夜明け前

            テレンス ラティガン 作
             能 美 武 功 訳
    登場人物
  スカルピア男爵
  ジウゼッペ・・・下僕
  シアッローネ大尉
  トスカ

(場 ローマ。)
(時 一八00年六月十七日 夜明け前。)
(サンタンジェロ城の一室。右手に扉・・・後になって分かるが、これは寝室へ通じる。扉の前に階段あり。左手にも扉。これは観客からは見えない。但しこれを開け立てする時には、必ず閂を外したり入れたりする猛烈な音が聞こえる。奥に窓。必要な家具は、左手に机、適当な位置にソファ。肘掛け椅子数脚。隅の方に祭壇。明かりに照らされたマリアの肖像画がそれに掲げてある。)
(際だっているのは食卓。テーブルクロスが敷かれ、かなり贅沢な夜食の用意がされている。ワインの壜二、三本。一人の男がテーブルについていて、下僕が給仕をしている。テーブルも机もシャンデリアがついているが、この二つの明かり以外には照明なし。部屋は暗くて陰気。)
(簡単に言うと、サルドーのトスカの四幕、あるいは同名のオペラの二幕に似ていればそれでよい。何故なら、テーブルで現在食事を取っているこの男はスカルピア男爵と言い、ナポリのブルボン家に仕える警視総監であるから。彼の部隊がつい先頃、フランス革命軍を追い払い、短命な「人民ローマ共和国」を潰して、現在ローマを占領しており、新しく王になるべき法皇ピウス七世の到着を待っているところ。ピウス七世は、オーストリアに支配されているヴェニスで、最近選出された法皇である。スカルピア男爵は当然のことながら、かの有名な悪役であり、一九世紀悪漢の典型。 鼻髭を蓄えた、誇り高き「美人漁り」。お仕着せを着た下僕に給仕をさせている。)
 スカルピア 今何時だ。
(この台詞を言っているそばから、金属が金属にあたるおそるべき音が聞こえ、答は出ている。この部屋は鐘樓の中にとは言わないまでも、すぐ傍にあるらしい。下僕が答える前にガーン ガーンと二つ鳴る。)
 下僕 二時です、閣下。
 スカルピア(不機嫌に。)分かっとる。窓を開けろ。空気が淀んでいる。
(下僕、窓をあける。遠くの方から他の鐘の音(複数)が二時を知らせる。ローマ中の鐘の音。)
 スカルピア(怒って。)畜生! 今度はティベルのどぶの臭いか。
(下僕、窓を閉めようと、動く。)
 スカルピア 閉めんでいい。
(下僕、開けたままにしておく。)
(スカルピア、食べ終り、ワインを飲む。その後嗅ぎ煙草をひとつまみ吸う。)
 スカルピア 何ていう酷い建物だ。私が如何に劣悪な条件のもとで働いているか、シシリアにおられる陛下に見て貰いたいものだ。
 下僕 陛下は少なくとも閣下を伯爵には上げて下さいます。きっと。
 スカルピア スカルピア伯爵? 響きが良くない。男爵の方がもっと怖そうだ。この私の地位では、「怖い」という事が第一だ。それがなきゃ「ただの人」だ。
 下僕 閣下は「ただの人」じゃありません。
 スカルピア 有難う、ジウゼッペ。いや、伯爵は好かん。私の欲しいのは金だ。
(観客から見えない方の鉄の扉に、大きなノックあり。スカルピア、下僕に開けるよう身振りをする。下僕が行っている間、スカルピア、またグラスにワインを注ぐ・・・今度は赤。ボルト、閂の開く音がして、シアッローネ登場。近衛大尉の制服を着ている。少し慌て者。すぐ頭が混乱する。)
 スカルピア 下がってよい、ジウゼッペ。
(ジウゼッペ、低く御辞儀をして去る。再び鉄のガチャガチャいう音が聞こえる。)
 シアッローネ 町中守備兵を二倍にしておきました。そして全軍を厳戒態勢に置いてあります。
 スカルピア(ワインを飲みながら。)そんな必要があったかな。えらい静かじゃないか。
 シアッローネ 表面は静かに見えても、安心は出来ません、閣下。
 スカルピア(厭な顔をして。)そう。それはそうだ。ところでシアッローネ、君は随分若くして大尉になったんだな。何故なんだ。
 シアッローネ 運がよかったのであります、閣下。
 スカルピア そういう奴もいるようだな。
 シアッローネ 閣下は私に貴族の血があるのをお揶(からか)いに?
 スカルピア いや、私は貴族の血だろうと、平民の血だろうと、揶いはしない。お前の考えではこの町は革命軍が蜂起する寸前にあると言うんだな。
 シアッローネ 北部での戦いの結果がもしここに届いていたら・・・
 スカルピア 届くまでには最低二日かかる。それに私が書きかえて、こちらに都合のいいようになっている。
 シアッローネ 閣下はその手の偽造工作には大変長(た)けていらっしゃいます。しかし閣下の力をもってしても、今度ばかりは無理ではありませんか。なにしろ今となっては、ナポレオンとローマの間には何の障害物も存在していません。ですから・・・
 スカルピア 千キロという距離は存在しているぞ、シアッローネ。
 シアッローネ 兵力としての障害物であります、私の意味するところは。メラス将軍のマレンゴにおける敗退は・・・
 スカルピア ふん。君の言う力とは、オーストリア軍の意味のようだな。何故君は技術に長けた断固たる、我がナポリ軍の力を無視するのだ。
 シアッローネ 閣下、私はわが南方の軍力の熱烈なる賛美者であります。私ほどこのシシリア、ナポリ軍の実力を意識している者はいません・・・
 スカルピア まさか君は、軍隊としての力が連中にあるなどと言っとるんじゃないだろうな。
 シアッローネ はあ、閣下。
 スカルピア はあではない。慥にさっき私は、我々の軍は技術に長けた、断固たる軍隊だとは言った。しかし何に対して技術があり、断固としているかは言っておらん。今それを説明すれば、略奪、強奪、強姦、それに逃亡だ。
 シアッローネ(如何ともし難い、という顔。)ではどうすればナポレオンのローマ侵入を食い止められるでしょうか。
 スカルピア 神を信じるのさ。枢機卿の息子なんだろ、君は。神を信じるのが当然じゃないのか。
 シアッローネ(呆れて。)閣下、これは酷いです。閣下!
 スカルピア あ、失礼した。枢機卿の甥ね。しかし彼は君の事を息子同然に扱ったんだろう?
(シアッローネ、頷く。)
 スカルピア 叔父さんに頼んで、この二、三週間中に、霊験灼(あらた)かなミサを一つ上げて貰ったらいいじゃないか。
(静かに、もう一杯注ぐ。シアッローネに壜を差し出す。シアッローネ、首を振る。)
 スカルピア 君の自慢の今の有力なコネがあって、よく先頃のローマ共和国の期間、ギロチンにかからなくてすんだな。
 シアッローネ はあ。それには長い話がありまして。
 スカルピア 長くてもいい。話してみろ。
 シアッローネ 母が実はダンサーでして、革命派の委員長を昔からよく知って・・・
 スカルピア 短い話じゃないか。
 シアッローネ まだ続きがあるんですが・・・
 スカルピア そこまでで大事なことは終わっとる。貴族と大衆両方に血があるか。それじゃあ相当いろんなことが起こっても抵抗力がある訳だ。そうだな、アメリカが侵略した場合は駄目だろうがな。素晴らしいワインだ。
(テーブルから立ち上がって。)
 スカルピア さてと、捕虜はどんな具合だ。この世での最後の時を敬虔に暮らしているんだろうな。
 シアッローネ 修道僧達と一緒に鐘楼の中にいるんですが、連中が嘆くことしきりです。教会の掟など偽物だ、自分を裁判なしで死刑に処する権利はシシリーの国王にはない筈だ。自分は圧制者に対して反逆したまでだ。ローマ人民に対しては何も犯してはいない、と主張しています。もうすぐ、すぐ目の前に近づいている我々の理想、自由、平等、博愛の精神が・・・
(スカルピアの身振りで言葉を止められる。)
 スカルピア 分かっている。その時はもう来ているんだ。あいつは、博愛はもう修道僧達から得ているし、自由はすぐ目の前にある。それから死の前では万人平等だ。
(スカルピア、悪漢のくすくす笑いをする。)
 スカルピア どうだ。あいつは俺達が連中の計画をよく知っているんで驚いているか。
 シアッローネ は、閣下。その点はあいつは全く隠そうとしません。連中の蜂起はナポレオンのローマ侵入の丁度前日とタイミングが合わせてありました。それからこの命令はローマ中到るところに潜伏しているフランス側のスパイ達から聞いているようです。そして命令はフーシェ自身から直接出ているものだと・・・
 スカルピア(ぼんやりした声で。)フーシェから?
 シアッローネ はい、閣下。ナポレオンの配下にある秘密警察の長官で・・・
 スカルピア(途中で遮って怒鳴る。)馬鹿野郎! フーシェが何者か私が知らんとでも思っとるのか。パリにおける自分の敵の名前を知りもしないで、ローマの秘密警察長官がどうやって勤まる。
(スカルピア、思わず尊敬の念が込められた声を発する。)
 スカルピア いや、あれはたいした男だ、シアッローネ。我々の仕事における鏡だ。あんな能率のよい、恐ろしい人物は、同じ秘密警察の中でも、また、古今東西を捜しても、ちょっと見当たらんだろう。自分の敵を尊敬出来ないような指揮官はまあ、屑だからな。成程、するとカバラドッシ御大(おんたい)殿はどうやってこの私が蜂起の詳細な情報を得たか、全く分からんというんだな。
 シアッローネ 彼の考えでは閣下が、彼の仲間に入り込んで、誰かを買収した。買収されるような裏切り者がいたと。しかしそれが誰か、見当がつかないと。私だけにこっそり、閣下・・・誰なんです?
