ゾ ー イ カ の 部 屋

         ミハイール・ブルガーコフ 作
          能 美 武 功    訳
          城 田  俊   監 修
      
登場人物
ゾーイカ (ゾーヤ・デニーソヴナ・ベーリッツァ)
アボリヤニーノフ (パーヴェル・フョードロヴィッチ)
アメチーストフ (アレクサーンドル・タラーソヴィッチ)
マニューシュカ
パルトゥペーヤ (アニーシム・ゾティーカヴィッチ) アパートの管理人
ガンザリーン (ガソリーン)
ヘルーヴィム
アーラ
グーシ
リーザニカ
マーリヤ・ニキーフォロヴナ
マダム・イヴァーノヴナ
ローベル
酔っぱらい(イヴァン・ヴァシーリエヴィッチ)
裁断師
お針女(裁縫女)
婦人一、二、三
見知らぬ男一、二、三、四

 (一九二0年頃。モスクワで。)

     第 一 幕
(ゾーヤのアパート。玄関、客間、寝室が見える。窓に五月の夕焼け。窓の向こうに、大きな建物あり。そこから恐ろしい音で音楽が鳴っている。
 スピーカーの音。「世界では、あらゆる人種が・・・」
 誰かが通りで叫んでいる。「石油ストーブを買い上げます・・・」
 別の人「包丁研ぎ、包丁研ぎ・・・」
 また別の人「壊れたサモワール直しまーす・・・」
 スピーカー「神聖な、唯一人の神を敬っている・・・」
時折市電の音が聞こえる。自動車の警笛も。地獄の交響曲。
やがてこの音が静かになり、アコーデオンが楽しいポルカを彈く。)

 ゾーヤ(洋服箪笥の鏡の前で着替えをしながら、そのポルカを口ずさんでいる。)さあ、行こう、行こう・・・書類はもうこっちのもの・・・せしめたのよ・・・許可証はこっちのものよ・・・
 マニューシュカ(突然登場。)奥様! 管理人ですわ。どうしましょう!
 ゾーヤ(囁き声で。)追っ払うのよ。追っ払って! 私は留守だって言うのよ。
 マニューシュカ でもあの人、裏口からまっすぐ入って来て・・・
 ゾーヤ 構わない。締めだして。私はいないって言うのよ。(鏡のついている箪笥の中に隠れる。)
 管理人(突然登場。)ゾーヤさん、いらっしゃいますか。
 マニューシュカ 奥様はいらっしゃいませんと申し上げたでしょう。お留守だと。それに何ですか、管理人さん。女性の寝室にずかずかと上がりこんで来て・・・
 管理人 ソ連邦の法律においては、寝室など許されてはいないんですからね。まさかあんたのアパートに寝室が別にあるって言うんじゃないでしょうな。何時帰って来るんですか、あの人は。
 マニューシュカ どうして私に分かりますか。私にこんなこと、いちいち言っては出かけませんわ。
 管理人 成程。レコのところへ、という訳か。(訳註 親指を出す。)
 マニューシュカ まあなんて下品な。誰のことです? ご自分で分かっていらっしゃるのですか。
 管理人 馬鹿なことを言うのは止すんだ、マニューシュカ。お前達のやることは見え見えなんだ。住宅委員会は何でもお見通し、住宅委員会の目は節穴(ふしあな)じゃないんだからな。そりゃ、片目は眠っているように見えるさ。しかしな、もう片っ方で見てるんだ。そういう作りになっていてな。
 マニューシュカ 早く出て行って下さい、管理人さん。何ですか、人の寝室に入り込んだりして。
 管理人 何を言ってるんだ。見てご覧、この鞄を。私にはちゃんとした名目がある。どこにでも入り込めるんだ。なにしろ国家公務員。袖の下などきかない顔なんだ。(マニューシュカを抱擁しようとする。)
 マニューシュカ 貴方の奥さんに言い付けちゃう。そしたらその国家公務員の顔なんか、いっぺんに血だらけよ。
 管理人 そんなこと言わないで、ねえ、可愛い子ちゃん!
 ゾーヤ(箪笥の中から。)こら、この管理人・・・いやらしいったらありゃしない!
 マニューシュカ ああ!(走って退場。)
 ゾーヤ(箪笥から出て来て。)ご立派ね、住宅委員会の委員長さん。本当にご立派。
 管理人 わたしゃ、本当にあんたがいないと思っていたんだ。何故あんな嘘をつくんだ、あの女。それにあんた、ゾーヤさん・・・狡いじゃないですか。
 ゾーヤ あなたって、なーんて厭な奴なんでしょう、管理人さん。随分酷いことを仰るじゃありませんか。まづ第一。レコ、レコだなんて。それからそれは、あのアボリアニーノフさんのことを当てこすっていたんでしょう?
 管理人 私はその・・・学がないんで・・・大学を出ていないもんだから・・・
 ゾーヤ それは残念だわね。第二に、私は着替えてもいない。それなのにのこのこ寝室に入り込んだりして。第三に、私は留守なんですからね。
 管理人 留守? 何ですか、それは。
 ゾーヤ だいたい私に何の用があるって言うんです。また居住人数違反だって言うんですか。
 管理人 当たり前でしょう。貴方が一人・・・部屋は六部屋。
 ゾーヤ どうして一人ですか。マニューシュカがいるじゃありませんか。
 管理人 マニューシュカは使用人です。台所の傍で十六アルシーンの権利があるだけです。(訳註 一アルシーンは七一・一二センチ。十六アルシーンは約十一メートル。長さの単位でなく、面積の単位なら理解出来るが、この部分不明。)
 ゾーヤ マニューシュカ!
 マニューシュカ (登場。)何ですか、奥様。
 ゾーヤ あなたは私の何?
 マニューシュカ 姪ですわ、奥様。
 管理人 何で、じゃあ、奥様なんて呼ぶんだ。
 マニューシュカ 尊敬を表しているんですわ。
 管理人 馬鹿な! 馬鹿な!
 ゾーヤ マニューシュカ、あなた、もういいわ。
(マニューシュカ、さっと退場。)
 管理人 こんなことは通りませんぞ、ゾーヤさん。私を騙そうったって。マニューシュカが姪? 何が姪ですか。あれが姪なら、あなただって私の姪だ。
 ゾーヤ ははあ、酷いことをおっしゃいますわね。
 管理人 一番目の部屋は人が住んでいないし・・・
 ゾーヤ あそこは今出張中なんです。
 管理人 そんなことがよく言えますね、ゾーヤさん。あの人物はモスクワ中どこを捜したっていやしない。いいですか、あなたの話は結局こうなるんですよ。その人物は、陶磁器組合から書類を貰って、あなたに提出した。その後、モスクワから出て行った、と。単なる謎ですよ、そんな人物。住宅組合でこの話をして私はみんなの笑い者。穴があったら入りたいところでしたよ。
 ゾーヤ ごろつきね、まるで。私にどうしろって言うのかしら。
 管理人 ごろつき? 誰のことを言ってるんですか。
 ゾーヤ 住宅組合の人達のこと。
 管理人 いいですか、ゾーヤさん。この地位にいるのが私じゃなかったら、あなたはとっくに・・・
 ゾーヤ 当たり前じゃないですか。その地位にいるのがあなただからこそ・・・
 管理人 組合の決定はですな、あなたの部屋の住人を増員すべし、でした。でも半数はこの決定がなまぬるいと怒っていましたね。あなたを追放すべきだって。
 ゾーヤ 追放?(親指を次の二本の間に入れる拳を作り、それを見せる。訳註 人を侮辱する図。)
 管理人 それはどういう意味ですかな。
 ゾーヤ 見ての通り。糞食らえっていう意味。
 管理人 いいでしょう。そっちがその気なら。私は明日、何が何でも誰か一人連れて来ますからね。そいつを住まわせるんだ。見物(みもの)ですな。あなたがその男に今の拳を見せる。するとどうなるか。じゃ、失礼しますよ。(行きかける。)
 ゾーヤ 管理人さん。ちょっと質問していいかしら。あのグーシさんのことですけどね、あの人一人で二階の七部屋を占有していますわね。住宅組合はどうしてそれを認めているのかしら。
 管理人 お答えしましょう。あの人はちゃんと契約でそうなっているんです。その代わり、全アパートの暖房をあの人が請け負っているんです。
 ゾーヤ 大変不躾(ぶしつけ)な質問ですけど、フィールソフさんの部屋を横取りするために、あの人、いくら出したんですか。
 管理人 これは酷いですな、ゾーヤさん。私は責任ある立場にある人間ですぞ。
 ゾーヤ(囁き声で。)管理人さん、あなたのそのチョッキのポケットには十ルーブル紙幣が入っていますわね。ビー・エムの番号の。・・・最初の数字は四二九000の筈。お調べになって。
(管理人、ボタンを外し、紙幣を取り出し、茫然となる。)
 ゾーヤ ほーらね。
 管理人 何か、あなたには薄きみ悪い力があると、前から思ってましたよ、ゾーヤさん。
(間。)
 ゾーヤ さあ、これでマニューシュカとあの出張中の人物、この二人の身柄は保証されましたね。
 管理人 それは無理です。マニューシュが女中だってことは、アパート中知らない者はいないんですから・・・
 ゾーヤ 成程、それはそうでしょうね。分かりました。もう一人別の人物を代わりに入れましょう。
 管理人 で、他の部屋は今通りっていうんですか。
 ゾーヤ(書類を取り出して。)ご覧なさい。
 管理人(読む。)「ペーリッツ夫人殿。本証明書により、右の者に左記のモデル縫製工房及びドレスメーカー学院の設立を許可する・・・」ほほー・・・「記。ブルーカラー及びホワイトカラーの妻の為の作業服縫製の為、補足の部屋面積を・・・」えーい、なんちゅうこった。あのグーシのやつが認めたのか。
 ゾーヤ そんなこと、誰でも同じでしょう? さあ、管理人さま、どうぞ、この写しを委員会の面々にお示し下さいませ。私は出頭の要はない筈よ。
 管理人 そりゃ勿論。この書類があれば事は簡単だ。
 ゾーヤ 話は違いますけど、今日両替屋に行ったら、(訳註 ミュールは不明。両替屋と訳した。)この五十ルーブル紙幣を渡されて・・・でもこれ、偽物。見て頂戴。鑑定では専門家ですものね。
 管理人 えっ、私が?(見る。)悪くない札だ。
 ゾーヤ 私は贋札と言っています。汚らわしい。持って行って。どこかに捨てて頂戴。
 管理人 分かりました。捨てましょう。
 ゾーヤ さあ、管理人さん。これでおしまい。私は着替えなくちゃ。
 管理人(出て行きながら。)ただ誰を新しく部屋に入れるのか、それは今日中に決めて戴かないと・・・いいですね? 後で来ます。
 ゾーヤ 分かったわ。
(どこかでピアノの音がし、歌う声が聞こえる。「ああ、君、美しい人よ。歌わないでくれ、この私に。悲しいグルジアの、その歌を・・・」 プーシュキンの歌。)
 管理人(扉のところで立ち止り、暗く、陰欝に。)すると、こういうことですか・・・グーシさんがお金を出す。その番号は控えて置く・・・
 ゾーヤ さあ、どうかしら。
(管理人、悲しそうな顔をして客間を通り、玄関に出る。同時にアボリヤニーノフ、登場。酷い状態。)
 アボリヤニーノフ ゾーイカ、入っていいかな。(帽子とステッキを投げ出す。)
 ゾーヤ パーヴェル! 勿論。入って。どうしたの、パーヴェル。また?
 アボリヤニーノフ 僕は克己心がないんだ。・・・あの中国人を・・・頼む。呼んでくれないか。中国人を・・・死にそうだ・・・
 ゾーヤ 分かった。分かったわ。(叫ぶ。)マニューシュカ!
(マニューシュカ、登場。)
 ゾーヤ アボリヤニーノフさんが調子悪いの。すぐ行って。あの中国人のところへ!
(暗転。ゾーヤの部屋、消える。胸の悪くなるような地下室の部屋が現われる。灯油のランプが点っている。紐に下着が干してある。アルコール・バーナーを抱えるようにして、ガンザリーンが身体を暖めている。その前にヘルーヴィム。)
 ガンザリーン お前、じゅーるいチュウコクジン。悪党ある。千ルーブル、盗む。コカイン、盗む。何処に売ったある? お前のこと、誰、信用するあるか。誰も信用しない。
 ヘルーヴィム うるさい! 黙れ! 悪党はそっちね!
 ガンザリーン 出て行け! 今すぐ。この家から。ぬすっと!
 ヘルーヴィム 何ある? 可哀相なちゅうこくじん。追い出すか。無茶苦茶ある! スヴェトノーイ通りで、私襲われたある。千ルーブル、盗まれたある。コカインも盗まれたある。ドロボー、きつく、きつく殴ったある。ほら、見るよろし。(傷を見せる。)私ここで一生懸命働く。あなた、私追い出す。可哀相なちゅうこくじん。このモスクワで、何食べるあるか。あなた、悪い仲間。私、あなた、殺すある。
 ガンザリーン 黙る! お前、私殺す。革命警察、お前、捕まえる。いいな。覚えとくある!
(間。)
 ヘルーヴィム なに! 私、仲間。それ、追い出す? 私、お前、つるすある! そこの軒の下、つるすある!
(間。)
 ガンザリーン お前盗んでない。本当あるか。
 ヘルーヴィム 盗まない。盗まないある。
 ガンザリーン 誓うあるか。
 ヘルーヴィム 誓うある。
 ガンザリーン 神に誓うあるな?
 ヘルーヴィム 神に誓うある。
 ガンザリーン お前、白衣着る。仕事するある。
 ヘルーヴィム 腹減った。二日間何も食べない。パンあるか。
 ガンザリーン そこのペーチカ、見るよろし。
(ノックの音。)
 ガンザリーン 誰。誰あるか。
 マニューシュカ(扉の向こうから。)開けて、ガソリーン。味方よ。
 ガンザリーン ああ、マヌースカか。(扉を開ける。)
 マニューシュカ(登場。)扉を閉めたりして。何やってるの。これでクリーニング屋? いくら叩いても戸を開けてくれやしない。
 ガンザリーン あ、マヌースカ。今日は。今日は、ある。
 マニューシュカ 早く、ガソリーン。すぐ来て、家に。アボリヤニーノフさんがまた悪くなったの。
 ガンザリーン 私、今行けないある。薬だけ渡すある。
 マニューシュカ 駄目。貴方自身が溶かすのやってくれなくちゃ。でないと薬を薄め過ぎなんて言われたりするもの。
 ヘルーヴィム 何? モルヒネあるか?
(ガンザリーン、何か中国語で言う。ヘルーヴィム、中国語で答える。)
 ガンザリーン マヌースカ、こいつ、行く。こいつ、やれる。
 マニューシュカ 本当に出来るの?
