ウィンズロウボーイ
       テレンス・ラティガン作
       海老沢計慶 能美武功 共訳

  登場人物
ロニー・ウィンズロウ    少年
ヴァイオレット       女中
アーサー・ウィンズロウ   父
グレイス・ウィンズロウ   母
ディッキー・ウィンズロウ  兄
キャサリン・ウィンズロウ  姉
ジョン・ウェザーストーン
デスモンド・カリー
ミス・バーンズ
フレッド
サー・ロバート・モートン  弁護士

  第一幕 七月のある日曜日の朝
  第二幕 四月のある夕方(九箇月後)
  第三幕 一月のある夕方(二幕の九箇月後)
  第四幕 六月のある日の午後(三幕の五箇月後)

(この芝居は全て、ロンドンのケンジントンにあるアーサー・ウィンズロウ氏の自宅の中で演じられる。舞台は一九一二年頃から約二年間にわたって展開する。これは第一次世界大戦(一九一四年ー一九一八年)の始まる二年前からその直前までの期間に相当する。)

   第 一 幕
(場面はロンドンのサウス・ケンジントン、コートフィールド・ガーデンズにあるアーサー・ウィンズロウ氏の自宅の応接間。七月のある日曜日の朝。第一次世界大戦(一九一四年ー一九一八年)を二年後に控えたある時期。)
(部屋の家具・調度は堅固なものだが、かと言って装飾性に欠けるものではなく、中流でも裕福な家庭であることを示している。)
(幕が上がると、オズボーン海軍士官候補生の制服を着たおよそ十四歳ぐらいの少年、登場。その態度にはどこか固い緊張した感じがあり、顔は無表情で感情を抑えているのが分かる。)
(玄関ホールに誰かの足音がして、やがてその音が近付くにつれ、少年は急に隠れる所でも探すように辺りを見回すが、それが無駄だということも自分で分かっている。年配の女中、ヴァイオレット、登場。少年に気付き、驚いて立ち止まる。)
 ヴァイオレット ロニー坊ちゃま!
 ロニー(無理に平静を装おって。)やあ、ヴァイオレット。
 ヴァイオレット まあ、どうなさいました。火曜日まではお帰りにならないと思ってましたのに。
 ロニー うん、そうだね。
 ヴァイオレット どうしてお戻りになると知らせて下さらなかったの? 坊ちゃん。いけない子ね。分かっていればきっと奥様が駅迄、お迎えにいらっしゃった筈ですのに。坊ちゃまのような方が、一人でロンドン中を歩き廻るなんて、何てことでしょう。私はそんな事、決してありませんでしたよ。一体、何処から入ってらしたの? ああ、庭からですね、いけませんよ。
 ロニー 違う。ちゃんと玄関から入った。ベルを鳴らしたら、料理番が開けてくれたんだ。
 ヴァイオレット それで、トランクやおやつ用のタックボックス(訳註 原文は tuck box. 家庭から持参する菓子入れの箱のこと。)はどちらへ?
 ロニー 二階。タクシーの男が運んでくれた。
 ヴァイオレット タクシーの男? 車でお帰りになったんですか? (ロニー、頷く。)坊ちゃま、お一人で? まあまあ、今の若い子供達のすることと言ったら・・・お父様やお母様がお聞きになったら、何と仰るか・・・。
 ロニー 二人は今どこ?
 ヴァイオレット 教会です。勿論。
 ロニー(ぼんやりと。)ああ、そうか、今日は日曜日か。
 ヴァイオレット どうなさったんです? 坊ちゃま。日曜日をお忘れになるなんて。学校で何をしていらしたんです。
 ロニー(鋭い言い方で。)それ、どういう意味?
 ヴァイオレット 頭のどこか、おかしくなったんじゃありません? さてと・・・とにかく荷ほどきが先ですわね・・・坊ちゃまの箪笥は今、ディッキー様がお使いになっていて、ご自分の服やシャツを全部、入れていらっしゃいます。あれを一度全部出して、あの方のベッドの上にお移し致します・・・そう。そして、あの方には、何処か別の場所に空きを見つけて戴きますわ。
 ロニー 手伝おうか?
 ヴァイオレット(軽くあしらって。)折角ですけれど、お断りしますわ。手伝って戴いたりしたら、丸一日潰れてしまいます。いいえ、坊ちゃまはこのまま、下でお母様とお父様のお帰りをお待ちになって下さい。お二人は直にお戻りになります。
(ロニー、頷く。悲しそうに顔を背ける。ヴァイオレット、ロニーが背を向けたのを不審に思って。)坊ちゃま?
 ロニー(振り返り)えっ?
 ヴァイオレット もう私には「ただいま」のキス、して貰えないのかしら? それとも、もうそんな事、する年じゃなくなったのかしら?
 ロニー ごめん、ヴァイオレット。
(ロニー、ヴァイオレットの所に行き、彼女の大きな胸に包まれる。)
 ヴァイオレット それでいいわ。まあ、坊ちゃまも随分大きくおなりになって。
(ヴァイオレット、腕をいっぱいに回してロニーを抱きしめ、変わりがないか確かめる。)
 ヴァイオレット ちっちゃい海軍士官さん・・・そうね?
 ロニー(切ない笑顔で。)うん。その通りだよ。
 ヴァイオレット ええ、ええ・・・さてと、私もそろそろ仕事に掛からなくちゃ・・・。
(ヴァイオレット、退場。ロニー、一人残されて再び酷く落胆した様子となる。ポケットから封印された封筒を取り出し、数秒ためらった後、封を切り、中の手紙を読む。食い入る目で読むが、ますます暗い表情になる。一瞬、手紙を引き裂こうとして、思いとどまり、再びそれをポケットに仕舞う。上体を起こし、二三歩、素早く玄関ホールの扉へ進むが、すぐに立ち止まる。心を決めかねる様子。ホールから人の話し声が聞こえる。ロニー、驚いて飛び上がる。啜り泣きを抑え、庭への扉へ走る。そして固い足取りで庭に下りる。)
(ホールの扉が開き、ウィンズロウ家の人々が二人づつ列を成して登場。最初はロニーの父と母であるアーサーとグレイス、次にロニーの兄と姉であるディッキーとキャサリン。全員、祈祷書を手に持ち、微かに香油の香る教会後の雰囲気を漂わせている。アーサーはおよそ六十歳。歩行はかなりステッキに頼っている。やや意識的に家長たる威厳を見せている。グレイスは夫よりおよそ十歳ほど年下。現在は色褪せているが、昔美人だった面影がある。ディッキーはオックスフォード大学の学生。背が高い。良く喋る陽気な青年。キャサリンはそろそろ三十歳に近い。男勝り。母親の極めて女性らしい性格と好対照をなす。)
 グレイス(登場しながら。)・・・でも、もうお年ね、あの方。教会の後ろの方だと、何を仰ってるんだか、殆ど声が聞こえませんもの。
 アーサー あの方はいい方だからね、グレイス。
 グレイス いい方だって、声が聞こえないんじゃ、仕様がないでしょう。
 キャサリン いい人でありさえすればいい・・・それがお父様の道徳上の問題点。
(アーサー、暖炉に背を向けて立つ。視線を巡らし、庭への扉が開いているのに気付く。)
 アーサー すきま風が来る、グレイス。
(グレイス、扉へ行き、閉める。)
 グレイス あら・・・雨が降って来たわ。
 ディッキー 僕はお母さんの味方だな。あの人はもう年だよ。よたよたして、話したい事だって仕舞いまで殆ど話せないじゃないか。今日は時間を計ってみたんだ。あの人が歩き始めてから演壇に辿りつくまでぴったり七十五秒かかった。それからやっとの事であの角の所を曲がって。まるで見ちゃいられない。
 アーサー あれがそんなに可笑しいとは思わないね、儂は。
 ディッキー そうかな。
 アーサー ジャクソン神父がいくら今よたよたしているように見えたって、オックスフォード在学中に、学位試験に落ちるようなヘマをしたとは、儂(わし)にはとても想像できんがね。(訳注 原文のmods.はオックスフォード大学で学位取得の為に行われる第一次全学共通試験のこと。ディッキーはこの試験に落ち、留年中。)
 ディッキー(酷く傷ついて。)またか! その事はもうこの休み中、言わないって約束したじゃないか。
 グレイス そうよ、約束したでしょ、あなた。
 アーサー 約束はしたが、あれには条件があった。お前も覚えている筈だ。ディッキーが勉強への意志を儂に見せるという条件だった。
 ディッキー ちゃんと見せているじゃないか。昨日は土曜だって言うのに、一晩中何処へも出かけず、ずっと家で勉強していた。
 アーサー 家にいたな、確かに。儂はその事を否定するつもりはない。
 グレイス でも、随分とうるさかったわよ、あなたのあの古い蓄音器。あんなものをずっと掛けっぱなしにして、それで勉強がちゃんとできてたなんて、本当かしらねえ・・・。
 ディッキー それがねお母さん、不思議なんだけど、かえって集中できるんだ・・・。
 アーサー 集中? 何にだ。
 ディッキー 勉強にさ、勿論。
 アーサー ほう? 儂にはお前が集中していたのは、そんなもんじゃなかったように見えたがな。本を取りに下りて来た時・・・まあ、本でも読むしか手はなかろう。何しろこの部屋からあんな騒がしい音が響いてきたんじゃ、眠れたもんじゃないからな。
 ディッキー エドウィーナが父親を連れてちょっと寄ってくれたんだ。グラハムの家でダンスがあるって。二、三分だけだ、家にいた時間だって。
 グレイス エドウィーナ・・・馬鹿な娘(こ)。あら、ご免なさいディッキー。あなた、あの娘(こ)のこと、好きだったんだわね。
 アーサー 夕べのこの部屋でのエドウィーナとディッキーの格好・・・そいつを見たら、お前もその証拠を掴んだことになったさ。儂はちゃんと目撃したがね。
 ディッキー バニー・ハグの練習をしていただけだよ。
 グレイス 何の練習ですって?
 ディッキー バニー・ハグ・ダンス。新しいやつさ。
 キャサリン(補って。)ターキー・トロットに似てる型。ただあれよりは品があるわね。
 グレイス バニー・ハグって、タンゴの事だと思ってたわ。
 ディッキー いや。実際はもっとフォックス・トロットに近い。ボストン・グライドとカンガルー・ホップの中間かな。
 アーサー どうも話が横道へそれたようだ。儂がゆうべ見たお前の動きが、バニーだろうと、カンガルーだろうと、あるいは他のどんな動物の真似だろうと、そんな事は、ディッキー、お前がこの休み中、何一つ、まるで勉強していないという事の言い訳にはなるまい。
 ディッキー あー、勉強なんか・・・僕はやり始めたら速いんだ。
 アーサー やり始めたら速い? お前にいつそんな事があったか、知りたいものだね。
 ディッキー もういいよ! いやに今朝は風当たりが強いんだな。
 アーサー もうお前にも分っていい頃だ、ディッキー、年二百ポンドも出してお前をオックスフォードにやっているのは、馬鹿なダンスを覚えさせるためじゃないってことがな。バニー・ホップ・・・下らん!
 ディッキー バニー・ハグ、だよ。
 アーサー ハグと呼ぼうとホップと呼ぼうと、卑猥なことには変りないさ。
 グレイス お父様の仰る通りよ、ディッキー。この休み、あなた、遊んでばかりよ。
 ディッキー(母親に。) うん、分かってる。でも、社交のシーズンはもうすぐ終るから・・・
 グレイス(溜息をつき。)あなたがね、ロニーと同じくらい勉強が出来たらよかったんだけど。
 ディッキー(かっとなって。)またロニーか。大抵にしてくれないかな。あいつの宿題なんてせいぜいが二足す二ぐらいのものなんだぞ。
 アーサー 同じ二足す二でも、お前があの子の年の頃は、はるかに駄目だったからな。
 ディッキー(ついに怒って。)ああ、そうさ、分かってる。分かってるよ。あいつはオズボーンに入った。僕は駄目だった。お父さんが言いたいのはその事なんだ。いつでも結局はその話になるんだ。
 グレイス 誰もそんなこと言ってやしないでしょ、ディッキー。
 ディッキー いや、言ってる。これから先だって僕の生涯、ずっと言い続けるんだ。ロニーはいい子で、僕は悪い子。二人にはちゃんと別々のラベルが貼ってあるんだ。どんな事があっても、それは変わらないんだ。
 グレイス 馬鹿な事を言うもんじゃないの、ディッキー。
 ディッキー 馬鹿な事じゃないさ。事実を言ってるんだ、僕は。そうだろう? 姉さん。
(キャサリン、部屋の隅で、それまで読んでいた本から顔を上げる。)
 キャサリン ごめんなさい、ディッキー。聞いてなかったわ。何が「そう」なの?
 ディッキー お父さんとお母さんの目には、ロニーがやる事はいつもよくて、僕がする事はいつでも悪く見えるって。
 キャサリン(少し間を置いてから。)ディッキー、私があなただったら、そんな事を考えるより、昼食前のお昼寝でもしに部屋に戻るけど。
 ディッキー(さらに間を置いてから。)うん、まあ、そうだな。
(ディッキー、ホールの扉へ向かって歩き出す。)
 アーサー おい、部屋に戻るんなら、あれも一緒に部屋に持って行ったらどうだ。
(アーサー、テーブルに置かれた蓄音器を指差す。ホーン付きの一九一二年型モデル。)
 アーサー これは客間には相応しくない。
(ディッキー、横柄な態度で蓄音器を持ち上げ、それを持って扉へ進む。)
 アーサー そうすれば午後の勉強にお前も集中できるさ。
(ディッキー、扉の所で立ち止まり、ゆっくりと振り返る。)
 ディッキー(威厳をもって。)午後の勉強? それは駄目だ。残念だけど。
 アーサー ほう、何故だ?
 ディッキー 午後はミス・ガンと約束がある。
 アーサー 日曜の午後にか? ミス・ガンをお付き添い申し上げるのは、どうやらナショナル・ギャラリーだな?
 ディッキー 残念でした。ビクトリア・アンド・アルバート美術館です。
(ディッキー、丁度、でんとした蓄音器の搬送に相応しい勿体ぶった態度で退場。)
 グレイス あの子ったら馬鹿ね、僕達には別々のラベルが貼ってあるだなんて。そんなこと、ある訳ないでしょう?・・・ねえ? ケイト。
 キャサリン(本に没頭していて。)ええ、ない。
 グレイス まあ、ぶっきら棒ね。あなた、何、読んでるの?
 キャサリン レン・ロジャーズ回想録。
 グレイス レン・ロジャーズって、誰?
 キャサリン 労働組合の指導者。
 グレイス ジョンはあなたが左翼だってこと知ってるの?
 キャサリン ええ。
 グレイス 婦人参政権の推進派だって事も?
 キャサリン 勿論。
 グレイス(にっこりして。)それでもあなたとの結婚を望んでいるのね?
 キャサリン そうらしいわ。
 グレイス そうそう、あの方には少し早めに昼食にいらして下さるようにお願いしてあるの。初めに少し、お父様とお話をして貰おうと思って。
 キャサリン それはいい考え。(父に。)お父様、このことは分って下さっているんですね。
 アーサー(殆ど眠っていたので。)えっ? 何だって。
 キャサリン この事であの人に何を言うのか、もう分っている筈ね。この結婚を断るなんて、決してしないで頂戴。だって、どうせお父様が断ったって、私、駆落ちするだけだもの・・・
 アーサー(娘の手を取り。)そんな事はせんよ。儂は大喜びなんだ。ようやくお前がここから出て行ってくれる見通しが立ったんだからな。
 キャサリン(微笑んで。)「ようやく」は余計ね。
 グレイス 本当に、愛しているのね?
 キャサリン ジョンの事? ええ。
 グレイス あなたっておかしな子。自分の感情を表に出さないことに決めているんだから。恋をしている娘にはとても見えませんよ、あなたは。
 キャサリン 恋をしている娘は、じゃあ、何をするの?
 アーサー レン・ロジャーズは読まないね。バイロンを読む。
 キャサリン 私、両方とも読んでるわ。
 アーサー 変わった取り合わせだな。
 キャサリン 釣り合いはとれているわ。
 グレイス 私が言いたかったのは・・・あなた、ジョンの事をあまり話さないでしょう? それで。
 キャサリン ええ、私、話さないわ。
 グレイス(溜息をつき。)あなたのような現代っ子には、私達の世代が娘の頃に感じた気持ちなんて持ちようがないのかしらね。それこそ、現代婦人の態度なのかしら。
 キャサリン 分ったわ、お母様。これならどう? 若い娘が男に対して持つ愛情のどれにも負けないぐらい私はジョンを愛している。それに、ジョンが私を愛してくれているより、ずっとずっと私の方があの人を愛しているわ。これでどう?
 グレイス(戸惑って。)まあ呆れた、ケイト。そんなことを言えって言ってるんじゃないのに。(アーサーに)あなた、何がおかしいの?
 アーサー(くすくす笑いながら。)現代婦人に一本取られたな。
 グレイス とんでもない。この子は誤解してるんです。ただそれだけのこと。(窓を見て)本当によく降るわ。(キャサリンの方に向き。)ケイト、デズモンドはあなたとジョンのこと、知ってるの?
 キャサリン 話してはいないわ。でも、気づかないとしたら、酷く鈍いってことね。
 アーサー いや、鈍いんだよ、あの男は。
 グレイス いいえ、あの人は頭がいいの。鈍いって思うのは、ちゃんとあの人の心の中に入って行ってあげないからよ。
 アーサー 奇妙だね、儂には一向にそういう気持が起きないね。あの男には。
 グレイス あの人はいい人。ねえ、ケイト、あなたは親切にしてあげられるわね?
 キャサリン(しぶしぶ。)ええ、お母様。勿論、そうするわ。
 グレイス 本当に、とてもいい人なんだから・・・
(急に言葉を切って、窓の外を見つめる。)あら! 庭に誰かいるわ。
 キャサリン(見に来て。)どこ?
 グレイス(指差して。)あっちの方。見える?
 キャサリン いいえ。
 グレイス 丁度今、あの茂みの後ろに行っちゃった。子供だったわ。たぶん、ウィリアムソンさんの所のデニスね・・・あの腕白の。
 キャサリン(窓を離れて。)まあ、きっとずぶ濡れね、この雨じゃ。
 グレイス 同じ濡れるのなら、自分の家の庭で濡れれはいいのに。
(外のホールから人声が聞こえる。)
 グレイス ジョンかしら?
 キャサリン ええ、そのよう。
 グレイス(耳をすました後。)そう、ジョンだわ。(キャサリンに。)さあ、急いで。食堂に。
 キャサリン 分かってる。(さっと部屋を横切り、食堂の扉へ行く。)
 グレイス ほら! バッグ。忘れてるわよ。
(キャサリン、テーブルへ一直線。バッグをぱっと手に取る。)
 アーサー(びっくりして。)一体、何が始まったんだ。
 グレイス(「観客に聞こえる」囁き声で。)じゃあ、私達は席を外します。あなた、ジョンとお話して。お済みになったら、咳払いか何か・・・
 アーサー(気短かに。)「何か」じゃ、分からん。
 グレイス そうね。じゃあ、床をステッキで突いて。三回。そうしたら、私達、中へ入ります。
 アーサー わざとらしいじゃないか、そんな合図。
 グレイス しーっ。
(ホールの扉が開き、ヴァイオレット登場。同時にグレイス、姿を消す。)
 ヴァイオレット(来客を告げる。)ウェザーストーン様です。
(ジョン・ウェザーストーン登場。約三十歳。上着の前裾をきちんと斜めに裁断したモーニングコートと縞柄のズボン姿。教会の結婚式用のいでたち。この特別の場合に着て来たものと、観客には充分に了解される。)
 アーサー やあ、ジョン。よく来ましたな。
 ジョン 初めまして、ミスター・ウィンズロウ。
 アーサー 坐ったままでお許し戴けますかな。関節炎が最近、少し酷くて。
 ジョン それはお辛いでしょう。キャサリンから少し良くおなりになったと聞きましたが、どうかお大事になさって。
 アーサー 暫くは良かったんだが。最近また悪い。煙草は吸うんだな? (葉巻き煙草の箱を指し示す。)
 ジョン はい。戴きます。(葉巻きを一本取る。あわてて言い足す。)時々ですが、勿論。
 アーサー(微かに微笑んで)なるほど。
(間。この間、ジョンは煙草に火をつけ、アーサーは彼を注視する。)
 アーサー さて。君は儂の娘との結婚を望んでいる・・・と儂は聞いているが?
 ジョン はい。既に、彼女には結婚の申し込みを致しました。彼女の方も私を受け入れて下さるという事でした。
 アーサー 成程。君は儂の質問に直接は答えなかったが、その、今の君の答でも、儂の質問に「ノー」と答えたのではないと理解していいのだな?(ジョン、意味が分らず戸惑う。)つまり、君は本当に儂の娘との結婚を望んでいるのだな?
 ジョン はい、勿論です。
 アーサー 勿論? 何故かね。世の中にはむしろ儂の娘との結婚なぞ望まん者の方が多いと思うが。
 ジョン 勿論とは、つまり、結婚を申し込んだ以上、それは当然の事だからです。
 アーサー 既に結婚を申し込んだ、だから、結婚したいのも当然だという理屈かね? まあ、いいだろう、これ以上、理屈をこねてみても仕方がない。あれの親としても、君が娘に抱いているロマンチックな感傷を素直に認めるとしよう。それよりもっと現実的な問題についてだが、君に二三、立ち入った事を訊いても構わんかな?
 ジョン ええ、勿論です。それが当然です。
 アーサー うん。さて、君の収入だが、それで娘を養っていけるのかね。
 ジョン いいえ。私は常備軍所属ですので、充分ではありません。
 アーサー うん、そうか。
 ジョン しかし、軍からの収入に、父からの手当てが加わります。
 アーサー なるほど。君の父上からの手当ては、差し詰め、月に二十四ポンドといったところかな。
 ジョン はい、その通りです。
 アーサー とすれば、君の収入は全部で・・・君の中尉としての収入に、父上からの手当てを加算して、おそらく、年、四百二十ポンドと云ったところかな?
 ジョン はい、正にその通りです。
 アーサー そう、それならば、何も問題はないようだ。儂もこれ以上、祝いの言葉をためらう必要などないという訳だ。(アーサー、手を伸ばす。ジョン、感謝を込めてその手を取る。)
 ジョン ありがとうございます、ミスター・ウィンズロウ。
 アーサー いやいや、君が率直に事実を話してくれて、大変有難かった。
 ジョン いえ、それは当然のことで。
 アーサー 君のその率直さを見倣って、一つキャサリン自身のことについて儂もありていに言おう。あれは・・・君がもし思い違いをしているといかんので言うのだが、あれは裕福な家の娘ではないぞ。
 ジョン 思い違いはありません、はい。
 アーサー 良かった。では、次に・・・。
(アーサー、急に頭を片側にもたげて耳を澄ます。二階のどこかから「ヒッチー・クー(かもしかを繋げ)」を奏でる蓄音器の音が聞こえて来る。)
 アーサー すまんがそこのベルを鳴らしてくれんか。
(ジョン、ベルを鳴らす。)有難う。では、次に儂自身の暮らし向きについて話そう。儂にはウェストミンスター銀行から多少の年金が出る、正確には三百五十ポンドだが。それと妻自身の分が年、約二百ポンド。それ以外には殆ど何もない。あとは儂が銀行に勤めながらためた少額の貯(たくわ)えだけだ。結局、利子も含めれば、収入は全部で年、およそ八百ポンドということになる。
(ヴァイオレット、登場。)
 ヴァイオレット お呼びでしょうか。
 アーサー ああ、ヴァイオレット。この言葉をデッキー先生にお伝えしてくれ。もし、今すぐ、この騒々しい不協和音を止めないなら、お前をその忌々(いまいま)しい器械ごと通りに叩き出すぞ、とな。
 ヴァイオレット 畏まりました。もう一度、お願い致します。今すぐ、この騒々しい・・・何でございましょう。
 アーサー いや、言葉はどうでも構わん。ただこの耳障りな音が止みさえすれば。
 ヴァイオレット 分かりました。出来るだけの事は致しますが、ご存じのように、この耳障りな曲はデッキー様が耳にたこが出来てもいいほどお好きなジャズの曲ですので。
 アーサー そうだ、儂の耳にもたこができている。
 ヴァイオレット では、こう申しましょうか、旦那様が、この曲は日曜日には相応しくないから駄目だと。
 アーサー(怒鳴るように。)日曜もそれ以外の日も、駄目だから駄目だ。そう言え。とにかくこの忌々しい騒音を今すぐ止めさせろ。それだけだ。
 ヴァイオレット 畏まりました。(退場。)
 アーサー(弁解するように。)うちのヴァイオレットについての話は勿論、既に聞いていると思うが・・・
 ジョン まだ伺っていないと思います。何か伺っておくべき事でも?・・・
 アーサー うん、ある。あの子は十四のときに、孤児院から直接、儂らが引き取ったのだ。仲働きの女中の下のまあ見習いとしてな。小間使いの下の女中としては、立派に仕事をこなしている。しかし、小間使いとしては、奇妙な言動をする。見ての通りだ。小間使いとは何か、その義務を徹底して教えなかったこちらにも原因があるのだが・・・エー、さっきはどこまで話したかな。ああ、そうそう、儂が自分の収入の拠り所を話しておった・・・そうだな?
 ジョン はい、そうです。
 アーサー では次に支出のことだが、儂は普段の生活費に加えて、今は二人の息子の面倒を見なければならん。一人はオズボーン、もう一人はオックスフォードだ。どちらも当面暫くの間は、自立できる立場にはなれんだろう。一人はまだ若すぎるし、もう一人は、あー、若くはないが色々あるんでな。
(蓄音器の音、急に止まる。)
 アーサー 従って、お分かりだろうが、キャサリンの持参金についても、十分惜しみなくという訳にはいかんのだ。
 ジョン はい、よく分ります。
 アーサー そこで娘には儂の全財産の六分の一を分与することにしたい。銅貨一枚残らず計算に入れて、その額は正確には、八百三十三ポンド六シリングと八ペンスだ。しかしまあ、ここは切りのいい数字にして、八百五十ポンドということにしよう。
 ジョン それは大変寛大なご処置です。
 アーサー 儂が望んでいたほどには気前良くできなかったが。しかし、グレイスの口癖通り、まあ、いくら少しでも、あったに越したことはないからな。
 ジョン はい、勿論です。
 アーサー では、今の取り決めで宜しいかな? もし宜しければ、儂としてはこれ以上、相談することもないのだが。
 ジョン はい、ミスター・ウィンズロウ。
 アーサー 良かった。
(間。アーサー、ステッキを取り、工夫した何気無さで床を三度、突く。が、何も起こらない。)
 ジョン 全く嫌(いや)な天気ですね。
 アーサー うん、全く。
(アーサー、再び、突く。再び何事も起こらない。)
 アーサー 煙草、もう一本どうかね?