 スカルピア 一番思いがけない奴さ。頭を使え、頭を、シアッローネ。まあ頭を使うだけじゃ駄目かもしれん・・・勿論リストの最初に来るのはカバラドッシ自身ということになるが・・・夜明けまであとどのくらいだ。
 シアッローネ 二時間です。
 スカルピア 女は何処にいる。
 シアッローネ 閣下が監禁しておけと命じられた、あの部屋であります。
 スカルピア 窓があったかな、あの部屋に。
 シアッローネ 明かり取りだけです。それにも鉄格子が入っています。
 スカルピア よし。オペラ歌手というような人種は気まぐれだからな・・・自殺されてはかなわん。女王陛下も彼女のことをいたく可愛がっておられる。理由はよく分からんが。
 シアッローネ それはあの素晴らしい声のせいではありませんか。
 スカルピア 女王陛下はレイディ・ハミルトンも寵愛しておられる。こっちの方は声はよくない。別の理由があるんだろう。普通の男の感覚じゃ分からん。勿論女王陛下の忠実な僕(しもべ)、国王陛下直属の警視総監のこの私にしてからが分からんのだ。
(シアッローネ、御辞儀をして去ろうとする。)
 スカルピア そうだ、シアッローネ。大事なことがあった。こいつを忘れるところだったぞ。(食べながら。)
 スカルピア 今からその婦人を呼んで話すんだが、その途中で急にお前を呼び付けて、全く馬鹿な命令を出すかもしれん。
 シアッローネ 馬鹿な、といいますと? 閣下。
 スカルピア(鋭く。)つまり従わんでもいい命令だ。全く実行するに及ばん。例えばこんなことを言うかもしれん。死刑執行兵達の銃から実弾を抜き、その後空砲を撃てるよう火薬だけを詰めさせろ。カバラドッシには一斉射撃の時死んだ振りをしろと言え。そのあとあいつを馬車に乗せて、ちゃんと窓にはブラインドを下ろして、こっそり国外に・・・そうだな、ミラノへでも運べ、などという馬鹿な命令をだ。
 シアッローネ(ノートと鉛筆を取り出して。)えー、これを書き留めておいてよろしいでしょうか、閣下。なかなか込み入っているようですので。
 スカルピア どこが込み入っているんだ。簡単な話だ。あの女が聞いている時に出す私の命令はすべて実行するな、それだけのことだ。分かったな。
(間。)
 シアッローネ 既に閣下が出されている命令を実行に移せ、という命令の時は如何致しましょう。
 スカルピア(苛々しながら。)それならそいつは実行したらいいだろう。
 シアッローネ ああ。でもそれだと閣下の命令に従わないということになりません。困りました、閣下。これはやはり書き留めておきませんと・・・
 スカルピア こんなものが予め書いて置けるか、馬鹿者。あの女の気持がまだ私には分かっておらんのだ。
 シアッローネ ああ、成程。だんだん分かってきました。
 スカルピア(呟く。)このドアホ。
 シアッローネ(明るく。)こうすれば紛らわしい混乱はすべて避けられます、閣下。実行に移すべきでない命令を下される時に、閣下が私に目配せをして下さればいいんです。
 スカルピア(早口で。)うん、それはうまい考えだ。「死刑執行兵達に空砲を詰めさせろ。」
(スカルピア、オペラでやる大きな目配せを行なう。)
 シアッローネ いや、閣下。もっとはっきりした合図でなければ・・・これは非常に微妙な問題です。一婦人の名誉に関わることであり、また一男性の命にも関わることであります。閣下も私にここでそのー・・・大チョンボをやらかすことをお望みではないでしょう。ハンカチを落とすとか・・・何かそんな工夫を・・・
 スカルピア 分かった。ハンカチを落とす。必ずはっきり分かるようにしてやる。心配するな。女を通せ。
(シアッローネ退場。スカルピア、ワインを飲む。時計が雷のように二時十五分を打つ。スカルピア、万事うまく運んでいることに満足して微笑し、一人頷く。ワインを飲み終わる。)
(ボルトと閂の恐ろしい音が響き、突然トスカ、部屋にいる。半分陰に入っている。スカルピア、ゆっくり立ち丁寧に御辞儀。トスカ、全く応じない。)
 スカルピア 貴女が今現在どこにいるか知りたいでしょうな、トスカ。 マリオ・カバラドッシ殿を貴女の家の地下室で逮捕した後、貴女を、頭から頭巾を被せて、誰にも知られないように、ここに連れて来たのだから。しかしそれにしても何という馬鹿げた隠れ家だ。お尋ね者のテロリスト、それも賞金付きの。それが自分の愛している女の家に匿(かくま)われる。その愛はローマ中に隠れもない事実、それにその女性の気持は革命派に傾いているということが、我々秘密警察にとっくの昔に知られているというのに。そら、いつかスペイン広場の階段の天辺で、フランスの国歌をイタリア語で歌って、私の部下と一悶着起こしたじゃないか。
 トスカ (低い声で。)マリオはどこです。
 スカルピア 私はイタリア語でマルセイエーズが歌われるのを聽いたことがない。特に貴女がそれを歌っているのを聽く。こんな素晴らしい経験はないでしょう。今ひとつここでお願い出来ないものですかな。
 トスカ(前と同じ調子。)マリオはどこです。訊いているのが分からないのですか。
 スカルピア トスカ、貴女にものを訊く権利があるとでも思っているのか。貴女はお尋ね者を匿った。つまり貴女自身がもう犯罪者なのだ。
 トスカ マリオは犯罪者ではない。私も犯罪者ではない。
 スカルピア ふん。それには違った見解もあるでしょうな。ところでワインを一杯如何です。
(トスカ、フンと顔を背ける。)
 スカルピア 素敵なワインです。 本物のフランス製。寝かせた年がまたいい。革命の・・・一七九二年ものです。この年号で食指が動きませんか。
(トスカ、再び軽蔑の身振り。スカルピア、うろうろと動き始める。トスカ、じっと坐ったまま。)
 スカルピア 残念です。良い弁護士だったら貴女をうまく弁護してくれるんじゃないかと思っていましたが。オペラ歌手、芸術家、夢見る人、であったため、自分の恋人の国家転覆の計画には全く気がついていなかったと。
 トスカ(軽蔑の眼。)国家転覆が犯罪ですって? 誰? そんな馬鹿なことを言うのは。
 スカルピア 大変奇妙なことですが、国家です。(そう言っているのは。)
 トスカ 国家? これが国家? はっ。(鼻で笑う音。)
(間。)
 スカルピア どこかで聞いたような曲ですな。良い曲だ。誰のでしたかな。ハイドン? モーツァルト?
 トスカ マリオは何処です。
 スカルピア 実は目と鼻の先に。あそこの壁の向こう。
(左手の壁を指差す。)
 スカルピア 修道僧の鐘楼に。
 トスカ 修道僧?
 スカルピア そう。 最後の懺悔を聞いてやる為だ。二時間後に死なねばならない。ここに死刑執行許可書がある。今日の夜明けがその時刻だ。
(スカルピア、ポケットから書類を取りだし、ちょっと振り回し、すぐに元に戻す。)
 スカルピア 貴女が悲しむだろうと分かってはいた。知らせないですませればとね。しかしあれ程しつこく「何処だ。」と訊かれると、その・・・
 トスカ 死刑? 裁判もしないで・・・
(トスカ、両手で強く机を叩く。)
 トスカ けだもの、けだもの、けだもの。残酷な! なんて話!
 スカルピア(少し苛々した様子で止める。)トスカ、叩くのは止めて欲しい。手を痛めてしまう。
(スカルピア、トスカを机から引き離す。)
 スカルピア さもなければ、机を痛める。
(スカルピア、表面を調べる。)
 スカルピア めったにない出来でね、この机は。信じてくれるかどうか分からないが、ボルジア家伝来のものなのだ。
 トスカ 信じるわ。ボルジア家の。そうでしょうとも。ローマはまたあの時代に逆戻りしたのよ。ナポリの人殺し達の手で。弁明も許さずに人を死刑に処するなんて。ああ、けだもの!
 スカルピア 弁明を許さない? とんでもない。長々とやらせたな。その間中、一度もこちらは口を挟まなかった。随分聞き辛いことばかり口走っていたんだが。王への反逆と神への冒涜の言葉。その奔流のような弁明の中に、起訴されるべき事実を自ら充分に告白していたのでね。
 トスカ 死刑執行の許可は誰が・・・
 スカルピア 私がその下に仕えている人物。私がその命令を聞かねばならない人物。
 トスカ 陸軍総司令? 女王様がいるわ。女王様だったら、命令を取り消して下さる。
 スカルピア そう。女王なら。そして今夜貴女を放して女王のもとへ行かせれば・・・
 トスカ 人殺し! 私を今の今まで監禁して置いたのはその為なのね。
 スカルピア いや。公けには違う。公けには、貴女に我々の捜査を手伝って戴きたいと。容疑者が発見されたのは、貴女の家だったのだからな。しかし私を信用して貰いたいんだが、歌姫殿。捜査の手伝いはもうこの瞬間で終了だ。貴女は今すぐにでも出て行ってよろしい。
(間。)
 トスカ(奇妙な面持。)では行きますわ。辻馬車を呼ぶよう、言って下さい。
 スカルピア それほどの慈悲の心がこちらにあると思っているとはね。今出て行くのなら、歩くか走るか、どちらかですな。
(トスカ、躊う。スカルピア笑う。)
 スカルピア そう、その通り。貴女の足でその距離を行く。仮令貴女がマラソンの戦勝(かちいくさ)をギリシャに伝えたあの伝令の足を持っていたとしても、それにその足は持っていらっしゃるようにお見受けしたが、それでも女王の恩赦を得てここにハアハアゼイゼイ息を切らして着いた時には、もう彼が死んで一時間は経った後でしょう。
(時計が三十分を知らせ、次にもう後十五分過ぎている事を知らせる。)
 トスカ けだもの! 鬼畜生の人殺し! こんな事をするなんて、女王の命令でお前も絞首刑よ。
 スカルピア それはどうですかな。 マリー・アントワネットのあの妹君が、この私を絞首刑にするなどと・・・あのカバラドッシ君は将来国王殺しまでしかねない男ですよ。それを死刑に処したからといって、(女王が私を・・・)
 トスカ 人殺し! ああ、冷酷な、血に餓えた虎! 神に呪われた狂人!
 スカルピア いや、歌姫殿。どうか、その辺までで私を非難するのは止めて戴きたい。これに署名をした人物を呪って貰いたいですな。
(スカルピア、胸のポケットを叩く。)
 スカルピア 私はただこの命令に従っているまでで。勿論これは悲しむべき事です。しかし私は従わねばならない。さもないと・・・
(スカルピア、自分の首が切られる動作をする。)
 トスカ それに偽善者! けだもの! もっと性質(たち)が悪いわ。ああ、神様。裁判もしないで。酷い。酷いわ。
 スカルピア 悲しむべき事態だ。それはさっき私も賛成した。しかし、親愛なるトスカ、ついこの間までの革命下のローマ共和制で、君の友人達はひっとらえて来た容疑者にいつも裁判をしてやる程親切だったのかね。
 トスカ(相変らず軽蔑するように。)裁判なんか。だって私の敵よ。国を破壊しようと企んでいたのよ。
(スカルピア、トスカに向かってにやりと笑う。トスカの議論の不手際を悟らせるように言葉を進め、トスカに近づく。)
 スカルピア 見給え、トスカ。何を国と思うか、誰を敵と思うか、それによる違いだけじゃないか。道徳的観点に立てば、君達と私とで、何ら選ぶところがない。同じだ。
 トスカ 何が同じよ。私達は、「自由」の側に立っているの。「自由」に反対の貴方方とは大違い。暴君! 悪党! けだもの! 民衆の圧制者!
 スカルピア(遮る。今度は威厳をもって。)止めるんだ、トスカ。ここでアリアは不要だ。「自由」を理由にするなんて、口だけじゃないのか。
 トスカ 「自由」は神聖なの。軽々しく口にしないで。「自由」の名が汚れるわ。
 スカルピア 私の言いたいことは簡単だ。つまりフランスの民衆は、王政のもとでよりナポレオン執政のもとでの方が自由なのか、と。
 トスカ 勿論執政のもとでの方でしょ。ナポレオンは古今未曾有の偉大な人物よ。世界革命のあらがい難い力の人格化だわ。
 スカルピア 成程、あらがい難い、ね。そう言えば、歴史のこの瞬間において彼の力はあらがい難いように見えるな。
 トスカ(熱心に。)北部での戦いの、何か情報を掴んでいるの?
 スカルピア 掴んでいると言う事になるか。我が軍はどうやらマレンゴの付近で、敵の逆襲に遭ったようだ。
 トスカ(肺一杯の力で。)ヴィットーリア! ヴィットーリア!
(オペラ「トスカ」に通じている人は、この有名な叫び声がマリオによって舞台裏から勝利の雄叫びとして伴奏なしで歌われる事を知っている。このトスカの声による版は、マリオのものより少し音楽性に欠けるかも知れない。何故ならこのトスカはまだプッチーニのオペラを聴く機会を持っていないから。しかし充分に大きく、声量のある歌い方である。)
 スカルピア(驚いて。)ちょっと。ねえ君・・・ああ、失礼。即興をやっていたのか・・・
 トスカ 期待に違(たが)わなかったわ。私の偉大なナポレオン・ボナパルト。自由、平等、博愛。貴方こそ世界を征服する人。ここにいる反動の豚、こいつなんかとは大違い。お前なんかこれで息の根を止められたのも同じ。ほら振り向いてご覧なさい。世界の新しい夜明けよ。お前がその頭を暴君の前に下げる前に、もう夜明けがやって来ている。
(トスカ、空を指差す。そこは真っ暗闇である。)
 スカルピア ここで考えて貰いたいのはね、トスカ、夜明け、夜明け、と言ったって、その夜明けは君が歓迎出来るような代物(しろもの)じゃないって事なんだ。夜明けの為に運命が決まるのはこの私じゃなくて、誰か他の人間のようだからね。仕事に戻ろう、親愛なる歌姫トスカ殿。状況は今のところ次のようになっている。君の愛人のマリオ・カバラドッシ君の事についてだがね、いくら私がこの件に関して遺憾に感じていたとしても、命令は命令だ。公式なもの、絶対だ。これに従わないとなれば私だって命を賭けねばならん。こんな事に命を賭ける私ではない。普通ならばな。こんな事を思いつきもしないだろう。この件に貴女、ローマ中に愛されている歌姫、そして私の愛する歌姫トスカが、もし関わっていなかったとしたら。さあ、坐ってくれ。ワインを一杯どうだ。落ち着いて話そうじゃないか、どうすれば我々二人が、この悲しむべき状態からカバラドッシ君を救えるか。手段はある筈だ。必ずある、捜せば。貴女の尊敬するナポレオン閣下の手を借りずとも、我々二人で。借りようとしてもローマからこう遠くてはどうせ駄目なんだから。
(スカルピア、トスカを見ずに二つのグラスに注ぐ。)
(トスカ、急に大股にテーブルに進み、坐る。右手を広げ、左手にグラスを持つ。サラ・ベルナールの有名な写真のポーズそっくりの形を作る。)
 トスカ 値段は?
(間。)
 スカルピア 値段?
 トスカ その値段はいくらか、と訊いています。
 スカルピア ああ、命の値段ね。トスカ、それは貴女の払える最高のもの。
 トスカ その物を言うがいいわ。マリオの命の為なら高すぎる物なんてありはしない。
 スカルピア 高すぎる物はない?
 トスカ 私の家でも、宝石でも、貯金でも、毛皮でも、絨毯でも・・・
 スカルピア ハッ。
 トスカ 何故笑うの。私のペルシャ絨毯は一財産よ。この道の通に訊いて集めているんですからね。
 スカルピア ハッ。
 トスカ 値段は何?
 スカルピア 君だ。
 トスカ 私?
