商船テナスィティ
       (三幕四場の喜劇)
       (ポール・ヴィレに捧ぐ)

          シャルル・ヴィルドラック 作
           能 美 武 功 訳

  運命の女神は、その意向に同意する者を導き、それに逆らう者を引き留める。
                       ラブレー

     登場人物
テレーズ  レストラン・コルディエのウエイトレス
マダム コルディエ 五十五歳(寡婦)
バスティアン 二十九歳
セガール 二十六歳
イドゥ 六十歳
イギリスの水夫
若い日雇い人夫、日雇い人夫達、水夫達 等々

     第 一 幕
(港にある、日雇い労働者達のための小さなレストラン。舞台奥に窓(複数)。扉。扉は開け放たれていて、そこからドックの様子が見える。船多数。舞台前左手にカウンター。その後ろに扉。その同じ高さで右手に、もう一つの扉。この右手の扉からテレーズが出たり入ったりして、客に注文の品を出す。店にテーブル(複数個)ここで日雇い達が食事をする。)

     第 一 幕
     第 一 場
(イドゥ、マダム・コルディエ、テレーズ、日雇い達。)
(ほろ酔い機嫌のイドゥ、カウンターに肘をつき、マダム・コルディエに、時々は日雇い達に、話しかけている。カウンターの上には、ワインのグラス。)
 イドゥ なあ、おかみさん。あんたどう思う? こんなことがあっていいもんかどうか。いいか、ここにいる連中が一日十二フラン稼ぐとすらあ・・・うん、十二フランだ。(言い止んで、腕を伸ばし、近くに坐っている若い男に声をかける。)おいお前、お前はいくら稼ぐんだ。
 若い日雇い 十二フラン五十です。
 イドゥ よーし、一日十二フラン五十としとこう。朝から晩まで電車のレールを担いで一日十二フラン五十だ。生易しいもんじゃないぜ。手も腕も肩も腰も、一日経ちゃへとへとだ。そうだろう? みんな。よし。ところがこの俺はだ、ここだけの話、ひどいぼろもうけだぜ。(笑う。)話はこうだ。デブロッスさんの家の前の排水管が破裂して、あそこんちの地下室が水びたしになったのさ。そいつをやってくれって言われてな、俺は一日十五フランで引き受けた。バケツで水をかいたさ。二日かかった。糞っ! 面白くもない仕事だったぜ。まあいい。そこの会計で三十フラン受け取った。ところがどうだ。丁度そこを通りかかったのがデブロッスさんだ。俺はまだ手も洗っちゃいなかった。体中水びたしの格好だった。デブロッスさんは俺を見て、仕事の出来栄えを見てみようと仰るのさ。俺と一緒にな。それでどうなったと思う。チップに五十フランさ。五十フランだぜ、チップに。二回働いて合計八十フランだ。勿論俺に文句のあろう筈はないぜ。な? なあ、おかみさん。ここだけの話だがな、こんなことがあっていいもんかな?
 マダム・コルディエ もうこれで十回目ですよ、その話。
 イドゥ(ぐっとワインを呑んで。)おかみさん、いくらだ? いくらでもいいぜ、今なら。(訳注 ここで勘定をすませる。)
 マダム・コルディエ お昼は何時?
 イドゥ アメリカの客がいつ出発するかだなあ、それは。荷物を運んでやるのさ。すると五フランだ。たった十五分の仕事でだ。「何だ、運のいい野郎だぜ」って言うだろうな。違いない。しかしお前ら、こうも言うだろうな。「十五分で五フラン? 飛んでもねえ話だ。そんなこと、あっていいもんかねえ」。だがな、俺に言わせりゃ、お前ら、俺と同じ日雇いだ。なあみんな、何の変わりもありゃしねえ。ただ俺はだ・・・
 テレーズ ねえ、イドゥおじさん、私だって昨日、五フラン稼いだわ。
 イドゥ おお、稼いだか。だけど、女の場合は違わあ。女の稼ぎは話が違う・・・誰から稼いだんだ? 五フラン。
 テレーズ おじさんからよ! 覚えてもいないんだから! 地下室で水を汲みだす仕事、何時に終わったの?
 イドゥ 七時だ。
 テレーズ 七時! それでもう、九時にはおじさん、酔っぱらいよ。ぐでんぐでん。それで、手も洗っていないんだから。
 イドゥ だけどな・・・
 テレーズ そう。手も洗わないで、ここに来たの。
 イドゥ だけどな、考えてみろよ。いいか。あそこの会計係にな、手をちゃんと洗ってから行ったとするぞ、それに、酒臭いにおいもさせずにだ。そしたらデブロッスさん、俺に五十フランくれる気分にはならなかったかもしれないぞ。あの人は俺の酒のにおいでびっくりして、それでくれたんだからな。全く、金持ちってやつは・・・
 マダム・コルディエ(テレーズを指さして。)イドゥ、お前さん、この子なんだよ・・・
 イドゥ 全く、金持ちってやつは下らんことで心を動かすんだからなあ。あってもいいもんかねえ、ああいうことが。
 マダム・コルディエ それでこの子、テレーズなんだからね、お前さんの上着を脱がせ、きれいに拭いて、ついでにお前さんの顔と手を洗ってやったのは。
 イドゥ(テレーズに。)で、俺は五フランやったのか? お前に。
 テレーズ そうよ。でも私、下さいなんて言わなかったわ。本当に下さるのか私、よく念をおしたのよ。耳に口をつけるようにして、大声で言ったのよ。「おじさん、ね、イドゥ。本当に五フラン下さるの? 五フランも下さって、本当にいいのね?」だって私、・・・そう、おかみさんに聞いたっていいわ。決してズルなんてしないの。お客さんが酔ってたって、決して。
 イドゥ じゃ、二人で乾杯といくか? ワイン、甘いやつで・・・
(バスチアンとセガール、登場。二人とも、軽い荷物を持っている。)