 ジョン いえ、どうも。まだ吸えます。
(アーサー、再び突こうとステッキを取り上げるが、この方が早いと考え直し、遅いがしっかりした足取りで食堂の扉に進み、それを勢いよく開く。)
 アーサー(明らかに驚いた声で。)何だ、いたのか。ああ、親娘(おやこ)揃って、ここにいたぞ。さあ、入って、グレイス。キャサリンも。ジョンが来ておる。
(グレイス、登場。続いてキャサリンも。)
 グレイス あら、ジョン、いらっしゃい。(握手する。)今日は一段と素敵。ねえ、ケイト?
 キャサリン まるでカニュートの王子様ね。
(間、グレイス、自分を抑えきれずに。)
 グレイス(はにかんで。)それで?
 アーサー それで、とは何だ。
 グレイス お話はどうなったの?
 アーサー(気短かに。)話はない。そういうものはないことになっていたんじゃないのか。
 グレイス まあ、酷い言い方。お話はすっかり済んだの? ジョン。
(ジョン、にっこりと頷く。)
 グレイス ああ、それは良かったわ。ほんとうに良かった。
 ジョン 有難うございます、ミスィズ・ウィンズロウ。
 グレイス キスさせて頂戴。だって今じゃ、あなたは私の息子も同然ですからね。
 ジョン ええ、勿論。
(ジョン、進んでキスを受ける。)
 アーサー となれば、同じ理由で君は儂にとっても息子同然なのだが、もし許して貰えるなら・・・
 ジョン(微笑みながら) ええ、勿論です。
 アーサー 昼飯をちょっと豪勢に、ワインで乾杯してもいいだろう? 地下室の鍵を頼む。
(アーサー、ホールの扉を抜けて退場。)
 グレイス はい。(扉の所で振り返り、はにかんで。)ちょっとあなた達二人だけになるけど、構わないわね?
(グレイス、夫を追って退場。ジョン、キャサリンの所へ行き、キスをする。)
 キャサリン 試練のひとときだったわね。
 ジョン 死ぬほど緊張したよ。
 キャサリン お気の毒。
 ジョン 色々台詞を考えてきたんだけどね。ちゃんと言い回しまで工夫して。ちっともそれを言わせてくれないのには参ったよ。
 キャサリン 色々って、例えば?
 ジョン 例えば・・・僕にとって君の承諾がどんなに誇らしく名誉なことだったか。誠実で献身的な夫になるという僕の決心がどんなに堅いものか。そして君には、今迄と変わらない生活を約束することとか、そういったことをね。全部、僕の本当の気持ちなんだ。
 キャサリン 私を少しは愛してくれているって事は?
 ジョン(軽く。)それは言わなくても、当り前の事だと思ったから。そう言えば、君のお父さんも同じような事を言ってたな。
 キャサリン そう。(じっとジョンを見つめて)ほんと、あなた今日は素敵!
 ジョン 悪くないだろう。プールで仕立てたんだ。
 キャサリン あなたのお父様は? 今度の事、どう思っていらっしゃるの?
 ジョン 大丈夫だ、それは。
 キャサリン そうじゃないわね、きっと。
 ジョン いや、大丈夫。親父は僕が結婚するのをもう何年も前から待っていたんだ。孫の顔が見られないんじゃないかと心配してね。
 キャサリン お父様、私のこと、反対なのね?
 ジョン 反対なんかしてないよ。どうしてそんな風に思うんだい?
 キャサリン いつもこうして、片眼鏡をかけて、私をじっと・・・身が縮む思いよ。
 ジョン あれは陸軍大佐の通弊さ、それだけの事だよ。親父に限らない。恐いのは君のお父さんの方だよ。あの、僕を見る目付き。本当は君の家の人達も僕と同じ気持ちなんじゃない?
 キャサリン ディッキーはそう、勿論。それにロニーも。でもあの子の場合はそんな必要ないのに。父にとって、ロニーは特別な子なんだから。母はどうかな。たまには怖いのかも知れない。でも、私はないわね、一度も。
 ジョン 何かを怖いと思うこと自体がないんだろう?君の場合。
 キャサリン それはあるわよ、沢山。
 ジョン 例えば?
 キャサリン(微笑みながら。)それは・・・殆どの場合、あなたに関する事。
(ロニー、窓の扉から慎重に中を覗く。制服はあちこち引きずって酷く汚れた上にずぶ濡れで、髪はべったりと眼にかかり悲しみに沈んだ様子である。)
 ジョン 僕に関する事って・・・例えば?
 ロニー(低い声で。) ケイト!
(キャサリン、振り返りロニーを見る。)
 キャサリン(驚いて。)ロニー! まあ、どうしたの、一体・・・
 ロニー お父さんはどこ?
 キャサリン 行って話して来る。
 ロニー(急いで。)止めて姉さん、それは。
(キャサリン、扉へ行きかけて立ち止まり、不思議そうな顔。)
 キャサリン 何があったの? ロニー。
(ロニー、今にも泣き出しそうに震えながら答えずにいる。キャサリン、ロニーに近づく。)
 キャサリン ずぶ濡れじゃない。さあ早く。着替えて来なさい。
 ロニー いや、いい。
 キャサリン(優しく。)ねえ、何があったの? 話して。(ロニー、ジョンを見る。)ああ、こちら、ジョン・ウェザーストーン。この間の休暇のとき会ったでしょ、覚えてない?(ロニー、黙ったまま。他人の前で話すのは明らかに嫌な様子。)
 ジョン(気転をきかせて。)外そうか。
 キャサリン(食堂を指差して。)あそこで、いいかしら。
(ジョン、静かに退場。キャサリン、ロニーを部屋の奥へ優しく導く。)
 キャサリン さあ、話して頂戴。どういうこと? 逃げ出したの? (ロニー、頭を振る。明らかに自分の口からは話せない様子。)じゃあ、何なの? (ロニー、始めの場面で盗み読みした例の書類をポケットから取り出しゆっくりと手渡す。キャサリン、それを静かに読む。)まあ、何てこと。
 ロニー 僕はやってない。
(キャサリン、再び黙って手紙を読む。)
 ロニー 僕じゃない、姉さん。本当に僕がやったんじゃない。
 キャサリン(ぼんやりと。)ええ、そうね。(どうすべきか戸惑っている様子。)この手紙、お父様宛ね。あなたが封を切ったの?
 ロニー うん。
 キャサリン 封は切るべきじゃなかったわね。
 ロニー 破り捨てようと思ったんだ。そしたら、みんなが教会から戻ってくるのが聞こえて、庭にかけ込んで・・・僕、どうしたらいいか分からなくて・・・
 キャサリン(まだ焦点が定まらず。)ロンドンまであなた一人で帰るように言われたの?
 ロニー 下士官がついて来てくれた。その人はお父さんに会うことになっていた。でも僕が帰って貰ったんだ。(手紙を指して。)それ、破いてしまおうか、今ここで。
 キャサリン 駄目よ、ロニー。
 ロニー お父さんには、学期が、二日早く終ったって言えば・・・。
 キャサリン 駄目よ、そんなこと。
 ロニー 僕はやってない・・・本当に、僕じゃない。
(ディッキー、ホールから登場。ロニーを見ても驚く様子はない。)
 ディッキー(明るく)やあ、ロニー坊ちゃま。どうだい? 景気は。(ロニー、さっと顔をそむける。)
 キャサリン ロニーが帰ってるって知ってたの?
 ディッキー ああ、うん。こいつのトランクや持ち物が僕達の部屋に散らかってたからね。何かまづい事? キャサリン ええ。
 ディッキー(心配そうに)そう。
 キャサリン あなた、ロニーと、いて。私、お母様を探してくるわ。
 ディッキー 分かった。
(キャサリン、ホールの扉から退場。しばし間。)
 ディッキー どうしちゃったんだ、おい。
 ロニー 何でもない。
 ディッキー いいから、話せよ。
 ロニー 何でもないんだ。
 ディッキー くびになっちまったのか。(ロニー、頷く。)ついてないな。何故?
 ロニー 僕はやってない!
 ディッキー(元気づけるように)ああ、勿論、お前はやってないさ。
 ロニー 嘘じゃない、本当なんだ。
 ディッキー 分かった、お前じゃない。もう言わなくていい。信じるよ。
 ロニー 信じてない。
 ディッキー なあ、お前が何故退学させられたか、そいつは俺には分ってない、しかしね・・・
 ロニー(小声で。)僕が、盗んだって。
 ディッキー(明らかにほっとして。)何だ、そんな事か。驚いたなあ。近頃じゃそんな事で一々人を退学させるのか。知らなかったね。
 ロニー 僕はやってない。
 ディッキー 全く、呆れた話だな。俺達の学校じゃ、手に触って安心な物はみんなかっぱらっていたよ。誰もがやってた。だけど、とびきり酷いのもいたな。・・・名前は確かカーステアーズ・・・クリケットのキャプテンだ。そいつは凄腕(すごうで)でね。そいつの手に掛かったら安全な物なんて何もなかった・・・何一つなしさ。一度なんか俺のスカッシュのラケットをかっぱらいやがった、忘れないね、あれは。(ディッキー、話しながら静かにロニーに近付き、彼の腕をロニーの肩にまわす。)嘘なんか言わない、ロニー、盗みなんて何でもない。全く何てことないんだよ。つまり・・・お前、その服、少し濡れていやしないか?
 ロニー 庭にいたから。雨の中。
 ディッキー それに少し震えてるじゃないか。まずは行って着替えた方がいいな。盗みをしたぐらいで誰もお前に肺炎になれなんて言わないさ。
 ロニー このままで平気だよ。
(グレイス、登場。後からキャサリンも。グレイス、素早くロニーの方へ。ロニー、母親を見ると振り返ってディッキーから母親の腕の中へと走る。)
 グレイス お帰り、ロニー、大丈夫よ、もう。
(ロニー、グレイスのドレスに顔を埋めて静かに泣き出す。)
 ロニー(くぐもった声で。)僕はやってないよ、お母さん。
 グレイス そうね、ロニー。勿論、やってない。さあ、二階へ行きましょう、ね、この濡れた服は脱いでしまわないと。
 ロニー お父さんには言わないで。
 グレイス ええ、そうね、今はまだ。大丈夫。さあ、いらっしゃい。
(グレイス、扉の方へロニーを導く。キャサリン、扉を開け、手で押さえる。)
 グレイス 新しい制服だったのに。台無しね。
(グレイス、ロニーと共に退場。)
 ディッキー 僕も行って二人が見つからないようにするよ。親父が上がって来ないように、見張ってなきゃ。
(キャサリン、頷く。)
 ディッキー(扉の所で。)でも・・・親父にこの事を切り出すのは結局の所、誰になるのかな? つまり、誰かは話さないと。
 キャサリン 今はそんな事、考えるの止しましょ。
 ディッキー とにかく僕は抜けるよ。千マイルは届く怒鳴り声になるからな。僕はその範囲にはいたくないよ。
(ディッキー、退場。キャサリン、食堂の扉に進み、扉を開けて「ジョン!」と呼ぶ。ジョン、登場。)
 ジョン 悪い知らせ?
(キャサリン、頷く。明らかに動揺している。眼にハンカチを軽く当てる。)
 ジョン 大変だね。君も可哀想に。
 キャサリン(激しく。)こんな酷いやり方ってあるかしら!
 ジョン(気詰まりな様子で。)退学・・・なんだね?
(ジョン、相手が黙っているので、そうだと分かる。キャサリン、気を取り直す。)
 キャサリン 想像力のかけらもない人達! あんな小さな子供を苦しめたりして。そうでしょう? ジョン。何の得があるって言うの?
 ジョン 何をしたって言われているんだい?
 キャサリン お金を盗んだって。
 ジョン ああ。
 キャサリン 十日前のことだって・・・手紙には。私達に何も知らせないって、一体どういうこと! この十日間、あの子はずっとたった一人。誰も助けてやる人がいなかったのよ! おまけに十日後にはどうなるか、あの子にはちゃんと分っていた! その十日間のあの子の気持! 何てこと! それで結局、十日後に、下士官をつけてロンドンに送り返す! あの子が動顛(どうてん)したって、ちっとも不思議はないわ!
 ジョン 思い遣りがないね。確かに。
 キャサリン 思い遣りがないですって? 冷酷無残よ。おまけに、それを承知の上でやっている。何て校長? こんな、こんな残忍な決定を下すなんて! 今その校長がここにいたら・・・私・・・私・・・
 ジョン(優しく。)ねえ君。君が怒るのは無理はないけれど・・・しかしね、君だって分ってるだろう? 君の弟は、本当は学校に行っていたんじゃない。もう軍務についていたんだ。
 キャサリン 軍務だからどうだって言うの?
 ジョン 軍務の場合には独特のやり方があってね、部外者には酷く野蛮に見えるかもしれない・・・だけど、公平だ。公平という点では、いつでも周到なんだ。僕を信用してくれていい。こういう類(たぐい)の裁定をするからには、充分な調査はあった筈だ。それに、十日間も時間をかけたというのなら、その間君の弟に、充分な釈明の時間を与えたということなんだ。
(間。キャサリン、黙っている。)
 ジョン ああ、すまなかった、キャサリン、余計な事を言って。黙っていた方がよかった。
 キャサリン いいえ。あなたの言った通りだったんだわ、きっと。
 ジョン でも、馬鹿だった、ごめん。
 キャサリン(軽く。)もういいわ。
 ジョン 許してくれる?(キャサリンの肩の上に片手をのせる。)
 キャサリン(その手を取り。)謝ることなんか、何もないわ。
 ジョン 本当に悪かったよ。(間の後。)君のお父さんは、どう思うんだろう?
 キャサリン(簡単に。)死ぬほどショックでしょうね。(ホールに人の話し声。)まあ、大変! デズモンドを昼食に呼んでいたんだわ。忘れてた。
 ジョン 誰だって?
 キャサリン デズモンド・カリー。家(うち)の事務弁護士。ああ、大変! (以下早口に囁く。)ねえ、あの人のこと、からかったりしないで。
 ジョン からかう? 君のお客さんのことを僕がからかったりしたことがあったかな?
 キャサリン ないわ。でも、私達のこと、あの人はまだ知らないの。
 ジョン 知ってる奴なんて誰もいないだろう?
 キャサリン(まだ囁き声で。)ええ、いないわ。でもあの人、私のことをもう何年も好きで、それを家中で笑いの種(たね)にしているの。
(ヴァイオレット、登場。)
 ヴァイオレット カリー様がお見えです。
(デズモンド・カリー、登場。およそ四十五歳。盛りを過ぎた運動選手の体格。その態度にはどこかこそこそした所がある。それはあたかも僅かばかりの会社の金を持ち逃げしてしまい、人がそれに腹を立て過ぎないことを願っているような感じ。ジョンは彼を見ると、この男がキャサリンを愛しているとは、と考えて微笑を禁じ得ない。この間にヴァイオレット、退場。)
 キャサリン こんにちは、デズモンド。こちら、ジョン・ウェザーストーン、会うのは初めてね。
 デズモンド ええ・・・でも、勿論、色々お話だけは。
 ジョン 初めまして。
(ジョン、にやりと笑いそうになるところを、キャサリンに睨まれ、慌ててその笑いを押し殺す。間。)
 デズモンド さて、さて、さてと。・・・僕は早過ぎた・・・という事はないですね?
 キャサリン ぴったり時間通り。いつものことだけど、デズモンド。
 デズモンド 良かった、良かった。
(再び間。間の後、キャサリンとジョン、突然同時に次の台詞を言う。)
 キャサリン ねえ、デズモンド・・・。
 ジョン 雨がかなり酷く・・・。
 ジョン ああ、失礼。
 キャサリン いえ、いいの。ただちょっとデズモンドに、昨日のクリケットの試合がどうだったか聞こうとして。
 デズモンド 駄目でした、調子が出なかった。まだ肩の痛みが残ってましてね。
(再び間。)
 デズモンド(ようやく口を切る。)ああ、そう、そう。聞きました。お二人にはお祝いを言わなきゃいけないな。
 キャサリン デズモンド! あなた、知っていたの?
 デズモンド たった今、ヴァイオレットから・・・ホールで。そう・・・お祝を言わなきゃ・・・おめでとう。
 キャサリン 有難う、デズモンド。
 ジョン 有難う。
 デズモンド 勿論、当然の結果です。ええ・・・当然の・・・。しかし、驚きました。ヴァイオレットの口からですからね、しかも玄関ホールで・・・
 キャサリン あなたにはすぐお話しようと思っていたの、デズモンド。でも、たった今だったの、正式に話が決まったのは。だから、あなたが最初よ、この婚約を知った人は。
 デズモンド 僕が最初? 本当に僕が? ああ、きっとお幸せになりますよ、お二人は・・・きっと。
(次の台詞は二人同時に呟くように。)
 キャサリン 有難う、デズモンド。
 ジョン 有難う。
 デズモンド たった今か・・・驚いたな・・・
(グレイス、登場。)
 グレイス いらっしゃい、デズモンド。
 デズモンド ああ、今日は、ミスィズ・ウィンズロウ。
 グレイス(キャサリンに。)あの子はベットに連れて行ったわ。
 キャサリン そう。
 デズモンド 誰か、ご病気なんですか?
 グレイス いえ、病気じゃないの。
(アーサー、ワインの壜を一本、腕に抱え登場。ベルを鳴らす。) 
 アーサー グレイス、あの地下室の点検をさせたのは、最後はいつだったかな?
 グレイス さあ、覚えていませんわ。
 アーサー 全く、酷い有様だ。やあ、デズモンド。元気かな? そうでもなさそうだな。
 デズモンド 元気でなさそう? 肩を痛めたせいかな。
 アーサー 君も凝りん男だ。まだやっているのか? あの馬鹿なゲームを。中年の分別というものがある筈だぞ。さっさと諦(あきら)めることだ、なあ、デズモンド。
 デズモンド それは出来ない相談です。クリケットを諦めるだなんて。そんな事は。
 ジョン(世間話風に。)そう言えば、ミドルセックスでプレーしていたD・W・H・カリーっていうのがいましたね。彼とは何か関係があるのですか?
 デズモンド(自分の出番が廻ってきたと。)僕がそのD・W・H・カリーです。
 グレイス あら、知らなかった? 私達、実は凄い人と一緒にいるのよ。
 ジョン ええっ! じゃあ、例の「カリーの独り舞台」と言われた、あのカリー、本人?
 デズモンド 正にそうです。
 ジョン プレイヤーズ(チーム名。)を相手にハットトリックをやってのけたのは、あれは何年でしたっけ。
 デズモンド 一八九五年。ローズ競技場。僕の成績はトゥエンティーシックス・オーバーのナイン・メイドゥン。サーティセブン・ランでエイト・ウィケットでした。(訳注 今が一九一二年なので十七年前。ジョン、十三歳、デズモンド、二十八歳頃のことらしい。)
 ジョン いやー、D・W・H・カリーと言えば、僕の中学時代のヒーローでした!
 デズモンド 僕が? 本当に僕が?
 ジョン ええ。サイン入りの写真も持ってました。
 デズモンド そう。あの頃は僕もしょっ中、男子生徒にサインをしてました。覚えています。
 アーサー 男子生徒だけかね?
 デズモンド ええ、残念ながら。女の子達はクリケットになど目も向けませんでしたからね、あの当時は。
 ジョン あなたが、D・W・H・カリーその人だなんて・・・驚いた。想像も出来ませんよ。
 デズモンド(残念そうに。)そうでしょうね。今のこの姿じゃ、誰だって・・・。
 キャサリン(素早く。)あら、ジョンはそんな意味で言ったんじゃないわ。
 デズモンド いや、やはりそういう意味でしょう。(腕を動かす。)うまく行かないのは、これ(肩)のせいですかね。事務所に引き蘢ってばかりで、まるで体を動かさないせいもありますが。
 アーサー そんな事はあるまい。事務所の方はそっちのけで、運動ばかりしてるんじゃないのか。
(ヴァイオレット、先刻アーサーが鳴らしたベルに応じての登場。)
 ヴァイオレット お呼びでしょうか、旦那様。
 アーサー ああ、ヴァイオレット。グラスを持って来てくれんか。
 ヴァイオレット 畏まりました。(退場。)
 アーサー 昼食の前に、みなで軽くマデイラ産の白ワインをと思ったんだが・・・(デズモンドに。)今日はお祝いでね。
(グレイス、デズモンドに悪いからと、アーサーの腕をそっと突く。)
 アーサー(慌てて付け加える。)妻の五十四回目の誕生日を祝って・・・。
 グレイス アーサー! あなた!
 キャサリン いいのよ、お父様。デズモンドはもう知ってるの。
 デズモンド はい、実はさっき。素晴しいことじゃありませんか。私も喜んで祝杯を捧げます。お二人の・・・えー。
 アーサー(丁重に。)幸多き門出に、かな。君が言わんとした台詞は。
 デズモンド はあ、いや実はもっと・・・何か「新しい」言葉はないかと。
 アーサー(呟くように。)まあ、止めておきたまえ、デズモンド。時間の無駄だ。
 グレイス(抗議の口調で。)あなたったら! そんな言い方、失礼よ。
 アーサー いや勿論、儂が言いたかったのは、誰にせよ、婚約祝いに「新しい」言葉など見つけられるものではない、ということだ。例外はヴォルテールぐらいなものだろう。
(ディッキー、登場。)
 アーサー ああ、お前か、ディッキー。丁度いい。今、このマデイラでケイトとジョンの婚約を祝って乾杯しようとしていたところだ。
(ヴァイオレット、グラスを載せた盆を持って登場。アーサー、ワインを注ぎ始める。訳註 この時、全てのグラスにワインが注がれたとすると、以下のト書きと矛盾が生じる。演出の際、工夫が必要。)
 ディッキー ああ、じゃあ姉さん、とうとう出走が決まったってことだね。結婚という競馬レースの。こりゃー凄い!
 アーサー なるほど。どうやら儂は、ヴォルテールの他にも、このディッキー・ウィンズロウを例外に付け加えるべきだったようだな。(ヴァイオレットに。)では、グラスをみんなにまわしてくれ、ヴァイオレット。
(ヴァイオレット、最初にグレイスの所へ行き、次にキャサリン、ジョン、デズモンド、ディッキーと順に廻って、最後にアーサーの所へ。)
 キャサリン こういう場合私達、自分達二人の健康を祈って乾杯できるのかしら?
 アーサー まあ、構わんだろう。
 グレイス 駄目よ。自分で自分の健康に乾杯するなんて縁起が悪いわ。
 ジョン 僕達、縁起は担がない主義なんです。そうだろう? ケイト。
 グレイス そんな事、言っては駄目、ジョン。ああ、分った。あなた達はお互い、相手の健康を祈って乾杯するの。いいわね。
 アーサー そうすれば、お前が大袈裟に心配した験(げん)担ぎにも、けりがつくんだな? よろしい。
(この時までにヴァイオレット、全員にワインを配り終っている。)
 アーサー(杯をかかげ。)キャサリンとジョンに!
(全員、乾杯する。キャサリンとジョンはそれぞれ、相手に対し杯をかかげる。ヴァイオレット、微笑みながら戸口の辺りでぐずぐずしている。)
 アーサー(ヴァイオレットを見て。)ああ、ヴァイオレット。お前をはづしてはいけなかったな。さあ、乾杯に加わって。
 ヴァイオレット でも・・・ええ、有難うございます、旦那様。
(アーサー、ヴァイオレットにワインを注ぐ。)
 ヴァイオレット 沢山はいけません。ほんのちょっとだけ。
 アーサー なるほど。しかし、その遠慮もあまり説得力がないぞ。自分で、余分に一つグラスを持ってきたのだからな。
 ヴァイオレット(アーサーからグラスを受け取って。)いいえ、これは自分用に持って来たんじゃありません。ロニー坊ちゃま用にお持ちしたんです。・・・。(グラスを持つ手を伸ばし。)ケイトお嬢様と、ジョン様に。
(ヴァイオレット、ワインを一口すすり、顔をしかめ、グラスをアーサーに返す。)
 アーサー お前は今、このグラスはロニーのために、だと言ったな?
