ザディッグ


又は 宿命


ヴォルテール著
能美武功訳


(編注)
作品中には、現在差別的な表現として扱われる語がいくつか含まれています。訳者と協議の上、物語の展開上必要な表現と判断し、そのまま使用しました。(青空文庫)

ザディッグ 又は 宿命



東洋の物語
サルタンの妃シェラーへ、翻訳者サディ、東洋の物語「ザディッグ」を奉献する手紙。

 回教紀元八三七年馬の月十八日

 瞳の美しさ、心の苦しみ、機知の光も御照覧あれ。私は貴女の前にひれ伏し(ますが)、足元の埃には接吻しません。何故なら貴女は殆ど歩かないし、又イランの絨毯や薔薇の上しか歩かないから、(埃がたたないからです。)私は貴女に、もはや手に入れる事の出来ない、昔の賢者の本の翻訳書を差し上げます。その賢者は幸福にも、何もする事がなかったので、ザディッグの物語を書いて、暇を潰した人なのです。この本は表面で言っている以上の事を物語っているようです。私は貴女にこれを読んで、批判して貰いたいと願っています。何故なら、貴女は貴女の人生の春にいるのに、又全ての楽しみは貴女を求めているのに、又貴女は美しく、美しさに加えて才能を持っているのに、そして貴女を人は朝から晩まで褒めそやしているのに、又これら全ての理由から、貴女は常識を持たなくてもよい権利があるのに、それなのに貴女は非常に賢く、非常に立派な好みも持っていて、尖った帽子を被り長い髭を生やした回教の僧達より、議論をするのが上手なのです。貴女は慎み深く、少しも疑り深くない。貴女には弱さのない優しさがある。貴女には分別のある慈悲深さがある。貴女は友人を愛し、敵を作らない。貴女は充分な機知があるので、悪口を言う楽しみを必要としない。貴女にはやれば出来るであろう驚くべき能力があるにも拘わらず、人を悪く言ったり人に害を与えたりはしない。最後に、貴女の魂は私には貴女の美しさと同じように何時も純粋に見えた。貴女は一寸した哲学の素質までおありになるので、私の考えでは、他の人よりはこの賢者の話にもっと多くの興味をお持ちになるのではないかと思う。
 この話は貴女も私も聞いた事のない、古代カルデア語でまず書かれたのです。それからあの有名なサルタン、ウル・ベブを楽しませるためにアラビア語に翻訳されました。それはアラビア人やペルシャ人が、千夜一夜物語、千昼一昼物語を書き始めた時代でした。ウルは、ザディッグを読む方が好きでしたが、サルタンの妃達は千昼一昼物語の方が好きでした。賢明なウルは、「理性のない話、また何も意味しない話の方をどうして好む事が出来るのか。」と言いましたが、それに答えてサルタンの妃達は、「それだから好きなのよ。」と言いました。
 私は貴女が、これらサルタンの妃達に似ていなくて、本当のウルである事を期待しています。私は次の事さえ期待しています。つまり、あの千昼一昼物語によく似ている(まあもっとも、少し面白くないですが、)あの普通の会話というやつに飽きてしまった時、理性についてお話出来る光栄な一分間を見つける事が出来るよう。もし貴女が、フィリップの息子スカンデール時代のタレストリであったら、又はもしソレイマン時代のサベの王妃であったら、この本を読む人は、これらの王族達であったでしょう。
 私は貴女の楽しみが混じりけのないものであるよう、貴女の美しさが長持ちするよう、又幸せが果てしなく続く事を祈ります。
 サディ


 めっかち

 モアブダール王の時代に、バビロニアにザディッグという名の青年がいた。彼の性質は生まれつき良い上に、教養によっていよいよ磨きがかかっていた。財産もあり、若いにも拘わらず情熱を程々に抑える事を知っていた。気取るという事はまるきりない。常に理性を持つ事に決め、人間の弱さを大目に見る事が出来た。驚いた事に、才気煥発でありながら、バビロニア人が「会話」と呼ぶ、あの不明瞭で、耳障りで、騒々しい言葉の遣り取り、あの大胆な陰口、あの無知な判断、あの野卑な洒落、あの徒なざわめき、を茶化して馬鹿にするような真似は決してしなかった。彼はゾロアストルの第一書を読んで、自尊心とは膨れ上がった風船のようなものであり、つついて穴をあけると、中から嵐が吹き出してくる事を知っていた。ザディッグはまた、婦人を軽蔑したり、征服する事を、決して自慢したりはしなかった。彼は寛大であった。彼は、「お前が食事をする時は、たとえ犬がお前を噛んでも、犬に食事を与えよ。」というゾロアストルの偉大な戒律によって、恩知らずに恩を施す事を少しも恐れなかった。彼はまた、人が可能な限りの賢さを持っていた。何故なら彼は賢者達と常に一緒に生活しようと努めていたからである。古代カルデア人の学問について教えられていたので、当時人が知っていたような自然科学を知っていた。また全ての時代にわたって人が知っているような形而上学も知っていた。つまり、ほんの少しのことしか知らなかったという事である。彼は当時の新しい哲学にも拘わらず、一年は三百六十五日と四分の一だと固く信じていた。また、太陽は宇宙の中心だとも信じていて、主僧達がひどく軽蔑的に、「一年が十二箇月だと信じたり、太陽は自転しているなどと思うのは、道徳的に正しくない感覚であり、国家の敵となる事だ。」と人を侮辱する傲慢さで言った時、彼は怒りもせず、軽蔑もせずに黙っていた。
 ザディッグは大変金持ちで、従って友人もあり、健康で立派な姿をしており、正しく穏やかな心を持ち、誠実で崇高な気持ちを持っていたので、自分は幸福になれると信じていた。彼はセミールと結婚することになっていた。彼女はその美貌と家柄と財産のために、結婚相手としてはバビロンでは第一の女となっていた。ザディッグはセミールに堅い、心からの愛情を持っていた。セミールも強くザディッグを愛していた。彼らは結婚するという幸せな時が間近である時に、一緒にバビロンの門に向かって散歩をしていた。その時に、ユーフラテスの川岸を飾っている椰子の木の下を刀と弓矢で武装した男達が彼らの方に来るのを見た。それはある大臣の甥のオルカンという青年の従士達であった。彼の伯父の取り巻き連が、彼には何でも許されていると信じさせていたのだった。彼はザディッグと違って魅力も徳もなかったが、ザディッグより自分の方がずっと価値があると信じていたので、セミールの気に入りでない事をひどく悲しんでいた。自惚れからくるものに過ぎないこの嫉妬は、彼がセミールを狂ったように愛していると思わせた。彼は彼女を盗む事を決意したのだった。誘拐者達は、彼女を掴まえて、暴力中の興奮状態の中で彼女に傷を負わせ、見るだけでイマユス山の虎達をも感動させたであろうような一人の人の血を流させてしまった。彼女は天に向かって嘆声を上げた。彼女は大声で、「ああ、ザディッグ。人が私を、私の愛する者から引き離そうとしている。」と叫んだ。彼女は自分の危険など一顧だにしなかった。彼女の愛するザディッグのことしか頭になかった。同じ時にザディッグは、徳と愛のもたらす精一杯の力で彼女を守っていた。たった二人の奴隷の助けで、彼はその強奪者達を追い払い、気を失って血だらけになったセミールを彼女の家へと連れ戻った。彼女は両の目を開け、彼女を救ってくれた男を見た。彼女は彼に、「おお、ザディッグ。今まで私は貴方を私の夫として愛していました。これからは私は、名誉と命とを守ってくれた人としても貴方を愛します。」と言った。セミールの心ほど感動した心はこれまでになかったであろう。幸福の絶頂の心と、最も合法的な愛の優しい夢中、が言わせた、これらの火のような言葉によって、またこれ以上可愛らしい口が、これほど人の心を動かす表現をした事は今までになかったであろう。彼女の傷は浅く、やがて回復した。ザディッグはセミールよりひどく傷ついていた。目の近くに受けた矢の切り口が深い傷を作っていた。セミールは神に、ただ彼女の恋人の治癒をのみ願った。彼女の両眼は夜も昼も涙で溢れ、ザディッグが視力を取り戻す瞬間を待ち焦がれていた。しかし怪我をした方の目に膿傷が出来てきて、心配な状態だった。人々はメンフィスまで偉大な医者ヘルメスを呼びにやった。彼は大勢の随員を連れてやって来た。ヘルメスはザディッグを訪ね、この病人は目を失うだろうと宣言した。彼はこの致命的な事(目の潰れる事)の起こる日や時刻さえ予言した。「もし怪我をしたのが右の目だったら、私は治すのだが、左の目の傷は治すのは不可能だ。」彼はそう言った。全バビロンはザディッグの運命を悲しんだ。が一方、ヘルメスの知識の深さに驚いた。二日の後に膿傷は自然と穴があいてザディッグは完全に回復した。ヘルメスは本を著し、その中で、ザディッグの膿傷は治るべきではなかったのだと証明した。ザディッグはその本をまったく読まなかった。外出が可能になるやいなや、人生に希望を与えてくれた、ただその人の為に目を持ちたいと望んでいた人を、訪問する準備をした。ザディッグはこの美しい婦人を訪ねる道で、彼女が、「私、片目の男には、抑えがたい嫌悪を抱いているの。」とあからさまに宣言し、丁度その夜、オルカンと結婚したばかりだという事を知った。この報せで彼は意識を失い、苦痛の為死にそうになった。彼は長い間病気になっていた。しかしついに理性は苦痛に打ち勝ち、そして彼が経験した酷い苦しみは、却って気持ちを和らげるのに役立つ事になった。「私は宮中で育った娘の我儘の為に酷い目に会ったから、町の娘と結婚しよう。」と彼は言った。そこで彼は町で最も賢く、生まれのよいアゾラを選んだ。彼は結婚して彼女と一箇月、最も固く結ばれた優しさの中で暮らした。ただザディッグは、彼女に少しの軽薄さと、美男で若い人が最も才気と徳もある人間である筈だ、と思う傾向がある事に気がついていた。


 

 ある日アゾラはひどく怒って散歩から帰り、大きな叫び声を上げた。「どうしたのだ、私の可愛いアゾラよ。誰がお前をこんなに我を忘れさせる程怒らせたのだ。」とザディッグは言った。「ああ、私が見たばかりのその光景を見たなら、貴方だって私と同じようになるでしょう。私は若いやもめのコスルを慰めに行ったのです。彼女はこの牧場に接している小川の傍に、二日前、若い夫のお墓をたてたばかりです。彼女は、この小川の水が、傍に流れている限り、この墓のある所に住みます。と、悲しみの中で神に約束したのです。」「なかなか尊敬すべき女性じゃないか。彼女は本当に夫を愛していたんだよ。」「私が彼女を訪ねた時、彼女が何をしていたかをもし貴方が知ったら、そうは仰らないでしょう。」とアゾラが答えた。「一体何をしていたんだい。」「あの人、小川の流れを変えて、水を逸らそうとしていたんですよ。」アゾラは、その若いやもめを長い間、口をきわめて罵り、激しく非難を浴びせた。が、ザディッグにはその美徳の誇示が気にいらなかった。
 彼にはカドールという名の友達がいた。その男は、アゾラが(他の者よりも)誠実さと才能を認めた若者の一人であった。ザディッグはその若者を信用していた。そして多量の贈り物によって彼の誠実を出来る限り繋ぎ止めていたのである。アゾラは自分の田舎の、ある友人の家に二日間滞在し、三日目に家に帰った。すると召使達が涙ながらに、「旦那様が丁度昨夜お亡くなりになりました。私共は奥様に、この悲しい報せをとてもお伝えする勇気がありませんでした。旦那様は庭の端の御先祖様のお墓に埋葬いたしました。」と伝えた。アゾラは自分の髪の毛を掻きむしり悲しみ、自分も死ぬ事を誓った。その晩カドールは彼女と話をする許しを得た。二人はザディッグの死を悲しみ、涙を流した。翌日アゾラの嘆きは幾分収まり、カドールと一緒に食事をとった。カドールは、彼の友人であるザディッグが、財産の大部分を自分に遺した、と彼女に打ち明けた。そしてその財産を彼女と分かちあって、共に幸せに暮らしたい、と言った。アゾラは泣いて、怒って、そして静まった。その日の夜食には、夕食より長い時間がかけられた。彼らは、より信頼しあって話をした。アゾラは死んだ夫を称えた。がまた欠点もあったと、そしてその欠点はカドールにはない、とも告白した。
 夜食中にカドールは激しい脾臓の痛みを訴えた。アゾラは心配し、慌てた。そして脾臓によく効く何かがないか試してみる為に、自分で嗅いだ事のある香り薬を全部持って来させた。彼女はあの偉大な医者ヘルメスがもうバビロンにいない事を非常に残念がった。彼女はカドールがこんなにもひっきりなしに苦しみを感じている脇腹に触ってみることさえした。「貴方はこんなひどい持病を持っているのですか。」と彼女は同情を込めて言った。「この病気は今までも私を墓のふちまで追いやった事があるのです。」とカドールは答えた。「私の苦痛を軽くする薬はたった一つしかありません。それは、その前の日に死んだ人の鼻を脇腹にくっつける事なんです。」「本当に奇妙な治療方ですね。」とアゾラが言った。「アルヌー氏の卒中に対する治療に比べたら、そう奇妙なものでもないですよ。」と彼は答えた。(ヴォルテール注 この時代にアルヌーと呼ばれるあるバビロニア人がいた。彼は卒中の治療や予防を行ったが、その方法というのが、厩(うまや)で、病人の首にかいば桶を吊る、というものだった。)この若者の持つ極端な利益に加えてこの理由が、とうとう婦人の気持ちを決定した。彼女は言った。「結局のところ、私の夫が、昨日の世界からチナバール橋を渡って明日の世界へ行く時、この世でよりもあの世での方が、彼の鼻が低いという理由で、天使イスラエルは彼が通るのを許さないであろうか。(いや、許すに決まっている。)」そこで彼女は剃刀を取り、夫の墓に行き、涙で墓を濡らした。そして墓の中に横たわっているザディッグの鼻を切り取る為に彼に近づいた。ザディッグは、一方の手で鼻を掴み、一方の手で剃刀を遮りながら起き上がった。「奥様、」と彼は言った。「若いコスルの事をあんなに口やかましく罵る事はないね。私の鼻を切り取るという計画は、川の流れを逸らせるのと充分同じ位の計画じゃないかな?」


 犬と馬

 ザディッグはゼンドの書物に書いてあるように、結婚式から最初の一月は蜜の月であり、次の一月は苦蓬(にがよもぎ)の月であることを経験した。暫くして彼は、一緒に生活するには余りにも堪えがたくなったアゾラと離婚しなければならなくなった。そして彼は、自然についての研究に、自分の幸せを捜し求めた。「神が我々の目に入るように置いたこの大きな本、を読み取る事を仕事にしている哲学者、ほどこの世に幸福な者はいない。何故なら、彼が発見した真理、は彼の物なんだから。彼は精神を養い高め、静かに生活し、人間の事をあれこれ思い悩まず、彼の優しい妻は決して彼の鼻を切りにやって来はしないから。」と彼は言った。
 このような考えで一杯になって彼は、ユーフラテスの河の岸にある友人の家に引き籠もった。そこで彼は、橋にアーチの下を一秒にどのくらいの量の水が流れるか、を計算したり、羊の月よりも鼠の月の方が一リーニュ立方だけ雨が余計降るかどうか、を計算したり、はしなかった。また彼は、蜘蛛の糸で絹糸を作ったり、壊れた壜で磁器を作る、事も全く考えていなかった。ただ動物や植物の特性を何よりも研究した。そうして、やがて、他の人々には全く一様にしか見る事が出来ない所に、何千もの違いを見つけだす明敏さを手に入れた。
 ある日、森の傍を散歩していると、女王の宦官が走って来るのを見た。そしてその後ろに、最も高価な物を失い、それを捜し迷っている人々のように、ひどく心配してあちこち駆け回っている数人の役人、が続いて来た。
「若者よ、君は女王の犬を見なかったか。」と宦官頭が言った。ザディッグは上品に答えた。「それは牝犬で、雄犬ではないでしょう?」「その通りだ。」と宦官頭は答えた。「それは非常に小さいスパニエル犬ですね。」とザディッグは付け加えた。
「つい最近子供を産んだし、前の右足が跛(びっこ)だ。それにとても耳が長い。」「それでは、お前は見たんだな。」とその宦官が激しく息を切らして言った。「いや。」とザディッグは答えた。「私は全然見ていない。それに女王が犬を持っていた事も全く知らなかった。」
 丁度その時、運命のあの何時もの気まぐれから、王様の厩のうちの最も素晴らしい馬が、馬丁の手からバビロンの平原に逃げた。狩猟頭やその他全ての役人が、犬の後を追って来たあの宦官頭と同じ不安を抱いて、馬の後を追って来た。狩猟頭はザディッグに話し掛け、彼に王の馬が通ったのを見なかったか、と訊ねた。ザディッグは答えた。「それはギャロップが素晴らしい馬でしょう。背の高さが五フィートで、非常に小さい蹄鉄をつけていますね。轡の飾り金は二十三金の金製品ですし、その蹄鉄は十一ドゥニエの銀製でしょう。」狩猟頭は訊ねた。「どの道を行ったか。何処にいるか。」「私はそれを見た事はありません。それにその噂も聞いたことがありません。」とザディッグは答えた。
 狩猟頭と宦官頭は、てっきりザディッグが王の馬と女王の犬を盗んだのだ、と思ってしまった。彼らは彼を大デステルハムの会議に引き出し、笞打ちの刑、それに、シベリアで余命を暮らすよう判決を言い渡した。判決が言い渡された丁度その時、馬と犬が見つかった。裁判官達は、判決を余儀無く改める必要に迫られてしまった。しかし彼らはザディッグに、見たものを見なかったと言ったという理由で、金四百オンスを支払うよう言い渡した。彼はまず罰金を支払わなければならなかった。その後でザディッグは、大デステルハムの会議に対して、自分の抗議を申し述べる事が許された。彼は次のように話した。
「ああ、正義の星、科学の謎、真理の鏡、これら鉛ほどの重みと、鉄のような堅さと、ダイヤモンドの輝き、それに、黄金と深い関係を持っているもの達、も、御照覧あれ。私はこの神聖な会議の前で話す事を許されましたので、オロズマッドの神の御前(おんまえ)で、次の事を誓います。私は尊敬すべき女王の牝犬も、神聖な、王の中の王の馬も、全く見ていないと。次にお話する事が、私に起こった事なのです。私は小さな森の方へと散歩していました。そこは偶然にも、暫く後に、私が、尊敬すべき宦官と、大変に有名で高貴な狩猟頭に出くわす事になった場所なのです。そこで散歩していますと、私は、砂の上に動物の足跡を見ました。そして私は容易にこれが或る小さな犬の足跡であると判断しました。左右の足跡の中間は、砂が小高くなっていて、そこに軽く、長い溝がついていました。それで私は、この動物が垂れ下がった乳房を持った牝犬である事が分かったのです。又このようにして、その牝犬は二、三日前に子供を産んだばかりであるという事も知ったのです。前足の脇の砂の表面を引っ掻いているように見える、別の向きについている、もう一つの跡によって、私は、その犬が長い耳を持っている事を知ったのです。そして一本の足が他の三本の足よりも、砂につける穴がいつも小さいのに気がつき、私は、我々の尊い女王様の犬は、敢えて申し上げますと、少し跛(びっこ)であるという事を知りました。
 王の中の王の、馬に関して申し上げますと、お確かめになればお分かりでしょうが、私が森の中の道を散歩していますと、馬の蹄鉄の跡を見つけました。それらは等間隔に並んでいましたので、私は、「素晴らしいギャロップをする馬だなあ」と、独り言を言いました。また、七フィートの幅しかない狭い道の両側に、木の埃が少し落ちていました。つまり、道の中央から三フィート半の距離の埃が落ちていた訳です。私は又言いました。「この馬は三フィート半の長さの尾を持っていて、その尾の左右の運動によって、埃がふき払われたんだな」と。私は五フィートの高さの柵になっている木の下に、新しく落ちたらしい木の葉を見つけました。この事から私は、馬がそこで木に触ったという事を知り、従って馬が五フィートの高さである事を知ったのです。その轡について言えば、それは二十三金である筈です。というのは馬がその轡をある石に擦っていたのですが、その石は以前私が実験した事のある試金石であることが分かったからです。また私は、別の種類の石に残された蹄鉄の跡から、その蹄鉄は本物の十一ドゥニエの銀製であると判断しました。」
 裁判官達はみんなザディッグの知識の深さと鋭さに感心した。このニュースは、王と王妃のもとへ伝えられた。人々は控えの間でも居間でも休息の間でも、ザディッグの事しか話さなかった。二、三のマージ教の僧侶は、彼を魔法使いと同じ扱いにして焼き殺すべきだと言ったけれども、王は有罪とされた罰金四百オンスの金をザディッグに返すよう命令した。書記、執達吏、検事が麗々しくザディッグの家へ四百オンスの金を返しにやって来た。そして裁判官の費用として、そのうちたった三百九十八オンスの金(!)しか差し引かなかった。更に彼らの召使達は彼に謝礼金を要求した。
 ザディッグは、あまりに知識があり過ぎる事は時にはいかに危険であるかを知り、今度こういう機会があったら、自分が見た事を言うのはよそうと固く決心した。
 その機会はまもなくやってきた。国事犯が逃げたのだ。この国事犯は、ザディッグの家の窓の下を通った。ザディッグは訊問された。が、何も答えなかった。しかし彼が窓から見ていた事は証言されてしまった。彼はこの罪の為に、五百オンスの罰金を科せられた。その上に彼は、バビロンの慣習に従って、裁判官に、その寛大さに対する礼まで述べさせられた。彼は独りでぶつくさと言った。「やれやれ、女王の犬や王の馬が通った森を散歩する人はなんて気の毒なんだろう。窓の傍にいる事はなんて危ない事だ。この世で幸せでいようとするのはなかなか大変だ。」


