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\begin{document}
\begin{math}
          点時刻\\
                  村上陽一郎\\
                  大森 荘蔵\\
~~~~~~~~~~~~~~~「点描」について\\
 村上 最初に私は、ニュートン力学というのが機能的に質点と時間点とから成り立っているという
ふうに思うんですが、大森先生は点描というような言葉をお使いになっていることもございますし、
点描主義というのが正確な言葉使いかどうか分かりませんが、大森先生の使っていらっしゃる点描と
いうことの意味から、読者のためにお話しいただければと思います。\\
 大森 私が点描と言うのは、印象派の一つの画法の呼称を使わしてもらったんです。ごく簡単に言
いますと、自然科学の本性として世界描写をできるだけ詳しくやっていく。そうすると、世界描写が
時間・空間的な描写であるかぎり、どうしても時間・空間的なディテールに入らざるをえない。時間・
空間的なディテールというのには底がある。どこだと言えば、時間・空間点である。その意味の点描です。\\
 私、今日申し上げたいのは、しかしそうだとしても、私はかなりそういったふうな現代の自然科学
の一番底にある描写方法、描法と言いましょうか、描き方に疑念があるんです。その疑念を私まだ明確
に言葉に出せないんで、その点、村上さんに助けていただいて、何か少しでも形のあるものになればあ
りがたいと思っているんです。\\
 村上 その点描法でしょうか、点描主義でしょうか、その場合は、今ディテールを突き詰めていくと、
とおっしゃいましたが、その最終的な究極段階まで突き詰めていくと、結局は純粋の点になるわけで
しょうか。\\
大森 私は、少なくとも自然科学者はそう考えているんじゃないかと思いますね。ただ、これは自然
科学者だけじゃなしに、素人もまたその時間・空間の眺め方に子供のときから慣らされてきているん
じゃないですか。\\
 例えば新聞のスポーツの写真ですね。あるバッターがホームランを打った
ときのその瞬間写真を見て、われわれも子供も、そのバッターがある点時刻に、
その写真で見られるような姿勢でバットを振って、その写真で見られる
ようなかたちでボールがバットに当たった、ということを確信しているんじゃないか
と思うんです。つまり、ある持続のあいだにある変化が起きたならば、必ずその持続
のあいだに小刻みの点時刻があって、そしてその各点時刻には問題になっている主体
もある一つの状態がある。そしてこの点時刻での状態の継起が変化や運動である。こ
の考え方ですね。\\
 村上 ただ、多少異を唱えれば、たしかに瞬間点におけるバッターの打った状態を
常識の世界では考えているように見えますが、実はそこにはもう一つの常識があって、
写真が撮れるかぎり、シャッターが開いているモメント(時間)があるのではないか。
それがなければ、いわば写真は撮れないという常識も背後にあるんじゃないでしょうか。\\
\\
   ~~~~~~~~ゼノンのパラドックス\\
 大森 ありますね。ただ、例えばその写真が百分の一秒で撮ったといえば、さきほ
どの常識は、さらに千分の一秒、万分の一秒間隔の各時刻点での状態群の継起がその
百分の一秒の動きを作る、と、考えているんじゃないでしょうか。\\
 実は、これがゼノンの例の矢のパラドックスそのものなのですね
。ゼノンをここへ引っ張ってきて言わせたら何と言うか。ゼノンの言い分は、
各瞬間ごとに飛んでいる矢を見るならば静止しているだ
ろう、ということでしたね。そうすると、今の新聞写真を見
せて、どうだと言えば、これはバッターの運動ではない。
この写真のバッターはこの瞬間は静止している。だから動いてい
るバッターの写真ではない、と言うでしょうね。だから、ゼノンの
言い方だと、このバッターはバットを振らなかった、ホームランも
飛ばなかった、棒ふりとか、飛球という運動は不可能だ、というかたち
になるんじゃないですか。\\
 村上 しかし、一方から言えば、これはゼノンのパラドックスの、パラドック
スになるかならないかの分かれ道のように実は私は思っているんですが、果たして
それじゃゼノンは、飛んでいる矢と止まっている矢の瞬間における状態を区別でき
るのか。私なりにこのパラドックスを定式化して二つの矢の状態がある、一つは飛
んでいる矢、一方は止まっている矢である。しかし、そのある時刻点における両方
の矢の状態は区別がつかないと仮に定式化するとすれば、そのどちらもが止まって
いるというふうにゼノンは言えるんでしょうか。\\
 大森 それは村上さん、好意的にゼノンのパラドックスを穏やかに解されている。
その穏やかな取り方も可能ですが、私はもう少しきつく解します。つまり、ゼノンが
矢が止まっているか動いているか、この二通りの言い方ができるためにはまず前提が
要るはずです。少なくともその瞬間には矢があるという前提です。矢が存在してい