     第 一 幕
     第 二 場
(前場と同じ人物、に加えて、バスチアンとセガール。)
 バスチアン(近づいてきたテレーズに。)ああ、おねえさん、何か食えるかな?
 テレーズ(カウンターの前、右手のテーブルを指さして。)ええ、そちらの席にどうぞ。
(二人坐る。テレーズ、ナイフ、フォーク類を置く。その後適宜食事を出すため。間。)
 イドゥ(そのテーブルに近づいて。)あんたら、旅行だな。こんちわ! 船旅はどうだったね。イギリスの船でやって来たんだな? お前さん達は。
 バスチアン(笑いながら。)いやいや。
 セガール パリからなんですよ、僕たちは。
 マダム・コルディエ パリから? 旅行にはちょっと暑いんじゃありません? お二人さん。
 バスチアン ええ。それに、喉が乾いて。おねえさん、何でもいいからまづワインだ。ワインを頼む。
 イドゥ じゃ、パリっ子ってわけか?
 バスチアン そうだよ、おっさん。
 イドゥ ブラーボ! さ、こいつを触ってみな。こいつはな、かってはパリっ子だった男の手だぞ。嘘はつかねえ。サンモール街五十四、十一番地に六年間住んでいた男の手さ。どうだ? この住所は。ちっとはお前さん方に関係があるかな。
 バスチアン うん、知ってる、その辺り。でも僕ら、クリシー並木通りなんだ。
 セガール ああ、サンモール街。知ってる、知ってる。子供の頃、夏休みに叔母さんちによく行った。そこがサンモール二十八番なんだ。ああ、サンモール街か!
 イドゥ じゃお前さん、五十四番だって知ってる筈だ。あの頃、あそこはアパートだった。丁度あの大きな家の真ん前だったな、あのブリキ商の・・・
 セガール セビヨンだ!
 イドゥ そう、セビヨン! あのおかみさん! うーん、これは本物のパリっ子だぞ。なあ、俺はな、あのセビヨンで働こうと思ってたんだが・・・駄目だったんだ。
 セガール ええ、あそこの家でトラックに金属板を積み込んでいるのをよく午後になって見に行ったものです。積み込み人夫達は錆のついた革の前掛をしていて、その顔、その手、本当にアメリカ・インディアンみたいでしたよね。
 イドゥ うん、そうだったなあ。
 セガール 六尺から八尺もある大きな板、そいつをうまくバランスを取って、積み上げられている上に乗っける。ヘマをやった時など、僕は大喜びだったなあ。ガーンと雷のような音が響くんだ。
 イドゥ そうさ。連中、わざとやりやがって、こちとらの昼寝の邪魔をするんだ。
 セガール ああ、遠い昔の話だ。・・・(バスチアンに。)これからはもっと遠くなるんだ。
 イドゥ 俺の十五の頃だったなあ、あれは。
 バスチアン(セガールに。)ほっとけ、思い出なんか。思い出なんてのはな、六十になってからやるもんだ。
 イドゥ 待てよ・・・ああ、テレーズ! なあ、兄弟。奢らせてくれないか、昼飯前に、一杯。
 セガール ああ、それは・・・
 バスチアン ご冗談を・・・
 イドゥ 白を一杯。いいじゃないか。テレーズ!
 セガール いやいや、それは・・・
 テレーズ(注ぎながら。)いいのいいの。この人今日、お金持ちなの。
 イドゥ そう。俺は今日、金持ちなんだ。さあ、この子を見てやってくれ。いい子だろう? 美人だ。それに気立てがいい。昨日も俺が・・・まあいい、そんなことはいいや。(二人の旅行者の前に坐る。)俺も昼飯だ。乾杯・・・(三人飲む。)で、お前さん達はここに、働きにやって来たのか?
 バスチアン じゃないんですが・・・
 イドゥ するとこの港の辺りをブラブラと旅行っていう・・・
 バスチアン(はっきりしない返事。)ブラブラと? ええまあ、そうでもあり、そうでもないというところで・・・しかし港の辺りじゃないんです。
 イドゥ すると内陸か? 両親のいるところへでも?
 テレーズ まあま、知りたがりやさんね、おじさん。
 イドゥ おお、これはテレーズの言う通りだ。俺が悪かった。随分ぶしつけな話だったなあ。すまん。
 セガール そんなことは・・・
 イドゥ 許してくれ。有り体に言って、どうも俺はぶしつけだった。だけど他意はないんだ。
 バスチアン そんな。ぶしつけなんてこと、ありませんよ、おやじさん。ただ僕らは内陸へ行くんでもないし、両親のところへでもないんです。
 イドゥ(威厳をもって。)いや、何も聞きたくはないよ、俺は。
 セガール これから僕らがどこへ行くか、隠す必要なんかちっともありません。それどころか、言わなきゃいけないんです。僕らのことを分かって貰うために。(テレーズ、好奇心が出てきて、次の台詞を待つ。)
 バスチアン(威張って、少し声を上げて。)どこへ行くか、屋根に登って叫んだっていいんだ。僕らは明日、船に乗って、地の果てに行くんだ!
 イドゥ おやおや、そいつはまるで違う話だ。
 テレーズ で、どこに?
 セガール(決意を込めて。)カナダに。
 バスチアン カナダもカナダ。その奥の奥にだ。
 マダム・コルディエ(この時までにカウンターから出て、みんなのところまで来ている。)じゃ、腕にある職をいかすためね? お二人とも。
 バスチアン(強く。)腕にある職だって? おかみさん。腕に職をつける暇などあったかってんですよ。つまり少しはあった腕も、もう忘れちまったってことです。戦争帰りなんです、二人とも。六年間も兵舎ぐらしでね。やれモーズだ、マルヌだ、ソンムだって。お上の拵えたお奇麗なお船の中の鳥小屋ですよ、腕に職をつけるための徒弟時代を終わって、僕らが一番長く暮らしたところは。(笑い声。日雇い人夫二、三人、煙草を吸いながら近づく。間。)そう。こんなものは僕らの職業じゃない。だから僕はこのセガールに言ってやった。昨日は戦争、今日は戦争の後始末、明日になりゃまた全く別のこと。こんなところにいりゃ、何時までたったって引っ掻き回されるだけさ。いっそのことよその国に行った方がよっぽど自由だぜ。それに、と俺はこいつに言った。四年間ドンパチやって、奇跡的に俺達は帰って来られたんだ。実は四年じゃすまないぜ。その前の三年訓練期間、その後の十箇月、収容所暮らしだ。そんな暮らしをやった後で、まるで何事もなかったような顔をして・・・そうさ、田舎で晴れた日曜日をのんびり過ごした翌日のように、へいちゃらな顔でモンマルトルの地下室に戻ってだぜ、夜中に下らない新聞の組版(くみはん)なんて出来るかって言うんだ。何で新聞の組版かって言われりゃ、まあ、俺達は何と言っても、印刷工だからなあ。うん。それで俺はこいつに言ったんだ。ずらかろう、もうこんなところは。あんな奴等にまた捕まってたまるか。自由に生きるんだ、大空の下で。新しい世界を開拓しに行こう! なあ? アルフレ。
 セガール うん。
 イドゥ そうか。気に言ったぜ、今の話。俺はこの港で力仕事をやってる男だ。筋肉を使う仕事なら何でも任せろさ。俺は不満のない男さ。ここのおかみがそれは保証してくれらあ。(マダム・コルディエの方を振り向いて。)不満がなくなったのは、昨日からだけの話だと? 違い(え)ねえ。だがな、俺はこの人生をもう一度繰り返しやれって言われたってな・・・(まあいい、こんな話は。)それにしても、アメリカって言やあ、お前さん、戦争以前にだってもうすっかり踏み荒らされちまっているんじゃないのか?
 バスチアン 踏み荒らされちまった? それはアメリカでもアメリカ違いじゃないかな。アメリカ合衆国じゃありませんよ。ニューヨークなんて飛んでもない。取り違えちゃいけません。アメリカって言ったって、カナダですよ、僕らが行こうって言ってるのは。カナダは大きい。ヨーロッパ、ロシアを含めたヨーロッパ、の広さだ。そしてその人口はロンドンとパリ二つ合わせただけしかないんだ。北はエスキモー、南はアメリカ・インディアンが住んでいる。だけど僕らが行くところは簡単だ。モントリオールで船を降りて、真っ直ぐ行けばいいんだ。ただその距離がね。一体どれだけあると思う? その開拓地まで行くのに。二千キロだ。二千キロメートルなんだ。
 マダム・コルディエ 徒歩で?
 バスチアン いや、汽車で。汽車で二千キロメートル。その間、見渡す限り麦畑・・・麦畑しかない地帯を行くんだ。麦畑でなきゃ草原だ。バッファロー・ビルみたいな男達だ、羊の群を追っている。それから湖だ。生易しい湖じゃない。フランスがすっぽり入ってしまうような湖さ。
 イドゥ(疑わしそうに。)フランスがすっぽり?
 バスチアン そう。フランスがすっぽりですよ。嘘だと思ったらパンフレットがありますよ、カナダについての。ちゃんとこの鞄にあります。な? アルフレ。つまり僕らはよく知られたカナダに行くんじゃないってことです。マニトバってとこなんです、僕らが行くのは。マニトバでも奥の奥です。分かるでしょう? 僕らは少しは研究してあるんです、この国のことを。自由に働きたいっていう戦争の生き残り達には、いろんな仕事がここにはあるっていうことなんです。それに、契約をすることになってるんですよ、行くってことになれば。
 テレーズ 戦争の生き残りの人達が今みんな出て行ったら、女の人はどうなるの?
 セガール 君なら、僕が連れて行ってあげるさ。(テレーズ、セガールの傍のテーブルに身体を凭せ掛けて、セガールにふざける。)
 若い日雇い(バスチアンに。)今、契約をすることになってるって言ったね?
 バスチアン そう。英仏協同の会社があって、そこと契約するんだ。連中の払いで、カナダのその農業開拓地まで送りこんでくれる。僕らはそこで、食料と給料を貰って働く。その間耕作の仕方、栽培の方法、その他いろんなことを教わる。一年後に土地と家とを与えられる。そこは勿論、自分の家さ。それであと十年、土地代を返してゆく。その間の利息は当然払うし、農業用機械の借り賃も払う。こういう機械は買わなくていいんだ。借り賃はパリのぼったくりの周旋屋がつける値の半分以下なんだ。
 マダム・コルディエ それでもし見習いの一年が過ぎて、その仕事が気に入らなかった時は?
 バスチアン 止めればいいんです。そこは自由。ただ違約金としてその会社に六百フランを支払います。カナダでの旅費、その他、あった訳ですからね。でも、それはもう予め、契約時に支払ってあるんです。用心に越したことはないっていうんでしょう、連中も。借りが全部支払終われば、これは戻ってくるんです。まあ、吾が大邸宅にその金で記念にシャンデリアでも買うんですね。
 イドゥ フーン、よく考えてあるな、なかなか。(賛成の呟き。)
 バスチアン ええ。漏れなく。よく出来ていますよ。
 テレーズ 一年たってうんざりってこと、ないかしら。
 バスチアン 俺達が? 冗談じゃない。子供じゃないんだぜ。現状に則して、事はよく考えてあるんだ。最初は辛いにきまってる。だけど、戦争に行ったことを考えりゃ、何が辛いっていうんだ。これは自分でやりたいって決めたことなんだからな。軽いもんさ。それに俺はな、一旦こうって決めたら、そこから目を逸らすような男じゃないんだ。そういう男なんだ、俺達は。なあ? アルフレ。
 セガール(元気なく。)そうさ、そりゃ。
 バスチアン(セガールを指さして。)うん。こいつの場合はちょっと違う。一人だったら続かないだろうな、こいつは。だけど、俺と一緒だったら・・・
 セガール どうしてそんなことを言うんだ。
 バスチアン 責めてるんじゃないさ、アルフレ。ただ俺達二人は気質が違う。お前はこの国に執着があるからな、俺より。家族とか、色々なものに。
 セガール(軽く。)何言って・・・
 マダム・コルディエ そんなこと、恥じることないよ、あんた。当たり前よ。いろんな人がいるんだからね、世の中には。他人に情がうつる人間もいるのよ。
 バスチアン それにもう一つ大事な点がある。カナダ行きを思いついたのはこの僕だ。僕がこいつを誘って、それで決めたんだ。言ってみりゃ、こいつの首根っこに縄をつけて、「さ、行こう」ってね。
 セガール(笑って。)いや、力づくじゃ無理だ。その気がなきゃ行かないさ。
 バスチアン そりゃそうさ! 僕の言ってるのは、お前一人じゃ行かないだろうってことさ。
 セガール うん、まあそうだな。
 バスチアン 自分のことを言やあ、俺は一人でも行くがな。(間。)
 テレーズ で、明日なの? 出発は。
 バスチアン そうだよ、可愛い子ちゃん。明日なんだ。
 セガール そう。明日。時間はまだ分かってないんだ、見てこなきゃ。
 イドゥ 何て名前なんだ? 船は。
 バスチアン 客船じゃないんです。郵便物なんかを運ぶ連絡船。全く僕達二人のためにつけたような名前なんですよ、それが。座右の銘にしてもいいような・・・僕らのこの状況にピッタリの。なあ? アルフレ。「辛抱」・・・つまり、「テナスィティ」っていうんです。「商船テナスィティ」。
 イドゥ テナスィティ? 見たことがあるぞ。トランス・アトランティック社のじゃないか?
 バスチアン(ポケットから紙を出す。)違いますね。エート・・・(読み上げる。)モントリオールの、スミス・アンド・サンズ社・・・です。これから二人で見に行くんです。
 イドゥ 右岸の二番のドックだ、たしか。連れてってやるよ。(船に詳しいという顔で。)排水量何トンもあるっていうデカイやつだな・・・うん・・・
 セガール 今日の泊りはどこにする?
 マダム・コルディエ ここになさいな。部屋はあるわ。
 イドゥ それや、ここは一番さ。今晩、飲んだくれるとすらあな。そしたら、ちゃんとテレーズがいる。顔も拭いてくれるさ。
 テレーズ まあ。飲んだくれるだなんて。この人達、紳士よ、・・・
 バスチアン 分かりました。おかみさん、ここに泊ります。さあ、みんなに一杯づつ。僕のおごりだ。モントリオールの、商船テナスィティに乾杯だ。テレーズお嬢さん、コニャックを。それとも他にいいものがあれば、それを頼むよ。
 イドゥ そいつはいい考えだ。(テレーズ、皆に注ぐ。)
 バスチアン 十年たったら、またここに来ますよ。その時には良い酒を用意しておいて下さらなきゃ。
 セガール 十年? それ以上かな?
 バスチアン それ以下かも知れないぞ。じゃ、おかみさん、乾杯!
 マダム・コルディエ お元気でね。いい旅を!
 テレーズ あちらでの、いい人に!
 バスチアン いい人ってことになりゃ、ここに戻って来なきゃ駄目だな。君に会いに。
 セガール あっちに君みたいな素敵な人がいたら大変だよ。
 テレーズ(スカートを少しつまんで、お辞儀。)ご親切に!
 イドゥ(この時までに、奥の扉の方に目を向けている。急にグラスを置いて、外に飛び出す。)おーい、おーい。
(全員そちらの方を見る。イドゥ、水夫を連れて戻って来る。)