 やっかみや

 ザディッグは、哲学と友情によって、運命が彼になした災難から、自分を慰めようと思った。彼はバビロンの町に、趣味よく設(しつら)えた家を持っていた。そこに彼はジェントルマンの名に値するあらゆる芸術品や娯楽を集めていた。朝には彼の図書館は全ての学者の為に公開されており、晩には彼のテーブルは、上品な来客の為に公開されていた。しかし彼はやがて学者達がいかに危険なものであるかを知るようになるのである。ある時グリフォン(半鷲、半獅子の怪獣)を食べる事を禁じているゾロアスターの戒律に関して大きな議論が巻き起こった。ある人々は言った。「もしグリフォンが存在しないなら、どうしてこの動物を食べる事を禁じるのか。」また他の人々は言った。「ゾロアスターの戒律が、それを食べる事を望まないのだから、それは存在する筈だ。」ザディッグはこう言って和解させようと思った。「もしグリフォンがいたら、それを食べない事にしよう。またもしいないのなら、まして食べる事なんかありはしない。そしてそうする事によって、我々全員がゾアロアスターの戒律に従う事になるだろう。」と。
 グリフォンの性質について十三巻もの書物を著して、おまけに最も偉大な妖術者である、或る学者が、早速ザディッグをマージ主僧のイェボールに告発しようとした。このイェボールという人はカルデア中で最も愚かで、従って最も狂信的な人であった。このイェボールの事だから放っておけば、太陽の最も偉大な栄光の為にザディッグを串刺しの刑にしてしまい、ゾロアスターのお勤めの時に、心から満足した口調でこの事を高々を読み上げたところだったろう。友人のカドールは、(一人の友人は百人の僧侶より価値のあるものだが、)老イェボールに会いに行って、彼に言った。「太陽とグリフォンに栄光あれ。ザディッグを串刺しの刑にする事はお許し下さい。この男は聖者です。彼は自分の鶏小屋にグリフォンを飼っています。それなのに決してそれを食べないのです。そして彼を訴えた者の方が異端者です。あの男は、兎は裂けた蹄を持っているのに、決して汚れていないと言っています。」「よし、分かった。」と言って老イェボールは禿頭を振った。「ザディッグはグリフォンの事を考え間違いしていた。その罪で罰しなければならない。またもう一人の者は、兎の事を間違って話した。この罪で罰しなければならない。」カドールはこの事件を「名誉ある女」の手段で静めた。この女は、カドールが昔子供を産ませた事のある、そして、マージ僧侶の学校で、大変評判の良い女であった。結局誰も串刺しの刑には遇わなかった。この事について、幾人かの学者はブツブツ文句を言い、バビロンの頽廃を予言したりした。ザディッグは叫んだ。「幸福はどうしたら手に入れられるのか。この世では誰もが私を迫害する。存在しない物までも。」ザディッグは学者を呪い、立派な仲間としか生活しない事を望んだ。
 彼はバビロン中で最も立派な人々と、最も魅力のある婦人達を彼の家に集めた。彼は美味な夜食を出し、屡々夜食の前にコンサートを開き、心を捕らえる会話で食事を楽しいものにした。その会話中、彼はふと機知を示したくなる時があったが、これをぐっと我慢する事ができた。この、機知を示すという事は、全然機知を持っていないという事であり、また、どんな輝かしい社交界でも、これを白けさせる一番確かな方法なのである。友の選択も、料理の選択も、虚栄心によっては成されなかった。というのは、全てにおいて、人目をひく事より実質を好んだからである。そしてそれにより、彼が自分では要求しない、本当の思いやりを自分の方に引き寄せたのだった。
 ザディッグの家の真ん前にアリマーズという男が住んでいた。その男は意地悪な心が下品な顔の上に現れている男であった。彼は胆汁でむしばまれ、傲慢で膨れ上がっていた。尚その上に、まったく厭な心を持っていた。世の中でかって成功した事がないので、成功した人の悪口を言って仕返しをしていた。彼は金持ちではあったが自分におべっかを使ってくれる者だけを家に集めるのは、楽なことではなかった。夕方、ザディッグの家へ入って行く馬車の音は彼を苛立たせ、ザディッグを賞賛するざわめきは、一層彼を苛々させた。彼はザディッグの家に時々行き、招待されていないのにテーブルについた。彼はそこで、あらゆる社交の楽しみをぶち壊した。それは丁度「アルピは、その触れた肉を腐らせてしまう」と人々が言っているが、それと全く同じようであった。或る日のこと、彼は或る婦人に晩餐を招待しようと思ったところ、彼女はその招待を受けず、ザディッグの家で夜食を取った。又他の日には、宮廷で彼とザディッグが話をしていたところ、或る大臣がザディッグには夕食を招待したのに、アリマーズは招待しなかった。最も抑え難い怒りだからといって、それが最も重要な根拠に基づいているとは限らない。バビロンで「やっかみや」と呼ばれていたこの男は、ザディッグが「幸福な男」と呼ばれている、それが理由でザディッグを貶(おとし)めようと思ったのである。ゾロアスターも言っているように、悪い事をする機会は一日に百回もあるけれども、良い事をする機会は一年に一回しかないものである。
「やっかみや」はザディッグの家を訪れた。ザディッグは二人の友人、それに一人の婦人と一緒に庭を散歩していた。ザディッグはこの婦人に、洒落た事を言う意図以外は意図をもたず、洒落た事を度々言った。話は、家臣のイルカニー伯爵が王に逆らって起こした戦争を、王が幸いにも終結させた、その戦争についてであった。ザディッグはこの短い戦争で、大変勇敢に振る舞ったが、王を非常に褒め称えており、又それ以上に同伴の婦人を褒め称えていた。ザディッグはタブレットを取り出して、即興で四行詩を作った。そして彼は、その美しい婦人にそれを読み、与えた。二人の友人は彼に、自分達にもその詩を聞かせてくれるよう頼んだが、謙遜よりもむしろ自負心がそうさせなかった。ザディッグは、その即興の詩は、それが捧げられた当の本人にしか良くないものである事を知っていた。そこで彼はそのタブレットを二つに割り、薔薇の茂みの中に投げ捨てた。二人の友人はそれを捜したが、無駄であった。小雨が急に降り出したので、みんなは家に入って行った。庭の中に居残ったやっかみやは飽くまでも捜し、その片割れを見つけだした。
 その詩は一行一行、意味が区切れていたので、詩の半分でも、又もっと小さな部分でさえもが、意味を持っていた。しかし図らずも、もっと不思議な事に、この短い詩は偶然にも、王に対する最も恐ろしい侮辱の意味を表していたのである。それは次のように読めた。
    「最も大きな罪により、
     強固な王位の上に立ち、
     民衆の平和の中で、
     これは唯一の敵である。」
 やっかみやは、生まれて初めて幸せに感じた。自分の手の中に、徳のある愛すべき一人の人間を貶める為の物を、得たからである。この残酷な喜びに浸って、彼は、そのザディッグの手で書かれた風刺を、王の所まで持って行かせた。彼と、彼の二人の友人と、その婦人は、監獄に入れられてしまった。その裁判はやがて、彼らに有無を言わせずに行われたのである。彼がその判決を言い渡された時、やっかみやはその場に居合わせており、大声で、彼の詩は何の価値もないと言った。ザディッグは自分が優れた詩人であるなどと自惚れてはいなかった。が、大逆罪の宣告を受け、また、何の罪もなく、美しい婦人と二人の友人が刑務所に留置されるのを見て絶望した。人々は彼が話をするのを許さなかった。というのは彼のタブレットが充分喋ったからである。バビロンの法令は、このようなものであった。役人達は、多数の見物人を押し分けて、彼に体罰を与えようとひきたてた。見物人は、誰も敢えて弁護しようとはせず、彼がどんな顔をしているか、また、彼が立派な最後を遂げるかどうかを見る為に、急いで集まった。ただ彼の親類のみが悲しんだ。というのは、彼の遺産を相続出来ないからであった。彼の財産の四分の三は国王に没収され、残りの四分の一は、やっかみやに対する報酬となった。
 彼が死を覚悟した時、国王のオウムがバルコニーを飛び立ち、ザディッグの庭の薔薇の茂みにとまった。桃の実が近くの木から、風によって運ばれていた。桃は例のタブレットの残りの片割れの上に落ち、くっついた。オウムは桃とタブレットを攫い、それを王の膝の上に運んで来た。王は不思議に思って読んでみた。それは全く意味をなさなかった。が、詩の断片らしかった。彼は詩を愛していた。詩を愛する王には、常にそれだけの才能もあるものである。オウムの冒険が、王に事態を考えさせた。王妃はザディッグのタブレットの片割れに書かれていた文章を思いだし、それを持って来させた。王と王妃はこれら二つを合わせてみた。ピッタリと継ぎ目が一致した。そこで彼らはザディッグの作った詩を、元の形で読む事が出来た。
   「最も大きな罪により、私はこの世が乱れているのを見た。
    強固な王位の上に立ち、全てを征服する事が王には出来るのだ。
    民衆の平和の中で、愛のみが戦争を起こす元になる。
    これは唯一の敵である。この敵こそ我々は恐れねばならないのだ。」
 王は直ちにザディッグを彼の前に呼び出すように、また彼の二人の友人と美しい婦人を監獄から出させるよう命令した。ザディッグは身を投げて、王と王妃に対し、遜(へりくだ)って、邪(よこしま)な詩を作った事の許しを乞うた。彼は非常に上品に、また充分に機知や理性を示して話したので、王と王妃は、彼に再び会う事を欲した。彼はその後また話しに来、以前より一層気にいられた。彼は、彼を不当にも罪に陥れたやっかみやの持っている全ての財産を受け取った。しかしザディッグは全てをやっかみやに返した。やっかみやは、この行いに感動した。しかしその感動は、「ああ良かった、財産を失わないですんだ。」というだけのものであった。王のザディッグに対する評価は、日に日に高まった。王は彼の楽しみ事全てに、ザディッグを参加させ、全ての彼の問題を相談した。王妃はザディッグを既に或る好意の目で見ていた。この好意の目は王妃にとっても、その神聖な配偶者の、王にとっても、ザディッグにとっても、王国にとっても、危険なものになり得たのである。しかしザディッグは幸福を得るのは難しくないと感じ始めていた。


 寛大な人々

 五年置きに巡ってくる大祝祭を祝う日がやって来た。バビロンでは五年毎に、市民のうちで最も寛大な行いをした人々を、厳かに公表する習わしがあった。位の高い役人達と、マージ教僧侶達が裁判官であった。一つの町を治めている大守が、彼の統治下で行われた最も美しい行いを公表し、その後で投票が行われ、国王が判定を下す事になっていた。地の果てからも、この大祝祭を見に、人々がやって来た。勝利者は君主の手から、宝石類のついた金杯を受取り、国王は次の言葉を言う事になっていた。「汝、この寛大賞を受けよ。また、余は神に祈る。汝に似たる家来の、余の周囲にいや増さん事を。」
 この記念すべき日がやって来た時、位の高い役人達、マージ教僧侶達、そして、この競争の為にやって来たあらゆる国々の出場選手達に囲まれて、王が玉座に現れた。この競技では、栄冠は、馬の身軽さによっても、人間の体力によっても、勝ち得られず、美徳によって勝ち得るのである。大守はこの立派な賞に値し得る行いの例を声高らかに報告した。彼はザディッグがやっかみやに、彼の全財産を返した、その心の寛大さについては全く話さなかった。こんな些細な事は、賞を与えるかどうか検討するにも値しない行いであった。
 大守はまづ第一に、一人の裁判官を紹介した。この裁判官は或る市民を、重要な訴訟において、誤って裁いてしまった。実はその過ちは、彼には全く責任がなかったのであるが、彼はその市民が裁判において失った額に相当する彼の全財産を与えたのである。
 大守は次に、一人の若者を紹介した。その若者は、彼が結婚しようとしていた娘に、気違いのように恋していたのであるが、彼女を愛するが故に、まさに死のうとしていた彼の友人に彼女を譲り、そしてまた譲るだけでなく、持参金まで持たせたのであった。
 次に大守は、一人の軍人を紹介した。彼はイルカニの戦いで、寛大さのさらに大きな実例を与えたのである。その話は次のようであった。敵の兵士が彼の恋人を攫って行こうとしていた。そして彼は彼女を彼らから守ろうとしていた。ある人が、別のイルカニ人が、そこから数歩も離れていない所で、彼の母親を攫って行こうとしていると言って来た。彼は涙を流して恋人と別れ、駆け寄って母親を救い出した。次に彼は自分の愛する女の所へ戻った。そして彼女が瀕死の状態である事を発見した。彼は自殺しようと思った。しかし彼の母親は彼に、自分を救えるのは彼しかいないと説き伏せた。彼は勇気を奮い起こして、生きる事に決めたのである。
 裁判官達は兵士の方へ傾いてきた。王は発言を求め言った。「彼の行為や、他の者の行為も立派だ。しかし私を驚かせる程ではない。昨日ザディッグは私を驚かせるような行為をした。私は、私の大臣であり、また私の気に入りのコレブを、数日前から疎(うと)んじていた。私は彼に激しく不満を言った。朝臣達は、それでもまだ甘いと私を焚きつけた。放って置けば連中はまだいくらでもコレブの悪口を言うところだった。私はザディッグに、彼について思っている事を言って欲しいと言った。すると彼はこの大臣の事を、褒めたのである。私は我々の今までの話の中で、過ちを金で償った者、恋人を譲った男、愛の対象よりも母の方を選んだ者、を知ったが、君主が怒っているのをものともせず、彼によって疎んじられた大臣を褒めるなどという行為は見た事がない。私はこれまで語られた寛大な行為を行った者達にはそれぞれ二十万個の金貨を与える事にするが、優勝杯はザディッグに与える。」
「陛下、陛下こそ優勝杯を受けるのに相応しい方です。王様こそ前代未聞の寛大な行為をした人です。」ザディッグは王に言った。「それは、陛下が国王であるにも拘わらず、貴方の奴隷が、貴方の意に反した事を言った時、彼に対して全く怒りを示されなかったからです。」
 人々は王とザディッグを褒め称えた。自分の財産を与えた裁判官、自分の恋人を友人に譲った若者、恋人よりも、自分の母を救おうとした兵士、は、王の贈り物を受けた。そして彼らは、「寛大な人々」と表紙に書かれた本の中に、自分達の名前が書かれるのを見た。ザディッグは優勝杯を貰った。王は立派な君主としての評判を得た。が、それは長く続かなかった。その日は、法が許す限り長く、祭日に当てられた。その日の記録は今もアジアに残っている。ザディッグは、「とうとう僕は幸福になった。」と言った。しかし彼は間違っていた。


 大臣

 王は首相をなくしてしまった。王はその地位を埋めるのに、ザディッグを選んだ。バビロンの淑女達は皆、その選択を賞賛した。というのは、建国以来こんなに若い大臣はかってなかったからである。朝臣達は皆腹をたてた。やっかみやは血を吐いたり、ひどく鼻を膨らませたりした。ザディッグは王と王妃に礼を言い、オウムにも礼を言った。「美しい鳥よ。」と彼は言った。「私の命を助けてくれたのもお前だし、首相にしてくれたのもお前だ。陛下の犬や馬は私に大変な害を与えたけれど、お前は私を助けてくれた。人の運命なんてこんなものに依存するんだな。」「しかし」と彼は続けて言った。「こんな妙な幸運は、おそらく今に消えてしまうだろう。」オウムが、「そうだ。」と答えた。その言葉がザディッグを驚かせた。しかし彼は良い自然科学者であり、従って彼はオウムが予言者であるとは信じていなかったので、暫くすると安心し、彼の最善を尽くして首相としての役目を果たし始めた。
 彼は皆に法の神聖な権力を感じさせ、そして誰にも、法の重みを感じさせなかった。彼は閣議の発言を妨げず各大臣は彼を不愉快にさせることなしに、自分の意見を持つ事が出来た。彼がある事件を裁く時には、裁きをするのは彼ではなく、法であった。しかし法があまりに厳しい時には、彼はそれを和らげ、また、人々が法を無視している時には、公平無私の処置を行ったが、その処置は人々にはゾロアスター教の戒律として受け取れた。
 国々が次の偉大な原理を持つようになったのは、彼からである。「無実の人に有罪の判決を下すよりは、罪人を救った方がましだ。」法律とは国民を脅かす為にあるのではなく、国民を救済する為にあるのだというのが彼の意見であった。彼の主な才能は、大抵の人が曖昧な儘にして放って置こうとする時、其処に真実を見抜く事にあった。
 公職についた最初の日から、彼はその偉大な才能を使い始めた。或る名高いバビロンの卸業者がインドで死んだ。その商人は娘を嫁がせた後、二人の息子を平等の割合で相続人にしていた。そして二人の息子のうち、より自分を愛してくれると判断される方に、三万個の金貨を与えると遺言した。兄の方は父の為に墓を作り、弟の方は自分の遺産の一部で、妹の持参金を増やしてやった。人々は言った。「父親をより愛しているのは兄の方だ。弟は妹を愛しているだけだ。三万個の金貨は兄のものだ。」と言った。
 ザディッグは二人を別々に呼び寄せて、まづ兄に言った。「お前の父親は死んではいない。最後の病気から治ってバビロンに戻って来る。」「神に栄光あれ。」と兄は言った。「しかし墓はひどく高いものについたな。」それからザディッグは同じ事を弟に言った。「神に栄光あれ。私は持っているものをみんな父に返します。しかし妹に与えたものは、妹に残しておいて欲しいです。」と弟は言った。「君は全く何も返す必要はない。三万個の金貨は君のものだ。お父さんをより愛しているのは君の方なのだから。」とザディッグは言った。
 非常に金持ちの娘が、二人のマージ教僧侶と結婚の約束をした。そして、どちらからも何日か薫育を受けた後で、彼女は腹が大きくなった。二人とも彼女と結婚したがった。「私は二人のうち、この帝国に一住民を与えるという状態に私をしてくれた人を夫として選びます。」と彼女は言った。一人が、「その立派な仕事をしたのは私です。」と言った。もう一人の僧侶は、「この有益な仕事をしたのは私です。」と言った。「それでは、」と娘は言った。「二人のうち、生まれてくる子供に最上の教育を与えうる人を、子供の父親として認めます。」彼女は男の子を産んだ。マージ教僧侶の二人とも、その子供を育てる事を欲した。その訴訟事件はザディッグの所に持ち込まれた。彼はその二人のマージ教僧侶を呼んだ。「貴方は子供に何を教える積もりですか。」と彼は一番目の僧侶に言った。博学で知られるその男は答えた。「私は、演説の八節法、弁証法、占星術、鬼神学、実質的な物と付随的な物の区別、ライプニッツの単子律と予定調和、を教える積もりです。」と言った。「私は、」と二番目の僧侶は答えた。「私は彼に正義感を植えつけ、友人を持つに相応しい人間にしようと努めます。」ザディッグは第二の僧侶に答えた。「貴方が母親と結婚しなさい。その子の父親であるかどうかは問わない。」と言った。