 スカルピア(立ち上がって。)値段は君だ、トスカ。私は君を戴く。
(スカルピア、トスカを抱擁しようとする。しかしトスカは力の強い女で、楽にスカルピアを拒絶する。)
 トスカ(笑う。)馬鹿な人! そこの窓から身を投げた方がましよ。
(今の小競り合いの為・・・短いものだったのだが・・・スカルピア、少し息を切らしている。次の不滅の台詞を尊厳をもって言えるようになる迄に少し暇がかかる。)
 スカルピア 身を投げるんだな、それなら。あの男もその後に続くさ。カバラドッシ君もさぞかし君が中庭でのびているのを見て喜ぶことだろう。その姿が、彼がこの世で見る最後の光景なんだからな。後は目隠しをされて鉛の弾丸(たま)を心臓に打ち込まれるだけなんだから。
(少し喘ぎながら、やっとグラスのワインを飲み込む。手が少し震えている。)
 トスカ ああ、けだもの! 一体なんていう取引なの、これは。
(間。スカルピア、落ち着きを取り戻す。またワインを注ぐ。)
 スカルピア 簡単な取引ですな、歌姫殿。説明など全くいらない。「はい」の一言で私は彼を救う。「いいえ」の一言で私は彼を殺す。これ以上簡単な話はありはしない。そうでしょう。
(間。トスカ、深い、オペラのアリアを歌う前の時のような大きな息つぎをする。)
 トスカ いろ気違い! 悪魔の化身! 地獄の使者! 人非人!
 スカルピア 分かった、分かった。それはもう分かっている事だ。しかしここで我々が、限られた時間内に決めねばならないのは・・・
(トスカ、この間に充分息を吸い込んでいる。その効果あり、また次の台詞を一息にぶっつける。)
 トスカ 豚! 怪物! 薄汚れた狼! どういう子宮からはぎ取られてこの世に出て来たの。人間の子宮からじゃない。それは確かよ。人間のであるもんですか。人間だったらこんな怪物に乳をやったりしないわ。尻尾のある化け物! どろどろの沼から這い出て来た悪霊!
 スカルピア ああ、止めてくれないか、トスカ。時間なんだ、な。時間がないんだ。それでどっちなんだ?「はい」か「いいえ」か。質問は簡単。答も簡単な筈だぞ。
(間。トスカ、また息を吸い込む。)
 トスカ そこの窓から大声で叫んでやる。「スカルピアは悪党だ」って。ローマ中に聞こえるよう。
 スカルピア 君の素晴らしい声量をもってしても、誰にも聞こえないだろう。それにたとえ聞こえたとしても何の耳新しいこともない。誰だって私が悪党だってことは知っている。さてと、「はい」か「いいえ」か。どっちなんだ。
 トスカ 癩病患者に触られた方がまだましよ。
 スカルピア(頷く。)成程。それはかなりはっきりした拒絶と見て良さそうだな。
(スカルピア、ベルの紐を引きに行く。)
 トスカ(急に人間らしい悲壮な声。)止めて!
 スカルピア(手はまだ紐を握って。)その「止めて」は、「はい」なのかな、それとも相変らず「いいえ」の意味か。
 トスカ 何が楽しいんでしょう、貴方を心の底から嫌悪し、体中で抵抗する、そんな女を無理矢理ベッドに連れて行って。
(間。)
 スカルピア 良い質問だ。
(スカルピア、紐から手をはなす。)
 スカルピア その答をお話ししよう。トスカ、私は自分で特別に魅力的な人間だとは思っちゃいない。しかし君は驚くかも知れないが、女を・・・いや、相当魅力的な女性でもだ・・・それを私のベッドに引き入れるのは困難ではない。困難どころか、連中は喜んで・・・いや、それ以上だ。自分から喜んで入って来た。警視総監というこの地位は、この点では実に「目をつけられている立場」なのだ。勿論時にはちょっとしたことを頼まれる。恋人を助けろ、夫を助けろ、万引きを大目に見てくれ、こうだ。しかし普通の場合そんな頼み事など全くない。連中には私の地位それ自身が魅力なのだ。「サンタンジェロ城で私、あの恐ろしい警視総監に強奪されたの。」こう自慢したいのだ。しかし事態を落ち着いて観察すれば、強奪されるのは大抵何時だって、この私なのだ。(溜息。)こんな事が続くと、どうも退屈になってきてね。
 トスカ(息を溜めていて。)ブルジョワの犬! 皮肉屋! やくざ者! 大っ嫌い。そんな嘘を自慢たらたら・・・
 スカルピア(興奮して。)そう、そこなんだ。その「大っ嫌い」、これは本物だ。正真正銘混じりっけなしの「大っ嫌い」。そしてもし君が私と一緒にあそこへ行くということになれば・・・
(右手の扉を指差す。)
 スカルピア もっともっと私を嫌うだろう。私を噛む、引っ掻く、それに唾まで吐きかけるだろう・・・
(スカルピア、ゆっくりトスカに近づく。)
 スカルピア そしてありったけの声を張り上げて私を罵る。それから急に君の怒り狂った体がもがくのを止め、震え始める。ゆっくりと、そう、ゆっくりと、私の震えている体の一部となってゆくのだ。そして突然二人の体にクライマックスが来る。君の体は私の体に従属してくる。(君は天に登る。)そしてその歓喜が私に伝わるのだ。君の嫌悪、私の欲情、この結合は神の配剤なのだ。ああ、トスカ。暫くの我慢だ。私に至福を与えてくれ!(スカルピア、トスカを間近から見つめる。しかし抱擁はしない。さっきの拒絶で懲りている。)
 トスカ そんな・・・いや。命を賭けても。
 スカルピア(ベルの紐を引っ張る。)残念だ。
(シアッローネ登場。)
 シアッローネ(息を切らしながら。)御命令は? 閣下。
 スカルピア 知っている筈だぞ。
 シアッローネ はあ? 私が?
 スカルピア(恐ろしい声。)死刑を執行するんだ。
(トスカ、体を固くする。しかしシアッローネも体が固くなる。)
 シアッローネ という事の意味は・・・
 トスカ(スカルピアの足元に身を投げて。)止めて。止めて。お願い。哀れと思って。お慈悲です。この私を見て。王様の前の乞食。足元にひれ伏していますわ。これで充分ではありませんの。
 スカルピア 駄目だ。(シアッローネに。)死刑の執行だ。
(シアッローネの困った顔がさらに困った顔になる。)
 スカルピア どうした。何を待っているのだ。
 シアッローネ 閣下、失礼ですが、その・・・何か落とされませんでしたでしょうか。
 スカルピア 何だと?
(スカルピア、シアッローネが見ている視線の方を追う。)
 スカルピア 馬鹿め! 最初の命令だ。最初の命令通りにやればいいんだ。やれ!
(シアッローネ、ノートを取りだし、参照する。顔、明るくなる。)
 シアッローネ はっ、閣下。閣下の最初の命令通りに。
(シアッローネ、回れ右する。)
 トスカ いいえ、待って。
(シアッローネ、確認のためスカルピアの方を向く。)
 スカルピア うん、待て。
(シアッローネ、すぐに扉の方へ進む。)
 スカルピア(怒鳴る。)待てと言ったんだ。馬鹿野郎!
 シアッローネ(呟く。)よく分からないな。
 スカルピア 何だ、トスカ。
(この時までにシアッローネ、立ち止っている。トスカ、この経緯には何も気づかず、スカルピアの足元から身を起こす。次の台詞を最も効果あらしめるために、この動作をゆっくり行う。おまけに、次の台詞は短くその必要はないのに、息を充分吸い込む。)
 トスカ(スカルピアに、絶望的な呟き。)いいわ。
 スカルピア シアッローネ、考えを変えたぞ。まだ他に命令がある。
 シアッローネ(呟く。)やれやれ!
(シアッローネ、またノートを取り出す。)
 シアッローネ はっ、閣下。
 スカルピア マリオ・カバラドッシは銃殺に処さない。
 シアッローネ(従順に。)じゅうさつに・・・しょさない・・・と。
(シアッローネ、再びスカルピアの足元を捜す。スカルピア、分かり、ハンカチを探る。二人にとって有り難いことに、トスカ、この時までに両手で顔を覆って、静かに泣いている。)
 スカルピア その通りだ。今から細かに指示を与える。(ハンカチを捜すが、ない。)偽装銃殺を行う。
 シアッローネ(書き留める。相変らずハンカチの落ちるのを待っている。)ぎそう・・・じゅうさつ・・・と。
 スカルピア マスケット銃から実弾を抜き取れと、死刑執行兵達に命令しろ。
 シアッローネ(相変らず合図を待ちながら。)マスケット銃から実弾を・・・
 スカルピア そして空砲を詰め直す・・・シアッローネ、お前、ひょっとしてハンカチを持っとらんか。
 シアッローネ はっ。持ち合わせておりませんが・・・
 スカルピア(空しく笑う。)ははは・・・二人ともハンカチの持ち合わせがないとはな・・・
 シアッローネ(疑わしそうな顔。)は、奇妙であります。
 トスカ(泣き声で。)私、何て言ったのかしら。
 スカルピア 君の答は「はい」だった、トスカ。(シアッローネに。)どうもどこかでハンカチを落としたらしい。
 シアッローネ 成程。もし先程私がハンカチを持っていたとして、それを閣下にお渡ししていたとしたら、閣下はそのハンカチも落としておられたろうという訳で?
 スカルピア そうだ。二人とも、この点について誤解はないようだな。いいぞ。
 シアッローネ(御辞儀。喜ぶ。)閣下!
 トスカ(現在泣いている場所から。)マリオを救うって、どうやって?
 スカルピア これから命令を言う。それを聞けば分かる筈だ。巧妙な計画があるんだ。
(スカルピア、愛想よくシアッローネに書き留めるよう合図する。しかしシアッローネ、ノートをしまってしまう。)
 スカルピア それもそうだ、シアッローネ。こういった事は、書き留めておかない方が安全だからな。
(これを聞き、勿論シアッローネ、再びノートを取り出す。)
 スカルピア そうか、お前自身が忘れるといかんからな。死刑執行兵達の銃から実弾を抜き取る。その代わりに火薬のみを詰める。
 シアッローネ(必死に書き留める。)火薬をですね。
 スカルピア(ウインクする。)そう、火薬だ。それからカバラドッシには、一斉射撃の音と同時にバッタリ倒れて死んだふりをするよう言っておく事。倒れた後、お前達は死体に近づく・・・
 トスカ(死体と聞き、芝居とは分かっていても。)ああ・・・
 スカルピア(トスカの「ああ」が終わるのを待って。)生きているカバラドッシの死体に近づき、死亡宣告を行う。またはとどめの一発を打ち込む・・・これはどちらでもよろしい。
 シアッローネ その時の気分次第ということで、閣下? とどめの一発を打ち込む必要があるかどうか、これは予め分かっている筈がないと・・・状況による訳で?
(見上げて、スカルピアの冷たい視線に会う。)
 シアッローネ つまり、その・・・偽装銃殺の場合でも?
 スカルピア そうだ。偽装銃殺の場合でもだ。
 シアッローネ はっ、分かりました、閣下。(おどおどと。)閣下の御命令を小生、正しく把握しているとは思いますが・・・
 スカルピア そう願いたいな。いいか、ブラインドを下ろした馬車を中庭に用意する。銃殺が終わると、お前はカバラドッシをそれにのせ、ポルタ・アンジェリカまでお前が護送する。そこで俺の名前と権力を用いて関門を通過する。馬車には真直ミラノへ行けと命じる。替え馬も適宜指示しておく。(これがカバラドッシの為の計画だが)その前に歌姫殿を自宅に送り届ける為に、別にお前に命令を出すことになるだろう。
 シアッローネ それは何時頃で? 閣下。
 スカルピア 夜明け前のいつかだ。
 シアッローネ もっとはっきりした時刻になりませんでしょうか。
 スカルピア(怒って。)ならん。
 シアッローネ(囁く。)成程。例のお楽しみの後という訳で・・・
 スカルピア(大きな声で。)そうだ。これでみんな分かったな、シアッローネ。
 シアッローネ(熱を込めて。)やれやれ、自分では分かっていると思っているんですが・・・
 スカルピア よし、下がってよし。
(シアッローネ、行きかけて、間違いかと戻って来る。スカルピア、怒り狂った動作。シアッローネ、逃げ去る。ボルトと閂のがちゃがちゃいう音が響き、その後、静かになる。トスカは窓のところ、スカルピアに背を向けている。スカルピア、トスカに近づき片手を肩に掛ける。トスカ、びくっとする。スカルピア、楽しそうに笑う。)
 スカルピア 歌姫殿、こういう手筈でいいんですな。
 トスカ もう一つ・・・
 スカルピア それは?