 ヴァイオレット(アーサーの戸惑いの意味を誤解して。)ええ、ほんの一口なら、ロニー様にもお許しなさると思いまして。乾杯だけならと。近頃ではぐっと背もお伸びになった御様子ですし。
(ヴァイオレット、戸口へ向きを変える。暗い目で自分のグラスを見つめているデズモンドを除き、他の者はみなこの状況を憂慮して身体を堅くする。)
 アーサー ロニーなら火曜日まではオズボーンから戻らないはずだぞ、ヴァイオレット。
 ヴァイオレット(振り返って。)いいえ、旦那様。坊ちゃまはもうお戻りです。今朝方、ひょっこりとお戻りになりました。たったお一人で。
 アーサー まさか。そんな筈はあるまい。誰かがお前をからかって・・・。
 ヴァイオレット 私、自分のこの目で、坊ちゃまを見ました。ええ、間違いありません。旦那様方が教会からお戻りになるちょっと前のことです。それにその後で話し声も聞きました。坊ちゃまのお部屋で奥様と話していらっしゃる・・・(訳註 二階のロニーの部屋の前はディッキーが見張っていた筈なので、この台詞はやや不自然か。)
 アーサー グレイス、これはどういうことだ。
 キャサリン(本能的に場を仕切って。)もういいわ、ヴァイオレット。行って頂戴。
 ヴァイオレット はい。(退場。)
 アーサー(キャサリンに。)お前はロニーが帰っていると知っていたのか。
 キャサリン ええ。
 アーサー お前もか、ディッキー。
 ディッキー はい。
 アーサー グレイス。
 グレイス(仕方なく。)知らないのが一番いいと思って・・・今暫くは・・・ええ、とにかく、今暫くは・・・
 アーサー(ゆっくりと。)酷く具合が悪いのか。
(誰も答えない。アーサー、戸惑いながら一人づつ顔から顔へ視線を移す。)
 アーサー 誰か答えるんだ! あの子は酷く悪いのか。何故、儂だけがこんな何も知らない状況に置かれねばならん? 儂にも知る権利がある。具合が悪いなら、儂も見に行ってやらねばならん。
 キャサリン(しっかりした口調で。)いいえ、お父様。病気ではありません。
(アーサー、キャサリンの声の調子からすぐに事の重大さを悟る。)
 アーサー 何があったのか、誰か話してくれんか。
(グレイス、困惑の表情でキャサリンを見る。キャサリン、頷く。グレイス、衣裳の隠しから例の手紙を取り出す。)
 グレイス(おずおずと。)あの子が持っていた手紙・・・あなた宛の。
 アーサー 読んでくれ。
 グレイス アーサー、でも、ここじゃ・・・。
 アーサー 読んでくれ。頼む。
(グレイス、意見を求めるように再びキャサリンを見る。キャサリン、再び頷く。グレイス、読み始める。)
 グレイス(読む。)「親展。私は海軍本部、上院委員会の命により、下記の事項を、貴下に伝える。
 当委員会は、オズボーン王立海軍士官学校、司令官兼校長よりの書面で、今月七日、五シリングの郵便為替が学内で盗まれ、その後、郵便局で現金化された旨の報告を受け取った。
 事件を詳細に調査した結果、本郵便為替の盗難は、貴下の子息、士官候補生、ロナルド・アーサー・ウィンズロウによるものとの結論を得た。従って、残念ながら、当委員会は貴下の子息を、士官学校から退学させることを貴下に要請する。」署名は・・・濡れて読めないわ。
(グレイス、涙を隠すため後を向く。キャサリン、母の肩に優しく腕をまわす。この間、アーサーの態度に変化はない。間。外のホールから食事の合図の銅鑼が鳴る音が聞こえる。)
 アーサー(ついに。)デズモンド、すまんが、ヴァイオレットを呼んでくれ。
(デズモンド、言われた通りにする。再び間。ヴァイオレット、登場。)
 ヴァイオレット はい、旦那様。
 アーサー ヴァイオレット、ロニーに降りて来るように言ってくれ。儂が呼んでいると。
 グレイス あなた・・・あの子は今、ベットに。
 アーサー 病気ではない筈だ。さっきお前はそう言った。
 グレイス ええ、でも・・・よくはないわ。
 アーサー 構わん。今、言った通りに、ヴァイオレット。
 ヴァイオレット 畏まりました。
(ヴァイオレット退場。)
 アーサー では、他の者は昼食にした方がいいだろう。グレイス、みんなを食堂へ。
 グレイス(行き渋って。)アーサー、お願い・・・
 アーサー(グレイスを無視して。)ディッキー、儂が地下室から上げて置いたクラレット(赤ぶどう酒)をボトルからデカンターへ移しておいてくれ。ボトルは食堂のサイドボードの上だ。
 ディッキー はい、分りました。(退場。)
 アーサー デズモンド、ジョン、君たちもどうか奥へ。
(二人は黙って食堂へ退場。グレイス、まだ行き渋っている。)
 グレイス あなた?
 アーサー うん?
 グレイス どうか、お願い。ね、駄目よ、あまり・・・(言葉を切る。続きを言うべきかどうか、自信がない。) 
 アーサー 「あまり」・・・何だ。
 グレイス あの子がまだ子供だということを、どうか忘れないで。
(アーサー、返事をしない。)
 キャサリン(グレイスの腕を取って。)行きましょう、お母様。
(キャサリン、食堂の扉へ母親を導く。扉の所でグレイス、振り返ってアーサーを見る。アーサー、元の位置から動かず、グレイスを無視したまま。グレイス、食堂へ退場。後からキャサリンも退場。アーサー、二人が退場した後も動かない。かなりの間の後、扉を外からおずおずとノックする音。)
 アーサー 入れ。
(ロニー、通路に現れる。ガウンを羽織った化粧着姿。扉の敷居に立つ。)
 アーサー 入って、ドアを閉めなさい。(ロニー、後ろ手に扉を閉める。)こっちへ来なさい。(ロニー、ゆっくり父親の方へ歩く。アーサー、何も言わずに、しばらくじっとロニーを見つめる。)
 アーサー(ついに。)何故、制服を着とらん。
 ロニー(口籠るように。)濡れたので。
 アーサー どうして濡れたのだ。
 ロニー 外にいたから。雨の降ってる庭に。
 アーサー どういう事だ。
 ロニー(しぶしぶと。)隠れてたんです。
 アーサー 儂からか?
(ロニー、頷く。)
 アーサー 忘れたのか、もしお前が何か困ったことに巻き込まれたら、それがどんな類(たぐい)の事柄でも、まず最初に儂の所に来ると約束したことを。
 ロニー 忘れてはいません。
 アーサー では、何故すぐに儂の所に来なかったのだ。何故、庭に隠れていた。
 ロニー よく分りません、自分でも。
 アーサー 儂のことがそれほど怖かったのか。
(ロニー、答えない。アーサー、少しの間、ロニーを見つめ、それから例の手紙を取り上げる。)
 アーサー この手紙には、お前が郵便為替を盗んだと書いてある。
(ロニー、何か言おうと口を開きかける。アーサー、それを遮る。)
 アーサー まだ何も言うな。まづは儂の話を聞くのだ。いいな? もし、お前がやったのなら、お前は儂にそう言わねばならん。儂は怒ったりはせん、お前が正直に儂に話しさえすれば。しかし、もしお前が儂に嘘をつけば、儂には分かる。お前と儂の間で、嘘など隠し通せる訳がないからな。儂にはお前の嘘は分るんだ、ロニー。口を開く時に、よーくそのことを考えるんだ。いいな。(間。)その郵便為替を、お前は盗んだのか?
 ロニー(ためらうことなく。)いいえ。僕は盗んでいません。
 アーサー(ロニーの目をじっと見つめながら。)その郵便為替を、お前は盗んだのか?
 ロニー いいえ。僕は盗んでいません。
(アーサー、少しの間、ロニーの目を見つめる。やがて力を抜き、彼の体を優しく押す。)
 アーサー ベッドに戻りなさい。
(ロニー、感謝の気持ちを抱いて扉に進む。)
 アーサー それと、これからは雨の時は迷わずに家(うち)に入る、その程度の常識は儂の息子にならば、あると儂は信じておるからな。
 ロニー はい、お父さん。
(ロニー、退場。アーサー、さっと立ち上がり、部屋の隅の電話に進む。)
 アーサー(受話器に。)もしもし。(非常にはっきりした口調で。)長距離電話をお願いします。・・・長距離電話です。・・・はい・・・オズボーン、王立海軍士官学校・・・ええ、そうです・・・受話器をいったん置く? 分りました。
(アーサー、受話器を置く。暫く考えている様子。それから振り向いて、さっと食堂へ退場。)
                (幕)

   第 二 幕
(場は前幕と同じ。九箇月後。春の夕方、六時頃。どうやら客間に戻されることになったらしい蓄音器のハンドルをディッキーが回している。テーブルには開いたままのノートと積み重なった本がある。明らかに勉強を中断して、さぼっている様子。)
(蓄音器が動き出し、かすれた鈍い音でアーリー・ラグタイム(ジャズの一種)の曲が鳴る。ディッキー、少しの間、いい気持ちで曲を聞いているが、やがて一人用のステップをちょっとやってみる。)
(キャサリン、登場。夜会服姿。ディッキー、蓄音器のスイッチを切る。)
 ディッキー この蓄音器の音、二階の親父に聞こえると思う?
 キャサリン 聞こえないと思うわ。私、聞こえなかったから。
 ディッキー 柔らかい針にしたし、蓄音器のホーンの下に古いセーターを敷いたからね。医者はまだいるの?
(キャサリン、頷く。)
 ディッキー 診断は何だって?
 キャサリン 充分な休養が必要。
 ディッキー 誰だって充分な休養が必要なのさ。
 キャサリン(本を指差して。)あなたには必要なさそうね。「心配事を全部、田舎に行って忘れなきゃ駄目」っていうのがお医者さんの意見。
 ディッキー 忘れる? まづ無理だね。
 キャサリン ええ。
 ディッキー そのドレス、なかなか似合ってるよ。新しいの?
 キャサリン 新しく見える? 古いドレスを作り直したんだけど。
 ディッキー 今日はどこに行くつもり?
 キャサリン ダリーよ。クリでまず夕食をすませてから。
 ディッキー そりゃいい。僕もお伴しようかな、でも、それは迷惑なんだろう?
 キャサリン そう。迷惑。
 ディッキー ジョンは気にしないと思うけど。
 キャサリン 多分。でも私はお断り。
 ディッキー 誰か、僕を誘ってくれる女の子、いないかな。ああ、そうだ。ところで、姉さんが目指す男女同権社会じゃ、女性も支払いの一部を共有するべきだと思う?
 キャサリン 勿論。
 ディッキー 本当? それなら今のアスクイス首相(訳注:イギリス自由党の政治家。一九〇八年、首相となり社会政策立法を推進した。一九一六年、戦争指導を批判され辞任。)の選挙運動の時には、僕も動員して欲しいな。
 キャサリン(笑って。)女の子と出かけたいなら、エドウィーナにちょっと当ってみたら? あの子、お金持ちだし・・・
 ディッキー エドウィーナに当る? そんなことしようものなら、その日から僕はお払い箱だよ。
 キャサリン それはいくら何でも酷いんじゃない?
 ディッキー いや、そんな事ない。充分あり得るよ。
(ヴァイオレット、金属製の盆の上に夕刊紙を載せて登場。)
 ヴァイオレット 新聞はおすみになっても捨てないでおいて下さい。コックと私、後から読みたいんです。何か面白い記事があるかもしれませんから。
(キャサリン、性急にページをめくる。ディッキー、首を伸ばしてキャサリンの肩越しに覗く。)
 キャサリン ええ、分かったわ、ヴァイオレット。
(ヴァイオレット、退場。)
 キャサリン 出てるわ。「オズボーン士官候補生」・・・今回の投書は二通ね。(読む。)「編集長殿。私は、オズボーン士官候補生の事件に対する海軍省の扱いが恥知らずで高圧的なものであると考える点で、本紙の寄稿者、デモクラット氏と全く同意見であります。これまで、アーサー・ウィンズロウ氏は御子息に対する公正な裁きの機会を要求してきましたが、その努力は事毎に卑劣な寡頭政治により妨げられてきました。」
 ディッキー 卑劣な寡頭政治か。悪くない。
 キャサリン 「今こそ、この国の善良な市民は、政府の新たな専制主義によって、自らの古(いにしえ)よりの自由が日々脅かされていると自覚するべき時です。かつては「英国人の家は城」とまで言われました。しかし今や城は急速に自らの牢獄と化しつつあります。本紙に忠実なる、自由主義擁護者より。」
 ディッキー いいぞ! 自由主義擁護者。
 キャサリン もう一つは「困惑者」から。(読む。)
「編集長殿。私は、オズボーン士官候補生の事件に、世間がこれほど大騒ぎする理由が分りません。十四歳の少年、五シリングの郵便為替、などよりもっと重要な、真剣に取り組むべき問題が私達にはある筈です。」馬鹿な老耄(おいぼれ)よ、この人。
 ディッキー 老耄? どうして年寄りだって分る。
 キャサリン 決ってるでしょう? (読む。)「今日(こんにち)、急速にわが国の海軍を圧迫しつつある西欧列強及びバルカン諸国における問題を抱えている海軍省にとって、ロニー・ウィンズロウ少年の事件は些細な問題であり、海軍省には少年の事件などより、もっと緊急に処理しなければならぬ種々の課題が存在すると言っても許されるべきであります。なお、海軍法務総監による再調査の結果、少年が有罪であるという初期の見解が十分に確認された以上、これでこの馬鹿げた空騒ぎに終止符が打たれることを私は心から願うものであります。云々(うんぬん)云々。困惑者より。」(間)
 ディッキー(キャサリンの肩越しに読む。)「この問題への寄稿は今回で取り止めとします。編集長。」糞っ!
 キャサリン 今回で取り止め・・・打つ手なしね、本当に。
 ディッキー 打つ手なしだ、全く。(ちょっと考えてから。)ねえ、僕をその老耄(おいぼれ)と一緒にはしないで欲しいんだけど・・・でも、僕だって実際、もしこれが自分の弟のことじゃなかったとしたら、この「困惑者」と同じ見方をしたかもしれないな。酷い話だけどね。
 キャサリン 同じ見方?
 ディッキー いや、つまり・・・いろんな事を全て考え合わせると・・・空騒ぎにしか見えない。結局のところ、他人から見たらただの窃盗・・・それだけのことなんだから。(辛辣に。)それに酷い金のかかりようだ。・・・そうだ、音楽でもかけて気を取り直そう。(蓄音器をかける。)
 キャサリン(レコードを聞きながら。)この曲、例のあれね?
 ディッキー 姉さんも、ちょっとステップの練習。
(キャサリン、ディッキーと踊る。現代風に腕を十分伸ばして上下させるポンプハンドルスタイル。)
 ディッキー(驚いて。)へえー。うまいじゃないか!
 キャサリン それはどうも。
 ディッキー 誰に習ったの? ジョン?
 キャサリン いいえ。こっちが教える方・・・実は。
 ディッキー 女性優位・・・恋愛でも?
(キャサリン、にっこりと頷く。間。その間、二人はダンスを続ける。)
 ディッキー いつになったの? 式は。
 キャサリン また、延期。
 ディッキー 本当? なぜ?
 キャサリン あちらのお父様が半年、海外へ行くから。
 ディッキー 気にすることなんてないのに、あんな糞おや・・・(言葉を改めて。)親父さんに。
 キャサリン 気になんかしてないわ、私。でもジョンは気にしているわ。だから私も。仕方ないでしょう?
(キャサリンの言葉の調子に、ディッキー、踊るのを止め、真面目な顔でキャサリンを見つめる。)
 ディッキー ねえ、うまく行ってないの?
(キャサリン、首を振る。微笑んではいるが、あまりはっきりした否定の仕方ではない。)
 ディッキー つまり・・・延期がそのまま取り止めなんてことにはならないよね?
 キャサリン ええ、それはないわ。必要なら、私、引っ張ってでもあの人を式場まで連れて行くつもりよ。
 ディッキー(再び二人で踊り始めながら。)引っ張って行くって、本気?
 キャサリン ええ。当たり前でしょ。
 ディッキー もう喧嘩になってる?
 キャサリン いいえ、そこまではまだ。まあ、考え方の違いね。
 ディッキー なるほど。でも、この道じゃ苦労してる僕の忠告も聞いてくれないかな。
 キャサリン いいわよ、ディッキー。
 ディッキー 自分の意見は控えること。男って、たとえ意見が同じでも、その意見を女の方から言われるのは、面白くないものなんだ。それが、違ってたりしてたら、もう致命的だよ。エドウィーナみたいに、ちょっと抜けてるふりをすればいいんだ。そうすれば、男なんて意のままなんだから。
 キャサリン そうね。私も、時々はそうするの、でもすぐ忘れて。とにかく今はまだ大丈夫、心配いらないわ。もし仮に、今の私が自分の信念と感情の間で板挟みになったとしても、そのどちらを選ぶかは、はっきりしてるんだから。
 ディッキー 信念に生きる、それでこそ、姉さんだ。それにしても、どうして恋のお相手がラムゼイ・マクドナルド(註 イギリス労働党の党首。)じゃないのか、僕にはさっぱり分らないけど。
(アーサー、登場。前幕よりも更に歩行に困難が伴う様子。ディッキーとキャサリン、慌ててダンスをやめる。ディッキー、蓄音器を止める。)
 キャサリン(素早く。)私がいけなかったの、お父様。ディッキーはちゃんと勉強してたのに私、ダンスのステップを教えて欲しいって・・・
 アーサー ほう? その誘いにディッキーがのったとはな。驚きだ。
 ディッキー(話題をそらして。)お医者様は何て?
 アーサー 医者の言葉はこうだ。儂の記憶に間違いがなければ・・・「お互い、最後に会った時と全く変わらずにいるという訳にはいきません。」こんな御託宣に一ギニーとは高すぎるな。(夕刊紙を見て。)おや、それはスターだな? 取ってくれんか。
(キャサリン、新聞を持ってアーサーの所へ行く。)
 アーサー ジョンはお前を迎えに来るのだったな?
 キャサリン ええ。
 アーサー 彼はここへは通さん方がいいだろう。もうすぐこの部屋は、ジャーナリストや事務弁護士や法廷弁護士、それにその他の邪魔者たちでごったがえすだろうからな。
 キャサリン サー・ロバート・モートンもここに来ることになってるの?(訳注 サーは準男爵またはナイト爵を示す。)
 アーサー(スター紙に没頭している)彼とは面会も叶うまい・・・(訳註 この後の展開と矛盾)
(ディッキー、父がいる手前、この時までに勉強の本に戻っている。アーサー、スター紙を読む。キャサリン、鏡でちらっと自分を見てから何気なく扉へと進む。)
 キャサリン 私、ちょっと髪を直してくるわ。
 ディッキー 髪がどうかしたの?
 キャサリン いえ別に、ただちょっと気に入らないところが。
(キャサリン、退場。ディッキー、忙(せわ)し気に、もう二冊本を開き、鉛筆を噛む。アーサー、スター紙を読み終えると、不機嫌そうにじっと宙を見つめる。)
 アーサー(やがて。)訴えでもするか、この「困惑者」って奴を。
 ディッキー そうすれば事件を法廷に持ち込めるかもしれないね。
 アーサー しかし、この男は中傷をした訳ではない。ただ下品なだけだ。
(アーサー、新聞を投げ捨て、何かを考えるようにディッキーを眺める。ディッキー、父の目が自分に注がれているのを感じて、勉強に精を出す。)
 アーサー(やがて畏まって。)少し邪魔をしても構わんかな?
 ディッキー(本を押しやって。)どうぞ、お父さん。
 アーサー 儂はひとつお前に聞きたいことがある。が、その前にこれだけは言っておかねばならん。質問には必ず「正直に」答えねばならん。どうしてもだ。
 ディッキー 分かってます。
 アーサー 「分ってます」か。お前の口から何度聞いたかな、「正直に」と言われて、「分ってます」という答を。だいたい儂には、お前の身体の造りに、「正直に」ということが組み込まれておらんように見えるが?
 ディッキー いえ、約束します、お父さん。今度は必ず「正直に」。
 アーサー そうか。(少しの間、じっとディッキーを見つめる。)どうかな、お前の学位取得をだしにして、お前の友人が賭けの胴元になるとする。オッズをどのくらいにするかな、お前の友人は。
(間。)
 ディッキー そう、まあ、一対一じゃないかな。(訳註 友人の胴元がこれで値段を決めたとする。顧客が千円払ったとする。もしディッキーが学位を取れば、胴元は客に二千円払う。学位を取れなければ千円は胴元のもの。)
 アーサー フム、そんな割合じゃ、全く客はつかないね、多分。
 ディッキー ひょっとすると四対七、かな。(訳註 客が四千円払い、もしディッキーが学位を取れれば一万一千円返って来る。落ちれば金は胴元のもの。)
 アーサー 成程。では、お前が最終的に官庁の役人になれるオッズはどうだ。
 ディッキー それは・・・もう少し歩が悪そうだ。
 アーサー うん。かなり歩が悪いな。
(間。)
 ディッキー 何? この話。お父さんと博打(ばくち)は似合わないよ。
 アーサー そうだ。儂は博打はやらん。博打はやらんからこそ困っている。学位が取得出来そうにもないお前に、年二百ポンドを賭ける立場にはもうなくなって来ているんだ。おまけに、お前自身が勝ち目はないと認めているんだからな。
 ディッキー 認めてはいません、お父さん。勝ち目はあります。
 アーサー お前の「あります」は当てにならん。今のお前のその調子じゃ駄目なんだ。気の毒だが、決定的に駄目だ。済まないが、儂はもう決めた。
(長い間。)
 ディッキー オックスフォードを辞めろと?
 アーサー そうだ、ディッキー。非常に残念だが。
 ディッキー あー。それで今すぐ?
 アーサー いや。第二学年は修了できる。
 ディッキー その後は?
 アーサー 銀行に就職口を見つけてやる。
 ディッキー(静かに。)銀行・・・
(間。)
 アーサー(かなり済まなさそうに。)きっとお前にはいい仕事だろう。幸い銀行ならまだ多少は儂の力が及ぶんでな。
(ディッキー、立ち上がり、やや茫然とその辺を歩きまわる。)
 ディッキー お父さん、もし僕が・・・今度こそ本気で勉強するって約束したら・・・死ぬ気でやるって約束したら・・・。
(アーサー、ゆっくり頭をふる。)
 ディッキー 問題は裁判に必要な費用?
 アーサー そうだ。実際、裁判になれば、もっとかかる。
 ディッキー 分ります。そうでしょう。でも何とか・・・何かいい方法が・・・
(アーサー、再び頭をふる。)
 ディッキー ああ・・・
 アーサー 確かにお前にはかなりショックだろう。済まん。
 ディッキー えっ? いや、そうでもないよ。いつかはこうなるんじゃないかって気がしてたんだ。特に、お父さんがサー・ロバート・モートンに弁護を依頼したいと話してるのを聞いた時からね。だけどやっぱり今は・・・横っ面を張られたような・・・そんな感じだな。
(玄関の扉でベルが鳴る。)
 アーサー どうやらジャーナリストのお出ましだ。この話はまた別の機会にする。いいな?
 ディッキー はい。勿論です。
(ディッキー、肩を落して教科書類を片付け始める。)
 アーサー 儂がお前なら、それはそのままそこに置いておくがな。
 ディッキー そうですね。じゃ、そうします。
(ディッキー、扉へ進む。)
 アーサー(改まって。)ところで、最近、お前の素敵なガールフレンドはどうしている? ミス・エドウィーナ・ガンは。
 ディッキー 元気です、とても。御陰様で。
 アーサー あの子は、お前が芝居に誘ったり、或いはちょっとした贈り物をすることを、遠慮して断るようなタイプではないな?
 ディッキー ええ、そんなタイプじゃありません。
 アーサー そうか。お前に二ポンドやる。これが今の儂に出来る精一杯のことだ。
(この時までにアーサー、ソブリン金貨のケースを取り出していて、そこから二枚を抜く。ディッキー、近づいて、それを受け取る。) 
 ディッキー では、戴きます。お父さん。
 アーサー 残ったら、それで自分のものを買うんだな。
 ディッキー はあ。それほど沢山余ることもないと思いますが。でも、とにかく御親切、感謝します・・・そうだ、景気づけにちょっと一杯・・・いいですか。
 アーサー 勿論いい。食堂にデカンターがある筈だ。
 ディッキー はい、じゃあ・・・
(ディッキー、食堂の扉へ進む。)
 アーサー ディッキー、よく我慢してくれたな、こんな酷い話を。有難う。礼を言う。
 ディッキー(居心地悪そうに。)いいんです、お父さん。
(ディッキー、退場。アーサー、深く溜め息をつく。)
(ヴァイオレット、ホールの扉の所に登場。)
 ヴァイオレット(堂々と来客を告げる。)デイリーニュースの方です。
(ミス・バーンズ登場。約四十歳。服装はかなりいい加減。感情を大袈裟に表わすタイプ。)
 ミス・バーンズ ウィンズロウさんですか? お目にかかれて良かったわ。
 アーサー はじめまして。
 ミス・バーンズ(作り笑いをしながら。)女性のレポーターで驚かれたでしょう? 皆さん、そうなんです。でも、女性で悪いってこと、ない筈よ。レポーターなんて、女性がピッタリ。
 アーサー ほう、ピッタリね。どうぞお坐りください。
 ミス・バーンズ 弊社では、女性受けのする記事の場合には女性を送り込むんです。特に今回のような、心温まる話・・・父親が小さな息子の名誉のために闘うというような話では。
(アーサー、「そんな話ではない」という不満の表情。)
 アーサー 心温まる? 違いますね。もっと別の意味がある筈です。
 ミス・バーンズ ええ、政治的な側面ですね。分かっています。それは重要な点ですが、私の受け持ちではありません。今日お伺いしたのは実は、息子さんと御一緒に並んで戴いて、素敵なお写真を撮らせて戴きたいと思って・・・。そのためにカメラ、そして助手を連れて来ました。ホールで控えています。息子さんは今どちらかしら。
 アーサー もう、学校から帰る頃です。先程、家内があれを駅まで迎えに行きました。
 ミス・バーンズ(メモを取りながら。)学校から・・・では息子さんを受入れる学校があったっていうことですね? ああいうもめ事があっても。
 アーサー ええ、受け入れてくれる学校がありました。
 ミス・バーンズ 休みでもないこんな時に帰っていらっしゃるというのは、今度はどういうことですの?
 アーサー 「また退学?」と言いたいのでしたら、それは違います。弁護士の事情聴取を受けさせるためです。サー・ロバート・モートンにこの件の弁護を依頼する予定なのです。
 ミス・バーンズ サー・ロバート・モートンですって! (大したものだと口笛を吹く。)まあ!
 アーサー そうです。
 ミス・バーンズ(疑わしそうに。)でも、あの方、こんな小さな事件を引き受けるかしら。
 アーサー(爆発するように。)これは小さな事件ではない! マダム。
 ミス・バーンズ ええ、ええ。勿論、そうですわ。でも・・・サー・ロバート・モートン!
 アーサー 儂に分かっておることは、この国で一番の弁護士は彼だということだ。確かに費用が嵩むことも一番だが。
 ミス・バーンズ ええ、すごい金額。でも、それさえ払えば、どんな事件でも大抵は引き受けて貰えるんですわね?
 アーサー 「どんな事件でも」とは何ですか、マダム。これはそんな軽々しい事件ではないのです。
 ミス・バーンズ ええ、ええ。勿論、そうですわ。ところで、二三、細かいことを伺っても構わないかしら? 事の起りはいつ頃?
 アーサー 九ヶ月前。儂が初めてこの事を知ったのは、息子が儂宛の海軍省からの手紙を持って帰宅した時です。それには息子に対する嫌疑と放校という処分が書かれてました。儂がオズボーンに抗議の電話をかけた所、この件は海軍大臣に問い合わせよと言われました。それで、儂の事務弁護士が間に入り、海軍省を通じて、この件の可能な限り十分な調査を学校側に要求したのです。しかし、最初の数週間は全く無視され、やがて、きっぱりした拒絶の返事がありました。こちらは相当ねばり、やっと我々に、事件の証拠を閲覧する許可が与えられたのです。
 ミス・バーンズ(関心無さそうに。)ええ、それで?