 論争と謁見

 この様にして彼は日毎にその頭の切れの良さと心の寛大さを発揮した。人々は彼を崇めていた。が、彼を愛してもいた。彼は全ての人の中で最も幸福な人として知られており、国中は彼の名前で満ち満ちていた。全ての婦人は彼に秋波を送り、国民は皆彼の公正さを褒め称え、学者達は彼らの神託として彼を見ていた。僧侶達でさえザディッグがイェボールより物を知っていると認めていた。従って人々は彼がグリフォンに関してザディッグを訴えるのに耳を貸すどころではなかった。人々は自分が信じられると思う事しか信じなかったからである。
 バビロンには、一五〇〇年来続いてきた論争があり、それは国を二つの頑固な派に分けていた。一つの派は、ミトラ寺院に入る時に、決して左足から入ってはいけないと主張していた。又もう一つの派はその習慣を嫌って、決して右足から入らなかった。そこで人々は、盛大な、「聖なる火」祭の日を待っていた。というのは、ザディッグがどちらの派に肩を持つかを見る為にであった。その日、国中の人々は、待ち遠しい気持ちで、また手に汗握って、ザディッグの両足に目を釘付けにしていた。ところがザディッグは両足を揃えて跳んで、寺院に入った。そして弁舌を奮って次の事を示した。天と地の神は、人間に依怙贔屓をしたまわず、左足党も右足党も、より重んじたまわないと。
 やっかみやと彼の妻は、彼の演説には充分な神の徴(しるし)がなかったと主張した。また彼が充分山や丘を踊らせなかったと主張した。「彼は無味乾燥な人間で、天才の閃きなんか持っていない。」と彼らは言い、「彼によって海が遠ざけられるのを我々は見たことがないし、星が流されるのも見たことがない。太陽が蜜蝋のように融かされるのも見ていないし、また、彼は美しい東洋風の文体も持ってはいない。」と。ザディッグは理性のある文体を持っていることで満足していた。誰もが彼に味方した。それは彼が美しい行いをしたからでもなく、彼が理性的であったからでもなく、また彼が愛すべき人間であったからでもなく、ただ彼が首相だったからである。
 彼はまた、白マージ教僧侶と黒マージ教僧侶の間に起こった重大な問題を、きれいに処理した。白マージ教僧侶は、神に祈る時東向きに廻るのは不信心な事だと主張した。黒マージ教僧侶達は、神は西向きに廻る人間の祈りが大嫌いであると断言した。ザディッグは、自分の好きな向きに廻れと命じたのである。
 このようにして彼は、人を治めるこつを理解した。朝は個人的な問題、一般的な問題を片付け、一日の残りを使って、バビロンを美化する仕事に従事した。彼は、人々が涙を流す悲劇や、人々が笑う喜劇を、再び上演させた。それは久しい以前から流行しなくなっていた。が、それを彼は復活させた。何故なら彼は、上品な趣味を持っていたからである。彼は芸術家達より上品な趣味を持っているとは主張しなかった。彼は善行や品位によってその差を埋めたのである。そして彼らの才能を内緒で妬むような気持ちは全く持っていなかった。晩には彼は国王を、そしてとりわけ王妃を、大いに楽しませた。王は、「偉大なる大臣よ。」と言い、王妃は、「愛すべき大臣よ。」と言った。そして二人とも、「もし彼があの時処刑されていたら、大変な損失であった。」と言い足した。
 その地位にあった者で、彼ほど婦人達に無理矢理謁見を強いられた者はなかった。大部分の婦人は、困ってもいない問題を話しにやって来た。謁見そのものが目的だったからである。やっかみやの妻も最初の謁見懇願者の一人であった。彼女は、ミトラに、ゼンダ・ヴェスタに、神聖な火に誓って、夫の行いを嫌っていた、と言った。また、夫は妬み深く凶暴であると、打ち明けた。彼女は、神々は彼を罰している、と言った。何故なら神々の神聖な火を彼に対しては拒んでいるではないか、と。(訳注 子供がいない事を言っている。)こう言ったあと、彼女は靴下留めを態と落とした。ザディッグは何時もの礼儀正しさでそれを拾った。しかし彼はそれを彼女の膝に結び直さなかった。この些細な過失が、(もしそれが過失と言えるならば、)恐ろしい不幸の原因になったのである。ザディッグはその事について何も考えなかった。やっかみやの妻はその事について沢山考えたのである。
 他の婦人達も毎日ザディッグに謁見を願い出た。バビロンの秘密の年鑑には次の事が記載されている。即ちザディッグは一度誘惑に負けたと。そしてその時彼は、欲望もないのに楽しむ事は出来るものだと、また、上の空でも女を抱く事は出来るものだと分かり全く驚いた、と記されてある。自分では全く気付かずにではあるが、彼が自分の保護の印を与えたこの女は、女王アスタルテの小間使いであった。この優しいバビロンの女は、自分を慰めて言った。「あの人はあの瞬間でさえも、考え事をしている。きっと頭の中には驚く程沢山の問題があるに違いない。」普通の人なら言葉など発しないか、さもなければ「ああ、神様。」とかいう言葉しか発する事が出来ない筈の時に、ザディッグは突然「王妃様。」と叫んだ。このバビロンの女は、彼がとうとう良い時に我に帰ってくれて、自分の事を「王妃様。」と言ってくれたと信じた。しかしザディッグは上の空で、王女アスタルテの名前を言ったのだった。女は、この幸福な状態において、全て自分に有利な解釈をし、この言葉が、「貴女は王妃アスタルテより美しい。」という意味だと思った。彼女は非常に素晴らしい贈り物を貰ってザディッグの宮殿を出て行った事になる。彼女はこの以外な出来事を、親しい友人である、あのやっかみやの妻に話しに行った。やっかみやの妻の感情はこの依怙贔屓により、ひどく害された。彼女は、「あの人は、この靴下留めを私につける事さえしてくれなかったのよ。もうこの靴下留めは使わない事に決めたわ。」と言った。「あら?」とこの幸福な女はやっかみやの妻に言った。「貴女は女王様と同じ靴下留めを使っているのね。きっと同じ仕立屋さんのものだわ。」やっかみやの妻はひどく考え込み、何も答えなかった。そして自分の夫に相談しに行った。
 一方ザディッグは謁見を与える時、また判決を下す時、何時も自分がぼんやりしている事に気がついた。それは何に原因があるのか分からなかった。それが彼の唯一の悩みであった。
 彼は夢を見た。初めは枯れ草の上に寝ていた。その中には彼を不快にする刺(とげ)があった。それから薔薇の花びらのベッドの上にふわりと休んだ。そこから蛇が出て来て鋭い毒のある舌で心臓を噛んだ。「ああ。」と彼は言った。「昔は私は、枯れた刺のある草の上に寝ていた。今は私は薔薇の花びらのベッドに寝ている。すると蛇は一体何なんだろう。」


 妬み

 ザディッグの災難は、彼の幸福そのものから、また特に、彼の才能から生じたのであった。彼は毎日、王や、その尊い妻のアスタルテと語り合った。会話の魅力は、人を喜ばせようとする気持ちにより、倍増した。この、人を喜ばせようとする気持ちが精神に及ぼす影響は、丁度装飾品が美人に及ぼす影響と同じである。彼の若さと厚情は、知らず知らずのうちにアスタルテに、初めのうちは気付かなかった印象を与えるようになった。彼の情熱は無垢な心の中で成長していった。アスタルテは、躊躇いも恐れもなく、彼女の夫にとって、また国家にとって重要な、この人物を見聞きする喜びに、身を任せた。事ある毎に彼女は王に彼の事を褒めそやした。彼女はまた、侍女達にも彼について話し、侍女達は侍女達で、王女の賛辞より以上に、彼に高い値をつけた。それらの全てが、彼女の感じてもいなかった彼の特徴を、自分の胸に打ち込むのに役立った。彼女はザディッグに贈り物をした。その贈り物には彼女が考えていた以上の艶が含まれていたのである。彼女は、ザディッグの国家への奉仕に満足している女王、として話している積もりであったが、時折彼女の表情は、恋をした一人の女のものであった。
 アスタルテは、片目の男をひどく嫌ったあのセミールや、夫の鼻を切ろうとしたアゾラよりもずっと美人だった。アスタルテの隔てのない親しさ、顔を赤らめながら話す優しい話し方、また、逸らそうとしながらも自分の上にじっと注がれる視線、これらがザディッグの心に、自分でも驚くような火を點けた。彼は戦った。彼は哲学に救援を求めた。哲学はこれまでは何時も彼を助けてくれていた。が、今回はそこから物の筋道しか引き出せなかった。そして苦しみも全く軽減されなかった。義務の念、感謝すべき自分の立場、冒涜された王の威厳、が、復讐の神のように、目の前に現れた。彼は戦い続け、勝ち続けた。しかし常に得られなければならないこの勝利は、呻き声と涙を伴わずにはいなかった。彼にはもはや楽しい自由な気持ちでアスタルテと話す事は出来なかった。その、楽しい自由な気持ちこそ、二人にとって一番の魅力だったのに。彼の目は雲で霞んだ。彼の言葉は遠慮勝ちで支離滅裂となった。彼は目を伏せた。彼の意志に反して視線がアスタルテの方に向くと、涙に濡れている王妃の目にぶつかった。王妃の目からは火の矢が発していた。それはお互いに次のように言っているように見えた。「我々は愛し合っている。しかし、愛す事を恐れている。我々は二人とも、自ら禁じている火で自らを焼いているのだ。」
 ザディッグは王妃の元を辞去する時は何時も、狂おしく、また上の空であった。心は、これ以上支えきれないほどの重荷を負って。彼はついに自分の秘密を友人のカドールに打ち明けた。猛烈な痛みを長い間我慢し、ついに堪えきれず、額に冷たい脂汗を流しながら、思わず鋭い叫びを上げた人、それがザディッグの様子であった。
 カドールは彼に言った。「僕はその感情をもう見抜いていたよ。君が、自分にも隠して置きたいと思っていたって、その情熱だ、誰だって取り違えようがないじゃないか。親愛なるザディッグ。僕でさえ君の心を読んでいた。まして王が気付かない事があろうか。一番傷つくのは王じゃないか。それに、これだけが欠点なんだが、あの王は嫉妬深い事にかけては人一倍だ。君は君自身の感情と、王妃は王妃自身の感情と戦っているね。しかし君の戦い方の方がずっと徹底している。王妃は甘い。それはしようがない。君は哲学者だ。君はザディッグだ。アスタルテは女だもの。彼女は潔白だ。自分は罪を犯していないという自信がある。その無邪気さで、自分の眼差しが語るのを許してしまっている。不幸にも、自分の潔白さで安心しきって、外面が重要なのにそれをなおざりにしている。王妃にはなんら咎めるべき所がない。それだから一層僕は王妃の事が心配だ。もし君らがお互いに同意すれば、他人の目を誤魔化す方法も自然に分かるようになるんだが。生まれたての、戦われている情熱は、何時か顕れてしまう。しかし、満たされた愛は、隠れる事を知っているんだ。」ザディッグは、自分の恩人である王を裏切るこの提案に戦(おのの)いた。彼は王に常に忠実であった。強いて不忠と言えば、この無意識の罪のみであった。一方王妃は屡々ザディッグの名を口にした。そしてその名を口に出す時、彼女の額はさっと赤くなった。王のいる前で彼と話をする時は、ひどく活気を帯びたり、ひどく狼狽したりした。ザディッグが立ち去ると、余りに深い夢心地が彼女を捉えるので、王は心配になった。王は見るもの全てを信じ、見ないもの全てを想像した。彼は何よりも、妻のスリッパが青く、ザディッグのスリッパも青い。また、妻のリボンが黄色で、ザディッグの帽子も黄色である事に注目した。それは、繊細な心の王にとっては、恐ろしい兆候であった。その疑いは、気難しくなった彼の心の中で、確信へと変わっていった。
 奴隷というものは常に、王や王妃の心を盗み見る者である。人々はやがてアスタルテは優しくモアブダールは妬み深いと見抜いた。やっかみやは彼の妻に命じて、王に彼女の靴下留めを送らせた。王妃のそれに似ている例の靴下留めである。運の悪い時は重なるものだ、その靴下留めは青い色をしていた。王は復讐の方法以外は何も考えなかった。ある夜王は、王妃を毒殺しザディッグを夜明けに紐で首を絞めて殺させようと決心した。この復讐を実行に移せという命令が、無情な宦官に下された。丁度その時、王の部屋には小人がいた。この小人は、唖であったが、聾ではなかった。彼は何時も皆に苛められていた。彼は秘密裡に行われたこの命令を目撃した。人々は彼をまるで家畜の様に無視していたのである。この唖の小人は、王妃とザディッグに懐いていた。だから二人を殺す命令が下った事を、驚きと恐怖をもって聞いた。しかし如何にしてこれを知らせたらいいのか。命令はまもなく実行されるのだ。小人は字が書けなかった。が、絵は描けた。また何よりも似顔絵がうまかった。彼は夜の一部を費やして、王妃に知らせたい事を絵に描いた。その絵は、隅の方に、自分の宦官に命令を下している怒り狂った王を表し、テーブルの上には、青い靴下留めと黄色いリボン、それに青い紐と、花瓶が置いてあった。絵の真ん中には、侍女の腕に抱かれた、息絶え絶えの王妃、そしてその足元にはザディッグが絞め殺されていた。地平線は、この恐ろしい行為が、明け方の日の出の時に行われる予定である事を示すように、朝の太陽を表していた。この絵を描き終わるや否や、彼はアスタルテの侍女の家に走って行き、侍女を起こし、王妃の所へ今すぐにこの絵を持って行けと分からせた。
 このようにして、真夜中にザディッグの家の戸が叩かれ、ザディッグは起こされ、王妃からの短い手紙が渡された。彼は夢ではないかと疑った。彼は震える手で手紙を開けた。彼が次の言葉を読み上げた時、何と驚いた事か、又それによる驚きと絶望を誰が言い表せるであろうか。それほど彼は驚き、絶望した。手紙は言っていた。「今すぐに逃げなさい。さもなければ、命を奪われます。ザディッグよ、逃げなさい。私達の愛と私のあの黄色いリボンの名において、私は貴方に逃げよと命じる。私は罪は犯していない。しかし罪人として死ぬでしょう。」
 ザディッグは話す力を出せない程であった。彼はカドールを呼ぶように命じた。ザディッグは何も言わず、カドールにその短い手紙を手渡した。カドールはすぐにザディッグを無理矢理に従わせ、メンフィスへの道を取らせた。「もし君が王妃に敢えて会いに行くなら、君は王妃の死を早める事になる。又王と話すなら、それもやはり王妃を失う事になってしまうぞ。僕が王妃の運命を引き受ける。君は君の運命に従った方が良い。僕は君がインドへの道を行った、という噂を広めよう。暫くしたら僕は君に会いに行き、バビロンでこれから起こる事を知らせよう。」とカドールは言った。
 そう言いながらカドールは、最も足の速いラクダ二頭を、屋敷の秘密の入口の傍に置かせて、ザディッグをそれに乗せた。ザディッグは殆ど死なんとする程動転していたので、カドールは彼を支えてやらねばならなかった。ザディッグには唯一人の召使が供をした。そしてやがて、驚愕と苦痛で茫然としたカドールの視野から、友人は消えていった。
 この高名な逃亡者は、バビロンの見渡せる丘の辺に着いて、視界を王妃の居る宮殿へと向け、その儘気を失ってしまった。そして正気にかえってからは、ただ涙を流し、死ぬ事を望むばかりであった。最も愛すべき婦人であり、この世で一番の王妃、の悲しい運命に思いを馳せた後、ついに我にかえって叫んだ。「人間の運命とは一体何なのか。ああ、美徳よ、お前は私にとって何の役に立つというのか。二人の婦人は私を不当にも欺き、何の罪もなく、その二人の婦人より美しい第三の婦人は、今や死のうとしている。私の行った善行は、全て私にとって不運の種となり、私が栄華の絶頂期において高位に着いたのは、不運の最も恐ろしい深淵へと落ちる為でしかなかった。私が他の多くの人と同じように、意地悪な人間だったならば、私は彼らと同じように幸福だったろうに。」不幸な思い出に打ちひしがれて、目は苦痛の帳(とばり)で覆われ、顔の上には死の薄明かりが、そして心はあまりの絶望に深く沈んだ儘、彼はエジプトの方へと旅を続けた。


 打たれる女

 ザディッグは星の指し示す儘に道を進んだ。オリオン座やシリウス星は、彼をカノップの極へ道案内した。彼は光の広大な天空を称賛した。これは我々の目には弱い光にしか見えない。その反対に、実際は點に過ぎないこの地球が、我々の強欲によって、何か偉大で気高いものに見えるのである。彼はそこで、ありの儘の人間を心に描いた。泥の原子の上で、お互いに食い合いをしている虫けらに過ぎないじゃないかと。この本物の像は彼に、彼の存在の虚しさと、バビロンの虚しさを思い出させ、彼の不幸を彼から拭い去ってしまうように思われた。彼の精神は無限にまで湧きあがり、感覚を超越して、宇宙の不変の真理を注視した。しかしその次に、我に返って再び彼の胸の中に戻った時、彼は考えた。自分の為におそらくアスタルテは死んだろうと。そして、彼の視界から宇宙は姿を消し、彼はこの宇宙全体に、ただまさに死なんとするアスタルテと不幸なザディッグしか思い浮かばなかった。
 彼は崇高な哲学が導く「流れ」と、耐え難い苦痛がそれを押し返す「逆流」、に身を任せながら、エジプトの国境の方へ進んで行った。既に彼の忠実な召使は、最初の部落に行き着き、そこで彼はザディッグの為に宿泊所を捜していた。その間にザディッグは、その村の境となっている庭の方へ歩いて行った。すると彼は、街道から遠くない所に、助けてくれと天と地を呼んで、泣き叫んでいる一人の女と、その後を追って来る、激怒した一人の男を見た。彼女は既に彼に追いつかれ、頭を抱えてうづくまっていた。その男は女に殴打を浴びせ、非難した。ザディッグは、そのエジプト人の激怒と、女が繰り返し許しを求めている事から、男は嫉妬していて、女は不義を働いたのだと判断した。しかし彼は、この女を見た時、この女が人の心を魅了する美しさを持ち、あの不幸なアスタルテに少し似てさえもいるのを見て取り、その女に対して哀れみが、そして男に対しては嫌悪が、起こってくるのを感じた。「助けて。」女は泣いてザディッグに叫んだ。「人間の中でも最も残忍な男の手から、私を助けて。命を救って。」
 この叫び声にザディッグは、女とこのエジプト人の間に飛び込んだ。彼はエジプト語がかなり出来た。彼はエジプト語でその男に言った。「もしお前が少しでも人間らしい気持ちを持っているのなら、私はお前に、美しさと弱さを思い遣るよう頼む。お前は、お前の足元にいて、保護を求めるのに涙しか持ち合わさない自然の傑作を、ただ凌辱する事しか出来ないのか。」「ははあ。」と、この激怒した男はザディッグに言った。「お前も同じようにこの女を愛しているのだな。それなら俺が仕返しをしなければならないのはお前だ。」そう言いながら彼は女の髪の毛を掴んでいた手を放し、槍を掴んでその外国人を突き刺そうとした。ザディッグは冷静だったので、その激怒した男の一撃を軽くかわした。彼は槍に取りつけられている穂先の傍でその槍を掴んだ。相手は引っ張って取り戻そうとし、こちらは相手を槍から引き離そうとした。槍は彼らの手の間で折れた。エジプト人は剣を抜いた。ザディッグも剣で武装した。彼らは戦った。エジプト人は鋭い百回の攻撃をかけたが、ザディッグは巧みにそれをかわした。女は草の上に坐り髪を直して二人の戦いを見ていた。エジプト人はこちらよりたくましかったがザディッグの方は剣の腕でまさっていた。ザディッグは頭の働きが腕を導く男として闘い、エジプト人は盲目的な怒りが盲滅法な動きを導く男として闘った。ザディッグは彼をやりすごし、剣を叩き落とした。するとエジプト人はいよいよ怒って彼に飛び掛かろうとしたので、ザディッグは彼を掴まえて締めつけ、転ばして直ちに彼の胸に剣を突きつけた。ザディッグは、命だけは助けてやろうと言った。エジプト人は我を忘れて短刀を引き抜き、ザディッグが彼を放した瞬間に短刀で切りつけた。ザディッグは憤慨して彼の胸を剣で突き刺した。エジプト人は物凄い声を発し、もがきながら死んでいった。
 そこでザディッグは女の方に進みより、優しい声で言った。「彼は私に、自分を態々殺させるように仕向けたのだ。私は貴女の仇をうった。貴女は私が今までに見たうちで最も凶暴な人間から救われたのだ。女よ、今私に何をお望みか。」「極悪人。死んでしまえ。」と、女は彼に答えた。「死んでしまえ。お前は私の恋人を殺した。私はお前の心臓を引き裂きたいぐらいだ。」「女よ、実際貴女は恋人として変な男を持ったものだ。」と、ザディッグは答えた。「彼はあらん限りの力で貴女を叩いた。そして貴女が私に助けを求めたから、彼は私の命を取ろうとしたのだ。」「私はもっとぶたれた方がましだ。」と、女は声を張り上げながら言った。「私はそういう風にされて当然だ。あの人を嫉妬させるようしむけたのだから。あの人が私を叩くのは当たり前。お前なんか、あの人の代わりに死んでしまえ。」ザディッグは生涯なかった程に不意を打たれて驚き、立腹して言った。「女よ、貴女は美人だが、今度は私が貴女を叩かねばならない。それぐらい貴女は常軌を逸している。しかし貴女を叩くのは止めよう。」そう言って彼は自分のラクダに乗って、村へと進んだ。彼が数歩進むか進まないうちに、バビロンからの飛脚四人がたてる音に振り向いた。彼らは全速力でやって来た。彼らの中の一人が、この女を見て叫んだ。「彼女だ。我々の為に作られた肖像画に、あれはそっくりだぞ。」彼らは死体など見向きもせず、直ちに女を掴まえた。彼女はザディッグに向かって泣き喚き続けた。「見知らぬ寛大なお方よ、もう一度私をお助け下さい。私は貴方に不平を言ったことの許しを乞います。私を助けて。そうすれば墓まででも、貴方と共に参ります。」ザディッグはもう彼女の為に闘うという気はなかった。「馬鹿な。もう騙されないぞ。」と、彼は答えた。
 それに彼は怪我をしており、血を流していて、手当てをする必要があった。そして、恐らくは王モアブダールによって遣わされたらしい四人のバビロニア人を見た事が、彼の心を不安でいっぱいにした。彼は四人のバビロニアの飛脚が、このエジプト女を何故掴まえたか、その理由を考えず、ただこの女の性質の方に呆れながら、村の方へと急いだ。