 トスカ ミラノに行ったあの人を、後で訪ねたいの。
 スカルピア 勿論構わん。よし、今書類を買いて置こう。
(スカルピア、トスカに背を向けて坐る。書き始める。トスカ、疲れた様子でテーブルに近づく。テーブルには大きなパン切りナイフが見える。トスカ、これを掴む。と丁度その時、スカルピア振り向く。トスカ、咄嗟にナイフを背中に隠す。)
 スカルピア ミラノも幸せな町だ。貴女の素晴らしい声を聞くチャンスがこれで与えられるんだからな。
 トスカ(冷たく。)御親切に、男爵。
(スカルピア、再び机に向かう。トスカ、さっと飛び掛かり、力いっぱいスカルピアの背中をナイフで突く。抜いては突き立てる。その時に叫ぶ。)
 トスカ 血にまみれた女たらし! 恥知らず、恩知らずの悪党! 人非人! 好色漢! おお、復讐!(訳註「ハムレット」(第二幕、第二場)福田恒存訳)
(ナイフは容赦なくスカルピアの背中に突き立てられる。しかし何の効果もないように見える。五回ほど攻撃を受けた後、スカルピア、立ち上がり、トスカに丁寧に書類を渡す。)
 スカルピア これが貴女の旅行通行証。(スカルピア、上着を脱ぐ。と、下に防弾チョッキとおぼしき、表面が革製の胴着。)こいつはなおしに出さんといかんな。このところ二度ばかり女性に、同じ様にやられたんだが、チョッキにはかすり傷一つつかなかった。いや、あっぱれな力ですな、トスカ。たいしたもんだ。
(スカルピア、防弾チョッキを脱ぐ。完璧な礼儀正しさで寝室の扉を開け、中へ導く動作をする。間。トスカ、扉の方へ行く前にマリアの像に御辞儀をする。)
 スカルピア(微笑む。)革命に忠誠をつくす者としては、理性の女神だけに礼を捧げるんじゃないかと思っていたんだが?
 トスカ こんな事態になって、理性の女神に何が出来るって言うの。
(トスカ、スカルピアの前を通り寝室に入る。)
 スカルピア(同情をもって。)成程、そういう事になるか。
(スカルピア、トスカに続く。)
(照明暗くなるにつれて、時計、大きく三時をうつ。暗闇の中で短い間。この間観客には近くの教会堂で修道僧がミサを歌っているのが聞こえる。その声も微かになり、三十分過ぎた事を時計が知らせる。)

(照明がつく。 間あり。トスカ、ゆっくりと寝室から出てくる。髪の毛がやや乱れていて、イヤリングを口にくわえてはいるが、その他は入って行った時のトスカとあまり違わない。スカルピア、ゆっくりトスカの後について出てくる。今は左の胸に男爵の印のある夜着を着ている。)
 スカルピア なあ、トスカ。もう一度言うが、これは昨夜食べたもののせいだ。
 トスカ それとも働き過ぎね。夜勤がいけないのよ。
 スカルピア ああ、ああ、なんという恥。なんていう痛み。
 トスカ 痛み?
 スカルピア ここだ。この私の存在そのものに痛みが・・・
 トスカ そうね、他は痛まない筈だわ。
 スカルピア ああ、愛(いと)しいトスカ、君を愛撫して、接吻して、息を詰まらせる事だって出来るのに・・・
 トスカ それはされたわ。(欠伸)さーて、馬車をお願いするわ。
 スカルピア 駄目だ。
 トスカ 会話をしたいっていう気持ちかしら?
 スカルピア くそ、くそ、糞ったれ、という気分だ。
 トスカ それとも、トランプでも?
 スカルピア いいですか、誇り高き美しき歌姫殿。貴女の自由はまだ私が握っているんですからね。
 トスカ あら。
 スカルピア 私の好きなだけ貴女をここへとどめておける。そう、そうだ、トスカ。ここの静かな部屋にな。まだ私は自分の意志のままに出来るのだ。
 トスカ 貴方の意志? そう貴方の恣意のままにね。お許し下さい、男爵、馬鹿な洒落を言ったりして。でも今は冗談しか出て来ないっていう気分。正直の話、私少しお気の毒なんですもの。
 スカルピア 哀れみなどいらん。
 トスカ 憐愍の気持。今のところ差し上げられるものと言ったら、それだけだわ。私、ベッドのところにバッグを置いて来た。髪が乱れてしまって。化粧を直したいわ。だってあんな総攻撃にあったんですもの。本当の総攻撃だったかどうかは疑問ですけど。戻って来たら、家に帰れるよう馬車が待っている筈ですわね、男爵。
(トスカ、小さな御辞儀。退場。スカルピア、乱暴にベルの紐を引く。机につく。扉にガチャガチャという音。シアッローネ登場。)
 シアッローネ 閣下?
 スカルピア 計画の変更だ。
 シアッローネ(呟く。)閣下、今度はちゃんとハンカチを持って来ましたので。
 スカルピア(大きな声で。)ハンカチなどいらん。今あいつはおらんだろうが。
(隣の部屋からトスカの静かな歌声が聞こえる。Vissy d'Arte. (歌に生き、恋に生き)のアリアである。)
 シアッローネ 成程。あの人はいないと。するとややこしい事はなしだ。やれやれ。(ノートを取り出す。)先程の御命令によれば、ここで帰宅のための馬車を用意する。もうお楽しみは終、御用済みで・・・
 スカルピア まだだ、馬鹿もん! エー、つまりその、馬車はまだだ。
(トスカの歌声、少し大きくなる。)
 シアッローネ(驚く。)ええっ? まだ?
(シアッローネ、「ははあ」と思い当たる。)
 シアッローネ(感にたえたように。)ははあ、アンコールで、はあー。
 スカルピア 馬鹿、何がアンコールだ。シアッローネ、お前に打ち明ける事がある。これは絶対の秘密だ。
 シアッローネ これは光栄であります、閣下。(ノートを取り出す。)
 スカルピア ノートなどいらん。やれやれ、そんなメモが軍法会議のメンバーの手にでもわたってみろ・・・
 シアッローネ 分かりました、閣下。(ノートを収める。)証拠がなければ事実なし、ですから・・・あ、失礼。これはナポリの兵隊達がよく言う言葉で・・・
(トスカの声、もっとはっきり聞こえてくる。)
 スカルピア シニョーラ トスカは国家にとって今や危険人物となっている。
(シアッローネ、トスカの声にうっとりと聞きいっている。)
 スカルピア(鋭く。)聞いているのか、シアッローネ。
 シアッローネ 申し訳ありません、閣下。しかし、なんていう奇麗な声。あれは何を歌っているんですか。
 スカルピア うん、どうやら、自分が如何に人生を歌に捧げ、愛に捧げたかをだな・・・
 シアッローネ ははー、慥にそうですな。正にそうで・・・
 スカルピア そうだ。ささげ終わって、もう死なねばならん。
 シアッローネ 死なねば?
 スカルピア そう。死なねば。
 シアッローネ どうしてでしょう。
 スカルピア あいつは国家の重要機密を知ってしまったのだ。
(間。)
 シアッローネ 第一級の機密を?
 スカルピア そう。第一級の機密をだ。
 シアッローネ 国王と警視総監のみの知る?
 スカルピア 警視総監のみの知るだ。
 シアッローネ おお、これは!
 スカルピア そうだ、シアッローネ、「おお、これは!」だ。さて、シニョーラ・トスカが女王の特別な友人であり、また有名なオペラ歌手であることを考えると・・・どういったやり方にするかな。愛人の傍に立たせて一緒に銃殺するか。
 シアッローネ マリオ・カバラドッシと? しかし彼は空砲で撃たれる予定だったのでは?
 スカルピア 実弾だ、シアッローネ。実弾だ。
 シアッローネ 失礼しました。確かにここにありました。馬鹿なことを言いまして。実弾、空砲ではない・・・ちゃんとここに。下線が引いてあります、閣下。
 スカルピア そうだ。しかし彼女はそれが空砲だと思っている。
(トスカ、アリアの最後の部分に来る。)
 スカルピア こういう話にしてはどうかな。有名な画家が・・・例えばダヴィッドでもいい・・・それが後世のためにスケッチを残したいと言っていると彼女に話すんだ。王党の殺人者達の冷たい鉛の弾から愛人を守るトスカ。なんて英雄的で、革命的な図だと言ってやる。どうかな、これは、シアッローネ。
 シアッローネ 素晴らしいです、閣下。しかし女王様には、どう説明しましょうか。
(間。)
 スカルピア 事故だと言えばいい。死刑執行班が空砲と実弾を取り違えたと。
(シアッローネ、疑わしそうな顔をする。)
 スカルピア 気にいらんか? しかしこれぐらいのことは起きるぞ、我が軍では。ナポリ女王は自分の臣下がどの程度かぐらいちゃんと知って・・・
 シアッローネ いいえ、私の申し上げているのはそこではありませんので。例えば何故、正真正銘の政治犯の死刑執行にあたり、空砲などを使えと命令したのか、と。
 スカルピア 慈悲という理由ではどうだ。カバラドッシを実際には殺さず、懲らしめてやる為だったと。
 シアッローネ 閣下の美徳として上げられるものは沢山あります。しかしその中に、慈悲の心というのはちょっと・・・
 スカルピア 分かった、分かった。じゃあ他の手段だ。どんなのがある。
 シアッローネ 毒では?
 スカルピア このボルジア家の館(やかた)だった場所でか? まずいな、シアッローネ。そいつはまずい。
 シアッローネ この重要機密のことですが、あの人のバッグの中にあるので?
 スカルピア あいつの頭の中にあるのだ。
 シアッローネ 記憶されているということで?
 スカルピア 鮮明に・・・だろうと思う。
 シアッローネ それは困りましたな。機密と言えば、例えば、中央攻撃態勢の強化策とか、そんな?
 スカルピア うん。そのようなものがない事だとかな。シアッローネ、その方がもっと深刻だぞ。
 シアッローネ ええ、決定的です。閣下があの方にお願いすることにしたら如何でしょう。わが国のこの不能性については、他言無用と。
 スカルピア あいつにお願いする。今の私がそんな立場にあるとお前は思っているのか。
 シアッローネ(成程といった面持ち。)そうですね。強奪者としては無理という訳ですか。
 スカルピア 強奪者とは何だ、シアッローネ。こういった事にはまだ他に言い方がある筈だぞ。
 シアッローネ(その言葉に釣られて。)では野獣の如き強姦者、誇り高く、哮(たけ)り立つ征服者。
 スカルピア 正確な定義を探さんでもいい。それに時間の無駄だ。さっきお前の言ったことだが、今夜のことがあった後で、私があの女の足元にひれ伏して、慈悲を乞い、言ってくれるなと・・・何がおかしい、シアッローネ。
 シアッローネ そのひれ伏しておられる所を想像しまして・・・
 スカルピア 馬鹿もん! 笑い事じゃないぞ。あいつを本当に処分せにゃならんかと、真剣に考えとるんだ。笑っている場合か。
 シアッローネ は。悲劇であります。(トスカの声を聞きながら。)あのすんだ声、感情の細(こま)やかな表現。誰も思ってもみないでしょうな。つい五、六分前にあの人が、世にも恐ろしい試練を受けたなどと。普通の女性なら死よりも厭(いと)わしいと思っている試練を・・・
 スカルピア 一様に女性と言っても、実は様々だからな。(突然怒鳴る。)馬鹿め! おたんこなす! 土手カボチャ! 何が死よりも厭わしいだ。死が厭わしいと思うなら、あいつの命を助ける方法でも考えたらどうなんだ。
(間。)
 シアッローネ この危険な秘密が無効になるようにする手立てはないものでしょうか。
 スカルピア 無効になるようにする?
 シアッローネ  先程閣下は、あの人が知った機密とは、何か中央攻撃態勢に関わるものであると漏らされました。何かうまい方策はないものでしょうか、この一見あの人に弱体に見えた中央攻撃態勢が、実は、却って強いものであると納得させるというような、そういう方策は?
(間。)
 スカルピア おお、いいところ突いたぞ、シアッローネ。それは名案だ。うまくいくかもしれん。「無効になるようにする」か。つまり弱体に見えたものを却って強く見せる・・・(赤ワインを一口飲む。)こいつはいいぞ。夜明けまでにはまだ間があるし。(時計を見る。)うん、まだ充分間がある。
(トスカの声止む。)
 スカルピア 出て来るぞ。よく聴くんだ、シアッローネ。死刑は一時間遅らせろ。
 シアッローネ そうしますと、閣下、夜が明けてからということになりますが・・・
 スカルピア その方がいい。死刑執行班もその方が撃ち損じが少ないだろう。(囁く。)的が二つになるかもしれんしな、シアッローネ。お前の名案も駄目だった場合の話だが。
 シアッローネ(心配そうに。)今からで間にあうのですか、閣下。私の案ですと、偽(にせ)の攻撃計画を細かな所まで作らないといけませんが・・・
 スカルピア そう偽のということもあるまい、シアッローネ。本物の地盤の方もかなり出来てはいるんだ・・・本物といっていい程の・・・そう、本物のだ。いいか、時間切れになるまでにお前を呼ぶからな。その時にまた命令を与える。
シアッローネ ハンカチ付きで?