 ガンザリーン 出来る。心配いらない。(隅から、小さな箱を取りだし、ヘルーヴィムに渡す。中国語で何か言う。)
 ヘルーヴィム 私、なめるあるか。大丈夫。行くある。娘さん。
 ガンザリーン(ヘルーヴィムに。)行儀よくする。いいな。五ルーブル貰う。分かったな!
 ヘルーヴィム 何、がみがみ怒鳴る。このちゅうこくじん!
 マニューシュカ そんなに怒鳴らなくても。この子いい子じゃないの。天使さんみたい。(訳註 ヘルーヴィムが天使の意。)
 ガンザリーン 天使さん? 呆れた。悪党ある。
 マニューシュカ じゃあね、ガゾリーン。
 ガンザリーン さよなら、マヌースカ。僕のおよめさん、なるね? 何時来る?
 マニューシュカ 何言ってるの。そんなこと、誰が約束したかしら。
 ガンザリーン マヌースカ! だってもうせん・・・私と・・・
 マニューシュカ 女にはね、手にはキス出来ても、唇にキス出来るとは限らないの。さあ!
(ヘルーヴィムと退場。)
 ガンザリーン 可愛い娘、マヌースカ。おいしい娘、マヌースカ! (暗い声で中国語の歌を歌う。)
(ランプとアルコール・バーナー、消える。 暗闇。洗濯屋はなくなり、ゾーヤの寝室、居間、玄関、が現われる。寝室にアボリヤニーノフ、ヘルーヴィム、ゾーヤ。ヘルーヴィム、アルコール・バーナーを消す。アボリヤニーノフ、カフスボタンを止めている。袖を直す。生き返った様子。)
 アボリヤニーノフ(ヘルーヴィムに。)ねえ君、いくら払えばいいんだい?
 ヘルーヴィム 七ルーブル。
 ゾーヤ 七? どうして。五でしょう? ふっかけたりして!
 アボリヤニーノフ いいじゃないか、ゾーヤ。払ってやれよ。見てみろ。立派な中国人だ。(自分のポケットを叩く。)
 ゾーヤ 私が払うわ、パーヴェル。待って。(ヘルーヴィムに金を渡す。)
 ヘルーヴィム ありがと、ございます。
 アボリヤニーノフ ゾーヤ、見てご覧よ。あの微笑み。本当に天使だ! 立派な中国人だ。
 ヘルーヴィム 立派な・・・そんな、そんな・・・(打ち明け話をする、といった様子で。)よかったら私、毎日来る。持って来る。よろしいか? ガンザリーンには内緒。・・・私、何でもある。モルヒネ、ウオッカ・・・入れ墨も、出来るある。・・・ほら。(胸を開ける。龍の入れ墨。奇怪な、恐ろしい龍。)
 アボリヤニーノフ こりゃすごい。見てご覧、ゾーヤ。
 ゾーヤ なんて恐ろしい! 自分で彫ったの?
 ヘルーヴィム 自分で。上海でやったね。
 アボリヤニーノフ ねえ、ヘルーヴィム君。君、毎日ここに来てくれないか。私は身体の具合が悪くてね。モルヒネで治療しなきゃならないんだ。毎日来て、調合する。どうだね。
 ヘルーヴィム いいある。
 ゾーヤ 待って、パーヴェル。気をつけた方がいいわ。この人、浮浪人かも知れなくってよ。
 アボリヤニーノフ 何てことを言うんだ、ゾーヤ。あの顔を見てご覧よ。血筋のよい中国人だって、顔に書いてあるじゃないか。(ヘルーヴィムに。)ねえ君、君、共産党員じゃないよね。
 ヘルーヴィム トーイン、違う。私、洗濯する。
 ゾーヤ 洗濯?(それは都合がいいわ。)また一時間後に来て頂戴。契約しましょう。うちの仕事場でアイロンかけの仕事をしてもらいます。
 ヘルーヴィム いいある。
 ゾーヤ マニューシュカ、お見送りして。
 マニューシュカ(登場。)かしこまりました。(ヘルーヴィムと玄関へ進む。)
(アボリヤニーノフ、寝室のブラインドを上げる。モスクワの夕方が現われる。そこ、ここに、灯。町のざわめきがより大きくなる。 歌(チャイコフスキーらしい。)が聞こえてくる。「遠い岸、違う生活・・・」そして歌、微かになる。)
 ヘルーヴィム(玄関で。)さよなら、マヌースカ。一時間後にまた私、来る。私ね、マヌースカ、毎日来る。アボリヤさんの仕事、毎日来る。
 マニューシュカ 仕事? 何の?
 ヘルーヴィム 薬持って来る。キスして、マヌースカ!
 マニューシュカ 何言ってるの。さあ・・・(扉を開ける。)
 ヘルーヴィム(秘密を打ち明けるという様子で。)私、金持ちになる。あんた、キスしてくれる。金持ちに・・・立派な洋服着て・・・
 マニューシュカ 行って。行って。お願い・・・
(ヘルーヴィム、退場。)
 マニューシュカ 変わってる・・・変な男!
 アボリヤニーノフ(寝室の窓のところで。)「思い出させる、遠い岸・・・」
 ゾーヤ パーヴェル、私、許可証を手に入れたのよ。(間。)ねえ、伯爵、レディーの話に何故返事をしてくれないの?
 アボリヤニーノフ ご免。ちょっと考え事をしていてね、ちょっと。実は、なんだがね、僕のこと、伯爵と呼ぶのはもう止めて欲しいんだけど。
 ゾーヤ どうして? 何かあったの?
 アボリヤニーノフ 今日僕のところに、狩猟用の革のブーツを履いた男がやって来てね、「あんた、かっての伯爵さん・・・」と言っては話すんだ。
 ゾーヤ それで?
 アボリヤニーノフ 煙草の吸殻を床にへいちゃらで捨てるような男さ・・・それから君のところへ来る途中、電車から外を見てたらね、動物園の前に看板があって、「かってのめんどり、公開中。」と書いてある。態々下りて、係の者に訊いたのさ。それが今は何なのかってね。そしたら、今はおんどりです、だとさ。何が何だか分からない話だよ。
 ゾーヤ ああ、パーヴェル、パーヴェル・・・(間。)ねえ、パーヴェル、これにはちゃんと答えて。あなた本当に賛成なのね。(囁き声。)あの計画に。
 アボリヤニーノフ こうなったらもうどうでもいい・・・賛成だよ。「かってのめんどり」は金輪際ご免だ。どんな代償を払っても、ここから脱出だ。
 ゾーヤ そう。ここではあなたは衰弱するばかり。パリに連れて行ってあげる。クリスマスまでには、百万フランは貯めるわ。それは約束する!
 アボリヤニーノフ だけど、どうやって逃げ出すんだい。
 ゾーヤ グーシが助けてくれるわ。
 アボリヤニーノフ グーシ・・・かっての鵞鳥か。 かってのめんどりと比べると、えらい力の差だ・・・ゾーヤ、私は咽が乾いてきた。ビールはないかな。
 ゾーヤ マニューシュカ! ビールを買ってきて。
 マニューシュカ はい、只今。(食堂を通って玄関に出る。そこでスカーフをひっかけ、扉を閉め忘れて玄関を出る。)
 アボリヤニーノフ 急になんだか恐ろしくなってきたな・・・捕まりゃしないだろうか。君、怖くない?
 ゾーヤ そこをうまくやるのよ。捕まりはしないわ。謎の人物の部屋へ行きましょうか、パーヴェル。ここでは話は出来ないわ。窓が開いているし。
(二人、客間を横切って、退場。扉を閉める。その扉を通して、虚ろにゾーヤとアボリヤニーノフの声が聞こえる。通りの方から、すっとんきょうな、微かな音で歌う声が聞こえてくる。「夜だった。星が輝いていた。通りは凍えるような寒さ。小さな子供が・・・」)
 アメチーストフ(玄関に現われる。)「歩いていた。(悲しそうに。)寒さで青くなり、全身震えて。」(汚れたトランクを床の上に置き、あたりをみまわす。破れたズボン、油じみたフレンチコート、鳥打帽、の姿。胸には何かのメダル。)エーイ、くそったれ。クールスキー駅からトランクをかかえて一里。(うん、以前と変わらない。この家だぞ。)咽が乾いた。何が何でもビールを一杯ぐっといきたいな。あーあ、酷い運勢だ。この酷い運勢がまた俺をこの五階に引っ張り上げる。(ここへ辿り着いたはいいが、)これからどうなるんだろう。(扉から台所の方を眺める。)今日は。誰かいませんか。ゾーヤさん? ゾーヤさんはお留守?(客間まで入る。ゾーヤとアボリヤニーノフの声を聞きつけ、もっと近づく。聞き耳を立てる。)ああ、こいつはいい時に来たぞ。
 マニューシュカ (ビール罎四五本を持って玄関に登場。)あら! まあ、ドアを閉め忘れていたわ。
(アメチーストフ、玄関に戻る。)
 マニューシュカ あら、誰? あなた。何の用?
 アメチーストフ パルドーン、パルドーン。心配することはないよ、君。あ、ビールだ。何て言うタイミングの良さだ。クールスキー駅からビール、ビールって思っていたんだ。
 マニューシュカ 誰に御用?
 アメチーストフ ゾーヤさんに。で、失礼ですが、あなたはどなた?
 マニューシュカ 私はゾーヤさんの姪ですわ。
 アメチーストフ 始めまして。これはこれは。ゾーヤさんにこんな素敵な姪御さんがいたとはね。いや、驚いたな。私はゾーヤさんのいとこ。(マニューシュカの手に接吻する。)
 マニューシュカ(茫然となって。)ゾーヤさん! ゾーヤさん! (客間に走って行く。)
(アメチーストフもトランクを持って後から走る。マニューシュカの叫び声で、ゾーヤ、アボリヤニーノフ、客間に登場。)
 アメチーストフ 親愛なるいとこ殿。ジュ・ヴ・サリュ。(ご挨拶申し上げます。 フランス語、)
(ゾーヤ、凝然と立ちすくむ。)
 ゾーヤ あんた・・・あんたは・・・パーヴェルさん、これは私のいとこのアメチーストフ・・・
 アメチーストフ パルドーン、パルドーン(このパルドーンは「違いますよ」の意)・・・(アボリヤニーノフに)プチンコーフスキー。(アメチーストフじゃありません。) 共産党員じゃありません。革命前は貴族。
 アボリヤニーノフ (驚く。)始めまして。
 アメチーストフ ゾーヤさん。ちょっと二人だけで・・・いいですか。
 ゾーヤ ご免なさい、パーヴェル。ちょっと私も話があるの、このアレクサーンドル・タラーソヴィッチに。
 アメチーストフ いやですね。ヴァシーリイ・イヴァーノヴィッチですよ。それから苗字はプチンコーフスキー。ちょっと時間が経つと苗字も名前も忘れちゃうんですからね、ゾーヤさん。悲しいですよ、まったく。
 アボリヤニーノフ 構わんよ。構わんよ・・・(退場。)
 ゾーヤ マニューシュカ、パーヴェルさんにビールをお注ぎして。
(マニューシュカ、退場。間。)
 ゾーヤ バクーであんた、処刑されたんじゃないの?
 アメチーストフ おやおや、これは酷い。バクーで処刑されていたら、このモスクワにだって来られはしないでしょう? 無罪だったんですよ。それなのに間違って、死刑の宣告を受けて・・・
 ゾーヤ 私、頭が変になっちゃったわ。
 アメチーストフ 嬉しくて?
 ゾーヤ 何が何だか分からない・・・
 アメチーストフ 勿論例の五月の特赦で釈放さ。ところであの娘、あんたの姪っていう女の子、あの子はどうしたの?
 ゾーヤ 姪なんかじゃないわよ。あれは女中。マニューシュカよ。
 アメチーストフ 何だそうか。部屋確保のための偽装か。・・・(大声で。)マニューシュカ!
(マニューシュカ、慌てて登場。)
 アメチーストフ 君、ちょっと僕にビールを頼む。死にそうだ! 君、姪だなんて、嘘じゃないか。冗談もいい加減にしてくれよ。
(マニューシュカ、当惑して退場。)
 アメチーストフ あいつの手に接吻したんだ。畜生! なんて恥さらしな!
 ゾーヤ これから何処に住むつもり? 分かってるの? モスクワはひどい住宅難なのよ。
 アメチーストフ 知ってるよ。勿論君のところに。
 ゾーヤ 私が駄目と言ったら?
 アメチーストフ はあ、そういう考え。分かりましたよ。何て卑怯な。何て横暴な。親愛なるいとこを追い払う。ね。クールスキー駅から歩いてやっと辿り着いたそのいとこをね。天涯孤独のこの孤児を! フン、追っ払え。追っ払えばいいんだ。チェッ。行きますよ。(トランクを持ち上げる。)ビールだって飲むもんか。だけどいいですか、後悔するようなことになっても、僕は知りませんからね、ゾーヤさん。
 ゾーヤ ははあ、今度は脅迫ね。それはうまくはいかないわ。
 アメチーストフ 脅迫? 僕はちゃんとした人間なんですからね。紳士なんです。(囁き声で。)だけどもし僕がジェントルマンでなかったとしましょう。さあどうなるか。おそれながら、とゲーペーウーに垂れ込みに行くでしょうけど。この部屋で計画中の仕事のことについてね。親愛なるゾーヤさん、僕はね、みーんな聞いちゃったんだ。(行きかける。)
 ゾーヤ 待って! ベルを鳴らさなかったでしょう? どうやって入ったの?
 アメチーストフ ラ・ポルト・エテ・ウヴェルト。(訳註 フランス語。扉が開いていたんだ。)ゾーヤちゃん、僕はまだ挨拶のキスもしていないんだ・・・
 ゾーヤ(キスを避けて。)こうなる運命。腐れ縁か。
(マニューシュカ登場。ビール罎とコップを持っている。)
 ゾーヤ マニューシュカ、あなた、ドアを開けっぱなしで出たのね。ああ、マニューシュカ!・・・まあ仕方がないわ。アボリヤニーノフさんのところへ行って。謝って来て。
(マニューシュカ退場。)
 アメチーストフ(ビールを飲む。)フー、うまい。モスクワ第一級のビールだ。どうやら部屋は確保してあるようだね、ゾーヤちゃん。偉いぞ。
 ゾーヤ 腐れ縁だわ・・・どうやら、またまた十字架を背負わなきゃいけないみたい。
 アメチーストフ 僕が怒って出て行った方がいいの?
 ゾーヤ それはもう駄目。あなた、今一番欲しいものは?
 アメチーストフ 今一番・・・ズボンだ。
 ゾーヤ まさかあなた・・・ズボン持ってないの? そのトランクには?