     第 一 幕
     第 三 場
(前場と同じ登場人物。それにイギリスの水夫。)
 イドゥ これはテナスィティの水夫なんだ。
 イギリスの水夫 今日は。
 バスチアン 商船テナスィティの?
 イギリスの水夫 ええ。テナスィティ。
 バスチアン こいつはいい。さあ、一杯やって。(テレーズに何か注ぐように合図。)ここにいるこいつと俺なんですが、カナダに行くんです。そのテナスィティに乗って。
 イギリスの水夫 はあ、なるほど。
(テレーズ、水夫に酒を出す。)
 イドゥ この人なら分かる筈だ。乗員なんだからな。な、あんた、この二人は知りたいんだ。明日何時にその船が出発するか。
 イギリスの水夫 何時に出発?
 イドゥ そう。
 イギリスの水夫 テナスィティ?
 バスチアン ええ。教えて下されば有難いんですが。
 イギリスの水夫 でも、明日は出発しないんで・・・
 バスチアン 何だって?
 セガール だけど僕らは、明日たつっていう切符を持ってるんですけど。
 イギリスの水夫 でも明日はたちません。予定は予定だったんです。明日の出発。でも、明日はたちません。機械に故障が起きたんです。ボイラーに。
 バスチアン ああ・・・
 イギリスの水夫 では、乾杯!(飲む。)
 セガール ああ、乾杯! するともう二、三日はここにいることになるのかな。
 バスチアン(水夫に。)で、今そのボイラーを修理しているんですね?
 イギリスの水夫 そう。修理。・・・まづ取り外して・・・
 バスチアン(心配になって。)取り外し? じゃ、どのくらいかかりそうなんです? 修理は。
 イギリスの水夫 多分、二週間。
 バスチアン(立ち上がる。)二週間!
 セガール(これも立ち上がり。)二週間!
 イギリスの水夫 ええ、二週間。・・・もう少しかかるかも知れません。
 イドゥ まあまあ、坐ったらどうだ、二人とも。すぐには出航しないんだ。
 バスチアン(がっかりして、坐りながら。)乗客を二週間も待たせるなんて、そんな無茶な。他に船があるんでしょう?
 イギリスの水夫 ありません。テナスィティの乗客って、多くないんです。四、五人・・・多くて十人です。主に貨物を運ぶんですから。牛とか、電線とか。会社の事務所に訊いてみて下さい。でも私の言っていることは嘘じゃありません。今から一箇月、カナダに行く船はテナスィティしかありません。じゃ、これで失礼します。私は行かないと。すぐいらっしゃいますね? 会社に。じゃ、失礼。
 バスチアン 有難う。すぐ行きます。

     第 一 幕
     第 四 場
(前場と同じ登場人物。ただし、イギリスの水夫がいない。)
 セガール(少しの間の後。)どうしよう。
 バスチアン まづは、確かめてみなきゃ。しかし、どうしたってあれは知ってて言っている顔だなあ。
 イドゥ そりゃそうだ。酔っ払って言ったんじゃない。
 セガール 明日発てないとなれば船会社は僕らにパリへの往復の旅費を出してくれなきゃいけないんじゃないかな。ボイラーがなおるまで二週間、僕らはパリで待っているしか手がないんだから。
 マダム・コルディエ それはそうだわ。会社は支払うべきね。
 バスチアン(心配そうに。)パリで待ってるって言うのか。他に船がなきゃ、それしか考えられないか・・・
 セガール まづいな・・・しかし、しようがないか。
(間。)
 バスチアン いや、駄目だ。駄目だよ、アルフレ。そいつは出来ない。パリに帰って、また二週間? 「さようなら、お元気でね。しっかりね。」そして改めて出発? 親戚連中がまた駅に来て、涙の別れ? 駄目だ、そいつは。
 セガール そうだな、それは・・・だけど・・・
 バスチアン この間からの一週間を繰り返すなんて真っ平だ。連中だって、さよならはあれで終だし、俺達だって終さ。帰ってまたあんなことをやってみろ。不幸が舞い込んでくらあ。
 セガール(少し困って。)僕も同じ考えだ・・・しかしなあ・・・
 バスチアン しようがないさ。成り行きだ。
 セガール しかし、ここで暮らすと言っても・・・金がなあ、残さなきゃならないからな・・・
 バスチアン そいつだ、問題は。まてよ、ここに印刷屋はないかな。
 イドゥ あるさ、印刷屋くらい。ここにだって。
 マダム・コルディエ あるわ、それは。
 イドゥ それにな、印刷屋があろうとなかろうと、ここで仕事にゃ事欠かないぜ。ここの波止場じゃ今、路面電車を建設中なんだ。レールを担いで運ぶ日雇い人夫を毎日連中は捜してる。一日十二フラン五十だ。俺だって他にいい仕事がなくなって、少し懐が寂しくなりゃ、時々は御厄介になってらあな。ただ、このレール担ぎってやつはちょっと・・・
 セガール おかみさんとの話で条件が合えば、僕ら、ここに泊ってもいいんですか?
 テレーズ 勿論よ。
 マダム・コルディエ 二週間泊めてあげるなんて、お易い御用さ。でもね、悪口は厭だからね、出て行く時に。
 バスチアン(立ち上がりながら。)よし、じゃまづ、船に行ってみよう。
 セガール(立ち上がって。)それで、必要なら、印刷屋を捜すことにしよう。(レストランをぐるっと見渡す。テレーズに。)アメリカ行きの前にここで二週間。悪くないじゃない。ね?
 テレーズ そうよ。もう少し自分の家にいられるってことだもの。
 セガール うん。そうそう。あんまり急な変化よりいいよ、この方が。
 バスチアン(イドゥと扉の方に進みながら、セガールを呼ぶ。)おい、アルフレ。行くぞ。(外へ出て、扉のところでイドゥと話している。)
 セガール 知らない土地に行って、そこでちょっと慣れるまで暮らすって、僕は好きだな。土地の人の暮らし方を覚えて、ああ、あそこではあんな風に暮らしたなあって、思い出すのが。懐かしい場所がいろんなところに出来てくる。ああ、そんなに長くはかからないんだ、それには。・・・戦争の時だって僕は・・・
 テレーズ(セガールが胸にさしている花に鼻を近付けて。)綺麗な花ね! あなたのいい人ね、それをつけてくれたの。
 セガール いや、自分でつけたんだ。出発する時に。
 バスチアン(外から。)おい、アルフレ!
 ガール 今行く。(花を胸から引き抜いてテレーズに渡す。テレーズ、受け取る。セガール退場。)