 スカルピア あれはどうも紛らわしい。何かもっと簡単なやつがいい。そうだ、お前を叱りつけることにする。この場合は、お前の名案もきかなかった時だ。トスカを死刑場に連れて行く。恋人と最後の別れをさせるんだ。死刑執行班は、そこで二人を殺す。分かったな。
 シアッローネ(書き留める。)そこで二人を殺す、と。
 スカルピア しかし、もし思惑通りに行けば、お前を見て私は微笑む。 これは事が予期通り運んだということだ。その時にはただ馬車を呼んでトスカを家に連れ帰ればいい。いいな?
 シアッローネ はっきりした命令です。曖昧な所がありません、閣下。しかし一つだけその・・・閣下の微笑みなるものはあまりお目にかかれないものですので・・・間違えると一大事ですので、一つ今お示し下さると光栄でありますが・・・
(スカルピア、微笑する。かなり努力を伴っていることが、観客に分かる。シアッローネ、注意深くこれを観察し、ノートに書き付けている。)
 シアッローネ(ノートを仕舞いながら。)分かったように思います、閣下。微笑ならば馬車を、叱責ならば死刑を、と・・・
(トスカ、寝室から出て来る。)
 スカルピア(トスカの両手を取りながら。)おお、親愛なる歌姫殿、今のアリア、なんて素晴らしい。至福ですな、あれが聞けた我々は。で、あれは何だったのです?
 トスカ 即興よ。
 スカルピア そうか、即興か。ああ、トスカ、君の声の素晴らしさ。君の体全体がはち切れんばかりの働きだ。
(間。トスカの目、一瞬スカルピアの下半身を見る。それから目の方に戻る。)
 トスカ お褒めに預かり恐縮ですわ、男爵。でも私だって調子がでない日がありますわ。(シアッローネに。)馬車は来ているんでしょうね、大尉?
(シアッローネ、どうしていいか分からず、必死の目つきでスカルピアを見る。スカルピア、素早く頭を横に振る。この時までにトスカ、窓のところに行っている。)
 シアッローネ(トスカの背後から。)はい、来ています。
 スカルピア(急いで。)いや、来ておらん。来ておる予定だが来ておらん、そうだな、シアッローネ。
 シアッローネ(すねて、小声で。)閣下、あの人が傍にいない時には、命令は正常で・・・
(スカルピア、顔を顰める。)
 シアッローネ ややこしいな、これは。(トスカに。)失礼しました、トスカ殿。馬鹿な間違いでした。馬車は閣下の話の通り。閣下が「来ている」と言われれば来ている。「来ていない」と言われれば来ていない・・・
 スカルピア 下がってよし!
 シアッローネ(囁く。)という事は・・・?
 スカルピア 下がれ。出て行け。失せろ!
 シアッローネ(やっと意味が分かり。)なすべき事は多く、時間は足りずと・・・分かりました。(足をかちんと鳴らして。)失礼します。
 スカルピア よし。
(シアッローネ退場。)
(スカルピア、窓の傍にいるトスカに近づく。トスカの腰に片手を回して抱こうとしながら。)
 スカルピア ああ、私のトスカ、私は何て言ったらいいんだ。
(トスカ、巧妙に、また、失礼にならない動作で、スカルピアの腕を避ける。)
 トスカ こういう時には何時だって何もしないに限るの。
 スカルピア 何時だって? という事は、君はこういう場面に今までも・・・?
 トスカ(厳しく遮る。)いいえ、男爵、私には今までにこんな経験は一度もありませんでしたわ。
 スカルピア フン、成程。もし経験ずみだったらどうなっていたかな。
 トスカ どうなっていたでしょう。でも私の知っている婦人達で・・・ご免なさい、男爵。私、ご存じかも知れませんが、世間が広いんですの、割合・・・で、知っている婦人達の中には、あの場面に遭遇した、エート、この時には遭遇仕損なったって言った方がいいのかしら・・・すみません、男爵・・・その経験者がいますわ。こういう不幸が起こるっていうのにはそれなりの理由があるんですわ、勿論。ここで私、その話をするのは差し控えますけど・・・でもその婦人達も言ってることですけど、そういう気まずい雰囲気の時、一番いいのは沈黙なの。あれは海老のパテかしら。
 スカルピア そう。
 トスカ それからこっちはきっと、ポークパイ?
 スカルピア いや、犢(こうし)のパイだ。
 トスカ それ戴くわ。(悠々とテーブルにつく。)
(スカルピア、いそいそと給仕をする。)
 トスカ 今夜のあれ、恐ろしい試練、私、体からすっかり力が抜けたよう。ちょっと何か食べた方がいいわ。
 スカルピア(パイを切りながら。)トスカ、君、英語を知っているか?
 トスカ いいえ、野蛮な言葉でしょう? あれ。オペラはないし、知る必要なんかないもの。
 スカルピア いや。ただ、英語にはこんな諺があってね・・・(トスカの皿に切ったパイを置く。)さあ。味はどうかな? ワインはどっちにする?
 トスカ 海老には白ね、勿論。パイには赤だけど。飲める赤があるって、さっき。九十二年もの・・・悪い冗談を言っていたわ、貴方。革命当時の・・・恐怖政治時代のって。でも葡萄の取れた年ね。(今は白。)
(スカルピア、壜を見せる。トスカ、詳しく眺める。)
 トスカ そうね、これの事だわ。英語の諺って、何?
 スカルピア You cannnot have the best of two worlds. 世俗と精神、両世界の喜びを同時に享受するわけにはいかない・・・今夜の君がそれだ。あの私の(筆舌に尽し難い)辛い試練を受ければ、精神界の高みに登れたろうに。また、今のように何事もなければ、肉体の平静は得られている、が、精神的にはゼロだ。両方という訳にはいかない。
(間あり。この間トスカ、海老のパテを口一杯もぐもぐやっている。)
 トスカ(やっと。)随分はっきりした仰り方だわ、男爵。・・・その白をもう少し・・・お許し下されば・・・
(スカルピア、白ワインを注ぐ。)
 トスカ でも違うわね、ちょっと。今のように何事もなかった。肉体の平静はあるわ。そして同時にそれが辛い精神的な試練だわ、私には。イギリス人が言っているのは、だから間違ってるの。その積もりになれば両方だって享受出来るってこと。(トスカ、陽気に笑う。)
(スカルピア、同じ様に笑おうとする・・・が、むっつりと黙ってしまう。)
 スカルピア ああ、トスカ・・・君の目には随分惨めな男に見えているんだろうな、この私は。今日のこの恥で私の人生は終わったようなものだ。
 トスカ あら、男爵、そんなに沈欝に考えることはないわ。(言い直す。)エート、深刻に。一時的な障害に過ぎないわよ。
 スカルピア ああ、まあ、それはそうだ。そうでもなきゃ、今、この瞬間に、あの窓から身を投げているよ。
 トスカ あら、男爵。ちょっと落ち着いてお考えになった方がいいわ。だって今のこと、人生全体からすれば一部じゃないの。
 スカルピア 九十九だって、百の中に占める部分は一部だって言うならね。
 トスカ でも別の種類の愛だってあるでしょう? そしてそれは普通、愛としては、さっきの話の愛よりは高級っていうことになっているのよ。
 スカルピア(陰気に。)何故か分からないな。
 トスカ だってその方が高貴なんですもの。精神を高め、心を爽やかにする。それなしではこの世は、ここサンタンジェロ城の地下牢に過ぎないの・・・エート、私今度は、赤を頂くわ。
 スカルピア(注ぎながら。)君がマリオに抱いているのはそういう高貴な愛なのかな。
(トスカ、答える前に一口飲む。)
 トスカ それが違うの。違うわ。(再び飲む。)そうだったらいいと思うんだけど、違うの。(もう一口飲む。)いいワインだわ。ワインは通なのね。
 スカルピア 有難う。好いてくれるだろうと思っていた。
(スカルピア、グラス一杯に注ぐ。)
 トスカ(間の後。)でもマリオが私に持っている愛・・・それがそうなの。
 スカルピア 精神的な?・・・これは驚いた。
 トスカ どうして?
 スカルピア ローマ中が憧れ、求めている女性に愛されて、それに応えない・・・
 トスカ 応えない・・・全くっていう事じゃないわ、男爵。分かって下さっていると思うけど、マリオは応えてはくれているの。あの人独特のやり方で。
 スカルピア あいつのやり方って?
 トスカ マリオは他の人達とは違うの。理想主義者、革命家、詩人なの。自分の全生涯をよりよい世界建設のために捧げてきた人なの。
 スカルピア そのよりよい世界には、君達二人のベッドを入れる余裕がないのかね。
(間。)
 トスカ あの人、私に大抵のことは話してくれるわ、男爵。でも全部ではないの。なにしろ身の安全が保証されていないから・・・私は勿論、革命家連中の中でも相当マリオに近しい人間よ。でも、もっと近しい人がいるわ。
 スカルピア 女で?
 トスカ いいえ、男、勿論。特にあの親友中の親友、アンジェロッティ。(手を口にやって。)あら、不用意だったかしら。
 スカルピア その名前なら、もうとっくにリストにある。
 トスカ そうだと思っていたわ。
 スカルピア パデュア革命委員会の委員長だ。
 トスカ あら、マンチュアだと思っていたわ。でも情報はそちらの方が確かなはずですものね。あ、また。私の口ったらすぐ滑って。ちゃんと手綱を引いておかなくちゃ。エート、私、何の話を・・・
 スカルピア 心配しなくていいんだ、トスカ。アンジェロッティに関する限り、情報は充分集めてある。今の君の言ったことだって分かっていたさ。(しかし素早くテーブルの上にメモを取る。)しかし、君の言ったもう一つの情報の方には驚いたね。マリオは普通の男とは違って・・・
 トスカ そんなには違っていないわ・・・でも驚かないで、男爵。私、平気。これが私の恋の運命だと思っている。革命の犠牲になる女、それは私が最初じゃないわ。
 スカルピア でもそれじゃ勿論、他にいろいろ恋人がいる筈だな。高貴な人生の目標を持たない・・・もっとその・・・応えてくれる・・・
 トスカ あら。知ってるの? 誰か一人でも。
(間。)
 スカルピア いや参った。こいつは驚いた!
 トスカ そう。「いや参った。こいつは驚いた」のよ。
 スカルピア だけどさっきは歌っていたね、「歌に生き、恋に生き・・」
 トスカ 馬鹿な歌。歌と恋、両方のために生きるなんてどうして出来るの。一方を立てれば一方は駄目になるに決まっている。それにその選択はもう若いときにすませてしまっているの。気がついた時にはもう変えようったって変えられはしない。一旦オペラ歌手になって、本当の愛人を拵えるっていうのは・・・品のない言い方ご免なさい、例の意味のよ・・・それは、リハーサルには遅刻、カストラーティ(男性ソプラノ歌手)とは喧嘩、それにトップCSの音に不安が生ずるっていうこと。マリオみたいな人、美男で、高貴な理想を持って、具体的な要求は何一つしないっていうような男、それがオペラ歌手の持てるただ一つの贅沢なの。
 スカルピア 「あの人への愛は違うの」ってさっき言ったね。すると肉体的には・・・?
 トスカ それが私の弱み。愛のもっと品のない形式にも私、やはり興味があるのね。もうさっきの事で分かったでしょうけど、(訳註 ここで寝室の方を指差す。)私・・・
 スカルピア それは分かっている。
 トスカ アッシジのテノール歌手、それにイスキアの作曲家。両方ともどうってことない男。マリオなの、私の本当のただ一人の愛は。
 スカルピア しかし本当の愛、それは至福の二つの魂が完全な肉体の結合を果たすことによって初めて・・・(心に混乱を来たし、急に黙る。)このワイン、君の言う通りだ。成熟したまろやかな風味。この泥炭のような世界に、こんな素晴らしい・・・
 トスカ(無慈悲に。)本当の愛とは何か、その議論の展開中だったわ、男爵。警視総監の口からなる議論となると、どうしても最後まで聞きたいわ。
 スカルピア 厳しい追及だな、これは。
 トスカ それぐらいの権利は私にあるんじゃないかしら。
 スカルピア それはそうか。しかしそう言ったところで厳しさが減りはしないな。
(トスカ、テーブル越しにスカルピアの方に乗りだし、彼の手を軽く叩く。)
 トスカ ご免なさい、悪かったわ。ワインの話にしましょう。
 スカルピア いや、挑戦は受けよう。論述、真の愛とは何か。著者、シシリア・ブルボン王朝警視総監、野蛮、好色、人殺し、女あさりとして知られた男爵、スカルピア。(スカルピア、立ち上がる。考えに沈んで歩き回る。しかし時々腕時計に目をやる。)
 トスカ 序文がいるかしら。
 スカルピア いるな。私はねっからの人殺しじゃない。女あさりでもないのだ。噂は噂。私も噂としては寛容にこれを認めるが、イタリア中でこれほど誤っているものはない。完全な誤解に基づくものだ。
(間。)
 トスカ 熱弁だわ、男爵。でも誰に聞かせようとなさって・・・?