る、と。しかし、ここが危ないところじゃないでしょうかね。ゼノンは、あのパラ
ドックスをフォーミュレートするために、ある瞬間における矢の存在なることは有
意味だと解しているわけですね。私はそれが危険だと思う。\\
 村上 実は私もそうだと思いますが、というのは、話が非常に飛ぶようですけれ
ども、デカルトが物質に属すると従来思われていた属性を次々に剥奪していきまし
て、最後に残ったものとして、ご承知のエクステンシオ、延長という概念、性質だ
けを物質に与えました。ただ、そのときにデカルトが頭の中に考えていたのは、こ
れは、私は全部正確にデカルトを読んだわけではないんですが、人に聞いても多分
そうだろうと言われるんですが、空間的な延長しか考えてなかったんではないかと
思うんです。私は、デカルトが物質の属性ということを言うときに、仮に延長とい
う概念を最後のとりでとして物に属さしめるならば、そのときの延長は時間的な延
長でもあらねばならなかったんじゃないかと思うんですが、その点はいかがですか。\\
 大森 賛成です。ただ、持続する空間的延長という意味で時間的・空間的延長で
しょうね。\\
 村上 もちろんそうです。\\
 大森 瞬間的なエクステンツァではない。ということは、瞬間的なエクステン
ツァということには、意味があるとはどうも思えないんですね。\\
 村上 私も思えない。瞬間的というのは時刻的という意味ですね。\\
 大森 ええ、そして持続がないということです。およそ持続のない存在という
のは矛盾概念だろうと思いますね。\\
 村上 そういう点では、持続のない存在は今の場合否定していいとして、さっき
のゼノンのパラドックスに戻れば、つまりそもそもある矢があって、それが静止し
ているとか静止していないとかいうときにも、当然持続が前提にならなきゃいけないと。\\
 大森 少なくとも持続を持った矢ですね。そしてその次の問題がはじめて、その矢が
動いているか、止まっているかということですね。\\
 村上 はい、そうすると、ゼノンのパラドックスというのは、基本的に言えば時間の
問題だけに帰属するんでしょうか。それとも、いわば物質の存在論にも立ち入らなけれ
ばならないんでしょうか。\\
 大森 それはとり方次第でしょうね。村上さんのように親切にとれば、あるいはそう
でないかもしれません。そして、単純な形式論理学的なパラドックスかもしれません
が、やや意地悪くとるならば、存在と時間の問題でしょうね。\\
 村上 その両方が絡んでいると考えなければいけない。\\
 大森 だと思います。厄介なのはその点で。例えば今言ったように瞬間的存在とい
うことは考ええない。何か瞬間的な矢のごときものが存在するということには
意味がない、だからそういう意味のない矢が、動いているとか止まっているとか
ということにも意味がない、したがってゼノンのパラドックス全体の文章が無意味
であるという。この仕方でゼノンパラドックスを押さえたとしますね。しかし、そ
うすると、現在の自然科学の基底にある考え方、つまり時間変数を連続的に変えて
刻々の世界の状態を描写するという仕方、これが一体では何をやっているのかとい
うもっと大きい問題が出てまいります。それには私は今のところはっきり答えられ
ないんです。\\
 村上 もうちょっと今の話を続けさせていただくと、たしか「新視覚新論」の中
でも、こういうふうにおっしゃっていたように思うんです。つまり、少なくとも
時間点、空間点というものが、われわれにとっては考えうるも
のであるというふうな表現はしていらっしゃったように思うんです。その論拠づ
けとして、例えば仮に時間点がぼやけているとか空間点がぼやけているという言
い方をしたときにも、そのぼやけているという概念があるかぎりは、その否定で
あるところのぼやけてない、ピントがぴったり合ってまったくブレのない、という
ことは結局シャッターで言えば時間点だということになるでしょう、ということが
前提になっていなければならないはずだ。だから、相互的に両方向から支持されて
いるわけで、少なくとも点というものをわれわれは考えうるんだ、という表現を
なさっていたように思うんですが。\\
 大森 ええ、しましたが、意図が今の場合とちょっと違いまして、幾何学がア
プリオリなものか経験的なものかという問題に絡んででした。あれはたしか点で
はなしに線で考えた。つまりわれわれの日常の経験の中には、幾
何学で定義されるような幅のない線はないと考える人がたくさんいる。それ
に対する反論を出したわけです。しかし、結論の方は私は今でもそうだと思
います。幅のない線はわれわれはとにかく中学で考えさせられたし、考えていた
わけですね。つまり、少なくとも「考えうるもの」です。\\
 村上 考えられるけれども、それはこう言うと底が割れてしまいますが、リア
ルであるとは言えないんですね。\\
\\
     「ある時刻における世界の状況」とは\\
 大森 時間の点については、時間の点が考えられるか考えられないかという
問題ではなく、さっき言ったのはある時間点において世界のある状態なるもの
は考えうるかどうかという問題ですね。\\