 アーサー 事務弁護士の判断は、その証拠にはかなり疑問があり、従って、事件の再調査には十分な正当性があるというものでした。そこで、我々は海軍省に軍法会議を願い出ましたが、無視されました。それで民事裁判を願い出ましたが、これも無視されました。
 ミス・バーンズ 無視された?
 アーサー そう。しかし、激しい圧力が生じた結果・・・即ち、新聞への投書や議会での質問、その他この国の一般市民に許された手段が圧力となって、ついに海軍省も彼らが独立調査と呼んでいる方法に同意したのです。
 ミス・バーンズ(気のない返事で。)そう、良かったですわね。
 アーサー 良くなかったのです、マダム。独立調査は、海軍法務総監によって行われました。私は、彼に対しては別にどうこう言うことはありません。ただ、たった十四歳の息子の弁護に、代理人も、弁護士もつけられなかった。友人でさえです。これをあなた、どう考えます。
 ミス・バーンズ あら、まあ。
 アーサー 「あら、まあ」ですむことですか、これが。
 ミス・バーンズ それで、どうなったんです? 結果は。
 アーサー どうなったと思います。結果は分り切ったこと、またも有罪です。こうして二度までも窃盗と偽造の汚名を着せられたのです。
 ミス・バーンズ(注意を他のことに向けている。)まあ、酷い。
 アーサー 言うまでもありませんが、こちらはこの問題をこのままにしておくつもりはありません。能(あた)う限りの手段を以って、この甚だしい不正と闘い続けるつもりなのです、貯えが続く限りは。
 ミス・バーンズ あれ、いいカーテンですわね。素材は何かしら。(立ち上がって窓辺へ行く。)
(アーサー、声を失い、しばし腰を下ろす。)
 アーサー(とうとう。)さて、見当も付かんが。
(ホールに人の声がする。)
 ミス・バーンズ あら、あれ坊ちゃんの声じゃない?
(ホールの扉が開き、騒々しくロニー登場。続いてグレイスも。ロニー、明らかに気分が昂揚している。)
 ロニー ただいま、お父さん。(父に駆け寄る。)
 アーサー お帰り、ロニー。
 ロニー お父さん! ムアーさんがね、もしそうしたければ、月曜まで戻らなくてもいいって言うんだ。お父様にも、そうお伝えするようにって。だから、今日からまる三日、家(うち)にいられるんだ。
 アーサー 脚(あし)に気を付けてくれ。
 ロニー ああ、ごめん。
 アーサー どうだ、調子は。
 ロニー うん、凄くいいよ。お母さんに、また背が伸びたって言われた。
 ミス・バーンズ ああ、正にこういう場面を私、撮りたかったんです。どうか、そのままでいて下さいます?(ホールの扉へ行き、助手を呼ぶ。)フレッド! 早く来て頂戴。
 ロニー(ひそひそ声で囁く。)あの人、誰?
(フレッド、登場。撮影機材一式を備えたカメラマン。ぼんやりした男。)
 フレッド(陰気に。)こんにちは。
 ミス・バーンズ あんな感じでどうかしら。
 フレッド ええ。いいですね。
(フレッド、機材を組み始める。アーサー、言われたままの姿勢で仕方なくロニーを抱きながら、顔だけグレイスの方へ向ける。)
 アーサー グレイス。このご婦人はデイリーニュースの方だ。あのカーテンが酷く気に入ったそうだ。
 グレイス(喜んで。)まあ、本当。それは良かったわ。
 ミス・バーンズ ええ、そうなんです。あれ、何で出来てるのかしら、ずっと気になってて。
 グレイス さあ、きっと何か新しい素材でしょうけど、何ていうのか私も知りませんわ。でも、去年、バーカーズで買ったものですから。天然シルクと何かを混ぜたものだってことは確かね。
 ミス・バーンズ(ここに到って初めて筆がよく動く。)ちょっと待って、ミスィズ・ウィンズロウ。私、速記は不得意で。とにかく、これは書いて置かなくちゃ。
 ロニー(アーサーに。)お父さん、僕たちのこと、デイリーニュースに載るの? 
 アーサー そうらしいな。
 ロニー へえー。デイリーニュースなら学校の図書館でも取ってるから、みんなの目にもきっと・・・。
 フレッド 動かないで下さい。(写真を撮る。)終りました、バーンズさん。(フレッド、退場。)
 ミス・バーンズ(グレイスの話に気を取られたまま)ありがとう、フレッド。(アーサーに。)では、失礼します、ウィンズロウさん。御健闘をお祈り致しますわ。(ロニーに向き直り。)さようなら、坊や。いいわね、夜明け前がいちばん暗いってだけのことよ。(グレイスに。)今日は、色々お話を聞けて大変有り難かったですわ。きっと私達の読者も大いに関心を寄せることと思います。では。(グレイス、バーンズの退場を見送る。)
 ロニー あの人、何の話をしてたんだろう?
 アーサー 訴訟の件だろう。
 ロニー ああ、そのことか。ねえ、帰りの列車ね、十四両編成だったんだ。
 アーサー ほう、そうか。
 ロニー うん。全車両、通廊付きでね。
 アーサー 大したもんだな。
 ロニー そうなんだ、最大クラスの特急列車だよ、あれは。僕、通路を端から端まで歩いてみたんだ。
 アーサー 学校からお前の前期の成績を受け取った。
 ロニー(突然の台詞にしばし黙した後。)うん、それで?
 アーサー 全体としては、実にいい出来だ。
 ロニー 良かった。
 アーサー 儂もお前が新しい学校にうまく馴染めたようで安心だ。本当に良かった。
(グレイス、戻ってくる。)
 グレイス ほんと、感じのいい方だったわね、あなた。
 アーサー 感じがいい、か。お前、うちのカーテンのことを逐一(ちくいち)話したんだな?
 グレイス ええ。全部。
 アーサー(疲れたように。)たいしたもんだ。
 グレイス 女性のリポーターなんて、いい思い付きねえ、あなた。
 ロニー(勢い込んで。)ねえ、月曜までは家(うち)にいてもいいでしょう? お父さん。それで勉強が遅れるようなことはないよ・・・神学だけなんだ、あるのは。(ロニー、再び父の脚を軽く押してしまう。)
 アーサー おい、また、脚だ!
 ロニー ああ、ごめん、そんなに悪いの?
 アーサー うん。(グレイスに。)おい、この子を上に連れてって、着替えや何かさせるんだ。じき、サー・ロバート・モートンがここに来る。
 グレイス(ロニーに。)さあ、いらっしゃい。
 ロニー うん。(母親と扉へ進む途中で。)ねえ、例の特急、ここまでどのくらいかかったと思う? 百二十三マイルを二時間五十二分で走ったんだ。これは一時間あたり平均、四十六・七三マイルに相当する。僕、計算したんだ。(訳注:この計算は間違い。距離と時間が正しいとすると、平均、四十二・九一マイル。)ヴァイオレット! ヴァイオレット! ただいま!
(ロニー、かん高い声でなおも話しながら退場。)
(グレイス、扉の所で立ち止まる。)
 グレイス それで、お医者様はなんて?
 アーサー いろいろと言ってたが、結局、役に立つようなことは何も。
 グレイス ヴァイオレットから聞いたお医者様の指示は、背中の軟膏と、一日に四回、マッサージをすること、この二つ。それで全部ですの?
 アーサー まあ、そんな話だった。
 グレイス じゃあ、早速、マッサージを始めたらどう?
 アーサー 今はできん。
 グレイス でも、あなた、サー・ロバートがいらっしゃるまでにはまだ充分時間があるでしょう? 今おやりにならなかったら、結局今日寝るまで、一度もマッサージができませんわ。
 アーサー 分かっておる。
 グレイス ねえ、ほんと、こんな馬鹿馬鹿しいお金の使い方ってないわ。ちっともお医者様のお言い付け通りにしないのに、お金だけ払うなんて。
 アーサー(苛々して。)もういい。分かったよ。分かった。
 グレイス 分かって戴けて良かったわ。
(キャサリン、登場。)
 キャサリン ロニー、帰ってきたのね。音で分ったわ。
 グレイス(キャサリンのドレスに目をとめ。)あら、あの古いドレス、綺麗になったわね。これなら、ジョンも気が付かないわ、仕立て直しだなんて。
 キャサリン 彼、遅刻。駄目ね。
 アーサー グレイス、そろそろ上へ行って、あの子の支度をみてやれ。それと、塗り薬を暖めてくれ。用意が出来たら行く。呼んでくれ。
 グレイス はい。(キャサリンに。)ほんと、良く似合ってるわ。本当に上手ね、マダム・デュポンは。
(グレイス、退場。)
 アーサー(弱々しく。)なあ、ケイト。お前と儂、二人とも、頭がどうかしているのか?
 キャサリン どうしたって言うの?
 アーサー 自分でもよく分らん。急に自分で自分の首を絞めたくなることがある。(苦々しく。)「父親、小さな息子の名誉のために闘う」、 「女性陣に大受け」、「ウィンズロウ夫人特製のカーテン、写真つきで紹介」。これで上手く行くっていうのか。
 キャサリン(微笑んで。)大丈夫よ、お父様。
 アーサー いっそ全てを白紙に戻すか?
 キャサリン そんなに考えつめないで、お父様。
 アーサー(ゆっくりと。)お前、分っているのか? もしこのまま行けば、お前の持参金もなくなってしまうんだ。
 キャサリン(軽い調子で。)ええ、分ってるわ。何週間も前から、それは覚悟の上。
 アーサー それで、お前とジョンの仲は大丈夫なのか?
 キャサリン ええ勿論、お父様。大丈夫よ。
 アーサー つまり、二人の仲はそれでも何も変わらないと言うんだな?
 キャサリン それはそうでしょう? 何が変るって言うの?
 アーサー そうか、分った。あとはサー・ロバート・モートンを信じて任せるということか。(キャサリン、黙ったまま。アーサー、キャサリンを見る。同意の返事を期待していたことが分かる顔。そしてうなずく。)
 アーサー どうやら今の儂の言葉は、儂の独り言だったということか。
 キャサリン(軽く。)ご存知の筈よ、私がサー・ロバート・モートンの事をどう思っているかは。この話は止め。今ではもう手遅れ。
 アーサー 手遅れじゃない。彼はまだ、この訴訟を引き受けてはおらんのだからな。
 キャサリン(短く。)それなら私、彼が引き受けないことを願うわ。ただこれ、あの結婚資金のこととは何の関係もないわよ。
(間。アーサー、一瞬、怒った様に見えるが、すぐに和らいで。)
 アーサー(穏やかに。)お前が言っていた例の弁護士も調べてはみたが・・・モートンほどの腕はないそうだ。
 キャサリン それに、モートンほど流行ってもいない。
 アーサー(躊躇いながら。)この訴訟には最高の弁護士を・・・
 キャサリン この訴訟で最高の弁護士、それはモートンじゃないわ。
 アーサー では何故、彼が一番だと誰もが言うのだ。
 キャサリン(声を上げて。)誰もが・・・違うでしょう。労働組合を攻撃する独占企業側の人間か、労働党の党首をけなす保守派の人間だけよ、あの人が一番だって言うのは。そもそも、あんな経歴の持主に、今度のようなお門違いの事件を頼もうとするなんて、お父様も、他の誰にしたって、一体何を考えているの・・・私、本当にがっかり。あの人、自分の能力のたった十分の一だって注ぎ込む気はないわ。
 アーサー 能力を注ぎ込む気がないなら、この事件は引き受けんだろう。
 キャサリン いえ、それでもやるかも知れないわ。やるかやらないか、あの人独自の基準があるんですから。ただ今回は、幸い、その基準に合わないわ。
 アーサー(苦々しく。)小切手の額はかなりなものだぞ。
 キャサリン あの人が欲しいのはお金じゃないわ。お金ならもうたっぷり持っている。
 アーサー それなら、何が欲しいんだ。
 キャサリン 自分の興味を引くものよ、欲しいのは。
(アーサー、肩をすくめる。間。)
 アーサー 彼のことをついつい悪く考えるのは、彼が婦人参政権反対論者だからじゃないのか?
 キャサリン ええ、私、あの人のことを悪く考える。あの人、いつだって、正しいこと、正当なことに反対するんだから。労働争議調書に関して彼が議会で行った演説、お父様はお読みになった?
 グレイス(部屋の外から。)アーサー、アーサー!
 アーサー(微笑む。)あれは、確か・・・首相の発言の中で・・・うん、これはまた後だ。(アーサー、扉のところまで進み、そこで振り返る。)とにかくお前だけが儂の味方だ、ケイト。お前がいなければ、儂もとっくに諦めていただろう。
 キャサリン 大袈裟ね。
 アーサー いや、そうなのだ。しかし、今回は儂自身の判断に従って欲しい。モートンでなければという、これは儂の直感だ。
(キャサリン、答えない。) 
 アーサー(確信ないまま。)儂の直感とお前の理性と、どちらが正しいか・・・いづれ分かる。
(アーサー、退場。)
 キャサリン(半ば自分自身に。)いづれ分る・・・残念だけど。
(ディッキー、食堂の扉から登場。)
 ディッキー(元気なく)姉さん。
 キャサリン 何?
(ディッキー、暗い顔で反対側の扉へ部屋を横切る。)
 キャサリン どうしたの? エドウィーナにふられでもした?
 ディッキー まだ聞いてないの?
(キャサリン、首を横にふる。)
 ディッキー 今年いっぱいでオックスフォード・ステークスからは抹消されることになったんだ。
 キャサリン まあ! そうだったの。
 ディッキー こういう事態になるという兆しはあったんだろう?
 キャサリン ええ、可能性はね。
 ディッキー 姉さんは僕に、危ないよって言ってくれてもよかったんじゃないかな。親父の罠にすっぽり嵌ってしまったよ。糞っ。あの出来のいい弟を殺したい気分だ。(苦々しく。)一体あいつ、何のために郵便為替なんか盗む必要があったんだ。しかも盗んだ後で尻尾をつかまれるなんて、間抜けめ! 
(ディッキー、暗い顔で退場。玄関でベルの音。キャサリン、ジョンが来たのだと思い、明るい顔で外套を取り上げ、ホールの扉へ進む。)
 キャサリン(呼びかけながら。)いいわ、ヴァイオレット、私が出ます。きっとウェザーストーンさんだから。(退場。)
(ホールで人の話し声。やがてキャサリンがデズモンドとサー・ロバート・モートンを中へ案内しながら登場。サー・ロバートは四十代始め、色白で非常に上品な感じ。丈の長いオーバーコートを着て、手には帽子とステッキ。一見して気障(きざ)な男。その表情がまた、それを裏打ちするように不遜。)
 キャサリン(登場しながら。)先程は失礼しました。友だちを待っていたものですから。どうぞ、お掛けください。まもなく父も来ます。
(サー・ロバート、軽く会釈し、コートを着たまま堅い椅子に腰を掛ける。)
 キャサリン どうぞこちらにお坐りになって。そちらより坐り心地がいい筈ですから。
 サー・ロバート いえ、結構。
 デズモンド サー・ロバートはこの後とても大事な夕食の約束があります。それで少し早く来ました。
 キャサリン はい。
 デズモンド ですから今夜は残念ながら、ほんの二三分しか・・・貴重なお時間を割けないそうです。勿論、ここに来て戴くまでが長かった訳ですが・・・つまりその、ここは事務所からとても遠くて・・・とにかく、これはみな、サー・ロバートのご好意によるものです。
(デズモンド、サー・ロバートに会釈。サー・ロバートも軽く会釈を返す。)
 キャサリン ええ。その点については私ども、よく存じているつもりです。
(サー・ロバート、キャサリンを一瞥し、微かにほほ笑む。)
 デズモンド 我々が来たことを、私が、お父上にお伝えして来ましょうか。
 キャサリン ええ、お願い。父は寝室にいます。マッサージ、そして背中に薬を、・・・。
 デズモンド ええ、分りました。
(デズモンド、退場。間。)
 キャサリン 何かお飲みになります? サー・ロバート。ウィスキーソーダか、それとも、ブランデー?
 サー・ロバート いえ、結構。
 キャサリン 煙草は?
 サー・ロバート いえ、結構。
 キャサリン(自分の煙草を取って。)吸っても宜しいかしら。
 サー・ロバート ええ、勿論。
 キャサリン 女が煙草を・・・眉を顰(ひそ)める人もいますから。
 サー・ロバート(関心なさそうに。)ご婦人が自分の家で自由に振る舞う・・・当然の権利です。
(間。)
 キャサリン コート、お脱ぎになったら? サー・ロバート。
 サー・ロバート いえ、結構。
 キャサリン ここは寒いのかしら? すみません。
 サー・ロバート いいえ、全く問題ありません。
(会話が再び下火になる。サー・ロバート、自分の時計に目をやる。)
 キャサリン 食事は何時から?
 サー・ロバート 八時です。
 キャサリン 場所は、遠いのかしら。
 サー・ロバート デボンシャー・ハウスです。
 キャサリン まあ、デボンシャー。それなら勿論、遅刻は厳禁ですわね。
 サー・ロバート そう。
(再び、間。)
 キャサリン 今度の事件、経緯はもう御存じかしら、サー・ロバート。
 サー・ロバート(爪を調べながら。)殆どの関連書類には目を通しました。
 キャサリン では、この事件、共謀訴訟で法廷に持ち込むことができるでしょうか?
 サー・ロバート まだ何(なん)とも。
 キャサリン カーリー&カーリーでは、その可能性はあると考えているようですが。
 サー・ロバート そうですか。あそこは非常に信頼のおける事務所です。
(間。キャサリン、殆ど癇癪を起こす寸前。)
 キャサリン この種の事件があなたの興味を引くなんて、私、正直なところ、とても驚きました。
 サー・ロバート 驚いた?
 キャサリン そうです。これは取るに足らない事件ですわ。これまであなたが法廷で勝ち取った勝利の数々に比べれば。
(サー・ロバート、物憂げに天井を見つめたまま、何も答えない。)
 キャサリン 私、労働組合の横領事件で、あなたがレン・ロジャーズの反対尋問をなさった時、あの法廷にいましたの。
 サー・ロバート ほう。
 キャサリン お見事でしたわ。
 サー・ロバート それはどうも。
 キャサリン レン・ロジャーズが数カ月前、自殺したことはお聞きになりまして?
 サー・ロバート ええ。聞きました。
 キャサリン 多くの人が、彼の無罪を信じていたことも?
 サー・ロバート 知っています。(ごく短い間の後。)しかし、生憎、あれは有罪でした。
(グレイス、急ぎ足で登場。)
 グレイス サー・ロバートね? 主人は今すぐ参ります。随分お待たせしてしまって申し訳ないと、申しておりました。
 サー・ロバート いえ、大丈夫です。はじめまして。
 キャサリン サー・ロバートは、この後、デボンシャー・ハウスで夕食会のお約束があるそうなの。
 グレイス まあ、本当? それなら勿論、遅刻は厳禁ね・・・ええ、分ります。「君子の礼法」って言うのかしら?
 サー・ロバート そう呼ぶ人もいます。
 グレイス この場合は勿論、他にも言い様はあるわね。ああ、どうやら今、階段の所ね、あの人。ところで、キャサリンはちゃんとお相手できましたかしら?
 サー・ロバート(キャサリンに軽い会釈。)はい。ありがとうございます。
(アーサー、登場。その後からデズモンドも。)
 アーサー お待たせしました。アーサー・ウィンズロウです。
 サー・ロバート はじめまして。
 アーサー 時間が押しているのですな。
 グレイス ええ。この後、デボンシャー・ハウスでお食事なの。
 アーサー そうですか。息子も今、降りてくる筈です。直接、お尋ねになりたい事もおありでしょう。
 サー・ロバート(そっけなく。)二、三、質問があるだけです。今夜はそれだけで時間がいっぱいです。
 アーサー それは残念です。息子には特にこの会見のために、学校から長い道を戻って来させました。そして私も今日中には、あなたがこの裁判を引き受けて下さるかどうか、はっきりとしたお返事を聞きたいと思っておったのですが。
 デズモンド(両者の仲を取り持って、サー・ロバートに向い。)事情聴取を完了するための時間は、また別に設けて戴けますね?
 サー・ロバート それは可能です。
 アーサー では、明日では?
 サー・ロバート 明日は無理です。午前中はずっと法廷で、その後は遅くまで下院ですから。(無頓着に)万一、事情聴取がさらに必要だと分かっても、来週でなければ時間はとれません。
 アーサー 成程。坐っても、宜しいですかな。(いつもの椅子に腰を掛ける。)うちの事務弁護士からは、あなたが今回の件について、権利の請願(訳注 正確には対政府権利回復訴願という。)をすることで、裁判に持ち込める可能性があるとお考えだと聞いていますが。
 キャサリン 権利の請願って何のこと?
 デズモンド 王室同様、海軍本部にも間違いは起こり得ないという前提を認めた上で・・・。
 キャサリン(つぶやく)そんな前提を認めるなんてそもそもお断りだけれど・・・。
 デズモンド 法律上は、ということです。その上で国民は権利の請願によって王室に、個人の名誉、体面の回復を訴えることができるというものです。実際には、国王の代理である法務長官に訴願するのが慣例ですが・・・そうすることで、その請願の保証を得、今回の事件を法廷に持ち込む許可を得ようというのです。
 サー・ロバート さらに言えば、その際、請願人が認(したた)めるべき言葉が正に「権利の回復をなさしめよ」という訳です。
 アーサー 権利の回復をなさしめよ。ほう、なかなかいい言葉ですな。
 サー・ロバート 訴える力がある、ということでしょう。(ものうげに。)権利の回復をなさしめよ。
(ロニー、登場。非常に真新しく見えるイートンの制服を着ている。)
 アーサー これが息子のロナルドです。ロニー、こちらがサー・ロバート・モートン卿だ。
 ロニー はじめまして。
 アーサー お前に二、三、質問があるそうだ。聞かれた事には全て正直に、お答えせねばならん。いつもの通りな。(椅子から立ち上がろうと無理をする。)儂たちがいない方が話しやすいだろうな。
 サー・ロバート いえ、そこにいらして下さい。但し、黙ったままで。(キャサリンに。)ミス・ウィンズロウ、あなたはそちらにお掛けになって下さい。
(キャサリン、「有難う」の意思表示なく、ただ、坐る。)
 サー・ロバート(ロニーに。)君はテーブルの所に立って。こちらに顔を向けて。(ロニー、言われた通りにする。)よろしい。
(サー・ロバートとロニー、テーブルを挟んで向き合う。サー・ロバート、とても静かに事情聴取を始める。)
 サー・ロバート では。君は今、何歳だ。
 ロニー 十四歳と七ヶ月です。
 サー・ロバート ならば、オズボーンを辞めた時は十三歳と十箇月だった。そうだな?
 ロニー はい。
 サー・ロバート さて、記憶を遡って、昨年の七月七日。その日、君に起ったことを君自身の言葉で正確に話して欲しい。
 ロニー 分りました・・・あの日は午後は休みで、午餐の後は何も課題がなく・・・。
 サー・ロバート 午餐? 午後一時に?
 ロニー はい、休みです。午後七時の自習時間までは。
 サー・ロバート 七時に自習・・・。
 ロニー それで午餐の少し前に一等下士官の所へ行き、学校に預けてある自分の口座から十五シリング六ペンスを下ろさせて欲しいと言いました。
 サー・ロバート 何のために?
 ロニー エアーガンを買うためです。
 サー・ロバート 十五シリング六ペンスの?
 ロニー そうです。
 サー・ロバート では、君がその時、学校に預けておいたお金の残高は?
 ロニー 二ポンド三シリングです。
 アーサー これでお分かりでしょう。息子には五シリングを盗む動機などありはしないことが。
 サー・ロバート(冷たく。)口を挟まないで戴きます。(ロニーに。)十五シリング六ペンスを引き出した後は?
 ロニー 午餐を取りました。
 サー・ロバート その後は?
 ロニー ロッカールームに行って、その十五シリング六ペンスを自分のロッカーに入れました。
 サー・ロバート そう。それから?
 ロニー 郵便局に出かける許可を貰いに行きました。それからまたロッカールームに戻って、お金を取り出し、郵便局に出かけました。
 サー・ロバート 成程。それから?
 ロニー 郵便為替を買いました。
 サー・ロバート 十五シリング六ペンスの?
 ロニー そうです。それから学校に戻りました。そこでエリオットに会って、彼が言ったんです。「なあ、参ったよ。誰かが俺のロッカーを壊して、中にあった郵便為替を盗みやがった。下士官にはもう報告したんだけどさ。」って。
 サー・ロバート 正確に、エリオットは君にそう言ったのか?
 ロニー 「参った」じゃなく、別の言い方だったかもしれません。
 サー・ロバート 成程。それから?
 ロニー エー、それから自習の少し前に、フラワー司令官の所に行くように言われました。行ってみると、郵便局の女性が来ていて、司令官が、「この少年ですか?」と女性に尋ねました。彼女の答えは「そうかもしれません。でも確信はありません。何しろどの子もみな同じように見えてしまって。」でした。
 アーサー どうです。つまり、見分けが付かなかったということです。
(サー・ロバート、アーサーを睨む。)
 サー・ロバート(ロニーに。)それから?
 ロニー 彼女はこう言いました、「私に言えることは、十五シリング六ペンスの為替を買った少年と、五シリングの為替を現金化した少年は同じ子だったということだけです。」それから司令官が僕に、「君は十五シリング六ペンスの為替を買ったか?」と訊きました。僕が「はい。」と答えると、次に、エリオットの名前を封筒の上に書くように言われました。そして、その僕の書いたサインが為替に書かれていたサインと似ていると判断されたのです。それで僕は隔離病棟へ移され、十日後くびに・・・いえ、放校処分になったのです。
 サー・ロバート 成程。(静かに。)エリオットの五シリング郵便為替を現金化した人物、それは君なのか?
 ロニー いいえ。
 サー・ロバート エリオットのロッカーを壊して為替を盗んだ人物、それは君なのか?
 ロニー いいえ。
 サー・ロバート そして君は、それが真実であり、真実以外の何物でもないと言うんだね?