     第 二 幕
     第 一 景
(同じ場。)
     第 二 幕
     第 一 場
(セガールとテレーズ。)
(二人、右手前方のテーブルの傍に坐っている。セガールは左手を肩帯で吊っている。テレーズは靴下を繕っている。間の後、セガール立ち上がり、右手を苛々と動かしながら、大股に歩く。)
 テレーズ 痛むの?
 セガール うん。時々激痛が走るんだ。爪の下のところが・・・ギリギリっと。・・・ああ、厭になっちゃうな。
 テレーズ 二、三日の辛抱よ。でも爪のところでよかったわ。指のところに落ちていたかも知れないもの。でも何でしょうね、他の人達。あなたより先にレールを放り出すなんて。
 セガール いや、僕がいけなかったんだ。放すのが遅すぎた。それに、持ち方もまづかった。下から持ってたからな。まあ、起きたことはそれでいいんだが、この働けなくなっちゃったってのがなあ・・・ムムム。それでもいいこともあるんだ。(坐る。)
 テレーズ いいことって?
 セガール 一日中君と一緒にいられるっていう・・・
 テレーズ お世辞!
 セガール いや、お世辞じゃない。
 テレーズ 一週間経ったら船よ。ここよりずっといいわ。
 セガール いや。
 テレーズ 私のことなんかすぐ忘れちゃうわよ。
 セガール それは違うんだ。僕にはよく分かっている。第一、僕は記憶がいいし、それに・・・
 テレーズ 記憶・・・記憶って言えば私、人よりも土地のことをよく記憶してるわ。人は見過ぎてるんだわ、きっと。
 セガール 執着するのが僕の癖なんだな。一日ある土地に行くことになるね、するともう一生そこに住むんだって気でそこを見るんだ。そしてそこを去って行く時には一生忘れないって。人でも僕は同じだ・・・戦争中にね・・・
 テレーズ ああ、あなたって、一度見たら忘れないっていう人なのね。
 セガール そういうのは、案外仕合せじゃないんだ。でも僕はこれでいいんだ。ねえテレーズ、もしだよ、もし僕が二十年後に汽車でここに来るとするだろう? 今回来たようにね。僕は駅を覚えていないかも知れない。この家まで来る道もすっかり忘れているかも知れない。でもこの部屋、テーブルがここにどういう風に並んでいるか、ちゃんと思い出すよ。おかみさんがあのカウンターで売上げの覚えのために字を書きなぐっている様子、君がイドゥに片方の手でグラスに注いで、もう片方の手でテーブルを布巾で拭いている。おとといの昼過ぎのことだって思い出すだろうな。僕がここで本を読んでいる。君とおかみさんがテーブルクロスにアイロンをかけている。それから昨日の午後のことも。君は買い物に出て行った。黄色い靴を買ってきた。僕に見せた。履いてご覧よって僕が言う。君は履いて僕の前で歩いて見せた。そして今日のことだってきっとだ。君がそこにいて、繕い物をしている。その姿をね・・・ああ、そして特に決して忘れないものがあるな。僕がいつも見ているもの。そして今も見ているもの・・・
 テレーズ(目を繕い物に向けたまま。)何が見えているの?
 セガール うなじにあるその小さな髪の毛。
 テレーズ(頭を起こして、後ろに倒して、笑う。)あらあら、私ったら、真面目に聞いてたわ!
 セガール 冗談じゃないんだよ、これは。十年経ってもきっと思い出すんだ。他のいろんなこともね。
 テレーズ 十年たっても!
 セガール 僕が子供の頃だけど、夏休みのひとつき、臨海学校があって、田舎で暮らしたんだ。とってもいい思い出なんだよ、これは。真っ白い壁の大きな食堂で食事をするんだ。部屋中にいい匂い。牛乳とパンのね。テーブルクロスが真っ白。蝋引きなんだ。その新しい蝋の匂い。僕はあの食堂の匂いを決して忘れないだろう。あの夏休みを思い出すとすぐあの匂いがしてくる。そして給仕のおばさんの顔が・・・それから一人一人に赤い色をした飲み物がついてた。ガラスのコップに入った・・・
 テレーズ(笑って。)そうだ、私にも壜があったわ。学校でお昼を食べる時、いつもサイダーのちっちゃな壜を持って行ったの。味がよくなるようにって私、いろんな物をそれに入れたわ。ボンボン、チョコレート、さくらんぼ。そして振るの。泡がたつのよ!
 セガール(この時までに立って、二、三歩進み、テレーズの前に立っている。)その学校、どこ? ここ?
 テレーズ ええ。街のはずれにあるわ。十二の時までそこに通ってたわ。
 セガール それから?
 テレーズ それから田舎の養鶏所で働いたの。私、上手だったのよ、鶏育てるの。綺麗な庭があったわ。そこにいっぱい苺がなるの。真っ赤な苺! でもママがそこを止めさせたの。お給料が安いからって。
 セガール 髪の結い方がいいなあ!
 テレーズ そうかしら?
 セガール それに、本当に綺麗な髪だ。
 テレーズ カナダから絵はがき送って下さると嬉しいわ。
 セガール 勿論送るさ。絵はがきがなかったら、手紙を書くよ。
 テレーズ 嬉しいわ! でも約束しても、それを守らなきゃ、何にもならないのよ。いるのよ、今まででもそんなこと言ってくれた男の子達。絵はがき送るよ。ボンボンもね。そうそう、いたわこんなのも。「僕んとこにはな、ボンボンってったって、特別なのがあるんだ。送るよ。」なんて言って、みんな嘘っぱち。
 セガール カナダにはきっとボンボンはないな、テレーズ。そうだ。出発する前にすればいいんじゃないか。出発する前に必ず買ってあげるよ。
 テレーズ 出発はいつなの? あ、これ、ボンボンが欲しいから言ってるんじゃないのよ。
 セガール 正確には分かってない。もうあと五日か六日かな。昨日僕はテナスィティを見に行った。雨だった。小糠雨だ。廃棄された船のように見えたな、テナスィティ。僕は出発が延期されなかったらどうだったろうって、考えてしまった。黒く濁った海、雨が降って暗い夜。そこを何日も、頼りない煙を吐きながらあのテナスィティが進んで行く。・・・(間。)淋しい光景だね、港に小糠雨が落ちている夕暮れって・・・
 テレーズ 行きたくないの? カナダに。
 セガール そんなことはない・・・ただ、ここを去って行くのがね、残念なんだ。一旦あっちに行ってしまえば・・・そうなんだ。これが僕の欠点なんだ。いつも今っていう時に執着している。手でしっかりと綱を握っていて、その綱がすごい力で僕を引っ張っている。手を緩めたりすれば、綱がさっと出て行って、手の皮がすりむけるんだ。僕が綱を操っているんじゃない。綱の方が僕を揺さぶったり、転ばしたりするんだ。バスチアンは僕より強い。自分の人生を自分で決める。僕の分まで決めてくれた。その方がいいんだ、僕は。他人が作った計画だととてもよく分かるんだ、良い計画か悪い計画か。すぐにね。でも自分で作る計画は駄目なんだ。いや、僕は計画なんか作らない。計画じゃなくて、僕のは夢みたいなものだ。僕は「これこれをしよう。」なんて思わない。いつでも、「ああ、これはこうなるだろうな。僕はこういうところにいることになるだろうな。僕と一緒にいるのは多分あいつとあいつだ。こういう素晴らしいことに出会うんだ。こんな、あんな・・・仕合せな気分になるんだろうな。」って。君は笑うだろうけど、僕が自分に話して聞かせること、それは、今の自分の状態、それから、こうなればいいんだがなっていうこと。でも大抵そんなことは話がうますぎて、「こうなれ!」なんて思うのもおこがましいものばかりなんだ。
 テレーズ でも、もう大人でしょう? 自分が欲しいものは何か、それはきっと分かってる・・・
 セガール うん。例えば場所。僕は自分の好きな場所がある。ああいうところに行ってみたいなって、思うのは思う。だけど実際に自分がいる場所は、気がついてみると、いつも僕じゃない人が決めてるんだ。君はどう?
 テレーズ 私? 私、そんなこと、考えてみたこともないわ。
 セガール 僕らはこうやって生活している。いろんなものが目の前に現れて、そして僕らの目を引いては去って行く。その中で一番僕が好きなものは何だろうって見つけたり、選んだり・・・ねえテレーズ、それは僕は大変難しいことなんだって思う。難しいだけじゃない。恐ろしいことなのかも知れない。
 テレーズ そんなの、選んだりしないんじゃない? 普通。自分に起こった事、それを単純に受け入れてるだけじゃないかしら。
 セガール 違うよ、それは。選ぶのは選んでるんじゃない? 僕は何でもしっかりと掴みたい。だけど掴みきれないだろうと最初から分かっているもんだから、悲しいんだ。
 テレーズ 私は悲しむのはあとね。私だってあるわ。昨日だって、黄色い靴じゃなくて、黒いのもあったわ。エナメルの。どっちにしようか迷った。でも今秋でしょう? だから黄色にしたの。でも黒も・・・
 セガール うん。僕が考えてたのは物じゃなかった。靴じゃなかったんだけど・・・
 テレーズ そうね。
 セガール 人生って単純じゃないな。本当にいろんな、奇妙なものが組み合わさって出来ている。この一箇月、僕はカナダのことしか考えなかった。ここへ来る汽車の中だって、船のこと、カナダのこと。どんなところだろうって、自分で景色まで拵えてね。ここへ着いてみる。すると出発は思った通りじゃない。この家にもう二週間も暮らしている。で、僕が出発のことしか考えていないと思う? バスチアンみたいに。彼の言い方だと、「目標から目を外さず、しっかりと。」違うなあ。僕は・・・そうだ、僕は君を見てる。こうやって君といるのが本当に仕合せなんだ。みんなと友達になる。家の人達と。それに君と・・・
 テレーズ(頭を上げて笑う。)本当?
 セガール 僕は自分で自分に言う。おい、お前、本気でそう思うんなら、もう行くのなんか止めて、この国で暮らすんだ。仕合せになるかも知れない。分からんもんだからな、人生は・・・さっき君は養鶏所の話をしたね? すると・・・こいつは僕の僕たるところだけどね・・・僕の夢が始まる。日当たりのいい小さな家。踏切番のいるような小さな、ね。カナダじゃないよ。その家のそばに鶏を飼っている一区画と庭がある。テレーズがそこにいて、笑っている。だって君、庭の話もしたからね。
 テレーズ ええ。
 セガール そう。だから僕の言いたいのは、つまり・・・僕らは一歩一歩あるいている。だけど次の一歩をもし止めたら一体何が出来るだろうって考えると、奇妙な気持ちになるんだ。すっかり違った人生になるんだものね。その次の一歩を止めただけで・・・
 テレーズ そうね。その通りだわ。(間。)鶏と花のある小さな家・・・あら、私、普段はこんなこと思い浮かべないのよ。あなたのせいね。私、悲しい気持ちになっちゃう。
 セガール(テレーズの肩に手を置いて。)あ、悲しいのは駄目だ。そんなつもりじゃなかった。
 テレーズ あ、おかみさんが降りて来る。テーブルの支度をしなくちゃ。
 セガール ご免ね、テレーズ。僕の話がいけなかった。君を悲しくさせちゃって。
 テレーズ(立ち上がりながら。)いいえ。優しいことを言って下さったわ、とても。

          第 二 幕
          第 二 場
(前場と同じ登場人物に、マダム・コルディエ、次にイドゥ、バスチアン、日雇い人夫達。)
(テレーズ、テーブル一つ一つに、ナイフ、フォーク類を置いてゆく。)
 マダム・コルディエ(左手の扉から登場。)急いで、テレーズ。もう遅いわ。ああ、セガール。どう?
 セガール まあまあです。でも時々激痛が走って。それで疲れてしまうんです。それに熱も。
 マダム・コルディエ 夕食は早くなさいな。そしてすぐ寝るのね。
 ガール どうも食欲がないな。(坐る。)
(日雇い達登場。奥の席につく。それからイドゥとバスチアン。)
 イドゥ(バスチアンとの会話の続き。)ああ、駄目だな。政府をどう変えたって何にもなりゃしないさ。そこに住んでる奴がおんなじならな。俺の部屋があんまり汚ねえ。それでこいつをなんとかしようってんで、どこか別の街に引っ越す。それと同じ話だ。どんな街に引っ越したってな、俺の住む部屋はどうせ汚いに決   まってらあな。何故かって、そいつは酔っ払いの部屋だからさ。窓にかかっているカーテンは必ず引き千切れてらあ。酔っ払って少し風を入れようってんで、窓を開けに行く。よろよろっとして、カーテンに縋り付く。それでビリッさ。ベッドの枕もとにや、小さな机があらあ。俺はいつもそこに何か青いもの、植木鉢でも置いときたい。本でも一冊のせておきゃあな、と思ってらあ。だけどな、机をだぜ、いくらその机を取り換えたって、その上にゃ、壜が置いてあらあ。一リットルな。いや、一リットルじゃきかねえ。五、六本だから五、六リットルだ。まあ俺の場合は極端かもしれねえがな、バスチアン。(話の筋は通ってる筈だぞ。)俺は今、全く酔っちゃいねえんだからな。だから結局は自分がいい人間になることを考えなきゃ駄目だ。政府になんぞ頼れるわけはねえ。
 バスチアン それは分かります。しかし、みんながもっと・・・
 イドゥ みんながもっと。そんなこたあ分かってる。しかし「みんな」、それはまづ一人から始まるんだ。・・・やあ、セガール。
(イドゥ、セガールと握手。)
 セガール 今晩は。
(イドゥ、奥に進み、先に坐っている二人のところに行き、自分も坐る。酒をぐっと飲む。)
 バスチアン(テレーズの方にさっと駆け寄る。テレーズは両手に皿を持っている。)おお、テレーズ、そーら通せんぼだぞ。こりゃいいチャンスだな。擽(くすぐ)ったがりやかどうか、今なら分かるぞ。(テレーズの胴の辺りを抓(つね)る。テレーズ、「きゃっ」と言う。)
 テレーズ 止めて。皿を落としちゃうわ。
 マダム・コルディエ お止めなさい、バスチアン。そうでなくても遅くなってるのよ。
(バスチアン、剽軽(ひょうきん)な格好をしながらテレーズから離れる。セガールに近づいて。)
 バスチアン どうだ相棒、調子は。
 セガール 時々痛む。それにゆうべはよく寝られなくて。ひどく疲れてる。
 バスチアン 少しは外に出てみたか? テナスィティでも見に行かなかったのか?
 セガール いや、外には出ない。
 バスチアン 飯どきでなきゃ、客なんか来ないだろうな、ここには。
 セガール 来ない。
 バスチアン(内緒の口調。)おい、お前・・・テレーズと何かやらかしたんじゃないか?
 セガール(バスチアンを見ず、頭を振る。少しの間。それから。)疲れた。僕は横になって来る。
 バスチアン おいおい、怒るなよ。あんないい子と一時間鼻を突き合せていてみろよ、誰だって口説き文句の一つや二つ、出て来るってもんだろう? だから・・・
 セガール 見込み違いってものもあるだろう?(もぐもぐ言いながら立ち上がる。)
 バスチアン 調子悪そうだな、アルフレ。寝た方がいい。一週間したら発てる筈だ。それまでには元気になってなきゃあな。
 セガール なるさ。このぐらいの怪我。
(セガール、マダム・コルディエと二三、言葉を交わした後、こっそりと去る。奥ではイドゥ、グラスを飲み干し、日雇い達と握手をし、また彼らと一緒に飲む。)

