覧会の美術展でコローやクールベの作品に接して感銘を受け、風景画家の道を志しました。

その後パリの画塾でクロード・モネと知り合い、終生の親友になりました。ピサロは10歳年下のモネが提唱した印象派運動に意気投合し、いっしょに戸外でイーゼルを並べて制作しました。

やがてピサロはかねてより尊敬していたコロー、ドービニーからオワーズ川流域の景観について聞き、さっそくパリから鉄道でその地に向かいました。

ポントワーズ、オーヴェルなどオワーズ川流域を歩き回ったピサロは、緑豊かな谷あいを流れる悠揚たるオワーズ川やその両岸にそびえる変化にとんだ丘陵に魅了されました。

ピサロはこの地に住むことを決め、1872年、ポントワーズにアトリエを建てました。ピサロはこの家に家族とともに17年間住んで、オワーズ川流域の風景画を多数制作しました。

下の写真はこのころのピサロの作品で、自分が住んでいたポントワーズからオーヴェル村に入るところの風景を描いたものだそうです。オワーズ川沿いの谷あいに迫って段丘が伸びているのが見られます。

オーヴェルの道


医師ポール・ガシェ

医師ポール・ガシェの家  上記のようにカミーユ・ピサロがポントワーズにアトリエを建てたのと同じ1872年に、ポール・ガシェという精神科医がオーヴェル=シュル=オワーズに家を買って移り住みました。
ガシェは、それまでパリで医師をしていましたが、妻が結核にかかったことから空気のよいオーヴェル村に転居したそうです。

左の写真はオーヴェル村の西端にあるガシェ医師が住んでいた家です。この家は一時は荒れ果てていたそうですが、1996年ごろから県の所有となり、ゴッホ生誕150年にあたり修復されて現在はガシェ記念館として公開されています。

医師ポール・ガシェ  ガシェは1828年生まれということで、ピサロより2歳年長、すでにオーヴェル村の住人であったドービニーより11歳若かったことになります。

ガシェは若いころからアマチュアとして絵を描いており、かなりの力量を持っていたそうです。そして当時ようやく知られつつあった印象派絵画を理解し、印象派の画家たちと親しく交際していました。

1872年にガシェ医師がオーヴェル村に住み着いて以来、隣町ポントワーズのピサロをはじめ、ポール・セザンヌ、アルマン・ギヨマン、ドービニー、さらにはモネ、ルノアールなどの印象派画家がガシェの家を訪れるようになりました。
ガシェ医師はオーヴェル村を訪れた画家たちに自分のアトリエを開放して自由に使わせたそうです。

1890年、サンレミの精神病院での療養を終えたフィンセント・ファン・ゴッホは、ピサロから紹介されたこのガシェ医師を頼ってオーヴェル村にやって来ました。上の写真はゴッホがその年にオーヴェル村で描いたガシェ医師の肖像画です。
ガシェ医師は、別ページで述べるようにオーヴェル村で画家ゴッホとさまざまな形で係わり合いをもち、ゴッホの悲劇的な最後を看取ることにもなりました。

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