 ロニー はい、そうです。
(この時までに、ディッキー、部屋に入って来ている。そして扉の傍に立って、入ったものか、出たものか迷っている。アーサー、苛々と手で招き、椅子に坐るよう合図する。)
 サー・ロバート よし、司令官がエリオットの名前を封筒の上に書くよう、君に言った時、君はどういう風に書いた。イニシアルだけ、それとも、名前をきちんと?
 ロニー チャールズ・ K・エリオットと書きました。
 サー・ロバート チャールズ・ K・エリオット。君は司令官の部屋で偽のサインの書かれた為替を何かの拍子に見たのかね?
 ロニー ええ、見ました。司令官が見せてくれましたから。
 サー・ロバート それは君がエリオットの名前を封筒の上に書く前かね? それとも後?
 ロニー 後です。
 サー・ロバート フン、後ね。それで君は、為替の上にエリオットの名前がどんな風に書かれていたか分った・・・
 ロニー そうです。同じでした。
 サー・ロバート 同じ? チャールズ・ K・エリオットだったのか。
 ロニー はい、そうです。
 サー・ロバート 君が封筒の上に書いた時、どうしてそのチャールズ・ K・エリオットという署名にしたんだ。チャールズ・エリオット、とか、C・エリオットとか、いろんな書き方があるだろう。
 ロニー いつもエリオットが書く書き方がそうだったからです。
 サー・ロバート どうしてそれを知っている。
 ロニー だって、僕とはすごくいい友達で・・・
 サー・ロバート 答にならん。どうしてそれを知っている。
 ロニー サインしているのを何度も見ているんです。
 サー・ロバート どんな物にだ。
 ロニー エー、普通の物にです。
 サー・ロバート ちゃんと答えろ。どんな物にだ。
 ロニー(嫌々ながら。)紙です。普通の紙に。
 サー・ロバート 普通の紙? どうしてエリオットが普通の紙にサインしたりするんだ。
 ロニー 知りません。
 サー・ロバート 知っている筈だ。どうしてエリオットは普通の紙に署名したりするんだ。
 ロニー サインの練習です。
 サー・ロバート そして君はそれを見たんだな?
 ロニー はい。
 サー・ロバート 君が見ているのをエリオットは知っているのか。
 ロニー エー・・・知っていると思います。
 サー・ロバート つまりエリオットは君に、自分のサインの仕方を見せたということだ。そうだな。
 ロニー ええ、そうだと思います。
 サー・ロバート 君は、そのサインの仕方を練習したんだな?
 ロニー したかもしれません。
 サー・ロバート したかもしれないとはどういうことだ。したのか、しなかったのか。
 ロニー しました。
 アーサー(鋭く。)ロニー、その話は私は聞いてないぞ。
 ロニー 冗談のつもりだったんです。
 サー・ロバート 冗談だろうが、冗談でなかろうが、そんなことは問題じゃない。事実は、君がエリオットのサインの偽造を練習したということだ。
 ロニー 偽造の練習じゃありません。
 サー・ロバート じゃ、君は何というんだ、その行為を。
 ロニー 書く・・・練習です。
 サー・ロバート よろしい、書く練習。為替を盗み、それを現金化した人物は、エリオットのサインを書いた・・・そうだな?
 ロニー そうです。
 サー・ロバート それで、奇妙なことに、君が書く練習をした丁度その通りのサインが為替に書かれてあった・・・
 ロニー(憤懣を込めて。)何ですかこれは。あなたはどっちの味方なんです。
 サー・ロバート(怒鳴る。)なまいきを言うな! こここそ大事なんだ。いいか、海軍本部はその為替をリッジリイ・ピアスに送った。イギリスいちの筆跡鑑定者にだ。
 ロニー はい。
 サー・ロバート そして、このリッジリイ・ピアスが判定した。為替にあるサインと君が封筒に書いたサインは全く同じ手で書かれたものだと。
 ロニー はい。
 サー・ロバート それでも君はまだ、あのサインが君の偽造したものではないというのか。
 ロニー はい。僕は偽造していません。
 サー・ロバート つまり、リッジリイ・ピアス氏は自分の仕事がちゃんと出来ないというんだな?
 ロニー とにかくこのことは間違いです。
 サー・ロバート 午餐後、君がロッカーに行った時、君はひとりだったのか。
 ロニー 覚えていません。
 サー・ロバート 覚えていない筈はないね。ひとりだったのか。
 ロニー はい。
 サー・ロバート それで、君はエリオットのロッカーがどこにあるかは知っていた。
 ロニー はい、勿論です。
 サー・ロバート 一体君は、何故ロッカー室に行ったんだ。
 ロニー 言った筈です。十五シリング六ペンスをロッカーに入れて置こうと。
 サー・ロバート 何故。
 ロニー その方が安全だと思ったんです。
 サー・ロバート ポケットよりどうしてロッカーの方が安全なんだ。
 ロニー 分りません。
 サー・ロバート 午餐の時には、それはポケットにあった。午餐後急に、何故ポケットじゃ不安になったんだ。
 ロニー(明らかに興奮して。)もう言ったでしょう。分りません!
 サー・ロバート 何か変じゃないか。金はポケットにあって充分安全だった。それが急に何故ロッカーに入れなきゃならないと感じたのか。
 ロニー(ほとんど叫び声で。)分りません!
 サー・ロバート その時なら、ロッカールームに誰もいないと分かっていたからだな。
 ロニー 違います。
 サー・ロバート エリオットのロッカーは君の隣なのか。
 ロニー 一つおいた隣です。
 サー・ロバート 一つおいた隣・・・エリオットは為替をロッカーに何時に入れたんだ。
 ロニー 知りません。ロッカーに為替があったなんてことも知りません。為替を持っていたということだって僕は知らなかった。
 サー・ロバート しかし彼は君の親友なんだ。そう言ったな、さっき。
 ロニー でも、為替の話は聞いていません。
 サー・ロバート 親友なのに隠しておく? ロッカールームには何時に行った。
 ロニー 覚えていません。
 サー・ロバート 午餐後すぐなんだな?
 ロニー はい、そうだと思います。
 サー・ロバート ロッカールームを出た後、何をした。
 ロニー それはもう言いました。郵便局へ行く許可を取りに行ったんです。
 サー・ロバート それは何時だった。
 ロニー 二時十五分頃です。
 サー・ロバート 午餐は一時四十五分に終った。すると君は、ロッカールームに三十分いたんだな?
 ロニー ずっとそこにいたんじゃありません。
 サー・ロバート どのくらいいた。
 ロニー 五分ぐらいです。
 サー・ロバート 後の二十五分は何をやっていた。
 ロニー 覚えていません。
 サー・ロバート おかしいじゃないか。君の記憶はある所ではひどく正確で、他のことになるとさっぱりだ。
 ロニー 多分、司令官室の外で待っていたんだと思います。
 サー・ロバート(厭らしい皮肉をこめて。)多分司令官室の外で待っていた! それで、その時の君を見たものは誰もいない。そうだろう。
 ロニー ええ、誰もいないと思います。
 サー・ロバート 二十五分間も司令官室の外で待っていて、君は何を考えていた。
 ロニー(大声で。)そこにいたかどうかだって覚えていないんです。何を考えたかなんて、覚えていません。そこにだって全然いなかったかもしれないんです。
 サー・ロバート そう、君はまだロッカー室にいて、エリオットのロッカーの中を探っていたかもしれない・・・
 アーサー(何を言うかという調子で。)サー・ロバート、そんなことを・・・
 サー・ロバート 黙って!
 ロニー 思い出した! 僕は思い出したぞ。司令官室の外にいる僕を見た者がいる。ケイスィーだ。ケイスィーが来たんだ。僕はケイスィーに話しかけた。
 サー・ロバート 何と言ったんだ。
 ロニー 「僕と郵便局へ行かないか。為替を現金に替えるんだ」と。
 サー・ロバート(勝ち誇ったように。)為替を現金に、ね。
 ロニー 「為替を買いに」と言おうとしたんです。
 サー・ロバート 君は「現金に替える」と言ったんだ。「買いに」なのに、どうして「現金に替える」などと言ったんだ。
 ロニー 分りません。
 サー・ロバート 「現金」と言ったのが事実なんだ。そうだな?
 ロニー 違います。違います。僕はただまごついて言っただけです。
 サー・ロバート 簡単にまごつく男のようだね、君は。今までに何度嘘をついたんだ。
 ロニー 一度も。本当です。一度も嘘はついていません。
 サー・ロバート(意地悪く。前屈みになって。)今までやった君の証言は、全て嘘だ。
 ロニー 違います。本当のことです。
 サー・ロバート 君の今まで話してきたことには一片の真実もない。私に話したこと、法務官に、司令官に話したこと、その全ての中にだ。君はエリオットのロッカーを無断で開け、エリオット宛の五シリングの為替を盗み、偽(にせ)のサインによりこれを現金化した。これが真実なんだ。
 ロニー(泣き始める。)違います。違います。
 サー・ロバート 君はこれを冗談でやった。五シリングはエリオットに返すつもりで。しかし、彼に会い、もう既に盗難のことは報告したと聞いて、君は怖くなった。そして黙っていようと決心した・・・
 ロニー 違います。それは違います。
 サー・ロバート いいか、君はこの事実を否定することによって、君の家族に大変な迷惑をかけているんだ。おまけに、この国の重要人物に、本来ならなくてすむ余計な負担をかけているのだ。
 キャサリン(立上がって。)卑怯です、そんなことを言うのは!
 アーサー 賛成だな、わしも。
 サー・ロバート(前傾姿勢になり、ロニーを睨み付け、悪意を込めて言う。)こんな面倒事を引き起こしたのは君なんだ。君がその全ての原因だ。さあ、今こそきれいに白状する時だぞ。君がサインの偽造者であり、嘘つきであり、盗人(ぬすっと)であることをな。
 ロニー(涙を流して。)違います。僕は違う。僕はやってない・・・
(この時までにグレイス、ロニーの傍に駆け寄っていて、この時、ロニーを抱きしめる。)
 アーサー これは酷い。いくら何でも・・・
(ジョン、扉のところに登場。夜会服姿。)
 ジョン ケイト、遅くなってしまった。すまない・・・
(ジョン、入ろうとして、部屋の光景に驚き、ハッと立ち止まる。ロニーは母親の胸に縋(すが)って泣きじゃくっている。アーサーとキャサリンはサー・ロバートを悪意をもって睨んでいる。サー・ロバートは書類を纏めている。)
 サー・ロバート(デズモンドに。)どこかへ行くのだったら、降ろしますが。乗って行きますか? 私の車は外にあります。
 デズモンド あ・・・いや。・・・お申し出有難いですが・・・
 サー・ロバート(軽い調子で。)では、明日の朝、この書類を全部私の部屋まで送って下さい。
 デズモンド しかし、こうなっては、書類など・・・必要ないでしょう・・・
 サー・ロバート いえ、必要です。この子は明らかに無実だ。弁護は引き受けました。
(サー・ロバート、アーサーとキャサリンに会釈。ゆっくりと扉に進む。呆気に取られたジョンの傍を通り過ぎ、扉を出る時、ジョンに丁寧に会釈。)
(ロニー、相変わらずヒステリックに泣いている。)
                     (幕)

     第 三 幕
(場 前幕と同じ。九箇月後。午後十時半頃。)
(アーサーがいつもの自分の肘掛け椅子に坐り、夕刊を読んで聞かせている。夕刊の見出しは、「ウィンズロウ問題。海軍大臣が答える」。これが観客にも見てとれる。聞いているのはロニーとグレイス。二人とも気持をそれに集中している様子なし。ロニーは目を開けているのもやっと。グレイスは肘掛け椅子で靴下を繕っているが、全く別の、もっと大事なことに心を向けている様子。)
 アーサー(読む。)『海軍省は、現在までのこの長い議論の間、一度たりとも事を急がせたり、悪意をもって事にあたったりはしなかった。我が省が少年ウィンズロウに対し、冷酷無惨にも、故意に悪意をもってあたったとする反対派議員諸氏の弁論は、単に謀(はかる)ところあってなされているものであります。かくの如き根拠のない非難である限り、私はこれを容易に無視することが出来るのであります。(ある議員から野次が飛ぶ。「無視できないぞ。」)議員諸君は、好きなだけ野次を飛ばして下さって結構。しかし、私は繰り返し言う。この少年海軍士官候補生に、海軍省が現在まで行ってきたこと、或いは行ってこなかったことの中に、私、海軍大臣が、議員諸君に対し、謝罪すべきことは何一つないと。(また野次が飛ぶ。)』(アーサー、読むのを止め、見上げる。)かなり無理をしているようだな、海軍大臣は・・・(言い止め、ロニーを見る。ロニーの頭はクッションの上に落ち、眠っている。)私が読んでも起きていられないのか。(答なし。)私が読んでも起きていられないのか、と言ってるんだ!(再び答なし。どうしようもなく。)グレイス!
 グレイス 可哀想な、眠たいロニーちゃん。寝る時間はもうとっくに過ぎているのよ、アーサー。
 アーサー なあグレイス、まさに今、この瞬間、その「可哀想な、眠たいロニーちゃん」が、下院での激烈な議論の対象になっているんだ。事態がこうなっている時、就寝時間が多少過ぎたって、ロニーは目を覚(さま)していようと努力するのが当然ではないのか。
 グレイス 興奮し過ぎたのね。それで疲れて・・・
(アーサーとグレイス、ソファの上のロニーの無邪気な寝姿を眺める。)
 アーサー これが興奮し過ぎか、全く。(鋭く。)ロニー。(返事、なし。)おい、ロニー!(返事、なし。)
 ロニー(目を開けて。)はい、お父さん。
 アーサー 儂は議論の経過を読んでいるんだ。お前は聞きたいのか、それとも寝床に行く方がいいのか。
 ロニー 勿論僕は聞きたいです、お父さん。ちゃんと聞いていたんです。でも、まぶたが落っこちてきて・・・
 アーサー よし。(読む。)「海軍大臣、野次の中を続ける。『海軍省に対する主な批判は、権利の請願に関する純粋に法的なものと思われます。この権利の請願は、アーサー・ウィンズロウ氏によって提出されたものであり、これに対して海軍省は異義を申し立てております。サー・ロバート・モートンは非常な雄弁をもって、個人の自由が新しい官僚主義の独裁によって脅かされていると主張され、特に次の言葉は、他のいかなる反対議員にも劣らず、私も心を打たれたのであります。即ち、「権利の回復をなさしめよ」と。実に時宜を得た発言であります。従って、法務長官がこの権利の請願に対し、承認の署名を行ったことも無理からぬところであります。しかしながらこの件は、法務長官が当初想像したような簡単な問題ではなかったのであります。士官候補生ロナルド・ウィンズロウは、軍人。即ち、王直属の僕(しもべ)であり、従って、公けの裁判所において、王を相手どり、訴えを起こす権利はないのであります。この権利を認めることは、将来、最も危険な前例を残すことになるでありましょう。私は、強い確信をもって次のことを申し上げます。即ち、ある場合においては、個人の権利は公共の福祉のために犠牲にされねばならない・・・』(アーサー、目を上に上げる。)チャールズ一世が船の金の問題の時にやった言い訳と全く同じだ。
(ロニー、最初のうちは自分を叩いたり、様々な工夫で目を開けようとしていたが、この時までにはすっかりまた眠り込んでいる。)
 アーサー(鋭く。)ロニー! ロニー!
(ロニー、動く。寝返りをうつ。そして、クッションの中に、もっと寝心地のよい姿勢になり、眠る。)
 アーサー 何だ、これは!
 グレイス この子、本当に疲れているの。私、ベッドに連れて行ってやるわ。
 アーサー いや、眠るのなら、ここで眠らせるんだ。
 グレイス でも、自分のベッドの方がずっと気分よく眠れるわ。
 アーサー まあな。しかし議論は続いている。この経過が全て終るまでは自分のベッドで寝ても、そう気分よくは眠れまい。
(ヴァイオレット登場。)
 ヴァイオレット 玄関ホールに、もう三人、新聞の方がいらしています。旦那様に緊急にお会いしたいと。お通ししても宜しいですか。
 アーサー いや、勿論許さない。儂は昨日、声明は発表した。議会での議論が終るまでは何も言うことはない。
 ヴァイオレット ええ、そのように私も三人に説明致しました。でも帰ろうとなさらないので・・・
 アーサー 無理矢理返すんだ。必要なら力づくでも。
 ヴァイオレット 畏まりました。それから、お嬢様にサンドイッチをお作り致しましょうか。遅くお帰りになって、夕食を召し上がれなかったのです。
 グレイス いい考えよ、ヴァイオレット。お願いするわ。
(ヴァイオレット退場。)
 ヴァイオレット(舞台裏で。)お待ちになっても無駄です。声明はありません。
(複数の声がそれに答える。次第に小さくなる。グレイス、ロニーの上に肩掛けをおいてやる。ロニーは今や完全に眠っている。)
 アーサー なあ、グレイス。
 グレイス 何ですか。
 アーサー ヴァイオレットに話すのなら、今が絶好の機会だがね。
 グレイス(非常にはっきりと。)いいえ、駄目です。
 アーサー その駄目というのは、今が良い機会ではないという意味かね? それとも、ヴァイオレットにはお前は全く話す気持がないということかね。
 グレイス いつかは話しますわ。多分明日にでも。でも今は駄目。
 アーサー 厭なことはさっさとすませた方がいいんじゃないのか。一日延ばしにすると、その分だけお前の心配が増える。
 グレイス(激しく。)私の心配? 私の心配なんか、あなた、何も御存じない筈よ。
 アーサー いや、知っている。それも沢山な。お前は事態に直面すべきなんだ。そうすれば大分楽になる筈なんだから。
 グレイス 二人でこんなことを喋っているのなら楽なもの。あなたは何もなさらないんですから。
 アーサー いや、それなら儂がやってもいいが・・・
 グレイス いいえ、私がやります。
 アーサー 窮状をきちんと説明すれば・・・そう、昨日お前に書いて見せた、あの数字を示してやってもいい・・・彼女だって、無理な話とは思わん筈だが。
 グレイス 別のところを見つけるのは、あの子には難しいですわ。
 アーサー とびきり良い推薦状を書いてやるがね。
 グレイス あの子はちゃんとした女中としての訓練を受けていないんですよ。客が来る度にその事情を説明しなきゃならなかったでしょう? いいえ、あなた。数字ならいくら見せたって構いませんけど、あれを実行するのは残酷ですわ。
 アーサー 現実は残酷なものだからね。
 グレイス(少しヒステリックに。)現実ですって? 何が現実だか! 私にはもう・・・
 アーサー この場合の現実とは何か。それは、我々は今では一年前の半分の所得しか得ていない、そして、生活は一年前と同じ水準で通してきているということだ。それなのにお前はそれを、世間の不景気のせいにしている。
 グレイス 不景気のことなど話したことはありませんよ、私は。普通の家計のことを話しているんです。ありきたりの、一年前までは当り前のこととして通ってきた・・・それが今ではすっかり事情が違ってしまった・・・そのことを言っているんです。
 アーサー 今は違う・・・例えば?
 グレイス(声が上がる。)平和で静かな、ちゃんとした貴族なら送ることの出来る普通の生活・・・私達夫婦にも、子供達にも、それなりの将来を期待できる・・・それをあなたは一年前にすっかり投げ出しておしまいになった。その見返りがきっとそれ。(新聞の見出しを指差す。)たしかに重要で、ハラハラドキドキするようなことですわ。でも、私達が失ったものは、それで戻ってくる訳ではありません。私、心から神様にお願いしたい。あなたが自分でおやりになっていることを分って戴けるように。
(ロニー、眠りながら寝返りをうつ。グレイス、最後のあたりで声を下げる。間。)
 アーサー 儂は自分のやっていることはちゃんと分っている。息子の無実を世界に公表したいのだ。その目的のためには費用を厭わぬつもりでいる。
 グレイス でも、その費用というのが、家計から見て釣合いを越えているでしょう?
 アーサー そうかもしれない。しかし、儂はそれを気にしない。英雄気取りは儂は嫌いなのだが、こんなことを言うのもお前のせいだよ、グレイス。いいか、正義に反することがなされたんだ。儂はそれを匡(ただ)そうとしている。そして、それを実行するために儂はどんな犠牲でも払うつもりでいるんだ。
 グレイス(急にかっとなって。)まあ、何て勝手な話!(ロニーを指差して。)この子は今充分に幸せです。いい学校に行き、良い成績です。あなたが世界中に大声で喚(わめ)きたてさえしなければ、この子のオズボーンでのことなど誰も知る者はいなかったでしょう。でも、今やっていることのせいでこの子は、これ以後の人生、ずっとあのウィンズロウ事件の子供だと言われ続けるの。・・・為替を盗んだ少年として・・・
 アーサー(陰気に。)為替を盗まなかった少年としてだ。
 グレイス(疲れたように。)それに何の違いがあるって言うの? 何百万という人がこの子の噂をしている。その時に、「盗んだ」「盗まない」なんて、どっちでもたいした違いはありません。ウィンズロウの子供・・・それで話は終なの。あなたはどんな犠牲でも払うつもりでしょうけど、それをこの子が大きくなった時に感謝するかしら。いいえ、決して感謝なんかしない。あなたがたとえこの子の無実を世界に公表するため・・・あなたの言い方では、「命を賭け」たって・・・
(アーサー、苛々とした仕草。)
 グレイス ええ、そう。たとえあなたの命を賭けたって。あなたは自分の関節炎のこと、痛風のこと、耄碌(もうろく)してきたことを極力陽気に話そうとしている。でも、お医者様でその本当の原因が分っていない人なんていやしないの。(涙声で。)あなたは自分の身体を自分で駄目にしている。いいえ、自分だけじゃない。家族全員を。それも何のため? 私、知りたい。ケイトにもあなたにも、何度も今まで聞いてみたけど、一度だって満足な答はなかった。何のためなの? あなた。
(アーサー、椅子からやっとのことで立上がり、グレイスに近づく。)
 アーサー(静かに。)正義のためだよ、グレイス。
 グレイス 随分ご立派な言葉。でもそれ、本当かしら。本当はあなたの誇りのためじゃないの? 自分の偉いところを見せたい。そして、単なる頑固のため。違うと言える?
 アーサー(片手を前に出し、グレイスの手を取って。)違う。違うと思っている。本当だ。本当に違うと思っている。
 グレイス(その手を振払いながら。)いいえ、私、このことに関しては、あなたに後で謝ることなんか決してしない。涙を流して、「私が悪かった」なんて決して言わない。ちゃんとした理由があるなら、私、何だって我慢する。でも、全く何の理由もなしに、私にこんな無理を要求するなんて、それは不公平・・・不公平なことよ・・・
(グレイス、ワッと泣き出す。アーサー、慰めるように片手をのばすが、グレイス、それを振払い、扉から退場。この間にロニー、目を覚している。)
 ロニー どうしたの? お父さん。
 アーサー(グレイスの後を追い、扉のところまで来ているが、ここで振り返り。)お母さんがちょっと機嫌が悪くてね。
 ロニー(眠そうに。)どうして? 何かうまく行かないことがあるの?
 アーサー いや、何でもない。(呟き声。)うまく行っている。(疲れきっていて、普段よりもっと坐るのが難しい。)うまく行っているんだ、実に。
(ロニー、満足そうに、再び目をつぶる。)
 アーサー(優しく。)ロニー、お前、もうベッドに行った方がいい。あっちの方がもっと楽だ。
(アーサー、ロニーが再び眠っているのを見る。アーサー、起そうとする。が、肩を竦め、後を振り向く。ヴァイオレットが盆の上にサンドイッチの皿と手紙を一通載せて登場。)
 アーサー 有難う、ヴァイオレット。
(ヴァイオレット、テーブルの上にサンドイッチの皿を置き、アーサーに手紙を渡す。アーサー、手紙を開けず、傍のテーブルの上に置く。ヴァイオレット、振り返り、出ようとする。)
 アーサー ああ、ヴァイオレット・・・
 ヴァイオレット(振り返り。)はい。
 アーサー ここにいて何年になるんだったかね、お前は。
 ヴァイオレット 次の四月で丸二十四年です。
 アーサー そうか。そんなに長いか。
 ヴァイオレット はい、ケイトお嬢様がこのくらいの背の頃でしたわ、最初に参りました時は。(小さい背の高さを示す。)ディッキー様はまだお生れになっていませんでしたし・・・
 アーサー 思い出したよ、お前が来た時のことを。うん、よく覚えている。ところで、どう思っている? お前は、この事件のことを。
 ヴァイオレット 全く、大騒ぎもいいところですわ。
 アーサー そう、大騒ぎもいいところだ。
 ヴァイオレット イヴニング・ニュースに少し出ていましたわ。お読みになりました?
 アーサー いや、読んでいない。何て書いてあった?
 ヴァイオレット 馬鹿騒ぎをするものだ。下らないことだ。それに、政府の大事な時間を何という無駄遣いだ、と。それから、これはよいことだ。イギリスだからこそこんなことが事件になる、と。
 アーサー 奇妙な言い方だな。どこか論理が狂っている・・・
 ヴァイオレット じゃあ、別の言い方をしていたかも知れませんわ。でも、書いてあったことはその二つ。こんな大騒ぎがロニー坊っちゃまだけのせいで起ったなんて・・・私、時々笑ってしまうことがありますわ、ええ・・・あの年で政府にあんなに時間を使わせるなんて、私には信じられません。世の中って不思議なものですわ。
 アーサー そうだね、世の中って不思議なものだ。
 ヴァイオレット では・・・私はもう行ってよろしいでしょうか。
 アーサー ああ、いいよ。行きなさい。
(キャサリン登場。)
 キャサリン 今晩は、ヴァイオレット。
 ヴァイオレット 今晩は、お嬢様。
(ヴァイオレット退場。)
 キャサリン ただいま、お父様。(アーサーにキス。ロニーを指差して。)今日の弁論で、ある議員が言っていたわ。「不正義、不公正を匡(ただ)せ、と泣き叫んでいる可哀想な少年がいる」って。その人に見せてやりたいわね、この姿。
 アーサー(不機嫌に。)この子の寝る時間はとっくに過ぎているんだ。今日はどうだったんだ? 議論は終ったのか?