 アメチーストフ トランク? 六組のトランプと「奇跡は存在するか」が入っているだけさ。この奇跡のお陰なんだ。これがなかったら餓えのために死んでいたよ。冗談じゃないんだ、これは。バクー・モスクワ間の貨物兼用列車の中でね。(有り難いことに)文化庁バクー支局で、記念にこのパンフレット「奇跡は存在するか」を百部せしめておいた。これを汽車の中で一部一ルーブルで売ったのさ。結局奇跡は存在したじゃないか、ゾーヤ。(この僕が生きている。)これだ・・・このビール・・・奇跡的なうまさだ。乗客のみなさん、パンフレットは如何・・・
 ゾーヤ そしてトランプはいかさま博打用。
 アメチーストフ まさかまさか、マダーム、私めがそのような・・・
 ゾーヤ こんな話はいいわ。この七年間、あなた何をしていたの。
 アメチーストフ よく訊いてくれました、ゾーヤ。一九一九年、僕はチェルニーゴフで文化省の役人・・・
(ゾーヤ、大声で笑う。)
 アメチーストフ そのチェルニーゴフに、白軍が進撃して来た。赤軍は僕にモスクワ疎開用に金を呉れてね。僕はその金で白軍のロストフに疎開。そこで白軍から仕事を貰った・・・赤軍は暫くしてやって来た。班長ってとこよ。・・・すると今度は白軍が疎開用に金を呉れてね。僕はその金で赤軍に疎開。情宣活動の仕事をやらされたよ。また白軍が来た! また今度は赤軍が疎開用に金を呉れて、その金で白軍クリミアに疎開。そこでセバストーポリのレストランの仕事をやらされた。そこで妙な連中に出会った。トランプでシュマンの勝負をやって、三万ルーブル巻き上げられてね・・・
 ゾーヤ あなたから? その連中、たいしたものね。
 アメチーストフ 一流だよ。すご腕だ。それからは勿論、白軍の次だから赤軍だ。で、今度は暫くソ連の体制の中に身を沈めた。まづスターヴロポリで役者。ノヴァチェルカースクで消防署の楽隊員。ヴァロネージュで輜重輸卒隊長。ここでやっと気がついたね。こんなことをいくら続けたって何にもならない。ここはいっちょう正式な党員になって、一歩一歩経歴を築いていかなきゃ、とね。・・・丁度その時僕の同室の男が、・・・カールル・ペトローヴィッチ・チェマダーノフっていうんだが、そいつがきちんとした党員でね・・・
 ゾーヤ ヴァロネージュでの話?
 アメチーストフ いや、これはもうオデッサだ。僕の考えじゃ、党にとって、たいした損失じゃなかった筈なんだ。一人の党員が死んで別の男がそいつにとって代わったってね。死んだその男に対しては、ちゃんと涙を流して、党員証明書を頂戴して、バクー行きさ。バクー・・・良い場所だ。静かで、シュマンだって御開帳出来るし・・・てな訳で、チェマダーノフ氏、バクーに現わる、さ。ある日のことさ。ドアが開いてチェマダーノフ氏の友人なる人物がやって来た。さっとシュマンのテーブルにつく。(一勝負。)あいつは九。こっちは・・・カス。窓に駆け寄ったんだがね。生憎二階さ。
 ゾーヤ あらあら。
 アメチーストフ ついてなかった。はい、それまで、だった。裁判での僕の最後の演説を聞いて貰いたかったね。教授達のようなインテリだけじゃない。囚人の護送係みたいな連中も聞いていたんだ。それが全員声を上げて泣いたんだからな。結局銃殺刑に決まりさ。・・・こうなりゃもうやることは一つしかありゃしない。(訳註 二一頁では特赦で出たと言っている。)このモスクワへずらかったって訳さ。ねえゾーヤ、(頼むよ)君、こんないい部屋に住むようになって、人間が冷たくなったんじゃない? 大衆ってものから遠くなったんじゃないのか。
 ゾーヤ しようがないわね。あなたみんな聞いちゃったんでしょう?(私達の話を。)
 アメチーストフ 運がよかったんだ、ゾーヤ。
 ゾーヤ おいてあげるわ。
 アメチーストフ 有難う、ゾーヤちゃん。
 ゾーヤ 何、その言い方! おいては上げる。この仕事のマネージャーの役を与えるわ。でも、いいわね、アメチーストフ。妙な真似をしてこの計画をぶちこわすようなことがあれば、あなたを生かしてはおかない! 分かってるわね、アメチーストフ。あなた、自分のことを、もう喋り過ぎているのよ!
 アメチーストフ そうか。おへんろさんの悲しい物語。それを打ち明けたら相手は蛇だったか。やれやれ!
 ゾーヤ お黙りなさい。何て馬鹿なことを! ネックレスは今どこなのよ。売ると言って私から取って行ってそのままになっている、あの・・・
 アメチーストフ ネックレス? 待って・・・エート・・・ああ、あの小さいダイヤがいっぱいついてたやつ?
 ゾーヤ 悪党。ほんとにしようもない悪党!
 アメチーストフ 手厳しいな。わかりましたよ。大事な親戚にゾーヤさまがどんな扱いをなさるのか。
 ゾーヤ 身分証明書はあるのね。
 アメチーストフ ポケット一杯、身分証明書だらけ。どれが一番効き目があるか、それは問題なんだがね・・・(いろんなポケットから身分証明書を取り出しながら。)カールル・チェマダーノフ・・・こいつはもう使えないな。シグラーッゼ・アントーン・・・駄目だ。こいつも。
 ゾーヤ これはひどいわね。何、一体。プチンコーフスキーじゃないの?(訳註 二十頁ではプチンコーフスキーだと言っている。)
 アメチーストフ あ、そいつ、紛れて入っていたな。プチンコーフスキーはモスクワだ。使えないや。まてよ。これはどうやら僕の本名の方がいいらしいぞ。もう八年間モスクワにいなかったんだからな。みんな忘れてるさ。よし。今日からアメチーストフ、この名前で登録だ。あれ、徴兵検査によると、僕にはまだヘルニアがあったか。(証明書を出す。)
 ゾーヤ(箪笥から見事なズボンを取り出す。)ほらズボン。履いてみて。
 アメチーストフ 神様も褒めて下さるよ、ゾーヤ。有難う。ちょっとあっち向いてて。
 ゾーヤ 今になって急に他人行儀ね。(まあいいわ。)ズボンは帰して頂戴よ。パーヴェルのものなんだから。
(訳註 アメチーストフ、衝立の後ろへ行く。)
 アメチーストフ パーヴェルさんて、つまり、あんたの、あれ?
 ゾーヤ あの人にはちゃんとした態度を取るのよ。正式な夫なんですからね。
 アメチーストフ 名字は何て?
 ゾーヤ アボリヤニーノフ。
 アメチーストフ 伯爵? ホッホー。おめでとう、ゾーヤちゃん。革命で奴はすっからかんだろうな、きっと。顔つきからすると、やっぱり反革命派だな。・・・(衝立の後ろから出て来る。自分の履いたズボンに見惚れる。)これこそ人間の履くズボンと言えるな。すぐパリ行の列車に乗ってここをおさらばしたくなるな。
 ゾーヤ おさらばはいいの。名前のことをなんとかしなくちゃ・・・嫌なことになるわ・・・パーヴェル!
(アボリヤニーノフ登場。)
 ゾーヤ ご免なさい、パーヴェル。ちょっと仕事の話をしていたの。
 アメチーストフ 昔話に花が咲きましてね。だって僕はゾーヤちゃんと一緒に育ったんですから。本当に涙涙、ですよ。あ、このズボン、すみません。どうも。道で身ぐるみ剥がれてしまって・・・それから御丁寧に、タガンローグでまた二つ目のトランクも盗まれて。酷い話ですよ。御不満なんじゃないでしょうね。お互いに貴族。問題じゃないですよね。
 アボリヤニーノフ いやいや、どうぞどうぞ。喜んでその・・・
 ゾーヤ ねえパーヴェル。アレクサーンドル・タラーソヴィッチはここでマネージャーの仕事を引き受けて呉れることになったの。あなた、いいわよね。
 アボリヤニーノフ そりゃもう喜んで・・・君がこのヴァシーリー・イヴァーノヴィッチ君がいいというなら・・・
 アメチーストフ いやいや。アレクサーンドル・タラーソヴィッチなんです。驚いていらっしゃいますね。ヴァシーリーってのは、つまり私の芸名でして、舞台での名前なんです。ヴァシーリー・イヴァーノヴィッチ・プチンコーフスキー。本名はアレクサーンドル・タラーソヴィッチ・アメチーストフ。これはよく知られた苗字ですよ。親戚という親戚は、ほとんどボリシェビキーに処刑されたんですからね。一大叙事詩ですよ、全く。お話すれば、涙なしじゃいられませんよ。
 アボリヤニーノフ そりゃ喜んでお聞き致したいですね。ところで、あなた、御出身はどちらで?
 アメチーストフ 御出身? 私が? その、何処から来たかというお話で? それはその、どこからという話になれば、サラートフですよ。そこから今やって来たんですから。いや、全く涙なしじゃ・・・聞いて下されば・・・
 アボリヤニーノフ その・・・党員じゃないんでしょうな。お訊きしてよければ・・・
 アメチーストフ これは呆れた。なんていう質問でしょう。
 アボリヤニーノフ でもその胸にあるのは・・・つまりその・・・いや、勿論ちょっとそれらしい形なので・・・
 アメチーストフ ああ、何だ、これ? これは旅行用ですよ。旅をするときに実に便利なんです。並ばないで指定席が取れるだとか、まあいろいろ・・・
 マニューシュカ(入って来て。)管理人さんがいらっしゃいました。
 ゾーヤ お通しして。(アメチーストフに。)忘れないで。住宅委員会の委員長よ。
 管理人 今日は、ゾーヤさん、アボリヤニーノフさん。さあ、どうなりましたかな、ゾーヤさん、対策は。
 ゾーヤ もうちゃんと。これが書類。これがアレクサーンドル・タラーソヴィッチ・アメチーストフさん。今着いたばかり。うちの仕事のマネージャーをやってもらう予定。そこに承認のサインをお願いしますよ。
 管理人 ははあ、ここでお働きになる。成程。
 アメチーストフ そう。ここで働くんですよ。どうですか、管理人さん、ビールを一杯。
 管理人 これはどうも。有り難く戴きますよ。猛烈な熱さですな。これで一日中立ちっぱなしだったんだから・・・
 アメチーストフ そうそう、この暑さじゃ誰だってまいっちゃう。いやー、ここは立派なアパートですな、管理人さん。実に立派な建物です。
 管理人 そんな御冗談を。こんなところの管理なんて、まるで拷問ですよ。ところで兵役義務に関してですが、やはりヘルニアがおありなんでしょうな。
 アメチーストフ ええ、御推察の通り。ほら。(書類を見せる。)エート、党員なんですか、管理人さんは。
 管理人 ええ、まあ党員ではありませんが、シンパ・・・エー、同調者、ですな。
 アメチーストフ あ、そりゃ嬉しい!(バッジをつける。)私は以前党員でしてね。(傍白。アボリヤニーノフに。)人前ではね。(訳註 Devant les gens. 原文はフランス語。)ちょっとズルをして・・・
 管理人 ほう。党を出た。何かありましたかな。
 アメチーストフ いや、くだらない派閥のいざこざで。私は多数派の意見にどうしても賛成出来ず・・・まわりを見て、決心しました。もう駄目だ、意見は通らない、ってね。そして皆に面と向かって言いましたよ・・・
 管理人 面と向かって?
 アメチーストフ(そう。面と向かって。)何を失うっていうんです。自分を縛っている鎖を捨てるだけじゃないですか。かっては党で重要な役割を演じたこともある私ですがね・・・これはいかんと言ったんです。まづ第一に路線からの逸脱だ。それに路線の純血を汚(けが)している。誓約違反だ。こういうと、奴等は、ええ、なんだと、と来たわけです。それならまづ手前(てめー)をやっつけてやる、と。かっかする奴等ですからね。さあ、乾杯といきましょう。
 アボリヤニーノフ こりゃすごい。こいつは天才だ。
 ゾーヤ(小声で。)馬鹿ね。大悪党よ、この人。さあ、もう政治はおしまい! いいですね、管理人さん、明日から早速仕事ですからね。
 アメチーストフ さあ、仕事開始だ。モデル工房の成功を祈って、支配人ゾーヤさん、それにアボリヤニーノフさんの健康を祝して、乾杯!(ビールを飲む。)次に我等が尊敬すべきアパートの管理人、且つ共産党シンパの・・・(小声で。)名前、何だったっけ。
 ゾーヤ(小声で。)アニーシム・ザティーカヴィッチ・パルトゥペーヤ。
 アメチーストフ アニーシム・ザティーカヴィッチ・パルトゥペーヤさんに、乾杯!
(通りからピアノが鳴り始め、子供の歌声が聞こえてくる。「イクシャクネンモ、イクシャクネンモ・・・」)
 アメチーストフ そうか、こいつはいい。イクシャクネンモ、イクシャクネンモ・・・(幸せは続くのだ。)
                      (幕)
     第 二 幕
(ゾーヤのアパートの客間。工房に作り変えられている。人形の顔をしたマネキン(複数)。生地が辺りに沢山広げられている。縫製工達がミシンを踏んでいる。肩にメジャーをかけた寸法取りの女。三人の女客。)
 女客一 駄目よ、あなた・・・ここの端は全部取って。くり抜いて頂戴。ここが隠れたら酷いじゃないの。「あの人、上の肋骨二本ないんじゃないの」って言われちゃう。駄目。ここは取ってしまわなきゃ。
 寸法取りの女 分かりました。
 女客二(女客三にぺちゃくちゃと話している。)・・・ねえ、分かる? こんなことを言うのよ。 「まづ奥様、この頭です。それを刈ってからになさらないと。」私すぐその足でクズネースキー・モーストへ行ったわ。ほら、あのジャンのところへよ。そして髪を切って貰ってまたすぐとってかえした。そう、これなら入りますわ、とそのかつらを被せてくれた。そしたらどう。私の顔がまるで釜なのよ。
 女客三 ヒッヒッヒ。
 女客二 まあ酷い。あなた、笑うのね。
 女客一 そこに襞(ひだ)を入れて。そう、襞を。
 寸法取りの女 まあ、こんなところにですか、奥様。
 女客二 それに酷いことを言うのよ、その女。「だって奥様、奥様の頬骨が大き過ぎるからですわ。」だなんて。
(呼び鈴の音がする。)
 アメチーストフ(走って通り過ぎながら。)パルドーン、パルドーン。見ていませんからね。
 女客二 ムッシュー・アメチーストフ。あなたの御意見を伺いたいわ。私頬骨が大きいかしら。
 アメチーストフ 頬骨? ケスク・ヴ・ディット? (本文フランス語。何を言ってらっしゃるんですか。)奥様に頬骨なんかありませんよ。
(アメチーストフ退場。)
 女客一 誰? あの人。
 縫製工 ドレスメーカー学院の学院長。
 女客一 素敵な学院ですこと。
 アメチーストフ(戻って来て。)パルドーン、パルドーン。見ませんからね。おや、何て奇麗なマントだ。
 女客一 マントが奇麗? あーら、私そんなにお尻が大きいのかしら。
 アメチーストフ そう。実にピッタリのお尻ですな、マダーム。(呼び鈴。傍白。)くそっ、くたばっちまえ! パルドーンパルドーン・・・(慌てて退場。)
 女客一(マントを脱ぎながら。)で、どうしても金曜日までには駄目?