 奴隷の状態

 ザディッグがエジプト人の部落に入った時、彼は人々に取り囲まれた。各々が叫んだ。「美しいミスーフを奪い、クレトフィを殺した奴だ!」彼は言った。「皆さん、神様の御陰で、私は貴方方の美しいミスーフを奪わないですんだ。彼女はあまりに気まぐれだ。またクレトフィに関しては、私は決して彼を殺したのではない。私は単に彼から自分を守ろうとしただけだ。彼はミスーフを、仮借なく殴っていた。私は控え目に、美しいミスーフを助けてやるよう頼んだ。それで彼は私を殺そうとしたのだ。私はエジプトに隠れ家を捜しに来た外国人だ。貴方方の保護を必要としているのに、まづ女を奪ったり、人を殺すような事から始めるわけがない。」
 その当時、エジプト人達は公正で人情味があったので、人々はザディッグを町の中の家へ案内した。彼らは彼の傷の手当てをして、次に真相を知る為に彼と彼の召使に、別々に訊問した。人々は、ザディッグには殺人の罪はないが、人間一人の血を流した罪があると認め、法により奴隷になる事を命じた。人々は部落の利益の為に、その二頭のラクダを売った。人々は彼が持っていた金を住民で分配した。またその身柄は召使とともに公の場で競売に付された。セトックという、或るアラビアの商人がそれに高い値をつけた。しかしその召使については、疲れにもめげず清潔な様子をしていたので、主人よりもずっと高値で売られた。人々はその二人を綿密に比較しはしなかった。その為ザディッグは彼の召使に従う奴隷になってしまった。人々は二人一緒に鎖で繋ぎ合わせて彼らを歩かせた。そういう状態で彼らはアラビア商人の後について彼の家へと行った。ザディッグは道々、その召使を慰め、辛抱する様にと言った。しかし彼のいつもの習慣に従って、人間の一生について考えをめぐらしてもいた。彼は言った。「私は、私の不幸な運命が君の上にまで広がっているのを感じる。今まで全ての事は、私の周りで奇妙な具合に展開してきた。一匹の犬が通るのを見たばかりに罰金刑に処され、グリフォンの為に串刺しの刑にされそうになり、王を褒め称える詩を作ったばかりに拷問を受けるはめになり、王妃は黄色いリボンをしていた為に、首を絞められそうになった。そして此処では、一人の野蛮人が自分の愛人を殴った為に、君と一緒に奴隷になっているんだ。さあ、勇気を失うまい。恐らくこれは暫くしたら終わるだろう。アラビア人の商人達が奴隷を持つのは当然だ。そして私がどうして奴隷になって悪いわけがあろう。私だって他の人と同じように人間なんだから。その商人は冷酷ではないだろう。彼は奴隷達を丁寧に扱うに違いない。もし彼が奴隷達に奉仕してもらいたいのなら。」彼はそう話していたが、心の底ではバビロンの王妃の運命の事でいっぱいだった。
 二日後、商人のセトックは彼の奴隷達や、ラクダどもと共に、アラビアの砂漠に向かって出発した。彼の種族はオレブ砂漠の方に住んでいた。道は長く苦しかった。その道の途中でセトックは主人より召使の方を重んじた。召使の方が彼よりうまくラクダに荷を積んだからであった。そして事毎に二人を差別して召使の方を優遇した。一頭のラクダがオレブへ行く二日の間に死んだので、人々はラクダの荷物を各々の奴隷の背中に分割した。ザディッグもその一部を受け持った。セトックは奴隷が皆、腰を曲げて歩くのを見て笑い始めた。ザディッグは許しを得て、人々が腰を曲げて歩く理由を説明する自由を得、セトックに釣り合いの法則を教えた。商人は驚いて彼を違った目で見始めた。ザディッグは商人が好奇心を起こしたのを知って、彼に貿易に関係のある沢山の事柄を教え、その好奇心を煽りたてた。つまり、同体積の下における金属や商品の比重とか、いくつかの有用な動物の種々の特性、役にたたない動物を有用化する方法などを。セトックは彼を、それまで高く評価していた彼の召使より高く評価するようになった。彼はザディッグを親切に扱ったが、それを後悔する理由はなかった。
 村に着くとセトックは、或るヘブライ人に五百オンスの銀を返却するよう要求し始めたが、それは彼が二人の証人の目の前で、このヘブライ人に貸したものだった。しかし証人は二人共死んでしまったのだ。セトックはこのヘブライ人を納得させる事が出来なかった。このヘブライ人は一人のアラビア人を騙す方法を自分に与えてくれた事を、神に感謝しながら、此の商人の銀貨を着服した。セトックはザディッグに、この困った事を打ち明けた。ザディッグは彼の相談役になった。「どこでこの恩知らずに、五百オンスを貸したのですか。」とザディッグが訊ねた。「オレブ山の傍の大きな石の上で。」と商人が言った。「貴方の債務者は、どういう性格をしているのですか。」とザディッグは言った。「詐欺師のような性格だ。」とセトックが言った。「私はこの男が、短気であるか冷静であるか、慎重であるか軽率であるかを、お訊きしたいのですが。」「すべての悪い支払い人のうちで、こいつぐらい短気な男は私は知らない。」とセトックは言った。「では私に、裁判官の前で、貴方の事件の弁護をさせて下さい。」とザディッグが言った。実際、彼のそのヘブライ人を法廷に召還し、裁判官に次のように言った。「平等の王座の枕もご照覧あれ。私は、私の主人の名において、この男に五百オンスの銀貨の返却を要求するものです。この男はこの金を返そうとしないのです。」「貴方には証人がありますか。」「いいえ、証人達は死んでしまいました。しかし、大きな石は残っています。その上で、銀貨が支払われたのです。そこで、もし閣下がその石を見つけに行くようお命じになって下されば、私はその石が証拠になってくれる事と期待しております。ヘブライ人と私は石が来るまで此処に残りましょう。私の主人のセトックの費用で、その石を捜しにやりますから。」「よかろう。」と、その裁判官は答えて、他の事件を片付け始めた。他の事件の審問が終わった後で、「ところで君の言っている石はまだ来ないのか。」と裁判官はザディッグに言った。そのヘブライ人は笑いながら言った。「裁判官閣下が明日まで此処にいらっしゃったとしても、その石は着かないでしょうよ。と言うのは、その石は此処から六マイル以上も離れた所にありますし、それを動かすには十五人の男が必要ですからな。」ザディッグは叫んだ。「さあ、その石が証拠を持っていると閣下に申し上げた通りでしょう。と言うのは、その男は石が何処にあるかを知っているのですから。彼は石の上で銀貨が支払われたと言う事を白状したのです。」ヘブライ人は狼狽して、全てを白状せざるを得なかった。裁判官はそのヘブライ人に、五百オンスを返却するまでは、飲み物も食べ物も与えられずに、その石に繋がれるよう宣告した。まもなくその金は支払われた。
 奴隷のザディッグとその石は、アラビアで大評判になった。


 火炙り

 セトックは大喜びで奴隷のザディッグを親友として待遇した。セトックはバビロンの王がザディッグなしではすまされなかったより更に、彼なしではすまされなかった。それに加え、ザディッグはセトックが独り身であったので喜んだ。ザディッグは主人のセトックが、善良で、正直で、分別のある事を知った。しかし彼はセトックが、「天の軍隊」、即ち、太陽、月、星々を、アラビアの古い習慣に則って、崇拝する事が気にいらなかった。ザディッグはその事を度々セトックに用心深く話した。とうとう彼はセトックに言った。それは物体に過ぎないのだ、と。つまり、木や岩と同じように、貴方の尊敬に値しない、ただの物体に過ぎないのだ、と説明した。しかしセトックは言った。「天の軍隊は、私達がそこから全ての利益を引き出している永遠の存在なのだ。彼らは自然を動かし、季節を調節し、それに我々よりもあまりに遠くにあるので、彼らを尊敬せずにはいられない。」「貴方は紅海の水からの方がもっと多くの幸せを受けていますよ。」とザディッグは答えた。「その紅海の水は貴方の商品をインドへ運んで行くではありませんか。紅海はどうして星と同じくらい古い物であってはいけないのですか。そしてもし貴方が、貴方から遠く離れた物を崇拝するのなら、ガンガリッドの土地を崇拝しなければならないでしょう。何故ならそれは地の果てにあるではありませんか。」「いいや」とセトックが言った。「我々は星々を崇拝せざるを得ない。それぐらい彼らは美しく輝いている。」夜がやって来ると、ザディッグは、彼がセトックと夜食を食べる事になっているテントの中に、非常に沢山の蝋燭を灯した。そして彼の主人が姿を見せるや否や、彼は輝く蝋燭に向かって言った。「永遠の輝かしい光よ、常に私に幸福を与え給え。」この言葉を言いながら、彼はセトックを見ずにテーブルについた。「君は一体何をしているのだ。」と驚いてセトックは彼に言った。「私は貴方と同じようにしています。」とザディッグは答えた。「私はこの蝋燭を崇拝し、彼ら(蝋燭)の主人と、私の主人をなおざりにします。」セトックはこの寓話の深遠な意味を理解した。彼の奴隷の思慮分別が彼の魂の中に入った。彼はもう創造物に対して彼の称賛を惜しまないという事はなくなり、創造主たる神を崇拝した。
 その頃エジプトにはスキチアから発生した一つの習慣があった。その習慣はブラクマンの信仰の為に、インドで確立されたものであるが、殆ど全東洋に浸透していた。その習慣とは即ち、一人の既婚の男が死に、彼の愛した妻が聖者となる事を望む時には、彼女は公衆の前で夫の死体の上で自分を火炙りにする事であった。これは「寡婦の火炙り」と呼ばれる荘厳な祝いであった。火炙りになる女が多い部落ほど尊敬を受けた。セトック一族の一人のアラビア人が死んだ。その残された妻は、アルモナという名前であったが、たいそう信心深い女だった。彼女は太鼓を鳴らし、ラッパを吹き、火の中に身を投げる日時を知らせた。ザディッグはこの酷い風習がいかに人間の幸福のためにならないかを、セトックに説いて聞かせた。国に子供を与え、或いは少なくともその子供達を育てることが出来る若い寡婦達が、毎日焼かれてゆくのを黙って許していることが、如何に悪い事かを。ザディッグはセトックに、もし出来る事なら、この野蛮な風習を止めなければならないと説き伏せようとした。セトックは答えた。「女達が身を焼かれる風習は、千年以上も前からの事だ。我々の一体誰が、時が確立した法というものを、敢えて変える事が出来よう。古くからの習慣ほど尊敬すべきものが他にあろうか。」「理性の方がもっと古いです。」とザディッグは言い返した。「部落の長に話して下さい。私はこの若い寡婦に会いましょう。」
 ザディッグはその寡婦に会いに行った。そして彼女の美しい事を褒めて、彼女の心の中にそっともぐり込み、このような魅力のある軆を火で焼き滅ぼすのは、何という損失でしょう、と彼女に言ったのち、さらに彼女の貞節と勇気を褒め称えた。「それでは、貴女はとてもご主人を愛していたのですね。」と彼は彼女に尋ねた。「私が? 全然愛していませんでした。」とそのアラビア女は答えた。「あの人は野卑で、妬み深くで、我慢ならない人でした。でも私は火の中に飛び込む事をはっきり決心しているのです。」ザディッグは言った。「生きた儘で焼かれるのには、おそらく、とても心地よい楽しみがあるに違いありませんね。」その女は、「ああ、その事は、思っただけでも身震いする程恐ろしいのです。でも我慢しなければなりません。私は信心深いのです。もし私が火炙りにならなければ、私は評判を落とすでしょう。みんなが私の事を笑うでしょう。」ザディッグは彼女が他人の為に、ただ見栄の為に、火炙りになろうとしているのだと理解させ、いくらかでも命を大事に思うようになるよう、長い間彼女に話したので、その事を彼女に話した人、つまりザディッグに、好意を起こす事にさえ成功した。「もし自分の身を焼き滅ぼすという虚栄が貴女を捉えないとしたら、結局貴女はどうしますか?」とザディッグが言うと、「ああ、きっと貴方に、私と結婚して下さいとお願いしているところですわ。」
 ザディッグはアスタルテの考えで一杯であったので、この宣言をうまくごまかして、すぐに長(おさ)達のところに行き、今起こった事を話した。そして、一人の若い男と膝を突き合わせて丸一時間話をした後でなければ寡婦達に、自分の身を焼き滅ぼす事を許さないという法律をつくるようにと勧めた。この時から、アラビアにおいては、一人の女性も自ら火炙りにかかる事はなくなった。何世紀も続いてきた、このように厳しい慣習をただの一日で廃止出来たのは、ザディッグ一人の功績である。従ってザディッグは、アラビアの恩人なのである。


 夕食

 知識のかたまりのようなこの人物と分かれることの出来ないセトックはバルゾラの大定期市に彼を連れて行った。そこには、住居可能なあらゆる土地の、最も大きな商人達がやって来ることになっていた。いろいろな国の沢山の人が、同じ場所に集まるのを見るのは、ザディッグにとって非常な慰めであった。彼には宇宙が、バルゾラに集まる一つの大家族のように思われた。翌日になると彼は、エジプト人やガンガリッド地方のインド人、カテイに住む中国人、ギリシャ人、ケルト人、それにいくつかの他の国の人々とテーブルについた。彼らはアラビア湾の方へ度々旅をしている中に、自分を理解してもらうことが出来る程度にアラビア語を充分に習得していたのだった。「バルゾラはなんて厭な国なんだ。」と彼は言った。「人々は私の、世の中で最も素晴らしい商品に対して、千オンスの金を拒んだのだ。」「何ですって? どの様な商品に対して人々はそれだけの金を拒んだのですか?」とセトックは言った。「私の伯母の身体に対してですよ。」とエジプト人は答えた。「彼女は大層立派なエジプト女性でした。彼女はいつも私に同伴していて、此処へ来る途中で死んだのです。私はその死体を使って、この世で最も美しいミイラを作りました。私の国だったら、私がそれを抵当にすれば、欲しいだけの金額を手に入れる事が出来るのに。こんなに確実な物に対して、此処ではたった千オンスの金さえ私に与えようとしないのは大変おかしなことだ。」こう言って、かんかんに怒りながら、彼は立派な雌鳥の茹で肉を手で掴んで食べようとした。その時インド人はその男を手で掴まえながら、悲しみを込めて叫んだ。「ああ、貴方は何をするのですか。」「この雌鶏の肉を食べるんだよ。」とミイラの男が言った。「少し気をつけなさい。」とガンガリッド人(インド人)が言った。「死んだ人の魂がこの肉に宿っている場合があり得るのだ。貴方は自分の伯母さんを食べるような目に会うことは好まないでしょう。雌鶏を煮ること、これは明らかに自然を冒涜する事だ。」「貴方は自然と鶏について何が言いたいのですか。」と怒りっぽいエジプト人がやり返した。「我々は牛を崇拝するし、それをよく食べもするのだ。」と言った。「貴方は牛を崇拝するって? そんな事が可能だろうか。」とガンジの男(インド人)が言った。「これほど可能な事はない。当たり前の事じゃないか。」と、こちらの男が言い返した。「我々は十三万五千年も、そのように暮らして来たし、我々のうち一人としてこれに反対した者はいないのだ。」「ええっ? 十三万五千年?」インド人は言った。「その計算は少し大袈裟だ。だってインドに人が住んでから八万年しか経っていないし、我々が貴方方の祖先である事は確かなんだから。ブラーマは貴方方がそれ(牛肉)を供物台にのせたり、焼き串に刺したりするように教える前に、我々にそれを食べる事を禁じたのだ。」「君達のブラーマは、我々のアピに比べると、面白い動物だなあ。」とエジプト人は言った。「それで君達のブラーマはどんな立派な事をしたのです?」バラモンは答えた。「ブラーマは人々に読み書きを教えてくれた。また、世界はそれの御陰でチェスを知った。」「貴方方は間違っている。」彼らの傍にいたカルデア人が言った。「人々がこのような大きな恩恵を受けているのは、オアンネスという魚がいるからだ。この魚にだけ感謝を捧げるというのが正しい事なのだ。誰でも次の事を貴方方に教えてくれるだろう。つまりこの魚は神聖な動物で、金の尾を持ち、人間の頭をして、一日に三時間、世界に説教するために水の中から出てくる、という事を。彼は幾人かの子供を持っており、誰もが知っているように、この子供達が各国の王達なのだ。私は礼儀正しく、彼、オアンネスの肖像画を家に持っていて、これを尊んでいる。人は欲しいだけ沢山牛肉を食べる事が出来る。しかし魚を焼く事は確かに大変不道徳な事だ。それに、君達は二人共、私と議論するに足るほど高貴な生まれでもないし、家柄も新しすぎる。エジプトは十三万五千年しか歴史を持たないし、インドは高々八万年の歴史を誇っているにすぎない。一方我々は、四千世紀という歴史を持っている。私の言う事を信じ、君達の下らない議論を止めよ。そうすれば私は君達一人一人に、オアンネスの美しい肖像画を与えよう。」
 カンバリュの人(中国人)は口を切って言った。「私はエジプト人を、カルデア人を、ギリシャ人を、ケルト人を、ブラーマを、牛を、アピを、美しい魚オアンネスを、大変尊敬します。しかし、理は、これは天と言っても良いのですが、(ヴォルテール註  LIは「理性」、TIENは「天」または「神」の意。)これは貴方方の牛や魚と同じほどの価値があると思います。私は私の国について、何も引き合いに出す積もりはありませんが、私の国はエジプト、カルデア、インド諸国を合わせたほどの大きさの土地なのです。私は古さでは争わない積もりです。何故なら、幸福であれば充分であり、古いという事は些細な事だからです。しかし年代記を話さなければならないのなら、私は全アジアが我々の年代記を採用しているという事、そしてそれも、カルデアの人々が算術を知っていた以前から、非常に良い年代記を持っていたという事を言わなければなりません。」
「君達はみんな大馬鹿だ。」とギリシャ人は叫んだ。「君達は混沌が全ての父である事を、また形相と質料が世界を現在の状態にしたのだという事を、知らないのではないか。」そのギリシャ人は長口舌をふるった。しかし彼はとうとうケルト人に遮られた。このケルト人は、人々が争っている間に酒を沢山飲んだので、他の誰より自分が学識があると思い込んでいた。そして彼は誓って言った。話す価値のあるものはチュタと、樫の宿り木しかないと。自分はどうかと言うと、常にポケットに宿り木を持っていると。彼らの祖先のスキチア人は、過去の世界で、唯一の素晴らしい人間であったと、なるほど時々は人間を食べたが、その事がその国民に多大の尊敬を払う妨げには、何らならないと、そして最後に、若し誰でもチュタの事を悪く言う奴がいれば、その男の不作法を窘(たしな)めよう、と言った。その時議論が激しくなり、セトックは今にもテーブルが赤い血で染まりそうに思えた。ザディッグはこの論議の間中、ずっと黙っていたが、とうとう立ち上がった。彼はまづ、一番腹を立てていたケルト人に向かって言った。君の言う事は尤もだ、と。そして宿り木を見せてくれと言った。それからギリシャ人の雄弁を称賛し、その場の興奮した雰囲気を和らげた。彼はカテイ人に対してはあまり喋らなかった。と言うのは、彼がその場の人々の中で、最も理屈が通っていたからである。ザディッグは言った。「諸君、君達は何でもないことを議論している。何故なら君達は、全部同じ意見を持っているのだから。」この言葉に対して彼らは一斉に叫んで非をならした。「そうでしょう?」と彼はケルト人に話しかけた。「貴方はこの宿り木を崇拝しているのではなく、宿り木と樫の木を創った人を崇拝するというのが本当ではありませんか?」と。「その通りだ。」とケルト人は言った。「それからエジプトのお方、貴方は明らかに、牛の中に、貴方に牛を与えてくれたものを尊敬しているのでしょう?」「そうだな。」とエジプト人が言った。「オアンネスだって、海と魚を創った人に対しては、一歩譲らねばならないでしょう。」と彼は続けて言った。「同意見だ。」とカルデア人が言った。ザディッグは続けて、次のように言った。「インド人とカテイ人は貴方と同じ様に最初の原理を認めています。私はギリシャ人の言っていた感嘆すべき物はあまりよく分かりません。しかし形相と質料もやはり神によって作られているのだから、彼がまた、神を認めるだろうと確信しています。」ギリシャ人はザディッグが自分の考えを大変よく理解してくれているようだと言った。「貴方方はだから、みんな同じ意見なのです。従って、お互い議論するようなことは何もないのです。」とザディッグが言った。誰もが喜んでザディッグを抱いた。セトックは彼の商品を非常に高く買った後で、自分の部落へ友人ザディッグを連れ帰った。着いてみてザディッグは人々が彼の留守中に、自分の裁判をした事を知った。そして彼が小さな火で火炙りにされる事を知った。


