「われらの平和」
            ノエル・カワード 作
            坂本進 能美武功 共訳

(題名に関する訳註 原題は "Peace in Our Time" で、括弧もついている。これは芝居中のフレッドの台詞にある通り、一九三八年、ヒトラーと会談した当時の英国首相が、イギリス国民に対して行った演説の中にあった言葉。カワードは勿論、皮肉の意味で用いている。)


  イングラム フレーザー氏へ

親愛なるイングラム様
「われらの平和」の構想を練り執筆を進める間、貴台から賜った計り知れぬほどのご支援と専門的なアドヴァイスに対するささやかな感謝のしるしとして本書を捧げます。
 イギリスが占領されたという想定で、これに対する自由イギリス軍、アメリカ軍、自由フランス軍そしてドミニカ軍による「ブルドッグ作戦」という想像上の国土奪還戦争を、貴台が大変な苦心の末に考え出され、また戦闘の場所についても具体的に想定されていたお蔭で、この劇の最後のシーンをどのように演出したらよいかがはっきり致しました。
 また、貴台の「レジスタンス運動」に対する知見と、細部を素早く正確に捉える「眼」の助けを借りなければ、劇中の多くの会話がわかりにくく、不明瞭なものになってしまったことでしょう。実の所、これも貴台のお蔭で、想定されるぎりぎりの範囲内で、それらは実に正確であったと思います。とにもかくにも貴台に「感謝!」あるのみです。
N.C.

(この劇のすべての場面はナイツブリッジとスローンスクエアの間に建っていると想定したパブ「シャイ・ガゼール」のサロン‐バーで演ぜられる。)

第一幕
第一場 一九四0年十一月 午後八時半頃
第二場 一九四一年 六 月 午後二時半半頃
第三場 一九四二年一月 午後九時半から十時の間
第四場 一九四二年 二月 午後九時半頃

第二幕
第一場 一九四五年 一月 午後九時
第二場 一九四五年 二月 午後五時半から六時の間
第三場 三日後 午後二時半頃
第四場 一九四五年 五月 午後の早い時間

     第 一 幕
     第 一 場
(時刻は一九四0年十一月のある日の夕刻八時半頃。この劇のすべての場面はナイツブリッジとスローンスクエアの間にある小さなパブのサロン‐バーで演ぜられる。パブの名前は「シャイ・ガゼール」。)
(舞台はすべてこのサロンバー。観客側から舞台を見ると、左手手前から奥に向かってバー・カウンターが伸びている。左手奥には小部屋(原文ではアルコーヴ。)があり、ここには台所への入口とパブの二階客室へ登る階段がある。階段の端の部分がちょっと見えている。)
(舞台奥右手には廊下と勝手口につながる小さなドアがある。この廊下には男女それぞれの洗面所がある。)
(舞台右側の壁には二つの窓があり、その下に外の道路に面した扉がある。)
(舞台左側手前のカウンターの背後には、パブの大衆用バー(以下「広間」と訳す。)に向かってハッチが開いている。これは飲み物等の給配用の窓で普通は開けてある。)
(「シャイ・ガゼール」の主人フレッド・シャトックは、愛敬たっぷりで人付き合いのいい感じの男。五十歳前後。一九一四年から一九一七年の世界大戦で毒ガスを受けた。が、軽微な傷害ですんだ。一九一九年に退役し、その後はパブで仕事をしている。ノラと結婚。)
(ノラ・シャトックはもの静かでしっかりした女性。フレッドより一〜二歳若い。髪の色はグレーで身のこなしがすばらしく美しい。言葉のアクセントから彼女の出身が南ロンドンであることが分る。フレッドのアクセントには特に目立った特徴が無い。彼は長年にわたる読書家であり、自分なりのしっかりした考えを持っている。)
(ドリスは彼等の娘で二十一歳。可愛らしく機転の利く娘。速記者としての専門教育を受けてきているが、空いた時間はカウンターの中に入って両親を手伝っている。)
(幕が開くと、フレッド、ノラ、ドリスの三人、カウンターの中にいる。サロン・バーがかなり混んでいる。)
(ドリスは舞台左手カウンターの背後のハッチから「パブ」の中の見えない客との応対に忙しい。)
(サロン・バーで飲んでいる客は以下の通り。)
(ライア・ヴィヴァン。かなり目立った容貌の三十五歳の女性。キャバレーの踊り手でそれなりの評判を得ている。田舎の金持ちの家に生まれ、言葉通りに言えば一応「レディー」といってもよい。道徳面で言えば彼女は一九二0年代初期に吹き荒れた熱風の犠牲者といえるかもしれない。この頃彼女はかなりおおっぴらに、そして鷹揚に、自分の帽子をいろんな男の頭の上に投げかけ過ぎたようだ。彼女の連れはジョージ・ボーン、三十代後半の爽やかな風貌の男。途切れ途切れながらここ二年間彼女の愛人を続けている。しゃれ者で金持ち、そして誰が見ても完璧な仕事嫌い人間。)
(ジャネット・ブレイド。質素な身なり、普通の容貌の四十女。声がすばらしく奇麗だが、どこか光を失った印象を与える女性。原因ははっきりしている。一人息子のアンガスが最近行われたブリテン戦役(訳註 架空の戦役。)で銃弾を受け戦死したからだ。)
(コーリー・バニスター。「知識人」であることにこだわっている。それも文字通りというより自分が読書家であり、インテリで「新思潮」という名前の上流雑誌の編集をしているというだけのことなのだが。彼の会話は気障だし挑戦的すぎる嫌いがある。道徳面で欠ける所が有り、すぐ逆上する。しかし時としてウィットに富んだ発言をすることもある。)
(グレインジャー夫妻。ごくありふれた夫婦。窓の近くのテーブルに坐っている。この他名前の分からない男女の一組がカウンターに坐っている。これらは常連の客である。いろいろな面で、主として地理的な理由からであるが、彼等はこの「シャイ・ガゼール」を支えている。彼等は殆どが半径一マイル前後の中に住んでいる。時々名前の分からない顧客がパブにやってくると一杯か二杯飲んでまた去って行く。)
(店全体に客達の会話の低いざわめきが満ちている。ミスィズ・アルマ・ボートンが道路側から入ってくる。彼女はおしゃれでおしゃべりな、三十代後半の女。)
 アルマ 今晩は、ジャネット。
 ジャネット ご機嫌よう、アルマ。
 アルマ(カウンターの方に行き)今晩は、ノラ。ご機嫌よう、フレッド。
 フレッド いらっしゃい、ミスィズ・ボートン、木曜まで帰っていらっしゃらないと思ってましたよ。
 アルマ 思ったより早く済んじゃったの。だけどリーズなんて最低。寒いったら無かった。ああそうそう。知ってる? ノラ。連中、クイーンズ・ホテルを徴用してしまったわ。
 ノラ 目は確かなのね、あの人達も。いつだって最高のホテルに手をつけるわ。
 フレッド いつものですか? 奥さん。
 アルマ うん、お願い。でもソーダはちょっとだけにしてね。私、冷えきってるから。
(フレッド、ウイスキーの小さなグラスを出す。)
 ジャネット 汽車の旅、相当ひどくなっていた? これ、あなたの持論だったけど。
 アルマ それがね、びっくりしちゃうぐらい良かったの。バーミンガムまでは私一人で一車両独占よ。(一口飲み物を啜る。)
 フレッド 時間どおりに来ましたか? 汽車は。
 アルマ(ちょっと笑いながら)勿論。・・・完璧な能率。
 ドリス(ハッチの向こうに)マイルド二杯と辛口一杯ですね。全部で二シリン グ七ペンス頂きます。
 ミスター・グレインジャー ポート・ワインをもう一杯いくかね? かあさん?
 ミスィズ・グレインジャー いいえ、もう沢山。
 アルマ コートは脱がなくちゃ。このまま暖まっちゃってると、外に出た時風邪引いちゃうわ。(部屋の中央を横切って、コートを掛ける。)
 ミスィズ・グレインジャー 貴方、もう一杯やるんだったらどうぞ。急いで帰ることないわ。
 ミスター・グレインジャー うん。ミスター・シャトック、マイルド一杯と辛口一杯お願いします。
 ノラ マイルド一、辛口一! 息子さんのことで、何かお便りありました?
 ミスター・グレインジャー ええ。変なんですけど、はがきが来たんです。それも丁度今朝。
 ノラ また例の、印刷した手紙なんですね?
 ミスター・グレインジャー そうなんですよ。「僕は元気です」って書いてあるだけ。
 ノラ でも、それでも、何もないよりは・・・
 ミスター・グレインジャー ええ、そうです。ミスィズ・シャトック。
 男 お休み、ミスター・シャトック。
(男と女店を出て行く。)
 ライア ジョージ、今何時?
 ジョージ(腕時計を見ながら) 十五分前だね。
 ライア もう一杯行く時間だわ。その後、この素敵なパブに私の全てを捧げるの。
 ジョージ あと二杯頼む、フレッド。
 フレッド OK!(ジンライムを二杯作る)
 アルマ ショーはうまく行ってるの?(カウンターを横切ってきて。)
 ライア 大入りよ。みんなあまり笑わないけど、それなりに楽しんでいるみたい。でもディナーショーは最低。詰め物をした鯉料理みたいに黙って坐っているだけ。でも、夜中を過ぎるとちょっとましになる。皆少しリラックスできるみたい。
 ノラ 喜んでやりたい仕事じゃないわね。まあ、私だったら。(カウンターを出る。)
 ライア そう。あんまりやりたい仕事じゃない。私だって。
 ノラ グレインジャーさんのところ、息子さんからはがきが来たの。彼はまだあそこ、ワイト島にいるのよ。
 ジョージ まあ、一生涯あそこにいるんだろうな、彼は。 ジャネット タバコある? フレッド。
 フレッド ちょっと底をついてきているけれど、いつもあなた用にひと箱は取ってあるんです。プレイヤーズでしょ?
 ジャネット ええ、そう。
 アルマ 私ので良かったら、どうぞ。
 ジャネット 結構よ。吸い口つきのは苦手なの。
 アルマ 朝から晩まで書いてらっしゃるの?
 ジャネット ええ、その方が暇がつぶれて。
 アルマ それで・・・進んでます?
 ジャネット あと五章。それでお仕舞いなんだけど。
 アルマ クリエイティブな仕事が出来るなんて素敵ですわ。それもこんな時期に。
 ジャネット 今あたしが書いているのは、馬鹿なもの。ちっともクリエイティブなんかじゃ ない。光るものもないし、面白くも無いわ。暇つぶし。さっき言った通り、本当に暇つぶし。
 コーリー(ノラに)ミスター・パックストンから、本当に電話無かったんだね? 伝言も・・・
 ノラ 絶対間違い無いですわ。ミスター・バニスター。あの方のこと、このところずっと、何も聞いていませんわ。顔も見てないぐらい。
 コーリー 世の中で嫌なものを一つだけ挙げろっていったら、約束をしておいて、それを忘れちゃう連中だね、僕は。
 ジャネット 私、嫌なものなんて一つじゃきかないわ。
 コーリー だけど、これがやりきれない話だってことは分ってるだろう? 何しろ僕は七時半から此処に坐って飲み続けているんだ。いい加減頭がくらくらしてきたよ。
 ノラ ミスター・バニスター、あなた、たった二杯しか飲んでらっしゃらないわ。それにダブルでもないし。
 コーリー 失礼、ノラ。この居心地のいいバーのサービスに文句をつける気なんかさらさら無いんです。それじゃ、お詫びにダブルを一杯もらいます。ジャネット、一杯付き合わない? ミスィズ・ボートンも。こう黙って一人で飲んでいてはいかん。精神衛生上、良くない。
 アルマ それじゃ、ウイスキー・ソーダを一杯頂くわ。あなたの精神衛生のために。
 ジャネット 折角だけど、私はたくさん。九時のニュースが終わる頃には家に帰ってもう一仕事しなくちゃ。
 コーリー 九時のニュースのあとは、僕は仕事は駄目だな。ひどく気が滅入ってね。
 ジャネット 気が滅入るだけであって欲しいわね。
 コーリー いや、実際は気が滅入るぐらいじゃすまされない。このところ何か書くっていうのはどんどん難しくなっている。仄(ほの)めかし、中傷、悪口・・・とにかく噂、噂、噂だ。雨あられの中に閉じ込められながら生きているようなもんだよ。
 ジャネット(そっけなく)だけどあなたの雑誌、随分好調じゃない? 無理もないわ、ちゃんと必要なところは意見を変えてきているんですからね。
 コーリー(やや言葉を荒げて)意見を変える? とんでもない。僕の雑誌「新思潮」は、思ったままを言うのが主義だ。
 ジャネット 思ったまま、つまりあなたが思った通りを書くって言うことね。
 コーリー 当たり前だ。僕が編集者だし、僕がやっているんだ。
 ジャネット(向こうを向きながら)そう。当たり前よね。 ライア こういう非常時に編集者でいるんですもの、少しはズルをしなくちゃ。ね? コーリー。
 ジョージ ライアは紙不足を乗りきる話をしたんだ。そうだな?
 コーリー(不機嫌に)ライアの言う事なんかに意味があるもんか。マイクに向かって苦しげに歌っている時は別だけどね。もっともその時も同じようなものか。
 ライア 何言うの? コーリー。ひどい侮辱。ねえジョージ、あなた、自分の恋人がこんな失礼な事を言われているのよ。言った男を放っとくつもり? この野郎って殴り倒してくれないの?
 ジョージ 彼と一緒にオックスフォードにいる頃は、よく殴り倒したものさ。でもこいつ、ちっとも直りはしなかった。
 コーリー あれは不公平だったな。だって君の方がずっと若かったんだ。
 ライア 哀れなコーリー!
 コーリー 「哀れ」? 僕の収入はまあまあだぞ、ライア。文学界での僕の地位も堅固不抜だ。「哀れなコーリー」は撤回して貰いたいな。
 ジャネット あらまあ、あなたの文学界での地位は堅固不抜なの? こんな素晴らしい話、聞いたことがないわね。
 コーリー いいかジャネット、僕は君についさっき、一杯おごろうって言った男だぞ。それは飼い主の手を噛む猫ってやつじゃないか。
 ジャネット そのおごり、受けなかったもの、私。
 ライア この人一人で置いておきましょうよ、ジャネット。苛々、苛々・・・付き合っていられないわ。(コーリーに)困った時の神頼み。そして神様は今度もまたボビー・パクストン。そういうこと?
 コーリー 言い過ぎだぞ、ライア。いくらなんでもそいつは酷い。
 ライア ボビーはとっても人当たりがいいの。本当に人当たりがいい。気をつけなきゃ駄目よ、コーリー。
 コーリー キャバレーの歌い手などといういかがわしい職業の人間が、人様の仕事の話に突っ込んでくる権利があるとは思えませんがね。いくらその古風な貴族風のその鼻でも。
 ライア(笑いながら)今の話で気が利いてたのは「古風な貴族風の」という言葉ね。それ、ちょっと気に入ったわ。
 コーリー ほほう、キャバレーという所は、芝居がかった表現の能力を訓練する最適の場所だったのか。そいつは知らなかったな。
 ライア 芝居がかった表現能力なんてあるわけないでしょ。私の能力、それはさっきあなたが言った通り。マイクに向かって苦しげに歌う能力、それだけね。
 コーリー 君が社会のある特別な階層にはアピールしている事は認めるよ。ライア。アマチュアはそんなもんなんだ、だいたい。
 ジョージ(鋭く)コーリー、今度は君の言い過ぎだ。僕は今でもあんたより若い。その気になればいつだってあんたを殴り倒せるんだ。いいか、ライアはアマチュアじゃない。彼女の歌は一流さ。
 ライア ジョージ、なんて素敵なの。あなたほんとに怒っているのね。
 ジョージ 出よう。もう時間だ。
 コーリー ジョージ! この僕を殴る気になっただと? 馬鹿なことを口走ったもんだ。いつかお前さんがどうなるか、よく覚えておくんだな。
 ノラ さあ、さあ、みなさん、落ち着いて。ここで喧嘩はいやですよ。
 ジョージ その通りだ、ノラ。よく分ってる。(コーリーに)その脅し文句、忘れないぞ、コーリー。僕に言わせればそっちこそ無分別もいい所だ。
(ジョージ、ライアの腕を抱えて、席を立とうとする。その時、ハンサムで身なりのいい男が通りから登場。ジョージとライアは身動きせず今までいた所にとどまる。グレインジャー夫妻の低い会話の声が突然止まる。ハッチから身を乗り出して向こう側の見えない客とお喋りしていたドリスが肩越しに振り向き、話を止め、ハッチの窓を閉める。通りに通じる扉からアルベルト・リヒター登場。バーの方に進む。)
 アルブレヒト 今晩は。
 フレッド いらっしゃいませ。
 アルブレヒト ウイスキーソーダを。
 フレッド ダブルですか?
 アルブレヒト シングルで頼む。
(フレッド、黙ってウイスキーをコップに注ぎ、炭酸水の壜を渡す。アルブレヒト、自分で炭酸水を入れ、掻き混ぜる。)
 フレッド 一シリング六ペンスです。
 アルブレヒト(支払う。)有難う。(機嫌よくコップを持ち上げて。)乾杯!(煙草を取り出して。)火はあるかな?
(フレッド、マッチを渡し、後ろを向く。)
 アルブレヒト 有難う。
(アルブレヒト、ニコニコしながら、客の一人一人を見る。誰も何も言わない。ちょっと嘲るような笑いを浮べて、ウイスキーソーダを飲む。皆の沈黙に全く気づかないかのように、バーの上に飲み干したコップを置く。)
 アルブレヒト フム・・・では失礼、ミスィズ・シャトック。
 ノラ お休みなさい。
 アルブレヒト(フレッドに。)では。
 フレッド お休みなさい。またどうぞ。
(アルブレヒト、後ろ手にきっちりと扉を閉め、退場。)
(暫く沈黙続く。それからノラが言う。)
 ノラ(フレッドに。)「またどうぞ」なんて・・・よく言うわね。
 フレッド 客だからな、あれでも。
 ドリス(ハッチのところに戻って。)そう悪い人相じゃなかったわ。
 ノラ 顔のことなんか問題じゃないでしょう。
 ライア 厭な奴。・・・でも、可哀相でもあるわね。
 ジャネット(冷たく。)どうして。
 ライア 誰からも構って貰えないんですからね。
 アルマ こっちのせいじゃないわ。
 コーリー あっちのせいでもないけどね。
 ジャネット 随分鷹揚な意見ね、それ。
 コーリー どんな場面でも、多少の寛大さは悪いものじゃない。
 ジャネット その意見には私、反対。
 コーリー 分った、分ったよ。いいか、物を常識の線にまで落して考えればだ・・・
 ジャネット 臆病から来る卑怯が、どうして常識の線にまで落せるのか、全く納得がいかないわね。
 コーリー いいか、ジャネット、言っておくがね、君に納得がいかない事ってのは多すぎる。それだけのことだよ。
 ジャネット(急に怒って。)もう議論は止め。何て話!・・・フレッド、私にもう一杯頂戴。アルマは?
 アルマ 私も戴くわ。
 フレッド 同じもの?
 ジャネット ええ、そうして。
 フレッド(作りながら。)もうそろそろ九時だ、ノラ・・・スイッチを入れて。
(ノラ、バーの端にあるラジオまで行き、スイッチを入れる。)
 ライア 私達、もうそろそろ行かなくちゃいけないわ、ジョージ。
 ジョージ ニュースの出だしだけは聞いて行こう。遅くはならない。外にタクシーを待たせてある。
 ライア 分ったわ。
(ラジオからビッグベンが九時を打つ。)
 ノラ(打っている間に。)この音がまだ、世界中で聞こえているって、何か奇妙な感じ。
(九時が鳴り終ると、アナウンサーが話し始める。)
 声 こちらはBBCです。ニュースを申し上げます。今日未明、大型輸送船団がUボートによって攻撃を受けました。これに関する詳細を後ほどお伝え致します。この二十四時間、空襲はありませんでした。以前にもお伝え致しましたが、国会の再開を祝う軍隊によるパレードが明日行われます。見物席を予約してある観客は、八時三十分までに、当該予約座席に着席して下さい。遅刻した場合、座席が確保されない場合があります。軍隊によるパレードは、九時三十分きっかりに、ハイドパークを出発し、コンスチチューション・ヒル、ザ・モール、トラファルガー・スクエアー、ホワイト・ホールを通り、ウエスミンスターに到着します。バッキンガム宮殿の一般客席を過ぎた後、九時四十二分丁度に、パレードの先頭に近衛部隊の護衛のもと、オープンカーが加わります。最初のオープン・ランドー・カーには、総統が乗っておられます。またその後の車には、空軍司令官ゲーリンク、そして、ドクター・ゲッペルス、続いて陸、海、空軍の、主要な将校達の乗る車が続きます・・・
             (暗転 一幕一場 終)