 縫製工 無理ですわ、奥様。こちらも手いっぱいで。
 女客一 酷いのね。じゃあ土曜日までに。
 縫製工 仕上がりは水曜日ですの、奥様。
 女客一 そう。仕方ないわね。じゃあ。(退場。)
 仕立工(女客二に包を渡しながら。)どうぞ。
 女客二 有難う。
 アメチーストフ(また飛び込んで来て。)オルヴワール、マダーム。(呼び鈴が鳴る。傍白。)何だ、今度は。パルドーン、パルドーン・・・(走り退場。)
(女客二、退場。)
 仕立工(荷物を紙に包んで女客三に渡す。)はい、リボンです、奥様。
 女客三 有難う。(退場。)
 仕立工(疲労困憊して、坐る。)フー。
 アメチーストフ(走り登場。)まあ、親愛なる同志諸君。店を閉めよう。今日は終わりだ。
(仕立工と縫製工達、出て行く準備をする。)
 アメチーストフ 労働基準法に則(のっと)って充分に休むんだ、同志諸君。ハイキングに良い季節だ、紅葉の秋・・・
 縫製工 ハイキングだなんて、アメチーストフさん。ベッドに辿り着けるか、それが心配な程疲れているのに。
 アメチーストフ 分かる、分かる。僕だって一つのことしか頭にない。ぐっすり眠りたい。それだけさ。一番いいのは、横になった時、唯物論哲学について何か読むんだ。するとすぐ眠れる。あ、掃除はいいよ。同志マニューシュカが全部やってくれる。
(縫製工と仕立工、退場。)
 アメチーストフ やれやれ、女、女、女。疲れるなあ。ちらつくのは連中の尻、胸、リボン!(ブランデーの罎とグラスを取りだし、二三杯飲む。)フー、やれやれ。
(ゾーヤ、登場。)
 アメチーストフ ああ、ゾーヤちゃん。親愛なる支配人さん。アーラさんには今日来て貰うよう言ってあるんですか?
 ゾーヤ ええ、まだ来ないけど。
 アメチーストフ フーン、そうだろうな。ねえ、ゾーヤちゃん。あの人にもうどのぐらい貸しているの?
 ゾーヤ 二千。
 アメチーストフ ヘーエ。たいした信用だな。
 ゾーヤ ちゃんと払うわ、あの人。
 アメチーストフ 払わないな。これには確信がある。あの目つき。あれは支払能力なしの目つきだ。金があるかないかは目つきで分かる。自分が良い例さ。僕は文なしの時には必ず思案投げ首。物思いに耽った顔になる。共産主義が正しいんだとね。いいかい。言っとくけどね。あのアーラさんの顔、あれは思案投げ首の顔だ。咽から手が出る程金が欲しいんだ。だけどな、いいんだがな、あの人が使えたら。この商売にはもってこいだ。ここの花になるんだがな。ねえ、ゾーヤちゃん。アメチーストフの言うことを聞いて。アメチーストフ、偉大な男よ。(呼び鈴の音。)
 アメチーストフ くそったれ。また誰か来たか。
 マニューシュカ(登場。)アーラさんです。お通ししてよろしいですか。
 アメチーストフ そーら来た。しっかり絞りあげるんだよ。
 ゾーヤ 分かってるわ。心配御無用よ。(マニューシュカに。)さあ、お通しして。
 アーラ(登場。)今日は、ゾーヤさん。
 ゾーヤ いらっしゃい。
 アメチーストフ お手に接吻を、アーラさん。そうそう、今日はパリからの新着があるんですよ。必ず見て行って下さいね。今着ていらっしゃるその服なんか、パッと窓から投げ捨てちゃいますよ、きっと。かっての騎兵隊員、この私が請け合いますよ。
 アーラ あら、あなた騎兵隊にいらしたの?
 アメチーストフ メ・ウイ(訳註 本文フランス語。「そうですとも」)僕は退散だ。どうぞ、ごゆっくり。
(ゾーヤに目配せして退場。)
 アーラ なんて素敵なマネージャーなんでしょう。で、本当なんですの、あの方、元騎兵隊員って?
 ゾーヤ さあ、どうなんでしょうね。残念ながら私には・・・どうぞお坐りになって・・・
 アーラ ゾーヤさん、実は大変大事なお話があって・・・
 ゾーヤ 何でしょう。
 アーラ 困りましたわ、ゾーヤさん、私。今日はお借りしているお金を返さなければならないのに・・・本当に恥ずかしいんですけど、私・・・財政の状態が最近酷く悪くなって・・・どうしてもちょっと待って戴かないと・・・(間。)ああ、何も仰らないのね、ゾーヤさん。たまらないわ・・・
 ゾーヤ 何か私に言えることあるかしら、アーラさん。
(間。)
 アーラ 失礼しますわ、ゾーヤさん。勿論仰る通り、何もあるわけありませんわね・・・でも私、せいいっぱいやって見た。お金を稼ごうと、借金を返そうと・・・さようなら、ゾーヤさん。
 ゾーヤ さようなら。
(アーラ、扉に進む。)
 ゾーヤ お金に困ってるのね、そんなに。
 アーラ 何ていう言い方、それ。それは私、あなたに借りがあるわ、ゾーヤさん。でも、だからってそんな言い方ないでしょう?
 ゾーヤ 違うわね、それは。物事っていうのは、全部その言い方にあるの。特に金の貸し借りの時には。私のところへ来てあっさりとこう言って下されば話は違っていたわ。「私、なにもかもうまくいかないの。一緒になんとか考えない? お互い困っているんだもの。」でもね、あんなに取り澄まして、(彫像のような顔で)やって来て、「いい? 私は上流社会の女よ、あなたはただの仕立屋さん・・・」これで私に、この哀れな仕立屋に何が言えるっていうの?
 アーラ あなたにそう見えただけだわ、ゾーヤさん。本当よ。借金のことで頭がいっぱい、他のことは何も考えられない。だから自分が他人にどう映っていたかなんて全然頭になかったの。
 ゾーヤ もう借金の話はおしまい! そう、お金がないのね? 分かったわ。じゃああっさりとお訊きしましょう。いくら欲しいの?
 アーラ たーくさん。考えただけで身体が冷えてくるぐらい・・・それぐらい沢山。
 ゾーヤ どうしてそんなに?
(間。)
 アーラ 国外に出たいの。
 ゾーヤ 分かったわ。ここじゃにっちもさっちもいかない。
 アーラ そう。にっちもさっちもいかない。
 ゾーヤ じゃ誰かいい人がいるのね。誰かは訊かないことにする。だって名前なんかどうでもいいもの。・・・するとつまりその人にもお金がないってことね。あなたに安定した生活をさせる・・・
 アーラ 夫が死んでからは私、誰もいないのよ、ゾーヤさん。誰も。
 ゾーヤ あら、そう。
 アーラ 本当よ。
 ゾーヤ そうすると、三箇月前出ようとしたあれは、失敗?
 アーラ ええ。失敗。
 ゾーヤ それは私がやってあげるわ。
 アーラ まあ! でも、もしやって下さったら、一生恩にきるわ。
 ゾーヤ 心配しないで、同志アーラさん。お金なら、もし私でよければ、稼ぐ方法はあるんだけど。今までの分も一度に返せるような。
 アーラ ないわよ、そんな方法。モスクワ中捜したって無理。勿論いかがわしい仕事でなら話は別だけど、かたぎのではね。
 ゾーヤ どうして? 縫製の仕事・・・これはかたぎの仕事よ。うちでマネキンの仕事はどう? 来て下されば有り難いけど。
 アーラ マネキン? だってそんな仕事、端金(はしたがね)にしかならないじゃないの。
 ゾーヤ 端金! 端金にもいろいろあるわよ。ひとつき一千ルーブル。借金は棒引きにして、国外脱出の時には手助けをする。仕事は夜だけ。それも一日おき。これで如何?
(間。)
 アーラ 一日おき? ・・・夜だけ?(何のことか分かって。)まさか!
 ゾーヤ クリスマスまであとたった四箇月。四箇月経ったらあなたは自由。借金はなし。それから、いい? 誰も、だーれも知る者はいないのよ。あなたがマネキンの仕事をしたっていう事を。そして春にはあなたはグラン・ブルヴァール。
(窓の外からピアノに合わせた歌声が聞こえる。「さあ、この国を出よう。こんなに苦しんだこの国を。」)
 ゾーヤ(囁き声。)パリにいるのね、好きな人が。
 アーラ ええ。
 ゾーヤ 春にはその人と手を取り合っている。その人は何にも知らない。決して知ることはない。
 アーラ これが縫製の仕事! まあ、何ていう縫製の仕事でしょう。仕事は夜だけ・・・ゾーヤ、あなた、自分が何か分かって? あなた・・・悪魔よ! でも本当に秘密なのね・・・誰にも、決して・・・
 ゾーヤ 誓うわ。(間。)ほら、善は急げ、って言うじゃない。ね、アーラ。
 アーラ 分かったわ。じゃ、しあさって、ここに。
 ゾーヤ  さあ!(衣装棚を開ける。強烈な光。それに照らされて、パリ仕立の衣装がずらりとかかっている。)さあ、選んで。好きなのをどれでも。私からのプレゼント!
(暗くなる。ゾーヤとアーラ、その中に消える。)

(それから明るいランプの光。夜中。アメチーストフとゾーヤ。)
 アメチーストフ 分かったろう、このアレクサンドル・アメチーストフ様がいかなる人物か。ちゃんとお見通しなんだ。
 ゾーヤ そうね。馬鹿じゃないわ。
 アメチーストフ ゾーヤちゃん、これだけはちゃんと覚えておいてくれなきゃ困るよ。君の財産の半分はこの僕の手で稼ぎ出したんだ。このいとこ殿を最後に棄てたりはしないね? 一緒に連れて行ってくれるね? ああ、ニース、ニース! 再びお前を見るのはいつの日か。紺碧の海。その海岸を真白いズボンを履いて散歩するんだ。
 ゾーヤ こっちからも一つだけ注文があるわ。 あなた、フランス語は止めて頂戴。少なくともアーラの前ではね。あの人、目を丸くしていたじゃないの。
 アメチーストフ 目を丸く? どういうこと、それ? ひょっとすると、僕のフランス語が下手って言いたいの?
 ゾーヤ 下手? 下手ですむと思ってるの? 最低よ。
 アメチーストフ これは酷いよ、ゾーヤ。パルル・ドノール(名誉にかけて・・・原文フランス語。)僕は十歳の頃からシュマンをやっているんだ。その男を捕まえてフランス語が下手?
 ゾーヤ(最低。)それにね、どうしてあなた、ああ次から次に嘘をつくの。挙げ句の果てには騎兵隊員だったなんて。こんなことを言って何になるっていうの。
 アメチーストフ まいったね、これは。君には礼儀っていうものが一かけらもないんだ。人に不愉快なことを言っては楽しんでる。それが君なんだ。僕が政権の座についたら君をどうするか知ってる? その口の悪さだけでシベリヤ送りだ!
 ゾーヤ お黙り!(馬鹿なことばかり言って。)いいのね? 今からグーシが来るんですからね。私は着替えなくっちゃ。(退場。)
 アメチーストフ グーシ? どうしてそれを早く言わないんだ。(パニックにおちいる。)グーシ! グーシ! おーい、グーシが来るぞ! おーい、つばめちゃーん。かわい子ちゃーん。マニューシュカちゃーん。
 マニューシュカ(登場。)何、御用ですか。
 アメチーストフ 何をぼやぼやしているんだ。僕一人で動かせる訳ないじゃないか。
 マニューシュカ 食器を洗っていたんです。
 アメチーストフ 食器は後でいい。早く手伝って!
(部屋を片付け始める。電気をつける。アボリヤニーノフ登場。フロックコートを着ている。)
 アボリヤニーノフ 今晩は。
 アメチーストフ おお、巨匠殿、ご機嫌うるわしう。
 アボリヤニーノフ 失礼だがね、君。前から君に言いたいと思っていたんだが、その「巨匠殿」って言うのは止めてくれないか。
 アメチーストフ 「巨匠殿」で何が悪いんですか。分からないな。ここで僕達は仲間じゃありませんか。お互いをそういう愛称で呼び合ったって・・・
 アボリヤニーノフ 要するに耳障りなんだ。聞き慣れない呼び方でね。丁度「同志」と同じだ。こいつも耳障りなんだが。
 アメチーストフ パルドーン、パルドーン。そりゃえらい違いだ。(ところで)違いのついでで申し訳ありませんが、その・・・煙草はお持ちではありませんか。
 アボリヤニーノフ どうぞ。
 アメチーストフ メルシ・ボークー。(部屋を眺めながら。)ヴワラ!(ほら・・・原文フランス語)まるで天国じゃないか! 伯爵さん、どうしたんですか。元気を出して下さいよ。まるでだしの絞(しぼ)り滓(かす)ですよ、それじゃあ。
 アボリヤニーノフ だしの絞り滓? 何、それ?