 村上 ある時間点における世界の状態ですね。\\
 大森 私にはどうもそっちの方がおかしい。ある時刻におけるこの世界の
状態、例えばバッターの状態、矢の状態ということが、どうもありえないよう
に思い出したんです。一番簡単な事例から言いますと、痛みですね。ずっと痛く
なかった。ただ、ある一時刻に激痛が走った。そしてまた痛みがなくなったという
ような痛みは、そのような、走るひまもないような痛みは、第一私は想像できないし、
できたにせよ痛くもかゆくもないでしょう。次に、ある壁が一瞬赤くなった。これも
真っ白だった壁が一瞬赤くなって、まっ白に戻った。赤くなったのが一瞬だったなら
ば、われわれはそれを見ることができないんじゃないか。第三に、さっきの存在です。
何もなかったところへ急にぽつんと一つの机が存在した、出現した。また一瞬にして
無に帰した。こういうものは存在ではないわけでしょう。\\
 村上 一瞬間に何かが突然存在して、また突然存在しなくなる、あ
るいは痛みがその瞬間だけあるというのは、もちろん考えられないわけです。
当然痛みというのはある持続があるし、物理的なプロセスもある持続の中で起
こる。つまり、言い換えれば時間の幅の中で起こる。そこまではいいと思うん
ですが、そのときに、これは先生もよくおっしゃいますが、そのプロセスが幅
があるというだけでは、点という概念を否定したことにはならない。なぜならば、
その両端には実はすくなくとも点という概念は残っている。ある幅のあるプロセス
の両端には必ず残っている。\\
 大森 両端はしばらくおいても、その幅の中にもありうるわけですね。ですから
困っちゃうんです。\\
 村上 両端にこだわるのはなぜかと言いますと、両端が一番分かりやすいわけで、
それは中も切れば切り口になりますから、両端で話させていただくと、両端に切り口
という幅のない面があるということを認めたとしても、なおそれはけっしてようかん
全体を否定しているわけではなく、むしろようかんが前提になって両端が生まれると
いう言い方をすれば、先にあるのは幅のある方で、幅のないという概念が出てくるに
しても、それは幅のあるものから派生的な導出物だと考えることはできませんか。\\
 大森 私はそう考えておりましたが、説得力が弱いんじゃないか。\\
 村上 そうでしょうか。説得力の弱いところは。\\
\\
     「まるごとルック」と「小刻みルック」\\
 大森 結局ここに二通りのものの見方があるわけですね。一つはようかん全体を
見ていく。野球のバッターのバッティング全部を見て取るわけですね。これは日常
的な取り方です。これは簡単というか、まるごとと言いましょうか、一つの変化す
るプロセスまるごとに、簡単にバッターが打ったと言いますね。このまるごと的な
見方、「まるごとルック」とでも言いましょうか、これに対して、今お話しになっ
ている小刻みの点時刻でさまざまなことがその中にあるはずだというもう一つの常
識、これは「小刻みルック」と言いましょう。この二つを、両方ともわれわれ日常
にも使っていますし、一方、自然科学の中では特に小刻みルックが強いわけです。\\
 さて、今の村上さんの救済策ですね、まるごとルックが先で小刻みルックがそれ
から派生するということだけでは小刻みルックが果たしている役割が明確な照明を
受けない。もう少し積極的な役割りを果たしているはずなんです。物理学はそれで書
かれているわけですからね。\\
 村上 ただ、まさに今の幅のあるものから、つまりまるごとルックから小刻みルッ
クへ移していくオペレーションとして、微分を考えることはできませんか。\\
 大森 ええ、それも私はいい考えだと思う。可能ですね。ただ、やはり微分という
のは小刻みルックの中で構成されているように思いますね。\\
 村上 なるほど。\\
 大森 こういうふうな見方はどうでしょうね。要するに、世の中のプロセスというの
を眺めるときには二つのルックが両方とも可能だ。そして、われわれはその二つのルック
を重ね合わせて世の中を描写すればいいじゃないか。ダブルルックスとでも言いましょう
か。戦略的欲張りです。そうすると、二つの重なり方が問題なんですね。野球のバッティン
グでも、それを日常的に後楽園の球場で見るようなかたちのまるごとルックでわれわれは
解するし、日常言語はみんなこのまるごとルックにぴったりした言葉です。と同時に、自
然科学者がやるように、連続の t 変数で描写することもできる。しかし、それは自然科学
という平面へ投影したようなかたちですね。いわば影です。ですから、サイエンティフ
ィック・シャドーとでも言いましょうか。\\
 村上 どっちが影ですか。小刻みルックの方が影。\\
 大森 ええ。影ですから当然、影を描写すればまるごとルックについて何か情報を与
える。その形でオーバーラッピングしているんじゃないかと思うんです。ただこの言い
方は苦し紛れです。どうも、すっきりさっぱりとしないんですね。\\
 村上 しかし、積極的にそれでは困るという言い分は、どこからも出てこないように
思うんですよ。\\