     第 一 幕
     第 二 場
(一九四一年六月。)
(午後二時半頃。)
(バーの後ろにフレッドとフィリス・ミア。ドリスはいない。サヴォイの受付の仕事があるからである。二階の部屋で丁度昼食が終ったところ。時々モーディーが盆を持って下りて来て、フレッドから飲物を受け取って、また上って行く。)
(バーにはグレインジャー夫妻のみ。二人はいつものテーブルに黙って坐っている。二人の前にはビールのコップが二つ。夫の方は新聞を読み、妻の方が煙草をふかし、空中を見つめている。)
(フィリスがハッチから顔を覗かせて、観客から見えない「広間」の客と話している。)
 フィリス(見えない客に。)それで?
(「広間」から、客のムニャムニャという声が聞こえる。)
 フィリス まあ、何てこと・・・こっちが言ってやりたいわね、その言葉。(またあちらから何か言うのが聞こえる。)OK。(フレッドに。)マスター、マイルド、もう二つ。
 フレッド(二つ取り出しながら。)OK。
 フィリス(会話を続けて。)連中に道理を言って聞かせたって無駄よね。ミスター・ロウチの話だってそうでしょう?・・・(あちらから何か声。)そうよ。あの人、別に何もしやしなかった・・・そう取り立てて言う程のことは、何もしちゃいないのよ・・・
 フレッド さ、マイルド二つだ。
 フィリス はい。(受け取って、ハッチから出す。)エート、それでいくらかな・・・一シルと八、一シルと八・・・三シリング四ペンス戴きます。(ちょっとの間の後、金がハッチから出てきて、フィリス、それを箱の中に入れる。)あ、有難うございます。(訳註 これはチップに対する礼。)・・・じゃ、また・・・さよなら。(フレッドに。)ミスター・ロレンスとお友達の人、タクシー運転手の。・・・夕べ、アールズ・コートで一悶着あって、その話をしてくれたんです。
 フレッド 一悶着って、どんな?
 フィリス いつもの、です。
 フレッド どっちか、怪我したのか?
 フィリス ええ。
 フレッド あっちの方?
 フィリス ええ。その人将校だったの。それで、ミスター・ロレンスのそのお友達のタクシーのところにやって来たの。そしてマイダ・ヴェイルに行ってくれって言ったんだって。だけど、丁度ガソリンが少なくて、自分の家のワンズワースまでしか行けないぐらいだったの。そのことをその将校に言ったのよ。そしたらそいつ、脅したり小突いたりし始めたの。で、とうとう怒っちゃって、そいつの顎に一発食らわして、溝の中に叩き込んじゃったの。それから、さっと車に乗って逃げちゃったの。
 フレッド 誰か見てなかったのかな。
 フィリス いいえ、グローヴの辺りの人通りのない道だったって。
 フレッド 車のナンバーを覚えられていないかな。
 フィリス それは大丈夫な筈って言ってたわ。辺りは暗かったし、顔を下にしてのびていたからって。
 フレッド とにかく、この話は黙っていた方がいいぞ。お前も。
 フィリス はい。
 フレッド それに、ミスター・ロレンスにもそう言っておくんだぞ。その友達にもね。
 フィリス 土曜日、どうなるんですか? マスター。
 フレッド 何だい? 土曜日って。
 フィリス ドリスはサヴォイでの仕事、一時からないんでしょう? 帰って来るっていう話だった。だから私、午後から休んでいいのかなって。
 フレッド ああ、いいよ。
 フィリス 有難うございます、マスター。
(モーディー、二階からコップの盆を持って下りて来る。)
 モーディー はいマスター、コップです。
(モーディー、また階段を上って退場。)
 フィリス(ハッチから覗いて。)「広間」には誰もいません。・・・閉めましょうか?
 フレッド もう二、三分待って。まだ時間になってない。
(フィリス、ハッチの辺りをブラブラ歩きながら、鼻歌を歌う。ミスター・グレインジャー、新聞を手にしてバーに近づいて来る。)
 ミスター・グレインジャー 読みますか?
 フレッド もういいんですか?
 ミスター・グレインジャー ええ・・・私は終りましたから。
 フレッド 何かニュースありましたか?
 ミスター・グレインジャー 皇室について、ちょっと。
 フレッド どんなことです?
 ミスター・グレインジャー みんなあそこで、これから先ずっと暮すことになるそうです。皇室一家全員。
 フレッド ウィンザーで?
 ミスター ええ。公園での、女王とエリザベス王女の写真がありました。背景に護衛が見張っているのが分りますよ。
 フレッド どんな顔をして撮っているのかな・・・女王様。(新聞で捜して。)ああ、ここだ。
 ミスター・グレインジャー 悲しそうな顔ですね。・・・でも、顎の位置・・・意気軒高です。
 フレッド 王と女王が意気消沈するってのは、まづイギリスでは無理でしょう。
(フィリス、フレッドの肩越しに新聞を見る。)
 ミスター・グレインジャー 全く厭になりますね。・・・いや、実に。
(男一人と女一人、二階の食堂から下りて来る。バーを横切って、通りに出る。)
 男(出て行く時。)ごちそうさま。
 フレッド(機械的に。)毎度。
(二人退場。)
 フレッド 息子さんから何か連絡、ありましたか?
 ミスター・グレインジャー いいえ。あの子はまだあそこにいる・・・それだけです、私達が知っているのは。
(通りへ通じる扉が開いて、アルマ・ボートン登場。厭なことがあった時の緊張した顔。)
 アルマ 遅過ぎたかしら。ブランデー一杯欲しいんだけど。
 フレッド いいえ、ミスィズ・ボートン。まだ三時になっていませんから。
 アルマ じゃ、お願い。
 ミスター・グレインジャー(アルマに。)今日は。
(フィリス、鼻歌を歌い始める。)
 フレッド(アルマにブランデーを注ぐ。フィリスに。)それ、止めて、フィリス。(アルマに。)何かあったんですか?
 アルマ いいえ・・・何も。
 ミスター・グレインジャー じゃ、私はこれで。また今夜。(ミスィズ・グレインジャーのテーブルに近づいて。)出られるね? お母さん。
 ミスィズ・グレインジャー(立上りながら。)ええ。
 アルマ さようなら。
(二人、通りへ通じる扉から退場。)
(アルマ、二人が出て行くのを見る。)
 アルマ 本当につましい夫婦ね。いつ来てもあの二人はここにいる。沢山飲む訳でもないし、他の客と話す訳でもない。あの二人で喋っていることだってあるのかしら。何の仕事をしている人なの?
 フレッド 仕事はなし。スローン街のちょっと外れの二DKに住んでいる。一九三九年には三人の男の子がいた。しかし今残っているのは、ワイト島の収容所にいる一人だけ。映画に時々行くのがあの夫婦の楽しみ・・・
 アルマ(コップを上げて。)「いいことがありますように、フレッド」・・・乾杯。・・・「幸せな日々に」とは言えないわね、この調子じゃ。
 フレッド その通りですね、全く。
 アルマ これが終る時があるのかしら。
 フレッド 戦争のことですか?
 アルマ いいえ、・・・この状態が・・・
 フレッド 終りは来なくちゃいけません。何としてでも。でも、その時まで、私達が生きているかどうか。それはまた別の問題です。
 アルマ 私は生きてその日を見たいわ。・・・何が何でも、その日は見届けたいわ。
 フレッド 私もです。
 アルマ もう一杯いいかしら。
 フレッド(驚いて、眉が上る。)いいですよ。
 アルマ 驚いた顔をしないで、フレッド。一壜飲んでしまう訳じゃないのよ。
 フレッド ちょっとピリピリしていらっしゃいますね。何かあったんですか。
 アルマ それ、さっきも聞いたわ。
(フィリス、また鼻歌を始める。)
 フレッド そうでしたね。(フィリスの方を向いて。)もう窓を閉めていい、フィリス。二階へ行ってミスィズ・シャトックを手伝って。
 フィリス(ハッチを閉めながら。)OK、マスター。
(フィリス、二階へ行く。)
 アルマ(微笑んで。)あまり言うことはないの、本当に。私個人に関することじゃないから。
 フレッド そうですね。自分以外のことを喋るのは最近では危なくなってきていますね。
 アルマ ええ、そう。
 フレッド 憤慨していらっしゃるんですね? 何なんです?
 アルマ ちょっとしたこと。・・・いつもこのところ、普通に起きていること。(ブランデーをすする。)私、ジョン・メイスン社のための買付けの仕事をしているでしょう? あちこち、いろんな所へ行かなくちゃならない・・・
 フレッド ええ、そうでしたね。
 アルマ その買付け先の一つに、ミスター・オークリーという人がいるんです。いい人で、半分ユダヤ人。皮を染める仕事をしている。今朝私、そこへ行って・・・エッジウエアー街をちょっと先に行ったところ・・・行ってみたら二人、店の前でゲシュタポが立っていて、もう一人は店の中。丁度ミスター・オークリーを引き立てて行く所だった。
 フレッド どういう理由で・・・って言ってました?
 アルマ あの連中に質問? 何か意味があるかしら。
 フレッド 連中にその人、殴られていましたか?
 アルマ いいえ、見たところは。私、奥さんを慰めてあげようとした。・・・でも、もう決めてかかっていたわ。きっと死ぬまで拷問にかけるって。もう二度と旦那さんには会えないって。
 フレッド もっともっと多くなる筈ですがね、これに類する事件は。
 アルマ 多くなる?
 フレッド ええ、そうなる筈です。
 アルマ つまり連中の「よい行儀」作戦は続かないと思っているのね?
 フレッド ええ。あなたはどう思います?
 アルマ 成行き次第でしょうね。確かに今のところ、連中の思惑通り進んでいる・・・ええ、「よい行儀」作戦が。ドイツシンパに変って行く人間が日に日に増えているわ。
 フレッド 生まれつき馬鹿に生まれている人間がいるってことですね。
 アルマ 自分ではとても馬鹿だとは思っていないの。却って利口だと思っているんだわ。
 フレッド(疲れたように。)そう。利口かもしれない、連中の方が。
 アルマ(ショックを受けて。)フレッド!
 フレッド ああ、誤解はなしですよ、ミスィズ・ボートン。私は連中と何の関係も持つつもりはありません。ただ、だんだんと、連中の考え方が分るようになってしまって・・・とにかく生きて行かなきゃなりませんからね。そうでしょう?
 アルマ 息子さんは生きる道を選ばなかったんでしょう? ブリテン戦役で戦死して・・・
 フレッド ええええ、分ります。・・・もうこの話は止めましょう。
 アルマ ジャネット・ブレイドの一人息子も戦死したんですよ。ジャネットだって、あなたの奥さんだって、あなたがあんな風に喋るのを聞いて、嬉しい気持はしない筈だわ。
 フレッド 私はどんな風にも喋ってはいませんよ、ミスィズ・ボートン・・・私はただ、物事をはっきりと見ようとしているんです。偏見を入れずに見ようと。私は卑怯者は嫌いです。これは他の誰もと同じ。議論の余地はありません。
 アルマ 議論の余地がないって?・・・その逆でしょう? 誰が卑怯か、そればかりじゃない、議論って言えば。
 フレッド ここでは議論にはなりません、それは。
 アルマ 本当に? きっとそう?
 フレッド 私自身はお客の意見には責任を持てませんからね。
 アルマ(後ろを向いて。)まあ、フレッド。
 フレッド 今のこの時期に責任を持てって言うんですか?・・・それはちょっと無茶では・・・
 アルマ いいえ、無茶を言おうって言うんじゃないの。今信じているもの・・・いえ、今までずっと信じて来ていたものをそのまま保持するかどうかの問題なの。
 フレッド 私は今までずっと信じてきていたものがあります、ミスィズ・ボートン。それはこの国の人達は世界中で最も素晴らしい人達だっていうことです。
 アルマ それをもう信じていないっていうこと?
 フレッド いえ、勿論信じています。でも、お分りでしょう?・・・
 アルマ 分らないわ。
 フレッド じゃ、喋ります、ミスィズ・ボートン。
 アルマ 聞きますわ。
 フレッド(非常な努力をもって、やっと話す。)私の見るところはこうです。私達は世界中で最も素晴らしい人間だった・・・いいですね?・・・しかし、それでいい気になり過ぎたんです。そのためです、一九一八年に、もう決して戦争はしないと全員で誓ってしまった。その後次第次第に私達は、政治家にも新聞にも、この英国にエゴイズムを許すようになって・・・その結果なんです、今のこれは。一九三八年の暮になっても私達は通りで踊り明かしたりしたんですからね。ある馬鹿なお爺さんが、「われらの平和」を私達に約束したからという理由でです。私達みんな、「われらの平和」なんか、千に一つもありはしないと先刻承知だったにも拘らず、です。それから一九三九年に私達は、突然目が覚め、二進も三進も行かなくなっている自国の状態に気づいたのです。大砲はない、飛行機も充分にない、海軍は必要数の半分にも満たない。それで何が起ったか。汗と油と血に塗(まみ)れて働き、浜辺でも街路でも戦って、そのあげくやられてしまった。ブリテン戦役で敗北したんです。飛行機乗りの連中がベストを尽さなかったせいじゃない、ただ私達の愚かさのせいで、連中にはチャンスが与えられなかった。みんな撃ち落された。私の息子も他の何百という息子達も・・・それで私達は占領されてしまった。分りますか? ミスィズ・ボートン、何故私が今まで信じ続けてきたことをそっくりそのままは、もう信じられなくなったか。
 アルマ 辛い話ね。それにとっても感動的。でもねフレッド、私は感動しないわ。
 フレッド 誰かを感動させようと思って話したんじゃありません。
 アルマ あのブリテン戦役で、イギリスが勝っていた方がよかったって思っているのね? あなた。
 フレッド 勿論です。
 アルマ 私はそうは思わない。
 フレッド 何てことを! ミスィズ・ボートン。
 アルマ それは、アメリカとか他の味方の国にとっては良かったでしょうけど、イギリスにとってはちっとも良くはなかった筈。
 フレッド どうしてです? また。
 アルマ 自分達の勝利に酔って、どうせまた怠け者に戻るだけ。・・・空からの急襲を受け、爆弾を落とされ、その下で、なすところもなく降参・・・文明世界への良い恥曝し・・・それでイギリスは終りになっていたところ。現実はこれ・・・占領されている・・・まだチャンスはあるの。もうこうなったら暫くは階級闘争だの、企業紛争だの、政治的論争をやっている暇はないでしょう。イギリスは統一が出来るの。・・・そう、統一しなくちゃいけないの。・・・あいつらを追い出すまで。私達が、きれいに元通りになるまで。私、ブランデー、もう一杯だわ。
 フレッド(注ぎながら。)女性の議論で困るのは、その感情的っていうやつなんですよ。あなたもその・・・ちょっと感情的過ぎるんでは?・・・
 アルマ そんなに駄目なものかしら、感情論は。・・・知的な考えの方がそんなに感情論より上なのかしら。
 フレッド(ブランデーを渡しながら。)私はそう確信していますけど?
 アルマ それがどうかしらって、私は思っている。何世紀にも渡って世界に貢献してきたのは、知的考察より、感情論だったんじゃないかしら。
 フレッド 世界に害毒を流したのも感情論だった筈ですよ。
 アルマ ノラはどう?
 フレッド 大丈夫です。・・・ちょっと元気がないですが・・・チャーチルが死んだのがかなりこたえているようです。
 アルマ そう。チャーチルには感情論があったわ。・・・それがあの人のいいところ。
 フレッド 連中が絞首刑にしなかったのは、私は有難かった。銃殺の方が何となく清潔に・・・そう、威厳があるように見えます。
 アルマ そう。連中もそこは頭がよかったの。
 フレッド でも、チャーチル自身はそんなこと、気にしたでしょうかね? 実際の話になった時。
 アルマ 酷く気にしたでしょう。死とか敗北を知的に考える人だったとは私には到底思えないわ。
 フレッド 分りました・・・分りましたよ。・・・私の負けです。
 アルマ(非常な誠意を込めて。)フレッド、気をつけて。私、あなたの難しい立場が分っていないんじゃないの。・・・分っているの。ここに来る人達には、あなた、外面的には親切にしなければいけない。それは常識なの。でも、負けちゃいけないわ。連中のよく選んだ言葉、それに「よい行儀」作戦に負けちゃ駄目。連中は私達の敵なの。今だって、これから先だって。もし連中に愛想よくする方が得だと思っている人間がいたら、その人達は勘定に入らない、あてにならない奴等・・・この国全体から見れば、ほんの少数なんだって、そのことを決して間違えないで・・・
(ノラ、後ろの階段を下りて登場。)
 ノラ あら、ミスィズ・ボートン、びっくりしましたわ。この時間にいらっしゃるって、滅多にないんですもの。
 アルマ 昼の日中(ひなか)に飲み始める悪い癖がついちゃって。・・・それでもう、いつも駄目になっちゃうの。
 ノラ 誰もみんな駄目になっちゃうまで飲む方がいいのよ・・・本当に。
 フレッド いい考えだよ、それは。ただ、飲むものがそれだけ充分にあればの話だがね。上に誰か残ってる?
 ノラ ええ、テーブル二つ。ミス・ヴィヴィアンとミスター・ボーンが一つのテーブル、それから例の人とミスター・バニスターがもう一つの。
 フレッド 例の人?・・・入って来るの、見なかったな。
 ノラ(簡潔に。)そう。
 アルマ 例の人って?
 フレッド(声を下げて。)例の・・・その・・・我々の友人・・・我々の忠実な監視人・・・ゲシュタポの誇り・・・ヘル・アルブレヒト・リヒター。
 アルマ ああ・・・ロンドンの疫病神ね。
 ノラ シーッ、ミスィズ・ボートン・・・聞こえたら大変。
 アルマ じゃ、コーリー・バニスターは彼と一緒に食事?
 フレッド ええ・・・二人は大の仲良しで。
 アルマ(軽蔑して。)さもありなん、ね。
(ライア・ヴィヴィアンとジョージ・ボーン、二階から下りて来る。)
 ジョージ 素敵な料理でしたね、ノラ・・・どうやって作るのか、想像も出来ませんよ。
 ライア ああ、今日は、アルマ。
 アルマ 今日は。
 ライア(ちょっとの間の後。)二人とも変な顔ね。・・・怪しい雰囲気・・・二人で悪巧みみたい。
 アルマ そうよ・・・第三帝国の転覆計画。
 フレッド(鋭く。)止めて下さい、ミスィズ・ボートン!
 ジョージ ほう、すごいな。うまく行ったら勲章ものだ。
 ノラ そんな話、駄目ですよ、ミスィズ・ボートン、たとえ冗談でも。それに随分心無いことですわ。うちはここで商売をしているんですからね。
 アルマ ブランデーをひっかけていたのよ、ノラ。・・・やはり感情が高ぶってしまうわ。(アルマ、フレッドを見る。)
 ライア さあ、ジョージ。リハーサルに遅れるわ、私。(みんなに宣伝の気分で。)今夜は二曲、新しいのが加わるの。
 アルマ 英語? それともドイツ語?
 ライア あらジョージ、私を早く連れて出て。この人、イギリス愛国婦人会の目で私を見ている。ジャネットの目にそっくり。
(コーリー・バニスター登場。)
 コーリー ジャネットの目に適(かな)うほど悪い目は他にはないよ。世界中で一番悪いこと、それは退屈だ。で、ジャネットは決定的に、絶対的に退屈な人間だからね。
 アルマ 私は賛成しないわね。
 ノラ(バーの後ろに廻って。)フレッド、あの表(ひょう)、出来てるかしら。(訳註 他に関連のある台詞ではない。二人の喧嘩を避けさせるため。)
 フレッド うん、作ってある。箱の横だ。
(アルブレヒト・リヒター登場。財布をポケットに入れながら。丁度支払を終えた所。)
 アルブレヒト(アルマに。)今日は、ミスィズ・ボートン。
 アルマ 今日は。(バーの方に寄りかかって。)煙草あるかしら。
 フレッド アブドゥラが二三箱あります。それ以外はなしです。
 アルブレヒト(愛想よく。)ヴァージニアの煙草ならありますよ。・・・クレイヴンAです。お好きですか?
 アルマ いいえ、結構です。私、トルコかエジプトでなきゃ吸わないの。
 フレッド(アブドゥラの箱一つを渡して。)はい、アブドゥラ、ミスィズ・ボートン。
 アルマ 有難う。・・・さようなら、フレッド。・・・さようなら、ノラ。また後程ね。
(アルマ退場。)
 アルブレヒト 一杯奢らせて戴けませんか? ミス・ヴィヴィアン?・・・ミスター・ボーン?(フレッドに。)まだ時間はありますね?
 フレッド 丁度三時ですが。
 ライア いいえ・・・私、リハーサルがありますから。
 アルブレヒト ミスター・ボーン?・・・コーリー?
 ジョージ 有難う。戴きます。
 ライア まあ、ジョージ!
 ジョージ ブランデーをさっと飲む。エップのココアと同じ・・・感謝の気持によい気持さ。
 コーリー 僕も同じものを。
 ライア ジョージ、あなた何のつもり? 私、遅刻するわ。パラヴァッティーは怒って、とりなすの大変よ。
 ジョージ 五分だ。五分だけ。
 アルブレヒト(フレッドに。)一、二、三・・・(ライアを見る。)
 ライア 分ったわ。いいわ。
 アルブレヒト ブランデー四、頼みます。
 フレッド ブランデー四。
 アルブレヒト あなたと、あなたの奥さんにも奢らせて戴けると光栄ですが。
 ノラ(ちょっとの間の後。)いいえ、私は・・・飲まないものですから。(フレッドに。)上ってフィリスとモーディーを手伝って来るわ。
 フレッド OK。(アルブレヒトに。)私も飲みません。いづれにせよ、お誘い有難うございます。
(ノラ、二階へ退場。)
(フレッド、四人にブランデーを出す。)
 アルブレヒト エップとは何ですか?
 ジョージ(笑って。)エップのココア・・・小さい頃やっていた宣伝ですよ。エップのココア・・・感謝の気持によい気持、と。
 アルブレヒト なるほど。
 ライア 本当はこれ、合言葉なんです、ミスター・リヒター。ジョージは諜報部員で、かなり位が高いの。そうでしょう? ジョージ。
 アルブレヒト(一瞬冷たい表情。)何ですか、一体これは。
 ジョージ そうです。標識番号はつい先日まで八一三四のXだったんですが、先週昇進して、今では八一三五のYなんです。
 ライア まあ、よく言うわね。(ゲラゲラ笑う。)
 コーリー そいつは酷い冗談だぞ、ライア・・・恥を知りなさい、恥を。
 アルブレヒト(微笑んで。)担(かつ)いだんですね、どうやら、私のことを。
 ライア まあ、ミスター・リヒター。酷いですわ。そんなに疑い深いなんて。
 アルブレヒト いや、私は事実、非常に興味があるのです、ミスター・ボーン。あなたの職業が何であるか、その点に。
 ジョージ スウィート・ファニイ・アダムズです。
 アルブレヒト 何ですか、それは。
 ジョージ 慣用的な表現でして、これは。上品に聞こえるがその実、全く別のものを指している。・・・例えばドイツ語で言うところのレーベンスラウムのような・・・
 アルブレヒト(作り笑いを浮べて。)まだよく分りませんな。どうやらこれも冗談のようですね。
 ジョージ 国民性なんです、ミスター・リヒター。どんなことが起きても、このイギリスでは冗談を絶やさない。
 アルブレヒト ある状況の下では、それは到って危険じゃありませんかな?
 ジョージ 危険です、実に。
 アルブレヒト(コップを上げて。)ハイル・ヒトラー!
(アルブレヒト、飲む。間。コーリー、コップを持ち上げ始める、が、途中で止める。)
 ジョージ(優しく。)それは間違いですね、ミスター・リヒター。・・・心理的な間違いです。
 アルブレヒト(冷たく。)どういう間違いかな?
 ジョージ 間の悪い気分になるだけですからね、私達は。
 アルブレヒト あなた方は敗北したのです。間の悪いのは当然ではないですか?
 ジョージ そう。当然です。しかし、敗北というのは、多分に心の持ち方です。私達はまだ全面的にはそれを認めていないのです。
 アルブレヒト それなら御忠告申し上げておきますが・・・御自身のためにです・・・それを出来るだけ早く認めることですな。
 コーリー 何てことだ。こんな不愉快なことにしてしまって・・・こんなことはみんな不要なことじゃないか!
 アルブレヒト(非常な努力で、やっと。)私も賛成です。そう、ミスター・ボーンにも賛成だ。みなさんに、ヒトラー総統に対する乾杯を要求するのは、確かに私の心理的な誤りだ。これは慣用句で言うところの、「時期尚早」というやつですな。よろしい。あなた方の提案する乾杯の音頭に喜んで従うことにしましょう。(微笑んで。)さあ、何になさいますかな?
 ジョージ(コップを上げて。)エップのココアに!
(アルブレヒト、機嫌よく笑う。四人、コップを上げ、「エップのココアに」と呟く。その時、照明暗くなる。)
              (一幕二場 終)