 逢引

 ザディッグのバルゾラへの旅の間に、「星の僧侶」達は、彼を罰する事を決めていた。彼らが火炙りへと送り込む若い寡婦達の宝石類や装飾品は、法律によって彼らのものになっていたのだった。だからザディッグが彼ら僧侶達にやってのけた事の故に、彼らが怒ってザディッグを焼き殺す、こんな事は彼らにとって全く何でもない事だった。僧侶達はザディッグが「天の軍隊」に関して誤った考えを持っているという理由で罪を着せた。そして、彼らはザディッグを告訴して次のように神かけて誓ったのである。「私共はザディッグが、星々が決して海の中に沈まないと言っているのを聞きました。」この恐るべき、神を冒涜する言葉は、裁判官達を仰天させた。裁判官達はその不信心な言葉を聞いた時、彼らの着物を引き裂かんとするほどだった。そしてもしザディッグが着物代を持っていたら、彼らは確かに破っていたことだろう。裁判官達はかんかんに怒ってはいたが、ザディッグを小さな火で火炙りにする事で我慢した。セトックは絶望して、友人を救う為に財産を使ったが、無駄だった。そしてついには口を閉じる事を余儀なくされた。若いやもめのアルモナは、生きる事に大変執着を持っていて、ザディッグに対しては、非常な恩義があった。そこでザディッグを火炙りから救おうと決心した。ザディッグが彼女に火炙りの誤りを教えたのだったから。彼女は誰にも話す事なく、頭の中で構想を練った。ザディッグはその翌日に処刑される事になっており、アルモナは彼を救う為には、その一夜しかなかった。情け深く、慎重な女として振る舞った彼女の行為は次のようなものであった。
 彼女は身に香水をつけ、最も見事で派手な化粧をして自分を引き立たせ「星の僧侶の長」に、密かな会見を頼みに行った。彼女はこの崇め尊ぶべき老翁の前に出ると、次のように言った。「大熊の第一子、雄牛の兄弟、大犬の従兄弟よ、(これがこの大司祭の称号であった。)私は、貴方に私の心配事を打ち明ける為にやって来ました。愛しい夫を火葬にする薪の中で私の身体を火炙りにしなかったという大きな罪を犯した事が、私は非常に恐ろしいのです。実際私は何を守らなければならなかったのでしょう。こんな一個の果敢ない、そして既に全く衰えた肉体でしかないのに。」この言葉を口にしながら彼女は、彼女の裸の腕を絹の長い袖から引き出した。それは素晴らしい形をしており、また目映いばかり白かった。「ご覧なさい。」と彼女は言った。「たいした価値はありません。」司祭はそれが非常に価値あるものである事を、心の中で発見した。彼の目はこれを言い、彼の口はこれを確証した。彼は、「このように美しい腕は今までに見た事がない。」と言った。「腕は他のものよりは少しはましです。しかし貴方は私の胸は注目に値しないという事を認めるでしょう。」そう言って彼女は自然がかって形づくったもののうちで最も魅力のある胸を見せた。彼女の乳房の薔薇色に比べたら、象牙で作った林檎の上の薔薇の蕾でさえ、柘植(つげ)の上の茜ぐらいにしか見えなかったであろう。彼女の胸の白さに比べたら沐浴から出て来た子羊でさえも黄色く褐色がかったものにしか見えなかったであろう。その胸、悩ましい光を放つ黒い大きな瞳、純粋な牛乳の白さを混合した美しい赤い、生き生きした頬。鼻、それはレバノン山の塔のように大きすぎはしなかった。彼女の唇、それはアラビアの海の美しい真珠を隠している真紅の珊瑚のようで、全体として彼女は二十歳そこそこであろうと老人には思われた。彼は優しい驚きの声を上げた。アルモナは老人が情欲に燃えたのを見て取り、ザディッグの許しを乞うた。「ああ!」と彼は言った。「私の可愛い女よ、私が貴女に許しを与えたとしても、私の寛大さは何の役にも立たないだろう。私の他の三人の同僚に署名して貰わねばならないのだ。」「とにかく署名して下さい。」とアルモナは言った。「喜んで。」とその僧は言った。「私のこの寛大さが、貴女の好意によって償われる、という条件で。」「貴方は私に大層名誉を与えて下さいました。」とアルモナは言った。「日が沈み、光り輝くシート星が地平線に出るとすぐ、私の部屋へ来て下さい。貴方は薔薇色のソファの上にいる私を見出すでしょう。そして貴方は私を、貴方の召使同様に、扱う事になりますわ。」それから彼女は署名を持って出かけた。老人には恋心を沸き立たせ、自分の(昔の若い)力に再び挑戦しようという気持ちを抱かせたまま。彼は一日の残りを入浴に使い、セイロンの肉桂の皮と、ティドールとテルナットの高価な香辛料の入った飲み物を飲んで、シート星が昇って来るのを苛々して待っていた。
 その間に美しいアルモナは、二番目の司教に会いに行った。司教は言った。彼女の魅力に比べると、太陽や月や、空にある全ての光は、小さな鬼火にすぎない、と。彼女は第一の司教に対したと同じ恩赦を頼んだ。すると彼は、彼女に代償を出すように要求した。彼女は説き伏せられるが儘になり、二番目の司教に、アルジェニブ星が昇る時の逢引を約束した。それから彼女は三番目と四番目の僧の家に行き、前と同じように署名を貰い、星から星へと時間を決めて逢引の約束をした。そして彼女は裁判官達に、重要な問題があるので、彼女の家へ来て欲しいと頼んだ。彼らはやって来た。彼女は裁判官達に四人の署名を見せた。そうして何を代償に僧達がザディッグの恩赦を売り渡したかを説明した。彼らはめいめい、決められた時間にやって来て、そこに自分の同僚達を見つけて大変驚いた。そしてそれにもまして、裁判官達を見つけて驚いた。彼らの前で、自分達の不名誉は暴露されたのである。ザディッグは救われた。セトックはアルモナの奸計にとても感心したので、彼女を自分の妻にした。ザディッグは美しい彼の救い主の足元に身を投げた後、立ち去った。セトックと彼は、永遠の友情を誓い、そして二人の中で初めに一財産つくった方が、もう一方に分けてやるという約束をした後、涙を流しながら別れた。ザディッグはシリアの方に歩みを向けた。相変わらず不幸なアスタルテの事を考え、片意地に彼を玩(もてあそ)び、迫害する運命の事を思い巡らしながら。「やれやれ、」彼は言った。「一匹の犬が通ったのを見た為に四百オンスの罰金を食らったり、王を賛美したまづい四行詞の為に、首斬りの刑の判決を受けたり、王妃が私の帽子の色と同じ色のスリッパを持っていた為、危うく絞め殺されそうになったり、叩かれていた女を助けた為に奴隷の身分に落ちたり、おまけに、若いアラビア人のやもめ全部の命を救った為に、火炙りにされそうになったりするなんて。」


 山賊<BR>
 シリアと中央アラビアを分け隔てている国境に着いた時、彼はかなり堅固に作られている城の近くを通った。その時、武装したアラビア人達がそこから出て来た。彼は自分が取り囲まれるのを見た。アラビア人達は叫んだ。「お前の持っているものは全て我々のものだ。そしてお前の身柄は我々の頭のものだ。」ザディッグは返答の代わりに剣を抜いた。彼の勇気ある従者も同じようにした。二人は彼らに手をかけた初めの二、三人を殺した。敵の数は二倍になった。しかし二人は驚かなかった。そしてこの戦いの中で死ぬのだと覚悟を決めた。沢山の人間を相手にして、たった二人が戦っているのである。このような戦いは長く続く訳がなかった。城の頭、彼はアルボガッドと呼ばれたが、彼はザディッグが行っている豊富な価値を窓から見て取り、ザディッグに対して尊敬の念を抱いた。彼は急いで降りて行くと、彼自ら部下達に手をひかせ、二人の旅行者を救い出した。「俺の土地の上を通った物は全て俺の物であり、また他人の土地で見つけた物も同様に俺の物だ。しかしお前はなかなか勇敢な奴のようだ。だからこの二つの掟を免除してやろう。」彼はザディッグを城の中に入れ、彼の部下に、親切にもてなすようにと命じた。夕方、アルボガッドがザディッグと夕食をとる事を望んだ。
 城の頭は、人々が「山賊」と呼んでいるところのアラビア人達の一人であったが、多くの悪事を重ねる中に、良い事もする、強欲非道に盗むかと思えば気前よく与える。行動は大胆だが取引は控え目、食事中はだらしないが、そのだらしない中に、陽気さ、特に率直さが満ち溢れていた。彼はザディッグが大変気にいった。会話は弾み、食事を長引かせた。とうとうアルボガッドはザディッグに言った。「俺はお前に、俺の部下に加わるよう忠告する。これより良い事は有り得ない。この仕事は悪くない。お前も何時かは俺のようになれるかも知れん。」ザディッグは答えた。「訊いていいかな、君は何時からこの高尚な職業をやっているのか。」「全く小さい頃からだ。」と城の主は答えた。「俺はなかなか才能のあるアラビア人の従者をしていた。俺の地位は俺には耐えられなかった。人間に平等に分け与えられているべき領地全体の中で、運命が俺の取り分を全く残しておいてはくれなかったという事を見て、俺は絶望した。俺はこの苦しみを、ある年老いたアラビア人に話した。彼は俺に話して聞かせた。「若者よ、絶望するな。昔、ある砂粒があった。その砂粒は自分が砂漠の真っ直中で、誰にも無視されているちいさなかけらにすぎない事を悲しんでいた。何年か経った後、その砂粒はダイヤモンドになり今ではインドの王様の王冠を飾る最も美しい宝石となっている。」この話は俺を大変感激させた。俺は砂粒だった。が、ダイヤモンドになろうと決心した。俺はまず馬を二頭盗む事から始め、友達を仲間に引き入れた。俺は小さな対象を襲うようになった。こうして、最初俺と普通のやつらとの間にあった不公平を少しづつなくしていったのだ。俺は世界の中での俺の取り分を十分手に入れた。さらに、利子も一緒に取り戻してやった。人々は俺をたいしたもんだと考えるようになった。俺は山賊の頭となり、この城を力によって奪い取った。シリアの大守はそれを俺から奪おうと思った。だが俺はもうすでに、恐れるものは何もないくらい金持ちになっていた。この方法で俺は領地を拡大した。彼はまた、俺に、中央アジアが王の中の王に支払う財務局長に任命した。俺は支払い人の仕事はせず、受取人としての仕事のみを果たした。」
「バビロンの大デステルハムは、モアブダール王の名で、俺を絞め殺す為に、小大守を此処に送って来た。その男は命令書を持ってやって来た。俺はこんな事は百も承知だった。俺は奴の目の前で、彼の連れて来た死刑執行人四人を絞め殺した。その後で彼に、俺を絞め殺す命令を、幾らで引き受けて来たのかと尋ねた。金貨三百にはなる筈だった、と奴は答えた。俺はそいつに、俺と一緒ならもっと儲かる筈だと、明らかに示してやった。俺は奴を山賊の下っぱにしてやった。今では最も位の高い頭の一人になっている。そして最も金持ちの一人にだ。もしお前が俺の言う事を信じれば、お前も奴と同じ様に成功するだろう。モアブダールが殺されて、バビロンがすっかり混乱状態になってからは、これ程盗みにとってよい時期はないからな。」
「モアブダールが殺されたって? それで、王妃のアスタルテはどうなったんだ。」とザディッグは言った。「俺はその事については全然知らない。」とアルボガッドは答えた。「ただ俺が知っているのは、モアブダールが気違いになり、殺されて、バビロンはひどく危険な場所となった。帝国は荒廃し、まだやろうと思えばいくらでも盗みの良い手が残っている。そして、俺は俺の分け前分はちゃんと見事に取り返した、という事だけだ。」「で、王妃は? 頼む。君は王妃の運命については何も知らないのか。」とザディッグは言った。彼は答えて、「人から、イルカニー公爵についての噂を聞いたが、王妃は、彼の妾達の中にいるのではないかな。王妃が、あの混乱の中で殺されていない時の話だが。しかしこんな噂話より、俺は分捕り品の話にもっと興味がある。俺は生涯、何人もの女を捕まえたが、どの女も引き止めてはおかなかった。彼女らが美しい時には、彼女らが何者であるかを知る事なく高く売りつける。人は地位を買いはしない。醜かったら王妃でも買い手はつかない。俺は王妃アスタルテを売ったかもしれないし、王妃は死んでしまったかもしれない。しかしそんな事はどうでもいい。俺にまかせておけ。お前がそれを心配するなんて必要ないさ。」このように話しながら、彼は非常な豪傑ぶりで酒を飲んだ。彼はあまりに多くの事をごちゃ混ぜにしたので、ザディッグはその話からいかなる解釈も引き出す事は出来なかった。
 ザディッグはどぎまぎし、圧倒され、じっとした儘だった。アルボガッドは相変わらず飲んで話をしており、絶え間無く、彼が人類で一番幸福であると繰り返した。そしてザディッグに、彼と同じ様に幸福にならなければならんと説いた。とうとう葡萄酒の湯気に酔ってまどろみながら、彼は静かな眠りに落ちていった。ザディッグはその夜、激しい不安のうちに過ごした。「何だって。王が気違いになったって! 王が殺されたって!」と彼は言った。
「私は王の事を悔やまないではおれない。帝国は崩壊し、この山賊は幸福だ。おお、運命よ、宿命よ、山賊みたいなものが幸福でいるのに、自然が最も愛すべき性質を与えた人が恐ろしい死に方をしているかもしれない、あるいは死よりももっと悪い状態で生きているかも知れないなんて。おお、アスタルテ、貴女はどうなってしまったのだ。」
 翌朝早くから、彼は城で出会う人毎に訊いてみたが、皆忙しく、誰も答えてくれなかった。彼らは昨夜また略奪に行って、分捕り品の山分けをしていたからだった。彼がこの騒々しい混乱の中で得たのは、出発の許可だけだった。彼はその許可をすぐに利用したが、辛い思い出に、今までよりもっと悲しみに沈んだのだった。
 不幸なアスタルテ、バビロンの王、親友カドール、幸福な山賊アルボガッド、エジプトの国境でバビロニア人達が連れ去って行った気まぐれな女、つまり自分が経験したあらゆる不時の出来事、不運、を思い浮かべ、心はこれらの事で一杯になり、不安な気持ちで心も落ち着かず、ザディッグは旅を続けた。


 釣り人

 アルボガッドの城から何里か離れた所で、ザディッグは相変わらず自分の運命を嘆き、自分を不幸の見本であると思いながら小川の岸に佇(たたず)んでいた。その時彼は、川岸に寝ころんでいる一人の釣り人に気がついた。その釣り人は衰えた手でどうにか釣り糸を持ち―――それを捨てているかのように見えたが―――空の方へ目を向けていた。「私はきっと全ての人間のうちで、最も不幸な男だ。」とその釣り人は言っていた。「私は―――誰もが認めているが―――バビロンで最も有名なクリームチーズの商人だった。それなのに破産してしまった。私には、私程度の男が持てる、最も美しい妻がいた。私はその妻に裏切られた。私にはつまらぬ家が一つ残っていたが、その家は略奪され、壊されてしまった。私は小屋に引き籠もった。財産としては、釣り糸しか残っていなかった。そして魚は一匹も釣れない。おお、私の釣り糸よ。私はお前を水の中に投げ込みはしない。投げ込むのは私自身だ。」そう言いながら彼は立ち上がった。それは急いで自分の命を終わらせようとしている人間の態度であった。「ええっ、何だって? じゃあ、この世には私と同じ位不幸な人間がいるのか。」とザディッグは独り言を言った。この釣り人を救おうという決心は、この考えと同じ位早かった。彼は釣り人の所へ走り寄り、優しい慰めるような調子で話しかけた。人は、自分が一人でない時は、不幸な気持ちが減ってくる、と人々は言っている。しかしゾロアストルによれば、これは悪意によってではなく(他人の不幸を喜ぶという意味ではなく)それは要求によってである。(慰めあう気持ちによるのだ。)そういう時には、人は自分に似ている者として、不幸な者に引きつけられる。幸福な人間の喜びというものは侮辱でもあり得るが、二人の不幸な人間は、あたかも弱い小さい二本の木のように、互いに寄り掛かりあいながら、嵐に対して結束させるのだ。「何故君は不幸に対して自分を負けた儘にしておくのか。」とザディッグはその釣り人に言った。「何故って万策尽きてしまったからですよ。」と彼は答えた。「私はバビロンの近くのデルブラック村で、最も尊敬されていました。そして妻の手を借りて、国で最上のクリームチーズを作っていました。アスタルテ王妃と、あの有名なザディッグ大臣は、非常にそのチーズを好んで下さいました。私はその方々のお屋敷に、六百のチーズをお渡ししました。ある日私は、お代を頂戴しに町へ行きました。私はバビロンに着いて、王妃様とザディッグ大臣はいなくなられた事を知ったのです。私はザディッグ様のお屋敷へ急ぎました。そのお方に私はお目にかかった事はありませんでした。私はそのお屋敷に、大デステルハムのお役人の方々が来ているのを見ました。その方々は王の書類を持ち、命令で、正当に、そのお方のお屋敷を略奪していました。私は王妃様の台所に飛び込みました。その方々は、「王妃は死んだよ。」とか、「投獄されたらしい。」とか、「どうも逃げて行ったようだ。」とかいろんな風に私に話しました。しかし全ての方々は一致して私に、「チーズの代金はもう支払われないだろう。」と、これだけは確信をもって答えたのです。私は、お得意様の一人である領主オルカン様のところに、妻と一緒に出かけました。私達は、この不都合に対して彼に保護を願い出たのです。しかし彼は妻に会う事は認めましたが、私の方は受け付けませんでした。妻はクリームチーズよりももっと白く、そして、その事は私の不幸の始まりだったのです。ティールの王位の赤い輝きも、この妻の白さを引き立てる肌の桃色よりは明るくはありませんでした。私は愛しい妻に絶望の手紙を書きました。妻は使いの者に言いました。「ああ、そうですわね。私、名前は知っていますわ、この手紙の主の。噂に聞いた事がありますもの。その人は美味しいクリームチーズを作るという噂ですわね。私のところにそのチーズを持ってらっしゃいな。そしたら、その分の代金は払ってお上げ。」
 その災いの中で(もうどうしようもなく)、私は裁判に訴えようと思いました。まだ私には六オンスの金貨が残っていました。ところが、相談する弁護人に二オンス、私の問題を扱う検事に二オンス、最高裁判官の秘書に二オンス支払わなければなりませんでした。これら全ての事が終わっても、私の訴訟はまだ始まりませんでした。そして私は、チーズや妻が値するよりも多くの金額を、既に使ってしまっていたのです。私は妻を取り戻す為に自分の家を売る積もりで、私の村へ帰りました。
 私の家は、金六十オンスの価値は充分にありました。しかし人々は私が貧乏であり、売渡しを急いでいると見てとりました。私が声をかけた最初の人は、私に三十オンスの値をつけました。次の人は二十オンス、三番目の人は十オンスでした。私が非常に分別を失い、とうとう売渡しの契約を結ぼうとした時、イルカニー公爵がバビロンにやって来て、彼の行く所全てを荒らし回りました。私の家はただちに略奪され、それから焼き払われました。
 このように、私の財産、妻、そして家、がなくなった今、私は貴方がご覧の通り、この土地に引きこもったのです。私は慎ましく、釣り人として暮らそうとしました。しかし魚は人間同様、私を嘲弄しています。私には何も釣れません。私は餓死しそうです。もし荘厳な慰め人である貴方がいなかったら、私は川に身を投げて死んでいるところでした。」
 その釣り人は、すらすらとその物語を語ったわけではなかった。というのは、興奮したザディッグが絶えず彼に訊いたから。
「ええっ! 何だって? では君は王妃の運命を何か知ってはいないか?」「いいえ、貴方様。」と釣り人は答えた。「でも私は、王妃様とザディッグ様がクリームチーズの代金を払って下さらなかった事、それから、自分の妻を取られ、絶望しているこの私の事は、よく存じております。」「私は君が、君の財産全部を失う事はないと、心密かに信じている。」とザディッグは言った。「私はこのザディッグという男の噂を聞いた事がある。彼は良い人だそうだ。もし彼が自分の望む通りバビロンに帰ったならば、恐らく君に借りている以上に、君に返すだろう。しかし君の連れ合いの事だが、あまり良くない女のようだから、取り返そうとしない方が良いんじゃないかな。そう私は君に忠告する。私を信じなさい。そしてバビロンに行きなさい。私は馬だし、君は徒歩だから、私の方が先に着くだろう。君はあの有名なカドールの所へ真っ直ぐ行き、彼に、カドールの友人に出会ったと言いなさい。そして彼の家で待っていなさい。さあ。おそらく君はこれからは、今までのように不幸だという事はなくなるだろう。」
「おお、力強いオロズマッドの神よ。」とザディッグは続けて言った。「貴方はこの男を慰める為に私を遣わされた。貴方は私を慰める為に誰を遣わされるのですか。」このように言い、彼はその釣り人に、アラビアから持って来た金の、半分を与えた。釣り人は茫然とし、次に有頂天になり、カドールの友人の足に接吻し、そして言った。「貴方は救いの天使です。」
 一方ザディッグはバビロンでの出来事を訊ね、涙を流してばかりいた。釣り人は大声で叫んだ。「おお、貴方様、貴方様もそれでは本当に不幸なんでしょうか。善行をなさる貴方様が。」するとザディッグは答えた。「君より百倍も不幸なのだ。」「でも、与えられる人より与える人の方が、嘆く事が多いなんて、どうして起こり得るでしょうか。」するとザディッグは答えた。「その理由は、君の不幸な點は物質的な事だが、私の不幸な點は心の事だからだ。」「まさかオルカンが貴方から、貴方の奥様を取り上げたんじゃないでしょうね。」と釣り人は言った。この言葉で、ザディッグはこれまでの事全てを、心の中に呼び戻した。彼は彼の不幸の一つ一つを心に繰り返した。王妃の犬から始まって、盗賊アルボガッドの家に辿り着くまでの事を。「ああ。」と彼は釣り人に言った。「オルカンは罰せられて当然だ。しかし一般に、運命のお気に入り達というのは、ああいう奴等なんだ。とにかく領主カドールの家に行き、私を待ちなさい。」彼らは別れた。釣り人は自分の運命に感謝しながら歩いて行った。そしてザディッグは自分の運命を恨みながら馬を走らせた。