 大森 二つあるんです。一つはさっき言ったように自然科学の小刻みルックの基本に
なるある時刻点における世界、あるいは世界の一部、それの状態という概念が必要なわ
けですね。これがどうも疑わしい。これ第一の困難です。\\
 第二の困難は、それはまあよろしいとしても、今度はその小刻み時点を t_1, t_2 とやっていきますと、
t_1 での状態 S_1 から t_2 の状態 S_2 へ行く。一般に t_n の S_n へ移っていくとして了解するわけ
ですね、一つのプロセスは。ところが、そのあいだ (S_i から S_{i+1}) は完全な飛躍なんですね、この
考え方は。ですから、自然は飛躍せずじゃなしに、変化するプロセスを考えるときには完全な飛躍のつな
がりで考えているわけです。この飛躍の困難。自然は飛躍せずじゃなしに自然はまさに飛躍しっ放しなん
ですね。しかし、これが論理的に可能であることは、クァンタム・ジャンプですね。量子力学で一つのエ
レクトロンがある状態からある状態へ行く事例があることから言えましょう。これが今度はバッターの
バットを振るときの状態、矢が飛ぶときの状態もジャンプしているということになる。われわれ自身の
生き方もまたジャンプしている。そういうふうに考えざるをえないわけです。この小刻みルックは。一面
から言うとこれは、すべての変化の映画フィルム的分解、走馬灯分解です。静止から静止への飛躍の合
成としての運動の考えです。それが私にはどうも不安なんですね。いいんだろうか、つまり可能なんだろう
かと。\\
~~村上~~しかし、お言葉を返すようですが、実はその小刻みルックの方が影だとすれば、あくまでも
それは飛躍じゃなくて、われわれは矢が飛んだことを知っているわけです。ここからここへ飛んだこと
を知っています。あるいは、ある天体がある軌跡を描いて別の場所へ移ったことを知っています。それを
解析するために、いわば小刻みルックである時刻点における、今おっしゃったように t_1 に対して S_1
を与え、それから t_2 に対して S_2 を与えて t_1 から t_2 へのプロセスを飛躍として描写します
が、両端があるのは何故かというと、むしろまず幅があるプロセスがあったからこそ両端があるという
前提に立つかぎり、それは飛躍ではなくて、まさにびっしり詰まったものの両端を単に表現したに
すぎないんじゃないでしょうか。\\
\\
~~~~~~~~~~~点とプロセス\\
~~大森~~それは非常に科学に対して好意的な御意見で、苦し紛れの息が楽になるかもしれません。
結局小刻みルックは、今おっしゃった中にもありますが、要するに一つのプロセスあるいは運動
の軌跡を描いているんですね。軌跡的な影なんです。この点はベルグソンが的確に指摘したことですね。
すでに済んでしまった運動ですね。運動の最中じゃない。これは確かなんです。\\
~~村上~~その意味では、例えばトムのカタストロフィー理論のように、プロセスが連続で滑らかでな
い、つまり微分可能でないような場合でさえ、われわれはそのことを前提にしているんじゃない
かというふうに思っているわけですが。\\
~~大森~~この運動を、静止状態間の飛躍移行としてみるというのは非常に強い知的本能です。われ
われの世界の見方の大きな一本足ですね。\\
~~村上~~もしそうだとすれば、おっしゃることは非常によく分かりますが、本当に物理学者というの
は、今の話で出てきたような、いわばプロセスから出発するんじゃなくて、点的な時間の t_1 に
おける S_1 から出発していると考えているんでしょうか。\\
~~大森~~私は本能的にそうじゃないかと思いますね。そういうふうに物理学者は、あるいはエンジニア
は、とにかくあるプロセスがあればその中間に連続的な時間の各点が必ずあると。本能的な信念を
もっているのじゃないかと思うんです。\\
~~村上~~それはそうだと思いますが、プロセスがあるからそうなんであって。\\
~~大森~~ええ、まるごとプロセスが先なことは確かです。\\
~~村上~~だから、例えばラプラスのデーモンでも、たしかにある時刻点における質点のすべての運動
量と位置との値を知ることができて、それに対していわば n 個あれば n 本の微分方程式を解けば
任意の時刻前後の状態が必ずすべて分かると。たしかにそれによって世界は再構成されるように見えて
いるのかもしれないんですが、しかし現実にラプラスが言おうとしていることは、むしろそうはなく
て、例えばある時刻点における n 個の粒子の物理的な状態、位置と運動量というものを論じようとする
とき、すでにそこまでのプロセスとそれからそれ以後のプロセスとが頭の中にあるからこそ、いわば
安んじて方程式を解くことができるんじゃないかと思うんですが。\\
~~大森~~それはまったく賛成ですね。全体が一つのラリーみたいなもので、ラリーがあるからチェック
ポイントがある。チェックポイントがいくつかあればラリーの変化の模様も分かるだろう。\\
~~村上~~もしそうだとすると、点というのはさまざまなかたちでの理想化、例えば物理学者がよくやる