     第 一 幕
     第 三 場
(一九四二年一月。)
(およそ夕方の十時。店を閉めるちょっと前。)
(バーの後ろにはフレッド、ノラ、ドリスの三人。アルマはバーの右手端の止まり木。左手の端でコーリー・バニスターとボビー・パクストンが一緒に飲んでいる。ボビーは、服装はきちんとした、どちらかというとハンサムな若い男。性格にどことなく厭なところがある。)
(以上が第二場までに既に出てきた登場人物であるが、その他の人物もいる。一目でそれと分る売春婦のグラディス・モット。彼女はドイツの兵隊と飲んでいる。ヘル・ヒューバーマンとフラウ・ヒューバーマンはドイツ語で話している。どこかの省の事務員で夫婦である。扉の近くのテーブルに、競馬の予想屋風の男、アルフレッド・ブレイクが、スポーツ紙を読んでいる。その前のテーブルにはビールがのっている。アルフレッドが、出来るだけ長時間もたせようと気を使っているビール。)
(幕が上ると、低い声の全員の話し声。時々グラディス・モットが、かなり大きな声でゲラゲラっと笑う。)
(ジャネット・ブレイドが通りから登場。止まり木にいるアルマのところに進む。)
 アルマ ああ、今日は。あなた、今日来ないと思っていたわ。
 ジャネット ドリー・ブランドと映画に行ってたの。長い長い映画。フレデリック大王についてなのよ、それが。
 アルマ フレデリック大王・・・不愉快な人物。
 ジャネット あらあら、わざと反対しちゃったりして。それ、結局自己宣伝なんじゃないの?
 アルマ 私の口から出て来るもの、みんな自己宣伝みたい。あなた、何飲む?
 ジャネット 何があるの?
 アルマ ウイスキーはなし。ジンもなし。ビールがほんの少し。それにちょっと奇妙なラム。
 ジャネット ほんの少しのビールが一番安全みたいね。
 アルマ フレッドはラムを飲ませたいんじゃないかしら。ビールは最後の一滴までとっておきたい気分のようよ。
 ジャネット じゃ、ラム。
 アルマ フレッド・・・ミスィズ・ブレイドにラムね。
 フレッド OK・・・今晩は、ミスィズ・ブレイド。
 ジャネット 今晩は、フレッド。
(グラディス・モット、大きな声で笑う。)
 ジャネット あの娘(こ)、占領下のイギリスがとても面白おかしいらしいわね。
 フレッド グラディスは今日、とても上機嫌なんです。棚から牡丹餅(ぼたもち)があったものですからね。
 アルマ どんな牡丹餅?
 フレッド あそこにいるハンブルグからきたがっちりしたおっさんが、彼女の常連なんですがね。何とかっていう、発音はとても出来ない工場の持主で、それがパリに旅行に行って来たんですよ。そして彼女にお土産をどっさり買って来ましてね・・・香水にストッキング、その他もろもろ・・・彼女、有頂天ですよ。
 ジャネット 人種偏見のない女なのね。
 フレッド アーリア人なら何でもいいんでしょう。
 アルマ どこかで線を引くべきじゃないのかしらね。
(この会話の間にフレッド、ラムを出す。コーリーとボビー、バーの左手から下りて来る。)
 コーリー やあ、ジャネット・・・会いたかったよ。
 ジャネット あらまあ。驚いた言葉ね、コーリー。悩殺されてしまうわ。
 コーリー 君、グラント・マディスンは知っているよね?
 ジャネット ええ。
 コーリー 新しい芝居を書いたって、本当かい? ヒズ・マジェスティー座の新しい柿(こけら)落しではそれをかけるっていう噂なんだけど。
 ジャネット 知らないわ。・・・もう何年もあの人に会っていないから。
 コーリー ボビーがそれに出演したいと言ってね。
 ボビー やあ!
 コーリー 君、ちょっと力になってやれない?
 ジャネット 自分で電話すればいいじゃない。番号は電話帳にある筈よ。
 コーリー 「新思潮」で、彼をやっつける論文を書いちゃってね。占領以前、彼が書いていた芝居についてなんだが。あれ以後、僕のことは全然許してくれていないんだよ。
 ジャネット それで私に肩代わりさせようっていうのね?・・・私、あなたに意地悪を言いたくはないんだけど・・・でも・・・
 コーリー あいつは君のブラック・リストに載っている人物なんだ・・・ということだね?
 ジャネット ブラック・・・完全にブラックじゃないけど、まあ、グレイね。あの人のやってきた事、私ちっとも認めない。それに勿論、今度のヒズ・マジェスティー座の再興も反対だわ。
 コーリー 僕は再興、大賛成だね。それに、彼がやるというのも相応しいと思っている。劇場は活性化しなくちゃ。役者も、音楽家も、舞台装置の連中も、食って行かなきゃならないからね。
 ジャネット 分るわ、それは・・・まあ、これは私の個人的な考えね・・・
 コーリー(苛々と。)ジャネット、それは君、行き過ぎじゃないか。(しっかりと。)この国は侵略されて、占領されたんだ。それは確かに恐ろしいショックだ。我々個人個人の感情にばかりでなく、この国の誇り、この国への愛国心にとってもね。
 ジャネット 何? その言い方。我々個人個人の感情と、この国への愛国心は別物扱いね。
 コーリー そう。それは全く別物だ。個人個人の感情なんてものは、環境、教育、習慣、宣伝、によって大きく変る。愛国心は人間の心にとって必然的、基本的、なものじゃない。その証拠に、生まれたばかりの赤ん坊に愛国心はないからね。
 ジャネット まあ、呆れたわね、コーリー。そんな馬鹿げたことをそんなに得意然として言えるなんて、全く驚きだわ。
 コーリー 君に対して癇癪玉を破裂させるような真似はしないよ、ジャネット。ただ僕は、「偏見はもう捨てて、この状況を受入れる。そして、自分をこの新しい環境に適応させたらどうなんだ」と言っているだけさ。古ぼけた抽象的な理想主義の沼の中でのたうちまわっていたって、何の助けにもならないし、ちっとも立派じゃないんだ。
 ジャネット その古ぼけた抽象的な理想主義のために死んで行ったの、私の子供は。
 コーリー 馬鹿な! 悪いけどねジャネット、そんなのはおセンチな、馬鹿げきった考えなんだ。そんなことのために誰が死ぬもんか。君の子供は、若さと冒険心のために死んだのさ。空中を、首の骨が折れる程のスピードで飛び廻って、その知力と攻撃技術を敵に試してみたかっただけさ。
 ジャネット あの子が死にたがっていたとは思えないわ。
 コーリー 僕はその勇気を貶(けな)しているんじゃないんだ。他の人間に先駆けてその危険を敢て買って出た・・・他の何千人の若者と一緒にだ。しかし彼の、或はその他何千もの若者の、動機がどこにあったか、それは決して「我が祖国イギリス」のためでもなければ、「ネルソン」「マグナ・カルタ」「エリザベス女王」・・・のためでもなかった筈だ。
 ジャネット(微笑んで。)あんた、頭いいのね、コーリー。大変御立派に御自分の意見を述べて・・・全く、馬鹿丸出し。
 コーリー 事を訳(わけ)て君に話しても意味はなしだな。聞く耳を持っていないんだから。
 ジャネット 奇妙ね。私、聞く耳はちゃんと持っているの。でも、この話は止めて本論に戻った方が良さそうね。私の昔の友達に、あなたの友人を紹介して欲しいっていう話・・・私、今その昔の友達を全く認めていないの。
 コーリー 君の彼に対するその高飛車な、強い拒否の態度が、今問題になるところなんだが・・・
 ジャネット 彼への私の態度は、強くも高飛車でもないわ。熟慮の結果だし、現在の状況をよく判断した末の、論理的な結論よ。
 コーリー その君の判断は、論理的ではなくヒステリックな感情論なんじゃないのか?
 ジャネット 私はヒステリーじゃないの。もしそうだとしたら、二分前にあなたの顔をひっぱたいていたところだもの。
 コーリー おいおい、ジャネット。・・・まあ、こんな阿呆らしい言い争いは、これ以上やったって意味はないね。
 ジャネット これは単なる言い争いでもないし、勿論阿呆らしくもない。大変大事なことだわ。でもまづは、私の態度をはっきりさせて置きましょう。グラント・マディスンやその同類の連中は結局のところ、もう敗北を認めているの。最初のうちはあの人、そんなに恥づかしいことはしなかった。敵方の目の前で、舞台で大見得を切って見せたりしたのが、汚点と言えば汚点だけど。それぐらいのもの。でも、それからよ、コケてしまったのは。あのクリスマスの時の放送・・・あなた覚えている? それ自体は害のないものだったけどあの人、ホーホー卿に紹介されて出て来て、引込む時にもホーホー卿が喋ったわ。(訳註 Lord Haw Haw ホーホー卿。米国生まれのWilliam Joyce の変名。第二次大戦中ドイツのため反連合軍放送をし、一九四六年死刑。・・・研究社「新英和大辞典による。)それからあの、宣伝効果満点の、レストラン・サイロでの夕食パーティー・・・あれにはヘル・リッベントゥロップが出席していたわ。私がグラント・マディスンを認めない理由は他にもあるけど、この二つは誰が見てもはっきりしている理由。ついでに言っておくけど、私はあなたも認めない。今のと全く同じ理由。ただあなたは、あの人ほど有名じゃないから、その分だけ厭らしさが目立たないというだけのこと。そうね、私もだんだんヒステリックになって言ってしまったけれど、今のところはこれで止めておくわ。さ、アルマ、行きましょう。
(ジャネットとアルマ、退場。)
 コーリー やれやれ、イギリスを一人で背負って立つか。
(ジョージとライア、登場。)
 ライア 今日は、コーリー。ああ、ボビー。
 ボビー ああ、ライア! 今良いところだったんだぜ。惜しい所を見逃したね。
 ライア あら、残念だわ。口喧嘩ね? 誰と誰? 何について?
 コーリー 黙ってろ! ボビー。いや、ジャネットの一人舞台・・・女学校時代の古いブラジャーで自分の首を締めたのさ。ユニオン・ジャックを二つ繋げたブラジャーでね。ああ、ジョージ、あんた、グラント・マディスンを知っていたね。
 ジョージ 勿論。それが?
 コーリー ヒズ・マジェスティー座の柿(こけら)落しで、彼の芝居をかける。ボビーにピッタリの役がその芝居にあってね。彼にその話をしてくれると有難いんだ。僕が出来れば一番いいんだが、あいつ、僕を見ただけで唾でも吐きかけそうな勢いなもんだから。
 ジョージ 分ったよ、コーリー。電話をかけてみる。
 コーリー 毎度のことだけど、恩に着るよ、ジョージ。
 ジョージ すると一杯奢ってくれるっていうことだな? 恩には値段がつきものだ。
 コーリー 何がいい?
 ジョージ 何がいいってことになりゃ、レモンを入れたゴードン・ジンのすっきりしたドライ・マテニに決っているが、まあここは、ラムとパイナップル・ジュースで我慢しておくよ。
 コーリー ライアは?
 ライア 同じもの。残念ながら。
 コーリー ボビーは?
 ボビー 僕だって試してみるさ。どうせ死ぬのは一回きりなんだ。
 コーリー フレッド、あの恐ろしいラム・カクテルを四つ頼む。
 フレッド OK、ミスター・バニスター。(作り始める。)
(この時まで照明はバーの部分に限られていたが、ここで舞台全体に照明があたる。会話も舞台全体に散らばる。暫くして通りに通じる扉が開き、アルブレヒト・リヒターが、制服姿の二人のゲシュタポと共に入って来る。と、このガヤガヤが一度にシーンとなる。)
 アルブレヒト(バーに近づき。)今晩は、ミスター・シャトック。お邪魔しますよ。定期の巡視でしてね。今晩は、ミスィズ・シャトック。
 ノラ 今晩は。
(制服の男二人、テーブルを廻って、低い声で客に身分証明書の提示を要求する。)
 コーリー(愛想よく。)今晩は・・・一杯如何ですか?
 アルブレヒト いや結構・・・今は駄目。「広間」には人がいますかな? ミス・シャトック。
 ドリス(ハッチから覗いて。)ええ、一人二人・・・
 アルブレヒト こちらの調べがすむまでは、出ないように言って下さい。
 ドリス(ハッチから。)ロビンフッドとその仲間が来るわよ。そこを動かないでね。
 ヒューバーマン夫妻 ハイル・ヒトラー!
 アルブレヒト 有難う。(訳註 これはドリスに言う言葉。)
 ドリス どう致しまして。何なりとお申しつけ下さいな。
 ノラ(咎めるように。)ドリス!
(制服の二人の男、この時までに右手のテーブルに行っている。)
(アルフレッド・ブレイク、飛び上がって、ポケットを探り始める。)
 アルフレッド(狼狽して。)何ていう馬鹿な。まさかなくしたんじゃないだろうな。
 フレッド ポケットは全部見た?
 アルフレッド 僕が誰か、連中に説明してくれないか。お願いだ、フレッド。
 フレッド この人は大丈夫です、ミスター・リヒター。アルフィー・ブレイクと言って、いつも来る客です。もう昔からの知り合いなんです。
 アルブレヒト(アルフレッドに近づき。)いづれにせよ、身分証明書は出して貰わないと。
 アルフレッド 出かける時、確かに入れたんだが・・・誓います、持っていたんです。
 ドリス レインコートのポケットは?
 アルフレッド(レインコートを捜し、やっと証明書を見つける。)有難う、ドリー・・・助かった・・・全く冷や汗が出るな・・・(制服の男に。)さあ、これだ。見てくれ。
(制服の男二人、証明書を念入りに調べる。それからバーの方に進む。)
 ジョージ この調査は、このあたり一帯の飲み屋全部に対して行われるんですか?
 アルブレヒト そう。但し、日が決っている訳じゃない。時に応じてだ。
 コーリー 何かを見つけることが目的なんですね?
 アルブレヒト 特別に何かを見つけたい訳じゃない。さっき言ったように、定期の巡視です。
 ライア 戦争はどうなっているのかしら。
 アルブレヒト ラジオとか新聞で見ないのですか? あなたは。
 ライア 見るわ。だから訊いているの。
 アルブレヒト おやおや、この私が公けの情報以上のことを知っていると思って下さっているようですね。これは光栄だ。
 ライア ええ、ちょっと口を滑らせて話して下さると・・・
 コーリー それはどうかな。この人、逃げるのがうまいからな。
 ジョージ さっきは「駄目だ」という話でしたが、どうですか? 一杯。今なら。
 アルブレヒト それで私の警戒が緩むと思っているんですね?
 ジョージ ええ、まあ。
 アルブレヒト いいでしょう。(フレッドに。)ジンと水を。
 フレッド すみませんが、ジンはないんです。
 アルブレヒト 特別な客に対してもですかね?
 フレッド ええ。ラムとフルーツジュースだけです。特別な客というのはありません。
 アルブレヒト 分りました。じゃ、それでいいです。
(フレッド、もう一杯カクテルを作る。)
 アルブレヒト ジンが手に入る方法はありますがね。
 ノラ(気乗りしない調子で。)有難うございます、どうも。
 アルブレヒト 誰にでも、という訳には行きません。ミスター・バニスター、ミスター・ボーン、ミス・ヴィヴィアン、それに私・・・が、来た時だけに出して貰う・・・
 ジョージ 特別な客用ってわけか。
 アルブレヒト(微笑して。)その通り。
 フレッド(抗議するように。)家(うち)ではですね、ミスター・リヒター、私は・・・
 ジョージ 四の五の言うな、フレッド。・・・(しっかりと。)ミスター・リヒターの有難い提案なんだ。
 フレッド 私は客に差別をつけるのは好まないんです。
 ライア そんなに堅苦しく考えるのは止めましょうよ、フレッド・・・
 ノラ(しっかりと決意して。)残念ながら、それは出来ませんわ、ミスター・リヒター。でも、とにかくお申し出、有難くお聞きしましたわ。
 アルブレヒト(堅い表情で。)いいでしょう、それなら。
 コーリー ねえ、ノラ・・・二人とも頑固過ぎるよ。こんないい申し出を断るなんて馬鹿だよ。
 フレッド これは主義の問題ですから、ミスター・バニスター。
 アルブレヒト もし私がイギリス人だったとしたら、やはり断るんでしょうかね。これは知りたいところですな。
 フレッド もしあなたがイギリス人だったとしたら、あのような提案はしなかったでしょう。
 ライア ジンを入手することも、勿論出来ないでしょうし。
 アルブレヒト ミスター・シャトック、一つ質問に答えて貰いたいんですがね・・・
 フレッド 何でしょう。
 アルブレヒト(愛想よく。)あなたはこの国で、ある階級に属していますね・・・中流の階級というものにです・・・そうですね?
 フレッド 私は階級になど属していません・・・私は私です。
 アルブレヒト しかし、議論を進めるにあたって、階級を当て嵌めるとすれば、あなたはあなたであっても、中流の階級に属していると言えるでしょう。
 フレッド 私は市民の一人です。階級はありません。
 コーリー そう偏屈にならなくてもいいだろう? 君を罠にかけようなどと思っている訳じゃないんだから。
 フレッド それがどうして分ります。
 ノラ(陰気に。)どうでもいいから、質問は何かを訊いてみたら?
 アルブレヒト 質問はこうです。あなたのような真面目に働いて稼いでいるイギリス人が、「必然」の前に諦めて膝を屈するまで、どのくらいかかるものでしょうね。
 フレッド 「必然」? 何ですか? その「必然」とは。
 アルブレヒト ドイツは優れた武器と強い決意と力でもって、この戦争を有利に戦い、この国を占領しました。以後何年も・・・いや、多分永久に、占領し続けるでしょう。これが「必然」です。
 フレッド そうでしょうか。
 アルブレヒト 明らかにそう見えますがね。
 フレッド 海外のイギリス自治領、それからアメリカが、この国をドイツに占領させたままにしておくでしょうか。このまま永久に。
 アルブレヒト まあ他に選択の余地はないでしょう。イギリス人も、ちょっと島国根性を直して、現実的に物を見る訓練をすれば、アメリカだって国民の殆どはイギリスの味方ではないことが分る筈です。まあその四分の三は、イギリスが生き残ろうと消えてしまおうと、何の関心も持ってはいません。占領されるまでは確かにイギリスは、世界に隠然たる勢力を持っていたでしょう。しかし、今では事情は全く異っている。アメリカは今や、大西洋ではドイツと、太平洋では日本との戦いで大童(おおわらわ)。とてもイギリスのことなど考えている暇はありません。それに、どうせこの二つの戦いは、アメリカの負けに決っているし・・・
 フレッド それも「必然」という訳ですね?
 アルブレヒト その通り。(愛想の良さを保って。)さっき海外のイギリス自治領について、多分に楽観的な観察を述べられましたな。ではその重要な国から一つづつ検討して行くことにしましょう。まづカナダ。この国から一番近いのはカナダですからね。しかしカナダは地理的にも思想的にもアメリカに近過ぎです。アメリカと独立な動きはとても出来る訳はありません。オーストラリアはここから一万二千キロも離れている。ニュージーランドも同じく遠い。それに、影響力は殆どゼロ。南アフリカは少しは頼りになるでしょう。しかしそれも、スマッツ将軍治下にある時だけ。彼の後継者はドイツの味方です。そしてこれはもうこちらで工作ずみです。その他の自治領は取るに足らないものばかり。マレーとボルネオはこれから数週間以内に日本の手に落ちるでしょう。インドは相変らず人種問題と経済的混沌の国ですから、あてにはなりません。・・・いえいえ、ミスター・シャトック、私は故意に意地悪な予測を述べているのではありません。単に事実をありのままに描いているだけです。
 フレッド なかなかお上手な英語です、ミスター・リヒター。外国人の方によくあることですが、御自分の理解以上のことを立派に英語でお話になりますね。
 アルブレヒト どうやら説得は不成功に終ったようですな。
 フレッド 今話されたことが全部正しいとして・・・つまり我々はもう、進退窮まっているのだ、と仮定して・・・それが一体どうしたっていうんです? 私達にどんな行動をとって貰いたいというのですか、あなた方は。
 アルブレヒト どうやら頑固一徹・・・とても私の言葉を信じては戴けないようですな、ミスター・シャトック。しかし私は、親切で言っているんです。どうかこれだけはお間違えのないよう。
 フレッド いいでしょう。それで?
 アルブレヒト さっきもお訊きした質問です。あなたのような真面目に働いて稼いでいる人々が、この状況を甘んじて受け入れるようになるまで、どのくらいかかるものでしょうか。
 フレッド 永久に駄目でしょう、ミスター・リヒター。私達だけじゃない、私達の子供も、そしてその子供の子供も・・・
 アルブレヒト 御立派なものです。丁度そういう答を私も予想していました。我々ドイツ人がイギリス人に一目置いて来たのは、理想に対してあくまで忠実であり続けようというその態度です。我々ドイツ人もまた、個人的にも集団的にも、一つの理想を完全に、徹底的に信じています。その理想とは、我々が世界を支配し、我々が世界をより良きものにするのだという信念です。そして今や、それが実現しつつあります。いいですかミスター・シャトック、我々はイギリス人が考えているよりずっとずっと知的に優れている。その証拠に例えば、あなた方は我々がこの国に侵入し占領した時、何が起ると思っていたか・・・計画的な殺人、強姦、掠奪、破壊・・・そうでしょう。
 フレッド そうです。
 アルブレヒト 我々はしましたか? それを。
 フレッド していませんね・・・まだ。
 アルブレヒト 我々がこのように自制している理由は何だとお思いになりますか。
 フレッド まだ風向きがはっきりしていないからでしょう。
 アルブレヒト 違います。風向きはもう決定しています。大方の予想に反して、我々のこの国に対する基本方針は、友好的なものなのです。ここにヒトラーの天才がある。彼には心理的な直感力があって、人間の理知を支配するばかりでなく、情緒をも支配出来るのです。総統がイギリス人の持つ特有の偉大さをよく認識しているということは信じて戴きたい。
 ノラ あら、随分御親切なこと。
 フレッド ノラ!
 アルブレヒト 総統は、この国の精神を破壊することは不可能だと信じておられる。ただ、ついさっきあなたの言われたことには反して、「必然」に直面すれば最終的には折れて出ると思っておられる。但し、イギリス魂が弱まることによってではない。内的知力の強化、それに常識による判断力の強化によってです。内的知力及び常識をもって、この「必然」を認め、英帝国主義への確信を捨て、それによる損失を、勇気と分別をもって耐える。こうなればすぐ、独英は協力して立上ることが出来る。・・・この二国は共通な部分を非常に多く持っているのです。力を合わせてこの地球上からユダヤと共産主義の邪悪な勢力を一掃しようではありませんか。
 ジョージ 素晴らしい演説じゃありませんか、ミスター・リヒター。
 フレッド ミスター・ボーン、あなたは今の話を信じるのですか?
 ジョージ 大事なことはだね、フレッド、今のをミスター・リヒターが信じているっていう点なんだよ。
 コーリー なあフレッド、ちょっとショックじゃないか。理想はイギリス人の専売特許だと思っていたら、ドイツにだってあると思い知らされてはな。
 フレッド ほう、するとあなたは、今この紳士が表明した意見を、理想という名で呼べるものだと思っているのですね?
 コーリー 勿論。知的で整合性のある政策だ。文明の未来をよく見通している。
 フレッド イギリスには大勢のユダヤ人がいます、ミスター・リヒター。それに共産主義者達も。彼らはどうなるのです。
 アルブレヒト(鋭く。)前者は流刑、あるいは処分です。後者はその持っている考えを変えて貰う。
 フレッド 処分?
 アルブレヒト 目的が手段を正当化する場合もあります。多少の荒療治は止むを得ません。
 フレッド(後ろを向いて。)何か罠があると思っていました。さ、ラストオーダーの時間です。
 アルブレヒト(唐突に。)では失礼、ミスター・シャトック。
 フレッド お休みなさい、ミスター・リヒター。
 ドリス(親指を「広間」の方へ、自分の肩越しに指さして。)お行儀のよいお付きのお二人さん、まだ「広間」で気をつけをしているわ、ミスター・リヒター。お帰りは台所を通っても、直接通りへ通じる扉からでも、どちらでもいいんですのよ。
 アルブレヒト 有難う、ミス・シャトック。失礼する。
 ドリス どうぞ、ごゆっくりお休み。
 アルブレヒト(他の者達に。)失礼。
(二人の制服姿の男に合図。二人、アルブレヒトの後に続き、通りへ通じる扉を通って退場。)
(少しの間。)
 コーリー さ、ボビー。・・・フレッド、君のあの態度、ちょっと芸がなさ過ぎるよ。
 フレッド どうお考え下さっても、そちらの勝手です、ミスター・バニスター。(柱時計を見て。)時間です、みなさん。では・・・
(全員、「さ、帰ろうか」など、何か小声で話す。)
(ヒューバーマン夫妻退場。アルフレッド・ブレイク退場。ドイツ兵、少しフラつきながら、グラディス・モットと共に退場。扉のところで廻れ右をして。)
 ドイツ兵 ハイル・ヒトラー!
 フレッド(愛想よく。)ハイル・糞たれ!
 コーリー(ジョージに。)忘れて貰うと困るので、明日の朝また電話するよ、ジョージ。グラント・マディスンによろしく頼む。(コーリーとボビー、退場。)
 フレッド あの憲兵、「広間」の連中の追い立てもやってくれたのかな? ドリス。
 ドリス(ハッチから「広間」を覗いて。)ええ、誰もいないわ。
 フレッド じゃ閉めて。それから一日の締めも。
 ドリス OK。(窓を閉め、箱を開け、金を数え始める。)
 ジョージ さ、ライア、フレッドに追い出されないうちに行くとしようか。
 フレッド その前にナイトキャップは如何ですか、ミスター・ボーン。
 ジョージ いや、本当に行った方がいい。ライアも新しい舞台で、明日は十一時には行ってなきゃいけないんだ。
 フレッド(ゴードン・ジンの壜を見せて。)一杯だけ。特別な客用にこれがとってあるんです。
 ライア まあ、インチキ・・・いけないおじいさんね、フレッド。
 ジョージ(片手を上げて。)ハイル・ゴードン!
 ノラ あらあら、あの連中が急に帰って来て、これを見られたらそれこそ大変。ドアはロックしておきましょう。厩の方から出るの、構わないわね?
 ライア 勿論。全然。
(ノラが扉に近づいたとたん、扉、パッと開く。ビリー・グレインジャーが蹌踉(よろ)めきながら登場。ビリーは二十代の男。頭には包帯、着物は泥だらけ。疲労困憊している。)
 ノラ(小さな叫び声を上げる。)あっ!
 ビリー(大きな息をしながら。)すみません。
 ノラ(急いで。)すみませんけど、もう駄目・・・閉めた後なんです。
 ビリー(フラフラとバーの方に進みながら。)お願いです。グレインジャー・・・グレインジャー夫妻はいませんか? ここに。アパートには行ってみたんです。でもいなくて・・・
 フレッド 君は誰なんだ。
 ビリー グレインジャーの息子です。・・・逃げて来たんです。・・・収容所から・・・(声が小さくなり、気絶して倒れる。)
 ノラ まあ!
 フレッド ドアをロックして、ノラ・・・早く。
(ノラ、扉をロックし、閂(かんぬき)をかける。窓のカーテンを閉める。ジョージ、ビリーの傍に膝まづき、自分の膝の上にビリーの頭をのせる。フレッド、コップにラムをかなり多く注ぎ、バーを廻ってビリーの方に行く。ドリスも計算を止めてビリーに近づく。)
 フレッド さあ、これを。
 ノラ どうしたらいいかしら。
 ジョージ まるで蝋燭だ。消えてしまった。(フレッドに。)さ、こっちに。(フレッドからラムを受け取り、ビリーの口に無理矢理入れる。)
 ライア カラーを緩めるわ。(ライア、膝まづいてビリーのカラーを緩める。)
 ドリス 入って来るのを誰かに見られなかったかしら。(窓のところへ行き、カーテンからそっと外を覗く。)誰もいないわ。
 フレッド どこかに隠れていて、人がいなくなるのを待っていたんだ。ドクター・ヴェニングを連れて来た方がいい、ドリス。・・・あそこなら近い。裏から行くんだ。
 ライア どこ? ドクター・ヴェニングの家は。
 フレッド 厩の端のちょっと先。
 ノラ 大丈夫なの? ドクター・ヴェニングは。
 フレッド うん。あの人は大丈夫だ。さあドリス・・・すぐ行って。
 ドリス OK。
(ドリス、走って左手の方へ退場。)
 ジョージ ただの気絶じゃないな、これは。・・・手首を見て・・・ほら、餓えと疲労だ。
 ノラ こんなことをして大丈夫? フレッド。・・・危ないわ。・・・危険よ、本当に。
 フレッド じゃ、追い出せるって言うのか? そんなことは出来っこない。お前にだって分ってるだろう?
 ライア この子、気がついてきたわ。
 ビリー(目を開けて、話そうとする。)僕は・・・僕は・・・
 フレッド 大丈夫だ、ここなら・・・心配はいらない。
 ジョージ ちょっと持ち上げるぞ。手伝ってくれ、フレッド。
(ジョージとフレッド、ゆっくりとビリーを持ち上げ、椅子に坐らせる。)
 フレッド この方がいい・・・
 ジョージ(ビリーにラムを与える。)ほら、もう少し飲むんだ。
 ビリー(弱々しく。)有難う。(ちょっとラムを飲み、少し咳をして戻す。)
 ノラ ちょっと行って薬罐をかけて来るわ。・・・ラムよりお茶の方がいいみたい。
(ノラ、台所に退場。)
 ビリー 父と母・・・どこに行ったんでしょう。
 フレッド 多分映画だよ。家に帰るのは遅くなるんだ。君、誰かに見られてないだろうな? 入って来るのを。
 ビリー 見られてはいないと思います。戸口の反対側に隠れていたんです。・・・真っ暗で・・・誰も気づいてはいません。
 フレッド そうか。
 ジョージ どうしたものかな。
 フレッド グレインジャーさんには知らせなきゃならないでしょうね、どうしたって。
 ジョージ あの夫婦も困るだろうな、多分。
 フレッド 何かいい案を考えなくちゃ。
(ノラ、皿を持って戻って来る。)
 ノラ 薬罐はかけて来たわ。パンとバター、それにソーセージを少し持って来たけど・・・
 ジョージ それは医者が来るまで待った方がいい。医者の指示を待とう。
 ビリー(立ち上ろうとしながら。)医者! 医者は駄目だ。僕は医者には見せたくない。
 フレッド(ビリーを抑えて。)まあ待て。落ち着いて・・・
 ビリー(半狂乱で。)どうか、どうか医者は止めて・・・医者は僕のことをきっと・・・きっと・・・(片手を包帯をした頭に置く。)
 フレッド 頭が痛むのか?
 ビリー いえ・・・その・・・頭は・・・いや、医者には僕は見せない・・・
 フレッド 静かにするんだ。いい子にして、言われたことに従うんだ。医者は大丈夫。こちらの味方・・・君をつきだしたりはしない。
(ドリス、静かに奥の扉から登場。ドクター・ヴェニングがその後ろから登場。中年のがっちりした男。医者の使う小さな鞄を持っている。)
 フレッド 今晩は、先生。
 ドクター・ヴェニング 今晩は、フレッド・・・ノラ。
 フレッド こちら、ミスター・ボーンとミス・ヴィヴィアン。
 ドクター・ヴェニング 始めまして。(ビリーの方へ行く。)どうだ? 君。・・・気分は?
 ビリー はい、ええ・・・まあ・・・
 ドクター・ヴェニング(包帯を指さして。)これは?
 ビリー 何でもありません。・・・たいしたことじゃ・・・バイクから落ちて、ちょっと頭を・・・
 ドクター・ヴェニング それは見てみなくちゃ・・・
 ビリー(明らかに脅えていて。)いいえ、それは・・・本当にいいんです。
 ドクター・ヴェニング 本当に私が診なくていいんだね?
 ビリー(囁き声で。)ええ、もしそうして戴けたら、診て貰わない方が・・・
 ドクター・ヴェニング いいだろう。それは今のところ放っておいて、他のところを診てみよう。君、立てる?
 ビリー はい。(少しフラつきながら立つ。)
(ドクター・ヴェニング、片腕をビリーの肩にかけて、もう一方の手でビリーの顔を右から左へ動かす。)
 ドクター・ヴェニング バーの方まで歩いて、それから戻って来て。
 ビリー はい。(歩く。やっとのこと。)
 ドクター・ヴェニング 偉い偉い。さ、坐って。
(ビリー、坐る。疲れた様子。)
 ドクター・ヴェニング 最後に食事を取ったのはいつだ?
 ビリー 昨日の朝です。
 ドクター・ヴェニング(微笑んで。)お茶を飲むかい?
 ビリー はい。
 ノラ 私、行って見て来ます、先生。薬罐がかけてあるんです。
(ノラ、退場。)
 ドクター・ヴェニング 有難う、ノラ。(皿を見て。)パンを食べて。(ビリーに皿を渡す。)
 ビリー(受け取る。)有難うございます。(ガツガツと食べる。)
 ドクター・ヴェニング 慌てなくていい。まだ後から来る。
(ビリーが食べている間、少し間。そしてジョージが口を切る。)
 ジョージ そうだ、フレッド。約束の飲み物は?
 フレッド OK。忘れてましたよ。(バーの後ろへ行く。)先生も一杯如何ですか?
 ドクター・ヴェニング(まだビリーを見ている。)いや、私はいい。
 フレッド(ジンを注いで、ライアに。)何か入れますか?
 ライア とんでもない。ジンに対する冒涜だわ。
(ノラ、紅茶の入ったカップを持って登場。ビリーに渡す。)
 ノラ ソーサーにサッカリンもおいてあるわよ。よかったら。
 ビリー すみません・・・どうも有難うございます。
 ドクター・ヴェニング(優しく。)どこも悪くないようだ。見たところ、疲労と栄養失調だけだ。その包帯の下に何かがあれば別だがね。
 ビリー 僕は大丈夫です・・・本当に大丈夫なんです。(紅茶をすする。)
 ドクター・ヴェニング 何が起ったか話してくれた方がよさそうだ・・・ここはみんな味方だ。裏切るような人間はいない。
 ビリー(下を向いて。聞こえないような小さな声で。)逃げて・・・逃げて来たんです。
 ドクター・ヴェニング いつ。
 ビリー 一昨日です。
 ドクター・ヴェニング どこから・・・どの収容所だ。
 ビリー スタラグニ十三・・・ワイト島です。・・・ライドとカウズの間の・・・
 ドクター・ヴェニング どういう理由で入れられたんだ?
 ビリー 僕は空軍の地上部隊にいました。最初は全員、ビーコンズ・フィールドに抑留されました。僕はそこで脱走を試みました。三度やりました。でもその度に捕まって・・・それで、僕には強制労働を止めさせて、ワイト島に送り込んだんです。
 ドクター・ヴェニング それで連中は殴ったり、酷い目にあわせたりしたのか?
 ビリー いいえ、その時には・・・正確にはイースターまではやりませんでした。
 ドクター・ヴェニング で、イースターになったら?
 ビリー また僕は脱走したんです。それで捕まって・・・
 ドクター・ヴェニング それで?
 ビリー 足にも腕にも酷いことをされて・・・それから・・・それから・・・(言い止む。声が詰って涙が出そうになる。)
 ドクター・ヴェニング うん、そこは今はいい。今度はどうやって逃げた。
 ビリー(やっと。)友達と二人で計画を立てたんです。僕達の小屋は一番端にあって、その近くの鉄条網に弱いところを見つけました。一昨日の夜、そこを二人で腹這いになって潜り抜け、一マイル半ばかり匍匐(ほふく)して浜辺に辿りつきました。草っ原に電信柱の壊れたのが落ちていたので、それを水のところまで転がして、浮べて、それを押して泳いだんです。疲れたらその上で休めるように。半分ぐらい進んだ時に、僕のその友達は・・・(言うのを躊躇う。)・・・疲れて・・・(次は出て来ない。)
 ドクター・ヴェニング つまり、もう続ける力がなくなったんだな?
 ビリー ええ・・・僕の方が泳ぎは得意だったんです。・・・僕は助けてやろうと・・・でも、うまく行かなくて・・・とうとう・・・
 ドクター・ヴェニング(鋭く。)そこはいい。それで、どこに着いたんだ。
 ビリー リー・オン・ザ・ソレントに。岸に着いてから暫くは這って進みました。それから立上って、二三マイル歩きました。次第に明るくなって、畑に隠れていました。その畑の持主の女の人が僕を見つけて・・・その人です、この包帯をしてくれたのは。・・・(言い止む。)
 ドクター・ヴェニング で、バイクは?
 ビリー バイクなんてありません。
 ドクター・ヴェニング そうか・・・まあいい。それで?
 ビリー その人が僕に食べ物をくれて、農作業用の車に乗せて・・・袋の中に僕は隠れていたんです。・・・長い間走りました。・・・それから下ろしてくれました。・・・フェアー・ハムの近くです。・・・多分、きっと・・・それから歩きました。
 ドクター・ヴェニング 昨日の朝は食事をしたと言ったね・・・それはどこ?
 ビリー ギルドフォードの傍です。牧師さんに会って・・・コールド・ミートとじゃがいも、それに五シリングをくれました。
 ドクター・ヴェニング それから?
 ビリー それから、もう疲れ果てて、歩けなくて、キングストンでバスに乗りました。それからまた歩いて・・・暗くなって・・・だいたいこの辺りは知っていましたから・・・両親がいろいろ手紙をくれていて、この辺りに引っ越したって書いてきていたんです。そこへ行ってみたら二人ともいなくて・・・だからここに来て、店が閉まるまで外で隠れていたんです。
 ドクター・ヴェニング ウム・・・じゃ、その包帯を取って。
 ビリー(ちょっと周囲を見回した後。)はい。
(ドクター・ヴェニングも解くのを手伝う。額に「K・G」と焼印がおされている。赤い字。もうすっかり乾いている。)
 ノラ まあ!
 ドリス 可哀相に。
 ドクター・ヴェニング これだね? イースターの時にやられたというのは。
 ビリー はい。
 ノラ K・G・・・K・G・・・どういう意味?
 ジョージ クリークス・ゲファンゲネ・・・戦争捕虜。
 ドクター・ヴェニング(調べて。)隠すのは難しいな。
 ジョージ まあ不可能だ、これは。
 ドクター・ヴェニング 包帯で一時(いっとき)は誤魔化せるが、長いことは無理だ。酷く危険だ。
 フレッド どうしたらいいんでしょう、先生。
 ドクター・ヴェニング 今夜一晩は大丈夫だ。つけられていなかったと仮定しての話だが。・・・(ジョージをライアを見て。)これからは今のこの件に関る人間が少なければ少ない程、我々全員にとって安全な筈ですね。
 ライア(ジンを飲み終えて。)その通りですわ、先生。さ、ジョージ、行きましょう。
 ジョージ うん。(ドクター・ヴェニングに。)どうやら先生、私達は以前お会いしたことがあるようですね。
 ドクター・ヴェニング そうですか? どこでだったでしょう。
 ジョージ 戦争が始まったばかりの頃、英国海外派遣軍にいらっしゃいませんでしたか?
 ドクター・ヴェニング いいえ、私は空軍で・・・国内勤務でしたが?
 ジョージ(軽い調子で。)じゃ、きっとダンカークでですね? お会いしたのは。
 ドクター・ヴェニング(ジョージを鋭く見て。)ダンカーク?
 ジョージ ダンカークっていうのは、人がよく行くところですからね。・・・浜辺を歩いていると、知った人によく出会うものです。
 ライア あなた、何の話をしているの? ダンカークなんて、その附近にだって行ったことないじゃない。
 ジョージ(微笑んで。)あるかもしれないぞ。
 ドクター・ヴェニング(振り返って。)そうですね。・・・出会ったかもしれませんね、あそこで。
 ジョージ お休みなさい、先生。・・・またお会いするかもしれません。この件でお手伝い出来れば・・・ええ、何か私に出来ることがあればお知らせ下さい。電話番号は電話帳にあります。名前はボーン・・・ジョージ・ボーンです。
 ドクター・ヴェニング 有難う。・・・覚えておきます。
 ジョージ ドリス、じゃ、僕らを裏口から頼む。
 ドリス OK。・・・さ、こっちへ。
 ライア お休み、ノラ・・・お休み、フレッド。素敵なジンを有難う!(ビリーに。)元気出してね。
 ビリー 有難うございます。
 ジョージ(ビリーに。)頑張るんだぞ。
 ビリー はい。
(ドリス先に立って、その後ジョージとライア、退場。)
 ドクター・ヴェニング よし、じゃ、また包帯だ。手伝って、ノラ。
(二人でビリーに包帯をする。ドリス、帰って来る。)
 ドリス これからは?
 ドクター・ヴェニング 他には誰にも見られなかったな? ミスター・ボーンとミス・ヴィヴィアンだけだな?
 ドリス ええ。あの二人は大丈夫です。
 ドクター・ヴェニング うん。(包帯を巻き終る。)さてと・・・君の名前は?
 ビリー ビリー・グレインジャーです。
 ドクター・ヴェニング 身分証明書、或はそれに類するものは?
 ビリー ありません。収容所に入れられた時、全部取られました。
 ドクター・ヴェニング 他に焼印のようなものは?
 ビリー ありません。
 ドクター・ヴェニング よし。もし君が全てを私に委ねてくれれば、私は君を助けることが出来る。しかし、私の言う事は何でも聞くと約束してくれなきゃ駄目だ。
 ビリー 分りました。
 ドクター・ヴェニング まづ最初に、両親に会おうという考えは捨ててくれなきゃならない。両親には決して、何も知らせてはならない。君は一晩、私の家に泊る。そして明日の朝、車でロンドンのはずれの診療所に行く。そこで額の手術をする。尻の皮を剥いでくっつけることになるだろう。君はスウェインの自動車修理場でガソリンがかかって、酷い火傷をしたんだ。スウェインの自動車修理場は君の働いている場所だ。分るね? スウェインのガレージだ。
 ビリー はい、分ります。
 ドクター・ヴェニング その診療所には一箇月(ひとつき)ぐらいいることになるだろう。君の名前はこっちで考えておく。出来るだけ話はしないようにする。看護婦にもだ。分ったね?
 ビリー 分りました。有難うございます。
 フレッド いろいろ御親切に、先生。
 ドクター・ヴェニング もう君、行ける?
 ノラ 先生、もう少し食べさせた方がいいんじゃありませんか? 私、何か作って来ますけど?
 ドクター・ヴェニング いや・・・食べることは私の方でやります。ここは出来るだけ早く出た方が。さ、ビリー。ドリス、ちょっと外を見て。誰もいないことを確かめて。
 ドリス はい。
(ビリー、立上る。)
 フレッド(ビリーと握手して。)お休み、ビリー・・・よくまあ、逃げて来られたよ。頑張るんだぞ、これからも。
 ノラ お休み、ビリー・・・気をつけてね。
 ビリー 有難うございます。・・・(声がかすれる。)本当に、色々御親切に・・・僕・・・僕・・・
 フレッド さあ・・・またいつか会えるさ。
 ドクター・ヴェニング(片腕をビリーの肩に回して。)さ、行こう。(フレッドとノラに。)事の推移はこれからは時々お知らせします。しかし、電話は決してかけないで下さい。それから、そちらから物を訊ねることも。じゃ、お休み、ノラ・・・フレッド。さ、ドリス、頼む。
(ドリス、先に立つ。ドクター・ヴェニングとビリー、その後から退場。)
 ノラ(椅子に沈み込むように坐り、ワッと泣きだす。)まあ、何てこと!
 フレッド(ノラに近づいて。)おいおい、ノラ・・・何も泣くことはないじゃないか。
 ノラ だって・・・だって・・・あの可哀相な子・・・
 フレッド(ハンカチを出して。)ほら・・・拭くんだ。・・・取り乱しても何にもならない。あの子は大丈夫だ。・・・先生のお陰でね。
 ノラ あの子、スティーヴィーと同じくらいの年よ。もしスティーヴィーが撃ち殺されていなかったら、あの子と同じように・・・
 フレッド(片腕をノラに回して。)ほらほら、まただぞ。スティーヴィーの話はもう・・・
 ノラ(急に強い調子で。)スティーヴィーが死んでよかったの。本当によかったのよ。もし生きていたら、あの子と同じように拷問にかけられて、焼き鏝(ごて)で額に・・・
 フレッド(鋭く。)黙るんだ、ノラ。そんなことを考えて何になる。
 ノラ(目を拭いて。)分ったわ。もう考えない。・・・駄目ね、今夜は。私の駄目な晩だわ。
 フレッド ゴードンをちょっと・・・どうだ?
 ノラ いいえ。私は大丈夫。
 フレッド よし。・・・私は飲むぞ。ここで飲んでも罰(ばち)はあたらない筈だ。(ジンを一杯コップに注ぎ、壜をバーの後ろに戻す。)
 ノラ(バーのところに来て。)煙草ある? 煙草なら吸いたい気持。
 フレッド OK。・・・ほら。(一本渡して、バー越しに火をつけてやる。)
 ノラ でも私・・・さっき言ったのは本気。
 フレッド 何が本気なんだ。
 ノラ スティーヴィーのこと。
 フレッド おいおい、まただぞ、ノラ。
 ノラ 死んでて私、よかったの。・・・本当に。もし生きているって分ってたら・・・この国で・・・もう心配で心配で・・・きっと気違いになるわ。
 フレッド そうかもしれんな。まあ反対はしないよ。・・・だけどとにかく、あいつのことは忘れるようにするんだ。考えれば惨めになるだけだからな。
 ノラ いつも惨めになるとは限らないわ。時々は考えると幸せになるの。
 フレッド じゃあまあ、好きなようにするさ。さ、上って寝ていいよ。締めは私がやる。ドリスを待ってて、二人ですぐ上る。
 ノラ(大儀そうに。)分ったわ。(バーの後ろへ行き、自分のハンドバッグを取り、アーチをくぐって退場。)
(フレッド、一人残り、バーの後ろに立ち、空中をじっと見つめる。溜息をつく。)
 フレッド(目に涙が溜って・・・急にコップを持ち上げ。)お前に乾杯だ、スティーヴィー。(飲む。)
(場、暗くなる。)
               (一幕三場 終)