     第 二 幕
     第 三 場
(同じ登場人物。但しセガールを除く。)
 イドゥ(バスチアンのいる席にやって来る。バスチアンはセガールが坐っていた席にいる。)セガールは行っちゃったのか?
 マダム・コルディエ ええ、少し熱があるんだって。夕食も食べないで行ったわ。
 イドゥ 熱だ? 何だ熱ぐらい。行くにしたって、俺達と乾杯してからにすりゃいいんだ。まあいいや。白をくれ。白だ、おかみさん。スープの前に一発、白とくらあ。おい、テレーズ! えらく喉が乾いたなあ。どうだ? バスチアン、白は。
 バスチアン ええ。あ、こっちも白だ。
 イドゥ うん、飲むなら今だぞ。カナダにやワインはないからな。(テレーズ、注ぐ。)
 バスチアン 代りにウイスキーですよ。それにシャンペン。これは世界中どこにでもありますからね。
 テレーズ あら、シャンペン? 好きだわ私、シャンペン。一人で一本飲めちゃうわ。
 客(呼ぶ。) テレーズ。
 バスチアン 本当か? よし、いつか飲ませてやる。ここに置いてある?
 テレーズ ええ。それもいい物よ。
 バスチアン よし、いつか飲もう。いいな? シャンペンで二人、乾杯だ。
 客 テレーズ!
 テレーズ はい。今行きます。(客の方に行く。)
 バスチアン(イドゥに。)そうだよ、おやじさん。僕らが大農場の主になったら、シャンペンの四、五ケース、常時おいておいたって誰も文句を言う奴はいない。だって開拓者なんですからね。でも、シャンペンがなけりゃ、それはそれでなしで済ましますよ。ぶどう酒はたしかにいいもんですよ。だけど自由はもっといいものだ。僕らが発つ目的、それはね、おやじさん、自由にあるんですからね、自由に。
 イドゥ 自由か。まあ自由は分かったよ。だけど俺にもちょっと言わせてくれ。まづそのシャンペンの話だ。言っとくが、シャンペンはシャンペン、ぶどう酒はぶどう酒だ。シャンペンなんぞぶどう酒であってたまるか。
 バスチアン ははあ。
 イドゥ 断じて違う。第一、シャンペンは砂糖入りだ。ガスが入ってやがる。それに余計な化粧まで壜にしてあらあ。香りはないしな。朝起きて飯を食う。パンにチーズだ。そいつと一緒に飲めるものは何だ? ボルドーだ。ブルゴーニュだ。ピコロだ。ボジョレだ。こういう奴なら、納得がいかあ(行くわ)。胸にすっとはいらあ(入るわ)。今日一日、いろいろあるだろうが、まあ何とかやっていくかって気にならあ。だがな、シャンペン! こんなもなあ(ものは)、蝶ネクタイだ。つけカラーだぜ。儀式用なんだ。それは結婚式で女達を陽気にさせるためなら、ピッタリの飲物だ。それに、痰がつまって、ぺっと吐きたい時にも、似合いの飲物だがな。
 バスチアン おやじさん、そりゃちょっと・・・
 イドゥ まあいい。シャンペンの話はこれで終だ。もっと大事な話をするぞ。いいか。お前さん達二人がカナダに行くなあ(のは)悪かあねえ。前から俺はそう言ってる。今だっていいと思ってる。いい旅をすらあ、きっと。新しい国を見るだろうし、良い空気の中で生活するんだ。(そりゃそれでいい。)だがな、お前は自由って事を口にする。自由、自由。口で言うなあ簡単だ。いいか、俺の本心を言ってやろう。な、バスチアン。お前はまづ契約に署名したんだ。このために金を払うことになる。そしてその金はある期間召し上げられるんだぞ。その間、あれやこれやの約束は守らなきゃならん。これがお前さんの言う自由ってやつか? とんでもない。一旦紙に署名したら、もう決して自由なんて言わんことだ。
 バスチアン ああ、そりゃ絶対的な自由ってことになりゃ・・・
 イドゥ その何とかっていうカナダの農業の会社だがな、俺だって知っちゃいねえ。お前さんの持ってる知識の程度だ。しかしそいつはなんだかんだとお前さんに枷(かせ)を嵌めてくるに違いねえ。何てったって、相手は土地売買の会社なんだからな。払えるか払えねえか分からねえ土地に鍬(くわ)を入れるんだ。ああ、かけ売りはしてくれるさ。心配はいらねえ。欲しいだけ、いくらでもな。そしてお前さんの作った作物、お前さんの育てた家畜、そいつを売るんだ。いや、売らなきゃならねえ。誰にだと思う? ひょっとするとそいつをここに運ぶ船は、相変わらずあのテナスィティってことかも知れねえぞ。だからな、どこへ行ったって同じなんだ。自由、本物の自由ってやつあ、身体の外に出しちゃおしめえなんだ。身体の中に入れておくんだ。いいか、俺は自由だぞ。若い時は俺はウナギって呼ばれた。誰も俺を捕まえる事が出来なかったからな。そりゃ俺だって生きるために自由は売った。しかし一度に一かけらづつだ。俺は自分の好みで仕事を選んだ。懐具合と健康状態に応じてな。さぼったりはしねえ、俺は。仕事はちゃんとやった。誰だって保証してくれらあ。それから誰とも仲良くやってきた。だがな、将来を賭けるっていう話は俺は駄目だ。俺はそいつはやったことがねえ。そいつだけは考えただけでも、気分が悪くなってくらあ。
(イドゥ、ゆっくりとグラスを空ける。バスチアン、頬杖をついてじっと考える。)
 バスチアン(立ち上がりながら。)ちょっとぐらいは将来を賭けなきゃ、たいした仕事は出来ないんじゃないのかな。・・・それに、おやじさんの言ってるような、酷い枷じゃない筈ですよ。行って一年経てばはっきりそれは言えると思うけど・・・
 テレーズ(イドゥとバスチアンに。)飲むの終り? スープ持って来ていいかしら?
 イドゥ(壜を掴んで。)さ、もう終わった。
 バスチアン(テレーズの腕を取って、右手の扉に連れて行きながら。)さ、テレーズ、お手伝だ。ナイフとフォークを置くのを手伝ってやる。

     第 二 幕
     第 二 景
     第 四 場
(マダム・コルディエ、バスチアン、テレーズ。)
(場、同じ。夜。レストランの正面は鎧戸が閉まっている。電気はカウンターに一つと、右手のテーブルに一つあるだけ。幕が開くと、マダム・コルディエが奥にいる。扉を鍵で締めている。テレーズ、カウンターの後ろでグラスを洗っている。バスチアン、右手のテーブルで新聞を読んでいる。)
 マダム・コルディエ(鍵束をカウンターの後ろの釘にかけて。)さ、私は上がるからね。電気をちゃんと消しとくのよ。
 テレーズ はい、消します。私ももう終ですわ。
 バスチアン 僕ももうすぐ上がります、おかみさん。
 マダム・コルディエ じゃ、お休み!
 バスチアン(新聞から目を離さずに。)お休みなさい。
 テレーズ お休みなさい。
(マダム・コルディエ、左手から退場。)