 バジリック
 (一睨みで人を殺すという、伝説の毒蛇。)


 美しい草原に着くと、彼はそこで、一生懸命何かを捜している数人の女性を見つけた。彼は彼女らの中の一人に遠慮なく近づき、彼女らの捜しているのを手伝わせてくれと、丁寧に頼んだ。「気をつけた方がいいです。」とシリアの女は答えた。「私達の捜している物は、女性によってしか触れない物ですから。」「それは奇妙なことですね。」とザディッグは言った。「お願い出来るでしょうか、触るのは女性にしか許されていないという、その物は何か教えて下さい、と。」「それはバジリックです。」と女は言った。「バジリックですって? どういう訳でそんな物を捜そうとしているのですか。」「私達の領主で、主人のオギュル様の為なのです。その方のお城は、牧場のはずれの、あの川のほとり、此処から見えますわ。私達はその方の、賤しい奴隷です。オギュル様はご病気で、おつきの医者が、薔薇の水で煮たバジリックを食べるようお命じになりました。このバジリックは大変稀な動物で、それに、女以外によっては、捕まえる事が出来ません。それでオギュル様は、私達の中でバジリックを持って来た者を、最愛の妻とする事を約束されました。どうか私を放っておいて、私に捜させて下さい。というのは、お分かりでしょう。もし友達に先んじられたら私、辛いんですもの。」
 ザディッグは、このシリアの女と他の女達に、バジリックを捜している状態の儘にしておき、牧場の中を歩き続けた。小さな川のほとりに着いた時に、ザディッグは、そこに別の一人の女が芝の上で寝ているのを見つけた。その女は何も捜していなかった。彼女の身体つきは、威厳があるように思われたが、顔はベールで覆われていた。彼女は小川の方に身を傾けていたが、深い溜め息がその口から漏れた。彼女は手に小さな棒を持っており、それで芝草と小川の間にある細かな砂の上に文字を書いていた。ザディッグは彼女が何を書いているのかと不思議に思った。彼は近づいた。彼はZの文字を見た。次にA。彼は驚いた。次にDが現れた。彼は震えた。彼の名前の後の二文字を見た時の彼の驚きは並み大抵のものではなかった。彼は暫くの間、じっとしていた。そして、途切れ途切れの声でようやく沈黙を破って言った。「おお、高貴な貴婦人様、次の事を敢えてお訊ねするこの見知らぬ男、不幸な者をお許し下さい。貴女の、神のような手で書かれたザディッグの名前を私が発見しているのは、そもそもどんな驚くべき運命によるものでしょうか?」この声、この言葉に、貴婦人は、震える手でベールを上げ、ザディッグを見た。彼女は、感動と驚きと喜びの声を上げた。そして、彼女の心を一度に襲った様々な感動に抗しきれず、彼の腕の中で気を失って倒れてしまった。それはバビロンの女王、ザディッグが熱愛した人、そしてまたそうする事を咎め、彼がその人の運命を心配し悲しんだアスタルテその人であった。彼は一瞬感覚を失った。彼は、再び開いた彼女の困惑と愛情の混ざった眼に、視線を注いで、次のように叫んだ。「おお、力弱き人間の運命を支配する、不滅の力よ、私にアスタルテを返してくれるのか。今、此処で、このようにして、再び会う事が出来たとは。」彼はいきなりアスタルテの前に跪(ひざまず)き、彼の額を彼女の足の埃にすりつけた。バビロンの女王アスタルテは、彼を立たせて小川の縁に坐らせ、再び溢れ出てきた涙を、幾度も拭った。彼女は苦しい声に中断されながら、二十度も言葉を続けて、二人をこのように会わせるようにした運命について訊ねたり、そうかと思うと、急に彼の返事も聞かないで、他の質問に移ったりした。又、自分の不幸な物語を語り始めたかと思うと、ザディッグの不幸も知りたいと思ったりした。とうとう二人とも少し心の混乱を落ち着かせる事が出来、ザディッグは彼女に、どのような経過で自分がこの草原にいるかを、言葉少なに語った。「しかし、ああ、不幸な、そして高貴な王妃様。どうして私が、こんなに人里離れた場所で、奴隷の恰好をし、他の女奴隷達と一緒にいる貴女を、見つける事になったのでしょう。医者の処方に従って、薔薇の水で煮る為のバジリックを捜している女奴隷達と一緒にいる貴女を。」美しいアスタルテは言った。「女達がバジリックを捜している間に、私が苦しんだ事すべてを、そして私が貴方に再びお会いして、天に許しを乞わなければならなかった事全てを、お話ししましょう。私の夫である王は、貴方が人間の中で最も愛すべき人である事を、けしからぬ事と思っていたのは御存知ですわね。そしてその為に王は、ある夜貴方を絞め殺させ、私を毒殺する事を決心したのです。貴方は私の小さな唖が、国王陛下の命令を私に警告してくれるのを、天がどのように許してくれたか、も御存知ですわね。忠実なカドールが無理矢理に貴方を私の指図に従わせ、直ちに出発させた後すぐ、彼は勇敢にも夜中に、秘密の出入口を通って私の家に入って来ました。彼は私を宮殿から連れ出し、オロズマッド寺院に連れて行きました。そこで、彼の兄弟のマージ僧が、私を、裾が寺院の基礎に触れており、頭が丸天井まで達している巨大な立像の中に閉じ込めました。私はそこに埋葬されたも同然でしたが、マージ僧によってかしずかれ、必要なものは何も欠けていませんでした。そうこうするうちに、夜明けに、陛下の薬剤師が、ヒヨス、アヘン、毒人参、黒いヘレボルス、それにトリカブト、の混じった水薬を持って、私の部屋へ入って来ました。一方、別の役人が、青い絹の紐を持って、貴方の家へ行きました。誰もいませんでした。カドールは、王への騙しをもっと完全なものにするために、二人を告発する為にやって来たふりをしました。彼は王に、貴方はインドへの道をとり、私はメンフィスへの道をとった、と言いました。王は貴方と私の後を追えと、追手を送り出しました。
 私を捜していた追手達は、私を見た事はありませんでした。私は夫の命令で、貴方以外には誰にも決して顔を見せた事がなかったのです。貴方にも、夫がいる時にしか。追手達は人々が彼らに描いてやった私の肖像画をたよりに、私を捜しました。私と同じ背丈で、多分私よりも魅力のある婦人が、エジプトの国境で彼らの前に姿を現しました。彼女は泣いて、彷徨(さまよ)っていました。彼らはこの婦人がバビロンの王妃であるに違いないと思い、モアブダールのもとへ連れて行きました。彼らの間違いは、王をかんかんに怒らせました。が、近くからよく見てみると、この婦人が大変美しい事が分かり、少し慰められました。
 彼女はミスーフという名前でした。人々はその時私に、これはエジプト語で、美しい気まぐれ女という意味だと言いました。彼女は本当にその通りでした。しかし、気まぐれと同時にまた、恋の技術も持っていました。モアブダールは彼女が気に入りました。王が、彼女を自分の妻だと宣言する程、彼女は王を服従させたのです。すると彼女の性格が全て露(あらわ)になりました。恐れるものは何もなく、彼女は思いつく限りの愚行に耽りました。年をとって、通風に罹っているマージ僧の長に、彼女の前で踊る事を命じました。これを拒否されるや、彼を激しく迫害しました。また彼女は自分の従者頭に、タルトを作ってくれるように命じました。従者頭が、自分は菓子製造人なんかではないといくら弁明しても無駄でした。彼はタルトを作らなければなりませんでした。そして彼を馘にしてしまいました。何故ならタルトがあまりに焦げていたからです。彼女は従者頭の職を自分の小人に、大法官の地位を小姓に与えました。このようにして彼女はバビロンを治めたのです。全ての人が私のいない事を惜しみました。国王は私を毒殺し、貴方を絞め殺させようと企んだ瞬間までは、充分立派な人物でした。が、この美しい気まぐれ女に会ってからは、放漫な愛の中に自分の徳を溺れさせたように思われました。神聖な火の大祭日の時に、彼は私の隠れていた寺院にやって来ました。私が潜んでいた立像の所で、ミスーフの為に彼は神々に祈っているのを私は見ました。私は声を上げて彼に怒鳴りつけました。「神がお前のような者の願いを聞き届けるとでも思っているのか。暴君となった国王、常軌を逸した女と結婚する為に、道理を弁えた妻を殺させようと謀った国王の願いなどを。」モアブダールは唖然とし、頭がはっきりしなくなってきました。私が与えたその神託と、ミスーフの暴虐な振る舞いが、彼の判断力を失わせるに充分だったのです。その二、三日後、彼は完全に気が狂って仕舞いました。
 天罰のように思われた彼の気狂いは、暴動の合図でした。人々は蜂起し、武器を取りました。あまりに長い間無為の放逸に沈んでいたバビロンは、恐ろしい内乱の舞台となりました。人々は私を立像から引っ張り出し、その徒党の頭にしました。カドールは貴方をバビロンに連れ戻す為にメンフィスに駆けつけました。イルカニー公爵は、この(自分にとって)不吉な報せを聞いて、早速彼の軍隊を引き連れて戻って来て、カルデアに第三の党派を作りました。彼は国王を攻撃しました。国王は彼の目の前を、あの常軌を逸したエジプト女と一緒に逃げようとしました。しかしモアブダールは刺し貫かれて死に、ミスーフは勝利者達の手に落ちました。私の不幸な運は続き、私自身もイルカニー党に捕らえられ、イルカニー公爵の前に連れて行かれました。丁度その時ミスーフも連れて来られたのです。公爵は、私の方がエジプト女より美しいと思いました。これを聞いて、貴方はいい気持ちになるかもしれませんわね。けれども公爵が私を後宮に入れようとしたと知ったら、お怒りになるでしょう。公爵は私に、「軍隊に遠征の命令を出す事にしているのだ。私は遠征に行く。それが終わったら、すぐ貴女のところへ戻って来る。」ときっぱりと言いました。私の苦しみをお察し下さい。私とモアブダール王との絆は切れ、私はもう少しでザディッグのものとなる事が出来たのです。それなのに私は、この野蛮人の軛(くびき)に掛けられてしまったのです。私は、私の地位と感情が私に与えていた全ての誇りをもって、公爵に立ち向かいました。私は、「天は、私のような運命の人間には、性格の偉大さを結び付けていて、尊敬の念が湧いてくるのを無理にも避けようとする無法者をも、一言で、また一目で、その深い尊敬の淵へ引き戻す力がある。」と、昔からよく聞かされていました。私は女王として口を利きました。しかし召使としてしか扱われませんでした。イルカニー公爵は私には一言も声をかけず、黒宦官に、私は不作法な奴だ、しかし綺麗だと思う、と話しました。彼は黒宦官に、私の世話を見るように、そして私を後宮に置くように命じました。それは、私の顔の色を生き生きとさせる為に、そして、私が彼の寵愛を受けるという安楽を彼が得るであろう日に、私が彼の寵愛に、より相応しくなるようにする為でした。「自殺します。」と私は公爵に言いました。彼は笑ってそれに答えました。「人は決して自殺をしないものだ。人はそのように出来ているのだ。」と。そして丁度オウムを鳥籠の中に入れて(安心した)人間のように、私をおいて行きました。
 世界で一番の王妃にとって、これは何という状態でしょう。そして私はつけ加えて言いたいのです。もう既にザディッグのものになっている心にとって、何という状態なのでしょう、と。」
 この言葉を聞いてザディッグはいきなり彼女の足元に身を投げて、その膝を涙で濡らした。アスタルテは優しく彼を起こし、次のように続けた。「私は自分が、野蛮人の意の儘なのだと知りました。また、気違い女と一緒に閉じ込められていましたが、その女が私を、恋敵と見ていることに気がつきました。彼女は私に、エジプトでの出来事を話しました。描写されている男の人の顔つき、その時間、その人の乗っていたらくだ、その他彼女の話した色々な経緯(いきさつ)から、彼女の為に戦った人はザディッグだと判断しました。私は貴方がきっとメンフィスにいらっしゃると思っておりました。私は後宮から逃げ出す決心をしました。「美しいミスーフ」と私は彼女に言いました。「貴女は私よりずっと楽しい人ですわ。イルカニー公爵を私よりずっと上手に慰める人だわ。私が逃げるのに手を貸して下さい。貴女はただ一人で此処を治める人ですわ。貴女から恋敵を追い出して下さい。そうすれば貴女は私にも幸福を与えてくれた事になるのですわ。」ミスーフは私の逃亡の方法について、私と相談してくれました。私はこっそり、エジプト人の奴隷とそこを抜け出たのです。
 私がアラビアの近くまで来た時、アルボガッドと呼ばれる有名な盗賊が私を奪い、商人達に売りました。その商人達は私を、領主オギュルが住んでいる宮殿に連れて行きました。オギュルは、私の正体など詮索せず、私を買いました。彼は飲食に溺れている男で、酒池肉林の大宴会を催す事しか考えず、神は自分を、食事をさせる為だけに此の世に送り込んだ、と思っています。彼は並外れた肥満体で、いつも息を切らしています。彼の医者は、オギュルの消化が好調な時は殆ど信用されませんが、食べ過ぎた時には彼を専制的に扱っています。医者は彼に薔薇の水で煮たバジリックがあれば、彼の病気を治してみせると言いました。オギュルは、彼の奴隷の中でバジリックを持って来た者と結婚すると約束しました。彼と結婚するという名誉に浴しようと一生懸命になっている奴隷達を、私がその儘放っているのが、お分かりでしょう? 私は貴方に再び会う事しか望みはなかったのです。ですからバジリックを見つけようなどと、思ってもいませんでしたわ。(訳注 この部分不明。)」
 それからアスタルテとザディッグは、長い間抑えてきた愛情のすべてを、また彼らの不幸と愛が、最も気品のある、最も情熱のある心に、起こす事が出来る所のもの全てを、語り合った。そして愛を支配する神は、彼らの言葉を、愛の星金星までもたらしたのである。
 女達はバジリックを見つけ出す事が出来ず、オギュルの家に帰った。ザディッグはオギュルの前に姿を現し、次のように言った。「貴方の全ての日々に、不死の健康が天より降りて来ますように。私は医者です。貴方が病気だという噂を聞いて急いでやって来ました。私はまた、薔薇の水で煮たバジリックを持って参りました。貴方に結婚を要求しているという事ではありません。私は、貴方が数日前から所有している、バビロンの若い女奴隷の自由を要求するだけです。そしてもし私が、偉大なオギュル領主様の健康を取り戻す事が出来ませんでしたら私がその女奴隷の身代わりに、奴隷として残る事にいたします。」
 その提案は受け入れられた。アスタルテは、頻繁に飛脚をザディッグに送り、旅行中の出来事全てを知らせると約束して、ザディッグの召使と二人で、バビロンへと出発した。二人の別れは、再会の時と同じように胸打つものであった。偉大なゼンドの書物に書いてあるように、人が再会する時、それから別れる時、は、人生における二つの大きな時である。ザディッグは王妃を、神に誓った通り愛していたし、王妃はザディッグを神に誓うまでもなく愛していた。
 一方ザディッグは、オギュルに次のように話した。「領主様、私のバジリックは食べて病気を治すのではありません。このバジリックの効き目は、毛穴を通って領主様の身体の中に入るのです。私は、膨れていて、薄い皮で出来た、小さな袋の中にそれを入れました。領主様は、あらん限りの力でこの皮袋を押さなければなりません。そして、私は一日に何回か、この皮袋をお渡ししなければなりません。この養生をして暫くすれば、私の療法の効き目が分かるでしょう。」オギュルは、最初の日からひどく息が切れて、疲れて、死ぬのではないかと思った。二日目は、前より疲れなかった。そして、以前よりぐっすりとよく眠った。一週間で彼は、昔の血気盛んな頃の力、健康、敏捷さ、それに陽気さを、取り戻した。「本当は、ボール遊びをなさっただけですよ。そして飲食を慎まれただけですよ。」とザディッグは言った。「この世の中に、バジリックなんかいない事を知って下さい。また、いつも節食と運動さえやっていれば、健康になれる事を知って下さい。そして、節食しないで健康を保とうとする事は、化金石、司法の占星術、それにマージ教の神学説と同様、幻に過ぎないという事を分かって下さい。」オギュルのお抱えの医者は、医術の為に、どんなにこの男が危険な人物であるかを感じ、薬剤師と謀り、ザディッグをあの世へ送りこんで、バジリックをそこで捜させようと、企んだ。このように彼は、善行を施すと常に罰せられる。今回も、食いしん坊領主を全快させた為に、危うく死ぬところだった。人々は彼を素晴らしい夕食に誘った。彼は二番目の料理に毒を盛られる事になっていた。しかし、最初の料理の時、美しいアスタルテからの手紙を受け取った。彼はテーブルを離れ、出発した。「美しい女性に愛されている時には、人は常にこの世における難関を切り抜けるものだ。」と偉大なゾロアストルは言っている。