 スカルピア(熱情的に両膝をついて。)私がこの世で唯一人尊敬する、私が今までに唯一人愛した、その女性に聞いて貰いたくて・・・
 トスカ あら、尊敬にしては、男爵、随分奇妙な姿勢だわ。 それに愛の表現としても・・・くどくは言いません、でも・・・大変個性的なやり方ですこと。
 スカルピア(まだ両膝をついたまま。)ああ。でも愛するトスカ、君には分からないのか、私のこの尊敬と愛のせいなんだ、今夜こんな大恥をかくはめになったのは。
 トスカ ご免なさい、男爵。こっちの方は放して下さらない?
(スカルピア、片手を放す。トスカ、食べかけのポークパイを片手で食べる。)
 トスカ こっちの手の方はどうぞ御自由に。
(スカルピア、不満の唸り声を上げる。)
 トスカ さあ、さっきの続き。論理的にその理由を述べると、どうなるかしら。
 スカルピア 愛に論理などあるのか?
 トスカ(ちょっと考えて。)ないわね、あまり。
 スカルピア もし論理があるとすれば、君はマリオを愛するだろうか。
 トスカ(考えた後。)愛さないわね、きっと。
 スカルピア そして私が君を愛するだろうか。
 トスカ(また考えて。)こちらの質問は難しいわ。その赤、もう少し頂戴。もしお許し戴けるなら。
(スカルピア、注ぐ。)
 トスカ 男爵、貴方、私を愛している、いえ、尊敬している、とまで言って下さったわ。それにここは貴方のお城。そこで嘘を言うなんて思いもよらないわ。でも、今の二つの愛をどう比べようと言うの。私のマリオに対する愛は清純でしょう? 貴方の私に対する愛は・・・
 スカルピア 清純だ。
 トスカ そうだったわね。
 スカルピア そうなんだ。そうだったし、これからもそうなんだ。それが今夜証明されたんだ。(大時計が鳴る。スカルピア、急いで自分の時計を見、時間を調整する。)ケルビーニの「メディア」を見たのが最初だった。あれ以来、僕は貴女を慕い続けている奴隷なんだ、トスカ。ああ、あの三時間。焼きついて離れない。あれは一七九八年一月十二日だった。あれは魔法だ。舞台の上の貴女は。あの瞬間から、辛い悲しい女主人公としての貴女の姿、それが常に僕の視野に現われて来る。僕は他の何も考えることが出来なくなった。その姿が僕に取り付いてしまったんだ。それは愛そのものの姿だ。狂気の、苦悩の、苦痛と歓喜その両方を伴った・・・苦難と犠牲と喜びとを伴った・・・
 トスカ マチネだったかしら。
 スカルピア いや、夜の部だった。
 トスカ 一七九八年一月十二日? ああ、思い出したわ。ラ・ピッツォレータをマチネには出したんだわ。国王フェルディナンドが夜に来られるというので。
 スカルピア そして僕は彼と一緒だったんだ。彼のボックスにいたんだよ、僕は。
 トスカ(ひどくお座なりに。)フェルディナンド! けだもの、圧政者、気違い、地獄の使者! あの人、何か言ってた?
 スカルピア いい声だった。しかし、僕にとっては、トスカ、貴女は輝きだった、清さだった、愛らしさだった。こういう女性の姿だ、こういう多面的な美、あらゆる角度から様々な美を示すこういう女性、それのみが私を救うことが出来る。この卑劣な退化した人生に急速に落ち込んで行く私を、ただこれだけが・・・
 トスカ あの人、何故来なかったんだろう。
 スカルピア 誰の話?
 トスカ 国王フェルディナンド。
 スカルピア けだもの、圧制者、気違い、が?
 トスカ ええ。不思議。それだけ? 続きは?
 スカルピア そうだ、君は僕の全存在を変えてしまった。君のあの輝かしい「メディア」を聞くまでは、僕の人生は野蛮で好色な・・・真直地獄へ行く道を辿るだけだったろう。しかし決して忘れ得ないあの夜以後・・・
 トスカ 何かしら、貴方をそんな悪党にしたのは。
 スカルピア きっかけ・・・だろうな。
 トスカ じゃあ、きっかけさえなかったら、貴方は素朴で、正直で、神を怖れる人間だったの?
 スカルピア まさかそれを疑うんじゃないだろう?
 トスカ(からかうように。)あら、疑うわ、男爵。
 スカルピア(情熱的に、跪いて。)ああ、トスカ、どうか疑わないで。お願いだ。信じて貰いたい。あの呪われた役所というやつさえなければ、僕はそこらにいる普通の人間と何の違いもありはしないんだ。
 トスカ その話は信じるわ。そうだろうって思うもの。でもそれはさっきの質問への答じゃないわ。じゃあ、男爵、そんな呪われた役所を選ぼうと何故なさったの?
 スカルピア 僕を男爵と呼ばないでくれ。トンニーノと呼んで欲しい。
 トスカ トンニーノ?
 スカルピア そうだ。僕の名前なんだ。
 トスカ トンニーノ・スカルピア? 好きだわ、この名前。貴方には全然似合わない。でも好きだわ。(トスカ、スカルピアの髪の毛を遊びのように撫でる。)ねえ、トンニーノ。貴方、何故警視総監になんかなったの?
(間。)
 スカルピア(言っているうちに名案が浮かぶのを期待しながら。)あの嫌われもののナポリ王朝づきの?
 トスカ ええ。
 スカルピア それに人殺しで、女漁り。
 トスカ ええ。
(間。)
 スカルピア なかなかいい質問だ。
 トスカ そうでしょう?
 スカルピア 何も考えないで頭に浮かんできた儘を答えるとね、トスカ。誰かがその役をやらなきゃならなかったからだろうな。つまり私じゃなきゃ他の誰かが。
(間。)
 トスカ そしてその人は貴方よりもずっとずっと酷い殺人鬼でもっと酷い女たらし・・・
 スカルピア そう。その通りだ、私の愛するトスカ。
 トスカ 正解と言って呉れると思ったわ。(ワインが注がれるのを見て、遅まきながら。)ああ、もう沢山。午前中にリハーサルがあるの。
(時計が雷のような音をたてて四時を告げる。)
 トスカ あれ、何時だったかしら。
 スカルピア まだ四時だ。
 トスカ まだ・・・四時? (訳註 もうそんな時間かという驚きの声。)
 スカルピア(急いで。)愛するトスカ、僕は償いをしたい。今夜僕は貴女に恐ろしく不埒な行為をしてしまった。貴女を脅迫して、無理矢理・・・修復しようとすれば一生かかるかも知れないような。でも本気で償う気になれば、数分で出来るんだ。
(間。)
 トスカ(スカルピアをじっと見つめる。)何の話?
 スカルピア 貴女への償い・・・僕の魂の救済。
(トスカが相変らず分からないという顔なので、指差して。)
 スカルピア あそこでだ、愛するトスカ。
(トスカ、やっと分かる。両手で顔を覆う。こみあげて来る笑いを隠そうとするが、うまくいかない。)
 トスカ あら・・・でも今度も駄目よ。きっと。
 スカルピア(厳しく。)さっきもう説明はすんだ筈だ、トスカ。うまくいかなかったのは、君を女性として深く愛し、歌手として心から尊敬していたせいなんだ。我々の二つの魂、二つの肉体が至福の結合をする、これは神々によって我々に運命づけられている事柄なんだ。
(間。)
 トスカ そして、それの説明も終わっている?
 スカルピア うん、かなりのところまで。
 トスカ そう偉かったわね。
 スカルピア(仕草を伴って。)さあ、行こう、トスカ。
 トスカ 行く?
 スカルピア あそこだよ。
 トスカ また?
 スカルピア さあ、僕の希望の星、トスカ。
 トスカ ねえ、男爵・・・
 スカルピア トンニーノ。
 トスカ 「男爵」の方がいいわ、どうしてかしら。意地悪で言っているんじゃないのよ。本当。「男爵」の方がよく似合うの、貴方に。ねえ、男爵、私の感じで言わせて頂ければ・・・この感じって、勿論あの素敵な赤と白のせいに決まっているけど・・・今夜の出だしを最初からこの線で始めていたら、結果は随分違っていた・・・私達二人にとってずっと幸せだったと思うわ。(トスカ、スカルピアの髪を撫で、乱す。)
 トスカ 今日はもう駄目よ、トンニーノ。あのバッグを取って下さらない?
(スカルピア、バッグを取り、トスカに渡す。スカルピアがバッグを捜している間、トスカ、天井を見つめている。)
 トスカ ここの天井にもキューピッドが描いてあるのね。あそこの寝室と同じ。
 スカルピア そうだよ、トスカ。
 トスカ ここはいくつ?
 スカルピア 二十六。
 トスカ 寝室には二十八ね? でしょう?
 スカルピア 知らないな。数えたことがない。
 トスカ 私は数えたわ。それも、何度も。二十八は正確な数の筈よ。あら、変なのね。こっちには二十六しかなくて、あっちに二十八あるなんて。(バッグから、精巧な宝石細工が施してある予定帳を取り出す。)男爵、本当に今夜またあの部屋に行くのは二人にとってよくないわ。私は朝早くリハーサルだし、貴方は御自分でも認めていらした通り、普通じゃないの。それに夜ももう遅いし・・・いいえ、夜じゃないわ、もう朝よ。ほら見て。(窓を指差す。)舞い降りる陽気な朝が、霧に蔽われた山の頂きに爪先立とうとしている。(訳註 「ロミオとジュリエット」福田訳。)・・・ロミオとジュリエット・・・そういえば、そろそろの筈ね、マリオと空砲のあの茶番劇が下で始まるのは。さてと、貴方と今度お会いする日、何時があいているかしら・・・
(トスカ、予定帳を捲る。スカルピアから返事がないので、鋭く見上げる。)
 トスカ あれは夜明けにやるんでしょう?
 スカルピア(居心地悪そうに。)夜明けとか・・・その頃に・・・
 トスカ これはきちんと夜明け前に決まっていると思っていたわ。
 スカルピア 執行には多少の融通性があるんだ。
 トスカ でもとにかく今日マリオはミラノに行くんですもの。もう馬車の用意など出来ているわね。
 スカルピア あー、多分。出来ていると思う。
 トスカ 多分? 思う?
 スカルピア トスカ、僕には他にもいろんな事が頭にあってね・・・
 トスカ まあ、そうね。じゃあ、その手筈だけは早速整えましょう。さっきの大尉殿に私が自分で話すわ。あの人すぐ混乱してしまうタイプ。そう思うでしょう?
 スカルピア 思うな。
 トスカ エート、マリオはミラノに行く、と。 来週の木曜日、ここがいいわ。貴方に予定。丁度オペラ祭の夜だわ。それも出し物は「メディア」。偶然ね。素敵じゃない?
 スカルピア 天にも登る心地だよ。
 トスカ その後私、王宮に招待されているの。だから貴方、私の護衛よ。
 スカルピア それは素晴らしいだろうがね、トスカ・・・だけど、ぶち明けた話を言うとね・・・王宮ってのは、僕の頭にはなかったな。
 トスカ 貴方の頭にあること、それは私にお見通しよ、今じゃ。だって今夜の遭遇の後ですもの。いえ、遭遇失敗の後ですもの、大丈夫よ、トンニーノちゃん・・・駄目ね、やっぱり。「男爵」でなくっちゃ。大丈夫よ、男爵、木曜日の夜は、流れるように事が運ぶわよ。(予定帳をしまう前にもう一度じっと見て確かめる。)そう、木曜の夜は本当に都合がいいわ。だってその日、仮令マリオが都合がいいって言ったって、あの人王宮になんか行けっこないもの。
 スカルピア それにマリオの王宮爆破の日が、その当日となれば尚更ね。
(間。トスカ、瞬間平静を失う。)
 トスカ 貴方の部下達もみんなそれを知っているの?
 スカルピア いや、一人だけがね。
 トスカ でもその計画って、私一人よ、知ってるのは。
 スカルピア もう一人いる筈だ。
 トスカ(ひどく惨め、という様子はなく。)えっ。アンジェロッティ? じゃあ、マリオを裏切ったのはアンジェロッティ? ああ、気違い。ああ、悪魔。ああ、三倍も呪われるがいい。裏切者! もしマリオがこれを知ったら・・・絶対に知らせてやるわ・・・安心していなさい・・・
 スカルピア アンジェロッティは裏切ってはいない。
 トスカ え? 裏切ってない? じゃ、誰が?
 スカルピア マリオがこの計画を話したのは、他に誰が?
 トスカ 他にはいないわ。
 スカルピア 全然?