   第 一 幕
   第 四 場
(一九四二年二月 店が閉まる直前。九時三十分頃。)
(グレインジャー夫妻は窓の傍のいつもの席。アルフィー・ブレイクの妻のリリー、左手のテーブルに坐っている。しなびた感じの女性。バーの向こう側にはフレッド、ノラ、それにドリス。通りに通じる扉が開き、ドクター・ヴェニング登場。バーに進む。)
 ドクター・ヴェニング 今晩はフレッド。やあ、ノラ。
 ノラ 今晩は、先生。
 フレッド 何になさいますか? 先生。
 ドクター・ヴェニング ビール、まだあるかな?
 フレッド あると言えばありますが・・・酷いものです。こいつは予め言っておかなきゃ。
 ドクター・ヴェニング いや、構わない、酷くても。
 ドリス(バーの後ろにある窓から出てきて。)あら、先生。入っていらっしゃるの、気がつかなかったわ。
 ドクター・ヴェニング ああ、ドリス。ちょっとしたニュースがあるんだ、君に。・・・いや、ドリスだけにじゃない、三人へのニュースだな。
 ベン マイルド、半パイント。
 ドクター・ヴェニング ガレージの火事で火傷(やけど)をした私の友達のことを覚えているかな?
 ドリス ええ・・・でも、名前は忘れたわ。何だったかしら。
 ドクター・ヴェニング フォーセット・・・ジョン・フォーセット。
 ドリス そうそう・・・ジョニー・フォーセット! 思い出したわ。あの人、如何?
 ドクター・ヴェニング 順調なんだ。手術を受けてね。でも、今はもう退院している。トラックの運転の仕事を見つけたんだ。だからそのうち、ここにひょっこり現れてもびっくりしないで欲しい。
 ノラ よくなって良かったわ。あれからどうなったか、よく噂をしていましたの、家で。
 ドクター・ヴェニング(グラスを上げて。)これは知らせておいた方がいいと思って。
 ドリス 有難うございます、先生。
 ドクター・ヴェニング ジョンは友達の行方が分らなくなったと言ってるんですよ。例のグレインジャー夫妻の・・・
 ノラ シー・・・
 ドクター・ヴェニング お二人は引っ越しをされたかどうかしたんですね。ジョンは、あの二人がどこにいるか分らなくなったって。お二人に、自分が達者にしているってことを知らせたいって言ってるんです。
 ドリス 分りました。気をつけておきますわ、先生。
 ベン 失礼ですが、ヴェニング先生で?
 ドクター・ヴェニング ええ。
 ベン 手紙を預かっています。(メモを渡す。)
 ドクター・ヴェニング 有難う。
(ベン、飲み物を飲んで、退場。)
 フレッド あの夫婦、酷い目にあったんですよ・・・訊問を五回も受けて・・・二週間に五回もです。
 ノラ 今話すのは止めて、フレッド。
 フレッド 分った・・・分ったよ。
 ドクター・ヴェニング(ドリスに。)詳しく話すことはないからね。とにかく達者でいるってことだけ・・・お二人に。私はもう行かなくちゃ。(フレッドにビールの代を払う。)お休み。
 ノラ またお待ちしています。
 ドクター・ヴェニング ジョージ・ボーンは今日は来なかったね? きっと。
 ドリス ええ、旅行に・・・ブライトンに行ってますから。
 ドクター・ヴェニング そうそう・・・私が証明書を書いた。健康は大丈夫だと。それで、行けるようにはしたんだが・・・今日か明日には帰って来るんじゃないかな。もしここに来るようなことがあったら、ちょっと私に電話して下さい。
 フレッド はい、分りました。
(ドクター・ヴェニング退場。)
(左手からアルフィー・ブレイク登場。その後ろに商売仲間のウイリアムズ登場。)
 アルフィー(大声で怒鳴る。)俺は、糞ドイツ兵なんか、怖くないぞ!
 ミスィズ・ブレイク 勿論怖くないでしょう、あなた。・・・馬鹿なこと言わないで。(立上って、アルフィーをテーブルにつかせる。)
 アルフィー あのヒットラーの奴が今ここに来たら、俺がどうするか、お前分るか?
 ミスィズ・ブレイク 分ってるわよ、あなた。・・・丁度私と同じことをするの。一目散に逃げるのよ。何かもっと召上ります? ミスター・ウイリアムズ。
 ウイリアムズ いや、もう結構。
 アルフィー フン、それでイギリス女性か、お前は。
 ミスィズ・ブレイク 黙ってアルフィー、お願い。ミスター・ウイリアムズにどう思われるか分らないわ。
 アルフィー ミスター・ウイリアムズがどう思おうと、こっちの知ったことか。自分のことを何だと思っているんだ、ミスター・ウイリアムズは。
 ミスィズ・ブレイク ミスター・ウイリアムズだと思っているわ、きっと。(ウイリアムズに。)この人のこと、放っといて下さいね。時々こんな風になるんですの。
 アルフィー どんな風になるっていうんだ。
 ミスィズ・ブレイク もうお黙りなさい、アルフィー。分ったわね? 黙らないと私、レディーの嗜(たしな)みを忘れて、あなたを怒鳴りつけるわよ。
 アルフィー そうか、お前はヒットラーから逃げるのか。・・・そうか・・・
 ミスィズ・ブレイク そうよ。あっという間に消えているわ。
 アルフィー それでイギリスの女性か、お前は。
 ミスィズ・ブレイク(立上って。)行きましょう、ミスター・ウイリアムズ。ここはこんなところ!
 アルフィー(ミスター・グレインジャーが、自分の席からバーに近づくところに出会う。)それでイギリスの女性かね!
(ミスィズ・ブレイクとミスター・ウイリアムズ、威厳をもって退場。アルフィー、怒ってブツブツ言いながらも、仕方なくその後に続いて退場。)
(ミスター・グレインジャー、バーに行って。)
 ミスター・グレインジャー 有難う、フレッド。今日はこれで終りにします。
 フレッド つけにしますか?
 ミスター・グレインジャー いや、これは払います。もう一週間分ぐらいつけになっている筈ですから。
 フレッド 分りました。じゃ、今領収書を切ります。ちょっと待って下さい。
 ドリス 最近また、何かありました? ミスター・グレインジャー。
 ミスター・グレインジャー いや、日曜日からは放っておいてくれています。
 ドリス あの人からは・・・連絡はないんですか?
 ミスター・グレインジャー ええ、でも何となく元気でいるらしいっていう感じがしています。・・・まあ、昔からずっと私はそういう気持でいましたが・・・ただ、女房はひどく心配して・・・死んだんじゃないかって・・・
 ドリス(バーにかぶさって。)死んでいません、あの人。元気です。そして、安全なところに。それを、そしてあの人、それだけを知らせたいって。でも、それ以上は駄目なんです。
 ミスター・グレインジャー(ハッとして。)どういうことです? ドリス。どうやって・・・
 ドリス 慌てないで。・・・今の話は本当。確かな情報。でも訊かないで。奥さんにも言わないで・・・ここでは。家に帰って、落ち着いてから話して。
 ミスター・グレインジャー でも・・・私にはどうも・・・
 ドリス ねえ、英語はお分かりでしょう? ね? これでお仕舞い。全部。分りましたね?
 フレッド(ミスター・グレインジャーに領収書を渡して。)さ、お勘定です。
 ミスター・グレインジャー(気を取り直して。)ああ、有難う、フレッド。(財布を取出し、一ポンド札を出す。)これで・・・
 フレッド 毎度・・・(レジに入れて、お釣りを出す。)
 ノラ 今日は一日いいお天気でしたわね。
 ミスター・グレインジャー ええ。
 ノラ 行進はご覧になって?
 ミスター・グレインジャー(まだ腑に落ちなくて。)いえ、・・・ああ・・・いや、見ませんでしたな。
 ノラ(優しく。)本当に大丈夫なんですよ。ご安心なさって。
 ミスター・グレインジャー ただ・・・誰からっていうことが・・・誰なんです? いや、どうして娘さんにそれが分ったのかと・・・
 ドリス 私、伝言を頼まれたんです。あなたに伝えて欲しいって。どういう風に頼まれたか、どこで、誰からっていうことは、お話できません。これでもう、だいたいお分かりでしょう? ですからもう、お訊きにならないで。そして黙っていて下さい。
 ミスター・グレインジャー 分りました。有難う、ドリス・・・有難う。(自分のテーブルに戻る。)もういいかい? お母さん。
 ミスィズ・グレインジャー(立上りながら。)いいわよ、あなた。
 ミスター・グレインジャー(肩ごしに。)お休み、フレッド・・・お休み、ノラ・・・お休み、ドリス。
 ミスィズ・グレインジャー お休みなさい。
 フレッド お休み。
(二人、退場。フレッド、ドリス、ノラから「お休み」の挨拶を受けながら。)
(ドリス、供配口から二個のマグカップ、それにお金を下げる。フレッド、バーから戻って、通りに通じる扉に鍵を閉め、閂(かんぬき)をかける。そして、二三のテーブルからコップを下げて来る。ドリス、供配口から「お休み」と声をかけ、供配口を閉める。)
 ノラ ニッパーったら、ひどく吠えてるわね。入れてやりなさい今夜は、ドリー。
 ドリス 分ったわ、ママ。見廻ってきて、まづ店は閉めてしまうわ。
(ドリス退場。小声で歌の旋律を口ずさみながら。)
 フレッド レジはこのままにしておこう。食事の後、やる。(部屋を横切って、玄関の扉に鍵をかける。)
 ノラ あなた・・・
 フレッド 何だい?
 ノラ 全然見つからずに、あんなことが出来るなんて、あの人どうなっているのかしら。
 フレッド あの人って?
 ノラ ヴェニング先生のこと。
 フレッド 知らないね。まあ、友達がいるんだろう。その方面で影響力を持っている・・・
 ノラ 自分の命を賭けているのね? あの方。
 フレッド 今は多いよ、多分、そういう人間は。
 ノラ 私達は違うわ。
 フレッド おいおい、どうしたんだ、ノラ。何か気になることがあるのか?
 ノラ 私、何かしたいの。本当に何かを。
 フレッド 何かって、何をだ。
 ノラ 何か手伝えることを・・・
 フレッド 馬鹿なことを言うな。私達に何が出来るっていうんだ。厄介事を呼び込むだけじゃないか。意味ないよ。
 ノラ ヴェニング先生は呼び込んでいるわ。
 フレッド それがあの先生の仕事なんだろう。
 ノラ 私、あの子のことがどうしても頭から離れなかった・・・あのことが起ってから・・・あれはもう七週間ぐらい前になるけど、あれからずっと・・・私、考えていた・・・
 フレッド 何を考えていたんだ。
 ノラ あの先生のような仕事をしている人は沢山いるに違いないって。逃げた囚人を匿(かくま)ったり、新しい身分証明書を作ったり、ドイツ兵のすぐ鼻先で、新しい仕事をやらせたり・・・
 ドリス(帰って来て。)閉めたわ。今度はニッパーを入れて来る。
 フレッド じゃ、頼む、ドリス。
 ドリス パパ、ママ、随分深刻な顔しているわ。どうしたの?
 フレッド お母さんがね、何かやろうって言い出してね・・・
 ノラ 何を言ってるの! あなた。
 ドリス やるって、何を?
 フレッド(静かに。)分らない・・・実際に何をやるかの話になれば。お母さんだって、具体的には分っていないんだ。私に分っていることは、みんな、気をつけなきゃいけないっていうことだ。することに気をつける、言うことに気をつける、それに、考えることに気をつける・・・
 ノラ どうしてそんなことまで・・・
 フレッド それは、死ぬよりは生きていた方がいいからだ。
 ノラ スティーヴィーは生きていないわ。
 フレッド スティーヴィーがこれと何の関係がある。
 ノラ(熱を込めて。)大ありよ。もしあの子が今ここにいたら、ただ坐っているなんて決してしないわ。それに、気をつけるだけなんて。あの子は必ず何かやっている筈。あの先生みたいに。他のいろんな人と同じに。私達、いつまでもこんなことやっている訳にはいかないわ。ただやれって言われたことをやって、自分の気持ひとつはっきり言えないなんて。私達、心を決めて・・・
(ベルが鳴る。ノラ、急に話し止める。)
 フレッド 裏の扉だ。
 ドリス こんな夜遅く、ベルを鳴らすなんて、一体誰かしら。
 フレッド 先生かもしれない・・・誰だって鳴らすさ。
 ノラ(身体を堅くする。何かに耳をすませている様子。)ドリー、あなた行って見て来て。
 ドリス はい、ママ。(ノラを見て。)どうしたの?
 ノラ(静かに。)分らない。誰か見て来なさい。
(ドリス、走って退場。)
 フレッド(心配そうに。)お前、大丈夫か?
 ノラ(真直ぐ前方を見つめて。)ええ・・・私、大丈夫。
 フレッド(バーから廻って、ノラに近づき。)ノラ・・・ノラ、どうしたんだ、一体。
 ノラ 言ったでしょう。分らないの。
 フレッド じゃ、何を見つめているんだ、そんなに。
 ノラ 見つめているんじゃないの。耳をすましているの。
 フレッド 先生じゃなきゃ、ミスィズ・カッパーだろう、きっと。お茶か何か借りに来たんだ・・・
 ノラ 静かにして、フレッド。ドリーが戻って来るわ。
(ドリス、ゆっくりと登場。顔色が蒼ざめて、震えている。しかし、ぐっと自分を抑えている。)
 ドリス(押し潰された声で。)ママ・・・
 ノラ ええ、何?
 ドリス 落ち着いて、ママ・・・驚いたり、取り乱したりしちゃ駄目よ。坐って、ママ。ねえ、お願い。坐って。(テーブルの一つから椅子を引いて来る。)ほら、ここに・・・
 フレッド 何だ。どうしたんだ。
 ノラ 私、坐りたくないわ、ドリー。・・・私、立っていて大丈夫。
 ドリス ママ・・・ああ、ママ・・・大変なこと・・・本当に大変なことよ・・・気を確かに持ってね・・・
 フレッド 何だ一体。何のことを話しているんだ。
 ドリス 私、出来るだけ・・・出来るだけ落ち着いて話すわ。だから・・・
 ノラ(静かに。)ええ、分ったわ、ドリー・・・さあ言って。何なの?
 ドリス 兄さんなの。・・・スティーヴィーなの、ママ。
 ノラ(急に鋭い声で。)ええ、ええ・・・それで? それで?
 ドリス(早口に。)殺されてなかったの、兄さんは。今ここにいるの。
 ノラ(目を瞑って。両手をしっかり組み合わせて。)そう・・・私、そうだと思った。あの子だと思っていた・・・
 ドリス(扉のところへ行って。)兄さん・・・入っていいわよ。(ノラのところへ戻る。)身体は大丈夫なの。怪我も何もしていない。・・・元気そうよ。
(スティーヴン登場。二十七歳ぐらいの、好感のもてる若者。服は何とも言いようのないもの。健康ではあるが、疲れている。真直ぐノラに進み、両手で抱擁する。ノラ、スティーヴンの肩に頭を埋める。)
 スティーヴィー(ノラの頭越しに。)やあ、パパ。
 フレッド(言葉が出て来ない。)てっきり・・・てっきり・・・お前は死んだと・・・撃ち殺されたんだとばかり・・・
 スティーヴィー うん・・・分ってる。
(フレッド、スティーヴィーに近づく。泣かないよう、必死の努力。両腕をスティーヴィーに回す。)
 スティーヴィー 楽にするんだよ、ママ。身体を強張(こわば)らしちゃってるじゃない。全身震えているよ。楽にして。涙は流しちゃうんだ。気分がよくなるよ。
 ノラ 駄目・・・駄目・・・出来ない、私。・・・ああ、スティーヴィー、スティーヴィー・・・(わっと泣きだす。)
 スティーヴィー(ノラの身体を支えて、椅子にかけさせて。)ああ、それでいいんだ。可哀相に、ママ。こんな酷い驚かせ方はしたくなかったんだ。でも、仕方がなかった。予め知らせる方法はなかったんだ。安全な方法がね。
 フレッド(やっとのこと。)スティーヴィー・・・一体これは・・・どういうことなんだ。どこから来た。どうやって。とても信じられない・・・すぐには・・・
 スティーヴィー 大丈夫なんだ、パパ。いろいろ手はうってあるんだ。
 ドリス(鼻をすすりながら。)お願い、パパ。パパが泣いちゃ駄目。みんな泣き出しちゃうじゃないの。
 ノラ(声を詰まらせて。口をハンカチでおさえながら。)分ってたの、私には。私、分っていた。ニッパーが鳴いているのを聞いた時から・・・
 フレッド 馬鹿なことを言うんじゃない。分る訳ないじゃないか。
 ノラ いいえ、分っていたの。ちゃんと何か予感がしていた。もう何週間も前から・・・だんだん近くなって来ていたの。私は待っていた。何を待っているのか自分でも分らなかったけど、何かが来るんだって。スティーヴィーに関係のある何かが来るんだって・・・
 フレッド 扉は閉めて来た方がいいな。私が・・・
 ドリス いいのよパパ、もう閉めて、閂(かんぬき)もおろしたわ。
 ノラ(止めようもなく泣きだして。)スティーヴィー・・・
 スティーヴィー ドリー、ちょっとお湯を沸かしてきてくれないか。放っておくとここ、収拾がつかなくなっちゃうよ。
 ドリス OK、スティーヴィー。(ドリス、急に飛びついて、両腕をスティーヴィーの身体に回す。)いいわ、兄さんにまた会えたなんて。何て嬉しいんでしょう!・・・まだ信じられない・・・本当、とてもまだ。すぐ沸かして来るわ。私が帰って来るまで、話をしちゃ駄目よ。いい? 一言も言わないのよ・・・
(ドリス、走って退場。)
 スティーヴィー さあ、ママ・・・もう泣くのは止めて。もう終。・・・ママの顔、僕はまだよく見ていないよ。よく見せて。(母親の顔を持ち上げて、上から見る。微笑んで。)そう、それでいい。
 ノラ 痩せたわね、あなた・・・家を出て行ったあの頃より・・・
 スティーヴィー 収容所から逃げ出した時の状態から較べたら、もうこんなの、肥満体だよ。
 フレッド 収容所? 何の? どこの?
 スティーヴィー フランス・・・リヨンの近く・・・もうずっと前・・・正確には十一箇月前。
 フレッド でも、それからどこにいたんだ。どうやってここまで・・・
 スティーヴィー そう急がせないで、パパ。煙草を一本吸って気を落ち着けよう。僕にもこれはかなり効いてるんだ。何週間も心配だった。ちゃんと皆が捜せるのかどうか。皆が生きているかどうかだって・・・こちらで何かが起っていても不思議じゃない事態なんだから。
 フレッド(煙草を渡して。)さあ、スティーヴィー。それから一杯やるのはどうだ? ゴードンならあるぞ。
 スティーヴィー いや・・・お湯を待ってる。お茶の方がいい。
(ドリス登場。盆、茶碗、ソーサー、その他。それにビスケットを持って。)
 ドリス 薬罐はかけたわ。もう後、一、二分よ。
 ノラ お坐りなさい、スティーヴィー。・・・あなた、疲れている筈・・・
 スティーヴィー(ノラの近くに椅子を引いて。)ああ、疲れたの何のって! 一箇月でもぶっ続けに寝られそうだ。(坐る。)ほら、ママ・・・これ以上ママにピッタリくっつくのは無理だよ。ママの膝の上に乗らなきゃならなくなる。(母親の手を取る。)
 ノラ 気をつけて、スティーヴィー。私、また始まっちゃう・・・
 スティーヴィー ねえ、あのニッパーの奴、僕のことを覚えていたんだ。近所の人達みんな起しちゃうんじゃないか、心配になったよ。吠えて、飛びついて来て・・・。最後に見た時、まだほんの小犬だったのに。
 ノラ(ぼんやりと。)一九四0年九月三日・・・
 スティーヴィー(片手を母親の身体に回して・・・ノラ、頭を息子の身体に預ける。)ね、ママ。思い出しちゃ駄目だ。・・・また、泣き出しちゃう。今泣いたって、どうしようもないんだ。それに時間もない。僕は長くはいられないんだ。
 ドリス 身分証明書・・・それは大丈夫なの?
 スティーヴィー 大丈夫。名前は違っている。つまり苗字の方だけど。変えなきゃいけなかったんだ。僕のことをスティーヴィーと呼ぶのは大丈夫。注意してやりさえすれば。
 ドリス 苗字は?
 スティーヴィー シェルドン。スティーヴィー・シェルドン。一九二0年生れ。バーミンガムのはづれ。かなりちゃんとした家の出なんだ。僕の両親とも、僕がまだ小さい時に死んでしまって、僕はサウスポートにいる叔母さんの、モナという人に育てられた。丁度今日、そのモナ叔母さんの家を出て来たんだ。叔母さんがみんなによろしくって言っていたよ。
 ノラ 何の話をしているんだい? スティーヴィー。どういうこと? それ。
 スティーヴィー これには訳があってね、ママ。でも全部説明するのは無理なんだ。
 ドリス 説明は駄目。必要なことだけにして・・・私達にも言わないで。
 スティーヴィー(眉を上げて。)おいおいドリー、随分きつい言い方だな。
 ドリス きつくしなきゃいけない時があるの、最近は。私達みんながよ・・・本当に変ったの! さ、私、お茶を淹れて来る。
(ドリス退場。)
 スティーヴィー ドリスじゃないの、変ったのは。
 フレッド 私達みんな、大分変ったよ、多分。
 スティーヴィー 働いているの? ドリスは。
 フレッド うん。・・・でも、ここで暮している。非番の時は家の手伝いをしてくれている。
 スティーヴィー どこで働いているの?
 ノラ サヴォイ・ホテル。受付。
 スティーヴィー あそこは接収されたんだってね。ドイツ軍の高官、VIPが使っているんだ・・・
 フレッド うん。ドリスは一九四0年十一月からそのホテルにいたんだ。
 スティーヴィー(考えながら。)そうか。
 ノラ どうしたの? スティーヴィー。
 スティーヴィー いや、何でもない。
 ノラ 何か考えてるわ、あなた。・・・何なの?
 スティーヴィー で、受付の仕事はいつから?
 フレッド ドイツ占領下になってすぐだ。戦争が始まった頃、ドリスはミスター・ロールスドンの秘書をやっていた。それは知っているだろう?
 スティーヴィー うん。
 フレッド で、戦争が始まると、ミスター・ロールスドンは、ドリーをサヴォイ・ホテルに入れたんだ。あの人のいとこに、あそこの副支配人をやっている人がいて、その人の伝手(つて)でね。
 スティーヴィー で、そのミスター・ロールスドンは今どこに?
 フレッド 知らないな。もう何年もあの人のこと、聞いたことがない。
 スティーヴィー ドリーはどうなんだろう。
 フレッド 何だい? この話は。ドリーに直接訊いてみるんだな。
(ドリス、ティーポットを持って登場。)
 ドリス はい、お茶よ。
 スティーヴィー 君の前の雇い主はどうなったんだい、ドリー。ミスター・ロールスドンだけど。
 ドリス 戦死よ。
 ノラ ドリー! あなた、一言も言ったことないわ、そんなこと。
 ドリス ダンカークで。
 スティーヴィー ダンカーク!
 フレッド 馬鹿なことを言うんじゃない、ドリー。あの人、軍隊にも入ったことないんだぞ。
 ドリス でも、それが私の聞いた話。ダンカークで。信じても信じなくても、どっちでもいいけど。
 スティーヴィー 僕は信じるね。
 フレッド おいおい、お前達二人、急にイカレちまったんじゃないのか。
 ノラ フレッド!
 ドリス(スティーヴィーが何か言おうとするのを遮るように、急いで。)待って、スティーヴィー。パパとママは何も知らないの。私、一言も話したことはない。・・・それに、兄さんがどれだけ知っているか、それもよく知らないわ。・・・でもきっと、何かは知っている筈。でなきゃ、ここに帰って来るなんて無理ですもの。とにかく、まだはっきりした形にはなっていないの。組織とも言えない状態。・・・まだ、今のところは。何もたいして起きてはいないし、何も出来ていない。ただあちこちで、個人的に何かが出来ているといった程度。パパにもママにも、このことを知って貰いたくないの。・・・もう少し形がはっきりするまでは。・・・今の状態で巻き込まれるのはよくないと思ってる。この半年、随分人がこの国に入って来ている。それだけは分っているの・・・
 フレッド 何だい、今の話は。何のことを言っているんだ?
 ドリス 何でもないの、パパ・・・たいしたことじゃないわ・・・まだ。
 ノラ ちょっと黙ってフレッド。(ドリスに。)いい? ドリス。お父さんや私が、何を知ろうと何を知らないでいようと、それは問題じゃないの。でも一つだけあなたが肝に銘じて覚えておいてくれなきゃならないことがある。それはね、あなたが私達を信用していなかったっていうこと。私達を締め出していた。それをあなたは恥と思わなきゃいけないの。
 ドリス いいえ、ママ。信用の問題じゃないの、これは。私は、これを始める時、誓ったの。誰にも、決して、その必要が出て来る時までは、知らせないって。いつかは見つかる時が来るってことは、ちゃんと分っていた。でも、その時までは、決して。だって、わざわざ危険な目に逢うことはないんですからね。
 ノラ 危険? あなたに危険があるのに、私達の危険が何だっていうの。
 フレッド(静かに。しかし、非常にしっかりと。)ドリー、これだけははっきりして貰いたい。一体何が起っているんだ。私やママに、お前が知らせたくないと思っている事は何なのだ。
 ドリス スティーヴィーがここに来たのもそのため・・・この国の何百という人がやっているのもそのため・・・ドイツの奴等と戦うためよ。出来るだけの方法で戦う。まだ充分なことは出来ない・・・ほんのちょっとしたこと・・・彼らを怒らせたり、苛々させたり、いたたまれない気持にさせたり・・・でも、それがだんだん大きくなってきている。私達、だんだんと組織立ってきている・・・
 ノラ でも、それはあなたの命を賭けることでしょう? 昼も夜も、その一分一分も、それに全部賭ける・・・いいえ、命を賭けるだけじゃない。拷問にかけられること・・・焼けた鉄の棒で・・・(それ以上言えない。両手で顔を覆う。)
 スティーヴィー そう、ママ・・・その覚悟なんだ。
 ノラ ああ、もう私には心の平安はないわ。あなた方二人が、いつ捕まるかって、昼も夜も・・・恐ろしい危険・・・それが片時も休まる時なく・・・私、とても耐えられない・・・この年になって・・・私、もう年を取りすぎている・・・
 フレッド(片腕をノラに回して。優しく。)お母さん、そんな風に話すもんじゃない。・・・そんなの、本気で言っているんじゃないんだ・・・
 ノラ いいえ。私、本気で言っているんです!
 スティーヴィー ねえママ、これは我慢しなくちゃ仕様がないんだよ。どんなに大切なことかは、分っているだろう? ママ、パパ、僕、ドリー、四人合わせたよりも、もっと大事なこと・・・何十万、何百万の家族のために大事なんだ。自分達の好きな生き方で生きられないなら、そんな生活は無意味なんだ。僕達は戦わなければ・・・僕達全員が・・・最後のどん詰まりまで・・・
 フレッド 今の話の通りだよ、ノラ。
 ノラ ええ、分ってるわ。
 フレッド 「私達何かしなきゃ」って、ついさっき言ったのはお前だよ。お前が、自分から言い出したんだよ。
 ノラ スティーヴィーを見るまでは・・・この子が生きているって、知らないうちは・・・そう思っていたの。
 スティーヴィー ママ、お願いだ。・・・そんなに厳しく考えないで・・・
 ノラ ええ、分った。・・・きっと馴れるわ。・・・人間て、どんなことにでも馴れてしまう。ドリー、お茶をもう出した方がいいわ。こんなに長くおいて、もう真っ黒よ。
(ドリス、お茶を注ぎ、茶碗を配る。)
 スティーヴィー(自分の腕時計を見て。)もう少しで僕は行かなくちゃ。
 ノラ ここには泊れないの? 一晩だけでも。
 スティーヴィー 危険が大きすぎる。誰かに見られるかもしれない。・・・僕が誰か、分ってしまうかもしれない。そうだ、それで思い出した。僕の写真、何か残ってる?
 ノラ 私達の部屋に二枚。ドリーも一枚。ビギン・ヒルに行く直前にスナップで撮ったのが。
 スティーヴィー 焼き捨てて。
 ノラ まあ、スティーヴィー・・・
 スティーヴィー 焼くんだ。隠してもいけない。必ず焼いて。
 フレッド 分かった。焼くよ。
 ノラ ああ、目が醒めて欲しい・・・これが夢の方が・・・
 ドリス はい、お茶。
 フレッド どうしたんだ、スティーヴィー。まだ何も話してくれていないぞ。色んなことをみんな知りたいのに。
 スティーヴィー 時間がないんだ。
 フレッド 諜報機関か何かに入っているのか?
 ノラ どうやってここまで?
 スティーヴィー ああ、ママ・・・大事な大事なママ・・・ママに辛いのは分るよ。そう。あらましだけ・・・簡単に。ブーローニュの近くで僕は撃たれた。捕虜になった。そしてリヨンの収容所に送られた。・・・一九四一年三月までそこに・・・収容所に・・・いた。それから他の三人の仲間と一緒に逃げた。・・・これだけでも長い話になる。釣り船でジブラルタルまで密航。それからずっとそこ。・・・訓練を受けていた。
 フレッド 訓練?
 スティーヴィー ジブラルタルのロックにいるイギリス空軍の諜報部の人が指導者だ。僕が無線技師なのを知っていて、特別な器械の操作を教えてくれた。イギリス中で、こっそりと工場が作られている。無線の、受信発信装置の工場なんだ。すごく小さいやつ・・・いいのになると、ハンドバッグにでも入れられるくらい小さい。素晴らしいんだ。・・・とても信じられないだろう? ひとつき前に僕と他に五人、潜水艦で入国した。ウエスタン・アイルにまづ上陸して、次に六人ともバラバラに南に向った。大きな都市では、地下で抵抗運動が始まっている。僕はサーソウからエジンバラ、それからカーライル、次に新しい親戚と連絡をとるためサウスポートに行った。それが叔母さんのモナと叔父さんのフランクだ。この叔父さん、まるで魔法使いなんだよ。そこからマンチェスター、それからバーミンガム、そして今朝やっとロンドンに着いたんだ。トラックでね。
 ノラ さっぱり分らないわ。
 スティーヴィー 連合軍のイギリス奪還のためなんだ。
 フレッド 奪還?
 スティーヴィー そう。着々と準備を整えているんだ。・・・一年後かもしれない。いや、実際のイギリス上陸は、二三年後かもしれない。でも計画は着々と進んでいる。本当に細かいところまで。アメリカで、カナダで、アフリカで、アイスランドで、グリーンランドで。その他世界中のあらゆるところで準備が進んでいる。日刻みに、時間刻みに。これが希望なんだ。・・・僕らが生きて、達成しようとしている希望、それがこれなんだ。ある日・・・その日はとてつもない日だ。この国が奪還されて、我々が再び自由になる。その日のために僕はここに送り込まれた。何百という同志達も送り込まれている。・・・お互いに連絡をとって・・・地盤を作るために・・・
 フレッド じゃ、本当なんだな? 奪還の話は。今の話はみんな、本当なんだな?
 スティーヴィー そう。その始まりなんだ、パパ。我々にとっては始まり、奴らにとっては終りの始まりなんだ。
 ノラ(立上って。)こっちにとっても終りの始まりかもしれない。それでも・・・それでも・・・元気でね、スティーヴィー。(両手をスティーヴィーの身体に回す。その時・・・幕下りる。)
                 (一幕四場 終)