 アメチーストフ 何だ、これじゃ話にならないな。どうですか、この奇麗になった部屋。
 アボリヤニーノフ 実に快適だ。以前の私の部屋を思い出すね。
 アメチーストフ 素晴らしかったんでしょうね。
 アボリヤニーノフ 素晴らしかった。ただね、そこを取り上げられたんだ。
 アメチーストフ そう。全くね。
 アボリヤニーノフ 見たこともない赤い髭の男がやって来てね、私をつまみ出したんだ。
 アメチーストフ ひどい話ですね。想像もつきませんよ。で、その時どうだったんですか、その・・・
 ゾーヤ(登場。)パーヴェル! 来てらしたのね。さあ、こっちへ。(アボリヤニーノフと退場。)
(合図の呼び鈴。三度長く、二度短い。)
 アメチーストフ あいつだ。くそったれの奴めが。
(マニューシュカ、走って退場。暫くしてヘルーヴィム登場。)
 アメチーストフ お前、どこに消えていたんだ。
 ヘルーヴィム 私、ちょっと、ちょっと、スカート、アイロンかけ。
 アメチーストフ スカートだと? スカートなんかどぶにほうり投げりゃいいんだ。コカインは持って来たのか。
 ヘルーヴィム コカイン、持って来た。
 アメチーストフ 早くよこすんだ。いいか、お前、このちゅうこくじん! 俺の目を見るんだ。
 ヘルーヴィム 私、あなたの目、見る・・・
 アメチーストフ いいか、正直に答えるんだ。お前、これにアスピリンを混ぜちゃいまいな。
 ヘルーヴィム 混ぜてない・・・混ぜてない。
 アメチーストフ お前のような奴はちゃんと分かってるんだ。お前はな、悪党なんだ!いいか、ちょっとでも混ぜていてみろ、神様がお前に罰を与えるんだからな。
 ヘルーヴィム ちょっと、ちょっと、神様、罰あてる。
 アメチーストフ 何が、ちょっと、ちょっとだ。神様はお前に雷を落すんだ。いいか、雷だぞ。お前はその場で黒焦げだ。黒焦げどころじゃない。その身体、ちゅうこくじんのからだ、なくなるんだ! アスピリンを混ぜてみろ・・・(英訳の註 においを嗅ぐ。)うん、いいコカインだ。
(ヘルーヴィム、中国服を着、帽子を被る。)
 アメチーストフ フン、そいつを着るとえらい違いだ。しかしどうしてお前達は例の弁髪を剃ってしまうんだ? あれがあった方がずっと正式の中国人に見えるのにな。
(合図の呼び鈴。マーリヤ・ニキーフォロヴナ登場。)
 マーリヤ・ニキーフォロヴナ 今日は、アメチーストフさん。今日は、ヘルちゃん。
 アメチーストフ さ、着替えましょう、マーリヤさん。でないと遅くなっちゃう。パリからの新着を見せてやるんですからね。
 マーリヤ・ニキーフォロヴナ あら、新着? たのしみだわ。(走って退場。)
(この時までにヘルーヴィム、癖龕の中の中国風角灯に点火していて、中国風パイプをくゆらせている。)
 アメチーストフ(煙がひどいな。)あまり突っ込むなよ。
 ヘルーヴィム 私、あまり突っ込まない、ある。(退場。)
(合図の呼び鈴。リーザニカ登場。)
 リーザニカ 修道院の院長様、今晩は。
 アメチーストフ ボン・スワール。
(リーザニカ退場。合図の呼び鈴。アメチーストフ、これを聞いて鏡に駆け寄り、衣装をなおす。マダム・イヴァーノヴァ登場。非常な美人。横柄。)
 アメチーストフ 今晩は、マダム・イヴァーノヴァ。
 マダム・イヴァーノヴァ 煙草頂戴。
 アメチーストフ マニューシュカ! 煙草だ!
(マニューシュカ、走って登場。イヴァーノヴァに煙草を渡す。間。)
 アメチーストフ 外は寒いでしょうね。
 マダム・イヴァーノヴァ 寒い。
 アメチーストフ 大喜びして戴けることがありますよ・・・パリからの新着なんです。
 マダム・イヴァーノヴァ そう。
 アメチーストフ そりゃもう驚くような。
 マダム・イヴァーノヴァ そう。
 アメチーストフ 電車でいらしたんですか。
 マダム・イヴァーノヴァ そう。
 アメチーストフ きっと随分電車が混んでいたでしょうね。
 マダム・イヴァーノヴァ そう。
(間。)
 アメチーストフ あ、煙草の火が消えちゃいましたね。もう一度おつけしましょう。
 マダム・イヴァーノヴァ どうも。(退場。)
 アメチーストフ(マニューシュカに。)ほーら、ああいうご婦人がいるんだ、この世の中には。あれだったら一生一緒に暮らしたってうんざりすることはない。お前さんらとは大違い。ぺちゃくちゃぺちゃくちゃ、ぺちゃくちゃぺちゃくちゃ。
(けたたましい、威圧的な合図の呼び鈴。)
 アメチーストフ(マニューシュカに。)あっ、あの音。商業委員長殿のおでましだ。尊大な鳴らし方。扉を開けて。それから早く着替えるんだ。給仕はヘルーヴィムがやるから。。
 ヘルーヴィム(走って登場。)グーシさんです。
 マニューシュカ 奥様、グーシさんです。(退場。)
 アメチーストフ ゾーヤ! グーシだ。早く出て。僕は消える。(退場。)
(グーシ登場。)
 ゾーヤ(夜会服姿。)あら、まあ、グーシさん。よくいらっしゃいました。
 グーシ 今晩は、ゾーヤさん。今晩は。
 ゾーヤ さあどうぞ、お坐りになって。ここがいい場所ですわ。マーア、マーマーマーマー。本当に貴方って意地悪ですわ。すぐご近所に住んでらして、よくお互い知り合いの仲ですのに。せめて一度くらいはいらして下さっても罰はあたらない筈ですわ。
 グーシ いやいや、そう仰らないで。喜んで伺うところだったんですよ、ただ・・・
 ゾーヤ 分かっておりますのよ。今のは冗談。それはもうお忙しくていらっしゃるのですもの、仕方ありませんわ。
 グーシ いや、全くどうも、その・・・眠る暇もない有様で・・・
 ゾーヤ お可哀相に。ご苦労ばかりおありになるんですのね。少し楽しみというものもお持ちにならなくては。
 グーシ 楽しみ・・・楽しみのタの字も出てきませんな、今の状態では。(部屋を眺めて。)ここは快適ですな。
 ゾーヤ 委員長さまのお陰ですわ、この工房がやっていけますのも。
 グーシ ご冗談を。私は何も。ところでその工房のことなんですが、実はその、ここだけの話にして欲しいんですが、その工房の仕事で私はやって来たんです。パリ仕立てのパリッとした服が一着欲しいんですよ。それもその、最新流行の、超一流。三百ルーブル程度のやつを。
 ゾーヤ 分かりました。贈り物なんですね。
 グーシ ここだけの話なんですからね。
 ゾーヤ ああ、悪い方! 恋なのですね。さあ、白状なさい、委員長さん、あなた、恋していらっしゃる?
 グーシ ここだけの話。
 ゾーヤ ご心配なく。奥様には内緒。ああ、男の方ってみんなそうなのね。分かりました。今マネージャーが新着のものをお見せ致します。どうぞお好きなのをお選び下さい。それから後で、お食事を、ご一緒に。今日は委員長さんは私共のもの。お放し致しませんからね。
 グーシ メルシ。ほほう、お店にはマネージャーがいらっしゃる。それは楽しみですな。どんな方ですかな、そのマネージャー。
 ゾーヤ すぐ出て来ますわ。(退場。)
 アメチーストフ(突然登場。フロックコート姿。)カン・トン・ヴワ・デュ・ソレイユ、オン・ヴワ・ル・レイヨン。(原文フランス語 噂をすれば影。)ロシア語に訳しますと、太陽のことを話すと光がさす。
 グーシ すると、貴方という光がさした訳ですか。
 アメチーストフ そう、光がさしたんです、委員長殿。我等が尊敬すべき委員長殿に。私、アメチーストフと申します。
 グーシ グーシです。
 アメチーストフ 女物の服が欲しいと仰る。いいところにお気がつかれましたよ、我等が尊敬すべき委員長殿。それも態々私共のところへ来て下さるなんて、本当に。ここのような品揃えはモスクワ中どこを捜したって、あるもんじゃございませんよ。ヘルーヴィム!
(ヘルーヴィム登場。)
 グーシ おや、これは中国人じゃないか。
 アメチーストフ ご洞察の通り中国人です。どうぞ、この男はうっちゃっておいて下さい、委員長殿。皇帝の落とし種っていうはなはだ良い血筋でしてね。そんな奴はごまんといると仰るでしょうが、この男はその中でも際だっているんです、その性格で。中華帝国のまったく普通の臣民でしかありませんが、比類なき正直者とはこいつのことを言うんです。
 グーシ しかし何故態々中国人を・・・
 アメチーストフ 革命前、私づきの召使いをやっていたんですよ、委員長殿、忠実この上ないもんですからね。上海から連れて来たんです。私は上海が長くて、いろいろ材料を集めているうちに長くなってしまったんです。
 グーシ 上海? 変わったご経歴ですな。で、材料とは?
 アメチーストフ エトゥノグラフィック・・・人類学ですな・・・その研究の為なんですよ。後でお聞き下されば嬉しいですな、私の遍歴の話を。それはもう涙涙の物語。ヘルーヴィム、何か飲み物を頼む。
 ヘルーヴィム はい、只今。(退場。またすぐ、シャンパンを持って登場。)
 アメチーストフ どうぞ。
 グーシ これは・・・シャンパン? これはすご腕ですね、マネージャー殿。
 アメチーストフ ジュ・パーンス! (原文フランス語 まあそんなところですかな。)パリのパキャンで働いたことがあるものですから、腕には覚えがございます・・・
 グーシ パリで働いたことがおありになる?
 アメチーストフ 五年間です、委員長殿。ヘルーヴィム、もういい。(ヘルーヴィム退場。)
 グーシ ねえ、君。今のあの召使い、あれは本物の天使だね。私は信心深くはない。それでもそう思うぐらいだから、信心深い人間だったら・・・
 アメチーストフ あいつを見ていると不思議にそういう気分になってきます。いや、委員長殿、わが尊敬すべき委員長殿。乾杯といきましょうや。貴金属取引委員長の末長きご活躍を祝して、ウラー、ウラーウラー。(訳註 ここで飲み干す。)いやいや、ぐっと空けて下さらなくちゃ。ぐっとぐっと。空けて下さって初めてこの工房も身が立つというもので・・・
 グーシ いやー、君。君はすご腕ですな。
 アメチーストフ メルシ、メルシ。(原文フランス語 これはお褒めにあづかりまして。)で、ブロンドの方? それともブルネット?
 グーシ ブロンド? 何ですか、それは。
 アメチーストフ パルドーン、パルドーン。(原文フランス語 おとぼけになっちゃいやですよ。)我等が尊敬すべき委員長殿! ほら、女物の服・・・その人ですよ。
 グーシ ここだけの話にして下さいよ、君。実は素晴らしいブルネット!
 アメチーストフ それは趣味のおよろしい。さあ、もう一杯如何です。ちょっと失礼ですが、お立ち願えませんか・・・ははあ、この洋服にブルネットの女の方が横に・・・最高ですな。実に好みのおよろしい。委員長殿、よい好みです。おい、ヘルーヴィム!
(ヘルーヴィム登場。)
 アメチーストフ 巨匠殿を。それから、マドムワゼル・リーザと。
 ヘルーヴィム はい、ただいま。(退場。)
(アボリヤニーノフ登場。)
 アメチーストフ アボリヤニーノフ伯爵!
(アボリヤニーノフ、ピアノにつく。)
 アメチーストフ どうぞ、お楽に、お楽に、委員長殿。アーモンドをどうぞ。(指をパチンと鳴らして。)アトリエー。
(アボリヤニーノフ、弾き始める。幕開く。明るく照らされた舞台に、肌の多く見える、そして豪華な衣装を着たリーザニカ、登場。グーシ、これらを驚きの目をもって見る。)
 アメチーストフ 有難う、マドムワゼル。
 リーザニカ (囁き声で。)このへんでいいのかしら?
 アメチーストフ そのへんでいいよ、リーザニカ。
(幕下りる。)
 アメチーストフ 今の娘(こ)、如何ですか、我等が尊敬すべきグーシ殿。
 グーシ ウーム、
 アメチーストフ シャンパンをもう一杯?
 グーシ 貴方は大変なマネージャーですな、全く。
 アメチーストフ いやいや。ただ、宮廷に出入りしていたことがあるもので、グーシ殿。
 グーシ 宮廷でお勤め?
 アメチーストフ シーッ。内緒内緒。いつかお話しましょう、私の出生の秘密を。涙なしでは語れない私の出生の秘密を。アトリエー!
(幕上がる。ひどく露(あらわ)な衣装で、マーリヤ・ニキーフォロヴナ登場。アボリヤニーノフ、ピアノを弾く。マーリヤ・ニキーフォロヴナ、音楽に合わせて舞台を動く。)
 アメチーストフ(アボリヤニーノフに。)もっと陽気に!(小声でマーリヤ・ニキーフォロヴナに。)いいぞ。もっと足を出して。
 マーリヤ・ニキーフォロヴナ(小声で。)いやな人! (訳註 と言いながら、注文に応える。)
 アメチーストフ いいぞ、その調子。(原文フランス語 Vous etes tres aimable.)
(幕下りる。)
 アメチーストフ アトリエー!
(アボリヤニーノフ、「月が輝いている」・・・英訳によると、陽気なロシア民謡と・・・を弾く。舞台にはマニューシュカ登場。肌も露なロシア民族衣装。踊る。)
 ヘルーヴィム(突然顔を覗かせて、小声で言う。)マヌースカ、あんた踊る、その時、私の方、見る。客、見ない。私の方、見る。
 マニューシュカ(小声で。)あっちへ行って。やきもちやき!
 アボリヤニーノフ(突然。)僕がピアノを弾いて、小間使が踊って・・・何だ、こりゃ一体。何をやっているんだ。
 アメチーストフ(小声で。)マニューシュカ、もう下がっていいぞ。二人分食事を用意してくれ!
(幕下りる。)
 アメチーストフ(グーシに。)如何です? (原文フランス語 Eh bien?)
 グーシ(突然。)アトリエー!
 アメチーストフ そうそう、そうこなくっちゃ、グーシさん。アトリエー!
(幕上がる。アボリヤニーノフ、悩ましげなワルツを弾く。舞台にマダム・イヴァーノヴァ登場。これ以上肌を見せるのは無理という際どい衣装。)
 アメチーストフ(舞台に飛び出る。マダム・イヴァーノヴァと踊る。小声で言う。)本当のことを白状しますとね、奥さん。僕は不幸なんです。僕の夢、それは心から愛している女性とニースへ高飛びすることなんですよ。
 マダム・イヴァーノヴァ(小声で。)口ばっかり・・・
(ダンス終わる。)
 アメチーストフ マドムワゼル、どうぞその衣装をお客様にお見せして。(退場。)
(マダム・イヴァーノヴァ、舞台から降りる。まるで額縁から出て来るかのように。そしてグーシの正面に立ち、衣装を見せるため一回転する。)
 グーシ(当惑して。)いや、感謝致します。実にその・・・
 マダム・イヴァーノヴァ そんなに人のことをじろじろ見るものじゃありません。不作法なこと。
 グーシ(当惑して。)私がじろじろ・・・貴女を? そんな・・・別に・・・
 マダム・イヴァーノヴァ いいえ、じろじろです。ぶしつけな。でも好きだわ、そのアフリカの土人のような目。野生的な、本能むき出しの・・・(突然幕の後ろに退場。)
 グーシ(有頂天になって。)アトリエー!
 アメチーストフ(突然登場して。この時照明が明るくなる。)パルドーン。ちょっとここで休憩を。
                     (幕)

     第 三 幕
(晴れた日。客間。アメチーストフ、陰気な顔をして机についている。傍に電話。)
 アメチーストフ(しゃっくり。)畜生、まただ! もういい加減止りやがれ! しつこいしゃっくりめ。
(間。)(アボリヤニーノフ登場。こちらも陰気な顔。)
 アメチーストフ(しゃっくり。)パルドーン。
(電話鳴る。)
 アメチーストフ ヘルーヴィム! 電話だ!