 トスカ それは勿論フーシェの部下には話しているけど・・・
 スカルピア ははーん。
(間。)
 トスカ(あっけにとられて。)まさかフーシェが・・・そんなのない。そんなの酷すぎる。
 スカルピア この世じゃもう酷すぎるなんて事はなくなっているんだ、トスカ。今は西暦一八00年だ。我々は墓穴に住んでいる。ここは狂気の世界なんだ。
 トスカ フーシェだって言うの?
 スカルピア そう。フーシェ。
 トスカ 私のマリオを裏切った?
 スカルピア マリオとその仲間全員を。
 トスカ その裏切り、いつかはナポレオンに分かってしまう筈だわ。
 スカルピア もうナポレオンには分かっている。
(スカルピア、上着のポケットから書類を取り出す。それは最初、死刑執行許可証であるかのように振って見せた書類。)
 スカルピア その署名が見えるか?
 トスカ(囁き声。)ボナパルト。(署名を情熱的にキスする。)おお、ボナパルト。夢にまで見た、憧れの、私の、ナポレオン!(再びキスをし、それからナプキンで拭う。)あら、海老のパテが。(読む。)国王陛下フェルディナンド直属、警視総監スカルピア男爵宛。親愛なる私の友人、スカルピア殿・・・(呆れて。)私の友人?
 スカルピア(書類を取り上げながら。)読まれてはまずい事も沢山書いてある。たとえ君でもね、トスカ。君が知れば我々二人の首がとぶような事も・・・そう、ここがさっきの件だ。「仏警視総監フーシェを通じて、ジャコバン党員の包括的リストはお渡ししたが、それに関し一言。リスト中最も危険な人物は、マリオ・カバラドッシなり。扇動家、革命家、それにどうやらホモの疑いがあり・・・」ここはちょっと省略と。「王宮を爆破するという、このカバラドッシの計画は明らかに、神聖なる私有財産制度を不埒にも無視するものであり、予(よ)、第一執政ナポレオン・ボナパルトが、決して肯(がえん)ぜざるものである。予が将来そこに居住する意図も持ちおる歴史的建造物に、修復不能な損傷を与えるばかりでなく、予のコレクションに必要欠くべからざる貴重な絵画数点を破損消滅する可能性あり。マリオ・カバラドッシは、無条件に、また即座に、死刑に処せらるべきものなり・・・」
(トスカ、危うく気絶しそうになる。スカルピア、慌ててワイングラスをもって駆け寄る。)
 トスカ ああ、男爵、私の魂を奪っておしまいになるなんて。むしろ私の肉体を奪って戴きたかった・・・
 スカルピア 私もそう願いたかったな。いや、失礼。その意見に賛成という意味で。それにしても君には悪かった。こんな風に真相を知らせなきゃならなかったのは。少しブランデーはどうかな。
 トスカ 戴くわ。
(スカルピア、ブランデーを取りに立つ。)
 トスカ(呟く。)「おお、悪党。二股膏薬の裏切者。けだもの。」
 スカルピア(背中を見せた儘。)僕のこと?
 トスカ いいえ。ナポレオン。
(スカルピア、ブランデーを持って来る。)
 トスカ そういうことね。結局貴方、ナポレオンの犬に過ぎないの。
 スカルピア(坐りながら。)少なくともフェルディナンドの犬であるよりはましなんじゃないかな。
 トスカ 貴方って、犬二匹っていうことね。
 スカルピア そう。しかし公的には一匹分。金はフェルディナンドからしか貰っていない。
 トスカ 酷いものね、貴方の人生。
 スカルピア この世界が酷いんだ。僕が今までやってきたこと、それは将来にそなえた少々の保険に過ぎない。
 トスカ 私の理想、夢・・・幻滅だわ。
 スカルピア(自分にもブランデーを注いで。)そうか。そういうことか。
 トスカ 可哀相なマリオ。あの人、どうなるのかしら。
 スカルピア そう、それはちょっと問題だ。
 トスカ ベルを鳴らして頂戴。
 スカルピア 分かった。(ベルを鳴らす。)
 トスカ でも偽装銃殺なんてやったって何になるって言うの。どうせマリオは死ぬんじゃないの。
 スカルピア うん。まあ、ナポリの兵隊じゃ、何が起こるか分かったもんじゃないからな。
 トスカ そうじゃないの。あの人、恥辱、幻滅で、生きてはいけないっていう事なの。
 スカルピア うん。幻滅でも死ぬよりはまし・・・これは僕のいつも言う言葉なんだが、君は賛成しないかな?
(この時までにシアッローネ、入って来ている。スカルピア、いつもの仏頂面で彼に対す。明らかに、先に行った打ち合わせの事は忘れている。)
 スカルピア いいか、シアッローネ、よく聞くんだ。
 シアッローネ(スカルピアの顔を子細に調べる。)はっ、トスカ殿を屋上に連れて行き、カバラドッシ殿に別れを告げさせ・・・
 スカルピア(呟く。)違うんだ、シアッローネ・・・
 シアッローネ(ひるまず。)その間、死刑執行班はその二人に銃を向け・・・
 スカルピア(再び呟く。)ちょっと違うんだ、シアッローネ・・・
 シアッローネ 勿論、銃には実弾なし、空砲であります。ご心配はいりません、閣下。万事遺漏なきを期しております。
(シアッローネ、自分に満足している様子。スカルピア、不満。)
 スカルピア(本気で不機嫌になって。)何が万事遺漏なしだ。いいか、シアッローネ、今から私が指示する。それが万事遺漏なしなんだ。
 トスカ(これまでのやりとりは聞いていない。)私、大尉にお話ししてもいいかしら。
 スカルピア どうぞ、どうぞ、トスカ。勿論。
 トスカ 大尉さん、あの銃殺のことが終わった後、カバラドッシをここから出す手筈は? 乗り物の手配は?
 シアッローネ エート、乗り物の手配はすみました。
 トスカ どんな乗り物かしら?
 シアッローネ(助けてくれという目つきでスカルピアを見る。)それはその、カバラドッシ殿に相応しい。
 トスカ 長旅でも大丈夫な?
 シアッローネ 永遠の長さでも。
 スカルピア ミラノまでは大丈夫かという質問なんだ、アホめが。(ハンカチを取り出し、ひらひらさせ、落とす。)あっと。
(落ちるまでにトスカ、ハンカチを掴んでいる。そのハンカチで涙を抑える。)
 トスカ ミラノ、ミラノ! ボナパルト! 気違い! あんな奴! ああ、胸が張り裂けそう。あの私の理想の人が・・・思っただけでも涙が出てくる!
(トスカ、ハンカチをバッグに入れる。スカルピア、シアッローネ、これをじっと見る。)
 トスカ あいつの勢力の及ぶ範囲にあの人を連れて行ってはいけないわ。ああ、でもポナパルトの勢力は世界中に及んでいる。あの人が行くところなんてありはしない。(シアッローネに。)あの人のために都合をつけて下さったその乗り物、それは走るの速いの?
 シアッローネ 普通は・・・かなりゆっくり・・・
 トスカ ゆっくり? どういうこと? 一晩で例えばベニスまで行けないの?
 シアッローネ (呆れて。)ベニス?
 スカルピア シアッローネ、お前ちょっと乗り物を頼むのに、勘違いをしていたんじゃないか?
 シアッローネ(諦めて。)はあ、そうかも知れません。
 スカルピア どうもこの大尉が都合した乗り物は、ゴタゴタ飾りのついたものらしい。それに近距離だったんじゃないか? そうだろう、シアッローネ。
 シアッローネ(ほとんど反抗的に。)カソウの場所に運ぶのに適しているんです・・・トスカ殿にお察し戴けるかどうかは判断しかねますが。
 スカルピア(呟く。)お察し戴けたら、お前は首だ。(スカルピア、シアッローネの肩を叩く。)なあ、シアッローネ。我々が必要としているものはもっとスピードが出るやつだ。分かったな。カバラドッシ殿を怪我一つないように安全に・・・そうだな、例えば夜明け前にレグホーンに送る・・・
 トスカ レグホーン?
 スカルピア イギリス艦隊がそこにいる。マリオはボナパルトの敵として、イギリスの艦隊に拾って貰って、イギリスに亡命だ。
 トスカ イギリスに? そんなことしたら革命派で知られたあの人よ、ジョージ三世の手によってすぐ銃殺だわ。
 スカルピア とんでもない。恐らく皇太子の客としてカールトン・ハウスに招待されるだろう。(愛想よくシアッローネに。)さてと、これで今朝からの仕事はすべてはっきりしたろうな。細部にわたり混乱はないな。
(シアッローネ、絶望的にノートを捲り、これに相当する部分を捜す。スカルピア、ページを一枚千切り、鉛筆で何か書く。)
 スカルピア しかしまだ混乱しているといけない。お前は書いたもので欲しいと言っていたな。その方が安全だな。
(スカルピア、書いたものをシアッローネに渡す。)
 シアッローネ(長い間メモを見つめた後。)実弾は・・・なしで?
 スカルピア(微笑む。)その通りだ。
 シアッローネ 全くなしで?
 スカルピア ない。全く。
(シアッローネがメモを読んでいる時、スカルピア、彼の肩に手をのせる。)
 スカルピア お前には分かっとるな。今夜のこの仕事がうまくいった暁には、昇進が待っとるんだ。
 シアッローネ 少佐ですか? 私が? でも私に鼻髭が生えるでしょうか?
 スカルピア 鼻髭だろうと何だろうと、お前の能力があれば、そのうち生えてくるさ。
(突然ベルの鳴る音がし、太鼓の音が聞こえる。スカルピア、窓に突進する。)
 スカルピア 何だあれは。連中はあいつをもう引っ立てとるぞ。これはどういうことなんだ、シアッローネ。
 シアッローネ そんな筈はないんでありますが・・・つまり、その、連中の上官であるこの私の命令を待たずして連中には何も出来る訳がないという意味でありますが。・・・ははあ、いつも死刑は夜明け前、今度もやはり同じに夜明け前、と、単純にそう。遅く帰ると女房連に疑われるのが厭なんですな、多分。
 スカルピア 窓からでいい。早く呼ばんか。
 トスカ(窓のところで。)ああ、私のマリオ・・・雄々しい姿、気高い姿。まるで王様みたいに堂々として・・・
 スカルピア 早く呼べ、シアッローネ。
 シアッローネ そんなに苛々なさらなくても大丈夫です、閣下。 連中は私の部下なんです。私なしでは何も出来るものじゃありません。(窓から怒鳴る。)おい、死刑執行班! 聞こえるか。俺だ。シアッローネ大尉だ。分かるな。
(下から大きながらがら声で、少し酔っ払った喚声が聞こえてくる。シアッローネは人気がない訳ではなさそう。しかし鉄の規律の下に部下を鍛えてきた上官とも見えない。シアッローネの傍に女性がいるのを認めて、二、三、かなりひどいやじが飛ぶ。勿論、二人の間に或る関係を想像して言うものである。トスカ、オペラ風に恋人に呼びかけずにはいられない。)
 トスカ マリオ、マリオ、マリオ。
 シアッローネ おーい、お前ら! お前らを信用しとるぞ。お前らも俺を信用しとるな。いいか、シシリア王の名誉と栄光の為にだな・・・
(「ラプスペリー」と呼ばれる、不満を表す、唇の間で舌を鳴らす音が、聞こえる。)
 シアッローネ それから我等が国王フェルディナンドのためにだ。王様の為になら、お前ら命を投げ出してもいい筈だったな・・・
(シーンとなる。トスカ、沈黙を破ってオペラ調の歌声を上げる。)
 トスカ マリオ、マリオ、マリオ! おお、マリオ。何故私を見てくれないの。
(「ヒュー、ヒュー」他、盛んなやじ。トスカが誰に叫んだのかは、兵士達には分からない。しかしフェルディナンドなる人物に叫んだのではないことは確かで、それを喜ぶ。)
 シアッローネ(窓から叫ぶ。)いいか、ナポリの兵士達。上官シアッローネが、諸君に命令を下すぞ。弾丸(たま)外せ・・・弾丸(たま)。
(一斉射撃の音。)
 スカルピア あいつら、何をやったんだ。
 シアッローネ 心配はいりません、閣下。あれが連中の弾丸(たま)の外し方なんです。士気昂揚ですよ。誰も怪我なんかしちゃいません(下を覗いて。)・・・と思いますが・・・(叫ぶ。)よくやった。いいぞ、お前ら。いいか、今上官が親しく貴様等のところへ降りる。命令を与える為だ、いいな。降りるまで何もするなよ、分かるな。
(再び「ラプスペリー」の音が聞こえる。と同時に、銃を床に投げつける音。)
 トスカ(不満そうに叫ぶ。)マリオ、マリオ。あの人こっちに顔も向けてくれない。私の声は分かっている筈なのに。ああ、どうしたのかしら。
 シアッローネ エート、私には分かるように思いますが、トスカ殿。カバラドッシ殿は、貴女が男爵と、その、親密な部屋で、ある時間一緒にいたと聞いていますので・・・
 トスカ 誰ですか、そんなことをあの人に言ったのは。
 シアッローネ 修道僧達です。死刑の合間にそんな噂をするのが楽しみなんです、連中には。(スカルピアに。)閣下、一時間ほど前のことでありますが、カバラドッシ殿は私に、自分の命を賭けてもトスカ殿の名誉を守るのだと言いました。
(スカルピア、トスカを見る。間。)
 スカルピア あいつの命など今じゃ何の危険もありはせん。
 シアッローネ はあ、でもさっきまではあったであります。その・・・偽の、偽死刑が行われるとなれば・・・閣下は私の申し上げていることがお分かりに・・・カバラドッシ殿には、彼自身の役割を心得て貰わねばと・・・その・・・一斉射撃の音と同時に倒れるという、例の話がありましたから・・・しかしまあ、これは偽じゃなく実は本物でと・・・ここまではいいでしょうか、閣下。
 スカルピア(脅すように。)いいかとは何だ。先刻ご承知だ。
 シアッローネ で、その時カバラドッシ殿は私に言いました。一斉射撃の音を聞いたって倒れるものか。音どころか、押したって引いたって倒れるものか。俺は立っていてやるぞ。「共和制万歳」と叫んで、フランスの国歌を歌って・・・お前等が本当に撃ち殺すまで、と。しつこくこれを言い張って・・・
 スカルピア 何故、前にこの話をしなかったのだ。
 シアッローネ エー、あの時点では、カバラドッシ殿が立っていようといまいと、たいした問題にはならない筈でしたので。(笑う。)しかし今じゃ勿論、話は違いますなあ。閣下、どうしたものでしょう。
 スカルピア 死刑執行班に目隠しをさせろ!
