夜明け前(Before Dawn)テレンス・ラティガン作(1973年)
 「愛するとは(In Praise of Love)」と同時に演じられる笑劇。プッチーニの歌劇トスカのパロディー。ラティガンはプッチーニが好きで、普段プッチーニの歌劇を聞きながら原稿を書いた。
 ガーディアン紙にラティガンは次のように説明している。「最初の芝居で涙を、後の芝居で笑いをそそることが目的である。最初のものは、英国人の欠点(le vice anglais)、即ち自分の感情をうまく表現出来ないこと、について書いたものであり、後のものはイタリア人の欠点、即ち愛について実に容易に語ることが出来るが十分に愛せないこと、について書いたものである」と。
 演出のジョン・デクスターと相談した結果、演ずる順序を逆にしたが、批評家はこのカーテン・レイザー「夜明け前」を好まなかった。そのために本題の「愛するとは」までが、その意義を疑われることになった。
 1973年9月27日、ダチェス劇場で初日が行われた。以下にその批評を書いて置く。
 イヴニング・スタンダードのミルトン・シュールマンは、「死という題材をこのように陽気に(in such a chirpy manner)取り扱って、作家の腕を揮ってはいるが、とても彼の重要な作品とは考えられない」と。タイムズはもっと厳しい。「出だし(prologue)にしか見えない芝居に、行ってみろと勧めることは到底出来ない」と。ガーディアンのマイケル・ビリントンはラティガンの称賛者なのだが、「有名なラティガンの職人芸も、一時休止(in abeyance)のように見える。・・・単に観客操作(audience manipulation)の作品で、雑なもの(crude)である」と。最も酷い批評は、ファイナンシアル・タイムズのマイケル・コーヴニーで、「過去の栄光に頼っただけの(languishing in the glow of a former heyday)・・・名声という旗印のもとに陳列された機知のない塵芥(witless junk paraded under the banner of a reputation)である」と。
 サンデー・タイムズのハロルド・ホブソンは、「気取りのない、勇気のある芝居(a play of unostentatious courage)」と褒め、サンデー・テレグラフのフランク・マーカスは、「サー・テレンスの芝居の名作の一つ(one of the finest plays of Sir Terence)と書いた。
 公演は131回だったが、演出のデクスターは、この二つの日曜版で褒めていなかったら、もっと早くに下ろさなければならなかっただろう、と後に認めた。
 
 フレディー・ヤングが後に書いた批評は、
 「これはテリーの全作品の中で最高傑作である。会話を構成している言葉はなにげないもの(casual)であるが、周到な用意(the impression of care)がなされている。これは今までの彼の作品には見られない点である。・・・日常の英語の会話を生き生きと映し出していることだけでも、この芝居は称賛に値する。技術的にも非常にすぐれている。会話のやり取りの殆ど全てが喜劇仕立てになっていて、ラティガンもこれを喜劇と呼びたいとさえ思っていた。しかし喜劇ではない。むしろ探偵物と言った方がまだ当たっている。アガサ・クリスティーの作品のように、多くの鍵が隠されている。ただその鍵は物質的なものではなく心理的なものなのである。」
 クラットウエル夫妻、セバスチアンとリディア、その子ジョウイー、夫妻の友人マークの4人が、非常に綺麗に筋立ての中に編み込まれている。この点をヤングは、
 「4人が4人、違った角度からこの問題(リディアの死)を見ている。夫は妻が余命いくばくもないの知っているが、それについては語れない。妻は自分の命のことを知っており、それをマークには言えるが、夫や息子には言えない。マークは友人の妻の死にゆくことを知っているが、その夫がこれを知っているかどうかを(最初は)知らない。ジョウイーはこのことを全く知らない。
 今までにもラティガンは劇作術で屡々賞賛されてきたが、これほどのものは今までにない」と。
 

(この「夜明け前」(つまり「愛するとは」)は131回であった。)
  
(St. Martin's Press社, Geoffrey Wansell 著 Terence Rattigan  による。)
        (能美武功 平成11年6月9日 記)