摩擦がないものとか空気の抵抗がないものとするというような理想化の一つの事例にすぎない、と
言い切ってしまうといけませんか。\\
~~大森~~その摩擦ゼロだとか圧力コンスタントとかいうふうな、どちらかというと局所的な条件である
よりは、はるかに根本的のように感じます。\\
~~村上~~そこのところがなぜ根本的なんでしょうか。\\
~~大森~~やはりカントふうな言い方になりますと、世界描写の基準枠は時間・空間ですから。特に
時間で、この変わりゆく世界に生きているかぎり。\\
~~村上~~しかし、カント的な認識のフォルムとしての時間とか空間とか、仮に言ったとしても、そ
れは認識のフォルムが人間にとって前提になっているというよりは、むしろわれわれがプロセス
にぶつかり、実際に体験している、つまりまるごとルックを体験していくあいだに得られる
一つの時間と空間という理想化にすぎないのであって、われわれはやはりプロセスで勝負
しているのではないかと言い張ることは無理でしょうか。\\
~~大森~~いや私は、可能だけれども、言い張るためにはそれをまざまざと言い表すだけの一つ
のボキャブラリー、あるいは言語が必要だと感じます。それを作り上げるのは非常に困難
です。片っ方の小刻み主義はすでに十分なボキャブラリーを作り上げているのに対して
ですね。\\
~~村上~~ただ、ある面で言えば相対論の世界線というのは、そういうボキャブラリーの一つと解する
ことができるのではありませんか。\\
~~大森~~しかし、世界線がそのボキャブラリーとすれば、世界線という言葉の使い方を十分豊かに
して、そこから小刻みルックを実際に演繹してみないと不満足でしょうね。\\
~~村上~~なるほどね。では言い直します。世界線という言葉が使われるのは、いわばそういうまる
ごとルックの方で物理学者が表現しようとした一つの試みではなかったか。\\
~~大森~~まあ一つの運動全体を指示しようとしたんでしょうかね。そうかもしれません。しかし、
世界線はやはり小刻みルックの上で定義された、と私には思えます。\\
\\
~~~~~~~~~~~音符でメロディーを再構成できるか?\\
~~大森~~もう一つ。この小刻みルックに侵されているのは物理屋さんだけじゃないんです。例えば
村上さんは大変なミュージシャンだけれども、音楽の方はどうでしょうか。例えば楽譜は時間的に
書いてゆきますね。一つのメロディーは、例えば十六分の一音符でずっと連続的に書いてゆくとして、
それを継続的にその音を出せばそのメロディーが再構成できるとなると、そのメロディーをわれ
われが聞いたときに、そういう音符にばらした音継起だという考え方になる。またなっているん
じゃないですか。音楽家自身の直観はどうですか。\\
~~村上~~これは分かれるところかもしれませんが、一般的に音楽家は多分そう考えてないんじゃない
かと思うんです。\\
~~大森~~考えていない。あるいはどう感じていますか。音楽家はあまり考えないから。\\
~~村上~~感じ方としては、音符というのはきわめて不完全なメロディーの表現法にすぎないと思って
いるんじゃないでしょうか。そうでなかったら、おそらくむしろ音符に頼るということ自体
がきわめて特殊なことだと思っているんじゃないかと思います。事実、これは近代のクラシックの
音楽家だけがほとんど音符に頼っていると言っていいのであって、例えばヨーロッパの音楽家でも、
いわゆる民族音楽をやっている連中というのは、絶対譜面が読めないんですね、譜面にあっても。
だから、譜面から音楽を再現できない。しかし、彼らは十分に音楽をやれるわけですから、そういう
意味でその感覚というのは、やはり譜面に頼っている人たちにも何ほどか残っているはずだし、ま
た逆に言うと、残っていなければ音楽家と言えないんじゃないかという気が私にはするわけです。
もちろんいわば点描的に表された音楽というのは、そういう試みがないわけではないと思いますし、
例えばこの音は演奏が始まってから何秒後に何分間持続させよう、というような指定のされた譜面
などというのは、最近の現代音楽の中にいくらでもありますから、そういう意味では、あるいは
ここで一瞬間だけできるだけ短く、この何秒後にこの音を鳴らせというような指示のあることも
あります。それが全体として何を構成するかということは聞く方に任せる、というようなやり方
ももちろんあるわけですけれども、それはなるほどおっしゃってみると、非常に近代の物理的な
考え方に影響を受けているように思うんです。\\
~~大森~~村上さんの今言われた音楽家の感じ方を物理へ戻しますと、結局物理は楽譜なんですね、
実際の世の中の動きに対して。\\
~~村上~~ええ、まったくその通りです。\\
~~大森~~そして、今村上さんが言っているのは、このごろの音楽家の感覚を物理に対して言っている
わけです。\\
~~村上~~そうです。物理学者がたしかにt_1 における S_1 という情報に頼っていることは事実です
が、われわれの日常感覚がそれほど強く時刻に左右されているんでしょうか。\\
\\
~~~~~~~時刻点と日常感覚\\