 キャサリン ええ、ほぼ。海軍大臣は、将来オズボーンやダートマスでの生徒の訊問の際には、必ず両親の付き添いのもとにこれを行う、と約束したわ。それで大半の議員は満足した様子。
 アーサー しかし、我々の、この事件はどうなるんだ。ちゃんとした裁判は受けられないのか。
 キャサリン まあ駄目ね。
 アーサー それは不公平だ。裁判が受けられるところまで大臣は譲る筈だと思っていたが・・・
 キャサリン ええ、私も。でも、下院全体では違う考えのようだわ。
 アーサー 採決が行われるのか?
 キャサリン そうでしょう、きっと。採決の動議が通れば。
 アーサー 動議は何だ。
 キャサリン 海軍大臣の給与が百ポンド減給。(微かな微笑。)誰も本当はそんなことを望んではいないけど。(サンドイッチを指差して。)これ、私の?
 アーサー うん。
(キャサリン、サンドイッチを食べ始める。)
 アーサー すると振出しに戻る、という訳か。
 キャサリン ええ。
 アーサー 議会での議論は全く役に立たなかったということか。
 キャサリン 風通しをよくしたっていう効果はあるわ。明日の朝食の時、「あの子供はちゃんとした裁判を受けるべきだ」と言い交わす人が、数千人は増えたでしょうからね。
 アーサー それが公けの声にならない限り、何の意味があるっていうんだ。
 キャサリン 意味はあるでしょうね。時間が与えられさえすれば。
 アーサー 時間が与えられれば、か・・・
(間。)
 アーサー 海軍大臣が裁判はやらぬと言った時、サー・ロバートは何の抗議もしなかったのか?
 キャサリン 口答による抗議はしなかったわね。でも、もっと劇的で見栄えのすることはやったわ。海軍大臣の演説の間中、両足を机の上にのっけて、帽子を目深(まぶか)に、鼻の方までおろして聞いていたけど、演説が終ると急に立上がって大臣を睨み付けて、山のようにあった覚え書きを床に投げつけ、議場からさっと立去ったの。たいした効果だったわ。あの人のことを私、知っていなかったら、本当にあの人が怒ったんじゃないかと思うぐらい・・・
 アーサー そりゃ本当に怒ったんだろう? 感情のある人間なら誰だって・・・
 キャサリン お父さん、サー・ロバートは感情のある人間なんかじゃないわ。魚の心の持主よ、あの人。どんな感情も、あの人の心に湧き上がる筈ないわ。
 アーサー しかし正義を愛する一途な気持なら・・・
 キャサリン いいえ、自分自身を愛する一途な気持だけね。
 アーサー 随分つれない言い方だね。この数箇月我々のためにどれだけあの人が働いてくれたかを考えてみないのか?
 キャサリン つれなくはないの。確かに素晴しかった。充分にそれは認めるわ。あれだけのことをやってのける人はあの人以外にはいないわ。
 アーサー それなら・・・
 キャサリン 問題はあの人の動機。私、その動機なら、透かして見えるぐらい見え見えだわ。
 アーサー 何があの人の動機だというんだ。
 キャサリン 第一に宣伝。さあ、この私を見よ。弱きを救う無敵の力。次に民衆へのアピール、政府を相手にして一歩も退(ひ)かぬ民衆の味方。どちらも野心のある人には非常に役に立つもの。あの人に丁度都合のいい材料を私達は提供したのよ。
 アーサー 我々にも都合がよかったんだよ、ケイト。
 キャサリン ええ、それは本当。でも、それであの人に幻想を持ったら駄目。あの人は魚。冷血で、非情で、表面的で、冷笑的な・・・魚なの、あの人は。
 ヴァイオレット(客を告げる。)サー・ロバート・モートンです。
(キャサリン、サンドイッチを喉(のど)に詰まらせる。)
(サー・ロバート登場。)
 サー・ロバート 今晩は。
 キャサリン(まだ喉に詰まらせている。)今晩は。
 サー・ロバート 間違ったところに入りましたか?
 キャサリン ええ。
 サー・ロバート それはいけませんね。(キャサリンの背中を叩いてやる。)
 キャサリン 有難う。
 サー・ロバート(アーサーに。)今晩は。こちらに伺ったのは、今日の進み具合を御報告するためだったのですが、どうやらお嬢様に先を越されてしまったようですな。
 キャサリン 私が傍聴席にいたのを御存じだったんですか?
 サー・ロバート(女性への礼儀をちゃんと守って。)素敵なお帽子でした。それを見逃すなんて、とても・・・
 アーサー 来て戴いたのは大変有難い・・・が、しかし・・・
 サー・ロバート(ロニーを見て。)ああ、戦闘の究極の当事者はおねんねですか。
(アーサー、ロニーを起そうとする。)
 サー・ロバート いえいえ、どうかそのままに。罪のない眠りです。
 キャサリン 罪のない?
 サー・ロバート ええ、正に「罪のない」。それに、最初の出会い以来、この子は私に少し神経質になっていますから。
 キャサリン サー・ロバート、技術的な秘密を明かして下さいませんか? 最初の訊問で、この子が無実であることをどうして確信なさったのです?
 サー・ロバート 三つあります。まづ第一に、自分に不利な証言が多過ぎる。罪を犯した人間は守りを固めようと、もっと注意を払うものです。第二に、私は罠をしかけました。そしてその後、逃げ道を拵(こしら)えてやったのです。有罪だったら、必ずその罠にかかり、次にその後の逃げ道にすぐ逃げ込もうとするものです。この子はそのどちらにも引っかからなかった。
 キャサリン その罠っていうのは、突然あの子に「何時にエリオットは為替をロッカーに入れたんだ」と聞いたことですね?
 サー・ロバート そうです。
 アーサー で、逃げ道は?
 サー・ロバート 次に私は、「為替を盗んだのは冗談のつもりだったんだろう」と言いました。もし彼が犯人だとしたら、これにはすぐ同意する筈です。本気でやったと判断されるより、こちらの方が軽いですからね。
 キャサリン ああ、よく考えてあるわ。
 サー・ロバート(お辞儀をして。)お褒めの言葉、有難うございます。
 アーサー 何か飲み物は如何ですか? ウイスキー・ソーダでも?
 サー・ロバート いいえ、何もいりません。
 アーサー 海軍大臣の演説の時のあなたの取った態度を娘が説明してくれました。娘はその・・・素晴しかったと。
 サー・ロバート(キャサリンの方をちらと見て。)素晴しかったと? それは御親切に。古くからある手なんです。裁判所では私はよくやりました。いつも効き目は覿面(てきめん)で・・・
(キャサリン、「やっぱり」という目つきでアーサーに目配せ。)
 サー・ロバート(キャサリンに。)大臣に少しは効果がありましたか? 傍聴席からは?
 キャサリン ちゃんと見えましたわ。効果覿面。(アーサーに。椅子に近づきながら。)お父様もあれは見ておくべきだったわ、本当に・・・(アーサーの傍のテーブルの上の手紙に気づき、急な動作でそれを取る。封筒を確かめる。)これ、何時来たの?
 アーサー ついさっきだ。筆跡が分るんだな?
 キャサリン ええ。(手紙をテーブルに戻す。)
 アーサー 誰の手だ。
 キャサリン 今は読まないわね、もし私がお父様だったら。
(アーサー、奇妙な顔をしてキャサリンを見る。それから手紙を取り上げる。)
 アーサー(サー・ロバートに。)失礼していいかな?
 サー・ロバート 勿論。
(アーサー、手紙を開き、読み始める。キャサリン、ちょっとアーサーの方を見る。それから、少し無理に作った陽気さでサー・ロバートの方を向く。)
 キャサリン さあ、それで、次に打つ手は何なのでしょうね。
 サー・ロバート もうそれはちゃんと考えています、ミス・ウィンズロウ。公訴局の局長に動いて貰うよう働きかけるのが一番よいと思っています。
 キャサリン(アーサーの方にちらと目をやりながら。)でも、その線でうまく行く可能性があるとお思いですの?
 サー・ロバート ええ、あります。一番大切なところは、我々を、「しつこくて厄介な奴ら」だと思わせるところにありますが・・・
 キャサリン そこのところは、これまでかなり上手にやって来たのではありませんか? あなたのお陰ですわ、サー・ロバート。
 サー・ロバート(機嫌よく。)ああ、これは私の生まれつきの才能なんです、自分を「しつこくて厄介な人物」と思わせるのは。
(サー・ロバートもまた、アーサーの方に目をやる。何かまづいことが起ったらしいと感じる。)
(アーサー、手紙を読み終える。)
 キャサリン(無理に快活さを装(よそお)って。)お父様、サー・ロバートは公訴局の局長に働きかけた方がよいと・・・
 アーサー 何だって?
 サー・ロバート これからの作戦について話をしていたところで・・・
 アーサー これからの作戦?(アーサー、サー・ロバートからキャサリンの方へ目を移す。じっとと見つめる目付きが虚(うつ)ろな目。)なるほど。そこが考えるべき場所か・・・(間。)これからの戦略をね・・・(サー・ロバートに、ぶっきら棒に。)どうやら、全てを考慮に入れると、この件はつき進んでもあまり効果はなさそうだ。
(サー・ロバートとキャサリン、アーサーをぼんやりと見つめる。)
(キャサリン、急にアーサーに近づき、アーサーの膝の上にある手紙をひったくるように取り、それを読み始める。)
 サー・ロバート(急に声の調子を変えて。)勿論、つき進むべきです、我々は。
 アーサー(低い声で。)これはあなたが決めることではない。決定者は私なのだ。
 サー・ロバート(甲(かん)高い声で。)それなら再考すべきです。ここで諦めるなど、正気の沙汰ではありません。
 アーサー 正気の沙汰でない? 私が正気かどうか、ついさっきも問われたばかりだ。・・・この件に、こんなにまでこだわって、続けてきたことをだ・・・
 サー・ロバート その手紙の内容が何であろうと、或いは、気を挫(くじ)かせるどんなことが起ったとしても、私は主張します。我々はこの件を戦い抜くべきだと・・・
 アーサー 我々が? 戦い抜く・・・べき? これは私の戦いだ。私一人の戦いだ。諦める時が来たかどうか、それを決めるのはこの私一人だ。
 サー・ロバート(大声で。)しかし、何故諦めるのです。何故、何故です!
 アーサー(ゆっくりと。)この件では私は随分犠牲を払ってきました。その犠牲の中には、私がそこまでさせる権利がないものさえあります。しかしそれでも、私はそれを家族に強要してきました。しかし、限度というものがあります。そして今、私はその限度に来ています。申し訳ありません、サー・ロバート。あなたより、私の方がもっと残念かもしれません。しかし、ウィンズロウ事件はこれで幕です。
 サー・ロバート たわけたことを!
(アーサー、この乱暴な言葉に驚いてサー・ロバートを見る。この時までにキャサリン、手紙を何度も読み返している。そして今、静かな、几帳面な声で静寂を破る。)
 キャサリン 父は本気で言っているのではありませんわ、サー・ロバート。
 サー・ロバート それを聞いて嬉しいです。
 キャサリン この手紙のことを御説明した方が・・・
 アーサー それは止めるんだ、ケイト。
 キャサリン サー・ロバートはもう私達の家族の話は知り過ぎているぐらい御存じですわ、お父様。もう少しお話しても、たいした違いはない筈。(サー・ロバートに。)これはウェザーストーン大佐という人からの手紙です。この人は、私が婚約している男性の父親なのです。私達は、大佐がこの事件に関して終始反対の立場を取っていることは以前から知っていました。ですから、この手紙が来ても、それほど大きな驚きはないのです。ここには、「今日下院で行った海軍省への不信任は単にウィンズロウの名前を国家的お笑い草にしただけのことだ」と書いてあります。たしかこの言葉だった・・・(手紙を見て調べる。)ええ、そう、国家的お笑い草。
 サー・ロバート 厭な言い方だ。
 キャサリン ええ、厭な。そして続けて、もし私の父がとんまで無謀なこの企て・・・きっとこの裁判のことでしょうね・・・を止めないならば、自分の息子と私との結婚を阻止するようあらゆる手立てを講ずるであろう、と。
 サー・ロバート なるほど。最後通告ですか。
 キャサリン ええ。でも、的外れですわ。
 サー・ロバート 父親の力は息子には及ばないということですかな?
 キャサリン いえ、及びます、勿論。少しは。でも、親子の年齢を考えれば・・・もう自分のことは自分で決める年ですわ。
 サー・ロバート 金銭的には、まだ父親に頼っている?
 キャサリン 援助を受けています。でも、自分でやって行けますわ。私達二人で、全く援助なしに。
(間。サー・ロバート、キャサリンをじっと見つめる。それから急にアーサーの方を向き。)
 サー・ロバート それで?
 アーサー 残念ながら、さっきの私の言葉を取り消す訳には行きません。二、三日中に最終結論を申し上げます。
 サー・ロバート お嬢様はそのリスクを負う覚悟でいらっしゃるようですが?
 アーサー 私は違います。少なくとも、そのリスクがどれほど大きいか、測ってみるまでは。
 サー・ロバート リスクはどれほどのものでしょう、ミス・ウィンズロウ。
(間。言葉だけはしっかりしていたが、キャサリンは明らかに怯(おび)えている。サー・ロバートがこの質問をした時キャサリン、丁度煙草に火をつけているところ。)
 キャサリン(やっと。)無視できる大きさ。
(サー・ロバート、再びキャサリンを見つめる。キャサリン、サー・ロバートの視線を感じ、挑むように見つめ返す。間。)
 サー・ロバート(急に。気力のない様子に戻って。)なるほど。煙草を戴けますか?
 キャサリン ええ、勿論。お吸いにならないと思っていましたわ。
 サー・ロバート たまに、だけです。(アーサーに。)さきほどの無礼な言葉、大変失礼致しました。あれは許し難い。
 アーサー いいえ、この事件を諦めることに対して腹を立てて下さったのです・・・正直なところ、私はあれを聞いて大変嬉しかった。
 サー・ロバート(本当に悪かったという身振り。)今日は疲れる日でした。下院はひどく疲れるところです。風通しは悪い、それに、恐ろしく暑いと来ている・・・本当に失礼しました。
 アーサー ああ、どうか・・・
 サー・ロバート(気楽な言い方で。)勿論続けるか止めるか、それはそちら次第です。ああそうそう、あの帽子は実に魅力的でした、ミス・ウィンズロウ。
 キャサリン お気に召して嬉しいですわ。
 サー・ロバート あなたのような政治的意見をお持ちの方が、あのような女性的装飾物で身を飾るというのは、私には誤ったことのように見えます。両方の世界のよい所を独り占めしようとしているかのように・・・
 キャサリン 独り占めと言ったって、武力でやる訳ではありませんわ、サー・ロバート。金槌でショーウインドウを割ったり、郵便箱に硫酸をぶっかけたり・・・
 サー・ロバート(物憂い調子で。)それを聞いて安心しました。今の二つの行為、そのどちらもあの帽子にはひどく似合いませんからね。
(キャサリン、サー・ロバートを睨みつけ、何かを言い返そうとするが、止める。)
 サー・ロバート あなたの信念を世に広めるため、具体的に何をしていらっしゃるかは、お聞きしたことがありませんが? ミス・ウィンズロウ。
 キャサリン(ぶっきら棒に。)婦人参政権運動、西ロンドン支局の秘書をしています。
 サー・ロバート ほう。辛いですかな? そこの仕事は。
 キャサリン 非常に。
 サー・ロバート しかし、といって、実入りが良い訳でもなさそうですが。
 キャサリン ヴォランティアです。給料は出ません。
 サー・ロバート(呟く。)おやおや。信念のためには労苦を惜まない・・・それが今の若い御婦人のとる態度と見えますな。
(ヴァイオレット登場。)
 ヴァイオレット(キャサリンに。)お嬢様、ウェザーストーン様が玄関ホールにいらっしゃいます。個人的にお話があるとのことです。非常に重要な。
(間。)
 キャサリン 私、そちらに行きます。
 アーサー いや、ここに来て貰え。
(アーサー、椅子からやっとのことで立上がる。サー・ロバート、それを助ける。)
 アーサー ちょっとの間食堂の方に私と一緒に行って戴けますかな? サー・ロバート。
 サー・ロバート ええ、参ります。
 キャサリン じゃ、ヴァイオレット、お通しして。
(ジョン登場。疲れて心配そうな表情。キャサリン、微笑みをもって迎える。ジョン、上の空でそれに応える。このぎこちない二人のやり取りを、アーサーは後ろ向きのため見ていない。サー・ロバートは目撃する。)
 キャサリン いらっしゃい、ジョン。
 ジョン ああ。(アーサーに。)今晩は、ミスター・ウィンズロウ。
 アーサー 今晩は、ジョン。(アーサー、食堂の方へ進む。)
 キャサリン たしかサー・ロバート・モートンとは、初対面ね?
 ジョン そう。初めまして。
 サー・ロバート(アーサーに。)ウイスキー・ソーダがいただけるという話でしたね?(ジョンの方を向き。)遅まきながら、「おめでとう」を言わせて下さい。
 ジョン 「おめでとう」? ああ・・・ええ、有難うございます。
(アーサーとサー・ロバート、食堂へ退場。間。キャサリン、心配そうな表情でジョンを見ている。)
 ジョン(ロニーを指さして。)眠っている?
 キャサリン ええ。
 ジョン 眠ったふり・・・じゃないんだね?
 キャサリン ええ。
 ジョン(間の後。)父が君のお父さん宛に手紙を書いた。
 キャサリン ええ、読んだわ。
 ジョン そう。
 キャサリン あなたは?
 ジョン 読んだ。見せてくれたんだ。
(間。ジョン、注意してキャサリンを見ないようにしている。)
 ジョン(間の後。やっと。)で、あれの返事は?
 キャサリン 父からの返事? 父は書くとは思えないわ。
 ジョン じゃあ、君は思うんだね? お父さんがあの手紙を無視するって。
 キャサリン 脅迫には答えないのが一番の答じゃないかしら。
 ジョン(呟くように。)たしかにあれは高飛車な手紙だった。
 キャサリン 高飛車?
 ジョン 送るなって、僕は頼んだんだ。
 キャサリン それは嬉しいわ。
 ジョン 困ったことに・・・父は本気なんだ。
 キャサリン ええ、そうだろうと思っているわ。
 ジョン この事件からお父さんが手を引かない限り、父はあの手紙に書いたことをそのまま実行する気だ。僕はそう思う。
 キャサリン 結婚を阻止する?
 ジョン うん。
 キャサリン(殆ど嘆願するように。)そんな脅し、怖くもなんともないじゃないの、ジョン。
 ジョン(用心深く。)父から貰える金のことがあるからなあ・・・
 キャサリン(強い関心がなく。)そうね、お金のことがあるわ。
 ジョン ねえケイト、これはよっぽど注意深くやらないと・・・下手なことをすると僕ら二人とも酷い目にあうぞ。
 キャサリン お父様からのお金がないと、酷い目なの?
 ジョン それに君の持参金もなくなるんだからね。それは君、酷いことだよ、全く。今、僕一人だって僕の給料じゃやって行けないぐらいなんだ。まして君と二人じゃ・・・
 キャサリン 一人口ならやって行けなくても、二人口なら大丈夫ってよく言うわ。
 ジョン そんなのは嘘なんだ。二人口はやはり二人口分かかるっていうのが実際なのさ。
 キャサリン そう。知らなかったわ。
 ジョン 君と違って僕は現実的センスがあるんだ。悪いけど、こういう実務的なことを考えないで、先に突っ走るのはよくないよ。だから、親父のあの件は、正面きって真面目に扱わなきゃならないんだ。
 キャサリン 勿論私、真面目よ。で、あなたの提案は?
 ジョン(用心深く。)次の行動に移る前に、よーく考えなくちゃ・・・
 キャサリン ええ、勿論、慎重に。問題はだから、次の行動は何かっていうこと。
 ジョン うん・・・僕の見方はこうなんだ。正直に言う。君、構わないね?
 キャサリン ええ、はっきりと言って下さった方が有難いわ。
 ジョン(寝ているロニーを指さして。)あそこの、君の弟が五シリングを盗んだのか、盗まなかったのか、それについて、君と君のお父さんはこの一年間素晴しい戦いぶりを示した。誰もがそれについては称賛を惜しまないと僕は思う・・・
 キャサリン あなたのお父様は違うけど・・・
 ジョン ああ、あれは石頭だから。その点じゃ、あの海軍大臣とちっとも変らない。僕は普通の人のことを言っている。僕のようなね。それで・・・現状はこうじゃないか? 君達は二つのことをやった。一つは海軍に対する権利の請願で、これは裁判にならないまま放り出された。もう一つは下院に対する働きかけで、こちらの方は見事に成功して、下院中、蜂の巣をつついたような状態じゃないか。だからこの方で、君達の目的は充分叶えられた。つまり、この件はここで終りにしていいってことじゃないのか?
 キャサリン(ゆっくりと、用心深く。)ええ、ここで終ってもいいかもしれない。
 ジョン(ロニーを指さして。)彼は気にしない?
 キャサリン ええ、気にしない。それは分ってるわ。
 ジョン ほら、あの顔を見て。幸せで満足している顔だよ。この世で何の心配もない・・・あの心に何が起っているか、どうして君に分る? 彼がやっていないってこと、どうして確信しているんだ。
 キャサリン(同じくロニーを見ながら。)この子がやっていないなんて確信、私にはないわ。
 ジョン(呆れて。)驚いたね。じゃ、何故こんなに君達はその無実をはらそうと、時間と金をかけてきたんだ。
 キャサリン(静かに。)有罪か無罪か、私にはどうでもいいこと。父は違うけど、私はそう。勿論やっていないと信じてはいるけど、私が間違っているかもしれない。この子がやっていないと証明されようと、学校の他の誰かがやったと証明されようと、私にはどうでもいいこと。私にとって大切なことは、国家の機関が、基本的な人権を無視したということを、国民が知ること、そして国家がそのことを認めねばならないということ・・・それだけが私にとって大事なの。
 ジョン しかしね、ケイト、そんな綺麗事を言ったって、結局はこの十四歳の子供が、五シリングの・・・たった五シリングの・・・為替を盗んだのかどうかの決着が問題なんだろう? とにかくそこを明らかにしなきゃならないってことじゃないのか?
 キャサリン ええ、まあ。
 ジョン(諄々(じゅんじゅん)と説くように。)いいかい? ケイト。今、ヨーロッパで戦争が起きている。炭坑労働者のストライキもある。アイルランドでは内乱が勃発しそうだ。その他、何百という問題が・・・それも君が、「本当に重要」と言えるような問題が水面上に浮び上っているんだ。下院はそのことを充分承知の上で、一日中(ロニーを指さして。)彼の為替のことを議論している。物事には重要度に応じた付き合いというものがあるんじゃないのか?
(間。キャサリン、ゆっくりと頭を上げる。)
 キャサリン(少し語気を強めて。)私に分っていることはね、ジョン、もし万一、イギリスの下院がこのロニー・ウィンズロウの、ちっぽけな、為替の問題に時間と費用を貸す時間などあるものかって考えるような時が来るとすれば、その時のイギリスは、今よりずっとずっと貧しい国だっていうこと。(疲れたように。)でも、もうそれ以上言わなくていいわ、ジョン。あなた、もう充分過ぎるほど喋った。私、あなたの考えはすっかり分ってしまったわ。
 ジョン 君に分っているかどうか、僕にはよく分らないんだがね、今やっているこの大騒ぎは、ただウィンズロウの名前を、その・・・
 キャサリン(しっかりと。)国家的お笑い草にするだけのことだ、とあなたのお父様は書いていたわ。
 ジョン ああ、あれは酷過ぎる言い方だ。だけど大方の人はこの件を少し馬鹿げていると感じているんだ。僕のところへやって来る友達も、「おい、お前、ウィンズロウの娘と結婚するってのは本当か? 用心した方がいいぜ。副官の勲章をくすねたと言って、上院まで訴えを起されちゃ、ことだぜ」とかね。連中の言うのも無理もない点もあると思って・・・
 キャサリン そんなの、何でもないわ。アルハンブラでは私達のことをからかってこんな歌を歌ってるわ。
   ある日ウィンズロウは天国に行った
   そこで、牢屋に入っている可哀想な男を見つけた
   その男は言った、「僕はやってない」
   さあて、勿論ウィンズロウは訴えた
   誰に? 決ってらあ、神様さ。
 ジョン ね? 見てご覧。
 キャサリン ええ、分ってる。(静かに。)あなた、私と結婚したい? ジョン。
 ジョン え? 今、何て? 
 キャサリン 「あなた、私と結婚したい?」って私、聞いたの。
 ジョン そりゃ勿論だよ。君だってよく知っているじゃないか。もう僕らはこれで婚約して一年以上も経つんだ。僕が今までにぐらついたことがあった?
 キャサリン いいえ、今まではなかったわ。
 ジョン(その点では確固としていることを見せて。)今だってぐらついてはいないさ、少しも。・・・僕が言っているのはただ、僕らが取るべき道で一番いいのはどれか、という話をしているだけなんだ。
 キャサリン でも、もうそれは今じゃ手遅れなんじゃない? 今私がこの件を諦めて、あなた、それでもまだ結婚するつもり?・・・ウィンズロウの娘と。
 ジョン 噂なんかすぐに消えてなくなるさ。
 キャサリン(ゆっくりと。)そしてお父様からはちゃんとお金は入って来る・・・
 ジョン うん、入って来る。
 キャサリン その点はあなたにはとても大切・・・
 ジョン(静かに。)そう、大切だ。君は僕に「大切じゃない」と言わせようとしているけど、僕には言えない。それに、そう言えなくても恥とは思っていないんだ。
 キャサリン そんなこと、言わせようなんて思ってないわ。
 ジョン いや、思ってる。その声の調子で分るよ。
 キャサリン(素直に。)ご免なさい。
 ジョン(自信をもって。)さあ、それで・・・君の答は?
 キャサリン(ゆっくりと。)私、あなたを愛しているわ、ジョン。あなたの妻に私、なりたいと思っている。
 ジョン よし、それだけだ、僕の知りたいことは。よかった、ケイト。こんな下らない事で僕らの結婚が駄目になるなんてあり得ないって、僕には分っていたよ。
(ジョン、キャサリンにキス。キャサリン、疲れたようにそれに反応。電話が鳴る。間の後キャサリン、身体をジョンから引いて、受話器を取る。)
 キャサリン もしもし・・・そうです。・・・ちょっとお待ち下さい。(食堂の扉のところに行き、呼ぶ。)サー・ロバート! 電話です。
(サー・ロバート、食堂から登場。)
 サー・ロバート すみません。お邪魔して。
 キャサリン いいえ、お邪魔ではありません。私達、話は終りましたから。
(サー・ロバート、何かを問うようにキャサリンを見る。キャサリン、それには応じない無表情な顔。サー・ロバート、電話に進む。)
 サー・ロバート(サンドイッチを見て。)美味しそうだな。戴いてもいいですか?