     第 二 幕
     第 一 場
(一九四五年一月、夜九時頃。)
(場には一見して分る変化がある。その中で一番大きなものは、窓にかかっていた古いカーテン。今はカーテンではなく、灯火管制用の黒い幕。)
(人々の様子にも変化あり。誰もが内心の緊張を、多かれ少なかれ、表面に出している。フレッドとノラは、通常二年で老ける老け方よりずっと老い込んでいる。ドリスは四六時中神経を張り詰めている。そのため顔色が悪く厳しい表情。バーに坐っている客達も、疲れと緊張の表情。洋服は擦り切れていてみすぼらしい。客の多くは、厚い木の底の靴を履いている。革が手に入らなくなったせいである。)
(幕が開くと、グレインジャー夫妻がいつもの席にいる。アルフィーとミスィズ・ブレイクは左手のテーブル。アルマはバーに坐っている。フレッドとノラとドリスは、バーの後ろ。全員、九時のニュースの終りの部分を聞いているところ。)
 アナウンサー 前回のニュースでお知らせした、英、米、仏の部隊の南仏及びビスケー湾上陸作戦は、失敗に終りました。即ち、連合軍側は多大な損失を被り、撃退されました。コルシカ海岸沖で、連合軍側駆逐艦と三隻のドイツ巡洋艦が邂逅(かいこう)し、敵の戦艦・・・失礼・・・連合軍側の戦艦、少なくとも七隻が沈没しました。ドイツ側巡洋艦は僅少の傷を負っただけで、無事基地に戻りました。今夜の公報は以上で終ります。ドイツ占領下のイギリス統治者が今夜、以下のような談話を発表しました。「第三帝国のこのような、圧倒的な勝利は、敵方、即ち連合国側から出される虚偽の宣伝を決定的に打ち砕いた。これらデマの情報は、国内に潜伏する不穏な分子から出されるものであり、第三帝国の確固たる基盤に、ただケチをつけ、占領政府への抵抗運動を徒(いたずら)に掻き立てるためであって、我々は冷やかに、且つ軽蔑をもってこれに対処せねばならない。何故なら、このような噂を広めようとする奴等は、英国人自身の利益に反する行動を行っている訳であり、連中は容赦なくまた、決定的に処分されることになるであろう。第三帝国の統合ヨーロッパは、裏切り者を許しはしない。」以上、統治者の談話です。これで今晩のニュースは終ります。ラジオ聴取者諸氏に、再び警告します。不法な電波による放送を受信することは、違法行為であり、これに対する罰則は死刑であります。では、お休みなさい。
(少しの間。ノラ、スイッチを消す。)
 ミスィズ・ブレイク まあまあ。明るく幸せに家に帰ろうとする時には、BBCの放送ぐらい良いものはないわね。
 フレッド ドリー、広間に誰が残ってる?
 ドリス(ハッチから見て。)ミスター・ロレンスと、その友達の運転手の人だけ。
 フレッド 二人をこっちに呼んで。それから外は閉めて来て。
 ドリス OK。
(ドリス、左手から走って退場。)
 アルマ あのアナウンサー、自分の国の人にあんな風に話すなんて、どんな気分かしら。
 フレッド 気にしちゃいないだろうな。それでなきゃ、あんな仕事、とっくに止めてるよ。
 アルマ 無理矢理言わせられてるんじゃないかしら。
 ミスター・グレインジャー(バーに近寄って。)あの時計、正しい? フレッド。
 フレッド ええ・・・ですから、店を閉めるまであと五分ぐらいしかありません。
 ミスター・グレインジャー(自分の時計を直しながら。)有難う。
 アルフィー スタッブ・スペシャルをもう一杯行きたいな、フレッド。
 フレッド OK。
 ミスィズ・ブレイク あなた、あんなのもう一杯呑んだら、また具合が悪くなるわよ。覚えてるでしょう? 先週の火曜日。
 アルフィー 覚えてるかって?・・・忘れさせてくれないんだから、覚えているに決ってるだろう?
(ドリス登場。一緒にミスター・ロレンスとその友達のアーチー・ジェンキンズを連れている。二人とも中年の男。アルフィー・ブレイクはバーの方に行く。)
 ミスター・ロレンス 皆さん、今晩は。
 ノラ 今晩は、ミスター・ロレンス。
(アーチー・ジェンキンズ、「今晩は」と呟く。)
 アルフィー(アルマに大袈裟な言い方で話しかける。)おめでたい、おめでたい。よくお生まれ下さったって言うしか他には言葉はないね。
 アルマ 誰? 生まれたって。
 アルフィー スタッブ・スペシャルさま様のことよ、勿論。どこかに利口な男がいたのさ。ある朝はっと目を覚まして呟いた。「ビールはない。ウイスキーはない。ジンもない。何かしなきゃいかんな。」それで・・・まあ、そいつは行動の男でもあったんだ。飛び起きたかと思うと、手当たり次第に拾って来たね。じゃがいも、かぶ葉牡丹(はぼたん)、大根、馬の糞、その他何でもだ。そいつを一緒くたに煮て、発酵させて、メチルかエチルか、とにかくアルコールを少し混ぜて、こっちが何も分らないうちに、あれよあれよという間に大好きな飲み物「スタッブ・スペシャル」の出来上がりという訳さ。
 ミスィズ・ブレイク 大好きな飲み物・・・呆れたわね。
 アルフィー 四の五の言わせないために、お前にも一杯頼んでおいたぞ。
 アルマ(笑って。)酷いことは酷いわ、その飲み物・・・でも、効き目もあるわね。
(通りに通じる扉が開いて、ジャネット登場。日に焼けて元気そう。)
 フレッド(驚いて。)これはこれは、ミスィズ・ブレイド!
 アルマ ジャネット! 驚いたわ。あなた、コーンウオールにいるとばかり・・・
 ジャネット ええ、今朝まではいたわ。強制的に疎開させられたの。
 アルマ 疎開! 何のため?
 ジャネット 分らない。理由は全くなし。昨日、荷造りをして即刻立ち退けって命令。二十四時間以内に。
 ミスィズ・ブレイク まあまあ・・・
 ミスター・ロレンス ドイツの奴等、急に泡を食ってきたな・・・そう、危なくなって来たんだ。
 ジャネット この二三日、噂が飛び交(か)っているの・・・フランスへの上陸作戦について。
 アルマ まあジャネット、そんな噂いけないわ。悪い悪い連合軍側のただの宣伝よ。(訳註 誤解があるといけないので、ここで書いておく。アルマは連合軍側の強力な支持者。従ってこれは勿論冗談。目配せをしながら言うような台詞。)そんな噂、あなたが広めるなんて、私驚き。あなた、「スタッブ」はどう?
 ジャネット 戴くわ。もう私の胃、固くなって、何を飲んでも平気。スタッブはコーンウオールにも入って来ているわ。
 アルマ スタッブ二つね、フレッド。
 フレッド OK。
 ノラ またお会い出来て嬉しいわ、ミスィズ・ブレイド。お元気そうね。
 ジャネット 有難う、ノラ。
 ドリス パパ、もう時間。窓には私が立つ? それとも、パパ?
 ノラ 私が立つわ。聞いてよく分るのは、あなたの方でしょう?
 ドリス OK。じゃ、みんな集まって。
(ノラ、バーの後ろから出て来て、窓の傍に進む。灯がもれないようにしながら、灯火管制用の幕の後ろに入る。)
 ノラ(幕の後ろから。)大丈夫・・・人影なし。
(ドリス、ラジオのダイヤルを回す。針が一番右の端に行くのが分る。グレインジャー夫妻、立上り、バーの他の人々に加わる。フレッド、ハッチを通して広間を見ていたが、ハッチを閉める。ちょっとガリガリ、ブーンという音。それから声が聞こえる。)
 フレッド ちょっと大きいな、ドリー。もっと小さく。
(ドリス、音を、やっと聞こえる程度にまで落す。)
 声 ・・・マルセイユとトゥーロンは解放されました。こちらの兵力は進撃を続け、ローヌ河畔を遡っています。敵の反撃は弱く、また組織化されていません。ボルドー地方では残党の掃蕩作戦が続けられ、連合軍側が昨夜の地点からさらに二十八マイル内陸へ侵入しました。ここより離れた北部戦線では、強力な機甲部隊が、爆撃機の助けに支えられて、ポワチエからずっと奥へと進み、ロワール河の前線へと近づいています。二つのヒットラー総統親衛隊を含む敵の部隊は、必死に反撃しています。地中海を舞台にした戦いでは、昨日、ドイツ海軍はかなりの痛手を受けています。この海戦は、五隻のアメリカの駆逐艦と八隻の英国駆逐艦が、三隻の敵の巡洋艦と邂逅したものですが、敵方の二隻は沈没、一隻は夜陰に紛れて逃げましたが、かなりの損傷を受けています。英国駆逐艦一隻が沈没しましたが、乗組員はほぼ全員救助されました。この放送は連合国最高司令官のスポークスマンによって行われています・・・北イタリアの状況は・・・
 ノラ(急を告げて。)消して・・・誰か来る!
(ドリス、すぐにホーム番組に切り替える。耳を聾するワーグナーの音楽。そのボリュームを少し下げる。ブレイク夫妻とグレインジャー夫妻、自分のテーブルに戻る。ミスター・ロレンスとアーチー・ジェンキンズは左手奥を通って広間に戻る。フレッド、ハッチを開ける。ノラ、カーテンの後ろから出て来て、バーの後ろへ戻る。)
 フレッド 急いで、ドリー・・・広間の扉を開けて。・・・皆さん、話を・・・さあ・・・
(みんな、適当な会話を始める。通りへ通じる扉が開き、コーリー・バニスターと、非常にハンサムな若い男クルト・フォルスターが登場。)
 コーリー ここがそれなんだ、クルト。今晩は、フレッド・・・やあ、ノラ。
 フレッド 今晩は、ミスター・バニスター。
 コーリー あれ? ジャネット。君、コーンウオールじゃなかったの? 鬱蒼とした森の中で、愛国的な小説を書いていると思ってたな。
 ジャネット あれは終ったの、コーリー。その証拠はあなたに最初に見せることにするわ。でも、大勢の前で声を出して読むのは止めにしておいた方がいいわ。国家を転覆させようって話ですからね。あなたに面倒なことが起ると困るわ。
 コーリー 私のことを心配してくれるなんて、嬉しいね。今晩は、ミスィズ・ボートン。
 アルマ 今晩は。
 コーリー フレッド、新しい客を連れて来たぞ・・・(振り向いて。)お馴染みさんになる客、とは言わないでおこう。これじゃ、商売っ気(け)が過ぎると思われちゃうからな。この男には、酷い欠点が一つある。たまたま天才に生まれついたっていう事だ。・・・こちらジャネット。ミスィズ・ボートン。ノラ。フレッド。・・・こちら、ミスター・クルト・フォルスター。オーの上のウムラウト。嫌だね、これは。だから、それは止めていい。ただのフォルスターだ。ドイツ人じゃない。オーストリア出身だ。
 ジャネット オーストリアじゃ、ドイツとは大違いね?
 フレッド(微笑を浮かべず。)今晩は。
 クルト 今晩は。
 アルマ ミスター・フォルスター。私あなたの名前、よく知っているわ。「薔薇の騎士」のあなたの舞台装置、好かったわ。
 コーリー 「好かった」は、少し褒め言葉としては弱いですな、ミスィズ・ボートン。あれは「完璧」というべきものです。
 アルマ 「完璧」と判断がお出来になるってことですわね。素晴らしい知識ですわ、ミスター・バニスター。
 ジャネット ほんと。素晴らしい知識。
 コーリー(これを無視して。)一杯欲しいな、フレッド。だけど、例のスタッブ・スペシャルはご免だ。ミスター・フォルスターの胃の壁を焼くのは好ましくないからね。とにかく、この国の大事なお客なんだから、彼は。
 ジャネット お客? 招かれざる客、というところでしょう?
 コーリー(にっこり笑って。)やれやれジャネット。コーンウオールの穏やかな空気を吸って来ても、ちっともその毒舌に変化がないとはね。まあ、その方が安心だが。(フレッドに。)代用ジンジャーエールを二杯頼む、フレッド。アルコールはいい。最近はどうも危なくて。アルコールは自分用のをいつも持ち運んでいるんだ。(ポケットから壜を取り出す。)ジャネット、一杯どうだ? それにミスィズ・ボートン。こいつはカナダ産のウイスキーでね。どうやって入手したかはよく覚えていないが・・・
 アルマ 私はミスター・スタッブにしておくわ、有難う。もう何だか、これに馴れてしまって。
 ジャネット 有難う、コーリー。本物の闇市の品で、本当に値段のはるものだったら、私、ちょっと戴くわ。
 コーリー じゃ三つだ、フレッド。
(フレッド、グラスを三つ、それに明るい黄色の液体の入った壜三本を出す。コーリー、自分のウイスキーをそれに注ぎ、かき混ぜる。)
 ジャネット ミスター・フォルスター、あのオペラの他に何かまだプロデュースの予定があるんですの?
 クルト 十一月にバレーのシーズンが始まります。これを手掛けています。ベルリン・オペラ協会が来る予定ですが、これにも私は関っています。
 アルマ それは面白いわ。
 クルト いえ、ここイギリスではちっとも面白くないんです。ここでは、日常の決り切った仕事、それが芸術なんですからね。
 ジャネット それでは随分がっかりですわね?
 クルト いえいえ、私はそのつもりでやって来ているんです。イギリス人は新しい考えを理解しない。これはもう常識でしょう? コヴェント・ガーデンでは、全てがオールド・ファッション。生き生きした物は何一つない。この国の人に分って貰うには時間がかかります。
 ジャネット(非常に雄弁に。)まあ。そういうことをわざわざ教えて下さるなんて、本当にご親切ですわ。私達イギリス人は、もう何世紀もお宅の「クルトゥール(独語 文化)」を自分のものにしようとしてきたんですけど、まだ何一つ成功してはいないんですもの。残念なことですわ。
 クルト(皮肉には全く気づかず。)そのような悲しむべき事態の時に、丁度ドイツ占領があって、この国にも実に幸運なことではありませんか。
 ジャネット 本当に素晴らしいですわ。だから私達、この占領下のイギリスを楽しんでいるんですわ。「有難いことね」って私達、言ってますの。「本当のオペラが味わえるんですものね」って。
 コーリー(ジャネットのコップを渡して。)さあ、一杯どうぞ、ジャネット。(クルトに。)ミスィズ・ブレイドは皮肉の名手で知られていますからね。気をつけて。それもかなり痛烈なやつですから。
 クルト 皮肉? どんなものです?
 ジャネット 隠れた武器ですよ、ミスター・フォルスター。ユーモアと憎しみをうまく織りあわせると、時々は非常に効き目がありますわ。
 クルト 分りませんね、私には。
 ジャネット そう。だから効き目があるんです。(コップを持ち上げて。)幸せな上陸に・・・乾杯!
 クルト(鋭く・・・コップを持ち上げて。)ハイル・ヒットラー!
(アルマ、ハンドバッグを急に動かし、クルトが丁度飲もうとする瞬間、その腕を打ち落とす。コップの中味、全部服の上にかかる。クルト、ドイツ語で呪いの言葉を上げる。)
 アルマ あら、私、何てことをしたんでしょう。・・・すみません。私、ぶきっちょなことをしてしまって・・・
 コーリー やれやれ、ミスィズ・ボートン!
 アルマ(クルトに。)私、いつもこうなんです。馬鹿なことばかりして・・・ご免なさいね。
 クルト(自分を抑えて。)いや、いいです。(ハンカチでネクタイの水分を叩く。)
 コーリー お湯を頼む、フレッド。
 フレッド トイレには少しあります。このタオルを使って・・・
 コーリー 有難う。(タオルを引ったくるように取って。)さあ来て、クルト。無作法は許してやってくれないか。僕の友人なんだ。(アルマの方を向き、睨みつける。)
(クルトと二人で、左手の方に退場。)
 ジャネット やったわね、アルマ。
 アルマ(微笑んで。)何のこと? ジャネット。あれ、本当に粗相(そそう)よ。
 ジャネット もう一杯作っておいてやらなくちゃ、フレッド。あの人、ウイスキーの壜を置いて行ってるもの。
 ドリス スタッブでも混ぜてやるのね、パパ。教育のためよ。
 ノラ(抗議して。)駄目よ、あなた。
 フレッド コップで混ぜるのは悪くない。だけど、もっといい考えがある。
 ノラ 駄目、あなた。喧嘩になるわ。ここで喧嘩は駄目。
 フレッド(怒鳴る。)闇のカナダ・ウイスキーをこの私のパブに持って来る! 何て奴だ! 行儀はちゃんと教えてやるんだ。
(フレッド、ウイスキーの壜を取り、その半分以上をコップに空ける。その後にスタッブを注ぐ。)
 ノラ あなた。それ、いけないわ。悪いことよ。
 フレッド あいつ、買った闇屋へ行って文句を言うんだな。(本物のウイスキーを入れたコップを、どこかバーの見えない場所に置く。)後でみんなで飲もう。
 ノラ まあ!
 フレッド(ウイスキーの壜を灯に透かして見て。)助かった。そう色が変っていない。
 ジャネット(自分のコップを持ち上げて。)ハイル・スタッブ!(飲む。)
(通りへ通じる扉が開き、スティーヴィーとビリー・グレインジャー登場。ビリーの額、少し奇妙な具合。しかし、傷跡は見えない。)
 スティーヴィー(バーに近づいて。)今晩は、ミスター・シャトック・・・ミスィズ・シャトック。
 フレッド 今晩は、ミスター・シェルドン。
 ビリー 今晩は、ドリス。
 ドリス あら、ミスター・フォーセット。ドリスだなんて、馴れ馴れしいわ、その呼び方。
 ビリー(明るく。)失礼。昔からの知り合いだとばかり・・・
 スティーヴィー ジョニーがここの電話を借りたいって言うもんだから。イートン・スクエアーの真ん中でトラックがエンコして・・・ガソリンが切れちゃったんです。
 ノラ 左手の奥です、ミスター・フォーセット。・・・行けば分ります。
 ビリー 小銭・・・ある?
 スティーヴィー ああ。(ビリーに小銭を渡す。)
 フレッド 何になさいますか?
(ビリー、左手に退場。)
 スティーヴィー 何がある?
 フレッド 普通のものです。ビールとか、スタッブですが。
 スティーヴィー じゃ、ビール。
 フレッド(左手の、ビリーの方を頭で差して。)あの人も同じものを?
 スティーヴィー ええ、同じものを。
(フレッド、薄い色のビール、ジョッキに二つ出す。)
 フレッド 二ポンド四ペンスです。
(コーリーとクルト、左手の扉から登場。バーに進む。)
 アルマ いけなかったわ、私。シミがつかなかったかしら。
 クルト(不機嫌に。)ええ・・・シミは大丈夫。
 アルマ 本当に私ったら不調法なことを。すみませんでした。
 クルト いいんです。
 コーリー あの酷いジンジャーエールをもう一壜貰おうか、フレッド。
 フレッド OK。
 コーリー もう一杯どう? ジャネット。
 ジャネット もう沢山。
(フレッド、ジンジャーエールを出す。コーリー、それを取り、クルトと自分に新しく作り直す。)
 ミスター・グレインジャー(妻と一緒にバーに近づいて。)これで私達帰ります。お勘定は?
 ノラ つけておきますわ、ミスター・グレインジャー。・・・はい、これで。(伝票を見せる。)
 ミスター・グレインジャー ええ、どうも有難う。
 ノラ 酷い天気でしたわね。まるで真夏。
 ミスィズ・グレインジャー 私達、午後にはキューに行ったんです・・・地下壕。涼しかったわ。
(ビリー、電話から帰って来る。)
 スティーヴィー 通じた?
 ビリー うん。ボッブがガソリンを持って来てくれるって。トラックに戻ってなきゃ。
 スティーヴィー ビール・・・君のだ。
 ビリー 有難う。
(ビリー、コップを受け取る。グレインジャー夫妻と目が合う。三人とも表情を変えず、知らないふり。ビリー、コップを上げる。)
 ビリー 希望に・・・乾杯だ。(飲み干す。)じゃ、みなさん、これで・・・
 ノラ お休みなさい、ミスター・フォーセット。
 ビリー じゃまたな、スティーヴ。お休み、ドリス。
 ドリス 今の「ドリス」は許して上げるわ。
(ビリー、口笛を吹きながら退場。)
 ミスィズ・グレインジャー ビリー!
 ミスター・グレインジャー さ、お母さん。もう帰る時間だ。
 ノラ 新しいアパート、如何ですか?
 ミスィズ・グレインジャー アパートなんて言えるものじゃないんです。一DKですから。でも、階段を上りきって、上に辿り着くと、案外と静かなんですよ。それに、主人に便利なの。勤務先に近くて。(訳註 夫が働き始めたのか。但し、原文は「レスリーに便利なの。勤務先に近くて」とある。)
 ミスター・グレインジャー またバスが動くようになるといいんですがね。バス開通の日なんて、私の人生の記念の日になりますよ、きっと。
 ミスィズ・グレインジャー さ、行きましょう、あなた。
 ミスター・グレインジャー じゃ、みなさん、お休みなさい。
(二人、退場。)
 コーリー(コップを持ち上げて。)クルト・・・君の「薔薇の騎士」に乾杯だ。
 クルト(コップを上げて。)ハイル・ヒットラー!(コップ一杯を挑むように一気に飲み干す。そして酷い顰め面をする。)
 コーリー(むせて。)おお・・・こいつはジンジャーエールのせいだな。(もう少し飲む。)フム、これは奇妙な味だ。
 ジャネット(愛想よく。)あまりいい味じゃないわね? 誰から手に入れたか知らないけど、信用おけないんじゃない? その人。
 コーリー(壜の口を開けて、匂いを嗅ぎながら。)本物だと、あいつら誓ったんだがな。(壜をフレッドに渡して。)どう思う? この匂い。
 フレッド(真面目くさって匂いを嗅ぎ。)あまりよくありませんね。・・・しかし、いづれにせよ、私はカナダ・ウイスキーが好きじゃないから。
 ジャネット 壜詰めの段階で、何かがあったのかもしれないわね? フレッド。
 フレッド ええ、その可能性はありますね。
 コーリー まあいい、薬だと思って飲もう。(ちょっと笑い、目を瞑り、コップを飲み干す。)
 ジャネット まあ、随分勇敢なのね。御褒美にチョコレートをあげられればいいんだけど、残念ながらないわ。
 コーリー うん、二度目は少しはいい味になった。・・・クルト、もう一杯どうだ?
 クルト いや、いい。・・・もう私は行かなければ。
 コーリー もう少しいて、ボビーに会ったら? もうすぐ来るはずなんだ。君がいないと残念がるぞ。
 クルト 悪いがもう行かないと。今夜のショーのあと、演出家達の会議がある。そこに出席しなきゃいけないんだ。
 コーリー じゃ、またいつか。またパブの梯子をやろう。(ジャネット、それから他の客達に。)ロンドンの人間が、パブをどういう風に楽しんでいるか、そいつをどうしても見てもらいたいんだ。
 ジャネット これじゃ、その半分も見てないわけだもの・・・
 クルト(固い表情でお辞儀をして。)お休み・・・お休みなさい。
 アルマ お休みなさい。
(他の人々も二三、礼儀正しい「お休み」を呟く。コーリー、クルトと一緒に扉まで行く。)
(クルト退場。)
 コーリー(バーのところに来て、アルマに。)故意にですね、あれは、ミスィズ・ボートン。
 アルマ 何のことですの? さっぱり分りませんわ。
 コーリー クルト・フォルスターは芸術家です。非常に優秀な芸術家なんです。芸術は国を越えたものなんですからね。彼に対する無作法は、全く的外れですよ。
 ジャネット あなた、どうしてあの人を連れて来たの、コーリー。ここは本当に特別なバーよ。殆どクラブのようなところ。ドイツ人と友達になって、その人と楽しく呑みたいのなら、それはあなたの勝手。でも、その人をここに連れて来るっていうのは、全くどうかしているわ。
 コーリー 前にもう、充分議論した筈だな、このことは。
 ジャネット とにかく・・・あのクルトに関する限り、国籍が生意気なだけじゃない、お行儀だって生意気そのもの。
 スティーヴィー 僕も電話をかけて来ていいかな? ミス・シャトック。
 ドリス(気さくな調子で。)いいわよ。あの奥・・・分ってますわね?
 スティーヴィー 有難う。(左手に退場。)
 コーリー 彼は生意気じゃないんだ。問題は英語なんだ。英語が下手だからそう聞こえるんだ。
 ジャネット あなたって、言い訳が上手だわ。上手過ぎて時々は羨ましくなっちゃう。
 コーリー 何が言い訳だ。言い訳なんかじゃないぞ。
 ジャネット あなたこの何年か、とても楽しく暮しているわね。新しい友達を見つけて、新しい面白いことを見つけて・・・うまく自分を変えながら・・・
 コーリー この状況に合ったように生きようと努力しているんだ。君だって僕と同じようにやれば、ずっと幸せに、ずっと苦虫を噛み潰さないで暮せる筈だぞ。
 ジャネット 私のこれ、苦虫を噛み潰していると思っているのね、コーリー。可哀相に。あなた、苦虫と軽蔑の区別もつかないの?
 コーリー 参ったね、ジャネット。君っていう女は、全く手に負えないよ。
 ジャネット あなたの信念はどこにあるの? これだけは譲れないっていう・・・どこかに何かは持っている筈でしょう?
 コーリー 僕の信念・・・それが他人がとやかく言うことじゃない。僕自身の問題だ。しかしその信念の一端を披露すれば、君がただ戦闘的なだけの退屈な女だっていう考え、これだ。これは昔からそう思っていて、今もそうだ。それから、君の、他人より優れているという攻撃的な誇りを僕は嫌ってきた。占領以前、占領以後、どちらでもいい、その君の優越性を証明する何があるというのだ。ミュンヘン危機の間、君は好戦的な愛国主義の立場を取った。それで随分君も馬鹿な真似をしたものだが・・・それからこっち、君は何一つ変えてはいない。そこで君に、学問的な興味からお聞きしたいが、それによって君は何を作り上げたというんだ。
 ジャネット 作り上げたもの・・・「自尊心」ね。
 コーリー フン、自尊心・・・自分を尊ぶ心・・・よし、それじゃ、何を基礎に自分を尊べるというんだ。
 ジャネット 自国への愛、敵への憎しみ。
 コーリー 単純で聞こえのいい文句だ。しかしちょっとそれを分析してみれば、残るものはただのガラクタだ。
 ジャネット あなたの個々の行動の動機づけになっているもの、それを分析してみた方が面白いんじゃない? ガラクタ以下ですものね。
 コーリー 行動の動機づけ? 何だ、それは。
 ジャネット 征服者の足元に我先にとひれ伏し、おべっかを使う、その動機づけのことよ。
 コーリー よくもこの僕を侮辱したな。たいした勇気だ。
 ジャネット 勇気? まあまあコーリー、あなたを侮辱するのに勇気など何もいらないわ。
 コーリー そんなに安心は出来ないぞ、ジャネット。君が思っているよりずっと危険なことかもしれないんだ。
 ジャネット それ、脅迫?
 コーリー そうだ。脅迫だ。・・・僕には強力な友達がいるんだ。
 ジャネット 強力な敵もね。あなたも気をつけた方がいいわ。
 コーリー 君のような女こそ敵だ。世間に害毒を流す女、邪魔女なんだ。
 ジャネット 邪魔? 何を邪魔しているっていうの。
 コーリー 理性への邪魔。それから論理と知的生活への邪魔。
 ジャネット ナチの理想が、あなた、知的生活への鍵になっているとでも思っているの。
 コーリー ある程度までは鍵になっていると思っているさ、僕は。とにかく能率的だ。中途半端な民主主義の理想ってやつが、世界中を混乱の極におとしいれていることを考えると、そう悪いことじゃない。
 ジャネット あなたって優秀な生徒ね、コーリー。その、あなたの強力な友達、きっとあなたのことを自慢に思っているわ。
 コーリー 世の中をあるがままに見るのが僕の立場でね。こうあるべきだ、という立場では見ないんだ。つまり現実主義だ。だから僕はいつも周囲の状況に自分を適応しながら生きてきた。避け得ない現実は避け得ないものとして、理性的にこれを受け入れる、という僕の態度。それが病的な感情論の君達には一番腹立たしいことなんだ。君達の人生の基礎は、使い古されたスローガン「神と権力」「王と国歌」「大英帝国に日没はない」、これだ。一九一四年の昔からもう崩壊のガランガランという音とともに崩れ去っている馬鹿な決り文句だ。世界は急速に変化しているんだ、ジャネット。その変化に立ち遅れないように生きるためには、高校時代のガラクタじゃなく、もっとちゃんとした道具が必要なんだ。(出ようとして。)お休み。
 ジャネット コーリー!
 コーリー 何だ。
 ジャネット 私の高校時代のガラクタの中には、こういうスローガンもあるわ。「この祝福された大地、この王国、このイギリス・・・大切な人々が住むこの国、この大切な、大切な国」
 コーリー シェイクスピアの愛国精神高揚か。僕に言わせれば、そんなもの、コマーシャリズムの利用価値ゼロだね。
 ジャネット 奇妙なことね。今のその言葉、あなたが今まで言ったどんな言葉より私、一番腹が立ったわ。
 コーリー フム・・・君はそう言うだろうと思ったよ。
 ジャネット いい? コーリー。私はもうあなたとは決して口をきかない。これが最後の言葉。だからよく聞いて。まづ第一に、私はあなたのことを心の底から軽蔑している。あなた、それからあなたの類(たぐ)いの人物は自分達がインテリだと思っている。絵画、文学、その他、美一般に対して馬鹿な御託(ごたく)を並べて得意になっている。愛だの、憎しみだの、何かへの献身、こんな原始的な感情よりは、ずっと高みに立っていると思っている。自分達だけに通用する気障(きざ)な雑誌を発行して、政治の風の吹き回しに従ってその雑誌の方針も変えて行く。
 コーリー 全く何ていうことを・・・
 ジャネット 戦争が始まる数年前、あなた方の主張は軍縮だった。それを金切り声を上げて喧伝していた。あの時期こそ我々の生存のために軍隊を強化すべき一番大切な時だったのに。あの頃は、あなた方みんな、平和主義者だったの。
 コーリー 何て君は馬鹿なことを言ってるんだ。
 ジャネット それからちょっと経つ。ほんのちょっとの時間が経っただけで、今度は英帝国主義への攻撃。酷く厭らしい敵意のあるもの。あなた方インテリが全員、頭のよい切れ者の共産主義者になった時。そして今、今は勿論インテリは全部ファシズム支持者・・・伝統なんて糞食らえね。それで次はどこへ行くつもり? 頭のよいインテリさん。イギリスが再び自由になって、ドイツの友達がみんな地獄にぶっ飛ばされて、忘却のかなたに行ってしまった後、その時にはどうするの? 早く計画を建てておいた方が利口よ。もうすぐその時が来るの。ぼやぼやしている時間はないわ。目の醒めるような転換をやって見せるのね。人をあっと言わせるような。この薄汚い鼠野郎!
 コーリー 何という侮辱だ! けしからん!
 ジャネット あなたのドイツの友達と相談して、私を収容所にぶち込む話をする時に、忘れずに今言ったことをその友達に話して聞かせるがいいわ。「ヒットラーをやっつけろ」って、私は言っているんですからね。あんな奴、その取り巻き連と一緒に地獄で腐って行けばいいの! 勿体をつけた、やたらに吠えまくる、あの取り巻き連中と一緒にね! くたばれ! 第三帝国! くたばれ! 敵に胡麻をするイギリス人! 敵にへいこらして、この国の誇りを埃(ちり)と一緒に埋めてしまうイギリス人、そんな奴はくたばればいいんだ!
(ジャネット、コーリーの顔に二発、鋭い平手打ちを食わせる。コーリー、よろよろとバーに倒れ込む。ジャネット退場。)
(シーンと静まり返る。コーリー、やっとのことで立ち直り、自分のウイスキーの壜からコップに半分注ぐ。それを一息に飲み干し、少し蹌踉(よろ)めきながらバーを背にして立つ。)
 アルマ お休み、フレッド・・・お休み、ノラ・・・多分明日また来るわ。
 フレッド お休みなさい、ミスィズ・ボートン。
(アルマ、コーリーを見ないようにして退場。)
 ノラ 私、台所に行って来るわ、フレッド。何かあったら・・・
 フレッド 分った。
(ノラも、コーリーを見ないようにして、左手から退場。)
 ドリス(ハッチから外を覗いて。)「広間」には誰もいないわ、パパ。
 フレッド じゃ、鍵をかけて来てくれ。
 ドリス OK。
(ドリス、左手の扉から退場。)
 フレッド もうすぐ閉めるけど、最後に何か飲むかい? アルフィー。
 アルフィー リル、お前どうだ?
 ミスィズ・ブレイク(ぼんやりと。空中を見つめて。)どうだって?・・・何がどう?
 アルフィー まだいるかって聞いているんだよ。
 ミスィズ・ブレイク いるかって・・・何がいるの?
 アルフィー 飲み物だよ、勿論。呆然(ぼうぜん)としているのはもう終りだ。馬鹿だなあ・・・フレッドも一晩中やってる訳にはいかないんだ。
 ミスィズ・ブレイク 馬鹿って、誰のこと?
 アルフィー もういいや、フレッド。今のままでも連れて帰るのは一苦労だ。これ以上飲んだらたまらん。(大袈裟に優しくして。)さあ、リル。もう帰るんだからね。いいかい? 帰ったら、私が飛切りうまいコーヒーを出してやるからね。ドングリ製の灰色のコーヒー豆で。
 ミスィズ・ブレイク(皮肉に。)素敵な冗談ね。でも、もう止めて。お腹の皮がよじれそうだから。
(小部屋で電話の鳴る音。)
 フレッド(陰気に。・・・コーリーに。)店を閉める時間です、ミスター・バニスター。
(フレッド、小部屋に退場。電話をかけている声が聞こえる。)
(アルフィーとリリイ、通りへ通じる扉から退場。)
(コーリー、一人残されて、ウイスキーの壜に蓋をし、ポケットに突っ込む。通りへ通じる扉へ進む。少しふらついている。立ち止まる。ひどく気分が悪いのが見てとれる。どうしようかと一瞬迷う。それから便所に通じる扉の方へ急いで退場。)
(暫くしてドリス戻って来る。バーに誰もいないのを見て、通りに通じる扉に進み、鍵をかける。フレッド戻って来る。バーに客がいないのを確かめ、小部屋の方に呼び掛ける。)
 フレッド もういいぞ、ノラ。
 ドリス 誰? 電話は。
 フレッド ミスター・ボーンだ。ドクター・ヴェニングと一緒に。
(ノラ登場。少し後にスティーヴィーとベン、登場。)
 ノラ あの人、行った?
 フレッド うん、みんな行った。
 ノラ ミスィズ・ブレイド、あんなことしなきゃ良かったわ。良くなかったわ、あれは。本当に。
 フレッド 身から出た錆だよ、あれは。
 ノラ 仕返しが怖いわ。あの人、酷いことをしそう。
 フレッド するかもしれないけどね・・・やはりやらないんじゃないか。みんなが見ていたからね。それでもやるっていうのは難しいよ。
 ノラ あの人のことを罵ったでしょう? あの言葉を報告するだけで、あの人収容所行きよ、きっと。
 フレッド あれは個人的な議論だったんだ。我々みんなが証人だよ。咎められる言葉があるとすれば、「ヒットラーなんて糞食らえ!」だけど、この言葉は毎日、何百万人という人間が言ってるんだ。そいつを全部収容所に入れるなんて、まづ場所がないね。
 ドリス でも、あの言葉であの人が疑われるっていうことはあるわね? それは良くないわ。
 フレッド 連中はどうせ、誰も彼も疑っているのさ。
 ドリス あの人を監視するようになるかもしれない。アパートも捜索されるかもしれないし・・・
 フレッド そんなことをしたって、何も見つかりはしないさ。書き物は全部コーンウオールでやっているんだし。
 ドリス あの人、コーンウオールを引き払わされたの。だから今日、ロンドンにやって来たのよ。
 ベン そうか。じゃ、またどこかへ移さなきゃいけないな。
 ノラ あんなことやっちゃいけなかったのよ、あの人。あんな向っ腹を立てたりしちゃ・・・あんなことをしたら、私達みんなが危なくなるの。
 スティーヴィー もうやってしまったんだ。今さら愚痴っても意味はないよ。ボスが何て言うか、とにかく報告だ。
 フレッド ドリー、後ろの扉へ行って見ていてくれ。連中、もうやって来るかもしれない。
(ドリス、通りへ通じる扉から退場。後ろ手に扉を閉める。)
 ノラ あなた、お茶は如何? スティーヴィーは?
 スティーヴィー いや、僕はいい、今は。お母さん、それに大好きなお茶・・・(母親にキス。)
 ノラ(諦めて。)何か欲しいものはないの?
 フレッド 今はいいよ。二人で地下室に行って来る。連中が来たら、すぐ始められるように。
 ノラ 私は台所にいるわ。
 スティーヴィー お休み、ママ。
 ノラ 明日会える?
 スティーヴィー 駄目なんだ。明日はトラックでアッシュフォードだ。火曜日まであっちにいる。
 ノラ だけどトラックはビリーが持っているんでしょう?
 スティーヴィー 明日の朝までには戻って来るんだ。何事もなく終えてね。
 ノラ 何事もなく終える!
 スティーヴィー 元気を出すんだよ、ママ。激動の時代に生きているんだからね、僕達は今。
 ノラ ラジオで言っていたの、本当なの? フランスに上陸したって・・・
 スティーヴィー そう。あれは本当だ。だんだん勝負どころに差し掛かっているんだ。
 ノラ(スティーヴィーを見て。)とにかく私、おまけの二年、生きたんだわ。
 スティーヴィー え? どういう意味?
 ノラ(溜息をついて。)何でもないの。ただフトそう思って・・・
(ノラ、退場。通りに声が聞こえる。)
 スティーヴィー(ノラを見送りながら。)可哀相に、ママ・・・ママには随分きついだろうな。
 フレッド そのうち大丈夫になるさ。ママのことは心配するな。
 スティーヴィー(微笑んで。)分った、パパ。
(ドリス登場。その後からジョージ・ボーン、ドクター・ヴェニング、それにライア、登場。)
 ドリス 全員揃ったわ。
 ドクター・ヴェニング 今晩は、フレッド。やあ、スティーヴィー。
 ライア 今晩は、フレッド。
 フレッド 今晩は。
 ライア 地下室に飲むものがなかったら私、ヒステリー起しそう。あるわね? フレッド。
(ドクター・ヴェニングとライア、退場。)
 ジョージ ビリーはちゃんとトラックで行ったんだろうな?
 スティーヴィー ええ。まづ僕を乗っけてハイゲイトからここへ。そしてイートン・スクエアーの角にトラックを駐車して、二人でこの店に来てボブに電話しました。
 ジョージ トラックには誰が?
 スティーヴィー 古い友人のP・C・モールトビーです。ボブに電話して彼がスタッフの人達と目的地に向っているのを確かめたんです。確かめた上でビリーを発たせた方がいいと思って。
 ジョージ その後もボブと連絡を取ったんだな?
 スティーヴィー ええ。順調でした。
 ジョージ よし。下では準備は整っているな?
 スティーヴィー ええ。ベンが来ています。もう二時から。
 ジョージ 他には誰が。
 スティーヴィー スコッティー・ピーター、それにバートです。
 ジョージ さあ、我々も行こう。ライアが今日、リッチャーと例の、いつもの昼食をとったんだ・・・話しあわなきゃならないことが色々ある筈だ。
 フレッド OK。
 スティーヴィー 行きましょう。
(小部屋を通って全員退場。最後のフレッドがバーの灯を消し、小部屋にある薄暗い電球一つを残す。)
(少しの間の後、トイレに通じる扉がゆっくりと開き、用心深くコーリー登場。抜き足差し足で小部屋の方に進み、聞き耳をたてる。それからバーを横切り、通りへ通じる扉の方へ進む。ノラ登場。灯をつける。ノラ、小さく「アッ」と言う。コーリー、ノラをちょっと見る。扉へ突進する。錠を外し、開け、暗闇に消える。ノラ、扉へ行き、閉め、再び錠をかけ、小部屋の方へ走って行く。
 ノラ(呼ぶ。)フレッド!・・・スティーヴィー・・・来て・・・早く来て。
              (幕) (二幕一場 終)