~~大森~~それはいい質問で、私はそう思いませんね。しかし、次のことはありますね。ごく単純
なことですが、われわれは今現在生きているということ。今生きているわけですね。この今です。
ところでこの今現在というのは誰でも考えてみると、だんだん点的になっていくんですね。と
いうのは、こうやってお話しています。例えば、私がタの字音を発した初めがある、タの字の
終わりがある。私は、息のし始めがあるはずだ、し終わりがあるはずだ。こうやって削って
いきますと、削りかすの後にあるかなきかの瞬間的な時刻としても現在が残ります。じゃわれわれ
が生きているのは瞬間に生きているかという、元の問題に戻ってくるわけです。瞬間的存在
は無意味だったように、瞬間的な生ということは私は無意味だろうと思います。ベルグソンが
強く反対しているのはそれじゃないかと思うんです。われわれは持続を生きるわけですね。点
時刻をではない。瞬間は生きられない。考えようがないですね。やはり小刻みルックというのは。
われわれが生きているということは、これは小刻みルックではどうも表現できていないように思う
んですね。\\
~~村上~~それはまったくできませんね。日常的なわれわれが生きているということを小刻みルック
で表せというと、できません。\\
~~大森~~ちょうど今、この瞬間に聞こえたあるメロディーの音を音符では再現できません。記録
できないですね。それと同じじゃないでしょうか。\\
~~村上~~ただ、オッシログラフの波形には取れますね。この時刻点においてこれがこうであったと
いう言い方はできるわけですね。\\
~~大森~~一般に小刻みルックはそれなりの豊富な情報をもっています。その点を全部捨ててしまって、
ベルグソンのようにそれは抽象化だとか、時間を空間化することだといって捨ててしまうのは間違い
だと思う。時間を一本の直線で表現できるというのは、時間がやはりそういう性質をもっている
からですね。今のような小刻み的な特質と過去、現在、未来という順序をもっているからこそ直線
表示がやれるわけです。この点を全部無視して、純粋持続一本やりではいけないと思いますね。だ
から、さっき言いましたように、そういう小刻み的な諸点を歌うには十分なメロディーと十分
なボキャブラリーが要るんです。それが見つからないんですね。\\
~~村上~~それは、時間がそういう小刻みルックをもっているわけですか。\\
~~大森~~小刻みにできる何かの構造をもっているんですね。ということは、やはりある持続がある
ということでしょうね。だからこそ、そういうことをわれわれが考えられるわけですね。だから、
小刻みルックは全然実情にそぐわない勝手な抽象と言うことはできない。ベルグソンのように、
本当に生き生きした、生きられるべき持続をいわばスルメにして空間化したものだと言うのは、
ちょっと悪口雑言にすぎます。とにかく生きのいいイカはスルメになれるような魚なんです
からね。\\
~~村上~~それはそうおっしゃればその通りですね。イカはスルメになれるわけですから。ただ、
スルメにするときに使われた道具というのは、やはり時間そのものにあったんじゃなくて、空間
から借りてきた道具でスルメにしたんじゃないでしょうか。\\
~~大森~~空間から借りてきた道具でスルメにできるような何かであった。\\
\\
~~~~~~~~~~過去・現在・未来は決定的に違う\\
~~村上~~勿論それはそうです。そうすると、点から少し離れますが、さっきおっしゃった時間に
おける過去、現在、未来という三つのフェーズの絶対性みたいなものをこわす試みがありますね、
いくつか。例えば日常言語でわれわれがテンスを使っている、そのテンスを、ある人工言語を
作って全部なくしてしまったら、われわれの意識の中ではたして本当に過去、現在、未来という
ある特権をもった三つのフェーズが残るだろうかということで、つまり空間にはそれがない
わけですね。\\
~~大森~~空間では上下左右。\\
~~村上~~それはしかし、いくらでも逆転しうるわけで、時間の場合にはそれが効かないこと
になっているわけでしょう。われわれが取り方によって、あるいはどういうレファレンス
を使うかによっていくらでもどうにでもなるというものではないわけですね、普通解釈
されているんでは。それはどうお考えですか。\\
~~大森~~それはどうも考えられないというのが正直な答です。つまり、過去、現在、未来、
私が何かを思い浮かべる、今思い浮かべたのが過去のことか現在のことかあるいは未来
のことか、これはもう理屈抜きに明確に刻印を打たれていますね。過去・現在・未来と、
それだけでしょうね。\\
~~村上~~ただ、これはちょっと議論のための議論を吹っかけるようで恐縮ですが、先生の
おっしゃっている実物と像のあいだの二重リアリズムを否定しようということと絡み
ませんか。\\
~~大森~~絡みます。つまりこういう考えがあるわけです。過去・現在・未来、これは
常識通りありますね。ところが、現在、過去のことを思い浮かべる、未来のことを
思い浮かべる、これは現在です。だが現在存在しない何物かを思い浮かべること