     第 二 幕
     第 五 場
(テレーズ、バスチアン。)
(間。その間にテレーズ、洗い終わったグラスをカウンターの後ろの棚に並べる。)
 テレーズ ほーら、新聞を読んでるお兄さん。もう電気消すわよ。
 バスチアン 今、何時だ?
 テレーズ もう十一時は過ぎてるわ。
 バスチアン(新聞をテーブルに投げ出して、椅子の背に凭れて伸びをする。)テレーズ!
 テレーズ 何?
 バスチアン 遅いけど、まだ何か出してくれる気ある? 僕に。
 テレーズ いいわよ。でも早くして。何なの?
 バスチアン(内緒の声。)シャンペン一本。それにグラス二個。
 テレーズ ああ、駄目よ。
 バスチアン(立ち上がって、テレーズのところへ行く。)どうしてだい、テレーズ。奢るって約束してたじゃないか。今が丁度いい時だよ。寝る前に五分。シャンペンを一、二杯空ける。いいじゃないか。気分が休まるぞ。
 テレーズ 出発する時の祝杯にすればいいじゃないの。セガールと一緒に。
 バスチアン お別れの乾杯か。それはやるさ。だけど、それはそれ、これはこれだ。別れの乾杯は、セガール、おやじさん、おかみさん、みんなで飲む。だけど、お前さんはいないぜ。いろんな仕事の合間にちょっとやって来て、さっと飲むだけさ。そんなのは勘定に入らないよ。
(間。テレーズ、困ってもじもじする。)
 バスチアン 一杯やるって、そんなに大変なことかい? これが初めてってのがおかしいくらいじゃないか? 何を考えてるんだ?
 テレーズ おかみさんのこと。
 バスチアン おかみさんなんて五分経ちゃもう鼾をかいてるよ。で、おかみさんがどうしたって言うんだい?
 テレーズ 隠してちゃいけないもの・・・
 バスチアン よし、明日おかみさんに僕が言うよ。二人で一本飲んだって。そして金を払う。ふっとその気になって、って言うさ。
 テレーズ 駄目よ、そんなの。その後何て言われるか。私が飲みたくなって、奢らせたんだって言われるわ。・・・それに、こんな時間に。駄目よ。
 バスチアン 分かった。おかみさんには話さない。君が明日の朝、こう言えばいいんだ。昨日、閉めようとしたら、戸をたたく人がいて、開けたら水夫さんで、一本欲しいって言うからって。
 テレーズ(話に乗って。)あーら、あなた、頭いいわ。いらっしゃい、悪党さん。来て、地下室の上げぶたを開けて。音がしないようにね。
(バスチアン、カウンターの後ろで、上げぶたを上げる。テレーズ、下りて行く。テレーズが下に行っている間にバスチアン、グラス二個取ってテーブルに置く。)
 テレーズ(上がって来て。)ふた、閉めて。
(バスチアン、上げぶたを閉める。テレーズ、バスチアンに壜を渡す。バスチアン、それをテーブルに置きに行く。二人、向かい合って坐る。バスチアン、壜をあけ始める。)
 テレーズ ふたが飛び出さないようにして。
 バスチアン 分かってる、可愛い子ちゃん。そーら。(注いで、グラスを合わせる。)じゃ、乾杯だ。シャンペンの大好きな君に・・・そのシャンペンが本当に似合うテレーズちゃんに!
 テレーズ からかうのが好きなバスチアンに! そして、いい旅を!
(二人、飲む。)
 バスチアン 悪くない。
 テレーズ あーら、美味しいわ。
 バスチアン うまいもの好きなんだな。目が光ってるぞ。いよいよ美人だ。カナダに来てご覧、日曜日ごとに飲ましてやるよ。
 テレーズ いやよ、カナダなんて。
 バスチアン どうして。
 テレーズ 船が怖いの。海の上なんて。それに遠いわ、カナダ。遠すぎ。私、妹達もいるんだもの、ここに。
 バスチアン それにいい人も。
 テレーズ いないの、それは。去年の夏から。悪い人よ、あの人。住所も知らせないで行っちゃったの。
 バスチアン ここの人じゃないの?
 テレーズ ええ。兵隊さん。ここには駐屯してたの。優しかったわ。位は曹長。(テレーズ飲む。バスチアン、グラス二つに注ぐ。)ああ、ちょっと待って頂戴。ビスケット捜してくるわ。
(テレーズ、右手に退場。暫くしてビスケットを盛った皿を持って来る。)
 バスチアン(テレーズが彼の正面に坐ろうとするのをとどめて。)こっちに坐ったら? ままごとだ。
 テレーズ(バスチアンの右に坐って。)それにもし私がカナダに行ったら、それこそお笑いよ。雄鶏(おんどり)二羽に雌鶏(めんどり)一羽。
 バスチアン 雌鶏か。綺麗な雌鶏だ。だけどセガールは雌鶏のために争うような奴じゃない。僕はあいつを知っている。二時からずっとここでお前さんと二人だけになってたってあいつ、賭けてもいいが、言い寄るような真似は何一つやっちゃいない。だろ?
 テレーズ(軽く。)ああ、あの人、優しくって親切。私の相手になってくれて、話も楽しいわ。誰だって好きになってしまう人。それに心ね。純粋なのよ。おかみさんがいつもそれを言うわ。
 バスチアン そりゃそうさ。だから相棒にしたんだ。
 テレーズ(意地悪く。)勿論セガールだったら、あなたみたいに階段を追いかけて来て、若い子にキスなんてしないわ。
 バスチアン 僕だって若い子だったら誰でもそうすると思ったら間違いだぜ。お前さんにそうしたのは本当にそうしたかったからなんだ。アルフレの奴だって、僕ぐらい本気にそうしたかったら、やってた筈なんだ。
 テレーズ 本当にそうしたいと思っても、思い切って出来ない人もいるわ。
 バスチアン だけど、そうしたいって気持ちが本当に強くて、そしてそいつが男なら、思い切ってやらなきゃいけないんじゃないか。(バスチアン、テレーズを抱きしめ、首にキスする。)
 テレーズ(小さな叫び声を上げた後。)駄目じゃない。私、大きな声出しちゃって、おかみさんを起こしちゃうわ。
 バスチアン(甘い声で。)ああ、テレーズ、可愛いテレーズ。ねえ、聞いて・・・いや、その前に、飲んで。(テレーズのグラスを取って飲ませる。その後、同じグラスで自分も飲む。)さ、これで君の考えていること、みんな分かるぞ。(訳註 テレーズのグラスからワインを飲んだから。同じグラスで飲むと相手の考えが分かる、と言われている。)
 テレーズ(バスチアンのグラスからワインを飲んで。)ほら、これで私も分かるわよ。
 バスチアン なあテレーズ、戦争中、塹壕の中にいた時、弾除(たまよけ)の陰に隠れて一日中じっとしていた時、僕の楽しみっていったら、女の子のことを考えることだった。僕の好みにぴったり合って、僕が大好きになる、そんな女の子のこと。飢えた人間と同じさ。美味いものなら何でも、次から次に思い浮かべる。そんな飢えた人間とね。ああ、そんな女の子とたった一時間でいい、一緒にいられたら、そしてキスが出来たら・・・頭のてっぺんから足の爪先までキス、キス、キス! そしたら、その女の子は笑うんだ。そして喜んでくれてキスを返す。お義理のキスじゃないんだよ。戦闘が酷くなって、周りの連中がバタバタ死んでゆく。今度は僕の番かなって思う。そんな時、一番残念なこと、それが何か分かるかい?ああ、このままキスがどんなものだったか思い出すこともなく死んでゆくのかって。それが一番悲しかったなあ。
 テレーズ(心を打たれて。)かわいそうな兵隊さん!(バスチアン、テレーズにキス。)
 バスチアン 戦争が終わって、今度は兵営暮らしだ。メッツの兵営、コローニュの兵営、パリの、マルセイユの、コンスタンチノープルの兵営だ。それからやっとクリシーに帰って来た。だけどさっぱり帰って来たような気分じゃない。まるで根無し草だ。僕は二月(ふたつき)もぼんやりパリをうろつきまわった。アメリカ兵、チェコ・スロヴァキア兵でいっぱいのパリをね。そして今、僕はカナダに旅立つんだ。カナダも奥の奥、マニトバにね。女と言えばパイプをふかすアメリカ・インディアンの女しかいやしない。お前さんにキスしたくなるのは当たり前じゃないか。それにテレーズ、なんて君は似てるんだ。本当にそっくりなんだぞ、僕が塹壕で夢見ていた女の子と。
(バスチアン、長いキス。テレーズ、疲れてバスチアンの肩に頭を置く。バスチアン、テレーズの顔をまたじっと見つめ、そして再びキス。)
 テレーズ(急に姿勢をちゃんとして。)駄目、私にキスしちゃ。
 バスチアン どうして?
 テレーズ だってあなた、行っちゃうんだもの。
 バスチアン そう。行っちゃうさ。だけど明日じゃない。来週でもない。行っちゃう前に、何度でもキスするんだ。キスして、キスされて、何回でも出来るだけ沢山。カナダに行って、もう好きだの嫌いだの、そんなものに全く縁がなくなって、たった一人の世界になった時、後悔しないようにね。分かるだろう? でも君、キス嫌い? シャンペンよりは好きじゃないかな?(心配顔。)それとも、僕のこと、好きじゃないのかな。
 テレーズ(明るい笑い。バスチアンの頭を両手で掴んで、急にキスする。)ほら。(テレーズ、自分のグラスを空けて。)ほら、これも。(立ち上がる。)さ、もう上がるのよ。本当に遅いんだから。(テレーズ、小声で歌い、踊りながら、グラスを取り上げ、洗い、棚に並べる。鍵を釘から取り、奥の扉に進み、それを開け、波止場の方に空壜を投げる。バスチアン、テレーズの後について行く。壜が投げられると、テレーズを抱きしめ、キス。二人で戻って来る。テレーズ、扉を閉める。バスチアン、テレーズを抱き上げ、一回転する。)
 テレーズ(身体を離して。)お終い!・・・お休みを言って、上がって、寝るのよ。(カウンターの電気を消す。)
 バスチアン テレーズ!
 テレーズ なに?
 バスチアン こっちへ来て。小さい声で言うことがあるんだ。
(テレーズ、近づく。バスチアン、テレーズの耳に囁く。)
 テレーズ 駄目よ!
 バスチアン いいじゃないか。(テレーズを抱きしめ、左の扉の方に導く。)
 テレーズ 駄目よ、バスチアン。
 バスチアン 眠いの?
 テレーズ 違うけど・・・
 バスチアン ならいいじゃないか。「うん」て言って。
 テレーズ(バスチアンの腕の中で、下を向いて一瞬考えた後。)じゃ、いいわ。でも約束して頂戴。決して言わないって。決してセガールには言わないって。
 バスチアン 誰にも言いはしないよ。セガールには勿論さ。(バスチアン、扉を開ける。)
 テレーズ 音を立てないようにね。(最後の明かりを消す。)

     第 三 幕
(同じ場。朝。レストランの入口はまだ閉まっている。扉の上の明かりとりから日が差し込んでいる。幕が開くと無人。左手の扉が開いてバスチアン登場。第一幕の時の旅装。旅行鞄をテーブルの上に置き、開けようとする。右手の扉からテレーズ、用心深く登場。都会風の目立たない服装。腕にゴムびきのレインコート。バスチアンのものより大きな鞄を持っている。爪先立ちで進み、鞄をテーブルの傍に置く。)

     第 三 幕
     第 一 場
(テレーズとバスチアン)
(抑えた声で話す。)
 テレーズ バスチアン、ほら・・・(床に置いた鞄を開く。)ね? まだ場所、いっぱいあるでしょう?
 バスチアン(テレーズに、溢れるようなキス。それからテレーズが持って来た鞄を調べる。)うん、これなら大丈夫だ。(僕のものは十分こっちに入るよ。)セガールの鞄は、これで置いてゆける。さあ、五分で僕のものを選り分けなきゃ。
(テーブルの上の鞄からいろんなものを出し、仕分けする。次の台詞の間にバスチアン、下着その他いろんなものをテレーズに渡す。テレーズ、それを床の上の鞄に詰め込む。)
 テレーズ 時間はあるわ。まだ随分早いのよ。・・・私、眠れなかったわ・・・一週間前だったわね、このテーブルで二人でシャンペン飲んだの。
 バスチアン 仕合せ? 今。
 テレーズ ええ、そりゃもう! ただ私、おかみさんに黙って、こんな風に出て行くのが・・・分かるでしょう? ・・・悪くて。それにセガール。あの人、何て言ってた? ゆうべあの人に全部話した時。あの人、下りて来ないかしら。私、心配。
 バスチアン 話してないんだ。
 テレーズ 話してない?
 バスチアン うん、話してない。(あ、心配することはないよ。あいつに話そうと話すまいと。)これはもうちゃんと決めたことなんだから。僕は寝る前にあいつの部屋に行こうと思ったんだ、話すつもりでね。そしたら、テナスィティが出航するって、連絡があったんだ。僕にはもう話す勇気はなくなった。ああ、三、四日前に話しておけばよかったんだ。僕は後悔した。しようがないから僕はおやじさんのところへ行った。イドゥに全部話したんだ。みんなには彼が話してくれるさ。話し方も心得てるよ、おやじさんは。アルフレには僕は手紙を書いた。
 テレーズ ああ、手紙ね。長いのを?
 バスチアン うん・・・まあ。・・・そう。手紙でよかったんだ、話してあいつのがっくりした顔を見るよりは。ああ、話すなんて到底そんなことは出来ない。行こうって引っ張って来た親玉の方が出発直前になって・・・。こっちの方が決心は固かったんだからな。無理矢理アルフレのような男を誘い出したんだ。辛抱だ、辛抱が肝心なんだ、なんて言ってね。それを今になって・・・駄目だ。言えっこない。
 テレーズ でも、愛が何よりも強いって、誰でも知ってることよ。
 バスチアン 誰でもじゃないな。前だったら、僕にだって分からなかったろうな。
 テレーズ(感謝の気持ち。)バスチアン!
 バスチアン とにかく、もう、こっそり出て行くしかしようがないんだ。(間。)それに、考えてみりゃ、十年の契約をしてカナダへ行ったって、自由なんかありっこないんだ。自由ってなあ、身体の中に入れておくもんだ。本当の自由、それは好き勝手に突然進路を変えることが出来ることを言うんだ。何でも出来るんだぞ、僕らは。ただ、二人はいつも一緒だ。なあ? 生きるために一かけらづつしか自由は売らない。・・・カナダもそりゃいいさ。しかし、金がなあ。それに、契約なんかあっちゃ駄目だ。・・・一旦書類に署名したが最後・・・それに、あそこはフランス語だと思ってたんだ。ところがテナスィティの乗員に聞いたら、マニトバはフランス語じゃないっていうじゃないか。それじゃ、さよならだ! それに何てったって、可愛いテレーズちゃんが行きたくないんだからな。(テレーズ、強くバスチアンにキス。間。)
 テレーズ 私、セガールなの、心配なのは。
 バスチアン 僕もだ。
 テレーズ あの人、どうするかしら。
 バスチアン そりゃパリに帰るだろう。却ってほっとするかも知れないな。
 テレーズ 疑うってことのない人ね、あの人。
 バスチアン(この時までに荷物の選り分けを終わっていて、鞄の中にセガールの物を詰め始める。)そう、人を疑わない奴さ。
 テレーズ ねえ・・・
 バスチアン 何だい。
 テレーズ あの人、私のこと、好きだったみたい。
 バスチアン 君のことだったら、誰だってそうさ。あいつだって十分有りうるよ。君の方の鞄、早く締めて。
 テレーズ(鞄を締めながら。)でも、どうしてか分からないけど、あの人特別。私、あなたとのことがもしあの人にばれちゃったらどうしようって、本当に心配したわ。だからこの一週間、あなたの傍には行かないようにしたわ。そしてあの人とは、わざと一緒に笑ったり、優しく出来ることがあったらして上げたり。それで私、気が咎めるの。
 バスチアン(鞄の口をパチンと閉じて。)そっちは終わった? テレーズ。これでよしと、こっちは。準備完了! もう時間だ。・・・鍵は?
(バスチアン、鎧戸から入って来る日の光を指さす。)
 バスチアン いい天気だ! ちょっとした金はあるし、新婚旅行と洒落込めるぞ。北へ行く汽車に、何でもいいから乗り込んで、後は誰にも分かりゃしないさ、僕らがどこにいるか。
 テレーズ(この時までに鍵を取っていて、奥の扉を開ける。)そうだわね、あなた!
(奥の扉が開くと、朝の太陽で金色に照らされた波止場が見える。テレーズ、戻って来て、鍵束を釘に掛ける。用心深く扉を閉めて、二人退場。)