 トスカ(静かに割ってはいる。)いいえ、男爵。一つしか手立てはありませんわ。男爵様、マリオに本当のことを話すのです。
 スカルピア ホントの本当のことをか。
 トスカ ええ、まあ、そういう言い方で言えば。
 スカルピア ああ、トスカ。それは駄目だ。それだけはどんなことがあっても駄目だ。(トスカの前に跪く。)お願いだ。この恥、この恐怖、この恥辱からは免れさせてくれ。おお、トスカ、私を哀れんでくれ、頼む!
 トスカ 私は哀れんでいるわ。それは貴方もご存じの筈よ。でもマリオにあの酷い悲しい誤解の儘、亡命生活を送らせるわけにはいかないわ。
(スカルピア、呻く。)
 トスカ 男爵、貴方、男でしょう? それとも私の思っている程の男には、まだなっていないって言うこと?
(スカルピア、立ち上がる。肩をしゃんと伸ばし、シアッローネの方を向く。)
 スカルピア シアッローネ、カバラドッシに納得させるんだ。男爵スカルピアの口づからの言葉と言ってな。トスカ殿の名誉は守られている。この二時間、この件に関しては、何事も起こってはおらんと。
(間。)
 シアッローネ Non e vero . . . ! (まさか。)
 スカルピア E vero.  (まさかじゃない。本当だ。)
 シアッローネ しかし・・・閣下・・・(スカルピアの夜着を指差す。)
 スカルピア トスカ殿は自分が犠牲となる決心をしたのだ。しかし私がその・・・その気にならなかったのだ。
 シアッローネ でも、楽しみだけは、お楽しみにはなって・・・
 スカルピア(雷のような声。)馬鹿もん! 何が、「お楽しみになって」だ。楽しんでおらんぞ。そのことを言っとるのが分からんのか。
 シアッローネ(くすくす笑い始める。)Il Barone Scarpia! . . . Il famoso  Monstro di Roma . . . Il fabulose Barone Scarpia!(あのスカルピア男爵が・・・あの有名なローマの怪物が・・・おっそろしい男爵スカルピア殿が・・・)(体を二重に折り曲げて笑う。)
 スカルピア(静かに。)死刑執行班をもう一班召集するか、シアッローネ・・・口径も倍の銃を持たせてな。
 シアッローネ(すぐさま笑い止んで。)閣下!
 スカルピア 行って今の話をカバラドッシにしてこい。それから俺の前から消えろ・・・永久にだ。
 シアッローネ しかし、トスカ殿の馬車は?
 スカルピア そうだ。それは準備しろ。出来たら知らせるんだ。しかしそれ以後、お前の顔は二度と見ん。分かったな。
 トスカ(前面に出て。)男爵、貴方。事が思わぬ展開になったからといって、それを全く何の関係もない若者のせいにするなんて、偉大な魂のなさる事ではありませんわ。大尉さん、私がここへついてから、色々して下さったのね。有難う。貴方のこと、私の力の及ぶ限り男爵にとりなして上げる。お約束するわ。
 シアッローネ 有難うございます。
 トスカ さあ、早く行ってあの人のイギリス行きを準備して。それから、ご昇進おめでとう。
 シアッローネ トスカ様!
 トスカ(シアッローネの顔をしげしげと見ながら。) そうね、鼻髭は似合うわ、この顔。
 シアッローネ ああ、トスカ様!(スカルピアに御辞儀。)失礼します。
(シアッローネ、笑いをこらえて進む。しかし扉のところまでがやっとである。ボルトと閂が嵌まる音が終わらないうちに、若者らしい笑いが爆発する。)
 シアッローネ(舞台裏から。)Il Barone Scarpia! Impotente! Non e possibile! Non e vero! Eh, eh, eh! Impotente! Il Barone Scarpia! (スカルピア男爵、インポ。まさか、そんなことが。はっはっは。インポ。スカルピア男爵。)
(スカルピア、陰気にトスカの方を向く。)
 トスカ 立派だったわ、男爵。貴方のあの態度。私、誇りに思うわ。貴方の魂の蘇生、それが可能という気がしてきたわ。
(間。)
 スカルピア 善良なるご婦人の手により、か。
 トスカ そう。悪党の魂に効く薬はこれしかないの。
 スカルピア そうだろうな。それしかないよ。そして肉体の方の蘇生はどうなるんだ。
 トスカ それも来るわ。
 スカルピア これも、善良なるご婦人の手により、か。
 トスカ さあ、どうなるかしら。人生って分からないもの。思いがけない事が起きるものだわ。それに人生の中で、愛ぐらい思いがけないものがあるかしら。それはいろんな形をとる。信じられない程様々な。いつもこう言っているの、私。
(シアッローネの命令を下している怒鳴り声が、下から聞こえる。)
 トスカ 見てみましょう。きっと面白いわ。
(二人、窓へ近づく。)
 トスカ ほら見て。大尉がマリオに貴方のあの話を耳打ちしている。
(下から急に、テノールの大きな笑い声が聞こえる。)
 トスカ 品のない声だわ。真の革命家っていう声じゃない。いつか注意しなくちゃ、機会があったら。
(下からまたシアッローネの命令を怒鳴る声。太鼓が再び鳴る。)
 マリオ(舞台裏。甲高い声。フランスの国歌を歌う。)
   Allons, enfants de la Patrie!
   Le jour de gloire est arrive.
   Contre nous de la tyranie
   L'etendard sanglant . . . . . . . .
  (進め、祖国の若者よ。
   栄光の日は来た。
   我々を潰そうと、暴虐の王の
   血塗られた旗が・・・・・)
(シアッローネ、命令を怒鳴る。)
 マリオ 
   est leve.
  (上げられた。)
(歌声が無残にも中断される。一斉射撃の音がし、すべてを沈黙させる。暫く死んだような静けさ。その後、シアッローネの、命令を怒鳴る声。兵士達が刑場から引き上げる音。)
 トスカ ああ、なんていう倒れ方なんでしょう。本当に撃たれたとしか思えないわ。そうでしょう? 男爵。
 スカルピア(少し心配になって。)本当に撃たれた・・・としか・・・
 トスカ 大尉さん、近づいているわ。立ってもいいって言っているところ。
(長い間。)
 トスカ ああっ。マリオの額! まあ、あれ・・・血・・・血じゃないの。
 スカルピア 血のようだな、どうやら。
 トスカ ああ・・・蛇、がまがえる。悪魔、十倍も呪われた気違い。
(トスカ、芝居で最も典型的な気絶の場を演じる。スカルピア、あまりに気がかりで、トスカの倒れたのに気づかない。)
 スカルピア シアッローネ・・・どうしたんだ。まずい事になったのか。
 シアッローネ(舞台裏で。)ちょっと筋書きと違いまして、閣下。
 スカルピア 馬鹿もん! それぐらいの事は、ここから見て分かる・・・
 シアッローネ(舞台裏から。)どうも一斉射撃の音で気絶したらしいです。そして頭を打って・・・そう・・・気がついてきました、閣下。見て下さい。(マリオに言う。)いいか。一、二の三。ほーら、立って。どこも怪我はなしと。いいか、馬車が用意してある。君はそれに乗るんだ。まづレグホーンに行って、そこからイギリス行きだ。
 マリオ(舞台裏で。苦悩の声。)イギリス? 駄目だ。イギリスなど。どうして殺してくれなかったんだ。
(この時までにスカルピア、気を失ったトスカに近づいて、やっとのこと体を持ち上げ、ソファに横たえ終わっている。)
 スカルピア(トスカの顔を叩く。)トスカ・・・トスカ。目を覚ますんだ。うまく行ってるんだ。
(トスカ、気絶したまま。困ってスカルピア、トスカの扇から二、三本羽根を取って、蝋燭で燃やし、トスカの鼻のところへ持って行く。この間にスカルピア指を火傷し、「くそっ」と言う。トスカ、目を開ける。)
 トスカ 何? この酷い臭い。
 スカルピア 羽根だ。君は気絶したんだ。
 トスカ(思い出しながら。)ああ、けだもの・・・犬・・・悪魔。
 スカルピア マリオは死んでないんだ。ピンピンしている。本当だ。
 トスカ(惜しそうに。)私の大事な扇が・・・
 スカルピア こんなもの、五本でも、十本でも。これよりずっといいやつを・・・
(スカルピア、二人がひどく悩ましい位置にあることを発見する。詳しく説明は要しない。彼は少なくとも物理的には、彼女の上にいる。)
 トスカ 十本。十本だなんて馬鹿げているわ・・・お店はマロケッティー。ボッカチオ通り。
 スカルピア 覚えとくよ。
(この時までにスカルピア、自分の夜着の紐を解き始めている。)
 トスカ 忘れないわね、男爵、あの約束を。これからは、高貴な形の愛しか求めないのよ。
 スカルピア 忘れるものか、トスカ。私の人生はこの瞬間から、精神世界の模範となるんだ。
(スカルピアの夜着、たいした困難もなく滑り落ちる。スカルピア、熱烈にトスカにキス。トスカ、抵抗しない。スカルピア、優しくトスカの衣装を脱がせ始める。)
 トスカ(間の後。)二十八あるって言っていたわね、キューピッド。
 スカルピア いや、二十六だ。二十八は寝室。
 トスカ(夢見るように。)二十六の方がいいわ、私。(トスカ、ほとんど衣装を脱がされている。)
(シアッローネ、急に登場。旅装。手袋をはめている。この一夜の中で最も自分に自信のある態度。今回はうまくやったという確信あり。)
 シアッローネ 閣下?・・・(部屋を見回す。)閣下?・・・トスカ殿の馬車が着きましたが・・・
(間。)
 スカルピア(長椅子の上から。)分かった、シアッローネ。よくやった。一旦送り返せ。夜明け前に出直せと言え。
 シアッローネ(困って。)しかしもう夜明け前でありますが・・・
 スカルピア 違うぞ。俺が言うまでは、まだ夜明け前ではない。
 シアッローネ で、それは何時頃で? 閣下。
 スカルピア すぐかもしれん。すぐかもな・・・しかし今じゃないんだ。下がれ! 用ができたらベルを鳴らす。
 シアッローネ はっ、閣下。(扉に進む。それから思い出し、立ち止る。また例のノートを取り出す。)閣下、私がどのくらい外で待てばよろしいか、およそのところを・・・
 スカルピア 一生だ。
 シアッローネ(ノートに書き留めながら。)イッショウ・・・と。分かりました、閣下。多分意味は掴めていると信じます。
 スカルピア お前がか? 俺にも分からんのに。行け!
(シアッローネ、ノートをしまい、靴をかちんと鳴らし、退場。)
 トスカ(呟いている。)二十二、二十三、二十四・・・
(トスカの唇、スカルピアの唇により閉じられ、最後まで数えられない。)
           
                   (暗転。)
                  
平成四年二月十四日 訳了

http://www.aozora.gr.jp 「能美」の項  又は、
http://www.01.246.ne.jp/~tnoumi/noumi1/default.html


 In Praise of Love (and Before Dawn) was first produced at the Duchess Theatre, London, on September 27th, 1973, with the following cast:

The cast for Before Dawn was:
The Baron Donald Sinden
The Lackey Don Fellows
The Captain Richard Warwick
The Diva Joan Greenwood

Directed by John Dexter
Designer: Desmond Healey


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