はできないですから、現在存在しない何物かの代用品を思い浮かべているに違いない。\\
~~村上~~というふうに普通言いますね。\\
~~大森~~そうすると、過去に対する思い、未来に対する予期、そういうありもしないことを
とにかくコマをつくってしまうわけですね。これは間違いじゃないかということです。\\
~~村上~~そうですね。しかし、それでもなお過去と現在と未来ということは、さっき
おっしゃったように決定的に違うわけですね。私が今過去のある像を、例えば自分の
十年前のありさまを仮に思い浮かべたということと、それから例えば十年後の自分
の姿というものを今私が仮に思い浮かべたというときと、それから今自分の姿
を顧みているときと、その頭の中に浮かんでいる像の性格というのが、やっぱり
違わなきゃいけないわけですね。\\
~~大森~~仮にそれを像として。\\
~~村上~~像でなくていいです。\\
~~大森~~そのものずばりでもいいんですね。\\
~~村上~~違うのはどうしてですか。\\
~~大森~~それは、赤と緑が違うのはどうしてですかというのと同じで、ごらんな
さいと言うだけですね。\\
~~村上~~そうですか。なるほど。そこから過去・現在・未来の区別、いわば時間の
区別が来るとお考えになっていると判断してよろしいですか。\\
~~大森~~それを表現したくて過去・現在・未来と人間が呼んできたんですね。\\
~~村上~~したくて。\\
~~大森~~だと思います。つまり最も直接的じゃないかということです。\\
~~村上~~何ものにもそれ以上還元できないわけですね。\\
~~大森~~だろうと思います。\\
~~村上~~そうすると、これまた言葉じりをとらえるようですが、時間というのは
まさにそこから出てくるものだというさっきの私の論、少し強くなりませんか。つまり
カント的な表現は捨ててしまってもいいんじゃないかという。\\
~~大森~~ただ、捨てると代わりが要るわけです。その代わりが出せれば。\\
~~村上~~だから、それは赤と緑なんです。赤と緑以上に代わりを出す必要は、
今の筋道で行けばないんじゃないでしょうか。\\
~~大森~~そうすると、今までもってきたわれわれの時間の概念を表現する言葉、
それで表現できるものを全部表現し直せるような豊かな言語でないといけない
わけですね。どうも難しいように思いますよ。\\
~~村上~~ただ赤、緑でいいのであれば、われわれが色の世界の表現を赤、緑
から出発しているのと同じ・・・。\\
~~大森~~ただ、例えば赤、緑と言いましても、過去というのはクロノロジカルに
並びましょう、さらに二つの過去時刻の間には必ず他のある時刻があるとか、
そういう構造を表現しなければいけないわけですね。色より構造がたてこんで
います。それを十分表現することができるかなということです。\\
~~村上~~しかしそれは、例えばパステルの箱を見ますと、赤と緑のあいだに
いろんな色がありますし、それをわれわれは見ただけで、似ている、どれだ
け違いがある、というようなことを並べる手だてはもっているはずですし。\\
~~大森~~しかし、その手のものは私は新しい時間言語じゃないように思うん
です。今もっているありきたりの時間言語の言葉上だけでの焼き直しで、
こう言っちゃ悪いんですが、イージーゴーイングな表現法ですね。\\
~~村上~~それはそうです。ただ、時間の問題として、いわば時間だけ
をとり出してきて議論しなければいけないという束縛からは解放される
ような気がするんです。時間を時間の問題として捉えなければならない
と、どこかでわれわれは思い込んでいるんじゃないかというような
ことを・・・.。\\
~~大森~~その悪習は、現在ではもうないんじゃないですか。つまり、抽象
的な時間というものを考えての時間論というのはほとんどないんじゃ
ないですか。時間というのは全部われわれの経験の中へ組み込まれた
一つの条理ですから、名詞形で「時間」と呼べるようなものを抽出
できるはずがありません。\\
~~村上~~それだったらいいんです。それだったらば、最初の問題は
起らなかったんじゃないかと思うんです。例えば時間点というような、
いわばフィクティシャスなものが、われわれの中で幅をきかせていると
いうふうに考えなくても済むんじゃないかと思うんです。\\
\\
~~~~~~~どうやってもわいてくる時間\\
~~大森~~ぼくはもう少し悲観的で、どうやってもそいつは湧いて
くるように見えますね。例えば昨日朝何時、昼何時だといったら、
そのあいだ君は何をしたか、そのあいだの時間のことがほっとい
たって湧いてくる。\\
~~村上~~でも、その何時というのはきわめて便宜的なものでしょう。\\
~~大森~~その目印をどうつけるにせよ、一つのプロセスがあれば、
その中間が必ずある。例えば朝飯と昼飯の間によそへ出かけた。
靴を履いて出た。靴履くには時間がかかった。靴履き始めは何し
ていたか。靴の履き終わりのとき犬がほえた。こういう聞き方
ですね。これは自然に浮かんでくるわけです。つまり、A とB と
いう時刻の中間には必ずC という中間点がある。ユークリッドの