 一騎討ち

 不幸な美しい女王に対しては、人々は常にそうであるが、女王アスタルテはバビロンで熱狂的に迎えられた。バビロンは当時、平静な様子であった。イルカニー公爵は既に闘いで殺されていた。戦勝者のバビロニア人は、「女王アスタルテは、民衆が王位にと選んだ者と結婚する。」と宣言した。人々は、アスタルテの夫であり又バビロンの王である者、という、この世で最高の地位が、陰謀や策謀によって得られる事、を望まなかったのである。人々は、最も勇ましく、また最も賢い人物を、王に選ぼうと誓った。町から二、三里離れた所に、きらびやかに飾られた円形観覧席で囲まれた、大きな競技場が作られた。競技者達はそこに、充分に武装して、来る事になっていた。彼らの各々は、円形観覧席の後ろに個別の部屋を持ち、そこでは誰に会ってもいけないし、誰に名前を知られてもいけない事になっていた。彼らは、槍の試合を四回行い、(幸運にも)四人の騎士に勝つ事が出来た騎士が勝ち残り、その勝ち残った者同士が次に、闘い合う事になっていた。そして最後まで残った者が、優勝者と宣言されるのだ。その優勝者は四日後に、この日と同じ鎧を着て、マージ教僧侶達によって出される謎を解きに来なければならなかった。もし彼にその謎が解けなかったら、彼は王になる資格はなく、槍の試合が再開される事になっていた。二つの試練を共に贏(か)ちとる人物を捜さねばならないのだ。何故なら人々は、自分達の王として絶対に、最も勇敢で、最も賢い人間を望んでいたからである。女王はその間中ずっと、厳しい監視の下に置かれる事になっていた。彼女はベールをつけ、ただ試合に臨席する事だけが許された。そして志願者と言葉を交わす事は許されなかった。それは依怙贔屓とか不正がないようにする為であった。
 このように、アスタルテは自分の恋人に知らせたのである。彼女の為に、どの人よりも、より多くの価値と機知を彼が示してくれる事を希望しながら。ザディッグは出発した。そして、愛の神ヴィーナスに、勇気を奮いたたせ、機知を富ましてくれるように祈った。ザディッグは試合の前日に、ユーフラテス川の岸に着いた。彼は法の命ずる通り顔と名を隠して、出場希望戦士名簿の中に、彼の楯の銘を記した。彼は休む為に、籤によって与えられた自分の個室に、行った。エジプトでザディッグを捜し当てる事が出来ず、バビロンに帰って来ていた彼の友人カドールは、彼の個室に、女王が彼に贈った一揃いの甲冑を召使に持って行かせた。また彼からの贈り物として、ペルシャで一番立派な馬も送らせた。ザディッグはアスタルテに、この配慮に対して感謝した。彼の勇気と愛は、その贈り物により、新しい力と希望を加えた。翌日女王は、宝石で飾られたテントの下の自分の席に坐った。バビロン中の、婦人、あらゆる階層の人々で、観覧席が一杯になった時、競技者達が競技場に現れた。彼らは各々、偉大なマージ教僧侶の足下に、楯の銘を置き、(順番を決める為に)籤引で楯の銘を引いた。ザディッグは一番最後であった。進み出た最初の人は、名をイトバッドと言い、大変金持ちの貴族であったが、虚栄心の強い、全く勇気のない、非常に不器用な男であった。その上、機知にも欠ける男だった。彼の召使達が、彼こそ王にならねばならぬと、彼を説得したのだ。彼の方もまた、彼らに、「私のような人物こそ、この国を統治せねばならないのだ。」と答えたのだった。そこで人々は、足の先から頭の天辺まで彼を武装させた。緑色の光沢をつけた鎧、緑の羽飾り、緑のリボンのついた槍、こういう出で立ちであった。イトバッドの馬の操り方で、天がバビロンの王権を留保していたのは、彼のような男の為ではない、と人々は直ちに理解した。彼に向かって走って来た最初の騎士は彼を落馬させ、二番目の騎士は彼を馬の尻の上に引っ繰り返した。すると二本の足は宙に浮き、両腕は広がった。イトバッドは身を立て直したが、不格好だったので、観覧者全員が吹き出した。三番目は、自分の槍も使わず、突きを食らわした後、右足を掴まえて、彼を半回転させ、砂の上に落とした。競技場の従者達は笑いながら駆けつけて、彼を鞍の上に再び乗せた。四番目の出場者は、闘いながら彼の左足を掴まえて今度は反対側に落馬させた。人々は罵声を上げながら、彼を部屋まで連れて行った。ここで彼は、法律の定めにより、夜を明かす義務があった。イトバッドは歩けない程疲れて言った。「俺のような人間には、何という冒険だろう。」
 残りの騎士達は、自分達の義務をもっと上手く果たした。続けて二人の戦士に勝った騎士がいたし、三人にまで勝った騎士もいた。しかし四人を破ったのはオタム公爵だけだった。とうとうザディッグの戦う番になった。彼は続けて四人の騎士を鮮やかな手並みで落馬させた。そこで優勝者はオタムかザディッグか、となった。オタムは青と金の鎧を着、同じ色の羽飾りをつけていた。一方ザディッグの鎧は白であった。競技場中、白い騎士の勝利を祈る人と、青い騎士の勝利を祈る人に分かれた。女王は、はらはらして、白い騎士の為に祈った。
 二人の戦士は非常に敏捷に、「突き」「かわし」を行い、互いに見事な槍の扱いを見せ、素晴らしい馬の捌きを見せたので、王妃以外の人は皆、バビロンに二人の王がいれば良いのにと思った。ついに、彼らの馬は疲れ、槍は折れた。その後のザディッグの動きは次のようなものであった。彼は公爵の後ろに回って、公爵の馬の尻に飛び乗り、公爵の身体の真ん中を掴んで地面に投げつけ、彼の代わりに鞍に乗り、のびているオタムの周りを、馬で飛び回った。観覧席の観客は皆、「白い騎士の勝ち!」と叫んだ。オタムは憤慨し、立ち上がり、剣を引き抜いた。ザディッグは剣を手に持ち、馬から飛び下りた。新たな闘いが開始された。二人は今、競技場につっ立っている。そこでは力と敏捷さのみが勝ちを得るのだ。彼らの兜の羽、腕当ての鋲、甲冑の結び目は、鋭い沢山の打撃を受けて、遠くに飛んだ。二人は、右や左、頭の上、胸の上、を突いたり、刃で切りつけたりして攻撃した。二人は、退き、前進し、間合いを計り、近寄り、掴みかかり、蛇のようにじりじり引き下がり、ライオンのように攻撃を加えた。刀がかち合う度に火花が飛び散った。とうとうザディッグは一瞬気を引き締め、立ち止まり、フェイントをかけ、オタムに突きを与え、彼を転ばせ、剣を叩き落とした。オタムは叫んだ。「おお、白い騎士よ、バビロンを統治すべき人物は君だ。」女王は喜びで有頂天になった。法律で決められていた手順に従って、青い騎士と白い騎士は、他の騎士達と一緒に、銘々部屋まで連れていかれた。唖の召使達が彼ら騎士達の世話をやき、食事を持って来た。王妃のあの小さな唖が、ザディッグの世話をしたかどうかは、読者の御想像に任せる。それから人々は騎士達を、一人で翌朝迄眠らせておいた。その翌朝に勝利者は、楯の銘をマージ教大僧侶の所に持って行くことになっていた。楯の銘をつきあわせて、自分を確認させる為である。
 ザディッグは眠った。恋しい心を胸に抱いてはいたのだが。それ程ひどく疲れていたのである。ザディッグの隣の部屋で休んでいたイトバッドは少しも眠れなかった。彼は夜中に身を起こし、隣の部屋に忍び込み、ザディッグの白い甲冑を、その銘と一緒に盗み、代わりに自分の緑の甲冑を元の場所に置いて行った。次の日が来るとすぐに、マージ教僧侶の所へ行き、鼻高々と、「何を隠そう、この私が勝利者なのである。」と宣言した。人々はこんな事を、予想だにしていなかった。しかし彼は勝利者であると宣言された。ザディッグがまだ眠っている間にである。アスタルテは、愕然とし、絶望して、バビロンへと帰ってしまった。ザディッグが目を覚ました時には、競技場はほとんど空になっていた。彼は自分の甲冑を捜した。しかしあるのは緑の甲冑だけであった。自分の側には他のものはなかった。彼はその緑の鎧を身につける他、仕方がなかった。驚き、怒り、憤慨しながら彼はそれを身につけた。そしてその恰好で外に出た。まだ競技場と観覧席に残っていた全ての人々は、彼を罵倒で迎えた。人々は彼を取り囲み、面と向かって罵った。今までにこんな屈辱的な苦痛をこうむった者はいなかったであろう。彼は堪忍袋の尾が切れ、彼を無礼にも嘲る人々を剣をふるって払い除けた。しかし彼はどうしたら良いのか分からなかった。王妃に会う事は出来なかった。白い鎧は、王妃が贈ってくれたものだと主張する事も出来なかった。それは王妃を危険に晒す事になるであろう。この様にして、王妃が苦しみの深みに落ち込んでいる間、ザディッグは不安と怒りで胸を貫かれていた。彼はユーフラテス川の土手を彷徨い、自分の運命の星は、無一文で不幸である事だと、確信した。めっかちを嫌う女の冒険からこの鎧の冒険まで、全ての恥辱を思い浮かべながら。「いつもより遅く目覚めたのがいけなかったのだ。」と彼は言った。「もしあんなに長く寝ていなければ、私はバビロンの王になっただろう。そしてアスタルテを自分のものにしただろう。学識や品性や勇気は、いつも私の不幸にだけ役に立っている。」彼はとうとう神に対して不平を洩らした。そして万事は、善人を虐げ緑の騎士のような奴を栄えさせるような、残酷な運命によって操られているのだ、と思いたくなった。彼の苦しみの一つは、嘲罵の声を引き起こす緑の鎧を身につけている事だった。一人の商人が通りかかった。ザディッグは二束三文で、その鎧を売り払い、その商人から一着の服と、長い縁無し帽を買い取った。この身なりをして、彼は絶望にうちひしがれて、ユーフラテス川に沿って、進んで行った。そしてこっそりと、彼を常に迫害する神を責めた。


 隠者

 彼は一人の隠者に出会った。その人の白い見事な顎髭は、腰のところまで垂れていた。そして手に一冊の本を持って、熱心に読んでいた。ザディッグは立ち止まり、丁寧なお辞儀をした。その隠者のお辞儀をする風情は、とても上品で、とても快いので、ザディッグは話し掛けたい気持ちにかられた。ザディッグはとうとう、どんな本を読んでいるのか、と訊ねた。「これは運命の本です。」とその隠者は言った。「少しお読みになりますか?」隠者はその本をザディッグに手の中に置いた。ザディッグはいくつかの言語を知っていたが、その本はただの一文字も、判読出来なかった。その事が彼の好奇心を更に増大させた。「私には貴方が非常に悲しんでいるように見えるが。」とその老人は、ザディッグに言った。「ああ、本当に、私はどんなに悲しみにうちひしがれている事でしょう。」とザディッグは言った。「もし貴方のお供をする事を許して下さるなら、」と、その老人は言った。「きっとお役に立てるでしょう。私は今までも時々、不幸な心に慰めの気持ちを与えてきた事があるのです。」ザディッグはその隠者の様子、顎髭、そしてその本、の為に、彼に尊敬の念を抱いた。ザディッグは彼の語る話の中に、より高度な知識があるのに気がついた。隠者は、運命について、正義について、道徳について、最高善について、人間の弱さについて、徳について、悪徳について、あまりに雄弁に、あまりに生き生きと、あまりに心を打つように話したので、ザディッグは目に見えない魅力によって、ぐいぐいと彼の方に引き寄せられて行くのを感じた。ザディッグは彼に、バビロンに帰るまで一緒に居させて欲しいと、熱心に頼んだ。「私の方こそ、それをお願いしたいのです。」と老人は言った。「オロズマッドの神にかけて、これから三、四日間、私がどんな事をしようとも、私から決して離れないと誓って下さい。」ザディッグは誓った。そして彼らは一緒に出発した。
 二人の旅行者はその晩、ある素晴らしい城に着いた。隠者は彼と若い連れの為に、一夜の宿を乞うた。門番は――この男は偉大な領主と間違えられそうな顔をしていたが――彼らを、尊大に構えた慇懃さで、奥に案内した。彼らは、召使頭に紹介された。召使頭は彼らに、主人の素晴らしい部屋部屋を見せた。彼らは食事によばれ、端近に坐らせられた。この城の主人は全く顔を見せなかった。しかし彼らは他の人達と同じように、行き届いた注意をもって、また気前の良さをもって、かしづかれた。召使達はそれから二人に、顔や手を洗う為、エメラルドとルビーで飾られた、金の手洗い桶を出してもてなし、二人を寝かせる為、美しい部屋に連れて行った。翌朝一人の召使が、二人にと一個づつ金貨を与え、その後彼らを送り出した。
 ザディッグは途中で言った。「あの家の主人は気位は高いが、気前のよい人のようでしたね。上品な、手厚いもてなしでした。」そう言っている時に、彼は隠者が持っている非常に大きな「物入れ」のようなもの、が膨れて垂れ下がっているのに気がついた。彼はその中に、宝石のついた金の手洗い桶があるのが分かった。隠者が盗んだのだ。彼はその事について、敢えて言わなかったが、不思議な驚きに打たれた。
 正午頃、隠者はけちな金持ちが住んでいる、とても小さな家の門の前に立った。彼は数時間のもてなしを頼んだ。汚いなりをした下僕が、荒々しい声で彼を迎え、隠者とザディッグを厩へ案内した。そこで彼らに、いくつかの腐ったオリーブの実と、不味いパンと、腐ったビールが出された。隠者は昨夜と同じように、満足した様子で、飲み、且つ、食った。それから隠者は、二人を何か盗みはしないかと監視し、はやく行けとせき立てているこの年とった下僕に声をかけて、今朝受け取った二枚の金貨を彼に与え、心遣い色々有り難うと礼を言った。そしてそれに加えて、「どうか貴方の御主人様に話をさせて下さい。」と言った。下僕は驚き、二人の旅行者を案内した。「素晴らしい領主様、」と隠者は言った。「貴方様が私達を受け入れて下さった、この高貴な歓待に対し、ほんのお印のお礼しかできません。それが残念でございます。どうかこの金の手洗い桶を、私の感謝の気持ちとして、お受け取り下さいますよう。」けちんぼは、ほとんどひっくり返らんばかりであった。隠者は彼に、そのショックから回復する時間を与えなかった。供の若い旅行者と急いで立ち去った。「父よ、」とザディッグは言った。「私が見ているのは一体何でしょう。貴方は全く他の人達とは違っているように、私には思われます。貴方を素晴らしく歓待した領主からは、宝石の飾りがついている金の手洗い桶を盗んでおいて、貴方を侮辱したもてなし方をした領主に、それを与えるなんて。」「息子よ、」と老人は答えた。「見栄をはったり、自分の財産を見せて驚かせる為にしか、見知らぬ人を受け入れないあの尊大な男は、もっと賢くなるだろう。あのけちんぼは、手厚くもてなす事を学ぶだろう。少しも驚く事はない。私の後について来なさい。」ザディッグにはまだ彼が、人並み外れて賢いのか、気が狂っているのか、分からなかった。が、隠者は非常な影響力をもって話すので、ザディッグとしては、誓いによって縛られている事もあり、彼の後について行くしかなかった。彼らはその日の夕方、気持ちよく建てられた簡素な家に着いた。その家には少しも浪費や欲深なところは感じられなかった。その家の主人はこの世を引退した哲学者で、智恵と美徳とを平穏の中に修めていた。しかし全然退屈してはいなかった。彼はこの隠遁の為の家を建てるのが気に入ったのであった。そしてこの家に、見栄の心の全くない高貴さで、見知らぬ人を迎えていたのであった。彼は自ら二人の旅行者を案内し、居心地の良い部屋にまづ二人を休ませた。暫くの後彼は、清潔でこの場に相応しい食事に二人を招待するため、自分自身で二人を迎えに行った。そして食事の間彼は、最近のバビロンの革命について、分別をもって話した。彼は真心を込めて王妃に味方しているように見えた。そしてザディッグが、王位につくための謎解きの試合に参加すればよいのにと言った。「しかし人々はザディッグのような立派な王を持つに値しない。」とつけ加えた。ザディッグは赤面し、苦しみが二倍になるのを感じた。彼らは、この世の事は賢い人に常に一番よく運ぶとは限らぬという點で意見が一致した。しかし一方隠者は、人々は神のやり方を知らないのだと、又人間は最も小さな部分しか見つけられないのに、それを含む全てについて判断してしまうという過ちをおかしているのだと言った。
 情熱についての話になった。「ああ、なんと情熱とは有害なものだろう。」とザディッグは言った。「船の帆を膨らませるのは風である。」と隠者は反論した。「それは時々船を沈めるが、それなしでは航海できない。胆汁は人を怒らせ病気の原因となる。しかし胆汁がなければ人は生きていることが出来ない。すべてがこの世界では危険であるが、またすべてが必要なのだ。」
 三人は、喜びについて話した。隠者はそれが神の贈り物であることを証明した。隠者は言った。「何故ならば人は自分で自分自身に、印象や観念を与えることは出来ない。受け入れるだけなのだ。苦痛も喜びも、人の存在それ自身と同じように、他の所から来るのである。」
 ザディッグはあんなに奇妙な事をした隠者が、こんなに立派に論ずることが出来るという事実に驚いた。そして主人は、その快い、教訓的な対談の後、二人の旅人を、彼らの部屋まで送って、かくも賢く徳のある二人の人間を遣わした天を祝福した。彼は、人を不愉快にすることのない自然で高貴な態度で、二人に銀貨を贈ろうとした。隠者はそれを断り、夜明け前にバビロンへ出発したいからこの場で暇乞いをしたい、と言った。その別れは名残が惜しまれた。特にザディッグはこのように親切な主人に、尊敬と愛情をいっぱいに感じていた。
 隠者と彼は、彼らの部屋にいる間中ずっと、彼らをもてなした人を褒め讃えた。老人は夜明けに彼の友人の目を覚まさせた。「出発しなければならない。誰もがまだ眠っている間に、私の尊敬と愛情の証拠をこの人に残しておきたい」と言った。こう言いながら、松明(たいまつ)を取り、家に火をつけた。ザディッグは恐怖に襲われ、叫び声をあげ、このような恐ろしい行為をするのを止めさせようとした。隠者は彼よりも強い力で彼を引きずって行った。その家は燃えていた。隠者は彼の連れと共に、既に充分に遠くに来ていて、ゆっくりと家が焼けるのを見ていた。「神よ、私をもてなしてくれた親切な人の家がすっかり壊れてゆく。なんと幸運な人か。」これを聞いてザディッグは次のことを一度にやりたい気持ちにかられた。つまり急に笑いだし、尊い老人の悪口を言い、彼を殴り、逃げたいと。しかしザディッグはこれらの事を何もやらず、隠者の影響力の下に置かれ、いやいやながら最後の宿まで、彼について行った。
 その最後の宿は、信心深く慈悲深いやもめの家であった。彼女には十四歳の甥がいた。その甥は愛嬌のある子供で、彼女の唯一の希望であった。彼女は自分の家の名誉の為、最善を尽くしていた。翌日彼女は甥に、暫く前より壊れていて、通行が危険な状態になっている橋のところまで、旅人に同行するよう命じた。子供はいそいそと二人の前を歩いて行った。彼らが橋にやって来た時、隠者が子供に言った。「こっちに来なさい。私はお前の伯母さんに感謝の意を表さねばならん。」そこで隠者は子供の髪の毛を掴み、川の中に投げ込んだ。子供は川に落ち、一瞬水の上に現れたが、急流に呑みこまれてしまった。「人非人、全ての人間の中で最も極悪な奴め。」とザディッグは叫んだ。「お前は我慢すると私に約束した。」と隠者はザディッグの言葉を遮って言った。「神が火をつけたあの家の焼け跡に、その家の主人は莫大な宝を見出したのだ。分かるな。また、この子供は、一年後には自分の伯母を、二年後にはお前を殺したであろう。それで神が彼の首を絞めたのだ。」「野蛮人め、誰がお前にそんな事を言ったのだ。」ザディッグは叫んだ。「運命の書の中に、これらの事件を読み取れば、お前には、お前に全く害を及ぼさない子供でも、溺れ死にさせる事が許されるのか。」
 こう言っている間にザディッグは、老人がもはや髭を生やしてはいず、顔も若々しい顔立ちになっているのに気がついた。隠者の衣は消えていた。そして厳かな、輝くばかりの彼の身体を、四枚の美しい羽根が包んでいた。「ああ、天の使いよ、ああ、崇高な天使よ。」ザディッグはひれ伏して叫んだ。「貴方は弱い人間を、不滅の秩序に従わせる事を教える為に、天国より降りて来られたのですか。」天使ジェズラッドは言った。「人間という人間はすべて、何も知らずに判断している。しかしお前だけは、その人間の中で、知識を与えられるに値する人間だったのだ。」
 ザディッグは彼に話すことを許して貰い、言った。「私は自分自身分からなくなりました。一つ分からない事をお訊きして良いでしょうか。あの子供を溺れ死にさせるよりも、矯正して、徳に導く方が良くはないでしょうか。」ジェズラッドは答えた。「もし彼に徳があり、生き残っていたとしよう。すると彼は、彼の妻となる女性と、二人の間に生まれる事になっている息子により、殺される運命になっているのだ。」「ええっ? 何ですって?」とザディッグは叫んだ。「ではどうしてもこの世には、犯罪や不幸がなくてはならないのですか。そして善良な人に不運が落ちかかってくるのも。」ジェズラッドは言った。「悪い人間はいつも不幸だ。彼らは、ほんの僅かこの世に散らばっている正しい者達を、試みるのに役立っている。そして、善をもたらさないような悪はないのだ。」ザディッグは言った。「しかし、悪は全くなく、ただ善だけが存在したら・・・?」ジェズラッドは答えた。「その時は、この世は別の世という事になろう。そこでは出来事の繋がりは別の秩序による事になる。その別の秩序は完全無欠で、悪が近づく事の出来ない、神の永遠の住まいの中にしか存在しえない。神はひとつひとつ全く異なっている沢山の世界を創造した。この無限の多様性は、神の無限の力を示している。この地球上に、同じ木の葉は二枚とない。無限の宇宙の領域の中に、同じ天体は二つとない。お前が生まれたこの小さな原子(地球)の上に、お前が見る全てのものは、これら全てを含む不変の秩序に従って、その決まった場所とその決まった時間の中にしか存在する事が出来ないのだ。普通の人は、今さっき死んだあの子供は、偶然に水に落ちたと思い、又あの家が焼けたのも同じように偶然にだと思うだろう。しかし偶然などないのだ。全ては「試し」又は「罰」、又は「報い」又は「前兆」なのだ。自分が全ての人間のうちで最も不幸だと信じていたあの釣り人を思い出してみよ。オロズマッドは、彼の運命を変える為にお前を遣わされた。死すべき、哀れなる者よ、崇めるべきものに対して抗弁するのをやめよ。」「しかし」とザディッグは言った。ザディッグが「しかし」と言った時、天使はもう十番目の領域へと飛び立とうとしていた。ザディッグは跪いて、天使を仰ぎ、従った。天使は空のかなたから大声で言った。「バビロンへの道をとれ。」と。


 