 ヘルーヴィム(電話に。)もしもし・・・はいはい。(アメチーストフに。)グーシさんある。(退場。)
 アメチーストフ(電話に。)同志グーシさんですか。これはこれは、グーシさん。お元気でいらっしゃいましょうか。・・・そんな。当然じゃございませんか。お待ちしてます。お待ち申し上げていますよ。・・・(突然しゃっくり。)パルドーン。誰か僕のことを噂してるな。・・・いえいえ、これはこっちの話で・・・いらしたら、驚くことがあるんですから、グーシさん。どうぞよろしく。(しゃっくり。)
 アボリヤニーノフ グーシ! 野卑な男だ、あいつは。そう思わないか。
 アメチーストフ いや、別に。野卑だなどと。月に五千ルーブルの稼ぎがある男、その人物が野卑だなんて。(しゃっくり。)誰なんだろう、僕の噂をしている奴は。どこのどいつなんだ。なんでこの僕に用事があるんだ。そう、僕はグーシさんを尊敬してますよ。・・・そうですね、このお二人のうちどちらでしょう、モスクワの町をうろつくのに、足を使ってぶらぶらする方(ほう)は。
 アボリヤニーノフ うろつく、ぶらぶら・・・失礼だがね、君、私はうろつきはしない。散歩をするんだ。
 アメチーストフ そんなことを怒らなくったって・・・うろつくって言ったっていいでしょう? 驚いた人だな。まあいい。散歩にしておきましょう。いいですか? 貴方は足を使って散歩する。だけどあっちは車ですよ。車で徘徊するんです。住む所だって貴方はたった一部屋。あっちは・・・パルドーン、パルドーン、「住む」なんて言っちゃ失礼か。それなら「おわします」所だ。で、あっちは七部屋! 一箇月のみいりだって・・・「みいり」はまずいか。収入だ。それだってピアノを弾いてやっと百。あっちは五千。こっちはピアノ弾き、あっちはこおどり。
 アボリヤニーノフ 革命後、そういう制度にしたんだから仕方がないだろう? この制度じゃあ、キチンとした人間は生存出来ないんだ。
 アメチーストフ そんな。とんでもない。キチンとした人間はどんな制度のもとでだって生存出来るんです。私を見て下さい。キチンとしてちゃんと生存してるでしょう? ねえ、パパさん。僕はパンツ一つでこのモスクワに着いたんですよ。それが今じゃ・・・
 アボリヤニーノフ 失礼だがね、君。パパさんとは何だね。
 アメチーストフ そんなにきついこと言わなくってもいいでしょう? 貴族同志じゃないですか。親戚同志じゃないですか。
 アボリヤニーノフ 失礼だがね、君。君は本当に貴族なのかね。
 アメチーストフ 随分な質問ですね、それは。自分でお分かりにならないんですか。(しゃっくり。)くそっ。
 アボリヤニーノフ 君のそのアメチーストフっていう苗字だがね。今までお目にかかったこともない代物なんだがね。
 アメチーストフ お目にかかったことがない? ペンザ地方の有名な苗字なのに。ああ、アボリヤさん、分かって下されば、あの時のあの辛さを。ボリシェビキーのあの乱暴をじっとこらえた私・・・家は焼かれ、領地は略奪・・・
 アボリヤニーノフ 君のその領地なんだがね、何県にあったの?
 アメチーストフ 私のその領地? その領地って、どの?
 アボリヤニーノフ その焼かれたっていう・・・
 アメチーストフ ああ、あの・・・思いだすのがいやなんですよ、辛くてね。(ギリシャ風の)白い柱。目に浮かぶなあ。七本。どの一本をとっても無類の出来栄え。それからあの馬。純血のサラブレッド。ああ、それにあの煉瓦工場・・・
 アボリヤニーノフ あの伯母さんの馬・・・いい馬だったなあ。ヴァルヴァーラ・イヴァーノヴナのあの馬・・・
 アメチーストフ 何がヴァルヴァーラ・イヴァーノヴナの馬ですか。僕には僕用の馬がいたんですからね。だけどどうしてそんなにふさぎこんでるんですか。元気を出して下さいよ、パパさん。
 アボリヤニーノフ ああ、憂鬱だ。
 アメチーストフ そういえば僕もだなあ。どうしてなんだ。分からないなあ。何故か悪い予感だ。・・・こういう時にはトランプが一番なんだけど・・・
 アボリヤニーノフ トランプは好きじゃない。私は馬が好きなんだ。ファラオーン・・・いい馬だったなあ。
(外で陰気に歌が響く。「思いだしておくれ・・・」)
 アボリヤニーノフ(乗り手は)赤のチョッキ、黄色の袖、黒いたすきに決まっていた。・・・ああ、ファラオーン・・・
 アメチーストフ よくやったなあ、ファラオーン。・・・胴元が(いんちきをして)トランプの端をこっそり折るのを見つける。こっちは冷汗が流れてくる。そっちがその気ならと、最後の勝負まで来る。敵のとっておきの切り札、そいつをこっちはエースでドカンだ。鮮やかな手並み・・・しかしどうしてこんなに気が滅入ってくるんだ。・・・ああ、このモスクワになんとかして早くおさらばしなくちゃ・・・
 アボリヤニーノフ そう。一刻も早くだ。もう我慢出来ない。
 アメチーストフ そんなに沈み込まないで、お父さん! 三箇月したらニースじゃないですか。勿論ニースに行ったことはあるんでしょう? 伯爵。
 アボリヤニーノフ そりゃ何度も。
 アメチーストフ 僕だって、勿論。もっとも随分小さい頃の話ですがね、ホッホッホ。・・・死んだ母親・・・地主だったんですがね・・・母親が連れて行ってくれたんです。家庭教師二人、それに乳母も引き連れてね・・・僕はあの頃は素晴らしい巻毛でね・・・あ、ところでモンテカルロにはトランプ詐欺をやる連中がいるのかな。ご存じですか?
 アボリヤニーノフ(憂鬱に沈んで。)あー、知らない・・・私はなーんにも知らない・・・
 アメチーストフ 分かった! 気分転換が必要なんだ、伯爵。おやじさん、ゾーヤちゃんが来るまでババリヤにしけこみましょうよ。
 アボリヤニーノフ 君の提案には全く呆れ返ってものも言えないね。ババリヤ・・・ビヤホール・・・あのゴミ・・・あの喧騒・・・
 アメチーストフ あそこに昨日ついた海老を知らないからそんなことを言うんです。すごい海老なんですから。大きさが・・・そう、嘘じゃない、ギターぐらいあるんです。ヘルーヴィム!
(ヘルーヴィム登場。)
 アメチーストフ いいか、黄色人種の宮内庁長官殿。ゾーヤさんが来たら、我々はちょっとトレチャコーフ美術館に行ってると言うんだ。いいな。さあ、パパさん。海老に向かって匍匐(ほふく)前進!
(アメチーストフ、アボリヤニーノフ、退場。)
 ヘルーヴィム マヌースカ! みんな出て行ったある!
 マニューシュカ(走って登場。ヘルーヴィムにキス。)どうしてこんなにあんたのこと好きなのかしら。訳が分からない。みかんみたいに黄色い顔、それなのに好き。中国人て、みんな新教徒?
 ヘルーヴィム ちょっとちょっと、新教徒ね。下着洗濯・・・聞いて、マヌースカ、大事なことある。もうすぐ出る。みんな出る。私、上海、行く。マヌースカ、一緒、一緒・・・
 マニューシュカ 上海? 私、行かないわ。
 ヘルーヴィム 行く、ある!
 マニューシュカ 私に命令するつもり? 呆れた。もう結婚したつもりでいるのね。
 ヘルーヴィム 私、あんたと結婚する、マヌースカ。上海で。
 マニューシュカ だったら最初にお願いするものじゃない、一緒に行って下さいますかって。そして書類を作って、それに私がサインしなくちゃね、あなたの弁髪で。
 ヘルーヴィム あんた、ひょっとしてガンザリーンと結婚する、あるか。
 マニューシュカ ガソリーンだろうと誰だろうと勝手でしょう? 私、自由なんですからね。何、その目。飛び出しそうに睨んじゃって。怖いもんですか、あんたなんか。
 ヘルーヴィム ガンザリーンと?
 マニューシュカ 何が悪いの、どこが悪いの・・・
 ヘルーヴィム(ものすごい形相で。)ガンザリーンと?
 マニューシュカ(怯んで。)どうしたの、あんた。どうしたの・・・
 ヘルーヴィム(マニューシュカの咽(のど)を掴む。ナイフを取り出す。)私、今、お前、殺す、ある。(首を絞める。)言うある。ガンザリーンとキスしたあるか。
 マニューシュカ お願い、天使さん。放して、咽(のど)・・・助けて、神様、お願い・・・
 ヘルーヴィム キスしたあるか、キス・・・
 マニューシュカ ヘルーヴィムちゃん、素敵な、素敵な・・・キスしてない・・・可哀相なみなしごを、助けて・・・私の若い命、助けて・・・
 ヘルーヴィム(ナイフを仕舞う。)ガンザリーンと結婚するあるか。
 マニューシュカ いいえ、いいえ。
 ヘルーヴィム 私と、結婚する、あるか。
 マニューシュカ いいえ・・・あ、する、ある。 する、ある。(英訳によると、次の台詞は観客に言うらしい。)皆さん、この人、何をしているんでしょう。
 ヘルーヴィム 私のこれ、プロポーズある。
 マニューシュカ 変なプロポーズ。刀を突き付けてやるなんて。あんた、悪党よ、ヘルーヴィム。
 ヘルーヴィム 私、悪党ない。私、悲しい、ある。みんなで私、追っ払う。コカイン、コカイン、言うて、ちゅうこくじん、牢屋に入れる。 ガンザリーン、ちょっとちょっと、私、こきつかう。一晩中下着洗濯させる。お金自分だけ。私、四十カペイカくれる、それだけ。・・・私、苦しい、寒い、ある。ちゅうこくじん、モスクワ、寒い。寒いある。生きられないある。ちゅうこくじん、上海、生きる、これ、よろし。ね、マヌースカ、あんた、荷物まとめる。今すぐ、まとめる。私、出発。いい方法ある。私、思いついた。お金、沢山、沢山、入る・・・
 マニューシュカ ああ、ヘルーヴィム、あんた、何を思いついたの。私、怖い。
(呼び鈴、鳴る。)
 マニューシュカ あっ、早く、台所へ隠れて。
(ヘルーヴィム、退場。)
 マニューシュカ(扉を開けて。)まあ、どうしよう。
 ガンザリーン こんちは、マヌースカ。
 マニューシュカ ああ、駄目。帰って、ガソリーン。
 ガンザリーン 帰る? どうして。私、帰らない。あんた、一人ね? マヌースカ。私、あんたに結婚の申し込みしに来た、ある。
 マニューシュカ 帰って頂戴、ガソリーン。
 ガンザリーン 帰って? どうして? あんた、何、私に言うあるか、あ? あんた、私、愛してる、言った。あれ、騙し、あるか。
 マニューシュカ 何嘘言ってるの。そんなこと、言った覚えないわ。いい? ゾーヤさんを呼ぶわよ。大きな声で。
 ガンザリーン それ、嘘ある。ゾーヤさん、いない。マヌースカ、あんた、嘘ついてばかり。私、あんた、好き!
 マニューシュカ 短刀は? 短刀を持ってるの? 正直に言って、これだけは。
 ガンザリーン 短刀、ある。結婚申し込み・・・短刀・・・
 ヘルーヴィム(突然登場。)誰あるか、申し込み・・・
 ガンザリーン あっ、お前、家来ある。悪党。何してる、あるか。
 ヘルーヴィム お前、この部屋、出る。出る、ある! この部屋、私の部屋。ゾーイカの、私の!
 マニューシュカ ああ、どうしよう、どうしよう。
 ガンザリーン お前の? 泥棒! ゾーヤさんの部屋、取る。お前拾ったの、この私。お前、犬、あるか。飼い主の手、咬む、犬あるか。お前、マヌースカに結婚申し込み、したあるか!
 ヘルーヴィム したある。とっくに、したある。マヌースカ、私の奥さん。マヌースカ、私のこと、愛す!
 ガンザリーン 嘘言うな! マヌースカ、私の奥さん。マヌースカ、私のこと、愛す!
 マニューシュカ 嘘よ、嘘、嘘! ヘルちゃん、この人、嘘言ってるの!
 ヘルーヴィム 出て行くある! 私の部屋、出て行くある。
 ガンザリーン 出て行くの、お前ある! 私、警察にみんな話すある! みんな、みんな、話すある!
 ヘルーヴィム 警察! みんな、話す!(怒って中国語で何かシューシュー言う。)
(ガンザリーンも中国語でシューシューやり返す。)
 マニューシュカ うさぎちゃん達、喧嘩しないで、お願い! 殺し合いだけは止めて!
 ヘルーヴィム あー、あー、あー。(突然ナイフを取りだし、ガンザリーンに襲いかかる。)
 マニューシュカ おまわりさーん。おまわりさーん。
(ガンザリーン、鏡つきの戸棚に突進。中に入って扉をバタンと閉める。)
(呼び鈴鳴る。)
 マニューシュカ おまわりさーん! 短刀なんか! 早くしまって。なんていう人!
(呼び鈴鳴る。)
 マニューシュカ 人が来る! あんたを捕まえに来たんだわ!
(呼び鈴鳴る。)
 ヘルーヴィム よし、あと、殺すある。(ガンザリーンの入っている戸棚に鍵をかけ、その鍵をポケットに入れる。退場。)
(マニューシュカ、扉を開ける。玄関に見知らぬ男二人、入って来る。二人とも私服。書類鞄を持っている。)
 見知らぬ男一 今日は、同志! 「おまわりさーん」と呼んだのはたしかここですな。
 マニューシュカ えっ? 「おまわりさーん」? ああ、さっき歌を歌って・・・
 見知らぬ男二 ははーん。
 マニューシュカ で、何か御用でしょうか、同志。
 見知らぬ男一 えー、我々は委員会のものでして、この工房を視察にやって来たんです。
 マニューシュカ 生憎(あいにく)今支配人が不在でして・・・今日は工房はお休みなんです。
 見知らぬ男一 で、あなたは? ここで何の仕事を?
 マニューシュカ 私、モデルの見習なんです。
 見知らぬ男二 ではあなたに案内して戴こうか。二度足を運ぶのはかなわんからな。
 マニューシュカ 私でよければ、どうぞ・・・
 見知らぬ男一 この部屋は?