直線と点の公理にありますね。一つの線の両端のあいだに必ず
中間の一つの点がある。あれと見合うような・・・。\\
~~村上~~しかし、中間の点を考えるということは...。\\
~~大森~~一たん中間の点を一つでも考えれば無限です。\\
~~村上~~無限ですね。それはそうです。しかし、逆にいうと、
中間の点を考えても、それをまた別に中間と言わなくてもいい
わけでしょう。それはプロセスのある半分になったプロセス
ではあっても、依然としてプロセスの両端である。\\
~~大森~~そういう言い方が成功するかしないか、これは村上
さんがやってみたのを見ないとわからない。しかし、ぼく
にとっては大変ありがたい試みで、ぜひやっていただき
たい。例えば点は線の切り口だと言って、だから点は線
というものがなければ概念的にありえないということを
言おうとすると、やはり線ということを基本概念にした
幾何学を構成してみてくれるとありがたい。\\
~~村~~上線というのは面でなければならない、立体でなけ
ればならない、それまで言ってしまうと、そこから点まで
構成しなきゃいけないとおっしゃるんですね。\\
~~大森~~そのときに、線は点の集合だという言い方も、
どうも途中で邪魔するんですね。\\
~~村上~~じゃまったく逆に、今われわれは点から出発
して線を構成し、線から出発して面を構成し、面から
出発して立体を構成することに成功しているわけですか。\\
~~大森~~構成をしてはいないでしょうね。ユークリッドの
基本概念としては線、点、面は同列に出発している。\\
~~村上~~それはそうですね。\\
~~大森~~ただ、線は点から合成され、面は線から合成さ
れているというような言い方を可能にするには、相当
な数学的ソースが要ると思いますね。\\
~~村上~~ええ。その問題はふたたびゼノンになりますか。\\
~~大森~~それはならないと思います。これは数学者が
わりあいに簡単にやってくれることじゃないかと思い
ます。\\
~~村上~~よく言われることですけれども、幅のない点
からどうやって有限の・・・。\\
~~大森~~これは数学史の長い問題ですね。村上さんよく
ご存じだけれども、あのギリシャからの古い問題が
全部出てきますね。そういうこともちゃんと考慮した
上で、線が先で点が後だということを実際構成した
幾何学ができてくれると心強いんです。結局点的
な時刻ということに対する疑惑、それに私も村上
さんも一致したアンダーラインをする以外にない。\\
~~村上~~そうですね。私の方が少しオプティミス
ティックで、つまり点から構成するという考え方
は、繰り返しますが、実はわれわれそんなに頼って
ないんではないかと思うんです。最も典型的に
それに頼っていると思われる物理学でさえ、話
はむしろ逆から来ていおるのではないかというのが
私の言いたいことではあったんですけれども、しか
しそれは、単にそう言うだけではだめで、むしろ今
おっしゃったようにそれによって、じゃ同じだけの
有効性をもったものを構築できるかどうかという
ことにかかっているということになりましょうか。\\
~~大森~~そうですね。それに伴って新しい言葉と
レトリック、あるいは新しいロジックですね。
すでにそれをわれわれはもっているはずなんです、
日常生活の中に。ただ、明確に表現できない。\\
~~村上~~と私も思うんですが。\\
~~大森~~それをエクスプリシットにすればいいと
思うんです。それが難しい。\\
\\
~~~~~~~~~\underline {始まりと終わり}と
\underline {間}\\
~~村上~~モメントという概念の意味を何かで調べた
ことがあります。例えば英語の場合ですと、アット・
ザ・モメントなんて言いますと、それが時刻
になるわけでしょうけれども、もともとはやは
りある幅を表しているらしいんですね。もともと
はムーヴメントと同じで、動きなんであって、
当然幅がなければ動きという概念が出てこな
いはずです。という意味では、私どもが日本語
としてもっている瞬間というのも、またたく
\underline {間}であって、あいだがあるんで
すね。そういう意味ではわれわれが日常言語
としてもっているボキャブラリーは、すでに
絶対的な時刻などというものに対しての
ボキャブラリーこそむしろなかったわけ
じゃないか。\\
~~大森~~いや、私はもっと危険を感じるんです。
またたくということを考えますと、またたき
始めとまたたき終わりがあって、そのあいだ
だという観念がそこに入ってきているんじゃ
ないですかね。ある動きがあれば、必ずその
動きの始まりと終わりは、抑えても抑えても
出てくるように思う。\\
~~村上~~抑えても抑えても出てきましょうが、
それでもやっぱりまたたきがなければ始まり
と終わりもないということは言い続けて
いいような気がするんですけれども。\\
~~大森~~そうなんです。疲れないで続けて
下さい。\\
~~~~~~~~~~~~~~~~~~(一九八三年七月)\\
\end{math}
\end{document}