     第 二 幕
     第 二 場
(一九四五年二月。)
(午後五時半から六時の間。ノラ、テーブルを片付けている。フレッド、バーの後ろでコップを磨いたり、その他店を開ける準備。)
(フィリス、小部屋から登場。)
 フィリス 広間の方はすみました、ミスィズ・シャトック。
 ノラ 有難う、フィリス。
 フィリス ドリスが来るまで待つんですか? それとも、今もう出ていいですか?
 フレッド 何を急いでるんだ? まだ六時になってないぞ。
 フィリス 六時十分には映画が始まるんです。スィルヴィアを拾って行ってやらなきゃいけないし・・・
 フレッド お前とあのスィルヴィア、全く御精勤だな。映画会社から賞状が出るぞ。映画以外に何か考えることはないのか?
 フィリス 考えるって・・・たいして考えることなんかありませんから・・・
 ノラ 馬鹿なことを言うんじゃないの、フィリス。
 フレッド いくらでもあるぞ、考えることは。周囲を見回して見ればいい。ドイツの警察と兵隊が、道の角には全て配置されていて、昼も夜も片時も休まず我々を監視している。これが一つ。ちょっと不注意に何か変なことでも言おうものなら、ゲシュタポに捕まって訊問され、小突き回され、自分の名前まで忘れるほど痛めつけられる。これが一つ。人々はここでも、あそこでも、どこでも、全く何の理由もなく逮捕されて、収容所に送り込まれ、拷問を受け、殺されている。これが一つ。この国が始まって以来起きたことがないような事柄が、毎日、毎週、毎月、起っている。これが一つ。遅かれ早かれ・・・いや、これは「早かれ」だ・・・自由陣営にいるイギリス、フランス軍、それにアメリカ軍が、上陸用舟艇、大砲、戦車、飛行機を総動員して、この島に上陸する。この島の至る所で・・・海岸で、道路で、オデオンでもだ・・・戦闘が行われるだろう。まづこれは間違いない。
 ノラ(警告するように。)フレッド!
 フレッド こういうこと全て、ドナルド・ダックよりは考えなきゃならん事じゃないか。
 フィリス もう何年もドナルド・ダックは見ていませんよ。
 フレッド 映画で見るものと言えば、ドイツのプロパガンダだけか。やれやれ。
 フィリス 今日のは新しく出来たイギリス映画です。グラント・マディスンが出るんです。アイルランド革命の話なんです。反乱鎮圧の英国警備隊が出動して・・・
 フレッド どうせ分っているさ。ミスター・グラント・マディスンが大活躍してみんなを助け、それから自由のために死んで行くんだ。
 フィリス どうして知っているんです? 見てはいらっしゃらないんでしょう? 映画を。
 フレッド まあいい、しっかり見て泣いて来るんだね。
 ノラ フレッド、そんな言い方ってないでしょう。
 フィリス(頭をぐいと持ち上げて。)お奨め、有難う! じゃ、みなさん、お先に!
(フィリス、かけてあった帽子を取って、左手の扉から退場。)
 ノラ あんな風に若い子を叱って、何が言いたいの? 自分の自由時間にあの子達が何をしようと、あなたには関係ないでしょう?
 フレッド ああいうのがどんどん多くなってきている。それが困るんだ。ドイツ人が、もう二三年ここに居坐っていたら、連中は現実が何だか、すっかり分らなくなってしまう。映画館で見るものを信じるようになる。それが怖いんだ。おセンチなガラクタ、嘘だらけのプロパガンダ、そういうものを金科玉条に信じてしまう。戦前だって既にかなり悪くなっていた。ハリウッドだからな、やっていたものは。しかし今はイギリスの人間も、ドイツの連中と組んで映画を作っている。それで事態は恐ろしく悪くなっているんだ。
 ノラ 映画の人達だって食べていかなきゃならないわ。映画産業全体が駄目になったらどうなるの? 何千という失業者が出るのよ。
 フレッド 分った。分ったよ。これは以前やったやつの蒸し返しだ。
 ノラ どんな産業だって、食べていかなきゃならない。
 フレッド もういいよノラ、私の言うことも正しい。それにお前の言っていることも正しいんだ。
 ノラ あ、あれは裏口からだわ・・・私が行きます。
(ノラ、左手の扉から退場。)
(フレッド、バーの上にジンジャー・エールの壜を並べる。)
(通路で声がする。そらから、ノラ、その後ろにライア、登場。ライアの腕、肩から三角巾で吊ってある。)
 ライア ああ、フレッド・・・私、ドリスに伝言があるの。ノラに言ったら、まだ帰って来ていないんだって?
 フレッド もうそろそろ帰っていてもいい頃なんだが・・・
 ノラ どうしてあなた、裏口から来たの?
 ライア 表だと見張られているじゃないかって。出来れば見られない方がいいからって、ジョージが。
 フレッド 表を見張られているんじゃ、裏口だって見張られているさ。
 ライア まあそれはいいわ。お医者さんに行って来たのよ、ドクター・ヴェニングに。ほら、腕を挫(くじ)いちゃったの。(右腕を三角巾から出し、振って見せる。)あそこの家の裏口を出て、中庭を突っ切って、ここの裏口にと思ったんだけど、あっちからはここの裏口、見え難いのね。ちょっと回らなければ駄目で・・・
 フレッド 伝言って?
 ライア ビリーが・・・失礼・・・ジョニー・フォーセットが、報告をちゃんと本部に届けたっていうこと。それからドリスがここに帰る時、いつもつけられているということ。これはどうせドリスは気がついているでしょうけど。
 ノラ 報告を届けたって?
 ライア 今言った以上のことは知らないの、私。ドクター・ヴェニングのところで、もう一度包帯をして貰うわ。それからここにもう少し遅く、何気ない様子で入って来る。ここで私、白状しちゃうけど、あの先生、私、大好き。私、色々あの先生の気を引くことをやって見たんだけど、コッツウォルズかどこかに、ちゃんと奥さんがいるんじゃね。それも酷い女の人らしいわ。それじゃ、こっちのロマンスなんてとても将来はないわね。(ライア、再び右手を三角巾の中に入れる。)私、行かなくちゃ。いいのよノラ、私一人で出られるから。
(ライア、陽気に二人に手を振り、入って来た扉から退場。)
 ノラ あの人、私に随分気を使っていたわ、フレッド・・・何か言えないことがあるような。何かが起っているのよ、きっと。
 フレッド(そっけなく。)いつだって何かが起っているさ。
 ノラ ドクター・ヴェニングの中庭を通って、こっちに来させて、またその道から帰らせる・・・そんな危ないことをやらせるなんて、きっと今の話、大事なことなんだわ。ドリスが早く帰って来ないかしら。私、心配だわ。
 フレッド(バーの後ろから出て来て。)心配したって無駄だ、ノラ。じっと坐って何事もないことを祈るしかないよ。
 ノラ あの人、ドリスがつけられていたって言ってたわ。
 フレッド そんなのは問題じゃない。家中の人間が、外に出る度につけられているんだ。家宅捜索からこっちずっとだ。
 ノラ あの人が警察に話したっていう証拠は全然ないのよ。
 フレッド 証拠? あの男以外に誰がいる。お前、自分の目で見たんだろう? こっそり出て行くのを。お前が見ていなかったら、今ごろはみんな、収容所行きか、或は殺されているよ。家宅捜索の時には何も見つからなかった。だけど、あれで諦めた訳じゃない。復興なる日までずっと続くさ、この監視は。
 ノラ 私、ドリスが心配。あの子、何か馬鹿なことをしやしないかって。
 フレッド 落ち着くんだよ、お母さん・・・あの子はあれで、ちゃんと頭を働かしているんだ。
 ノラ ミスィズ・ブレイドは、あの晩あんなことしちゃいけなかったのよ。あれからだもの、これが始まったの・・・それにあなただって・・・壜の中に変なものを入れちゃって、あの人の気分を悪くさせてしまったり・・・
 フレッド「スタッブ」の代りに青酸カリでも入れておけばよかったかな。
 ノラ 何かおかしいわ・・・私、悪い予感がする・・・
 フレッド 悪い予感なんて、このところ毎日毎晩じゃないか・・・スティーヴィーが帰って来てからこっち、ずっとだ。
 ノラ 今は前とは事情が違うわ。はっきりと連中は私達を疑っているの・・・私達が何か企(たくら)んでいると思っている。そうでなきゃ、あの晩、家中を捜し回ったりしなかった筈よ。地下室まで・・・
 フレッド 結局何も見つからなかった。連中が来る一週間前には全部処分しておいたんだ。今だって何もありはしない。穴の中に顔を突っ込んで真っ黒になったってな。書類が残るような役はもうやっていないんだからな。
 ノラ 分ってるわ、そういうことは全部。でも・・・
 フレッド でも、何だ。
 ノラ 私達、ここを引き払った方がいいわ、フレッド。ドリーと三人でどこか田舎へ。
 フレッド 引き払うって、許可はどうするんだ。
 ノラ セント・オールバンズのイースルの所に行くのよ。あの子、赤ちゃんが生まれるんだし、それに、親戚には違いないわ。
 フレッド 官憲に何と言って説明するんだ。わざわざ店を閉めて、家族を挙げてセント・オールバンズに行く、それもお前の遠い親戚が子供を生むというだけの理由で! それにスティーヴィーはどうなる。
 ノラ 私達、もうスティーヴィーの役には立たないの。あの子にとって助けになるより、私達がいることの方が危険が多いのよ。もう三週間もここには来ないのよ、あの子。
 フレッド(頑固に。)このパブは、我々の生きる糧(かて)なんだ。苦しい時期にもここはずっと開けていた。これからも開けて行くんだ。お前とドリーが行けばいい。まあ、お前がドリーを説得出来ればの話だがな。しかし、私はここに留まる。
 ノラ 意地悪を言わないで。あなたが行かないで、どうして私が行くの。
 フレッド(片腕をノラの身体に回して。)いいかノラ、確かにこの状況は酷い。お前は辛いだろう。明日何が起るか・・・いや、この一分後に何が起るか・・・そのストレスで神経が参って来る・・・胸がドキドキして、いても立ってもいられなくなる・・・それも、自分のことだけじゃない、我々みんなのことを考えてだ。だけどな、私には分っている。お前だって心の底ではちゃんと分っている筈だ。今逃げちゃ駄目だってな。とうとうその時がやって来る、丁度その時に出て行けるものかって。その日が来るまでもうあとたった二三週間だ。それで我々は自由になれるんだ。その記念すべき時をこの目で見ないでどうする。我々の場所はここなんだ。恥と屈辱の、悪夢のような年月を、ここにへばりついて生きて来たんだ。そいつを覆(くつがえ)す勝利の時を見ないですむものか!
 ノラ(片手を上げ、フレッドの顔を軽く叩いて。)分ったわ。あなたの好きなようにやるのね。(時計を見上げて。)丁度六時。さ、開けましょう。(通りへ通じる扉の方に進む。)
(ドリス、左手の扉から登場。明らかに、ひどく緊張して興奮している。)
 ドリス パパ、もう少し後にして。ニュースがあるの。
 ノラ(心配そうに。)ニュースって?
 ドリス レジスタンス・グループの総決起があるの。ロンドンだけじゃなくて、国中の。
 フレッド どうして分った。
 ドリス この三日間、サヴォイのドイツ司令部は大騒ぎ。それで、何かあるなって分ったの。四階は全部立ち入り禁止・・・家具が運び出されて、大掃除。川に面した特別室の仕切り壁が壊されて、会議室に作り変えられたわ。ゲーリングやゲッペルスじゃない。だって二人ともカールトン・ハウス・テラスにいるんですからね。誰が来るかは、今日ミッキーから聞いて分ったの。解読された暗号電報の写しを手に入れたの、ミッキーは。ヒムラーなのよ。今夜ヒムラーが来るの。(ドリス、帽子とコートを釘にかける。)
 ノラ でもそれ、悪いニュースじゃない。
 ドリス 違うのよ、ママ。良いニュースなの。ヒムラーが来るっていうことは、怖がっているっていうこと。本気で怖いのよ。ということは、味方の侵入は思っていたより早いっていうこと。
 フレッド その予想は全く当っていないかもしれないな、ドリー。ヒムラーはもう今までに何度もやって来ているじゃないか。
 ドリス 今度は違うの。四十人ものスタッフを連れて来る。それも選りすぐった者達を。こんなことは今までになかったわ。彼らの意図は分っている。ちょっとでも危ないところ、ちょっとでも疑いのある人物を、全部踏み潰そうとしているのよ。だから私、すぐにアヴェニュー・ロードに知らせなくちゃと思って・・・それで危険を冒したの。
 ノラ 危険? どんな?
 ドリス 心配しないで。本当は危険というほどのこともないの。それに、もう危険は過ぎたわ。本部に電話は無理だと思ったの。それで、バートにかけた。でも誰も出ない。それでフィンチリーにかけて、ジョニー・フォーセットに出て貰ったの。四時半にセント・ジェイムズ公演のペリカンの傍で待っていて欲しいって。それからデスクに帰って、気を失ったの。・・・ええ、素晴らしい気絶よ。・・・サヴォイ・ホテルの医者が来て、気付け薬を処方してくれて、早退きの許可を貰ったの。
 ノラ だけどお前、つけられたのよ。知っているんでしょう? つけられていたの。
 ドリス ええ、分ってた。でも、仕方がなかったわ。トラファルガー公園でまこうと思ったんだけど、うまくいかなかった。でも、ビリーにはちゃんと会えたの。マッチありますかって、そういう口実。私の煙草に火をつけるのに手間どっているその間に、全部話した。私、煙草持っていてよかった。何が何でもこれはアヴェニュー・ロードに知らせてってビリーには伝えた。ビリーと別れてからは、ハイド・パークに散歩に行った。つけて来た人、私と同じくらい足が棒になってくれていればいいんだけど。だから今私が心配なのは、ビリーがちゃんと本部に連絡出来たかっていうことだけ。
 フレッド それは大丈夫だ。ライア・ヴィヴィアンがさっき来た。本部は連絡を受けたとお前に伝えてくれと言っていた。
 ドリス ああ、それならひと安心。
 ノラ ああ、私の方はそれでもう一つ心配が増えた・・・
 フレッド まただぞノラ、止めるんだ。
 ドリス ねえ、こういうのはどうかしら。パパとママはここを閉めて、二三週間どこか田舎に引込んでいるっていうのは。どうせここはブラック・リストに載っているの、あの家宅捜索以来。敵は何をやりだすか分らないもの。
 ノラ お前も行くのかい?
 ドリス 私は駄目。ここにいなくちゃ。私は大丈夫。
 フレッド ママも私も留まるよ。連中は何も見つけられっこない。どうせここはもう使っちゃいなんだからな。危険な場所じゃないんだ。
 ドリス だからなの、私が言うのは。パパとママ、ここにいても意味がないの。
 フレッド 意味はある。ここで食い扶持(ぶち)を稼いでいるんだ。それから、店を開けていれば、友人達が来て、話が出来る。それに、一二杯やれるし・・・スタッブと水っぽいビールしかないにしてもだ。
 ドリス 私としては行って貰った方がいいんだけど・・・兄さんも同じ意見だと思うわ。
 ノラ あの子がそう言ったの?
 ドリス いいえ、言った訳じゃないけど・・・でも・・・
 ノラ お父さんは開けておいた方がいいって言ってるのよドリー、そして私も同じ意見。家族一緒に行けるんだったら話は別よ。お前達二人がここで大活躍している時に、私達二人が田舎のどこかで埋もれているのは厭。だって、そうでしょう?
 ドリス 分った・・・分ったわ。まあ一つの意見、これは。
 フレッド さあ、開けて!
(ノラ、通りへ通じる扉のロックを外す。)
 ノラ ドリー、お前仕事にかかる前に、お茶を飲んでおきなさい。「広間」の方は私がやっておくわ。薬罐にお湯が湧いているから。
 ドリス OK。有難う、ママ。
(ドリス、小部屋の方に退場。)
 ノラ あなた、私が「広間」の用意をしているわ。
 フレッド OK、分った。
(ノラ、ドリスの後から小部屋の方へ退場。)
(フレッド、バーに背を凭(もた)せて空中を見つめている。通りへ通じる扉が開き、グレインジャー夫妻登場。二人はかなり大きな包みを抱えている。)
 ミスター・グレインジャー 今晩は、フレッド。
 フレッド おお、これはこれは、お早いお越しですね。
 ミスィズ・グレインジャー 今晩は、フレッド。
 フレッド ああ、ミスィズ・グレインジャー。
 ミスィズ・グレインジャー 私達、わざと早く来たんです。お二人にちょっとお話があって。
 フレッド ノラは今「広間」の準備を・・・今呼びます。(ハッチを開ける。)グレインジャーさん御夫妻だよ、ノラ。話があるんだって。
 ノラ(舞台裏で。)分りました。今行きます。
 ミスター・グレインジャー 娘さんはもうお帰り?
 フレッド ええ。今台所でちょっと休んでお茶を。
 ミスター・グレインジャー ビール、今日はどんな具合かな? フレッド。
 フレッド 相変らずです。酷い味ですよ。
(ノラ登場。バーの後ろへ行く。)
 ミスター・グレインジャー じゃ、マイルドを二杯。
 フレッド マイルド・・・ありていに言うとみんなマイルドでしてね。だから問題なんですよ。(ビール二杯出す準備。)
 ミスター・グレインジャー いや、疲れました。今日一日、二人で精一杯やったもんですから・・・
 ミスィズ・グレインジャー さっさと本題に入ったら?
 ミスター・グレインジャー ここの方々には、本当に色々お世話になりました。お礼の言葉を言いたくて・・・
 フレッド 何を仰います、ミスター・グレインジャー。何もしていませんよ。ただありきたりの、普通のことだけです。
 ミスター・グレインジャー いえいえ、息子の命を助けて下さいました。あれだけでも大変なことです。
 ミスィズ・グレインジャー もし皆さんがあの時いらっしゃらなければ、あの子は今頃生きてはいませんでしたわ。
 ノラ(微笑んで。)あのままほったらかしには誰だって出来ませんからね。
 ミスィズ・グレインジャー いいえ、そういう人も今ではいますわ。
(ドリス、自分のカップを持って登場。バーの後ろへ行く。)
 ミスター・グレインジャー 今晩は、ドリス。
 ドリス 今晩は。
 ミスター・グレインジャー ドリス、私達、あなたにもお礼を言うためにやって来たのです。この二年間、あれだけ自由にビリーに会えたのは、あなたのお陰なんですから。ビリーに何も聞いてはいませんけど、あの子はきっとあなたと一緒に仕事をしているんだって、分っています。いつだって褒めているんです・・・ドリスみたいに勇敢な女の子、僕は知らないよって・・・
 ドリス どうかミスター・グレインジャー、そんな風に仰らないで・・・どうか・・・
 ミスィズ・グレインジャー 私達、贈物を持って来ましたの。バーに飾って戴こうと。ほらあなた、出して。
 ミスター・グレインジャー(ノラの方にバーの上で包みを押して。)ミスィズ・シャトック、これは私達からの感謝の気持です。・・・心からの・・・どうか・・・
 ノラ まあ。こんなことをなさってはいけませんわ。・・・私、何て言ったらいいか・・・ええ、本当に何て言ったらいいか・・・
 フレッド おいおい、ノラ・・・さあ、開けて。
 ミスィズ・グレインジャー ここで飾って戴いても・・・勿論、お宅の居間にでも・・・
 ミスター・グレインジャー もしお気に召さなければ、取り換えることも出来るんですよ。
(ノラ、包みを解く。素晴らしいスタッフォードシャーの器。)
 ノラ まあ、何て綺麗!
 フレッド 有難うございます、ミスィズ・グレインジャー。本当に有難う。
(ドリス、カップを置き、バーの後ろから前に出て来る。最初にミスィズ・グレインジャーに、次にミスター・グレインジャーにキス。)
 ドリス こんなことを思いついて下さるなんて、本当に嬉しいですわ。私達、大切にしますわ、いつまでも。
 ノラ 何とお礼を申し上げていいか、本当に・・・
 ミスター・グレインジャー(急いで。)いえいえ、お礼はこちらの方が・・・いつもやって来て、一二杯飲んで、静かに坐って、人々が出たり入ったりするのを見ている。心が安まるのです。悩み事がほぐれて行き、明日への希望が湧いてくる・・・そういうところです、ここは。だからお礼を言いに来たんです。さあ、お母さん、ビールを・・・
 ノラ どうぞ、お幸せにね。・・・いつまでも。(ノラ、目を拭う。)
 フレッド おいおいノラ、もう止めて・・・
(グレインジャー夫妻、いつものテーブルに進む。ミスター・グレインジャー、用心深くビールのコップ二つを運ぶ。)
(ドリス、バーの後ろに戻る。ミスター・ロレンス、ハッチから顔を出す。)
 ミスター・ロレンス いるかい?
 ノラ まあ、ミスター・ロレンス。驚いたわ!
 ミスター・ロレンス 何か疚(やま)しいことがありますね? そのせいですよ。やあドリー。
 ドリス 今晩は、ミスター・ロレンス。
 ミスター・ロレンス アーチーと私に、いつものやつ二杯頼む。噂を広めまくって、もう喉がカラカラだよ。
 ドリス マイルド、中ジョッキ二つ。
(フレッド、ビールを注ぎ始める。)
(アルマ・ボートンが通りから登場。年とった婦人、ミスィズ・マスィスターを連れている。ミスィズ・マスィスターは少し変り者。がっちりした田舎の服装、ブーツ、それにやや大きめの帽子。アルマ、ミスィズ・マスィスターをバーに導く。)
 アルマ 今晩は、フレッド・・・ノラ。
 フレッド 今晩は、ミスィズ・ボートン。
 ノラ 暫くね、随分。
 アルマ 田舎に帰っていたの。母を連れて来たわ。今日二人で出て来たの。お母さん、これがフレッド・・・それにノラ・シャトック。よく話をしていたあの二人。
 ミスィズ・マスィスター 始めまして。
(フレッドとノラ、バー越しに握手する。)
 ノラ お会い出来て嬉しいですわ。
 フレッド「シャイ・ガゼール」にようこそ!
 アルマ ドリス! これ、私の母、ミスィズ・マスィスターよ。
 ドリス 始めまして。
 アルマ さあ、よく見て、お母さん。いつもお母さんは私が、歓楽街ロンドンの夜の生活を送っているって、羨ましがっていたわね。これがそれよ。
 ミスィズ・マスィスター まあ、ここ、まるで天国だわ。(フレッドに。)私、七年間も庭いじりをしてきて、もううんざり。いくら長生きしたって、ドイツ人に感謝する時が来るなんて、夢にも思っていなかったけれど、私、今感謝しているわ。連中から追い立てを食らっちゃったの。一九三八年からずっとあの家に、ガレー船の奴隷のように縛りつけられていたのをね。今日はもう、私自由。それでちょっと、強いものをキュッと一杯ひっかけたい気分ね。
 アルマ「スタッブ」を二杯、フレッド。これは殺されるか恢復するか、どっちかね。中間はないわ。
 ミスィズ・マスィスター ケントではそれにラムを混ぜるのよ。爆弾のようになるわ。
 ノラ まあ、ラムを!
 ドリス 今の家はどこですの? ミスィズ・マスィスター。
 ミスィズ・マスィスター メイド・ストーンから五マイルのところ。酷い酷い場所。
 ノラ 急にそんなところに移されて、さぞお寂しいでしょうね。
 ミスィズ・マスィスター とんでもない。犬達がちょっと心配だけど。それだけね、心配なのは。
 ドリス 何匹いたんですの?
 ミスィズ・マスィスター 九匹。牧師さんに頼んで来たの、全部。犬達みんな、あの人のことが好きだから。
(フレッド、二人に「スタッブ」を渡す。)
 フレッド はい、「スタッブ」です。ミスィズ・ボートン。残念ながらラムはなくて。混ぜるとよく合うという話でしたけど。
 ミスィズ・マスィスター 法螺を吹いているんじゃないのよ。今のラムのこと、本当のラムじゃないの。村で作っているラムなんですから。
 フレッド 原料は?
 ミスィズ・マスィスター よくは知らないの。いろんなものから・・・出来上がりはみんな少しづつ違った味。
 ノラ その村にはドイツ人はいるんですの?
 ミスィズ・マスィスター ええ、たーくさん。でも、私達の邪魔なんかしないのよ、その人達。ドイツ人といっても、大抵はシレジアかプロシャの人達。百姓の仕事では助けになるくらい。感情的な嫌らしいバヴァリア人達とは大違い。私達、かなりうまく連中の統制を取っているの。私があの地域のレジスタンス・グループの長。
 アルマ お母さん! 気をつけて物を言うのよ!
 ミスィズ・マスィスター 馬鹿馬鹿しい。誰だってそんなことぐらい知っているわ。(コップを持ち上げて。)打倒!・・・ヒトラー!
 ノラ(困って。)あら、まあ!
 アルマ お母さん、そんなことを人前で言っちゃ駄目。本当に駄目よ。みんなに迷惑がかかるんですからね。
(アルフィーとリリー・ブレイク、通りから登場。)
 アルフィー(バーへ。)マイルド二杯ね、フレッド。私達今、リーガル・シネマから追い出されたところ。
 フレッド 映画館から追い出される? どうしてまた。
 ミスィズ・ブレイク 観客全員がよ。あんな大騒ぎ、見たことないわ。私、笑って笑って、死にそうだった。
 ノラ 何が起ったの?
 ミスィズ・ブレイク ニュース映画をやってたの。ね? 出だしはいつもの通り。水雷が沢山海岸に並べられて、大砲や戦車が崖に整列して、それからいつもの大嘘をがなり立てるの。連合軍側の上陸作戦は木っ端微塵にやっつけられ、追い返されたって。それから急にあのイットラーの奴の大写しが出てきて、いつもの大演説が始まったの。ところがイットラーの口が開いたら、それはあいつの声じゃないの。子供の声で、「悪い狼なんて、ちっとも怖くない」って歌い始めたのよ。その時の大爆笑、聞けなくて残念だったわね。みんな笑い転げて、野次って、金切り声を上げたのよ。それからすぐ電気がついて、ドイツ兵の奴らがドヤドヤっと入って来て、みんなを殴り始めた。もう大混乱。そして追い出されたの。アルフィーと私は横の扉を通って、出て来た。私、あんなに笑ったの、父親の葬式があってからこっち、なかったことだわ。
(グラディス・モットとドイツの若い兵士、登場。)
 フレッド(アルフィーとリリーにビールを出しながら。)子供の声か・・・実にうまい。うまくやったもんだ。
 女性の声(「広間」から。)ポートワインをお願いね。
 ドリス 広間にレディーです。ポートワインだって。
 フレッド ポートか。運がないね。
 ドリス(ハッチから。)すみません。ポートはありません。
(舞台裏から、ボソボソと代りの註文の声。)
 ドリス パパ、ペパミント・コーディアルにするらしいわ。
 フレッド さっさと決めて貰うんだな。
(ノラ、ペパミント・コーディアルの壜を下ろして、ドリスに渡す。)
(ジョージ・ボーンとライア、通りから登場。ライアの腕、やはり三角巾で吊ってある。)
 ジョージ やあフレッド・・・ノラ!
 フレッド 今晩は、ミスター・ボーン。
 ノラ まあ、腕をどうなさったの? ミス・ヴィヴィアン。
 ライア ユニオン・ジャック(の旗)を振る練習をしていたら、挫いちゃったのよ。
 グラディス 今晩は、ミスター・シャトック。
 フレッド(冷たく。)今晩は。(無愛想に、兵隊に。)註文は?
 兵士 ビッテ!
 フレッド ビターは切らしています。あるのはブラウンかマイルド。
 グラディス(元気よく。)「ビッテ」はドイツ語で「お願いします」の意味よ。
 フレッド やれやれ、「ビター」が「お願い」ね。
 グラディス(鋭く。)じゃ、マイルド二つ。英語が出来ないからって、この人を責めることはないわ。まだ来てから三週間なのよ。
 フレッド それは残念。今からじゃ、あまり英語も練習出来ないな。
 グラディス どういう意味? それ。
 フレッド いや、何でもない。(ビール二つ、二人に出す。)
(ドイツの兵士、財布を出す。グラディス、そこから金を取り出し、バーの上に置く。)
 兵士(煙草を出したミスィズ・ブレイクに。)Feuer bitte.
(「火をどうぞ」)
 ミスィズ・マスィスター(右手のテーブルに二人が行くのを見て。)あの若さ・・・一人で旅行も難しそう。
(通りに通じる扉が開き、アルブレヒト・リヒター登場。その後ろに二人の護衛。)
 アルブレヒト(バーの近づいて。)今晩は、ミスター・シャトック。お邪魔してすみません。いつもの巡視です。今晩は、ミスィズ・シャトック。
 ノラ 今晩は。
(二人の護衛、バーの周りを回り、低い声で何か訊く。そして身分証明書の呈示を要求する。)
 アルブレヒト 例の奇妙なジンジャーエールを戴けるかな? ミスター・シャトック。(ポケットから小壜を取り出す。)飲み物は持って来ました。あの「スタッブ」は私の胃が受けつけないものですからね。
 兵士(二人の護衛に。)ハイル・ヒトラー!
 フレッド ああ、それは構いません。(ジンジャーエールの栓を開け、壜をバー越しに渡す。)
 アルブレヒト ジョージ・・・長いこと会っていませんね。ライア・・・二人ともお元気かな?
 ジョージ そりゃもう、元気そのもの。ブライトンの空気がよかったんです。あそこの立ち退きを食ったのは実に残念でしたよ。
 アルブレヒト ウイスキーを奢らせて貰えるかな?
 ジョージ 有難い・・・奢られるのは嬉しいですな。
 アルブレヒト ライア?
 ライア 喜んでその小壜に飛び付くわね。ちょっと匂いを嗅ぐだけでもいい。夜、寝付きがよくなるわ。
 アルブレヒト(フレッドに。)もう二つ、ジンジャーを頼む、ミスター・シャトック。
 ライア いいのよ、フレッド。私、ストレートにする。
 ジョージ 私もだ。
 アルマ 大丈夫よ、お母さん。ただの巡視よ。
 ミスィズ・マスィスター 私も慣れているわ。「ラングリー・アームズ」で、しょっ中やっていたから。
(アルブレヒト、三つのコップにウイスキーを注ぐ。ジョージ、水を加える。アルブレヒト、一つをライアに一つをジョージに渡す。)
 ジョージ 有難う。(コップを上げる。)乾杯!
 アルブレヒト(コップを上げて。)ハイル・ヒトラー!
 ライア(コップを上げて。)ヘイルの後は「サヨナラ」!
 アルブレヒト(微笑んで。)面白いですな、ライア・・・ちょっと早過ぎるきらいはあるが・・・
(護衛の二人、アルマとミスィズ・マスィスターのテーブルに来る。)
 ミスィズ・マスィスター(護衛に。)ちょっと予め御注意申し上げますがね、そこの数字はカード番号・・・私の年ではありませんからね。
(二人の護衛、堅いお辞儀。カードを返す。)
 アルブレヒト このところミスィズ・ブレイドを全然見掛けませんな。完全にどこかへ消え去ったのですかな?
 ジョージ ウェイルズにいるんじゃないかな。・・・そうだったな? フレッド。
 フレッド そう。・・・二週間前に葉書を貰いましたよ。
 アルブレヒト 作家活動は順調なんでしょうな。
 ジョージ 勤勉ですからね、ジャネットは。
 アルブレヒト(ドリスに。)今晩は、ミス・シャトック。
 ドリス(ハッチの方を向いていたが、こちらに顔を向け。)今晩は。
 アルブレヒト どうやらすっかり恢復されたようですな。
 ドリス(ほんの少しの間があって、すぐ。)ええ、すっかり。有難う。気分よくなりましたわ。
 ノラ(すぐに。)恢復? 何のこと? どうしたの?
 アルブレヒト 娘さんは、今日の午後、気分が悪くなったんですよ、ミスィズ・シャトック。五時半退社でなく、四時に早退したんです。
 ドリス(気楽な調子で。)ええ・・・私、どうなっちゃったのかしら。急に気分が悪くなって気絶したんだわ。支配人がとても親切で、家に早く帰らせてくれた。食べたものに何か悪いものがあったのね、きっと。
 アルブレヒト 公園で散歩をしたのはいい考えでしたよ。新鮮な空気、適度な運動、これに限りますからね。
 ドリス 何ですか、それ。私のことを怪しいと思っているのね。
 フレッド 何だこれは。何の話をしているんだ。
 ドリス どうやら、目をつけられたみたい。・・・そういうこと。運の悪い話。
 ジョージ 何だ、アルブレヒト。随分無茶なやり方じゃないか。失礼だぞ。
 アルブレヒト(微笑んで。)いや、申し訳ない。
 ドリス 自分が何様だと思っているの。セックストン・ブレイクとでも?
 アルブレヒト 誰です? セックストン・ブレイクとは。
 ジョージ 有名な探偵ですよ。鋭い目をした。小説ですがね、勿論。エップのココアが流行った頃の。
 アルブレヒト ミス・シャトックはセント・ジェイムズ公園の池のほとりで若い紳士と出会ったんですがね。その紳士の名前かと思いましたよ。
 ドリス 違うわ。それでどうしたっていうの。
 アルブレヒト じゃ、彼の名前を教えて戴きましょうか、ミス・シャトック。
 フレッド 公園で女が男に会っちゃいけないという規則でもあるんですか、一体。
 アルブレヒト 場合によりけりですな、それは。
 ドリス 大丈夫よ、パパ。こっちのことは構わないで。私が説明するわ。
 フレッド したくなければ説明など何もしなくていいんだ。
 アルブレヒト それがそうも行きませんでね・・・
 ドリス(苦々しく。)ミスター・ノウズィー・パーカー!(ほじくり屋の意。)
 アルブレヒト(動じない。)誰です? そのノウズィー・パーカーっていうのは。
 ジョージ これも小説の登場人物ですよ。慣用句にもなっていますがね。
 アルブレヒト なるほど。大変面白い。(持っていたコップを叩きつけるように置いて。)どうやら来て戴かなければなりませんな。
 ドリス 来る? どこへ。
 アルブレヒト 今の話、どうも納得がいきませんな、ミス・シャトック。私の事務所でお訊きしたい質問があります。どうか帽子とコートをお取り下さい。
 ドリス 今? 今来いって言うの?
 アルブレヒト(冷たく。)すぐにです。残念ながら、こちらも急を要しているんです。
 ジョージ なあ、アルブレヒト・・・
 アルブレヒト 急を要しているんです、ミスター・ボーン。ひどく急を要してね。
 ドリス 心配しないで、ママ・・・私、大丈夫。
(ドリスが帽子とコートを取る間、暗い沈黙。アルブレヒト、二人の護衛に、物凄い声で命令する。二人、ドリスの両側にピッタリとつく。ドリス、名状しがたい微笑み。フレッドとノラに手を振る。)
 ドリス 心配しないで・・・ね、心配しないで。(バーの方を見回す。)皆さん、さようなら。
(アルブレヒト、フレッドとノラに堅い目礼。そしてジョージとライアに。それからウイスキーの壜をポケットに入れ、三人の後ろから退場。)
              (幕)(二幕二場 終)