 マニューシュカ 仮縫いのための部屋ですわ。
 見知らぬ男一 うーん、いい部屋だ。で、あれは何かね。仮縫いの時に着せるのか?(マネキンを指さす。)
 マニューシュカ えっ? マネキンに仮縫いを?・・・
 見知らぬ男一 マネキンに着せるんだったら、モデルは何のために必要なんだ。
 マニューシュカ 動くものに仮縫いをさせる時がありまして、その時にはモデルに着せて・・・
 見知らぬ男 一 ははあ、成程。
(見知らぬ男二、カーテンをさっと引く。カーテンの後ろにヘルーヴィム。手にアイロンを持っている。)
 見知らぬ男二 ふん、中国人か。
 マニューシュカ 洗濯屋から手伝いに来てくれているんです。スカートにアイロンをかける仕事で・・・
 見知らぬ男一 ふふん。
(ヘルーヴィム、アイロンに唾をかけ、アイロンを持って退場。)
 見知らぬ男一 ふん、次の部屋は?(退場。マニューシュカ、後に続いて退場。)
(見知らぬ男二、一人残り、さっと鍵をとりだし、一つの戸棚の鍵を開ける。中を見てまた閉じる。二番目の戸棚を開ける。飛びすさる。戸棚の中で、背中をまるめて、短刀を握って、ガンザリーンが坐っている。)
 見知らぬ男二 二人目だ。ふん。・・・何だ、お前、坐ってるのか。
 ガンザリーン 坐る、あります。
 見知らぬ男二(囁き声で。)何をやってるんだ、そんなところで。
 ガンザリーン(泣き声で。)私、ちょっとちょっと、隠れる、ある。・・・今、ヘルーヴィム、悪党、もうちょっと、もうちょっとで、私殺すある。私、助けて。ちょっと、ちょっと。
 見知らぬ男二 静かに! 助けてやる。助けてやるよ。で、お前は何者なんだ。
 ガンザリーン 私、ガンザリーン。立派なちゅうこくじん。私、ここの小間使、結婚申し込みしたある。そしたら、あの男、私、殺す、もうちょっと、もうちょっとで。あの男、阿片運ぶ。このうちに運ぶある。
 見知らぬ男二 ははーん、成程。・・・さあ、早くそこから出るんだ。すぐ派出所に行って、私を待っていろ。いいか、そこで待ってるんだぞ。逃げ出したりしたら、海の底だろうと捜し出してやるからな。
 ガンザリーン 私、逃げないある。ただ、あの男、ヘルーヴィム、あの悪党、あなた捕まえるある。(戸棚から飛び出して、玄関に姿を消し、退場。)
(見知らぬ男二、マニューシュカと見知らぬ男一が行った部屋に行く。暫くして、三人登場。)
 見知らぬ男一 成程。すべて規則通り。公明正大だ。立派なもんですな、ここの経営は。
 見知らぬ男二 仰せの通りです、同志。
 見知らぬ男一(マニューシュカに。)次のことを支配人に伝えて欲しい。監査委員のものがやって来て視察をしたが、工房は申し分ない状態であると判断した。後ほど書類を送るからと。
 見知らぬ男二 では失礼。
(二人、玄関へ出る。マニューシュカ、先に立って扉を開ける。)
 ヘルーヴィム(嵐のような勢いで、手にナイフを掴んで飛び上がる。)ああ、行ったあるか? あんた、おまわりに、教えたあるな。私、あんたに、教えるある。(戸棚に突進する。)
 マニューシュカ 悪魔! 助けて! おまわりさーん、おまわりさーん!
 ヘルーヴィム(戸棚を開け、立ちすくむ。)逃げたある。鍵持ってたあるな。
                     (幕)

     第 四 幕
(夜。ゾーイカの客間。笠つきのランプによる照明。壁龕(へきがん)に中国風のあかり。ヘルーヴィム、中国服姿で、壁龕の中に坐っている。仏像のような格好。)
(外から二台のギターの音。二人の歌声が小さく響く。「おーい、もう一回、もう一回。」(英訳によると、Two Guitars なる歌であると。)マネキン(複数)が立って、微笑んでいる。生きている人間か死んでいる人形なのかはっきりしない。花瓶に沢山の花。)
 アメチーストフ(扉から顔を出して。)ヘルーヴィム! シャンパンだ!
 ヘルーヴィム はい、只今。(退場。暫くして戻って来て、再び壁龕の中に坐る。)
(外のギターの音、ピアノに変わる。フオックス・トロットが踊れる曲。扉から酔っぱらい、登場。陰気な表情で辺りを見回す。ヘルーヴィムに近づく。)
 酔っぱらい 失礼ですが、マダーム。
 ヘルーヴィム 私、マダーム、ないある。
 酔っぱらい ないある、なら、何、あるか。(マネキンの一つに近づく。)一曲お願い出来ませんか、マダーム・・・踊りたくない? ではご勝手に・・・微笑んで、微笑んで・・・後で泣くようなことにだけはならないようにね。(二番目のマネキンに近づく。)マダーム・・・(マネキンの腰を抱いて踊り始める。)こんな固い腰は生まれて初めてだな・・・(マネキンの顔をじっと見る。突き飛ばす。悲しそうに泣く。)
 アメチーストフ(扉から走って登場。)イヴァン・ヴァシーリエヴィッチ! パルドーン、パルドーン。どうしたんですか、そんなに嘆き悲しんで。人生に何か不満でも?
 酔っぱらい 何言ってる、この下司野郎。
 アメチーストフ イヴァン・ヴァシーリエヴィッチ、今アンモニア水をお注ぎしますよ。
 酔っぱらい また人を侮辱する! みんなにはシャンパンをすすめておいて、僕にはアンモニア水。
 アメチーストフ そんなこと言わないで、イヴァン・ヴァシーリエヴィッチ。
(この場面の間に、奥のゾーヤの寝室の扉、開く。寝室は薄明るい照明。そこに音もなく管理人が現われる。厚いカーテンのうしろに隠れ、一部始終を眺める。扉からローベル登場。)
 ローベル イヴァン・ヴァシーリエヴィッチ! どうしたんですか。
 酔っぱらい 私にアンモニア水を飲ませるんです!
 マーリア・ニキーフォロヴナ(客間に登場。)あーら、イヴァン・ヴァシーリエヴィッチじゃないの。
 酔っぱらい あっちへ行け。みんなあっちへ行っちゃえ!
(ゾーヤ、客間に登場。)
 ローベル ゾーヤさん、本当に申し訳ありません。このイヴァンさんの失礼も、一緒にお許しを願います。
 ゾーヤ そんな、水くさいですわ。よくあることじゃありませんか。
 アメチーストフ(マーリア・ニキーフォロヴナに。)さあ、連れて行って、うまく誘って踊るんだ。
(マーリア・ニキーフォロヴナ、泣いている酔っぱらいを誘って扉まで導く。その後にアメチーストフ続く。)
 ローベル ゾーヤさん、素晴らしいパーティーですなあ。ところでその、会がはねた時に忘れるといけませんので。その・・・今日のこれ、いくらお払いすれば・・・
 ゾーヤ すみませんね。会費制ですの。二百ルーブリ。
 ローベル 分かりました・・・イヴァン・ヴァシーリエヴィッチの分も払います。エー、二百に二百と・・・
 ゾーヤ 四百ですわ。
 ローベル 分かりました・・・(金を渡す。)メルシ、ゾーヤさん。一曲お願いできませんか。
 ゾーヤ ちょっと駄目なんです。私は踊りませんの。
 ローベル そんな、ゾーヤさん。どうして・・・(退場。)
(この時までに次のことが行われている。・・・ヘルーヴィム、玄関に物音を聞きつけ、微かに動く。玄関からマニューシュカ、顔を出し何かの合図をする。ゾーヤ、それにうなづいて答える。・・・すぐに音もなく玄関にアーラ・ヴァディーモヴナ登場。外套を着、ヴェールをつけている。)
 ゾーヤ(囁き声で。)今晩は、アーラちゃん。(マニューシュカに。)アーラさんをお部屋にね。それから着替えを手伝って頂戴。
(マニューシュカ、アーラと寝室へ退場。ヘルーヴィム、音もなく退場。管理人、カーテンを引き分け、出て来る。)
 ゾーヤ(驚いて飛び退く。)どういうことですの、管理人さん。そんなところへ、どうして?
 管理人(囁き声で。)秘密の抜け道から。私はこの建物ならどこへでも行けます。合鍵があるんです。ああ、ゾーヤさん、あなたという人は・・・ここが縫製工場・・・私にはみんな分かってしまいました。
 ゾーヤ(金を渡して。)消えて。黙っていて! 皆がいなくなったらまた来て頂戴。追加をだします。
 管理人 ゾーヤさん、用心して。気をつけて下さいよ。
 ゾーヤ 早く行って・・・
(管理人、寝室を通って退場。ゾーヤも後に続いて退場。舞台裏で微かにフォックストロットの曲が聞こえる。扉からグーシ登場。陰気な顔。)
 グーシ ああ、グーシ、お前は酔っている。どれだけ酔っているか、それは貴金属取引委員長、この私、にはとても説明できない。説明はできない。ただ分かっているだけだ。何故こんなに酔っているか。・・・誰にもこんなこと言えやしない。誇り高き男だからな、お前は。・・・お前の周りには女達がつきまとって、ちやほやちやほやしてくれる。だけど気分は一向に浮いてこない。沈みきったままだ。・・・(マネキンに。)ああ、マネキン!
(ゾーヤ、音もなく寝室に登場。)
 グーシ お前にだけだ、この私の秘密を打ち明けるのは。なあ、マネキン、私は・・・
 ゾーヤ 恋している。
 グーシ あっ、ゾーヤさん。今の、聞いてたの? 仕方がない。・・・ゾーヤさん、蛇だ、蛇が私の心臓を・・・ああ、ゾーヤさん、私には分かっている。あの女がどうしようもない奴だってことは。だけど私にはどうすることもできない。あの女の意の儘なんだ・・・
 ゾーヤ グーシさん、そんな風にただ悩んでいるのがお好きなんですか。別の女を捜したらいいじゃありませんか。
 グーシ そんなことやったって駄目だ。何にもならない。まあいいか、ゾーヤさん。誰かに会わせて下さい。(いっときでもいい。あの女が忘れられれば。)この心に根を下ろしているあの姿をいっときでも引き離せれば・・・ゾーヤさん、私のことを愛してくれていないんです、あの女は!
 ゾーヤ ああ、グーシさん、グーシさん。もうあとちょっとの辛抱。素敵な、素敵な女の人が来ますからね。この人を一目見ただけで、そんな苦しみは吹っ飛んでしまいますわ。そして必ずグーシさんのものに。だって、貴方の魅力に抗せる女性なんている訳ないんですもの。
 グーシ 有難う、ゾーヤさん。お気持ち、本当に感謝します。
(扉からアボリヤニーノフとアメチーストフ、登場。二人ともフロックコート姿。)
 グーシ お礼の気持ちをお受け取り戴きたいのですが。いくらお払いすればいいんでしょう。
 ゾーヤ そんな、お礼など受け取りませんわよ。
 グーシ 受け取らないと言われても、こちらでは差し上げたいんですから。はい、五百ルーブリ。
 ゾーヤ メルシ。
 グーシ(アメチーストフに。)おお、マネージャー殿、悩める心を安らかにしてくれる天国の創造者殿! どうぞ受け取って下さい。
 アメチーストフ ダンケ・ゼール。(原文ドイツ語。有難う。)
 グーシ(アボリヤニーノフに。)伯爵殿! あなたのピアノにはほれぼれしますよ。どうか、これを。(金を手渡す。)
 アボリヤニーノフ メルシ。時代が変わって、また私が貴族に戻ったら、決闘を申し込む為に介添人を使いにやらなきゃなりませんな。
 グーシ じゃあ、その方にもお駄賃をあげなきゃ。
 アメチーストフ お見事! グーシさん、ほらご覧下さい。舞台装置が変わりましたね。新着のデモンストレーションですよ。照明!
(照明つく。 二三秒の間、あかりがすべて消える。それから明るい照明。席についているのは、ゾーヤ、グーシ、ローベル、酔っぱらい、マーリア・ニキーフォロヴナ、リーザニカ、マダム・イヴァーノヴァ。アボリヤニーノフはピアノ。壁龕を覆っているカーテンのところからアメチーストフが出て来る。)
 アメチーストフ さあ皆さん、妖精セイレーンが身につける衣装、パリで最近発表されたばかりの新着の品、価格六千フラン・・・アトリエー!
(アボリヤニーノフ、ワルツを弾く。音楽に合わせてアーラ、舞台に登場。)
 全員 ブラーボ。
 グーシ 何だ、これは!
 アーラ あっ! どうして、どうして貴方がここに!
 グーシ なんていう質問だ。私がどうしてここに? 冗談じゃない。訊きたいのはこっちだ。どうして貴女がこんなところに!
 アーラ モデルの仕事よ。ファッションモデルの。
 グーシ モデル? 私が愛している女性がモデル? 妻も子供も捨てて結婚したいと思っている女性・・・その女性がモデル? 一体あんたには分かっているのか、そのモデルが何のモデルか。
 アーラ このアトリエのファッションモデルよ。
 グーシ そう、「アトリエ」。だけどな、ここは「売春アトリエ」なんだ!
 ローベル 何だって? なーんだって?
 グーシ 皆さん。皆さんだってお見通しの筈。こんな真夜中に、怪しげな音楽をバックに衣装を見せる。何がアトリエーですか。
 酔っぱらい そりゃそうだ。それにその音楽ときたら・・・失礼ですがね・・・
 アメチーストフ パルドーン、パルドーン。(今さら何を言ってるんですか。)
 ゾーヤ なあーんだ、そうだったのね。(アーラの口真似をして。)夫が死んでからね、ゾーヤさん、私には誰もいないの。誰も。かっこつけちゃって、気取り屋! あれほど最初に念を押しておいたのに、男はいないのねって! あんたってとんだくわせものだったわ。こんな不始末をしでかして。
 グーシ ゾーヤさん、あなた、私にファッション・モデルを紹介すると言いましたね。だけどこれは私の許婚者(いいなずけ)ですよ。
 アーラ 許婚者なんかであるもんですか!
 グーシ 愛し合っている仲なんだって言ったら!
 酔っぱらい あーら、大変。おお大変。浮かれ過ぎ、浮かれ過ぎ。
 アボリヤニーノフ どうか女性を侮辱するのだけは止めて下さい。
 グーシ ピアノ弾きの分際で。放せ!
 ゾーヤ 皆さん、このちょっとした縺(もつ)れ、これはすぐほどけます・・・どうぞ、どうぞ、皆さん、隣の部屋へ・・・場所を変えて・・・どうぞ。アメチーストフ!
 アメチーストフ パルドーン、パルドーン。 どうか隣の部屋へ・・・あちらでまた盛大にフォックストロットを! あちらでお一人お一人に誤解をお解き致しましょう・・・上流社会ではこのような事件は珍しくありませんからね、皆さん。・・・さあさあ、イヴァン・ヴァシーリエヴィッチ・・・リーザニカ! 皆さんをご案内して!