     第 三 幕
     第 二 場
(マダム・コルディエ、次に日雇い達、次にイギリスの水夫、それからセガール。)
(暫く舞台は無人。左手からマダム・コルディエ登場。)
 マダム・コルディエ(奥の方をちょっと見た後。)部屋にもいないし、ここにも!(右手の扉に行き、開ける。)あの子ったら・・・外泊したんだわ。(鍵束を釘から外し、奥の扉を開けに行く。)外泊もいいわよ、したけりゃ。でも、戸を開けっぱなしってどういうこと。それに、時間にはちゃんとここにいなくちゃ。
(マダム・コルディエ、外へ出て表のシャッターを上げる。二人の日雇い、店に入って来る。二人ともパンとナイフを持っている。口をもぐもぐ動かしている。(訳註 パンを食べている。フランスではよくある光景と。)二人、坐る。マダム・コルディエ、そのテーブルに近づく。)
 二人の日雇いのうちの一人(マダム・コルディエに。)白、半リットル。
 マダム・コルディエ 畏まりました。
(マダム・コルディエ、二人に注ぐ。この場の途中で二人、退場する。日雇い三人登場。カウンターに進む。)
 日雇い一 おかみさん、コーヒーを頼む。俺達は水を浴びて来たところなんだ。
 マダム・コルディエ 悪いわね。今朝は丁度コーヒーがないのよ。テレーズが起きて来なくてね。沸かしてないの。
 日雇い一 そうか。テレーズのやつ、ゆうべ遅くまでいい人としけこんでたんだな。
 日雇い二 なら、許してやらなきゃな。よし。じゃ、カルヴァドスだ。いいな?
 日雇い二 うん。カルヴァドスだ。急いでな。
 日雇い一 じゃ、俺もだ。都合三つ。
(マダム・コルディエ、三人に注ぐ。イギリスの水夫登場。)
 イギリスの水夫 お早うございます。
 マダム・コルディエ あら、お早う。分かるわ、あなた誰か。下宿している二人に言いに来たんでしょう?(三人の日雇い、飲み終わって、払って出て行くので。)毎度! じゃ、ね。
 イギリスの水夫 ええ、そうなんです。テナスィティ、今日、朝九時の出発です。伝えて欲しいんです。
 マダム・コルディエ あの二人、昨日船でそのことを聞いて来たわ。じゃ、本当に決まったのね、九時に。言っとくわ。何かお飲みになりますか?
 イギリスの水夫 ええ、コニャックをお願いします。
(セガール登場。旅装。)
 マダム・コルディエ あら、丁度いい時に。セガールだわ。セガール、テナスィティの水夫さんよ。今日出発、九時なんですって。
 セガール ああ、お早う。(イギリスの水夫と握手。)
 イギリスの水夫 お早うございます。九時前にはいらして下さい、お友達と。
 セガール 分かった。もう用意は出来ているんだ。
 イギリスの水夫 荷物を運んでおきましょうか?
 セガール 有難う。だけど、もうずっと前にトランクは運んであるんだ。だからほんの小さい鞄しか残っちゃいない。あ、ほら、そいつもここにある。バスチアンがもう持って降りたんだな。どこにいるんだ、バスチアンは。
 マダム・コルディエ まだ見てないわね。
 セガール(イギリスの水夫に。)とにかく、いい。荷物は。有難う。
 イギリスの水夫 では九時ですから、出発は。(コニャックを飲んで。)さようなら。(出て行く。)
 セガール じゃ、九時前に。おかみさん、今度は大丈夫そうですね。
 マダム・コルディエ そうね。これでおしまいね。皆、折角あなたに慣れてきたのにね。
 セガール おしまいじゃありませんよ、おかみさん。単に「さよなら」なんです。時々はフランスに旅行しに来ますよ。そう、ここに来るだろうな。きっとここに来る。約束したんだし・・・手紙のやり取りも・・・テレーズはどこ?
 マダム・コルディエ(機嫌悪く。)全く、どうしたんでしょう、あの子。ゆうべここで寝てないの。そして今朝まだ帰って来ていない。
 セガール 外泊、どこで?
 マダム・コルディエ 知らないわね。大方妹のところにでも泊ったんでしょう。どうでもいいけど、予め言っといてくれなくちゃね。それにこの時間には帰って来ていなくちゃ。コーヒーも沸かしてないし、店も開けてない!
(イドゥ登場。)