     第 二 幕
     第 三 場
(三日後。午後およそ二時半。)
(アルフィー・ブレイク、リリー・ブレイクとフィリス。フィリスはバーの後ろにいる。)
(アルフィー、バーの止まり木に坐って、ビールのジョッキや盆を使って、連合軍側の戦略の説明をしている。)
 アルフィー ・・・これがフランスの海岸線。そしてこっちがイギリスの海岸線。な? ここだ。
 ミスィズ・ブレイク ベルギーはどこ?
 アルフィー フィリスの肘のところだ。だから、侵入用の船艇は、ここと、ここと、ここから出て行くのは当り前だろう?
 ミスィズ・ブレイク どこから手に入れたの? それを。
 アルフィー 手に入れたって・・・何を。
 ミスィズ・ブレイク 侵入用の船艇よ。底の浅い、例のあれでしょう? それ、どこで手に入れたの。
 アルフィー どこから手に入れたって?・・・・そんなこと、どうでもいいよ。とにかくあるんだ。
 フィリス あるってどうして分る?
 アルフィー(辛抱強く。)ちょっと黙ってろ、フィリス。こいつに分らせようとしているんだ、連合軍の高級な戦略をな。それなのに、お前の馬鹿な質問が間に入って来たんじゃ、支離滅裂になってしまうだろう?
 フィリス 私、「あるってどうして分る?」って言っただけよ。
 ミスィズ・ブレイク あなたに高級な戦略が分るっていうのがすごいことだと思うけど。
 アルフィー 分ったよ。分った。じゃ、また最初からやり直すぞ。ここがフランスの海岸線。いいな?
 ミスィズ・ブレイク(フィリスが動いて肘の位置が変ったので。)ベルギーは元に戻して、フィリス。ベルギーまで動いたら、何が何だか分らないわ。
 フィリス(肘を戻して。)すみません。
 アルフィー それでだ、海岸に実際に人間が上陸する前にやっておかなきゃならないことがあるのは、すぐ分るだろう? 敵の海岸線の、こことこことここを、飛行機で叩いておくんだ。
 ミスィズ・ブレイク じゃ、爆弾を落とすのね?
 アルフィー(癇癪を起して。)当り前じゃないか。他に何を落すっていうんだ。「スタッブ」でも落すのか。
 ミスィズ・ブレイク あなた。アルフィー・ブレイク。あなたの欠点はね、何か説明しようとするとすぐ癇癪を起すこと!
 フィリス 奥さん、旦那さまに話させてあげたら? お話、面白いじゃないの。
 ミスィズ・ブレイク 話させる? 話させるもへちまもないのよ、この人は。どうせ無理矢理にでも話すの。そして自分は何でも知っていて、自分以外の人間は何も知らないの。
 アルフィー(怒って。)いいか、この馬鹿・・・
 ミスィズ・ブレイク「この馬鹿」は止めて頂戴! この六箇月朝も昼も晩も、連合軍の侵入の話ばっかり! もう私うんざり。あなたが急ごしらえの軍事戦略研究家になってからこっち、あなたと暮すの、ちっとも面白くなくなったわ。(ビールのジョッキを取って。)私、あっちのイギリス海岸線の方へ引込んで、静かに一杯やるわ。連合軍侵入があった時にはその時で、自分のしなきゃならないことぐらい、分るんじゃないかしら。
 アルフィー(皮肉に。)なあフィリス、明日は我々の結婚記念日なんだ。それで丁度、何をしようかって考えていてね・・・十五年間の至福の時、口喧嘩など一度もしたことがない・・・信じられる? これ。(自分のジョッキを取って妻のところへ行く。)まあ、君の言う通りだよ。
(ビリー・グレインジャー、左手の通りへ通じる扉から登場。)
 ビリー やあ、こんちは。
 アルフィー やあ。
 ビリー(バーに進んで。フィリスに。)やあ、どうしてる?
 フィリス 今日は、ミスター・フォーセット。長いこと見かけなかったわね。
 ビリー ドリスは?
 フィリス(顔が変る。)ドリス?
 ビリー うん。今日は土曜日だ。サヴォイには行ってない筈だ。
 フィリス ええ、サヴォイには行ってないわ。
 ビリー じゃ、どうしたんだ。
 フィリス(バーの後ろから前に出て来て。)おかみさんは二階にいるわ。今呼ぶわ。
 ビリー 何だい? 何かあったのか?
 フィリス(呼ぶ。)おかみさん! おかみさん!
 ノラ(舞台裏から。)何?
 ビリー 何か起ったんだな? そうだ、ドリスに何があったんだ。(フィリスの腕を掴む。)どこにいるんだ、ドリスは。
 フィリス 連れて行かれちゃったのよ。
 ビリー 誰に。
 フィリス ミスター・リヒター。・・・ゲシュタポよ。
 ビリー いつ。
 フィリス 腕が痛いわ。
 ビリー(腕を離す。)いつだ。いつ連れて行かれた。
 フィリス 三日前。おかみさんは酷い状態。マスターも。毎日ゲシュタポ本部へ行くんだけど、入れて貰えないの。
(ノラ、階段を下りて来る。見るからに窶(やつ)れていて、惨めな姿。)
 ノラ どうしたの? フィリス。
 フィリス ミスター・フォーセットなんです。どうしたのかって・・・
 ビリー ええ、今のフィリスの話・・・ドリスが連れて行かれたって・・・それは本当なんですか。
 ノラ そうよ、ビリー・・・ミスター・フォーセット。フィリス、バーの後ろに戻って。(ビリーに。)人が来るといけないわ。二階に上って。(フィリスに。)「広間」には誰かいるの?
 フィリス(ハッチから見て。)いいえ。
 ノラ もう窓を閉めて。どうせ閉める時間なんだから。
 フィリス はい、ミスィズ・シャトック。(窓を閉める。)
(フレッド、通りから登場。窶れて希望のない顔。)
 ノラ(物を訊くように。)あなた・・・
 フレッド 駄目だった。入れてくれさえしない。
 ビリー いつなんです? 連れて行かれたのは。僕はロンドンに行っていて・・・誰も話してくれないし・・・今帰って来たところなんです。
 ノラ 水曜日。あなたと公園で会ったでしょう? あの日の夕方。
 フレッド(ブレイク夫妻がいるぞ、という注意を促して。)ノラ!
 ノラ いいの。あの人達、あの日ここにいたの。連れて行かれるのも見ているわ。あれからずっとこの人、リヒターに会おうとしているんだけど、入れてくれないの。昨日リヒターから伝言があった。娘は返してやる。こちらの質問にちゃんと答えてさえくれればって。
 ビリー それだけですか。
 フレッド(疲れたように。後ろを向いて、帽子を釘にかけながら。)そう、それだけだ。
 ノラ あなた、行ってから随分時間が経つわ。入れてくれなかったって、今言ったでしょう? 私、心配になって来たのよ。今まで何をしてたの?
 フレッド あちこち歩いていたんだ。
(外に車の音がして、家の前で止る。)
 ノラ 何? あれ。
(ドイツの護衛二人登場。ぐったりとなったドリスの身体を両側から抱えて運ぶ。ノラの足元にドリスを投げ出す。)
(それから二人、敬礼をし、前方に腕を差し出し、「ハイル・ヒトラー」と叫ぶ。そして退場。後ろ手にバタンと扉を閉める。)
(ノラ、ドリスに駆け寄る。膝まづき、膝の上にドリスの頭を乗せる。ドリス、微かな動きをし、呻く。顔は判断出来ない程酷くなっており、髪は汗で濡れてへばりついている。両手とも血だらけ。)
 ノラ(囁き声。)ドリー・・・私のドリー・・・可愛いドリー・・・
 ドリス(目を開ける。絶望的な努力でやっと次の台詞を言う。)私・・・何も言わなかった・・・何も・・・(頭が落ち、小さな喘(あえ)ぎの音。そして死ぬ。)
 フレッド 奴等、拷問にかけたんだ・・・拷問にかけて殺したんだ・・・
 ノラ(急に、狂気のように。)ドリー・・・ドリー・・・
(ノラ、ドリーの身体を両手で抱きしめる。高い音の、抑揚のない叫び声。)
               (幕)(二幕三場 終)