 ザディッグはあたかも、雷が自分のすぐ傍に落ちた人、のように逆上して、盲滅法に歩いた。競技場で闘った人々が、マージ教僧侶の頭から出される謎を解く為、また質問に答える為、もう宮殿の大門に集まっている日にザディッグはバビロンに着いた。緑の鎧の騎士を除いて、全ての騎士が到着していた。ザディッグが町に現れるやいなや、人々は彼の周りに集まった。人々の目は彼を見ることに飽きず、口は彼を祝福することに飽きず、心は彼にこの国の支配を望む気持ちに飽きなかった。やっかみやは、彼が通り過ぎるのを見、ぶるぶる震え、顔をそむけた。人々は彼を、騎士達の集まっている場所まで連れて行った。女王は彼の到着を知らされ、期待と心配で動揺した。不安に心は千々に乱れた。彼女は、何故ザディッグが鎧を着ていないのか、またイトバッドが何故白い鎧を着けているのか、分からなかった。ざわめきが、ザディッグを見て高くなった。人々は再び彼を見て驚き、また喜んだ。しかしこの集まりに現れるのは、勝った騎士にしか許されていなかった。
「私は別の人間として闘ったのだ。そして私の鎧をここでは別の人間が着ている。私がこのことを証明する光栄を持つのは後でよい。まづ私は、謎を解くこの競技に、私が参加する許可を要求する。」とザディッグは言った。人々は採決した。彼の誠実さの評判はまだ非常に強く人々の心に刻みこまれていたので、これを認めることを誰も躊躇わなかった。
 マージ教僧侶の頭は、まづ次の問題を出した。「この世の全ての中で、最も長くまた最も短い、最も早くまた最ものろい、最も分割できまた最も広がりのある、最もなおざりにされまた最も惜しまれ、これがなければ何も成長せず、小さいもの全てを食べ、また大きいもの全てを活気づけるもの、これは何か。」
 これはイトバッドに言われたのであった。彼は、自分のような人間は謎など何も分からない。そして、槍の試合で勝てば充分だと答えた。(そこでこの問いは他の騎士に問われた。)ある者はその謎の答えは財産だと、また他のある者は地球だと言い、また他の者は光だと言った。ザディッグは、これは時間であると言った。彼はつけたして「これよりも長いものはない。何故なら時間は永遠の尺度だから。またこれよりも短いものはない、何故なら全ての我々の計画に、これが不足しているから。また待つ者にはこれより遅いものはなく、楽しんでいる者にはこれより早いものはない。そして大きさで言えば、それは無限に広がっており、小ささで言えば、それは無限に小さく分割出来る。全ての人はこれをおろそかにし、また全ての人はこれの空費を惜しむ。それなしには何も成長せず、また後代の者に、つまらないこと全てを忘れさせ、偉大なものを永遠に伝える。」集まった人々は、ザディッグが言うことが尤もだと同意した。
 それから次の問題が出された。「感謝もせずに受取り、何故とも分からずそれで楽しみ、我を忘れてそれを他の者に与え、そしてそれと気付かずに失う。その物は何か。」
 各々が各々の答を言った。ザディッグはただ一人、それが命であることを見抜いた。彼はあらゆる他の謎を同じように容易に解いた。イトバッドは常に、これほど簡単なものはない。少し真剣に考える気になればすぐ答は出てくる、と言った。人々は、正義に関して、善に関して、君臨の術に関して、問いを出した。ザディッグの返事が最も確固としていると判断された。人々は、「残念だ。このような素晴らしい精神の持ち主が、あんなに騎士として無能だとは。」と言った。
「領主の皆様。」とザディッグは言った。「私は実は、この競技場で優勝するという光栄を持った。あの白い鎧は私のものだ。領主イトバッドが、私の眠っている間にそれを盗んだのだ。彼はおそらく、白い鎧の方が緑の鎧より自分によく似合うと思ったのだろう。私は今諸君の目の前で、彼に次の事を証明してみせる用意がある。即ち、この今私の着ている服とこの剣で、彼の方は私から盗み取ったあの美しい白い鎧で、彼と戦い、勇敢なオタムに勝つ名誉を得たのは私だと証明する用意があるのだ。」
 イトバッドは、大きな自信を以て挑戦を受けた。彼は自分が兜や鎧や腕宛があるので、ナイトキャップと部屋着を着ている優勝者に、楽に打ち勝つことが出来ると思ったのだった。ザディッグは王妃に表敬の礼をした後、剣を抜いた。王妃は喜びと心配で胸を貫かれながら、彼を見た。イトバッドは誰にも礼をせず、自分の剣を抜いた。彼は少しも恐れを知らぬ者のように、ザディッグの前に進み出た。彼はザディッグ目掛けて、頭を打ち割らんばかりに切り付けた。ザディッグはその一撃をうまくかわし、自分の剣のいわゆる強い部分を、敵の剣の弱い部分に打ち当てた。するとイトバッドの剣は折れた。それからザディッグは敵の身体を捕まえ、地面にひっくり返した。そして鎧の隙間に剣の切っ先を突きつけて言った。「鎧を脱げ。さもなければお前を殺す。」イトバッドは、彼のような偉大な人間にふりかかった恥辱に驚き、ザディッグになされる儘になっていた。ザディッグは彼の立派な兜や見事な鎧、美しい腕宛や輝く脚宛を、彼から脱がせ、それを身につけ、その身なりでアスタルテに駆け寄り、足下に跪いた。カドールはその鎧がザディッグのものであることを容易に証明した。ザディッグは満場の同意と、何よりもアスタルテの同意を得て、王として認められた。彼女は、非常な不運の後、自分の恋人が世界中の目から見て自分の夫に相応しいと認められる情景を見る、という楽しさを味わった。イトバッドは自分の家に帰り、自分を「ご主人様」と呼ばせた。ザディッグは王となった。そして幸福であった。彼は天使ジェズラッドが彼に話した事を、心の中に贈り物として持っていた。王妃と彼は神を崇拝した。ザディッグは、美しい気まぐれ女のミスーフが広く世間を歩き回っているのを、その儘にしておいた。彼は山賊アルボガッドを捜しに人を遣わした。ザディッグは彼に、軍隊での名誉ある地位を与え、真の騎士として行動するならば最高の位に昇進させる事を約束し、またもし山賊の仕事をすれば絞首刑に処すと言った。
 セトックは美しいアルモナと共に、バビロンの商業の指導者に任命され、アラビアの奥地から呼び出された。カドールは彼の奉仕の性質によって地位を与えられ、大切にされた。即ちカドールは、ザディッグ王の友人であり、この王はその時代では地上で唯一の友人を持つ王となった。小さなあの唖も忘れられることはなかった。あの釣り人には綺麗な家が与えられた。オルカンは彼に借りている多くの金額を彼に返すよう、また彼の妻を返すよう、命ぜられた。賢くなった釣り人は、金だけを受け取った。
 あの美しいセミールは、ザディッグがめっかちになると信じたことを悔やみ続け、アゾラは、ザディッグの鼻を切ろうとしたことを悲しみ、泣くことを止めなかった。ザディッグは彼女らの苦痛を贈り物でやわらげた。やっかみやは怒りと恥で死んだ。この国は、平和と栄光と豊かさを享受し、その御世は、地上で最も美しい時代であった。この国が、公正と愛で統治されたからである。人々はザディッグを祝福し、ザディッグは天を祝福した。


 次の二章はヴォルテール存命中の印刷版には載っていない。


 ダンス

 セトックは商取引のため、スランディブ島へ行かなければならなくなった。しかし彼は、蜜月として知られている、結婚後の一箇月間、妻の傍から離れることは許されなかったし、またそう出来るとも思っていなかった。彼は友人のザディッグに、彼の代わりに旅行してくれるよう頼んだ。ザディッグは言った。「悲しいかな、あの美しいアスタルテと私の間に、もっと遠い距離を置かねばならないのか。しかし私は、私の恩人に仕えなければならない。」彼はこう言い、涙を流し、出発した。
 間もなく彼はスランディブ島で、不思議な人物と見られるようになった。彼は貿易商人達の紛争の仲裁者、賢者の友、忠告を求める人々の相談相手となった。ある時王が彼に会いに来、話をした。王はすぐにザディッグの値打ちが分かった。彼はザディッグの聡明さを信頼し、それ故に彼を友とした。王の親愛の情や尊敬が、ザディッグには恐ろしかった。彼は昼も夜も、モアブダール王の善意に起因した不幸を思って、心は刃で貫かれる思いだった。「自分は王のお気に入りだ。この為に自分は破滅するのではなかろうか。」しかし彼は王の愛顧から身を引くことは出来なかった。サンブスナの息子のナビュサンの息子のニュサナブの息子のナビュサン、即ちこのスランディブの王、が、アジアの中で最もすぐれた君主の一人であったからであり、また、人が彼と話す時、彼を愛さずにはいられなかったからでもあった。
 この善良な王は、いつも讃えられ、欺かれ、盗まれていた。誰もが彼の財宝を略奪した。スランディブの収税財務長官はいつも忠実に他の収税官を見習い、この慣例に従った。王はその事を知っていた。彼は幾度も財務長官を変えたが、財務長官は、王の収入を不平等に二分する、昔ながらの慣例を変える事は出来なかった。つまり少ない方は王のものであり、多い方は大臣達のものであった。
 ナビュサン王は、聡明なザディッグに自分の苦労を打ち明けた。「いろいろ素晴らしい事を知っている君だから、盗まない財務長官を見つける方法を知ってはいないだろうか。」「勿論です。綺麗な手をした人を見分ける絶対誤りのない策があります。」満足した王は彼を抱いて、どうしたらそう出来るかを訊ねた。「財務長官の地位を得たいと申し出てきた者すべてを、踊らせてみるだけで良いのです。そこで最も軽快に踊った者が、間違いなく最も正直な者です。」王は、「冗談なのだな。収税官を選ぶにはおかしなやり方じゃないか。君は、アントルシャを最もうまくやる男が、最も正直な、最も有能な財務長官になると言いたいのかね。」「最も有能な財務長官になるとは申し上げません。」とザディッグは答えた。「しかし私は、彼が明らかに、最も誠実な人間であると王様に保証いたします。」ザディッグがあまりに確信を以て話すので、王は彼が、財務長官を識別する超自然的な能力を持っているのだと思い込んだ。「私は超自然なるものは好きではありません。」とザディッグは言った。「奇跡をやる人とか奇跡の本は、いつも私に不愉快な気持ちを与えてきました。もし陛下が、私が陛下にご提案申し上げた事を試みさせると仰れば、陛下は私の秘密が、最も単純で、最も容易なものだとお分かりになるでしょう。」スランディブの王、ナビュサンは、この秘密が単純であると聞いて、それが奇跡であると彼に知らされるよりもずっと驚いた。「ではよろしい。好きなようにやりなさい。」と彼は言った。「そうさせて下さい。」とザディッグは言った。「陛下は、思いの外、この試みで得る事が多いでしょう。」すぐさまその日に、彼は王の名において、ニュサナブの息子、ナビュサン陛下のもとで、収税財務長官の仕事につきたい者は、軽い絹の衣服を着て、ワニの月の第一日に、王の控えの間に来るべしと、公布した。来た人数は六十四人であった。控えの間の隣には、バイオリンひき達を予め来させてあった。舞踏会の為のあらゆることが準備されていた。しかしその舞踏の為の部屋は閉ざされていて、部屋に入るには、かなり暗くしてある小さな回廊を通らなければならなかった。取次役が、各志願者を一人づつ呼びに来て、この回廊に案内した。応募者は数分間、その回廊の中に置かれたのである。ザディッグから訳を聞いた王は、自分の持っている金銀財宝を、あるだけ回廊に飾っておいた。王は彼らに踊ることを命じた。これほど人が、重く、また優美さなく踊ったためしはなかった。彼らは全員、頭をうなだれ、腰を曲げ、両手を自分の両脇にくっつけていた。「何といういかさま師達だ。」ザディッグは小声で言った。彼らのうちでただ一人、敏捷なステップを踏んでいる者がいた。頭は高く、視線はしっかりしており、両腕は拡げて、身体を真っ直ぐにし、膝もしっかりしていた。「ああ、立派な人だ。正直な人だ。」とザディッグは言った。王はこの立派な踊り手を抱き締めた。そして収税財務長官に任命した。その他の者は、世界で最も偉大な正義により罰せられ、罰金を課せられた。というのは、彼らは一人で回廊にいた時、ポケットを一杯にして、歩くのにも苦労する程だったからである。王は、六十四人の踊り手のうち、六十三人も盗人がいるという、この人間の性格に対して腹をたてた。この暗い回廊は、「誘惑の回廊」と呼ばれるようになった。この国がペルシャだったら、人々はこの六十三人を串刺しの刑にしただろう、また他の国だったら、盗まれた金の三倍の費用をかけて裁判の部屋を作り、王の金庫には何も残らなくなっただろう。また他の国だったら、彼らは全く正当化されて、却ってこの大変軽快に踊った踊り手を侮辱しただろう。スランディブでは、彼らは有罪の判決を下され、ただ公共の金庫を富ましたに過ぎない。というのは、ナビュサンが大変寛大であったからである。
 王は非常に感謝し、いかなる財務長官がかってその主人の王から盗んだよりも、ずっと多くの金をザディッグに与えた。ザディッグはその金を使って、アスタルテの運命を彼に知らせる使命をおびた特使を、バビロンに送った。この命令を与える時、彼の声は震え、彼の血は心臓へ逆流し、目の前は闇で真っ暗になり、魂が彼から抜け出そうになった。使者は出発した。ザディッグは彼は船に乗るのを見届け、王の家に帰った。が、誰の姿も見えないので、王が自室に戻っているのだと思い、「愛」という言葉を発した。「ああ、愛。」と王が言った。
「愛がまさしく問題だ。君は私に苦痛を与えているものを見抜いてしまった。君は何と偉大な人物だ。君は私に無欲な財務長官を捜してくれた。今度は、一点非のうちどころのない女性を捜す方法を教えてくれないか。」ザディッグは意識を取り戻しながら、「財政に関するのと同じように、恋愛に関しても、お仕えいたしましょう。この事はもっと難しく思われますが。」と彼に約束した。


 青い目

「身体と心は・・・」と、王はザディッグに言った。この言葉にこのバビロニア人は、王の言葉を遮らずにはいられなかった。彼は「どうか、魂と心と仰らないで下さい。と言うのは、バビロンの会話の中では、この言葉しか聞かれないからです。心や魂についての問題を扱っている書物は、どちらも持っていない人により書かれた物しかないからです。しかし、どうか陛下、お続け下さい。」と言った。ナビュサンは次のように続けた。「私は、身体と心の両方が愛することを欲している。この二つのうち最初のものは、満たされているといって良い理由がある。ここに、私に仕える女が百人いる。みんな美しく、親切な、愛嬌のある、煽情的な女達だ。或いは少なくとも私と一緒にいる時には、そういう振りをしている女達だ。しかし私の心は、まだまだ幸福ではない。私にはこう思われる。彼女らは、スランディブの国王としては私を愛撫してくれるが、ナビュサンとしては、私のことを気にもかけてくれないと。私の妻達が不貞だと思っているのではない。しかし私は、私のものである魂を一つでも見つけたいのだ。このような宝一つの為なら、私が今持っている百人の美女達をやっても良いくらいだ。この百人の妻達の中から、私が本当に愛されている事を確信出来る妃を一人でも見つける事が出来るかどうか、やってみてはくれまいか。」と言った。
 ザディッグは、財務長官の問題についてしたように、彼に答えた。「陛下、私にお任せ下さい。しかし、誘惑の回廊に陳列されていた物を私が使用する事を、まづお許し下さい。勿論きっちりお返しします。そして、王様は少しも損はなさらないでしょう。」国王はその完全な使用権をザディッグに与えた。ザディッグはスランディブ中を捜し、最も賤しい三十三人のせむし男、最も美男子の三十三人の小姓、最も雄弁な、最も逞しい三十三人の僧侶を選んだ。彼は彼らに、妃達のいる後宮に、全く自由に入る事を許した。小さなせむし達は各々、贈り物にする事を許された、金貨四千枚を持っていたのだ。そして、最初の日からせむし達は幸福を味わった。小姓達は自分の身体以外、何も贈る物を持っていなかったので、二、三日後にようやく幸福を味わう事になった。坊主達はもう少し苦労したけれども、結局、三十三人の女が彼らの軍門に下った。王は嫉妬にかられ、後宮の上から覗き見、あらゆる証拠を発見し、仰天した。
 彼の百人の女のうち、九十九人までが、彼の眼下で陥落していった。しかし、そこに王が今まで一度も近づいた事のない、非常に若い、新しい一人の女が残った。彼は彼女に、一人、二人、三人と、せむしを送った。彼らは彼女に二万枚もの金貨を贈ったが、彼女は買収されなかった。金が彼らをより美男子にするという、このせむし達の考えに、彼女は笑いを抑える事が出来なかった。王は彼女に二人の、最も美男子の小姓を送った。「私は王様の方がもっとお美しいと思いますわ。」と彼女は言った。王は彼女に、最も雄弁な坊主と、次に最も大胆な坊主を送った。しかし彼女は、最初の坊主はお喋りなだけだと思い、二番目の坊主の才能も、どこにあるのか分からなかった。「心が全てですわ。」と彼女は言った。「私は、せむしの金貨や、若者の魅力や、坊主の誘惑にも、決して負けませんわ。私はただ、ニュサナブの御曹司、ナビュサン様を愛します。そして私は、あの方が私を愛して下さるのをお待ちしますわ。」王は喜び、驚き、そして優しい気持ちで、有頂天になった。彼はせむし達を成功させた金全てを取り戻し、美しいファリッドに贈った。そのファリッドというのが、この若い女性の名前であった。彼は彼女に、自分の心を与えた。彼女はそれを受けるに全く相応しかった。若さの花がこれほど輝いた事はなかった。美の魅力がこれほど甘美であった事はなかった。歴史の真実として、彼女はお辞儀の仕方が下手であった事を秘密にしておく訳にはいかないが、しかし、彼女は妖精のように踊り、セイレーンのように歌い、そして、美の三人の女神のように話した。また、才能と美徳に溢れていたのである。
 ナビュサンは愛され、愛した。だがファリッドは青い目をしていた。そしてこれが、数々の大きな不幸の源だった。青い目の女は当時ギリシャでボオピイと呼ばれており、王がこれを愛する事を禁じる、古い法律があったのである。この法律は「青い目の呪い」法と呼ばれ、五千年前、僧侶長が、スランディブ島の初代の王の妃を横取りする為、この国の基本的憲法として制定したものであった。(Henri Benac注  ボオピイはギリシャ語で、「牛の目」または「大きい目」の意。「青い目」の意なし。)王国の全ての高官達がナビュサンを諌めにやって来た。人々は公然と、王国が滅びる時が来た、とか、冒涜が極まった、とか、自然が不吉な出来事で脅かされている、とか噂しあった。一言で言えば、ニュサナブの息子ナビュサンが、大きな青い瞳をした女を愛しているという事だった。せむしや、収税官や、僧侶達や、ブルネット達は、その不満を国中に撒き散らした。
 スランディブの北に住んでいる野蛮人達は、一般に広まっているこの不満に付け込んだ。彼らは善良なナビュサンの王国に侵入した。王は僧侶達に援助を求めた。王国の収入の半分を所有していた彼らは、天に手を差し延べるだけで満足し、王を救う為に自分達の金庫に手を触れる事は拒んだ。彼らは伴奏付の美しい祈りを捧げたが王国は野蛮人の思いの儘に棄てておいた。
「おお、親愛なるザディッグ。君は今度もこの恐ろしい窮地から私を救ってはくれまいか。」苦悩に満ちた叫びで、ナビュサンは言った。「勿論、喜んで。陛下は、望むだけ金を僧侶どもから取り上げる事が出来るようになるでしょう。彼らの館のある領地をお棄てになって、貴方様の御領地のみをお守りになる事です。」ナビュサンはその忠告に従った。僧侶達は、王の足下に跪いて、彼の救いを願い出た。王は返事の代わりに彼らに、彼らの領地の保全の為の、天に対する祈りを歌詞に込めた、美しい音楽を奏(かな)でてやった。僧侶達はとうとう金庫を開き、王は幸いにも戦いを終わらせた。このようにザディッグは彼の聡明で適切な忠告によって、また最も偉大な尽力によって、この国で最も権力のある人間の深い反感を買うようになった。僧侶達やブルネット達は断固として、彼の破滅を誓った。収税官達やせむし達も彼を許しはしなかった。人々は善良なナビュサンに、彼を疑わせるよう仕向けた。「尽力は控えの間までしか伝わらないが、疑いは奥の間まで入って来る。」とはゾロアストルの言葉である。毎日新しい非難がザディッグに対してなされた。一番目は撥ねつけられるが、二番目はかすり傷をおわせ、三番目は傷つけ、四番目は殺すのだ。
 ザディッグは友人セトックの為に、充分商売を手助けしてやっていた。従ってザディッグは彼から報酬を受け取っていた。危険を感じたザディッグは、もうこの島を去る事しか頭になかった。そして、自分自身でアスタルテの消息を訊ねに行こうと決めた。「何故なら、」と彼は言った。「もしスランディブに残っていたら、僧侶達は私を串刺しの刑にするだろう。と言って、何処へ行けば良いのか。エジプトに行けば、奴隷にされるだろう。アラビアに行けば十中八九、火炙りだ。バビロンでは首を絞められるだろう。しかしアスタルテの消息だけは知らなければならない。此処を出よう、そして私の悲しい運命が、私の為に残して置いた事を見てみよう。」


(訳注)
「次の文章がKehl版に載っている。」とHenri Benacの注にある。

 我々がザディッグの物語に関して発見した原稿は此処で終わっている。この二つの章は、十二章の終わりと、ザディッグがシリアに着く前の間に位置するものであろう。我々は、ザディッグがまた、忠実に書かれた他の事件にも遭遇した事を知っている。東洋の言語の翻訳家達に、もし彼らにこれらの原稿が手に入れば、これを伝えて欲しいと願うものである。


あとがき

 このザディッグは、訳者が昭和四十五年、気象大学校において非常勤講師として勤務した際、教科書として使用したものであり、当時学生であった次の諸氏、石川、石原、岩月、梶原、金崎、金戸、小西、迫田、田畑、中垣、鉢嶺、細野、八尾、好本。が、レポートとして提出した訳文に手を入れたものが、この翻訳である。此処に記して、感謝の意を表する。
平成四年四月二十九日 能美武功

青空文庫版のためのあとがき

 ロシアの作家、エフゲーニイ・シュヴァルツの芝居が好きでたまらず、翻訳し始 めました。「龍」「不思議でない奇跡」「影」など、素晴らしいです。
 次に、以前から大好きでしたが、とても恋愛劇は訳せないと諦めていた、イギリ スのテレンス・ラティガンのものをやり始めました。「涙なしのフランス語」「深く 青い海」「銘々のテーブル」などです。やってみるとまあまあの出来なので(後ろ 二つのものは、小田島雄志、加藤恭平の訳ありですが)、「国家への遺産」(これは トラファルガーのネルソンの話です)、イギリスではシャルル・ボワイエが主役を演 じた、「父と子」、それに歌劇トスカのパロディーの「夜明け前」を訳しました。  とにかく言えることは、作品が好きでたまらなければ、何とか(たとえ大変な誤 訳があったとしても)、それなりに面白さが伝わるらしい、ということです。
 今までは、訳したものは一切公開せず、知りあいの人に読んで貰っているだけで した。
 『ザディッグ』はこの趣味が始まる以前の翻訳で、芝居とは違い、小説です。ひ どく出来の悪いものですが、手を入れ始めると原形を留めなくなるので、このまま出 しました。なんとか日本語になっているかどうか、というところですが。
 1998年7月28日 能美武功

著者:ヴォルテール
訳者:能美武功
テキスト入力:能美武功
テキスト校正:野口英司、浜野 智
青空文庫公開:1998年8月