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姉妹サイト 「実りのときブログ」、「実りの食」に、この時期の記事を多数掲載しました。

  トップページの写真 パリのアメリカ人

 ジョージ・ガーシュウィンは、1898年にユダヤ系ロシア移民の子としてニューヨーク・ブルックリン地区に生まれました。
ガーシュウィンは、幼時からピアノなど音楽に非凡な才能を示しましたが、家が貧しく音楽学校には行けませんでした。

やがてピアニストとして多方面で活動をするようになり、それらの仕事の合間に次第に作曲の技術を習得して21歳のとき歌曲 《スワニー》 を作曲しました。
これが当時の人気歌手アル・ジョンソンが歌ったことで大ヒットとなり、ガーシュウィンは一躍人気作曲家になりました。

そのころフランスのパリは、第一次大戦によるダメージもほぼ癒えてまさに世界の花の都になっていました。ガーシュウィンは数度にわたりパリを訪れましたが、新興大国アメリカの中心ニューヨークからきたガーシュウィンにも、当時のパリの繁栄ぶりはまぶしかったようです。
 このころ作曲した 《パリのアメリカ人》 は、ガーシュウィンとしてははじめてのピアノを使用しない作品で、正規のオーケストラのために作曲したものです。

第二次大戦後、戦勝国アメリカには大海外旅行ブームが起こりましたが、それもあって1951年にこの 《パリのアメリカ人》 が映画化されました。

つい最近この 《パリのアメリカ人》 をテレビで放映しているのを見ましたが、主人公が生活のために自作の絵を道端にかけて売っている様子がモンマルトル・サクレクール寺院横のテルトル広場をモデルにしているのに気が付きました。
ピカソやユトリロも一時似顔絵描きをしたという有名な広場です(上の写真)。

   枯れ葉舞う
      テルトル広場の
        絵描きたち


  不忍池の枯れ蓮

流れ行く大根の葉  東京・上野の名所 不忍池 は、春から夏にかけて一面に蓮の葉でおおわれ、8月ごろには白やピンクの華麗な蓮の花が楽しめます。

その蓮もやがて冬になると寒さとともに枯れ始め、年末には写真のように水面に枯れた蓮の茎だけが残った状態となります。

この池はシベリアなど大陸北方から渡ってくる水鳥の格好な越冬地になっているそうで、この時期にはたくさんの水鳥でにぎわいます。

水鳥たちも、やはり年末の寒さのためか、枯れ蓮の間の水面に静かに浮かんだままでした。

     枯れ蓮や
        鳥は池面(いけも)に
           浮きしまま

森鴎外の小説 『雁』 の最後のほうで、主人公岡田がこの池の雁に向かって石を投げたところ、それが雁に当たって死んでしまった、その雁を下宿に持って帰って鍋にして食べようと友達と相談するというくだりがあります。現在なら、もちろん、とんでもないことだと東京都や動物愛護団体からつるし上げられます。

私は、岡田のように石を投げるかわりに雁の群にえさを撒いてやりました(^_^)。雁がえさをとろうと近寄ってきて大きな口をあけると、口の中が赤いのがみえました。

  三橋鷹女 ・ 暖炉くらし

三橋鷹女・暖炉くらし  大正末期から昭和にかけて、4Tといわれた女流俳人たちが活躍しました。中村汀女、星野立子、橋本多佳子、三橋鷹女の4人です。

それらの一人、「鞦韆(しゅうせん)は漕ぐべし」 の句で有名な三橋鷹女 は、俳句の結社には属せず、自由な作句で俳句界に新風を吹き込みました。鷹女に、次の 「暖炉」 の俳句があります。

   暖炉くらし
        壺の椿を
             投げ入れよ  三橋鷹女

 鷹女の鋭い感性を示す俳句の一つです。部屋の隅にある暖炉にまだ火がついてなくて寒々としていましたが、壺に活けられていた赤い椿をその暖炉に投げ入れると、暖炉は一変して赤々と光と熱を放ち始めました。

鷹女は暖炉のある居間が好きだったようで、次の俳句もあります。

     暖炉灼く
          夫(つま)よタンゴを
               踊らうか      三橋鷹女

この俳句が作られたのは、大正の末あるいは昭和のはじめかと思われます。第一次世界大戦が終了してまもない当時の明るく自由な雰囲気が感じられる俳句ですね。

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