     第 二 幕
     第 四 場
(一九四五年五月。午後の早い時間。店の閉まる少し前。)
(フレッドとフィリスが、バーの後ろにいる。バーにはアルマ、ミスィズ・マスィスター、アルフィー、リリーとミスター・ロレンス。全員、遠くから聞こえて来る銃撃戦の音と、それに混じっている爆弾の音、を熱心に聴いている。)
 アルフィー ああ、あれは手榴弾の音だ。
 アルマ 随分近いわ。
 フレッド スローン街の辺りかな。
 アルマ 街全体に拡がっているみたい・・・戦闘が。
 フレッド ロンドン中ですね。それに郊外にも・・・夕べから。
 アルマ レジスタンスの人達、蹶起(けっき)が少し早過ぎたんじゃないかしら。沢山の人が無駄死にしてしまうわ。無線では、連合軍がここに到着するのは少なくともまだ二三日かかるって言ってたもの。
 フレッド いや、中央からの指示を受けての行動の筈ですよ。
(飛行機が飛ぶ音が聞こえる。)
 フレッド また新手がやって来た。
 アルフィー 爆撃機のようですね。
 ミスィズ・ブレイク 爆撃機以外の何に聞こえるっていうの? あなた。
 アルフィー おいおい、リリー・・・
 ミスィズ・ブレイク それともあなた、爆弾じゃなくて、ミシンでも運んで来たって言いたいの?
(グラディス・モット、左手から登場。)
 グラディス 一杯頂戴。・・・何でもいいわ。
 フレッド すみませんが、みんな切らしています。
 グラディス じゃ、みんなが飲んでいるのは何なのよ。
 フレッド みんなはみんなです。
 グラディス 私は喉がカラカラ。走って来たのよ、ここまで。・・・ピムリコ街では、撃ちあいをやっている・・・私、飲みたいの。
 フレッド どこか他へ行って下さい。
 グラディス この時間は営業時間の筈よ。・・・ここは許可をとって出している店でしょう? 私が飲みたいって言ってるのに、それを断るってどういうこと?
 フレッド あなたには出しません、ミス・モット。今日には限りません。もう何時来たって駄目です。分りましたね。
 グラディス 生意気ね。何? その言い方。あんた、自分を何様だと思っているの?
 フレッド どうしようもありませんね、ミス・モット。終が来たんです。
 グラディス 私、何年もここには通っているのよ。
 フレッド しょっ中ドイツのお友達を連れて来て下さいましたね。全くお有難いことで。その時私はお断りはしませんでした。断る権利がなかったからです。しかし今、事情は変りました。もうこれからは、この店に足を踏み入れて貰いたくないですな。さ、出て行って下さい。
 グラディス よし、訴えてやる。
 フレッド どこへです?
 グラディス どこへだっていいでしょう・・・(涙声になる。)私を侮辱するなんて・・・あんたにそんな権利があるの・・・私はちゃんと自分で稼いできたわ。他のみんなと同じじゃない。
 フレッド 他のみんなと全く同じって訳ではないですね。
 アルフィー おいおい、あんた。止めろよ。マスターに難癖をつけようっていうのか?
 グラディス(バーの上に硬貨を一枚、投げるように置いて。)金はここよ。さ、飲ませて頂戴。
 フレッド(その金を取って、床に投げる。)さ、さっさと金を拾って出て行くんだ。さもないと、つまみ出すぞ。それからな、こいつだけはその頭によーく叩きこんで置くんだ。私があんたに出してやらないのは、別にあんたが街の女だからじゃない。・・・あんたが敵に通じていたからだ。・・・それだけで私はうんざりだ。さ、出て行くんだ。もう二度とあの扉から顔を見せるな。
(グラディス・モット、黙って床の上から金を拾い・・・そして・・・退場。)
 フレッド すみませんミスィズ・マスィスター、こいつをやってやろうと、もう大分前から決めていたんです。
 ミスィズ・マスィスター この間田舎から牧師さんが書いてきたわ。先週、今の子と同じことをやっていた娘がいて、みんながその子の頭を剃っちゃったの。ドイツの連中、知らんふりをしていたってよ。
(上空で飛行機の飛ぶ音。)
 ミスター・ロレンス まただ。空軍基地の上辺りだぞ。
 アルフィー ヘンドンで弾薬を詰め換えるんだ。
(訳註 この辺り不明。飛んでいる飛行機は連合軍側と思われる。しかし、長い間イギリスはドイツに占領されている訳だから、ロンドン近郊のヘンドンが既に味方の飛行場になっているとは考え難い。)
 ミスィズ・ブレイク どうして分るの?
 アルフィー そりゃ、そういうことになる筈じゃないか。
 ミスィズ・ブレイク 私、てっきり連中が予めあなたに葉書で知らせてくれていたのかと思ってたわ。
 アルフィー そんな冗談、面白いと思っているのか、お前。
(通りへ通じる扉が開き、ジャネット・ブレイド登場。)
 アルマ(振り返って。)ジャネット! 暫くだわね。
 ジャネット こんな時に引込んではいられないって、急に思いたって出て来たの。
 フレッド 今日は、ミスィズ・ブレイド
 ジャネット 今日は、フレッド。ノラはどう?
 フレッド ええ、まあ。いいです。有難う。・・・いいと言っても、まあまあの良さですけど。手紙を有難うございました。いつも楽しみにしていました。有難かったです。
 アルマ ジャネット・・・これ、私の母なの。
 ジャネット(握手して。)始めまして。
 ミスィズ・マスィスター 一緒に飲みましょう。今丁度お祝いをやっているところ。
 ジャネット もうすぐよ。イギリス中がお祝いを始めるわ。
 フレッド 今日はうちの持ちですからね。ミスィズ・ブレイド。
 ジャネット みんな大丈夫?・・・一人だけ除いて・・・分るわね? これ。
 フレッド ええ、ミスィズ・ブレイド、みんな大丈夫です。まだ時々我々は監視され、捜索されるけれども、もう過去のある時期のようではなくなりました。連中はもっと他のことで忙しくなっているんです。
 アルフィー 一日か二日・・・最大で三日・・・それでもう、万歳だぞ。
 アルマ 信じられないわ。本当よ。本当に信じられない。
 ジャネット さっきの奢るっていう話は? フレッド。(アルマの方を向いて。)さあ、何が飲めるのかしら。
 フレッド ちょっと驚かせるものがね。・・・そんな厚いグラスが出ていても、出て来るものは違いますよ。さあ、これだ!(シャンペンの壜を出す。)
 ジャネット まあフレッド! 何て素敵!
 フレッド 一九三九年からずっと隠していたんです。二三本まだありますが、それは完全に解放された時のため・・・でも、この時期も出だしとして大事・・・ちょっと気分を出して行きましょう。(グラスになみなみと注ぐ。)さあどうぞ、ミスィズ・ブレイド。
 ジャネット(グラスを上げて。)有難う、フレッド。あなたに感謝を籠めて、愛情を籠めて、乾杯よ。本当に心からの感謝と、心からの愛情を籠めてね。
 アルマ ヒア、ヒア!
 アルフィー われらがよき友、フレッドに、だ。
(全員「ヒアヒア、謹聴、謹聴」と呟く。)
 ジャネット ええ、フレッドのことは皆さんもよく御存知の筈・・・みんなそれぞれ違った言葉でそれを心の中で思っているでしょうけど・・・小さい時から培(つちか)われたその性格・・・優しさ、一本筋の通った頑固なユーモア・・・それはいつだって私達を裏切ることはなかった。私達はそれを誇りに思っている・・・本当に誇りに・・・だから今、そのフレッドに乾杯!
 全員 乾杯・・・ヒアヒア!
 フレッド(涙が出そうになる。言葉を出すのが難しい。)有難う、ミスィズ・ブレイド。ノラに話してくる・・・あなたが今、私について言って下さったことを・・・
(フレッド、急いで小部屋の方へ退場。)
 ミスィズ・ブレイク 私達にあなたのハンカチを貸して、アルフィー。連合軍の兵隊がイギリス式の槍を構えてここに突入して来た時、涙をボロボロこぼしている姿を見られたくありませんからね。
 アルフィー 馬鹿な冗談は止めろよ、リリー。まだ何日も味方は来やしないんだ。
 フィリス 店を閉める前に、最後の一滴は如何ですか? まだちょっと壜に残っていますよ。
 アルマ あんた飲みなさいよ、フィリス。
 フィリス まあ、嬉しいわ、私。(残りのシャンペンをグラスに注ぐ。)さ、一息によ!
 ミスィズ・ブレイク さ、アルフィー、私達もう行かなくちゃ。お母さんとアリス伯母さん、あのアパートに一日中ほったらかしにしていたら発作を起してしまうわ。
 アルフィー あの二人に誰も頼んではいないぞ、一日中家に引込んでいろなんて。
 ミスィズ・ブレイク 二人とも年寄りなのよ! あの年で、旗を振り回して街中を走り廻れって言ったって無理でしょう? それにお母さんの足のことを考えてもみて!
 アルフィー あの足のことなら、この十五年間考え続けてきているんだ。もう僕は何か他のことを考えたいね。
 アルマ 私達もう行かなきゃ、お母さん。・・・もう店を閉める時間は過ぎているわ。
 ミスィズ・ブレイク さあ、アルフィー・・・ミスター・ロレンス、あなたも出ますか?
 ミスター・ロレンス ええ、そうしましょう。
 ミスィズ・ブレイク(アルマに。)何か起った時には、男二人いるって心強いわ。
 ミスィズ・マスィスター 男二人のエスコート。歴史上の事件でよくあることね。
 ミスィズ・ブレイク じゃ皆さん、さようなら。
(ブレイク夫妻とミスター・ロレンス、退場。)
(フレッド、戻って来る。)
 フレッド ノラがお会いしたいと言っています、ミスィズ・ブレイド。
 ジャネット じゃ、まいりましょうか?
 フレッド いえ、下りて来ると言っています。
 アルマ さあお母さん。さようなら、ジャネット。他にすることがなかったら、うちのアパートにいらっしゃい。まだちょっとお茶が残っているわ。
 ジャネット 有難う。御親切に。
 アルマ じゃあね、フレッド。また。
 ミスィズ・マスィスター どこか郵便局が開いているといいんだけど。私、ミスィズ・バレッジに電報を打ちたいわ。
 アルマ 誰? その人。
 ミスィズ・マスィスター レジスタンス・グループで私の直属の部下。あの人、緊急事態にはいつでもオタオタしてしまうんだから。
 アルマ 電報なんて駄目よ。もうとっくにオタオタしているわ。
(アルマとミスィズ・マスィスター、退場。)
 フレッド フィリス、君はもういいよ。
 フィリス 有難うございます。
 フレッド この歴史的な数時間、君はどこで過すつもりなんだ? エンパイアー? リーガル? それともオデオンかな?
 フィリス(帽子とコートを取りながら。)ヴィクトリアのメトロポール。二本立てなの。キングコングとジャネット・マクドナルド。
(フィリス退場。)
 フレッド 実はミスィズ・ブレイド、ノラの奴、随分変ってしまって。
 ジャネット ええ、分りますわ。そうだろうと思っています。
 フレッド ずーっと悪くて・・・酷く悪くて・・・もう駄目かと思った時もあったんです。・・・でも、最近は少しよくなって来て・・・
 ジャネット スティーヴィーはちゃんとやっているんでしょう?
 フレッド ええ、そのお陰なんです、ノラがよくなって来ているのも。
(ノラ、小部屋の方から登場。酷い変りよう。顔は土気色、髪はほとんど白くなっている。)
 ジャネット(ノラの方に進みながら。)ノラ・・・会えて嬉しいわ!
 ノラ お帰りなさい、ミスィズ・ブレイド。いらっしゃらなくて淋しかったわ。
 ジャネット シャンペンを戴いたわ、御主人に。・・・本物のお祝い・・・
 ノラ ええ、聞きました。私にも飲めって。でも飲めなくって。フレッド、もう閉めた方がいいわ。もう三時はとっくに過ぎているわ。
 ジャネット 私はもう出ます。どこかで髪を洗って貰わなくちゃ。開いている所、御存知ない?
 ノラ フルハム・ロードにドリスがいつも行っていた所があるわ。
 ジャネット ああ、あそこ。知っているわ。じゃまづ、あそこに行ってみるわ。またね、ノラ。
 ノラ さようなら、ミスィズ・ブレイド。主人に素敵なことを言って下さって有難う。
 ジャネット 誰もがみんな感じていることを言っただけよ。そして感じて来たことを。・・・お二人に対して。(両腕でノラを抱き、キスする。)じゃ、さようなら、フレッド。気をつけてね。
 フレッド 銃撃戦になったら、どこでもいい、近くの家に入れて貰うんですよ。
 ジャネット 私は大丈夫よ、フレッド。
(ジャネット退場。)
(二人、ジャネットが出て行くのを扉から見送る。扉を閉め、部屋に戻る。)
 フレッド 本当に何か飲まなくていいのか?
 ノラ いいの。私が飲まないの、知っているでしょう? もう閉める時間は過ぎてるわ。ロックした方がいいんじゃない?
 フレッド いや、ロックは止めだ。今日だけじゃない、明日も明後日も、これからずっと・・・「笑顔で出迎え」だ。・・・夜も昼も。連合軍が行進して来るまでな。・・・「笑顔で出迎え」、これがこれからのうちのモットーだ。
 ノラ スティーヴィーは、あの戦闘の中にいるのかしら。
 フレッド いるかもしれない・・・いないかもしれない・・・命令次第だよ。
 ノラ どこにいるか分るといいんだけど。・・・知らせてくれないかしら。
 フレッド あいつは大丈夫だ。ちゃんとやっている。肌で感じているんだ、私は。二日前に手紙をくれたじゃないか。ちょっとでも時間があれば、知らせて来るんだ、あいつは。
 ノラ 無線でああ言って来ても、もし連合軍が侵入出来なかったらどうなるの。明日も明後日も着かなかったら? 一週間たっても、二週間たっても駄目だったら? こっちの味方、全滅してしまうわ。数でかなわないもの、そんなに長くは持ちこたえられないわ。
 フレッド 命令があったから蹶起したんだ。成算あってのことだよ。
 ノラ ええ、分るけど、でも・・・
 フレッド 覚えているだろう? スティーヴィーが最初に帰って来た時言った言葉を。「生るか死ぬか、そんなことはたいした問題じゃない。だって、生きていたって、自分の好きなように生きられないんじゃ、意味がないじゃないか。僕らは戦わなきゃ・・・僕ら全員が・・・最後のどん詰まりまで」。
 ノラ(後ろを向いて。)ええ、覚えているわ。
 フレッド(片腕をノラに回して。)ノラ、これが最後のどん詰まりなんだ。私達二人は今、そのどん詰まりにいるんだ。そう思えば却って気も楽になるさ。な? 何が起ったって。
 ノラ 何が起ったって!
 フレッド お前の考えていることは分っているよ。ドリスは死んだ。ひょっとするとスティーヴィーもってな。まあそうなったら、そうなったで仕方ないさ。二人で淋しく余生を送ることにしよう。二人が死ぬまで。余生と言ったって、そんなに長くはないだろう。とにかくここまで来て、私達二人が何を言おうと、スティーヴィーが戦うのを止める訳はない。スティーヴィーには限らない、他の同志達の誰一人をとってもだ。信じるもののために進むんだからな。
 ノラ 分ったわ、あなた。
(ビリー・グレインジャー、左手の扉から急いで登場。)
 ビリー 表の扉はもうロックした筈だと思って、裏から入りました。
 ノラ ビリー!
 ビリー ミスター・ボーンからの伝言です。緊急なんです。
 フレッド どういう伝言なんだ? ビリー。
 ビリー 今すぐ僕と一緒に来て下さい。すぐです。厩の端の所にトラックを持って来てあります。
 フレッド 一緒に行く? どこへ。
 ビリー 遠くではありません。ロンドンの少し外れに。
 フレッド 何故・・・何のために。
 ビリー 早くして下さい。理由は行きながら説明します。
 ノラ スティーヴィーはどこ?
 ビリー 知りません。・・・どうか早く、ミスィズ・シャトック。緊急なんです。
 フレッド 私達はここを動かない。ビリー。
 ノラ スティーヴィーはどこ?
 ビリー 言ったでしょう。知りません。
 ノラ あの子を見たの? あなた。
 ビリー ええ・・・いいえ・・・とにかく僕の言った通りにして下さい。・・・二人とも・・・ミスター・ボーンが僕に命令したんです、あなた方二人を連れ出せって。
 ノラ スティーヴィーは今戦っているの?
 ビリー ええ、みんな戦っています。
 ノラ 死んだの?
 ビリー いいえ・・・誓います。死んではいません。・・・元気です。・・・とにかく言われた通りにして下さい。
 フレッド いくら言っても無駄だよ、ビリー。私達はロンドンを出ない。今だろうと、これから先いつだろうと。・・・スティーヴィーがここで戦っている限りは。
(キーッと鋭い音を立てて外で車が止る。)
 ビリー(進退窮まって。)お願いです。・・・命令なんです。・・・ミスター・ボーンが指揮を取っているんです。・・・命令なんですよ、ミスター・シャトック。
(扉がパッと開いて、ジョージ・ボーン登場。)
 ジョージ(怒る。)この大馬鹿者! 二人を連れて行けと言っただろう。
(ベンとドクター・ヴェニングが、リヒターを引きずって登場。リヒターは半分意識なし。二人、リヒターをドサリと置く。)
 ジョージ 扉をロックしろ。・・・早く! ロレンスに「行け」と言え。
 ベン(扉の方に走って。)はい。・・・(外に。)行け!(扉を閉め、ロックする。)
 ジョージ(リヒターが呻く。その時。)椅子に縛れ。
 ノラ うちの子はどこです、ミスター・ボーン。スティーヴィーはどこなんです。
 ジョージ 大丈夫です、彼は。それより、今すぐお二人は逃げて下さい、ビリーと。厩の端のところにトラックが待っています。
 フレッド 私達は逃げません、ミスター・ボーン。あなたに言われても、他の誰に言われても。
 ジョージ これは命令です。行って下さい。
 フレッド 悪いですが、ミスター・ボーン、もう私は命令をきくような年じゃありません。たとえあなたの命令でも。
 ジョージ じゃ、勝手にしなさい。・・・しかしノラだけは逃がして。何が起るか分らない。・・・時間がないんです。
 ノラ 私は夫と一緒に残ります。
 ジョージ(怒って。)全く、何ていう英雄気取りだ。ベン、窓を。
(ベン、さっと窓に進み、立つ。リヒター、気がつき始める。大声で呻く。ジョージ、その口にハンカチを詰める。)
 ジョージ 猿轡(さるぐつわ)だ、ヴェニング。・・・急いで。
 ドクター・ヴェニング(取り出す。)分った。ビリー、手伝ってくれ。
(ドクター・ヴェニングとビリー、リヒターに猿轡を噛ませる。)
 ジョージ こっちを向かせろ。
(ドクター・ヴェニングとビリー、リヒターの坐っている椅子を回し、リヒターをジョージの方に向かせる。)
 ジョージ よし。(バーからコップの水を取り、リヒターの頭にかける。)暫くは息を吹き返しておいて貰わないとな。・・・お前に言うことがある。すまないなフレッド、ここを使う以外に方法がなかったんだ。これは予定にはなかった。しかし、最後の最後で、予定が変更になったんだ。
 フレッド 何をするんです。
 ジョージ すぐに分るさ。(リヒターに。)これは予定の行動だ。ずっと前からこのことは決めていたんだ。ここにお前を連れて来る・・・そして、殺す。
(ノラ、身体を堅くする。リヒターを見つめて、じっと立つ。)
 ジョージ 裁判の形式をきちんと整えてやる時間が、残念ながらない。しかし、お前を「処置」する前に、具体的な罪状のリストは読み上げた方がいいだろう。この世に別れを告げるその瞬間に、イギリス人が不公平だったなどという感想を持たれてはかなわないからな。
(リヒター、頭を上げ、ぼんやりとジョージを見る。)
 ジョージ まづ真っ先に上げねばならないのは、お前がミス・ドリス・シャトックの逮捕、拷問、殺害の、直接の責任者である点だ。
(通りから物音が聞こえる。)
 ジョージ おい、扉を!
(ベンとビリー、左手の扉に駆け寄り、銃を構える。スティーヴィーが飛び込んで来る。片方の腕に血だらけの包帯。窶(やつ)れているように見える。)
 ノラ(叫ぶ。)スティーヴィー!
 ジョージ 静かに!
 スティーヴィー 急いで下さい。リヒターがここにいると、奴等に分ってしまいました。連中、すぐにやって来ます。
 ジョージ 糞っ! 突き止められたか。
 スティーヴィー ここだと知られてしまったんです。ミッキーが本部に通報して・・・僕らを一網打尽にするつもりでいます。
 ジョージ ビリー・・・スティーヴィー・・・リヒターをドアと一直線になるところに置け。扉はテーブルと椅子でバリケードを作る。
(スティーヴィー、ベン、ビリー、ドクター・ヴェニング、指示に従う。ノラ、立ってそれを見る。)
 ジョージ よし・・・万一の時にも大丈夫なように。(スティーヴィーのユニオン・ジャックのレジスタンスの腕章を剥ぎ取り、リヒターの腕に巻く。)死刑執行も、これで詩的に行われる。さ、行こう。ぐずぐずしている暇はない。(微かに笑って、ノラとフレッドを見る。)全員だ。
 ビリー とどめを刺すんじゃないんですか。
 ジョージ いや、このままの方がいい。
 スティーヴィー 逃げられはしないんですね?
 ドクター・ヴェニング うん。きっちり縛ってある。
 ジョージ さあ、みんな行くんだ。・・・早く。(ビリーの帽子を取り、それをリヒターの頭に被らせる。)
 スティーヴィー さあ、ママ・・・僕も一緒に行く。・・・さあ、早く。
(ノラ、行こうとする。が、部屋に戻って来る。リヒターの方に歩みより、一瞬じっと見る。それから頭を上げる。顔に微かな笑い。)
 ノラ 私、いいわよ、スティーヴィー。
(全員退場。フレッドとスティーヴィーとノラが最後に出る。)
(ジョージ、扉のところで振り返り、部屋に戻る。ラジオのスイッチをつける。)
 ジョージ もう随分昔になるが、お前はアメリカと海外にいる私達の同胞について、「あいつらが何だ」と軽蔑の口調で言ったことがあったな、ミスター・リヒター。その同胞が、着々と進んで来ているんだ。それから、ヒトラー総統殿が、お有難くも、イギリス魂について、打ち勝ち難いものがあるとか何とか、大変なお褒めの言葉を述べたことがあったと、お前、私達に話したことがあったな。
(ラジオの声、少しづつ言葉がはっきり聞こえてくる。)
 ジョージ その言葉は正しかったのだ。実にな。アウフ・ヴィーダーゼーン、ミスター・リヒター。
(ジョージ退場。)
(ラジオ、それまではガリガリ、ガーガーと鳴っていたが、調子が出てきて、はっきりと喋り出す。)
 声 自分がどのような行動を取ればよいか不明の場合には、ユニオン・ジャックの腕章をつけたイギリス解放部隊のメンバーに接触し、その命令に従って下さい。続いてこの波長で連絡を行いますので、今後の放送に御注意下さい。連合軍は急速に前進を継続しており、イギリス全土が程なく解放される見込みです。どうか命令に従い、冷静に行動して、身の安全を確保して下さい。こちらは連合軍最高司令本部の報道担当官です。繰返します。こちらはドーヴァー・キャッスルに本拠をもつ、連合軍最高司令官本部の報道担当官です。
(この放送の途中から、外で車(複数)が近づき、キーッという音を立てて止る。それからドイツ語の鋭い命令の声。次に英語で、「扉を開けろ」という声。続いて、「開けないと銃撃を始める」という脅しの文句。)
(ラジオ放送が終ると、次に大きな音でイギリス国歌が流される。その時、機関銃の音。ガラスの割れる音。リヒター、椅子の中で痙攣的にもがく。ついに弾丸で蜂の巣になり、椅子と共に倒れ、床に落ちる。)
                   (幕)


   平成一五年(二00三年)二月七日 訳了

http://www.aozora.gr.jp 「能美」の項  又は、
http://www.01.246.ne.jp/~tnoumi/noumi1/default.html

'Peace in Our Time' was first produced in Brighton at the Theatre Royal, on July 15th, 1947 and then in London at the Lyric Teatre on July 22nd, 1947, with the following cast:

Alma Boughton Helen Horsey
Fred Shattock Bernard Lee
Janet Braid Elspeth March
Doris Shattock Maureen Pryor
Mr. Grainger Trevor Ward
Mrs. Grainger Sybil Wise
Nora Shattock Beatrice Varley
Lyia Vivian Hazel Terry
George Bourne Kenneth More
Ben Capper Manfred Priestley
Woman Stella Chapman
Chorley Bannister Olaf Pooley
Bobby Paxton Derek Aylward
Albrecht Richter Ralph Michael
Phyllis Mere Dora Bryan
Maudie Irene Relph
Gladys Mott Daphne Maddox
Alfie Blake Brian Carey
German Soldier Charles Russell
Herr Huberman Richard Scott
Frau Huberman Betty Woolfe
1st German Soldier Anthony Peek
2nd German Soldier Lance Hamilton
Billy Grainger Philip Guard
Doctor Venning Michael Kent
Lily Blake Dandy Nichols
Mr. Williams William Murray
Stevie Alan Badel
Archie Jenkins John Molecey
Mr. Lawrence George Lane
Kurt Forster Michael Anthony
Mrs. Massister Janet Barrow
Young German Soldier Anthony Peek
1st S.S. Guard Douglas Vine
2nd S.S. Guard Peter Drury

Directed by Alan Webb
Under the supervision of The Author
Decor by G.E. Calthrop


Coward plays © The Trustees of the Noel Coward Trust
Agent: Alan Brodie Representation Ltd 211 Piccadilly London W1V 9LD
Agent-Japan: Martyn Naylor, Naylor Hara International KK 6-7-301
Nampeidaicho Shibuya-ku Tokyo 150 tel: (03) 3463-2560

These are literal translations and are not for performance. Any application for performances of any Coward plays in the Japanese language should be made to Naylor Hara International KK at the above address.