 キャサリン ええ、どうぞ。
 サー・ロバート(受話器に。)もしもし・・・ああ、マイケル・・・エフ・イーが? あいつが発言するとは思わなかったな。・・・なるほど。・・・それで?・・・
(サー・ロバート、目を閉じて、相手の話を聞く。その間、サンドイッチをむしゃむしゃ食べる。)
 サー・ロバート(やっと話が終る。)有難う、マイケル。
(サー・ロバート、電話を切る。この時までにアーサー、食堂から登場している。)
 サー・ロバート(アーサーに。)下院では思わぬ展開になりました。
 アーサー 思わぬ展開?
 サー・ロバート 秘書からの報告です。法廷弁護士の私の友人が、この件に非常に興味をもって、私には全く接触せず、今日の午後九時三十分過ぎに、下院に行き、政府を完膚なきまでにやっつける痛烈な弁論を行ったそうです。(キャサリンに。)あの論点に気づかないとは、私の失策でした。・・・彼のやり方は実に見事だった・・・
 アーサー それで、どうなりました?
 サー・ロバート 勿論議論が息を吹き返しました。これで安心と思っていた海軍大臣は突然四方八方から攻め立てられ、採決しても結局は負けるだけと判断したらしく、その場でこの件を法務長官に委ねることに決定しました。つまり我々の権利の請願が通った訳です。ウィンズロウ対国王の問題はいよいよ裁判所の問題となりました。
(間。アーサーとキャサリン、サー・ロバートを「信じられない」という表情で見つめる。)
 サー・ロバート(やっと。)さて、私への指示はどうなりますでしょう。
 アーサー(ゆっくりと。)私にはもう決定権はありません。今や娘がそれを持っています。
 サー・ロバート では、ミス・ウィンズロウ、私への指示は?
(キャサリン、眠っているロニーを見下ろす。アーサー、キャサリンをじっと見る。サー・ロバート、サンドイッチを食べながら、こちらもキャサリンをじっと見る。)
 キャサリン(平板な声で。)私の指示が必要でしょうかしら、サー・ロバート。今の段階では、もう請願は通ってしまっています。後はただ裁判を実行するだけ・・・個人の権利を認めさせるために。
(ジョン、キャサリンに抗議しようと一歩踏み出す。キャサリン、ジョンを見ない。ジョン、突然扉の方へ向きを変える。)
 ジョン(怒って。)それが私への答か、ケイト。さようなら。
(ジョン退場。サー・ロバート、ぼんやりとした目付きでジョンが立ち去るのを見ている。)
 サー・ロバート(サンドイッチを頬ばったまま。)さてと・・・それでは個人の権利が認められるよう、最善をつくさねば・・・
                       (幕)

     第 四 幕
(場 前幕と同じ。約五箇月後。七月の窒息するような暑い日。ロニーのオズボーン退学から、ほぼ一年十一箇月。庭へ通じるガラス戸は開いていて、その近くに浴室用椅子が一つ置いてある。幕が上がると無人。電話がしつこく鳴っている。)
(ディッキー、スーツケースを持って玄関ホールから登場。酷く暑そう。麦藁帽をあみだに被って、息をきらせている。きちんとした濃紺のスーツ、じみなネクタイ、固いカラー。スーツケースを置き、ハンカチで顔の汗を拭う。それからまたホールに行き、呼ぶ。)
 ディッキー お母さん!(返事はない。)ヴァイオレット!(これにも返事はない。)誰もいないのか。
(ディッキー、電話に行き、受話器を取る。)
 ディッキー もしもし。・・・いえ、アーサーじゃありません。息子です。・・・今どこにいるか分りません。・・・デイリー・メイル?・・・いいえ、本人じゃありません。・・・兄です。・・・そう、兄。・・・エー、私は今銀行の仕事を。・・・そうです。父親の仕事の後を。・・・この事件への私の感想?・・・ええと、まあ、ありませんね。強いて言えば、勝った方がいいと、まあ、そんなところ。・・・いいえ、裁判所には行ったことはありません。レディングから帰って来たばかりで・・・レディング・・・ええ、そこに銀行があるんです、働いている・・・裁判の最後の二日間はいようと思って。明日なんでしょう? 評決は。・・・今年の三月で二十二歳・・・七歳上です・・・いいえ、あれが起ったのはあいつが十三の時で、今は十五です。・・・支持する政党? まあ、ちょっと左よりの保守主義ですね。・・・独身です。・・・いいえ、まだです。近い将来にもなしです。こんなことを聞いて何になるんです。・・・普通の子供ですよ、本当に。全く普通の。・・・うるさいし、不機嫌にはなるし、風呂には入らないし。・・・風呂です。風呂。・・・(びっくりして。)参ったな。文字通りとらないで下さいよ。勿論時々は入ります。・・・はい、伝えます。では・・・
(ディッキー、受話器を置く。中央の扉から退場。再び電話が鳴る。答えようと戻って来る。そこにグレイス、外出のため着替えをした姿で、食堂から登場。)
 グレイス ああ、ディッキー、いつ帰って来たの?
(グレイス、受話器を取る。)
 グレイス(受話器に。)みんな留守です。
(グレイス、受話器を置く。ディッキーを抱擁。)
 グレイス 痩せたわね。その服いいわ。新調したのね。
 ディッキー レディングのサヴィル・ロウで買ったんだ。吊るしで、三ギニー半。(電話を指さして。)これ・・・いつもこんなに鳴ってるの?
 グレイス そう。年がら年中。この四日間はそれこそ、鳴りっぱなし。
 ディッキー ここへ来る時も報道陣の山をかき分けてだった。
 グレイス ええ、そうね。ディッキー、あなた、何も言わなかったでしょうね。一言も、何も言わない方がいいのよ。
 ディッキー 何か言ったっていう記憶はないよ・・・(何でもないことのように。)ああ、そうそう、「私は個人的にはロニーが盗んだんじゃないかと思ってる」って・・・
 グレイス(驚いて。)ディッキー! まさか。(ディッキーがにやにや笑っているので。)ああ、そうね。冗談ね。でも、冗談でもそんなこと言っちゃ駄目よ、ね? ディッキー。
 ディッキー 裁判の様子はどう?
 グレイス 分らないの。これで私、この四日続けて傍聴したけど、何が話されているのかさっぱり。ケイトは、裁判官は私達には好意を持っていないって言ってるわ。でも私には、素敵な紳士に見える。(思い出して、ちょっと眉をひそめて。)サー・ロバートはその人にとても乱暴なの。
(電話鳴る。グレイス、自動的にそれに答える。)
 グレイス みんな留守です。
(グレイス、受話器を置く。庭へ通ずる扉へ進む。)
 グレイス(呼ぶ。)アーサー、食事ですよ。今すぐそちらに行きます。ディッキーが帰っているわ。(ディッキーに。)ケイトが午前中の裁判に行っているの。帰ってからお父さんの世話。それで午後は私が傍聴に行くの。だからケイトが帰ったら、あなたも一緒に行きましょう。
 ディッキー 僕の坐るところあるかな。
 グレイス あるわ。家族用に席をとってくれているの。あなた、あんなにすごい人、今までに見たことない筈よ。それにあの興奮! 野次に拍手に・・・時々は傍聴人が退出を命ぜられて・・・ハラハラドキドキよ、ディッキー。あなた、きっと気に入るわ。
 ディッキー だけど・・・一言も意味が分らないんじゃ・・・
 グレイス そんなのいいのよ。来ている人みんな、それは興奮してくるの。だからあなたも自然に興奮するわ。サー・ロバートと法務長官が猛烈なやりあいをするの。行ったらすぐ分るわ、あなたも。権利の請願だの、異義申し立てだの、国王の特権だの、次から次に出て来る。でも、どれもこれも、ロニーとは何の関係もないように思えるわ、私には。
 ディッキー ロニーは証言台に立ったんだろう? どうだった?
 グレイス 二日間訊問を受けたわ。本当に丸々二日間。可哀想に、あんなに小さいのに。でも、そんなに気にしている様子はなかったわ。ロニーの話では、法務長官との二日間より、サー・ロバートとの二分間の方がずっと大変だったって。ケイトの意見では、ロニーの受け答で陪審員はとてもよい印象を持ったそうよ。
 ディッキー ケイトはどうなの? お母さん。
 グレイス ええ、元気。ジョンとのこと、あなた知っているのね?
 ディッキー うん。そのことを今聞いたんだけど・・・どんな様子?
 グレイス ケイトって分らない子だからね。感情を外に出すっていうことがないの、あの子は。私達はみんなジョンのやり方ってないって思っているんだけど。
(アーサー、庭の扉に登場。ぐったりした歩き方。)
 グレイス アーサー! あなた、一人でその階段を上ったら駄目じゃない。
 アーサー 他に上る方法はなかったものでね。
 グレイス ご免なさい、あなた。私、ディッキーと話していて・・・
(グレイス、アーサーを助け、車椅子に乗せる。)
 アーサー ああ、どうだい? ディッキー。
 ディッキー(握手しながら。)ええ、まあまあです。
 アーサー 全くしようがない。こんなものを使って移動しなけりゃならんとは。見られたざまじゃない。
(アーサー、車椅子を動かして部屋の中に入る。ディッキーを見る。)
 アーサー フン、健康そうだな。ちょっと痩せたかな?
 ディッキー 仕事がきついんです。
 アーサー 夜更かしが過ぎるんじゃないのか?
 ディッキー レディングじゃ、夜更かしなんてしようにも出来ませんよ。
 アーサー お前なら夜更かしぐらいどこにいたって出来るさ。そう、お前の上司のミスター・ラムからお前の噂は聞いている。とてもよい点がついているぞ。
 ディッキー お人よしの好人物ですからね。先週の土曜日、僕はあの人を競馬に連れて行きましたよ。すってんてんにすっちゃいましたけど、もう、大変喜んで・・・
 アーサー そうか。お前のことだ。それぐらいはやりそうだな。そのうちチャンスさえあれば、ウェスミンスター銀行レディング支店を競馬の予想屋に変えてしまうことだって出来るさ、お前なら。そうそう、そのお人好しのラム氏によれば、お前は地方守備隊に入隊したそうだな?
 ディッキー ええ、そうです。
 アーサー 何故だ。
 ディッキー 周囲の状況から判断すると、どうやら大幅な首切りがありそうなのです。その波が来る前に、自分で出来る範囲のことはやっておこうと・・・
 アーサー 首切りの波? そんなものがあると思うのなら、銀行に残っていた方が・・・
 ディッキー 違いますよ、お父さん。銀行は大丈夫なんです。・・・でもやっぱり・・・若い時にちょっと変ったこともやってみたいと思って・・・後で銀行に帰るのは訳ないんです・・・
(電話が鳴る。アーサー、受話器を外し、そのままテーブルに置く。)
 グレイス 駄目よあなた、それは。
 アーサー 何が駄目だ。
 グレイス 電話が使えなくなるでしょう?
 アーサー 使えてうるさいより、使えなくてうるさくない方が儂にはいい。(グレイスに。)遅いな、キャサリンは。昨日は十二時半には帰って来たぞ。
 グレイス 今日はひょっとすると昼食休憩をとったのよ。
 アーサー 昼食休憩? クリケットじゃあるまいし。(グレイスを見て。)ゲイアティー座の昼の部でもない筈だぞ。お前のその似合わない出立(いでたち)はどうしたんだ。
 グレイス あら、あなた、この帽子お嫌い? 私、マダム・デュポンの最高のデザインだと思ったけど。
 アーサー いいかグレイス、お前の息子は窃盗と署名偽造の罪に問われているんだぞ。
 グレイス あら。でも人の目があるでしょう? 毎日毎日同じ服を着て行く訳には行かないわ。(ふと思いついて。)そうそう、あなた、明日は評決でしょう? 私、黒い上衣に黒いスカートにするわ。
(アーサー、グレイスを睨みつける。それから車椅子を食堂の方に進める。)
 アーサー 昼飯が出来ていると言ったな?
 グレイス ええ、冷たいものだけですけど。サラダは私が作りましたわ。ヴァイオレットとコックは裁判所に行っているんですもの。
 ディッキー ヴァイオレットがまだ家にいる? この間僕が帰って来た時には、お払い箱になったって聞いたけど?
 グレイス もう六箇月前にお払い箱になっていた筈なのよ、可哀想に。ただ、それを知らないのはあの子だけ。お父様も私もそれを言う勇気がないの。
 アーサー(扉のところで立止まって。)その勇気、儂にはあるがね。
 グレイス じゃ、今までに言ってないってことがおかしいわ。
 アーサー よし、では言うことにする。
 グレイス(急いで。)いいえ、あなたが言うのは駄目。その時が来れば私が言います。
 アーサー 分るだろう? ディッキー。毎日なんだ、この、言おう、言おう、という話が出るのは。ところが儂が一歩踏み出そうとすると、とたんに駄目と来る。これが女の論理というものだ。
(アーサー、食堂に退場。ディッキー、アーサーのために扉を支える。アーサーの退場の後、扉を閉める。)
 ディッキー(真面目な顔。)どうなの? お父さんは。
(グレイス、ゆっくりと頭を振る。)
 ディッキー 裁判が終ったら連れて行くつもり?
 グレイス 看護つきの療養所へ行く、とは言っているの。
 ディッキー 行くと思う?
 グレイス 分らないわね。また何かいい口実を捜すんでしょう。
 ディッキー だけど、この時期を逃したらもう一生チャンスはないんじゃない?
 グレイス(ゆっくりと。)そういう話だわ。・・・今度だって行ければいいと思っているぐらい。
 ディッキー 裁判から遠のかせるにはどうすればいいと思ってる?
 グレイス それはケイトとサー・ロバートの仕事。あの人、私の言うことも医者の言うことも聞かないんだから。
 ディッキー 可哀想なお母さん。随分このことじゃ、酷い目にあっているんだね? いろいろと。
 グレイス 私は言うだけのことはあの人に言っているの。私の考えはだから、よくあの人には分っている。ただ、私のことなんか気にしないだけ。ええ、それは結婚してからずっと。とにかく私はもう、心配するのは止めたの。あの人、いつだって「自分のやっていることはちゃんと分っている」って言っている。だから私の仕事はその後始末。
(キャサリン登場。)
 キャサリン 本当に暑いわ! お母さん、あの報道陣、何とかならないのかしら。・・・あら、ディッキー!
 ディッキー(キャサリンを抱擁して。)ああ、姉さん。
 キャサリン 断末魔っていうところに来たわね。
 ディッキー 状況、そんなに悪いの?
 キャサリン ええ、まあね。あの裁判長のやつ、絞め殺してやりたいわ、お母さん。徹頭徹尾、こっちに反対なんですからね。
 グレイス(鏡で帽子を直しながら。)あら、まあ。
 キャサリン サー・ロバートは本当に心配している。あの人の話では、法務長官の演説が陪審員にかなり影響を与えたって。あの演説、たしかにいいところを突いてたわ。あれを聞いていたら誰だって、ロニーの評決が出たら英国海軍には暴動が起きて、ドイツは大喜びで祝宴でも開きそうに思えるもの。
(アーサー、車椅子で食堂への扉に登場。)
 アーサー 遅かったな、キャサリン。
 キャサリン ええ、すみません。裁判所の中も外も人がいっぱいで、タクシーが拾えなかったの。それでサー・ロバートと話をして・・・
 グレイス(喜んで。)昨日よりも人が多かったの? ケイト。
 キャサリン ええ、ずっと。
 アーサー 今朝はどんな具合だった?
 キャサリン サー・ロバートは今日、郵便局の女事務員に訊問したわ。あれでもう、この証人は完全に封じ込められた筈。司令官室でロニーが見分けられなかったし、ロニーが郵便局へ来た時刻も特定出来なかったし、ロニーが十五シリング六ペンスの為替を買った時には、電話で別のところへ行っていたし、制服を着たオズボーンの学生はみんな同じように見えるから、五シリングの為替を現金化したのは、他の学生だったかもしれないと認めたし。とにかく、サー・ロバートの訊問は実に当を得たものだったわ。優しくて、落着いていて・・・証人を怒鳴ることなど全くせず、怖がらせもしなかった。ちゃーんと誘導して、欲しい結果を全て引き出したの。それなのに、この訊問が終って、法務長官が出て来て、十五シリング六ペンスの為替を買った少年と、五シリングの為替を現金化した少年が、この同じ少年か、と尋ねると、その証人ったら、間違いなく同じ少年だったって。だって、当り前ですわ。あのロニーって子、とてもハンサムで、最初見た時から、特に覚えていたんですものって。サー・ロバートの訊問の時にはハンサムだなんて一言も言わなかったんですからね。十二人の陪審員の顔を私、見ていたけど、お互いに頷き合って、すっかりその気になった様子だったわ。折角のサー・ロバートの訊問も台なし、きっと。
 アーサー そんなにロニーがその郵便局員にハンサムに見えたのなら、どうしてあの晩すぐに見分けられなかったんだ。
 キャサリン 私に聞かないで。法務長官に聞いて頂戴。きっととても納得の行く答が出て来るわ。
 ディッキー ロニーがハンサム? 何て馬鹿な! その女、嘘をついているに決ってる。
 グレイス 何を言ってるの、ディッキー。証言席で昨日あの子、とてもハンサムに見えたわ。でしょう? ケイト。
 キャサリン ええ。
 アーサー 他に相手側の証人で立ったのは?
 キャサリン 司令官兼校長、下士官、それに生徒が一人。
 アーサー 特にこっちに不利になる証言は?
 キャサリン 全部予め予想がついていたものだけ。その生徒はあからさまにロニーのことが嫌いなようで、サー・ロバートからさんざんとっちめられたわ。でも校長は点を稼いだ。正直そのもので、心からロニーがやったと思っている。
 グレイス あそこで誰か、知っている人に出会った? ケイト。
 キャサリン ええ。ジョン・ウェザーストーン。
 グレイス ジョン? あなた、話しかけたりしなかったでしょうね?
 キャサリン 勿論私、話しかけたわ。
 グレイス まあケイト、どういうつもり? あの人、何て言ったの?
 キャサリン 幸運を祈るって。
 グレイス 何てまあ厚かましい! わざわざ裁判所にやって来て、平気な顔をしてあなたに幸運を祈るだなんて。無礼もいいところ・・・血も涙もない・・・何て・・・
 アーサー グレイス、お前、裁判所に遅れるんじゃないか?
 グレイス あら、そう? ディッキー、あなた、用意はいいの?
 ディッキー うん。
 グレイス あの、あなたの素敵なグレイの背広だけど、あれ、高過ぎたんじゃない?・・・
 アーサー 再開は何時なんだ? ケイト。
 キャサリン 二時。
 アーサー もう二時二十分だぞ。
 グレイス まあ、ひどい遅刻。ケイト、あなたがいけないのよ。アーサー、あなた、ちゃんとお昼は召し上がるんですよ。
 アーサー 分っとる。
 グレイス 約束なさい。
 アーサー 食べる。約束する。
 グレイス(独り言。)たまねぎを買っておくの、ヴァイオレット、忘れないかしら。そう、帰って来る時、私が買わなくちゃ。(キャサリンの傍を通る時に。)ああ、ケイト、あなた、運が悪かったわ。
 キャサリン 運? 何のこと?
 グレイス ジョンがあんな男で。私、前からあの人のこと、嫌いだった。あなた、覚えているでしょう?
 キャサリン ええ、覚えてるわ。
 グレイス いい? ディッキー、玄関を通る時には、頭を下げるの。こうやって私を真似るのよ。そして、さっと突っ切るの。
 アーサー 庭から行ったらいいじゃないか。
 グレイス このドレスが垣根に引っ掛かったら大変。それは止めるわ。さ、ディッキー。私、いつも怒鳴るの。「私は女中です。私は何も知りません」って。だから、驚いちゃ駄目よ。
 ディッキー 分った。
(グレイス退場。ディッキー、その後から退場。)
(間。)
 アーサー この裁判、負けるのかな、ケイト。
(キャサリン、静かに肩を竦める。)
 アーサー これが最後の勝負だ。
 キャサリン ええ、分ってるわ。
 アーサー(急に乱暴に。)勝たねば! 何が何でも。
(キャサリン、答えない。)
 アーサー サー・ロバートはどう思っているんだ。
 キャサリン とても心配そう。
 アーサー(考えながら。)お前の方が正しかった・・・そうも思えるんだ、今では。つまり、もっといい人がいたかもしれないとね。
 キャサリン いいえ、お父様。他にいい人はいなかったわ。
 アーサー そうか、今ではそう思うんだな? お前は。
 キャサリン ただ腕利きだからそう言ってるの。イギリス中で一番の。それに、何かの理由で・・・多分、これで箔(はく)がつく、と思っているからだと思うけど・・・この裁判に、何が何でも勝とうと思っている。そこを買うだけ。今までにあの人について言ってきたことは何一つ撤回しないわ。
 アーサー 新聞によると、彼は裁判所に申し出たそうだ、身体の具合が悪いので、延期を願い出てもよいかと。まさか彼が潰れるようなことは・・・
 キャサリン あの人は潰れはしません。それはあの人がいつも自慢しているテクニックに過ぎないの。裁判所の同情をひくし、それに・・・いいえ、このことは言わないわ。
 アーサー いや、言ってくれ。
 キャサリン(ゆっくりと。)それが負けた時の口実に使える。
 アーサー お前は嫌いなんだな? あの人が。
 キャサリン(無関心に。)嫌うとか、好きになるとか、そういうものはあの人にはないの。私は尊敬している。
(デズモンド、庭からの扉に登場。部屋に入り、恐る恐るノックする。キャサリンとアーサー、振り向き、デズモンドを見る。)
 デズモンド こんな所からこそこそ入り込んで、お気を悪くなさらないで下さい。玄関の群集があまりにひどくて・・・
 アーサー さあ入って、デズモンド。裁判所を離れても大丈夫なのか?
 デズモンド 担当者をつけておきました。ちゃんとした男です。僕が保証します。
 アーサー それならいいが。
 デズモンド お嬢さんと二人だけでお話したいのですが、ちょっと急な用件で・・・
 アーサー ああ。ケイト、急な用件だそうだ。お前、聞くか?
 キャサリン ええ。
 アーサー よろしい。儂は行って昼飯をすませることにする。
(アーサー、車椅子を廻して食堂の扉に進む。デズモンド、慌ててそれを助ける。)
 デズモンド 失礼・・・
 アーサー 有難う。いや、助けはいらないんだ、この車は。
(アーサー退場。)
 デズモンド お知らせしてから来るべきだったですね。お話の途中で私は・・・
 キャサリン いいえ、そんなことはないの。坐って、デズモンド。
 デズモンド すみません、時間があまりなくて。すぐ裁判所に戻らないといけないのです。判事の訊問があって。
 キャサリン ええ。それで、話というのは?
 デズモンド タクシーを待たせてあるんです。
 キャサリン(微笑んで。)まあ、デズモンド、随分贅沢・・・
 デズモンド(こちらも微笑んで。)ええ、でも、これでお分りでしょう? この訪問が非常に急を要するものであるということが。実は・・・今日のお昼休みに、急にはっと思いついたんです。そうだ、今日あなたに会わなければ、と。
 キャサリン(何か別のことを考えている顔。)
 デズモンド 質問したいことがあるんです、ケイト。ただ、その質問は、判決が下った後だと・・・そして、もし負けた場合だと・・・憐れみでだと受取られるかもしれないのです。そしてもし勝った場合だと・・・あなたの答が感謝の気持で影響されるかもしれないと・・・分って下さいますね? ケイト。
 キャサリン ええ、分っている・・・と思うわ。
 デズモンド じゃあ、私がしようとしている質問も、大凡(おほよそ)見当がついているってことですか?
 キャサリン ええ、だいたい。
 デズモンド(少し当惑して。)ああ・・・
 キャサリン ご免なさい、デズモンド。こういう場合にはしきたり通り、「全く見当がつかない」って答えるべきだったわ。
 デズモンド いや、あなたのその率直さと正直さですから、私が尊敬しているのは。見当をつけて下さって有難いです。これから言うのが楽になりましたから。
 キャサリン(事務的な口調。)二三日余裕を下さい。私、考えます。
 デズモンド 勿論、勿論です。
 キャサリン こんなこと、お話しなくても当然ですけど、私、感謝していますわ、デズモンド。
 デズモンド(少しどぎまぎして。)いや、そんな・・・そんな、お礼なんて・・・
(この時までにキャサリン、立ち上がっている。)
 キャサリン タクシーを待たせてはいけないわ・・・
 デズモンド タクシーなんか!(我に返って。)実はね、ケイト、あなたの私に対する気持が本当はどんなものか、私にはよく分っているんです。
 キャサリン(優しく。)そう?
 デズモンド ええ、それは・・・友情・・・と言ったらいいか・・・それ以上のものに決してなったことがない・・・まあ、暖かい友情・・・であればよかったけれど・・・そう「暖かい」というところまでははっきり言っていいと思う。でも、それ以上のものではない。そうだね? ケイト。
 キャサリン(静かに。)ええ、そう。
 デズモンド そう、そう、勿論これから私がこの世でまれに見るような献身的な夫になったとしても・・・ええ、そう、・・・その機会をあなたが与えてくれたらの話ですが・・・私はそういう献身的な夫になろうと思っていますが・・・たとえそうでも、あなたの私に対する気持は決して・・・決して今の「暖かい友情」以上のものにはならないだろうと思っています。もっと私が若い時だったら、ひょっとしたら話は違っていたかもしれない・・・私がイギリス代表のクリケットの選手だった時なら・・・
(デズモンド、キャサリンの顔に微かな哀れみの表情が浮かぶのを見る。)
 デズモンド(謝るように。)いや・・・いやいや、それだってたいした違いはなかったでしょう。私が運動選手としての過去の栄光に縋(すが)り過ぎるとお思いでしょうね。私だって時々はそれを感じるのですから。しかし、実のところ、私が現在縋れるものと言えば、その運動選手の能力とあなたへの愛情しかないのです。そして、運動選手の能力の方は年とともに、また筋力の衰えとともに、霞(かす)んでいっています。しかし、私のあなたへの愛は決して霞むことはない。
 キャサリン(微笑んで。)ああ、それは素敵な台詞だわ、デズモンド。
 デズモンド からかわないで、ケイト、お願いです。私は本気で言っているんです、全部。(咳払いして。)しかしここは、もう少し現実的な表現で事実を整理してみましょう。事実一、あなたは私を愛していない。そして決して愛することはないだろう。事実二、私はあなたを愛している。今までそうだったし、これからもそうだろう。これが現状です。そして私はこれを注意深く考慮した結果、充分にこれを受け入れる準備があります。私は二三箇月前にこの結論に達しました。それで最初は、この事件が終ってから・・・何故なら、今はお互いに全ての関心はそちらに向いているのですから・・・終ってからにしようと思っていたのです。ところが、今日の昼食の時、明日の判決まで待てない、すぐに私の気持を伝えなければと決心したのです。あなたが私にどのような感情を持ち、或いは持たなくても、或いは、あなたが他のどんな感情を持っていようと、私はあなたに、私の妻になって欲しいのです。
(間。)
 キャサリン(やっと。)分りました。有難う、デズモンド、はっきり言って下さって、事態がよく分りましたわ。
 デズモンド 言いたいことはもっと沢山あるのですが、それは手紙にしてお渡しします。
 キャサリン ええ、じゃ、そうして下さい。
 デズモンド 二三日中に答が戴けるんですね?