     第 三 幕
     第 三 場
(イドゥ、マダム・コルディエ、セガール。)
 イドゥ(心配事をかくしている。が、ちょっと見では分からない。)お早う、おかみさん・・・お早う、セガール。(握手。)えーっと、テレーズがいないだろう?
 マダム・コルディエ ええ、いませんけど。どうして?
 イドゥ バスチアンもだな? バスチアンもいないんだろう?
 セガール 僕には分からないんですが・・・
 マダム・コルディエ まだ顔を合わせてはいないわ。
 セガール あいつに用ですか? 僕の鞄を下に下ろしてくれてますから・・・また上に上がったのかな。見て来ます。
 イドゥ いやいや、それにゃ及ばん。いないよ、どうせ。別れて来たんだ。ただ、どうかな、と思って・・・もう君ら、知ってるかもしれないと思ってね・・・
 セガール 何をです? テナスィティが今朝出発だってことですか?
 イドゥ いや・・・それに回りくどい言い方をしたって今更始まらないさ。単純な話だよ。俺は今、駅でバスチアンとテレーズにさよならを言って来たところだ。あいつら一緒にここをずらかったんだ。
 マダム・コルディエ(驚いて。)ええっ?
 セガール(こちらも驚く。)テレーズとバスチアンが? どこへです。
 イドゥ(セガール宛の手紙をポケットから出して。)可哀相に、セガール。お前宛だ。
(イドゥ、マダム・コルディエと話を続ける。マダム・コルディエ、身振り大きく話す。その間セガール、テーブルについて、手紙を読む。がっくりする。)
 マダム・コルディエ 何? この仕打ち。三年も仲良く、信頼して一緒に暮して・・・何? 一体、これ!
 イドゥ おかみさんには、よーく謝っといてくれって頼まれてな。
 マダム・コルディエ 謝って何になるっていうんです。全く。一杯食わせといて! すぐには人だっていやしないんだからね。(セガールの方を向いて。)そう、可哀相に、セガール。あんただってそうさ。これからどうするって言うの? 友達? 友達が聞いて呆れるわ。
 セガール(近づいて来たイドゥに。)あいつ、手紙に書いてるんだけど・・・鞄のこととか・・・俺のことは忘れてくれ、だとか・・・イドゥが説明してくれるだろうって。
 イドゥ 説明なんてわきゃないさ。最初はテレーズとふざけてみたかった。そのうち口説きたくなった。気がついてみたら本気だった。分かるだろう? あいつは思い付きゃ、やる性質(たち)だからな。おまけに単純ときている。それですぐ本気になったのさ。
 セガール もうずっと前から?
 イドゥ まあ、せいぜいがこの一週間だろうな、本気で惚れ始めたのは。それ以上前じゃない。
 セガール で、テレーズは?
 イドゥ 駆け落ちをするぐらいだ、そりゃあの子だって惚れたのさ。女って奴は一旦男の手に落ちりゃ、その後はそいつの言うようにならあ。それはしようがねえ。世界中でそいつしかいねえ。まあ、とことん、そいつだけになるってことよ。しかし、女がテレーズのような奴だとなりゃ、こりゃ、男の方だって世界中でテレーズしかいねえ。とことんテレーズだけになるさ。バスチアンも子供だからなあ。ポーっとなったのさ。全身でな。あの子のことを身体ごと自分の身体に入れちまったようなもんさ。で、あの子はカナダにや行かない。となりゃ、フランスに残るだけの話よ。
 マダム・コルディエ(店を箒で掃き始める。)石みたいに決心が固そうに見えたけどね。
 イドゥ そう。石みたいに固くね。・・・風見の鶏(とり)だって風が同じ向きの時にゃ、石みたいに固く同じ方向を向いてらあ。ただ風向きが変わりゃ、またパッとそっちを向くんだ。(間。)
 セガール どうして僕に話してくれなかったんだろう? 一週間もあったっていうのに。
 マダム・コルディエ そうだわよ。あんた、友達じゃない!
 イドゥ この、女が好きだっていう話の行き着く先がどこかなんて、だいたいあいつが考えたと思うか?「テレーズが欲しい。テレーズが僕にゃ必要なんだ。」それしか頭にゃ無かった筈だ。
 セガール(辛そうに。)あいつは決断の男だからな、バスチアンは。
 イドゥ まあな。しかし決断て言ったって、せいぜいがゆうべの話さ。それより前は心に浮かんだくらいのものよ。本気でやろうなんてとても考えられやしねえ。駆け落ちなんて、思う度に相棒のお前のことを考えて顔でも赤くしたに違えねえ。それにな、物を決める時ってのは、必ず潮時ってものがあらあ。結局、進退窮まって初めて行動に移すのさ。進退窮まらないうちゃ、まだどういう風が吹くか知れたもんじゃないからな。それから、決断していない時にだって、お前には話しておこうって考えたこともあったろうさ。だがな、お前は友達だ。まあ、またにしようっ、とならあ。しかし、一回話す機会をやり過ごしゃ、次にはもっと喋り辛くなる。実を言やあ、あいつは昨日お前に話してたところなんだ。テナスィティさえ直っていなけりゃな。ところが船が直って、明日は出航だ。あいつがいなくなってお前一人になるって話は、今やお前に言える代物じゃなくなったってことよ。あいつにとてもそんな勇気はありゃしねえ。あいつも我ながら馬鹿だと思ったことだろうさ。な?
 セガール だけど、親しくなる最初の頃、一番最初の頃なら、僕に話せたんじゃないのかな。
 イドゥ なあ、セガール。男ってえものはな、金が儲かった時には他人に話すもんさ。いい女が出来た時は話しゃしねえ。そこが女と違うところさ。あいつは自分が惚れちまった。お前に話せる訳がねえ。俺にだってゆうべになってやっと話したくらいだ。それも二進も三進もいかなくなって初めてさ。その話になりゃ、お前だっておんなじじゃねえか。自分が惚れてるなんて、とても人には言えやしねえ。俺にだって目があらあ。お前があの子に惚れてたぐらい、見りゃ分からあ。
 マダム・コルディエ そうね・・・何か起こっちゃ困るけどって思ったわ、私も・・・でも、心配してたのは違う方向だったわ・・・
 セガール(間の後、やっと。)二人、どうするんだろう、これから。それに、どこへ行くんだろう。
 イドゥ(肩を竦めて。)北だろう・・・ドイツから取り戻した、アルザスあたりかな・・・そして、物でも売るんだきっと、露店で。
 セガール そんなの、テレーズには向いてないのに。
 イドゥ バスチアンとなら、そいつが向いてるのさ。別の男となら、また話は別だ。・・・(間。)セガール、お前どうする。船は九時に出るんだぞ。
(マダム・コルディエ、イドゥの横にやって来て、両手を腰にあててじっと立つ。二人、セガールを見る。セガール、床をじっと見つめている。間。)
 セガール(身体を起こして。)ああ、僕は・・・分からない。どうしたら・・・そう。行くんだ。・・・
 マダム・コルディエ 行く? 一人で?
 セガール ええ。
 マダム・コルディエ それより、帰った方がよくはない? パリに。
 セガール 帰るなんて!・・・ここに来た当座は確かに僕は帰りたかった。今は違う。ずっと出発する気で暮して来たんだ。だからと言って行くのを止めて、誰が喜んでくれる。・・・用意は出来ている、すっかり。トランクも船に運んであるんだ。
 マダム・コルディエ ああ、トランクだったら、イドゥが取りに行ってくれるわ。あなたが発てなくなったからって。誰も文句は言えない筈よ。
 イドゥ どうなんだ、おい。あけすけなところ、どうしたいんだ? パリに帰りたい。出発したい。それともここにいたい。そのどれなんだ。
 セガール したくない。どれも・・・(間。)ああ、ここは駄目だ、今はもう。・・・出発することになってたんだから。やはり行った方がいいんだ。
 マダム・コルディエ 出発することになってたって、それはバスチアンとよ。そのバスチアンがあんたを捨てたんだから・・・
 セガール(暫く間。その後、締めつけられるような声で。)それじゃ、おかみさん、あいつが僕を捨てたから、あいつがもうカナダに行かなくなったから、僕はもう出発出来ないと仰るんですね。カナダに行くことに、僕がバスチアンほど執着はしていなかったと。あいつが行かなきゃ、僕は行く気にはならないだろうって? ああ、本当に生まれて初めてだな、自分で自分のことを決めようって気になったのは。悲しみによる決心だな。僕は行きます。
 イドゥ そうか。なら行くんだ、坊や。出発するんだ。
 マダム・コルディエ でも、私だったら・・・
 イドゥ おかみさんだって同じさ。出発の方に決めてる。成り行きに従うんだ。なあ、おかみさん。世の中にゃ、セガールみたいな奴がいる。流れに身を任せているコルク栓だ。入り江の葦(あし)の間で、プカプカ浮いて、ぼんやり夢を見ている。チャンスが来たって分かりゃしない。同じ場所にいるだけさ。ただ大波がやって来ることがある。すると出発だ。入り江を出て行くのさ。
 セガール 僕みたいでない奴っていうのは?
 イドゥ ああ。風見鶏さ。バスチアンだ。自信があって、誇りがある。回転の中心になる心棒がある。自分の意志だの、自分の決定だのと大きな口をたたくのさ。それから三番目の人種がこの俺だ。自由人だ。まあ、人間から自由だってだけのことだ。風に意志があり、流れに意志があるとすりゃ、そいつらの意のままさ。時にゃコルク栓になる。ただコルク栓になった時は、可哀相に、行く場所は決まってる。ぶどう酒の壜の口さ。
 セガール(ちょっとの間の後。)でもやっぱり・・・どう言えば言いのか。・・・やっぱり、道が二つに別れている時があるんでしょう?
 イドゥ そりゃあるさ。しょっ中だ。
 セガール(強く。)その時には人は選べるんでしょう?
 イドゥ そうさ。選べる。まあ、その腹が出来てる時だけだがな。選ぶ腹がないときゃ(時は)、流れの方が決めてしまう。そう。素早く決めなきゃならない時もある。実は決めるのだって、本当は一本しか道はなかったんだって場合もある。そして、誰かの方が先に決めたために自分が引っ繰り返っちまう時だってな。・・・(長い間。)まあ、どの場合だって、人生ってなあ、いいもんさ。
 セガール そして悲しいものですね。
 イドゥ そう。悲しい。しかしやっぱりいいもんだ。・・・そしてやっぱり悲しいもんさ。どう思う? セガール。あの二人にとって、人生はこれからずっといいものかどうか。
 セガール 何て言ってました?
 イドゥ 何てって。誰が?
 セガール テレーズです。何て言ってました?
 イドゥ 知らんな。
 セガール 笑ってました? あの子。
 イドゥ 馬鹿野郎! そんなこと知るもんか。知ってたって、お前に言うわけないだろう。(まあいい。とにかく)俺にゃよく見えなかった。(奥の方にいたしな。)汽車は出るところだったんだ。しかし、考えてみろ。あの二人、今あつあつだ。出来たてのホヤホヤなんだぞ。自分達以外に考えることがあろう筈がないだろう?・・・どうだ? お前、決めたのか?
 セガール(呟く。)行きます。行った方がいい。たった一人で。遠くに。(間。)
 マダム・コルディエ 本気で?
 セガール ええ。
 マダム・コルディエ じゃ、まづ何か食べて。
 セガール いいえ、おかみさん。僕、止しときます。
 マダム・コルディエ 駄目よ、そんなこと言っちゃ。それは何か食べなくちゃ。
 イドゥ 別れの一杯と行こう。こいつは断れない筈だぞ。おかみさん、三人でカチンと行くんだ。いい白一本、頼む。
 セガール(強く。)おかみさん、どうか止めて。お願いです。イドゥ! おやじさん! 勘弁して下さい。飲む元気がないんです。無理なんです。
 イドゥ そいつは間違いだぞ。おい、セガール。お前みたいな状態になっている時にゃ・・・俺はよく知ってる。その状態ってやつを・・・一杯ぐっとやるのが一番いいんだ。胸がすうっとすらあ。悲しいことなんざあ、鼻歌にしちまえる。そいつを自慢してやろうって気にさえならあ。俺は移民の連中が酒を飲んでるのを見たことがあるぜ。飲み終わった時の勢いはすごかったぞ。そこの土地の王様に任命されて、乗り込んで行く連中なんだあいつらはって、見間違えるような調子さ。(セガール、イドゥを見てにっこり笑う。)おお、お前、笑ったか。そいつはいい。よし、一杯いけるぞ。おかみさん!
 セガール ああ、おやじさん、駄目駄目。御親切は本当に有難いんだけど、やっぱり喉を通らない。そう。僕、今もう発ちます。
(セガール、鞄を取り上げようとする。)
 マダム・コルディエ でもまだ時間が・・・出発までにはまだ大分あるわ。
 イドゥ まだ一時間もあるぞ。
 セガール その方が僕はいいんです、おかみさん、今すぐ船に行った方が。僕の今の悲しい気持ち・・・だから、一人でいた方がいいんです。一旦乗船してしまえば、もう終。何も考えないことにします。じゃ、イドゥ、船まで一緒にお願いします。
 イドゥ どうしても今発つって言うんだな? じゃ、ま、いいだろう。鞄を寄越せ。(セガールから鞄を受け取る。)
 セガール(マダム・コルディエに進み寄って、手を差し出す。)おかみさん・・・
 マダム・コルディエ じゃ、さようなら、セガール。運がなかったわね、バスチアンとは。でも、あっちに行ったら、きっといい相棒が出来るわよ。
 セガール ええ。出来るといいですが。
 マダム・コルディエ それにこんなにお日様が出て。出発するには絶好の天気よ。
 セガール バスチアンです、この天気に出発出来て嬉しいのは。僕には二、三日前のあの天気の方がよかったな・・・
 イドゥ(セガールに。)運がよかったのは、本当は、お前の方だったかも知れないな。分からんぞ、世の中ってのは。
(三人、扉のところまで進む。)
 セガール(店の方をゆっくり、じっと眺めた後。)ええ。残らなきゃいけなかったのは、僕の方だったかも知れませんし。(間。そして、急に。)長い間有難うございました、おかみさん。御面倒をおかけしました。これでおしまいですね。
 マダム・コルディエ(握手しながら。)おしまいじゃないの、さよならよ。手紙をくれるのよ。それから、さっき言ってたけど、もうここには戻らないつもり?
 セガール(曖昧に。)ええ、まあ・・・
(別れの動作をして、イドゥと退場。マダム・コルディエ、ちょっと扉のところに立ち止まって、二人が行った方向を眺める。旅装をした客が二、三人登場。マダム・コルディエ、彼らが店に入って来るのを通すため、身を避ける。客達、テーブルの上に荷物を置き、坐る。)
 マダム・コルディエ(両手をテーブルについて。)お早うございます、皆さん。何になさいますか?
                     (幕)

              (一九一九年)


  平成十一年(一九九九年)六月二十二日 訳了

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