(女達、男客達をなまめかしく扉に導く。アメチーストフとアボリヤニーノフも彼らと一緒に退場。ゾーヤ、壁龕のところに残り、次の会話を盗み聞きする。)
 グーシ 君が、どうしてこんなアトリエに・・・
 アーラ あなたこそどうしてこんなアトリエに。
 グーシ 私? 私は男だ! すぼんを履いているんだからね! スカートじゃないんだ。それも腰のところまで切れているスカートじゃない。私はね、君に何もかも吸い取られて、やけになってやって来たんだ。君の方はどうしてなんだ。
 アーラ お金が欲しくて。
 グーシ 何故そんなにお金が・・・
 アーラ 国外に出たいの。
 グーシ そのためだったら金はやらん! 国外、国外。いまいましい国外め。何故みんな国外って言うんだ。
 アーラ あなたがくれないからじゃないの、ここでお金を稼ごうとしたのは。
 グーシ このモスクワで何でもあるはずじゃありませんか。小鳥のお乳だって! あなたには七回も求婚したっていうのに! 国外! 何ですか、あっちではもうあなたのことを待ち受けているとでも言うんですか。アーラ・ヴァヂーモヴナはまだ来ないのか、気がもめるなあ、なんてフランスの大統領が言ってるんですか。
 アーラ そう。気をもんでいるんです。ただ大統領じゃなくて、私の許婚者(いいなずけ)。
 グーシ 許婚者?  許婚者・・・もしそんなものがあっちにいるんだとすりゃ・・・あんたは・・・あばずれだ。
 アーラ 私を侮辱なさろうったって、それはお門違いよ。確かに黙っていたわ。一言だって言わなかった。でもね、あなたの私に対する愛情なんて本物と思ったことがないの! あなたからは脱出用のお金だけ戴いて、それでさっさと国外へ・・・
 グーシ 戴くだけ戴いてくれ。でもいてくれ・・・行かないで・・・
 アーラ いやです。
 グーシ よーし、それなら言うぞ。その指にしているのが何か、分かってるんだろうな。私のやった指輪だぞ。それがある限り・・・
 アーラ(指から指輪を抜き取り、床に投げ付ける。)こんなもの、返すわよ。返してやる!
 グーシ えーい、指輪なんかどうでもいい。答えてくれ。私と、私と・・・
 アーラ あんたなんか、知るもんですか。
 グーシ 知るものか? 頼む、三つ数える。その間に返事を! 一、二・・・。いや、十まで数える・・・
 アーラ どうぞ、お止めになって、ボリース・セミョーノヴィッチ。数など数えないで。私、あなたとは一緒になりません。愛していないんですもの。
 グーシ このすべため!
 アーラ 言ったわね、よくも・・・
 ゾーヤ(壁龕の中から。)馬鹿ね、どうしようもない馬鹿!
 アメチーストフ(突然登場。)パルドーン、パルドーン、グーシさん。
 グーシ あっちへ行け!
 アメチーストフ パルドーン、パルドーン、グーシさん・・・アーラさん、少し体をお休めになって・・・あちらでお休みにならなくちゃ。
 アーラ(行きながら。)ゾーヤさん、私が悪かったわ。騒動の原因は私ですものね。・・・この衣装、お返し致しますわ。
 ゾーヤ いりません。とっておいたらいいでしょう。記念に・・・この馬鹿な騒動の記念に。あんたは全く馬鹿よ。
 グーシ 待って! どこへ行く。パリへか?
 アーラ(玄関から。)死んでもいい。逃げ出してやる!
(アメチーストフ、アーラに外套を投げかけてやる。退場。)
 グーシ(あとを追って。)そんなことはさせん!
 ゾーヤ 静めて、あの人を落ち着かせて!
 アメチーストフ 分かった、分かってる。静めるから・・・そっちは客の方へ行って・・・
(ゾーヤ退場。後ろ手に扉を閉める。)
 グーシ(夢中で。)スモレンスキーの闇市で、売り食いするようになるんだ。しまいに病気にかかって・・・その青い服を着て、君は、君は・・・(死んじゃうんだ。)(悲嘆にくれて絨毯に倒れる。)
 アメチーストフ グーシさん、絨毯は汚いですから・・・ねえ、グーシさん、大丈夫になりますよ・・・あの人だけが女じゃありません。ね? 唾でも吐きかけてやればいいんですよ、あんな女。美人でも何でもありゃしない。アントル・ヌ・スワ・ディ(ここだけの話・・・原文フランス語。)十人並みですよ。
 グーシ あっちに行ってくれ。私は辛いんだ。
 アメチーストフ はいはい、分かりました。行きますよ。十分に悲しみにふけって下さい・・・ここにお酒と煙草を置いておきますからね。(退場。)
(舞台裏でフォックストロットの音楽。)
 グーシ(悲しむ。)グーシは悲しんでいる。何故お前は悲しんでいるのか。何故なら、取り返しのつかない悲劇を演じてしまったからだ。ああ、なんて不幸なんだ、この私は。私は飛ぶ鳥を射落としていた。手に入れようとして手に入れられないものなど何もなかった。それがこの恋だ。毒のある恋め。すっかり打ちのめされて、私は今絨毯に倒れている。それもどこの絨毯だ。・・・淫買宿の絨毯だ! アーラ! 帰って来てくれ。(より大きな声で。)アーラ! 帰って来てくれ!
 アメチーストフ(登場して。)お静かに願いますよ、ボリース・セミョーノヴィッチ。でないと下にいるプロレタリアートの連中に聞かれてしまいますよ。(退場。扉を閉める。)
(ヘルーヴィム、音もなく登場。グーシに近づく。)
 グーシ あっちに行ってくれ。私は悲しいんだ。
 ヘルーヴィム なに、悲しむある。ちょっとちょっと。
 グーシ 人の顔なんか見たくもないんだ。ああ、お前の顔。お前の顔だけが優しく見える。ヘルーヴィム・・・中国の人・・・悲しみが私を引き裂いてしまった。だからこうやって絨毯に倒れているんだよ。
 ヘルーヴィム 悲しみ? 私も悲しみ、あるよ。
 グーシ ああ、中国の人! 君にどうして悲しみなんか。君なんか、これからじゃないか。前途は開けているじゃないか。
 ヘルーヴィム 女の人、騙したあるか? 女の人、みんな、ひどくよくないある。ちょっと、ちょっと・・・ねえ、大丈夫ある。他の女、掴むある。モスクワ、女の人、たくさん、たくさん、いるある。
 グーシ 他の女? 駄目なんだよ。
 ヘルーヴィム お金、ないあるか?
 グーシ いや、それは違うんだよ、中国の人! 私にはね、金は黙っていても入って来る。私に出来ないのは、その金を恋に変えることなんだ。ほら、見てご覧! (ポケットから札束をいくつも取り出す。)朝入って来た五千ルーブリ。ところが夜には・・・胸に一撃を食らってばったりだ。大通りの真ん中でのびている。この敗北したグーシにみんなで唾でも吐きかけてやればいいんだ。丁度私が札束に唾を吐きかけてやるように。
 ヘルーヴィム お札に唾? 変な人ある。あなた、お金ある。女、ないある。私、女ある。お金どこある? お金見せるある。
 グーシ 見たらいい。
 ヘルーヴィム ああ、お金、お金、可愛いお札!(突然グーシの肩胛骨の下をナイフで突き刺す。グーシ、音もなく死ぬ。)お札!・・・あったかい上海!(札を懐に入れる。グーシから時計、鎖を取り上げ、指から指輪を抜き取る。ナイフをグーシの背広で拭い、死体を持ち上げ、肘掛け椅子に坐らせる。灯を暗くして、囁き声で。)マヌースカ!
 マニューシュカ(顔を覗かせる。)どうしたの?
 ヘルーヴィム シーッ。これから上海、行くある。
 マニューシュカ あなた一体、何やったの。
 ヘルーヴィム 私、グーシ、殺したある。
 マニューシュカ(殺したある?)・・・まあ・・・悪魔よ、あんた。悪魔よ!
 ヘルーヴィム 一緒に逃げるある。でないと私、あんた殺す! これからここ、恐ろしい不幸ある。
 マニューシュカ ああ、神様。神様!
(二人退場。)
 アメチーストフ(静かに登場。)グーシさん、ちょっと通りすがりに・・・どうしていらっしゃるかと・・・如何がですか、ご気分は? ひどく興奮なさってらっしゃいましたからね。手もこんなに冷たくなって・・・(覗きこむ。)何だこれは。くそったれ! やったな。ひどいことになったぞ、これは。こいつは僕の筋書きになかったな。これからどうなるんだ。(どうもなりゃしない。)ただ幕だ。一巻の終だよ。ヘルーヴィムの奴だ! そうだ、勿論あいつだ。グサッとやってかき集めて、ずらかった。・・・何だこの俺様のあほさ加減は・・・もうニースしかないぞ。国外しかないぞ。(間。機械的な言い方。)夜も更けた。星が光っている。・・・何故ここにぼんやり坐っているんだ。ずらかるか?(フロックコートを脱ぎ捨てる。ネクタイをはぎ取るように外す。ゾーヤの寝室へ行く。書き物机を開ける。何かの通帳と札束を取り、ポケットに入れる。ベッドの下から古びたトランクを取り上げ、そこからフレンチコートを引っ張り出す。着る。鳥打ち帽子をかぶる。)ああ、懐かしい親愛なるわがトランク! またお前と一緒だな。だけど今度はどこへ行くんだろう。教えてくれないか、同志トランク、何処へ行くのか! ああ、星よ!お前も私には慰めにはならない。・・・この私の運命!・・・これまでだね、ゾーヤ、僕を許して! これ以外に方法はなかったんだ。さようなら、ゾーイカの部屋! (トランクを持って退場。)
(間。)
(ゾーヤの寝室の扉、静かに開いて、見知らぬ男一、二、登場。その後ろにもう二人、見知らぬ男。)
 ゾーヤ(客間に登場。)グーシさん、あなた、お一人? アメチーストフはどこ? (覗き込む。)ああ、神様、神様! もう駄目だわ、私達。ああ、神様! (静かに扉に向かって。)パーヴェル!
(アボリヤニーノフ、登場。)
 ゾーヤ パーヴェル、ひどいことになったわ。見て! (グーシを指差す。)
 アボリヤニーノフ(覗き込んで。)どうしたんだ、これは。
 ゾーヤ パーヴェル、しっかりして。大変なことが起こったの。あの中国人よ。それとアメチーストフ。逃げましょう、パーヴェル、今すぐ。すぐに逃げるの。
 アボリヤニーノフ 何? 逃げる?
 ゾーヤ パーヴェル、しっかりして。頭をはっきりさせて。この部屋で殺人があったの。・・・そう、私・・・そうだ、寝室にお金がある! 逃げなくちゃ・・・
 見知らぬ男一(部屋に入って来て。)静かにするんだ、女主人! 逃がしはしない。
 ゾーヤ 誰、誰なの、あなた。
 見知らぬ男二 静かにするんだ、女主人! 逮捕令状も出ている。
 アボリヤニーノフ ゾーヤ、部屋で何かあったのか?
 ゾーヤ ああ、これで分かった。パーヴェル、男らしくして。みんなおしまいなの。でも私達が無実だってことは、覚えておいて。
 見知らぬ男二 誰なんだ、隣で踊っているのは。
 ゾーヤ 客ですわ。どうか覚えておいて下さい。私達は殺人には関係ないのです。中国人とアメチーストフがやったんです。
 見知らぬ男二 静かにするんだ、女主人。(扉に進み、開ける。)警察だ! 身分証明書の呈示を願いたい!
(暗転)

(照明。 見知らぬ男一、登場。机につく。見知らぬ男二、部屋を眺めている。見知らぬ男三、扉のところに立ち、煙草をふかしている。寝室に通じる扉から音もなく管理人、登場。客間に入り、驚く。)
 見知らぬ男一 君は・・・誰だね。
 管理人 これは異(い)なことを聞きますな。その質問は私の方からすべきもののようですが。一体あなた方はこの部屋で何をしているんです。私はここの管理人なんだ。
 見知らぬ男一 はっはっは。これはおはつに。
 管理人 ゾーヤ・デニーソヴナに用があって来たんだ。
 見知らぬ男二 はいはい、ただ今。(退場。)
(ゾーヤとアボリヤニーノフを連れて戻って来る。二人とも顔が蒼い、無言。ゾーヤ、アボリヤニーノフの手を引いている。管理人あっけにとられる。)
 見知らぬ男二 ゾーヤ・デニーソヴナに何の用でしたかな?
 管理人(具合の悪いことが分かり。)で、あなた方は一体何者なんです。
 見知らぬ男一 グーシを知っているな。
 管理人 それは勿論。ここの住人ですから。
 見知らぬ男二 住人・・・だったんだね。(訳註 「だった」にアクセント。)
 管理人(身震いする。)同志・・・同志のみなさん。私は・・・私は前から怪しいと思っていたんです、この部屋のことは。明日にでも当局に説明にあがろうと・・・
 ゾーヤ 卑怯者! この人にはちゃんと金を与えてあるんです。今だって私の金が、その内ポケットに・・・
(管理人、札を取り出して、嚥(の)み込もうとする。)
 見知らぬ男二(札を取り上げて。)なんだお前、紙を食う癖があるのか。異常な体質だな。
 見知らぬ男一 この部屋で、グーシは刺し殺され、お前は札を食うか。やれやれ。
 管理人(両膝をついて。)同志、私は身体障害者です。 頭がおかしいんです。・・・(すがるような調子で。)帝政時代の悪い名残、この無学な私、この暗い頭、そこを考慮して下さって、同志。お願いです。執行猶予を。・・・どうか・・・何を言ってるんだ、この私は。自分でも言ってることが分かっちゃいない・・・
 見知らぬ男一 もういい。立て。(ゾーヤに。)さあ、外套を着て、マダーム。行くんだ。
(管理人、大声で泣く。)
 見知らぬ男一 泣くんじゃない。お前も行くんだ。
 ゾーヤ 夫は、(アボリヤニーノフを指差して。)病気なんです。どうか手荒なまねは・・・どうか、触らないで・・・
 見知らぬ男一 こいつはどうやら病院行きだな。
 ゾーヤ さようなら、さようなら、私の部屋!
 アボリヤニーノフ どうも頭の具合が・・・ぐらぐら、ぐらぐら。・・・礼服・・・血だらけ・・・(見知らぬ男二に。)ちょっと失礼ですが、あなた、・・・どうしてあなた、礼服を着てるんです?
 見知らぬ男二 ここに客という資格で来たもんだからね。
 アボリヤニーノフ こんなこと言っちゃなんですが、その・・・礼服を着た時に黄色い靴ってのはいかんです。
 見知らぬ男二 (見知らぬ男一に。)こうなんです。言った通りでしょう?
                    (幕)

    平成五年(一九九三年)六月十七日 訳了

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