 キャサリン ええ。
 デズモンド(時計を見て。)さあ、戻らなくちゃ。(自分の帽子とステッキ、手袋を取る。)今朝の訊問・・・あなたの目ではどう御覧になりました?
 キャサリン 郵便局の女の人の証言・・・ロニーがハンサムだっていう・・・あれが、あちらに有利に動いたと・・・
 デズモンド いえ、それは違います。あの人はロニーが分っていなかったんです。いろんな証拠があります。素晴しい訊問でしたね? サー・ロバートは。
 キャサリン ええ、素晴しい・・・
 デズモンド あの人は奇妙な人です。時々は酷く冷たくて、よそよそしい、そして・・・
 キャサリン 魚のよう。
 デズモンド ええ、魚のよう・・・全く。しかし、この件に関しては本当に情熱があります。私は偶々(たまたま)知ったのですが・・・勿論これは厳重にここだけの話ですが・・・ええ、偶々知ったことは、あの人が、この件を法廷に出すために非常に大きな犠牲を払ったということです。
 キャサリン 犠牲? どういう犠牲です? 別の大きな事件を断った?・・・
 デズモンド いえいえ、そんなことはあの人には犠牲にはなりません。違います・・・あの人に政府からの申し出があったのです・・・本当にこのことはここだけにして下さいますね?
 キャサリン だって、デズモンド、政府からどんな秘密の申し出があったにしろ、そんなに驚くことではないでしょう? だってあの人は、反対の立場に立っている人間ですもの。(政府がそれを懐柔するためだったら・・・)
 デズモンド それが、実に驚くべき申し出で・・・任期最後の法務長官からのものですが、私がこう言ってよければ、サー・ロバートにしては本当に立派な、見上げた行為だったと思っているのです。
 キャサリン 何なのです? デズモンド、申し出られたのは。
 デズモンド 最高裁判所長官です。あの人はあっさりと断りました。ウィンズロウ事件を王と対決させるべくです。人間て、奇妙なことをするものですね。じゃ、私はこれで。さようなら。
 キャサリン さようなら、デズモンド。
(デズモンド退場。)
(キャサリン、窓から観客の方へ顔を向ける。深く考えている様子。緊張している、と同時に「奇妙だ」、という表情。デズモンドのことを考えている様子ではない。アーサー、食堂の扉を開け、見回す。)
 アーサー 入っていいかな?
 キャサリン ええ。あの人は行ったわ。
 アーサー マトンを食べているのを外からじーっと見られているのにうんざりしてな。まるで動物園の猿だ。
 キャサリン(ゆっくりと。)私は大馬鹿だったわ、お父様。
 アーサー フーン、馬鹿だったか。
 キャサリン ええ、大馬鹿。
(アーサー、キャサリンの説明を待つ。キャサリンの説明、なし。)
 アーサー それから先がないんじゃ、もう一度繰り返すしか手がないな。フーン、大馬鹿だったか。
 キャサリン もうその先はないの。秘密は守るって約束したから。
 アーサー なるほど。で、デズモンドは何だって?
 キャサリン 結婚してくれって。
 アーサー お前の今の「大馬鹿」というのは、それを受けるっていうことじゃあるまいな?
 キャサリン(微笑んで。)ええ、それは違う話。(キャサリン、近づいてアーサーの椅子の腕に坐る。)でも、受けるって、そんなに馬鹿なこと?
 アーサー 気違い沙汰だ。
 キャサリン そうかしら。あの人はいい人。それに、弁護士として立派にやっているわ。
 アーサー その二つとも、結婚するにはひどく希薄な理由だ。
 キャサリン 私・・・これは真剣に考えなくちゃ。
 アーサー まあ真剣に考えるんだな。但し、答は「ノー」だ。
 キャサリン 私、もうすぐ三十よ。
 アーサー 三十が人生の終じゃない。
 キャサリン いいえ、終かもしれない、未婚の女性にとっては・・・そして、器量の悪い女性にとっては。
 アーサー 馬鹿な。
(キャサリン、首を振る。)
 アーサー デズモンドと結婚するくらいなら、オールドミスで死んだ方がましだ。
 キャサリン オールドミスでも、食べなきゃならないわ。
(間。)
 アーサー お前とグレイスに全部残すんだが・・・
 キャサリン(静かに。)全部?
 アーサー まだ残るものはある筈だ。その全部だがね。(間。)女性参政権協会には私の言ったことを話したのか?
 キャサリン ええ。
 アーサー で、給料を要求したんだな?
 キャサリン ええ。
 アーサー それで、出すと言ったんだな?
 キャサリン ええ、一週二ポンド。
 アーサー(怒って。)人を馬鹿にしている。
 キャサリン いいえ、多いくらい。あそこではこれがやっと。裕福な組織じゃないの。
 アーサー 何か他のものを考えるんだな。
 キャサリン 他のもの? 靴下の繕(つくろ)い? 私に出来ることはそれぐらいしかないわ。
 アーサー お前に出来て、役に立つものが、何か他にある筈だ。
 キャサリン 女性参政権協会で私が今やっていることは、役に立たないことだと思っているのね?(アーサー、黙っている。)お父様の言う通りかもしれないわ。でもやっぱり、私の出来ることは、今やっていることしかない。(間。)ええ、ないわね。選択肢は二つだけ。一つはデズモンドと結婚すること。そして身を固めて、安楽で、少しは世の中のお役に立つ存在になること。もう一つは、週二ポンドで一生を送る・・・世の中には何の役にも立たないで。
 アーサー 役に立たない? その言葉は今初めて聞いたな。
 キャサリン ええ、私も今初めて感じたの。
(アーサー、黙っている。キャサリン、アーサーに近づき、その耳に口を寄せて。)
 キャサリン 来月ジョンは結婚するわ。
 アーサー それをお前に、あいつ、話したのか。
 キャサリン ええ、とてもすまなそうに。
 アーサー すまなそう!
 キャサリン そんな顔しなくたっていいのに。相手の人、私、少しだけ知ってる。いいお嫁さんになるわ。
 アーサー あいつはその女が好きなのか。
 キャサリン 私を好きだったほどではないけれど・・・
 アーサー 何故なんだ、そんなに・・・急に。
 キャサリン 私を振った後急に? 戦争があると思っているからよ。もし始まったら、あの人の部隊、一番に出兵する。それに、あの人のお父さんが強く勧めている。・・・相手は将軍の娘・・・とてもとてもお似合い。
 アーサー 可哀想に、ケイト。
(間。アーサー、キャサリンの手をゆっくりと取る。)
 アーサー お前の人生を台なしにしてしまったな、儂は。
 キャサリン いいえ、お父様じゃないの。もし台なしにしたのなら、したのこはこの私。
 アーサー すまなかったな、ケイト。実にすまない。
 キャサリン 謝ることなんかないの。私達、自分の始めたことは最初からちゃんと分っていたわ。
 アーサー そうだったかな。
 キャサリン そうだったと思う。
 アーサー しかし、お前の動機と儂のとでは違いがあった。そもそもの最初から。その両方とも正しかったろうか。
 キャサリン ええ、正しかった・・・両方とも。私はそう信じている。
 アーサー しかし、敵は終始一貫、論理的だった。・・・そうだな?
 キャサリン ええ、論理ではいつもあちらの勝ちだったわ。
 アーサー ただ、糞頑固・・・負けたくないという意地・・・それだけが動機だったと、お前の母親は思っている。
 キャサリン ええ、そうかもしれない。本当にただの意地だけだったかもしれないわ。
 アーサー 敵が不正義を振り回している時には、糞頑固もひょっとするとたいして悪くはないか。
 キャサリン 敵が専制、暴虐の時にも。(間。)お父様、もしあの最初の時に戻れるとしたら、この裁判に踏み切るつもり? それとも止める?
 アーサー 止めるかもしれん。
 キャサリン そうは思わないわ。
 アーサー うん、まあな。
 キャサリン 私、やっぱり私達、自分が何をやっているかって、ずっと分ってやって来たと思う。そしてそれが正しかったの。
(アーサー、キャサリンの頭にキス。)
 アーサー 有難う、ケイト。有難う。
(間。新聞売りの声が外から微かに聞こえて来る。)
 アーサー デズモンドとは結婚しないんだな? お前は。
 キャサリン(微笑んで。)首相の言葉にあったわ・・・「成行きを見守ることにしよう・・・」
(アーサー、キャサリンの手をぐっと握る。新聞売りの声が聞こえる。今度は前より大きい声。)
 アーサー 何て怒鳴っているんだ? 売り子は。
 キャサリン ウィンズロウ事件・・・最新版・・・
 アーサー 最新版・・・とは儂には聞こえんが・・・
(キャサリン立上がり、窓のところへ行き、聞く。突然観客にもはっきりと「ウィンズロウ事件・・・結審・・・ウィンズロウ事件・・・結審・・・」。)
 アーサー 結審?
(突然玄関の扉が開く。新聞売りの声、大きく聞こえる。扉が閉まり、声、また小さくなる。ヴァイオレット、満面に笑みを浮かべて登場。)
 ヴァイオレット ああ、お嬢様、あれを見逃したなんて、お気の毒でしたわ。昼食の休憩が終って、法廷が再開されてすぐのことでした。奥様もロニー様も丁度いらっしゃらないなんて。ああ、拍手に、怒号。飛び上がったり、抱き合ったり・・・あんな光景、一生涯見られるものではありませんわ。サー・ロバートはテーブルのところに立ちすくんで、鬘(かつら)はひん曲がったまま・・・涙がポロポロ頬を伝って・・・騒音のため口も開けない・・・コックのスーズィーと私も、大声で叫んでいた・・・だって自然に声が出てしまうんですもの。素敵でしたわ。私達お祭り騒ぎ。それでスーズィー、帽子を後ろからバンッて押されちゃって、縁(ふち)が目のところまでかぶさって・・・後ろの人ったら、怒鳴って、両手を振り回して、「これが自由だ」とか何とか叫んでいる。その拍子にスーズィーの帽子を押さえちゃったのね。あの子、怒ったのなんの・・・お嬢様にも見せたかった。でも、本当はあの子、ちっとも怒ってなんかいなかった。ただ拗(す)ねて見せていただけ。私達、叫びっぱなし。裁判長も「静かに」と怒鳴りっぱなし。でも、何の効果もない。だって、陪審員達まで怒鳴り始めたんですもの。その中の二三人が柵(さく)を越えて、サー・ロバートと握手しようと手を差し出したわ。それから外の道路でも同じような騒ぎ。群集で動きがとれないの。大変な騒ぎ、まるで気違い沙汰。誰かが「ウィンズロウの親父さん、万歳!」って怒鳴っていたわ。そして「あいつはいい奴だ」なんて歌いだしたり。その拍子にまたスーズィーの帽子、今度は吹っ飛ばされちゃった。本当に素敵だったわ!(アーサーに。)旦那様、終って本当にほっとなさったでしょう?
 アーサー そうだ、ヴァイオレット、ほっとした。
 ヴァイオレット そうですよ。私、いつも言ってましたでしょう? 最後にはきっとうまく行くって。
 アーサー そうだな。そう言っていたな。
 ヴァイオレット もう後ひと月で丁度二年。ロニー坊っちゃまがお帰りになったあの日から・・・
 アーサー そうだな。
 ヴァイオレット でもこう言っちゃなんですけど、お嬢様と旦那様、年がら年中あんなことにかかづらわっていて、時々は時間の無駄だって思ったことがありましたわ。まあ、本当に今日・・・今日終るなんて。ねえ、旦那様。思いもおかけにならなかったでしょうね。
(ヴァイオレット、回れ右して行こうとする。が、立ち止まって。)
 ヴァイオレット そうそう、奥様が、これだけは忘れないようにって・・・玉葱を買って来るように・・・でも、私・・・
 キャサリン いいのよ、ヴァイオレット。帰りに御自分で買っていらっしゃるわ。
 ヴァイオレット 分りました。可哀想に、奥様。大変なお買物になるわ。裁判所に行って、今日で終りって分ってからの買物ですもの。ああ、そうそう、旦那様。おめでとうございます。
 アーサー 有難う、ヴァイオレット。
(ヴァイオレット退場。)
 アーサー するとどうやら我々は勝ったということらしいな。
 キャサリン ええ、どうやら勝ったということらしいわ。
(キャサリン、くづおれて、泣き始める。頭をアーサーの膝の上にのせて。)
 アーサー(ゆっくりと。)出席していたかったな、その瞬間に。
(間。)
(ヴァイオレット登場。)
 ヴァイオレット(来客を告げて。)サー・ロバート・モートン様です。
(サー・ロバート、落着いて、几帳面な足取りで部屋に入って来る。きちんとした、粋な様子はいつもと全く変らない。ヴァイオレットの話した裁判所での取り乱した様子は全く見られない。)
(キャサリン、急いで飛び起き、目を拭く。)
(ヴァイオレット退場。)
 サー・ロバート 法務長官の判決文の原文自体がどんなものであったかお知りになりたいのではないかと思いまして。・・・(ポケットから紙片を取り出す。)書き留めておきました。(読む。)「私、法務長官、は、海軍省が行うべき次の宣告を、その代理としてここで申し述べる。即ち、ロナルド・アーサー・ウィンズロウの次の証言、即ち、『私は為替に名前を書かなかった。私は為替を受取らなかった。私はそれを現金化しなかった。従って私は二年前に、上述の罪を犯したという責(せめ)に対して、無罪である。』なる証言を、全く、いかなる留保もなく受け入れる。また、この内容をそのまま事実として受け入れる。」
(サー・ロバート、紙片を畳み、それをアーサーに渡す。)
 アーサー 有難う、サー・ロバート。ここで申し述べる言葉を捜すのは大変難しい・・・
 サー・ロバート いえ、どうかそのままで。感謝の言葉は省略することにしましょう。慣習的で退屈なものです。さてこちらの責任、及び損害の問題ですが、海軍省は酷くけちな態度です。こちらの損失はとてもカバー出来そうにありません。しかし、次期首相に提訴すればなんとか・・・
 アーサー いえ、どうか・・・もうこれ以上ご心配下さらぬよう。この件はここまで。(さっきの紙片を見せて。)私が必要だったものはこれだけだったのですから。
 サー・ロバート(キャサリンの方を向いて。)ミス・ウィンズロウ、結審が、裁判所にいらっしゃらない時に行われたのは、本当に残念でした。あの時はかなりの反響でしたから。
 キャサリン ええ、そうだったようですね。何故海軍省は諦めたのでしょう。
 サー・ロバート 結論は分っていたのです。法廷の歴史ではままあることですが、筆跡鑑定が誤りだと判定された瞬間からです。従って、私達には正々堂々の理由があることが分っていました。それに、陪審員の誰一人、あの女性郵便局員を信じる筈はありませんから。
 キャサリン でも、今朝は随分気落ちした御様子とお見受けしましたけれど?
 サー・ロバート そうでしたか。あの部屋はとても暑くて・・・それに、私はちょっと疲れていたようです・・・
(ヴァイオレット登場。)
 ヴァイオレット(アーサーに。)旦那様、玄関にお集りになっている方々が、何かお話し下さいとのことです。お話を伺わないうちは帰りませんと。
 アーサー 分ったヴァイオレット、有難う。
 ヴァイオレット はい。
(ヴァイオレット退場。)
 アーサー 何と話そう。
 サー・ロバート(無関心に。)何とお話しになろうと関係ないのではありませんか? 連中は、書くことはもう既に決めてある筈です。
 アーサー 何と言おう、ケイト。
 キャサリン 何か必ず思いつくわ、お父様は。
(キャサリン、アーサーの車椅子を扉の方に押し始める。)
 アーサー(鋭く。)いや、こんなアホな車椅子姿など見せるものか。(キャサリンに。)杖を持って来なさい!
 キャサリン(抗議して。)お父様、お医者様が何と仰るか・・・
 アーサー 杖を持って来るんだ!
(キャサリン、もうあれこれ言わず、杖を持って来る。キャサリンとサー・ロバート、アーサーを車椅子から立たせる。)
 アーサー こういうのはどうだ? 「息子に正義がなされたのを見届けるまで生きていられたのは幸せだった。」
 キャサリン 暗いわお父様、それは。まだまだずっと命はありそうだもの。
 アーサー そうかな。じゃ、待てよ。うん・・・「この勝利は決して私のものではない。勝ち取ったのは国民だ。国民はこれからも常に圧政に対して勝ち続ける。」どうかな、響きは。ちょっと気障(きざ)か。
 サー・ロバート 気障ですね、少し。しかし、私でもそれは言うでしょう。受けることは確実ですからね。
 アーサー フム、ひょっとして本心を言うのはどうかな。「やれやれ、やっとやっつけたぞ。」
(アーサー退場。サー・ロバート、突然キャサリンの方を向く。)
 サー・ロバート ミス・ウィンズロウ・・・お宅のウイスキーを少々、所望致したいのですが。失礼ですか?
 キャサリン あら、喜んで。
(キャサリン、食堂へ行く。サー・ロバート、一人になると、疲れたように肩を落す。椅子にぐったりと坐る。キャサリン、ウイスキーをもって登場。サー・ロバート、本能的に背をしゃんと伸ばす。しかし立上がらない。)
 サー・ロバート 御親切に。坐ったままで失礼します。裁判所のあの暑さが、実はひどくこたえまして。
(サー・ロバート、グラスを受取り、素早く飲み干す。その手が少し震えているのをキャサリン、気づく。)
 サー・ロバート ちょっと神経にひびいて・・・それだけです。それに、今日一日、何だか具合が変で。裁判長にそう申し出たのですが・・・覚えていらっしゃるかもしれません・・・しかし裁判長も信じなかったでしょう。私の手だと思って。人間とは疑(うたぐ)り深い動物です、実に。
 キャサリン そうですね。
 サー・ロバート(グラスを返して。)有難う。
(キャサリン、後ろのテーブルにグラスを置き、ゆっくりと振り返り、サー・ロバートを見る。何か試練を受ける時の表情。)
 キャサリン サー・ロバート・・・実は私、誤解していたことが・・・そして、お許しを乞わねばと・・・
 サー・ロバート(何が来るかを感じ取って。)ミス・ウィンズロウ、その誤解は考え過ぎ、そして、謝罪は余計なことです。どうか二つともお止めになるよう・・・
 キャサリン(微笑んで。)いいえ、これは申し上げませんと。多分これがお会いする最後の機会ですし、手紙を書いてお出しするより、申し上げる方が懺悔(ざんげ)の気持がよく伝わる筈ですわ。この件に関するあなたの態度を私、全く間違った目で見ておりました。その結果、私のあなたへの振舞いがひどく乱暴で、感謝の気持の籠らないものとなってしまいました。それを私、心から恥ぢ、すまなく思っております。
 サー・ロバート(無関心に。)ミス・ウィンズロウ、あなたの私への態度が乱暴だったり、感謝の念の籠らなかったように見えたことは一度もありません。そして私のこの事件に対する態度は終始、あなたと同じでした。どんなことがあっても勝つ・・・このことだけです。ただ・・・もし感謝の言葉を仰るならば、感謝は私の方が。あなたはこの件で大きな犠牲を払われたのですから。
 キャサリン 犠牲はそちらもではありませんか? サー・ロバート。
 サー・ロバート 何ですって?
 キャサリン この件では、そちらもある犠牲をお払いになったのではありませんか?
(間。)
 サー・ロバート あの職のあの衣装は私には似合いません。
 キャサリン そうでしょうか。
 サー・ロバート(毒を含んで。)カリーの奴! 私は必ず彼を法曹界から追放してやります。
 キャサリン どうぞそれはなさらないで。あの人が私に話してくれたお陰で私、大変助かりましたもの・・・
 サー・ロバート このことを決して誰にも洩らさないと約束して下さらねば。そして、あなた自身もこれを忘れると。
 キャサリン 私は決して洩らしません。ただ、忘れることはお約束出来ませんわ。
 サー・ロバート いいでしょう。もしあなたがロマンチックな線から、このつまらないことを胸に秘めておかれるのでしたら。それはそちらの勝手です。私はもう行かねば。(サー・ロバート、立上がる。)
 キャサリン どうしてそのように、胸の内の真実を他人に知られないよう、そんなに腐心(ふしん)なさるのですの? サー・ロバート。
 サー・ロバート 私が? 腐心している?
 キャサリン ええ、ご自身、よく御存じですわ。何故ですの?
 サー・ロバート 胸の内の真実というものを私が知らないからでしょう、きっと。
 キャサリン それは答になりませんわ。
 サー・ロバート おやおや、これは裁判での尋問ですね。
 キャサリン ええ、この件ではそうです。何故そんなに御自分の感情を恥となさるのです?
 サー・ロバート 何故なら、弁護士として、私はどうしてもそれを排除せねばならないからです。
 キャサリン 何故。
 サー・ロバート 感情を下敷きにして事件を争うことはつまり、その裁判に負けるということだからです。感情は必ず筋道を失わせます。冷たい、透明な論理・・・そしてそれだけが・・・弁護士の武器なのです。
 キャサリン 今日判決の時流された涙は・・・では、冷たい、透明な論理だったのですか?
 サー・ロバート きっと、女中さんからですね? それをお聞きになったのは。まあいいでしょう。明日の新聞にはどうせ書かれてしまうんですから。(乱暴に。)よろしい。もしあなたがどうしても知りたいのであれば。私は今日泣いた。何故なら、「権利の回復をなさしめよ」が実行されたからです。
 キャサリン 正義の回復ではなく?
 サー・ロバート ええ、正義ではありません、権利です。正義がなされるのは容易です。権利は難しい。正義の要求は知的なものですが、権利の要求は何故か情がからむものです。そして裁判所ではこれが、不幸なことに、涙を誘うものになる。これが私の答、私の言い訳です。これで証言台から下ろして戴けますね?
 キャサリン いいえ、あと一つだけ質問があります。保守党一の信念をお持ちのあなたが、何故王を相手どってまでウィンズロウを支持することが出来たのか、その理由をお聞きしたいですわ。
 サー・ロバート それは簡単です。いかなる党といえども、個人の自由を犯すことは出来ません。この問題に関しては、あらゆる党の意見は一致している筈です。
 キャサリン いいえ、すべての党ではありません。一つの党から選ばれた、少人数づつの人達だけですわ。
 サー・ロバート それは面白い発言です。では、その選ばれた少人数で、いつも充分な数であることを期待するしか手はありませんね。あなたは有能な弁護士になられますよ。
 キャサリン そうでしょうか。
 サー・ロバート ええ。(冗談まじりに。)あなたの女性的な感覚を法曹界に適用してみませんか? ミス・ウィンズロウ、既に敗北と決った女性参政権運動は止めて。
 キャサリン 敗北と決ってはいません、女性参政権は。
 サー・ロバート 決っていない? するとまだお続けになるつもりで?
 キャサリン 勿論。
 サー・ロバート 人生を無駄に過すことになりますよ。
 キャサリン そう思ってはおりませんが・・・
 サー・ロバート 残念です。それでは、いつの日か、下院の傍聴席にあなたの姿をお見かけするのを待つと致しましょう。例の魅惑的な帽子を被ったあなたを。
(ロニー登場。今は十五歳になっている。若者と言われる年になってきていることが見てとられる。ホンバーグ帽(つばが巻き上がって、山の中が窪んだフェルト帽)に、背広服。非常にスマート。)
 ロニー すみませんでした、サー・ロバート。起ったことを全然知らなかったのです。
 サー・ロバート どこにいたんだい? 君は。
 ロニー 活動です。
 サー・ロバート 活動? 何だい? それは。
 キャサリン 活動写真・・・映画・・・です。
 ロニー 本当にすみませんでした。・・・エーと・・・僕達、勝ったんですね?
 サー・ロバート うん、勝ったんだ。さようなら、ミス・ウィンズロウ。ではいつか、下院で御会い出来ますね?
 キャサリン(微笑して。)ええ、サー・ロバート、いつか。でも、傍聴席ではありませんわ。私は革新党の議員席で。保守党のあなたと対決して。
 サー・ロバート(微かに微笑む。)そうですね、ひょっとすると。では。(サー・ロバート、振り返り、歩き始める。)
                    (幕)

  平成十八年(二00六年)四月十九日 訳了

http://www.aozora.gr.jp 「能美」の項  又は、
http://www.01.246.ne.jp/~tnoumi/noumi1/default.html


The Winslow Boy was first produced at the Lyric Theatre, London, on May 23rd, with the following cast:

Ronnie Winslow Michael Newell
Violet Kathleen Harrison
Arthur Winslow Frank Cellier
Grace Winslow Madge Compton
Dickie Winslow Jack Watling
Catherine Winslow Angela Baddeley
John watherstone Alastair Bannerman
Desmond Curry Clive Morton
Miss Barnes Mona Washbourne
Fred Brian Harding
Sir Robert Morton Emlyn Williams

The play directed by Glen Byam Shaw.

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Agent-Japan: Martyn Naylor, Naylor Hara International KK 6-7-301
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These are literal translations and are not for performance. Any application for performances of any Rattigan play in the Japanese language should be made to Naylor Hara International KK at the above address.





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